角良晴証言の間違い指摘
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/11/08 19:00 投稿番号: [1028 / 2250]
これの間違いは、これまで私が書いてきた事を読んでおられる方には
一目瞭然でしょうが、一応指摘しておきます。
②《 日本軍入城時、城内には一般住民は一人も居らず、城内での虐殺は無かった。》
角はこの時、蘇州にいて、13日の南京を知らない。
住民は城内の安全区にいた。
③ 《 日本軍来襲以前に、住民二十五万人はすべて下関に集まり、対岸浦口に
渡ろうとした。》
これは、12日夜、中国軍兵士が船を求めて下関を右往左往したのであって
住民ではない。
④《 揚子江に面した西側城壁はキレイに取り除かれ、ユウ江門は木の枠だけ残っており、
避難民の城内から下関への通行は自由であった。》
これも、彼が当時を知らなかっただけで、門は通行不自由だった。
⑤《 渡し賃は渡江希望者が殺到して最初の五ドルが十ドルになり、
最後には三十ドルに上って貧乏人には払えなくなった。》
船がないので渡し賃も何もない。
⑥《 結局ほぼ半数、十二、三万の住民が渡江できずに下関で第六師団に捕まった。》
第六師団に捕まったのは南から北へ逃げた中国軍第七十四軍で、
住民は、城内の安全区にいた。
⑦《 十二月十七日朝、第六師団から首都飯店の軍司令部情報課に電話があり、
下関の支那人十二、三万をどうするか、と聞いてきた。
課長・長勇中佐は簡単に
「ヤッチマエ」
と命令した。》
17日は入城式
方面軍司令部は朝は湯水鎮にあった。
南京への移動と式典の準備で忙しい。かつ
第 6 師団はこのとき下関にはいない。
第 6 師団が下関に来たのは13日、それも、佐々木隊の後。
仮に、そこで捕虜を捕まえたとして、なぜ17日まで連絡しなかったのか?
そもそも、第 6 師団は第十軍所属で、
長勇は上海派遣軍の参謀。
仮に、この話が十七日夕方であったとしても、
第 6 師団が上海派遣軍の参謀
「長勇」
にお伺いを立てる事はありえないし、
長勇も第 6 師団に命令は出来ない。
中支那方面軍ができる前は、松井大将が上海派遣軍の司令官であり、
長勇も松井大将の下の参謀だったから、
このころの上下関係の記憶が混入して、変な話になったのかも知れない。
というわけで、この話はメチャクチャ、信憑性
0 。
彼は、大量の死体を見て、日本軍がやったと勝手に解釈し、
罪の意識から、このような虐殺話を夢想したのでしょう。
かつ
戦後のいい加減な人の作り話も加えて。
愚か!
これは メッセージ 1027 (kireigotowadame さん)への返信です.
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