7月30日 怨みに報いるに徳を以ってす
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/01/13 18:34 投稿番号: [709 / 2250]
児島襄著 『日中戦争4』 文春文庫
58p
《 温厚な人柄で知られる第二十九軍軍事顧問中島弟四郎中佐が、
重機関銃二挺をくれ、と叫んだ。
「安定門に行って、その反乱保安隊をバリバリやっつけ、殉難日本人の仇討ちをする」
だが、それでは
「暴に酬ゆるに暴を以てする」
ことになるだけだ、
との意見が出て、特務機関は支那駐屯軍司令部と連絡したのち、殷汝耕と
その専属伝令一人だけを
『六国飯店』
に収容し、保安隊は放置した。》
寺平忠輔著 『日本の悲劇
盧溝橋事件』 読売新聞社刊
401〜402p
《 結局日本側は、殷汝耕の身柄だけを保安隊から受け取り、
後は野となれ山となれという事にして、完全に彼等を放棄してしまった。
彼等は数日間北京北郊でゴロゴロしていたが、やがてまた関東軍に追いまくられ、
次第に北上して、その後大半の者が張家口方面、湯恩伯の軍に合流してしまったようである。
殷汝耕はそれから数日の後、天津の軍司令部に護送され、そこでも軍律会議にかけられた。
関東軍あたりは、彼を極刑に処せよといった意向で、盛んに電報を打って来ていたが、
今度の通州事件は決して彼がひき起したものではない。
彼は寧ろ被害者の立場である事が、調べに従ってはっきりして来た。
一ケ月ばかりの後、身柄は釈放され、
とりあえず北京安定門内前円恩寺十六号、金粟軒の自宅に落ち着いた。
彼は救出時のお礼といった意味で、早速武官室や北京特務機関に挨拶回りにやって来た。
いたって慎ましやかな態度の彼は
「……私の身の潔白がわかっていただけまして、こんな嬉しい事はありません。
私は今後当分の間、政治方面から遠ざかって金粟軒に引き籠り、
もっぱら通州殉難音数十名の日本の方々のご冥福をお祈りし続けていきたいと
思います」
そういう彼の掌には、黒い大粒の数珠がつまぐられていた。
*
結局、保安隊員は、誰一人罰せられることなく、全員釈放されたわけです。
戦後よく、蒋介石が
「怨みに報いるに徳を以ってす」
と言ったと、言われていますが、
それよりずっと早く昭和12年に、日本陸軍は、
「暴に酬ゆるに暴を以て」
してはならないとして、
大虐殺犯を処罰せずに釈放しているのです。
善行では、こちらが先です。
蒋介石は
「怨みに報いるに徳を以ってす」
と言いましたが、
もともと戦争を仕掛けたのは中国ですから、怨む事自体が
筋違いです。
日本は、虐殺犯の保安隊員を処罰せずに放免しましたが、
中国は、無実の日本人を戦犯として殺害し、
かつ、満洲や中国全土に於ける、日本人の資産をタダ取りしました。
これから見ると、善行では、日本の方が数段上でしょう。
これは メッセージ 706 (kireigotowadame さん)への返信です.
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