紫陽花亭日乗

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入聲 (続き)

投稿者: unhoo 投稿日時: 2011/10/12 16:42 投稿番号: [648 / 735]
民代にイエスズ会士が国へ送った報告書では、(間違い)
明代にイエスズ会士が国へ送った報告書では、(と訂正)

台湾人の日常言語を漢字で書く方法は事実上存在せず、台湾人の熱心者が苦
心研究中です。台湾人が漢字を読むときの発音は日本人が「漢音」で漢字を
棒読みするときにかなり一致します。

入聲

投稿者: unhoo 投稿日時: 2011/10/12 03:53 投稿番号: [647 / 735]
中国各地方言語はおそらくはみな入声ががある。ペキン語だけは入聲がな
い。国語とされているペキン語にだけ入聲がないのは、ペキン語が中国にオ
リジンを持つ言語でなく、満州民族の言語だった証拠になりそうで、現代の
中国人の愛国者は「ペキン語は明代に徐々に形成された」と主張するが無理だ。

台湾語は口語音、文語音ともに入聲がある。台湾語の口語音は支那と呼ばれ
る地域の南部の土語がオリジンである。支那南部では学問は生まれなかった。

学問は黄河流域で、殷、周、漢、唐の異なる民族によって創造され、伝承さ
れ、進歩したが、唐の滅亡によって学問の進歩が終わった。支那の学問に科
学がなかったのは、唐滅亡で学問の進歩が終わったからである。

漢人は地球を知らず、地球が太陽を公転するという知識もなかったにもかか
わらず、正確な暦を作りあげた。驚嘆すべき成功だが、暦学を理論的に叙述
することができなかったので、暦学は難解となり、時代がたつとわかる人が
なくなり、明代にイエスズ会士が地球儀を持ってきて、地動説を教えてか
ら、やっと暦の作り方が支那で蘇生した。

日本は支那の学問を輸入したけれども、暦の作りかたがわかった者は一人も
なく、宮廷の暦博士の別名は陰陽師であった。(続く)

附註;   支那古来の言語と申したのは、黄河流域で伝承された言語のことを
言ったのである。唐が滅亡して、北方民族の遼、金、元が黄河流域を統治下
においたが、この地域の言語は発音、文法ともに大綱を維持したと思う。民
代にイエスズ会士が国へ送った報告書では、北京、南京はPeking、Nankingで
あって、京の字は明代でもまだカ行で読まれいたことがわかる、この事実だ
けでわしは明代の言語はまだ中国の伝統言語だったと断定した。これ以外に
判断の手がかりがばいので。

Re: 白髪三千丈

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/10/11 20:27 投稿番号: [646 / 735]
>日本語漢音の棒読みは、ペキン語読みよりはずっと原音(唐代の音)に近い
はずである。<


だから、声調がともなっていないから無意味と言っています。
日本は、漢字が移入してきたとき、音は採用したけど声調は採用しなかったのです。
だいたい、漢文というものは古代、読む標準語であったのだから、
見てわかればよく、あとは国によって地方によってどんなふうに
読んでも、カラスの勝手だったのです。
だから日本は工夫して日本式に読みました。


>古来の中国語の発音<


>古来の中国語<とは、どこの言語のことをいっているのですか。
厳密に言えば、中国語は中国の方言すべてをふくめた言葉です。
日本人はよく考えずに中国語といっていますが、中国人には違和感があるはず。


>ガギグゲゴの子音が満州族の言語にないためです<


満洲語についてはまったく知りませんが、満洲語子音音節表には確かに
「g」の発音の記載があります。
満洲語で <genggen>   は「弱い」という意味、「強い」は <ganggan> 。


>正岡子規が晩年・・・・<


うたよみはへたこそよけれあめつちの動きいだしてたまるものかは
ってわけですね。

それに賛同するかどうかは、人それぞれ、自由だと思います。
しかし、実際問題、詩は虚構が多い。
虚構だからといって、文学的価値が低いという人は、めずらしい。
実際に、一昨夜のわたしのレスに書いたように充分に評価されています。
しかし、正岡子規の漢文はひどいものだったと・・・・・。笑。


>ところで楓橋夜泊の詩の起句には大嘘があって成功していることに気が付き
ました。「霜満天」という表現です。霜は地上に満ちるものであるが、それ
を「霜が天に満ちた」と大嘘を書いて、厳寒の夜の感じを見事に表現してい
ます。<


古代支那人は、霜は天から降ってくるものだと認識していたのです。
これ、中国文学をやったものなら誰でも知っている定説です。


>李白の白髪三千丈はまさに思い切った大嘘です。<


誰ひとりとして、これがホントのことだとは思っていないでしょう。
わたしは、以下のようにレスをさしあげました。

Re: 楓橋夜泊       張継 2011/10/ 9 21:39 [ No.639
まこれについては、「三千丈」でなければならない理由があるわけではありますが。

以下をご覧になってください。

http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&board=1835412&tid=bbgmdb2vdbffcbeh&sid=1835412&action=m&mid=385

.

Re: 白髪三千丈

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/10/11 20:25 投稿番号: [645 / 735]
>台湾人が台湾語の文語音で唐詩を読むときは、唐代の平仄が間違いな
く再現されるそうです。だから台湾人が古文体の詩を作るときには平仄が合
うかどうか心配する必要はないとのことです。<


台湾語というのは、
だいたいにおいて厦門方言でビン(門+虫)語といわれるものですね。
中国南方の福建あたりは、地理的に孤立に近いという理由があって、
北京語やその他の方言のように歴史的な変化は起こらなかった。
ビン南語以外にみられない、極めて古代的ないくつかの特徴が保存されている、

そのことをおっしゃっておられるのでしょう。

平仄ですが、日本人でも明治くらいまでは、あまり意識しなくても自然に
漢詩を作ることができた。
なにしろ、学問といえばまず漢学でしたから。

現代人は、ほとんど漢学を学んでいません。
高校の古典の教科書にわずかに登場するくらいではありませんか。
そういう日本人が、漢詩を作詩しようと思ったら平仄で苦しむのは当然です。
ただし入声に関しては、支那人より日本人のほうが有利です。

ただ上記   ><   で囲って引用した部分の前半と後半の因果関係が
よくわかりませんが、入声のことを言っておられるのですか。

支那人であれ、台湾人であれ、日本人であれ、漢詩を作るときは平仄を
無視して「心の欲する所に従って矩を踰えず」とはいかないでしょう。
なぜなら、形式もひとつではなく、それによって平仄の位置も変化する。
「やなぎ」という言葉を使用したいと思うが、ここは平だから「楊」を煎れう、
ここは仄だから「柳」を入れようと、やはり考慮しないわけにはいかない。


>古文体の詩を作って<


平仄や押韻、聯の数など形式のきまりごとのある詩、
絶句や律詩などは近体詩です。


>いったい何のためだとわしは言いたくなります。<


平仄をあわせるためでしょう。


>日本語の漢音で漢詩を棒読みすると・・・多かろう。<


たいして効果はないんじゃないのですか。
音は同じ音で字が異なるものはゴマンとありますから。

訓読、いわゆる書き下し・読み下しというのは、翻訳なのです。
実は、これがわかっていない人が多い。
だから一昔前の日本人なら、訓読にさらに解釈をつけくわえることなど
なかった。
しかし、現代人はその訓読すらなかなかわからなくなってしまっているので
解釈もつけている。
何をいいたいかというと、原文を訓読すればワンステップで意味がわかるのに、
わざわざわけわからんお題目を唱えて手間をふやす必要などないということです。


つづく

白髪三千丈

投稿者: unhoo 投稿日時: 2011/10/11 13:28 投稿番号: [644 / 735]
正岡子規が晩年(と言っても三十二、三歳)短歌改革に乗り出したとき「詩
歌でまことしやかなう嘘を言うな、嘘を言うなら思い切った大嘘でなければ
とならぬ」と言い、万葉集中の大嘘の歌一首と、古今集あたりのまことしや
かな嘘の歌とを並べて見みせたことがあり、わしは子規の卓見に感心しまし
た。子規のころの和歌は、まことしやかな嘘がさかんに出現したので、子規
はそれをけなしたのであります。李白の白髪三千丈はまさに思い切った大嘘
です。

ところで楓橋夜泊の詩の起句には大嘘があって成功していることに気が付き
ました。「霜満天」という表現です。霜は地上に満ちるものであるが、それ
を「霜が天に満ちた」と大嘘を書いて、厳寒の夜の感じを見事に表現してい
ます。

起句の成功と転句の成功とがこの詩を世に残したと言えます。

Re: 楓橋夜泊     張継

投稿者: unhoo 投稿日時: 2011/10/11 05:54 投稿番号: [643 / 735]
>たとえ雲峯さんのおおせのとおり、漢音で声に出して読んだとしても、
漢語には必ず声調がともなっており、ある時代からの漢詩には平仄の
きめごとがあります。

レス:台湾人が台湾語の文語音で唐詩を読むときは、唐代の平仄が間違いな
く再現されるそうです。だから台湾人が古文体の詩を作るときには平仄が合
うかどうか心配する必要はないとのことです。日本各地に俳句や短歌の会が
あるように、わしの若い頃(今から半世紀前以前)には台湾のあちこちにま
だ詩会があって古文体の詩を作って楽しんでいました。そのような詩会の老
人からわしは上記のように平仄に関する話を聞きました。日本人が「漢詩」
を作るときは、平仄を合わせるに辞典を引いて一方ならぬ苦心をするそうで
すが、いったい何のためだとわしは言いたくなります。

日本語の漢音で漢詩を棒読みすると、子音はかなり高い比率で唐代の通りに
なっているとわしは推定します。棒読みで覚えると覚え易い。棒読みで読む
とリズムが生まれて、もとの平仄とは別だが、平板な返り点読みよりも、興
味が出る。返り点読みでは原詩の覚え違い多かろう。

日本語漢音の棒読みは、ペキン語読みよりはずっと原音(唐代の音)に近い
はずである。ペキン語は満州族のなまりが深く侵入していて、古来の中国語
の発音を離れること遠い。台湾の紙幣には圓と印刷されているが、圓の略字
が元である理由は、ガギグゲゴの子音が満州族の言語にないためです。genの
gが無くなってenになったのです。

Re: 【孫文の志 未だ成らず】辛亥革命100

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/10/10 23:53 投稿番号: [642 / 735]
  孫文の「三民主義」は、一方、蒋介石統治下で独裁体制を強いられてきた
台湾の多くの民衆にとっても、80年代末の李登輝総統の出現によって、
自由・民主・均富という「現代の三民主義」が実現するまでは、
無関係なスローガンであった。
実際、李登輝氏自身、辛亥革命や孫文については、
全くといっていいほど語っていない。

  中国と台湾の社会的現実と孫文の位置との大きな乖離(かいり)にも
かかわらず、孫文がなお絶対的な存在として扱われているのは、
政治的に利用するためにほかならない。

  私自身、このことに関して貴重な経験をしている。
あれは、66年11月12日に、北京の人民大会堂で
「孫文生誕百周年記念大会」が開かれたときのことだった。

  ≪生誕百年記念に見た政治利用≫

  最近も、東京と長崎で、「孫文と梅屋庄吉」に関する展覧会が開かれていたが、
孫文の革命には、日比谷松本楼の梅屋や九州の宮崎滔天ら日本人が支援を
したというので、私たち日本代表団は最前列に席を与えられていた。
ヒナ壇には周恩来首相や孫文夫人の宋慶齢国家副主席ら錚々(そうそう)
たる要人が並んでいるのに、肝心の劉少奇国家主席とトウ小平総書記の姿がない。

  訝(いぶか)っていると、劉、トウの2人が舞台の右手から遅れて登壇した。
しかし、全く拍手が沸き起こらない。
私はその瞬間に、これが実権派打倒を掲げた文化大革命の現実なのだと
悟ったのだが、大会が始まると、孫文生誕百周年記念という本旨は
そっちのけで、周恩来まで「毛主席万歳!   万々歳!」を絶叫していた。
それは孫文の政治利用以外の何物でもなかった。

  台湾の総統選挙が来年1月に迫ってきただけに、中国との関係の密接化を
求める国民党の馬英九総統は、再選を目指して、「国父」孫文の功績を
大いに活用するであろうし、民進党主席の蔡英文女史は「国父」との距離を
あえて目立たせるであろう。
この点にこそ、「中華民国百年」の今日的意味があるといえるのかもしれない。
(なかじま   みねお)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

★中共は太平洋に自由に出るために、台湾がほしくてしかたがないのだ。
台湾が中共の手におちれば、次は尖閣を含む沖縄がやられる。

★来年一月の台湾総統選挙に再度、馬英九が勝利したら、
そのときは   ――台湾終了――だ。
台湾総統は二期まではできる。
はじめの一期は、次の選挙に出ることを考えたら、やみくもに無茶はできなす。
やりすぎると落選するからだ。

しかし・・もう次がないことがわかっている二期めだったら、
やりたいほうだいやるだろう。

馬は台湾人ではなく、中国人だ。
台湾の人たちは、わかっているのだろうか。

★蔡英文女史を応援します。台湾と日本のために。アジアのために。


http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&board=1835412&tid=bbgmdb2vdbffcbeh&sid=1835412&action=m&mid=269

http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835412&tid=bbgmdb2vdbffcbeh&sid=1835412&mid=270#under-deli

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辛亥革命の今日的な意味は何か

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/10/10 23:49 投稿番号: [641 / 735]
【正論】
国際教養大学理事長・学長   中嶋嶺雄   辛亥革命の今日的な意味は何か
2011.10.10 02:59 (1/3ページ)[正論]     産経ニュース

  今日10月10日は、辛亥革命の発端となった武昌(現在は武漢市に統合)
での蜂起(1911年)から百周年の記念日である。
中華民国の建国に扉を開いた辛亥革命はまさに、
中国近代史の大きな分水嶺となった出来事であった。

  辛亥革命の結果、翌12年の元日には、米国から帰国した孫文が
中華民国臨時大総統就任を南京で宣言し、270年余の歴史を
誇った清朝は翌2月に崩壊した。
だが、孫文は北洋軍閥を率いてきた清朝の軍事指導者、袁世凱に
その地位を奪われ、以後、中国は軍閥割拠の混乱を余儀なくされる。

  孫文は、「革命未だ成らず」との有名な遺嘱(いしょく)を残して、
25年3月に没するのだが、結局は当時のソ連とコミンテルンに頼るという、
「連ソ容共」政策に向かい、中国を革命と内戦の時代に招じ入れてしまった。
その間には、19年の日本の21カ条要求に抵抗する五四運動や2度に
わたる国共合作とその破綻によって、中国共産党の毛沢東と中国国民党の
蒋介石という2人のリーダーが歴史の前面に登場することになり、
49年の中華人民共和国成立以後も、中国国民党と中国共産党との対立と
違和は存在し続けて、今日に至っている。

  ≪号「中山」は日本の表札から≫

  孫文については多くのことが語り尽くされながら、
その実像については意外に知られていない。

  例えば、孫文の号は孫中山で、中国にも台湾にも「中山公園」や「中山路」
など「中山」を冠した場所や建物は数多くあるが、孫文が東京・日比谷の
宿屋に名を秘して泊まった際、通りがかりに見た表札の「中山」を使った
のがそのいわれであることや、広東省香山の客家(ハッカ)(中華文化発祥の地、
古代の中原などをルーツとし、後に戦乱を逃れて南に下った正統な漢民族)
の出身であった孫文が客家語と広東語のどちらが得意であったかも
一般には分かっていない。

  晩年は著名な宋家の慶齢を夫人としたのだが、数多くの女性と関係があり、
横浜には2人の日本人女性がいて子供もあったことなども、直木賞作家の
西木正明氏が実に丹念に調べ上げた本、『孫文の女』(文藝春秋)
を出すまで、全く明らかにされていなかった。

  ≪孫文の位置、中台社会と乖離≫

  孫文は中国でも台湾でも、「中国革命の父」として、または「国父」
としての尊称を得て、いずれにも巨大な像が建てられている。
だが、その孫文の言説と現実社会の間には、
中国においても台湾においても、大きな背理がある。

  孫文が唱えた三民主義は、民族(漢族独立)・民権(民国創立)・
民生(地権平均)の実現を構想したものである。
また、「五族共和」は漢(漢族)・満(満州族)・蒙(モンゴル族)・
回(イスラム教徒)・蔵(チベット族)の平等な共存を理想とするものであった。
いずれもしかし、共産党の一党独裁と漢民族の優位を実行している
今日の中国には全く馴染まない。
最近のウイグル族(イスラム教徒)やチベット族、内蒙古自治区のモンゴル族
に対する弾圧や、漢族による満州族同化政策が、そのことを雄弁に物語っている。


つづく

Re: 楓橋夜泊     張継

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/10/09 21:40 投稿番号: [640 / 735]
支那の文人がこの詩の碑を建て、多くの人が拓本をとった。
そのため碑がぼろぼろになってしまったので、時代がくだって後
また他の人が建て替えた、こういうことから鑑みて、
支那人がこの詩を軽視しているということは真実ではないと思います。

張継は、この詩一首の存在によって、永遠にその名が残ることになりました。

また別のハナシですが、
日本で誰知らぬもののない朱熹の作といわれている「偶成」は、
実は日本人僧侶の作品だそうですね。


>日本人はこの詩を「漢音」で棒読みにして味わうのがよい。すなわち<


どんなふうに読もうとカラスの勝手であると思います。
また、支那人も漢音で読まないものを、日本人がわざわざ耳にして
わからない発音で読む必要もないでしょう。
たとえ雲峯さんのおおせのとおり、漢音で声に出して読んだとしても、
漢語には必ず声調がともなっており、ある時代からの漢詩には平仄の
きめごとがあります。
つまり漢詩は基本的に歌になっています。
ここをどうするのですか。
声調、平仄のわかる日本人がどれだけいるのでしょうか。
これが表現できなくて、現代人が聞いてわからない漢音で読んで何か
有意義なことがあるとは、わたしには思えませんね。

おまけに漢字というのは、もとは外国の文字であり、外国語の発音ですから
漢音といっても正確な当時の発音とはいえません。
当時の漢語の発音を、外国人である当時の日本人が耳でとらえた発音であり、
おおいに「なまっている」ものだと思われます。

ためしに現代漢語の発音をカタカナで書いてみればわかりますが、
日本語の少ない音節ではとても表現できません。
語尾の、n と   ng をどう書き分けますか。
英語でも同じです。
Smith さんの語頭と語尾をどう書き分けますか。

また、支那の漢詩を現代漢語より、当時の漢語の発音に近い音で日本人が
読めたからといって、べつに中国人に威張れるようなことでもないでしょう。

――   とそのように、わたしは思うものであります。
しかしながら、雲峯さんがそのほうがよいというのであれば、雲峰さん
ご自身がおおいに実践されることをおすすめするものであります   ――

.

Re: 楓橋夜泊     張継

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/10/09 21:39 投稿番号: [639 / 735]
なんと、これはこれは、
かの有名な雲峯さまのご来臨ではござりませぬか・・・

什麼風把イ尓吹来了,   歓迎光臨真是難得難得 ! (笑)

ときどき、トップトピでお見かけいたしておりました。
最近は、のぞいておりませんが。
紫陽花はここだけに使用しているハンで、他でレスをつけるときは別ハンです。

~~~~~~~~~~~

>わしの知る限りでは、・・・・・評価しないのである。<

雲峯さんのおっしゃるとおり、
古来より中国人は事実を重んじ虚構を軽視する傾向にあります。
たとえば小説においても、「小説」とは読んで字のごとく「とるにたりないハナシ」
でありますが、それでもなんとか事実に見せかけようと、工夫がしてあります。
古典小説の場合は冒頭にその証拠が顕著にあらわれています。

さて、真夜中に寺院は、ほんとうに鐘を撞かないのか。
その説を持ち出したのは宋の欧陽脩ですが、「楓橋夜泊」の詠まれた唐代では
実際に真夜中に鐘を撞いていた、との反論があります。
白楽天の詩にもあるようです。
http://www.millionbook.net/xd/s/shizhecun/szcw/127.htm
また、ときをしらせるのは鐘とはかぎらず太鼓を打つこともありました。

おさえておくべき基本に、
「詩はかならずしも真実をうたっていない」
ということもあります。
詩にうたわれたことが真実であるかないかは、その詩の価値とは無関係です。
「白髪三千丈」はどうですか。
まこれについては、「三千丈」でなければならない理由があるわけではありますが。

日本の詩(歌謡曲)を例にとっても、
「みかんの花咲く丘」は歌碑が三箇所あります。
で作詞者が疎開していた深谷で故郷をおもって作詩したとされていますが、
実際には「海は見えなかった」。

新民謡といわれる「波浮の港」。
歌詞に「波浮の港にゃ夕やけこやけ」とありますが、
実際には波浮港からは山に遮られて夕やけは見えないそうです。
野口雨情は、実のところ、大島に行っていない、行かずに作詩した。
だから、この歌の価値がない、とはいえません。

もともと詩の内容はそのまま信用はできないものです。
男が女になって詠んでいる詩だってゴマンとあるではありませんか。
その全員がオカマであるわけでもありません。
詩に真実を求めてもせんかたないものです。
ましかし、「嘘は真実の影」とも言いますが。

つづく

Re: 楓橋夜泊     張継

投稿者: unhoo 投稿日時: 2011/10/09 10:50 投稿番号: [638 / 735]
>月落烏啼霜満天       月 落ち烏鳴いて霜天に満つ
  江楓漁火對愁眠       江楓 漁火 愁眠に対す
  姑蘇城外寒山寺       姑蘇城外の寒山寺
  夜半鐘声到客船       夜半の鐘声 客船(かくせん)に到る
__________________________________

レス:

わしの知る限りでは、この詩にたいする中国人の評価は低い。中国人による
と、烏は夜啼かない。だからこの詩の起句はまちがっている。次にお寺が真
夜中に鐘を鳴らすことはない。だからこの詩の結句も間違っている。そうい
うわけで中国人はこの詩を評価しないのである。

中国人がこの詩を引用するときには通常「この詩は日本人に評判がよい」と
付記する。駄作だけれども、日本人は傑作だと思っているというのだ。

日本人がこの詩を好む理由は、第一第二句で蘇州城内の客船の景を述べて、
第三句で突然蘇州城外寒山寺の鐘の音に転じた鮮やかな「転」に感じ入るか
らであろう。

日本人はこの詩を「漢音」で棒読みにして味わうのがよい。すなわち

  げつらくうてい   そうまんてん
  こうふうぎょか   たいしゅんみん
  こそじょうがい   かんざんじ
  やはんしょうせい   とうかくせん

と読むのである。日本語で漢字を読むときの「漢音」というのは、漢代の
音でなく、じつは唐代の音である。中国人がペキン語音で読むと、唐代の音
とは全くちがった音になる。だから日本人が上掲の漢音で読んで「俺の読み
方が唐代の音に近いのだぞ」と中国人に威張ることができるのである。

Re: シェン‐ツォンウェン【沈従文】

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/10/09 01:37 投稿番号: [637 / 735]
★以下は、高島俊男『ほめそやしたりクサしたり』
「史上最豪華・最短命の大学」大和書房
にある、沈従文に関係するあたりの記述を適当に要約したものです。


1938年〜1946年までのたった8年間だけ存在した大学がある。
中華民国の建てた国立大学で、雲南省昆明にあった。
国立西南聯合大学、略して聯大という。

(先般ちょっと話題にした小説『圍城』で、主人公が赴任していく大学の
モデルは、もしや、この大学ではないだろうかと推測しています。)

1937年7月に支那事変がはじまり、北京・天津が日本の手におちると、
支那北方各大学の教授・学生は、倭寇のもとで学問するなんざ
マッピラゴメンというので、陸続脱出南下した。

北京大学・精華大学・南開大学が合同で、湖南省長沙に国立長沙臨時大学
を開いた。しかし、長沙にも日本軍がせまってきたため、
さらに南遷し 1938年4月、国立西南聯合大学を設立した。

当時、聯大の師範学院の国文学系で、作家 沈従文が創作実習を担当していた。
この沈従文という作家は、気の毒な人である。

この人は、あふれるような創作の才を持った人だった。
しかるに民国の文学というのは変なところがあって、創作よりも文学運動の
ほうが羽振りがいい。その文学運動は政治運動ないし革命運動の一環である。

小説を書くこと自体が好きで上手な人、つまりいかにも小説家らしい小説家は、
かえって軽んぜられた。
沈従文は、民国の作家中おそらく最も小説家としての資質にめぐまれた人
だったが、それゆえに重んぜられなかった。

戦争がはじまると、作品発表の場もないし、あったとしても沈従文のような
作風はあわないから、昆明へ行って大学教授になっていたのである。

といってもこの人は、大学はおろか小学校もろくすっぽ出ていないから、
創作実習の指導をしていたのだ。沈従文 40歳のころのことである。

聯大は名門三校が合体してできた大学だから、文学院、理学院、法商学院等
はその伝統をおうて誇り高いが、この聯大師範学院というのは、
聯大創設後に教員養成の場としてできたもので、格下である。

抗戦終了後、聯大が閉校して北方各大学がもとのところへもどって行った際も、
師範学院のみはもどってゆく先がなく、そのまま昆明にのこされた。

師範学院の教授連はみな錚々たる名教授であったが、みな他と兼任、
すなわち名まえを借りているだけであって、師範学院専任教授は
沈従文一人だけであった。
ここで彼は、「写作課」つまり現代語作文の授業を持っていたが、
大学では学問の深さで評価するわけだから、あまり重んじられていなかった。

戦争が終って、自由に書けるようになるかと思ったら、共産党の革命が来た。
沈従文はマルクス主義の理論がわからないので執筆を禁じられ、博物館員になった。


5870

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シェン‐ツォンウェン【沈従文】

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/10/09 01:20 投稿番号: [636 / 735]
★シェン‐ツォンウェン【沈従文】 [1902〜1988]
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/93911/m0u/

中国の小説家。本名、沈岳煥。湖南省出身。
「辺城」など西南辺境を舞台にした小説を書いた。
人民共和国建国後に、非政治性を批判され自殺をはかる。
のち、考古学の研究に転じ、大著「中国古代服飾研究」を完成させた。
しんじゅうぶん。

★「沈」は、固有名詞の場合、「チン」ではなく「シン」と読みます。
漢語では、普通名詞と固有名詞の発音が異なるケースがたくさんあり、
日本語の発音で読む場合もそれに準拠します。

★高島俊男「お言葉ですが・・・別巻③」
『漢字検定のアホらしさ』連合出版, p56より

“実に才能豊かな作家で、民国時代、二十歳のころからつぎつぎと
いい作品を書いていた。
その抒情が日本人の感性にもピッタリ合って日本でも愛好者が多かった。”

“1949年に中華人民共和国ができた時にはまだ40代で、環境さえ許せば、
これから成熟期、という年であったのだが、共産党支配のもとで、
作品を書くことが許されぬのはもとより、ずっと半拘束状態がつづき、
特に1957年の反右派闘争以後はひどい批判と抑圧を受けて、
屈辱にたえ切れず自殺を図ったが未遂に終わった。
1956年からの文化大革命中は五七幹部学校(知識人の強制収容所)に入れられて
いた。1976年に毛沢東が死んで、文革が終って、やっと身柄を解放された。

  1978年にわれわれ中国(日本の中国、つまり岡山県、広島県、島根県等々)
四国地区の中国研究者の訪中団が中国へ行って、先方から「何か希望があるか」
ときかれた時、「沈從文はどうしている、もし生きているなら合いたい」
というのが、全員一致。だれも異存のない要望でした。
とは言ってもとても無理だろう、とはみな思ってました。

  ところが会わせてくれた。場所はたしか北京大学だったと思う。
1903年(まだ清帝国の時代、日本で言えば明治36年)の生れだから、
その時70代半ばですね。しなびた小さなお爺さんになっていた。

30年間痛めつけられて、全然精気なし。
共産党の指導のもとで、昔の服飾の研究をさせてもらっている、
と言っていました。あの才能あふれる作家が古代服飾の研究ですよ。
なるほど人畜無害にはちがいない。

  共産主義というのは、そういう人間性をふみにじる制度なのだ。

  もちろん、1949年中共建国の際に、台湾か香港へ逃げればよかった。
そうすれば存分に才能を発揮することができたでしょう。
しかしその時には、共産党というのがそれほど知識人に対して
兇暴で残酷なものだとは、ほとんどの人が思わなかった。
胡適や梁実秋のように、共産主義のおそろしさをあらかじめ察知して
逃げた人は少数です。多くの知識人は大陸にのこってふみにじられた。
  いや、共産党を批判したとか、そういうことではないのですよ。
ただ知性や知識が悪とされ、
字も知らない無知な農民が潔白で正しい、とされたわけです。”


つづく

5869

馮さんをなんと読みますか ?

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/10/09 01:12 投稿番号: [635 / 735]
>Re: 「母国は日本祖国は台湾:柯徳三著」 2011/10/ 3 21:49 [ No.617 <
>   ドイツ語の中村為吉先生は特にそうでした。
クラスに「沈」という生徒がいて、「チン」と呼ばれていましたが、
先生は、正しい発音は「シン」だと主張して、
台湾人としての誇りを持ちなさい、と言いました。<

>Re: 謀殺説にひそむ不信感 誤解の土壌に侵 2011/ 9/25 3:22 [ No.562 <
>★高島俊男先生と藤井省三という人は、かつて
「呂という名まえを日本ではどう読むか」
で論争をされたことがあります。

藤井省三先生は、「ロ」でもよい、派。
高島俊男先生は、「リョ」でなければならない派。

当然、高島先生のほうが正しい。
「ロ」なんて・・・風呂敷でもあるまいに。

呂布・呂赫若・呂后・呂洞賓・太公望呂尚・呂不韋・・・

みな「リョ」であります。<

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
読売新聞朝刊の記事 2008/10/28 22:01 [ No.2373

14版   「本社来訪」
台北駐日経済文化代表処の馮寄台(ひょう・きたい)・新代表が・・・・・

という記事なのですが、「馮」は人名の場合「ヒョウ」と読むのは誤りで、
正しくは「フウ」でなければなりません。

「呂」についても、日本人が中国人の姓「呂」を呼ぶのに「ロ」は誤りで、
「リョ」でなければなりません。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
今日(2009/ 5/ 3)、よそで、ある新聞を見ていたら、
台湾人の馮ナントカさんのことが紹介してあった。

この「馮」さん、みなさんはどう読みますか。
その新聞には「ひょう」とルビがふってありました。
けっこう大きな新聞社なんですけどね、
一般人ならしかたがない。でも、大手なのに、
売国左翼新聞社は、こんな間違いすら満足にチェックできないようですね。

人名(姓)の「馮」は、中国語では<feng2>(フォン)と発音、
日本語では「フウ」と読むのが正しい。
名まえの場合は「ヒョウ」もあります。

「ヒョウ」と読む場合は、「依る・拠る」のような意味のとき、
憑依もこちらです。発音は<ping2(ピン)>。

有名人もたくさんいます。
馮驩・馮玉祥・馮道・馮夢龍・馮友蘭など、みな当然「フウ」です。
現代作家で『三寸金連』の著者・馮驥才も「フウキサイ」。
「三寸金連」は纏足のことです。


実は、このような例はけっこう多い。
たとえば、●廼偉・・・ゼイダイイ。

●・・・クサカンムリ   +   「内」

棋士だそうですが、日本棋院は「ゼイノイ」と呼んでいるんですって。
曾我廼家(そがのや)ナンタラという芸人がいるせいか。

「沈」は、人名の場合「シン」が正しい。「チン」は誤り。
沈徳潜・沈従文・沈約・沈○期など。

○・・・ニンベン   +   「全」    セン

「沈香も焚かず△も▲らず」といいますね。
この場合はジンチョウゲからとった香料なので「ジンコウ」。伽羅。
去年の秋、ひさしぶりに正倉院展に行ったら、有名な香木が出ていた。
ふたつあるうちの全淺香のほうで、織田信長が削り取っていった
蘭奢待ではないほう。
足利もやったじゃないか、ということらしい。
比較分析したところ、原産地はベトナム北部のあたりとのこと。

「呂」は、「ロ」ではなく「リョ」。
呂布・呂赫若・太公望呂尚など。


話がちょっと横道にそれますが、
太公望、この人、べつに魚釣りが上手だったわけではありません。
釣りは、スカウトを待っていたときのポーズです。
太公は、この場合、呂尚をスカウトした周の文王のお父さん。
太公が出現を待ち望んでいた人、の意だといわれています。

2908

【愛国】南の島に雪が降る完

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/10/08 00:49 投稿番号: [634 / 735]
【愛国】南の島に雪が降る完 2011/10/ 6 16:42 [ No.118725

この物語は、加東さんご自身が体験された実話です。

たまたま「週刊朝日」の夢声対談コーナーで、この話を加東さんが語った
ところ、徳川夢声から、これは是非執筆するようと、強く勧められ、
昭和36(1961)年に文藝春秋で「南海の芝居に雪が降る」という題で
出稿したのが始まりで、これはその年の第20回文藝春秋読者賞を受賞し、
さらに出版されてベストセラー小説となっています。

そして同年には、「南の島に雪が降る」という題でNHKがドラマ化し、
さらに東宝が同名で映画化した。
このときは、加東さんご自身が主演を務めています。

この映画で、ボクがとても感動したのは、物語そのものももちろんなの
ですが、とても重くて、苦しくて、せつなくて涙を誘う物語でありながら、
加東さんも監督も、俳優陣に「喜劇俳優をそろえた」という点です。

舞台を見に来てくれた兵隊さんたちは、ジャングルの中を、
遠く、道さえないところを歩いて来てくれていた。
次の舞台を楽しみにしてくれていた兵隊さんたちの多くは、
翌月の演目には来ることはなかった。
みんな死んでしまったからです。

客席で二度と見れないであろう雪景色を見て、声を殺して泣いていた
300人の東北の国武部隊の人達の姿を見たとき、加東さんたち役者さんは、
もらい泣きして涙をいっぱい流しながら、なかばやけくそ気味に
舞台に躍り出て、泣きながら立ち回りを演じています。

シリアスに描こうとすれば、どこまでもシリアスになったであろう
その史実を、加東大介さんは、むしろ明るく楽しくほがらかに、
これを映画に仕立てた。
そこに日本人らしさというか、日本人の心を見るような気がします。

どんなにつらくても、どんなに苦しくても、泣きたくなるようなことでも、
明るく笑ってそれに耐え、明日を信じて前を向いて歩く。
それこそが日本人としての生き方、なのかもしれません・・

http://www.youtube.com/watch?v=YUDIE2eAYy8

.

【愛国】南の島に雪が降る2

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/10/08 00:28 投稿番号: [633 / 735]
【愛国】南の島に雪が降る2 2011/10/ 6 16:37 [ No.118723

加東大介さん(本名、加藤徳之助さん)は、昭和18年10月8日、
大阪道頓堀中座の楽屋で、軍隊に招集されます。
向かった先が、西部ニューギニアのマノクワリというところです。

ニューギニア戦線は、東部で激戦が展開されたところです。
けれど加東さんたちが赴任した西部側は、それほどひどい被害は受けず、
加東さんたちが到着した頃には、すでに戦域はフィリピンに移っていました。
なので西部ニューギニアでは、大規模な戦闘はほとんどない、
という状況だったのだそうです。

けれど、取り残された前線とはいえ、いつ敵が襲ってくるかわからない。
補給もほとんどなく、飢えとマラリアに苦しめられながら、
敵と戦う日を待つという日々です。
そこは戦地であり、兵隊さんたちは、常に戦闘による死、
マラリアによる死の両方と向かい合っている。

そんな状況の中で、西部ニューギニアの司令部は、すこしでも兵隊さん
たちを勇気づけようと、俳優である加東さんに「劇団」作りを命じた。
加東さんは、島中から劇団員を募集し、こうして誕生した劇団が、
マノクワリ演劇分隊だったわけです。

マノクワリ演劇分隊は、熱帯のジャングルのド真ん中に日本式の舞台を
作り、三味線弾き、ムーラン・ルージュの脚本家、スペイン舞踊の教師、
舞台美術・衣装担当の友禅職人など、個性的なメンバーと一緒に公演をします。

衣装は、ありあわせの布に絵を描いたもの。
カツラは、ロープ(縄)で作った。
女形は「おしろい」を塗るけれど、男ばかりの軍隊に、そんなものはありません。
そこで傷口用の軟膏を顔に塗りたくって白粉の代わりにした。

こうして加東さん率いるマノクワリ演劇分隊は、日本への帰還の日まで、
兵隊さんたちの慰安のために、ほぼ連日、休演なしで演劇を続けます。

厳しい軍隊生活、いつ死ぬともわからない運命、マラリアに苦しめられ、
飢えに苦しめられる毎日の中で、兵隊さんたちは「公演を見たい」
という生きがいを得ます。

公演には、島のはるかな地から演劇場までやってくる兵隊さんたちもいたそうです。
そして見終わると、次の演目を楽しみにし、
「次はこのなかで誰が来れるだろうね」
「まあ、お前はモタんだろうな」
「いやあ、お前が先さ」
などとニコニコと言いあいながら帰って行った。

途中、加東さんは内地送還のチャンスを得ます。
けれど加東さんは、「これだけの観客を見捨てていけるか」と自分から、
日本に帰れるチャンスを捨て、演劇を続けている。

そんな中で、長谷川伸原作の名作「瞼の母」の舞台のときには、
紙を使って雪を降らせた。
南の島の熱帯のジャングルの中で、雪を降らせたわけです。
この雪は、観客に大好評で、紙でできた雪が舞う都度、
客席から毎回、どよめきと歓喜の声があがった。

加東さんたちは、サービスのため、観客たちに雪景色を充分堪能して
もらってから舞台に登場するようにしていたのだそうです。

ところがある日、同じ演目の公演で、いつもと同じように雪を降らせた
のだけれど、いくら待っても客席がシーンとしている。
不審に思って加東さんたちが舞台の袖から客席をのぞいてみると、
数百名いた兵隊が皆、涙を流していたのです。

聞いてみた。
すると彼らは、東北の部隊の兵隊さんたちだった・・


つづく

【愛国】南の島に雪が降る1

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/10/08 00:27 投稿番号: [632 / 735]
【愛国】南の島に雪が降る1 2011/10/ 6 16:33 [ No.118722
投稿者 :
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映画俳優の加東大介さんをご存知ですか?

加東大介さんといえば、まさに60年代の邦画を代表する名俳優で、
なかでも黒澤明監督の名作「七人の侍」での七郎次役では、侍たちの中で
唯一、槍(やり)を振るって村の西の入り口をひとりで守り抜いた。

その加東大介さんは、明治44(1911)年のお生まれですから、
言うまでもなく戦中派の方です。

兄は沢村国太郎、姉は沢村貞子で、ともに大俳優、大女優。
甥にあたるのが先日亡くなられた長門裕之さんと、保守で有名な津川雅彦さんです。

加東大介さんの出演した映画は、数限りないほどあるのですが、
その中で唯一、加東大介さんご自身の自叙伝を映画化した作品があります。
それが昭和36(1961)年に公開された「南の島に雪が降る」です。

監督は久松静児さんで、出演者は加東大介、伴淳三郎、有島一郎、西村晃、
渥美清、桂小金治、志村喬、三橋達也、森繁久彌、小林桂樹、三木のり平、
フランキー堺など。
まさに豪華そのものの顔ぶれです。

実はこの映画、リメイク版も作られています。
それが平成7(1995)年の「南の島に雪が降る」で、こちらは監督が水島総氏です。
そうです。チャンネル桜のアノ水島さんです。

こちらの方は、出演者は、高橋和也、根津甚八、菅原文太、西村和彦、
烏丸せつこ、風間杜夫、佐野史郎などとなっていて、コチラも豪華な顔ぶれです。

で、その昭和36年に公開された方の「南の島に雪が降る」ですが、
役者陣には、なぜか当時の人気喜劇俳優が勢揃いしているのです。

「南の島に雪が降る」の物語自体は、漫画家の小林よしのりさんも
「戦争論」の中で紹介していますので、ご存知の方も多いかと思います。

かいつまんであらすじだけ申し上げると、次のようなものです・・

つづく

Re: 「母国は日本祖国は台湾:柯徳三著」

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/10/06 20:44 投稿番号: [631 / 735]
  日本を悪者にするという政策の結果、米国は民主主義や自由主義を旗印に
せざるを得なくなり、それまでの植民地政策を大転換する結果となったのは、
日本にとっては皮肉なものでしたが、世界にとっては良いことでした。
それは、そうすることに於いてのみ、米国や欧州がアジアやアフリカで
受け入れられるということを悟ったからに他なりません。

愚かだったのは、その欧米の変わり身の早さ、
手前勝手な二枚舌の論理にまんまと乗せられたアジアの民でした。


  欧米人が世界を支配し、自分たちに都合の良い基軸を世界基準と
し続けているこの時代にあって、アジアの民同士が対立するのは、
愚か以外の何物でもありません。
世界を見るとよく分かります。

この地球を支配しているのは、人類というよりは、特定の白色人種である
という事実を謙虚に認識する必要があります。
欧州や北米、オーストラリア等に行けば、すぐに理解出来ることですが、
彼らは常に、我々アジア人を見下しています。
たとえリベラルな人たちと雖も、或いはヒューマニストと呼ばれる人たちで
あっても、彼らの意識は常に自分たちが上位者で、アジア人種やアフリカ人種
は下位者であるという意識に基づいて援助をし、友人関係を結ぶのです。

実は彼ら自身が、自分の心奥に巣喰うこの差別し見下す意識の存在に
気付こうとしていないのです。


  アジアの民は、争っている場合ではありません。
我々はこの地球の征服者と言ってよい白人国家に対応すべく、
黄人国家間の精神的つながり、経済的つながり、政治的関係性をより深め、
共通する価値観の下に欧米の文明文化とは異質の文明文化を築かなければ
ならないのです。

  そうすることによって初めて、
欧米はアジアに対し心の伴った敬意を払うようになります。

現在、我々アジア人が欧米人に持っている憧れや尊敬や劣等感と同じものを
彼らがアジア人に対して持つようになることが、
非常に重要な一大事であるのです。
お互いが尊敬し合い、憧れ、ともに優劣を競ってこそ、
良き関係と言えるのです。

  その関係を実現させるためには、まずは日本、台湾、中国、朝鮮、
更にはタイ、ミャンマー、インドシナ三国、モンゴル、チベット、
ブータン、ネパール、スリランカという仏教国、或いは極東四民族に於ける
儒教文化圏というものが、同じ価値観の上に確立される必要があります。

その時初めて、人類史の近現代を支配するヨーロッパ人種に敬愛される
アジア人種へと成り得るのです。


  ここに於いて人類は新たな局面を迎え、本来、人類が求めていたはずの
自然回帰、真理追究、人間讃歌、平和や愛といったことを可能ならしむるのです。

その出来得るだけ近い未来を夢見てこのシリーズを刊行するに到りました。


  志ある方々が、小社の思いに御賛同下さり、御興味を少しでも持って
下さるならば幸甚の極みです。
諸先輩方の御指導御鞭撻のほどを切に願う次第です。

  また、これを機に日本時代の美風を残す台湾との絆を
より一層強められれば望外の喜びです。

最後にタイのククリット・プラモード元首相が、一九五五年に
元タイ駐屯軍司令官であった中村明人氏に語った言葉を紹介し擱筆します。


「日本のお陰でアジア諸国は全て独立した。
日本というお母さんは難産して母体を損なった。

しかし、生まれた子はすくすく育っている。
今日、東南アジア諸国民がアメリカやイギリスと対等に話ができるのは
一体誰のお陰であるか。
それは身を殺して仁を成した日本というお母さんがあったためである。

十二月八日は我々にこの重大な思想を示してくれたお母さんが、
一身を賭して重大決心された日である。
更に八月十五日は、我々の大切なお母さんが、病の床に伏した日である。
我々はこの二つの日を忘れてはならない」


    平成十五年十一月九日


(   巻末「シリーズ刊行にあたって」より   )

.

Re: 「母国は日本祖国は台湾:柯徳三著」

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/10/06 20:37 投稿番号: [630 / 735]
  この歴史的事実を無視して、日本国を侵略国家などと言うのは真に不遜、
無知、不当の極みであって、恥ずべきことと言わねばなりません。

その結果として、台湾、朝鮮半島、満州に於いて、日本との同化が行われました。
台北に到っては大金が投じられ、
東京よりもモダンとなるほどに近代都市化されたほどでした。

これなどは正に西欧列強が行った植民地化とは全くの対極に位置する、
極めて公正な政策であり、歴史上未曾有と言えるほどでした。


  それ故に、当時の台湾人たちは、今も当時の日本を祖国と思うほどに到ったのです。

残念なのは、その後、蒋介石率いる国民党軍が正に侵略の民として
台湾を陵辱し、その火器をもって民衆の自由を奪い、思想弾圧をし、
捏造教育をし続けたことでした。
台湾の歴史にとって真に暗黒と呼ばざるを得ない時代でした。
幸か不幸か、台湾人に対して国民党が行った武力弾圧によって、
台湾人の間に中国人に対する反発心が生じ、同時に祖国・日本に対する
思いが一層募ったのでした。

それ故、現在も猶、李登輝前総統に代表されるように日本語で思考し、
日本をこよなく愛する人たちが存在するのです。
それは取りも直さず、日本が台湾政策に於いて、公明正大を旨として、
教育をその大地として、台湾人の知的レベルアップ、原住民の治安維持に
貢献したことを意味するのです。


  それは、朝鮮半島政策に於いても同様でした。
ところが、韓国に於いては、終戦後、徹底した反日体制が米国政府によって
敷かれ、反日政府によって徹底的に日本に対する敵愾心を募らせる教育が
行われたのでした。

共産化した北朝鮮も同様でした。
どちらにせよ、当時の民族主義者たちが、我が意を得たりとばかりに
日本国によって敷かれた近代国家への布石を全否定する形で、
自国民の優位性、そして日本人の性悪性を、戦後六十年間に亘って
捏造教育し洗脳し続けたのでした。

それは、現在も続いています。

これでは、どんな人種も日本が嫌いになります。


  台湾の場合と違い、同じ民族による軍事統制であったために、
台湾で行われたような二・二八事件に代表される政府による民族の大虐殺
といったものは生じなかったし、対立構造が生まれにくい状況にあった
ことが災いし、日本の統治は悪くなかったと思っていた大半の人たちも、
政府及び民族主義者たちによる暴力的弾圧を恐れて口ごもることで
いずれ落ち着くところに落ち着くと、その時を過ごしたのでした。

ところが、それが大きな誤算だったと気付くのに
それほどの時間は要しませんでした。


  その後、一度たりとも多数派の親日派の意見は表に出されることはなく、
日本によって行われた数々の近代化政策は、一つとして評価されない
どころか、そのようなこと自体がなかったと捏造されるに到ったのです。

それは新しく政権を握った者たちの野心の結果でもありました。
何にも増して、米国の日本囲い込み政策が、その裏にはあったのです。

  その結果、今や韓国人の九九%が日本人憎しに変わってしまったのです。
何と愚かで哀れな話でしょうか。

  いみじくも戦後、軍事クーデターで政権を奪取し第五代大統領となった
朴正*が語っているように、日本統治になって初めて全国民が教育を
受けられるようになり、インフラが整備され、
明らかに前国家より良くなったのでした。


つづく

Re: 「母国は日本祖国は台湾:柯徳三著」

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/10/06 20:31 投稿番号: [629 / 735]
シリーズ刊行にあたって
(出版社の巻末コメントと思われます)

  国がどこへ行こうとしているのかが見えないのは哀しいものです
  私たちがどこへ向かえばいいのかが分からないのは不安なものです

  日本と日本人の将来を考えた時、少なからず暗澹たる思いに駆られるのは、
この日本国というシステムの何かが間違っているからではないでしょうか。

その何かの根幹と思われる日本人の精神形成を探るのが、
本シリーズ「日本人の誇り」の刊行目的です。


  大東亜戦争敗戦後、確かに日本は奇跡的経済発展を遂げ、
現在、大半の日本人が豊かな生活を享受しています。
この日本の経済的な豊かさは、他国民からも羨望の的となっています。

  しかし、日本が諸外国から国家として、民族として一目置かれているか
というと、果たしてどうでしょうか。
むしろ、中国や韓国に対しては卑屈な謝罪外交が当然の如くに
罷り通っており、他国の失笑を買っているのが現状です。

また祖国のために命を擲って戦ってくれた父や祖父たちを祀る靖國神社に、
首相が参拝することさえ儘なりません。
まるで主権国家とは言い難い国へと堕してしまっているのが、
認め難くも認めざるを得ない現在の日本なのです。


  この元凶と考えられるのが、戦後の日教組による歪んだ教育と、
朝日新聞に代表されるマスコミによる左翼思想的偏向報道です。

左翼主義者たちは、日本人は植民地で酷いことをした、戦時中数々の戦争
以上の残虐な事を行ったなどといった捏造された自虐史観(東京裁判史観)
をあたかも真実かのように、戦後六十年間声高に喧伝してきました。
嘘で塗り固められた″南京虐殺″は正にその典型と言えるでしょう。


  しかし、事実は彼らの言う事とは全く違っています。
アジアを植民地とした西欧列強が搾取と略奪を恣にしたのに対し、
日本は台湾、朝鮮に於いて本国よりも進んだインフラを整備し、
高度な教育を施し、「公」の意識と遵法精神を涵養したのです。
これは、正に日本のみが成し得た誇るべき偉業です。


  そもそも、日本がアジアの国々に進出したのは、植民地化のため
などではなく、自国防衛のための地政学的理由に因るものでした。

更には、アジアの民の防衛であったのです。
勿論、そこには多少の野心もありました。
しかし、その野心よりも自国防衛、大東亜共栄圏の確保の意識の方が、
遥かに強く大きかったことを誤認してはなりません。

いみじくもその結果として、欧米列強が日本一国によって駆逐され
自国に引き下がったのは、歴史の明示するところです。
その結果、アジアで三十三カ国、アフリカで四十九カ国が独立する
という奇跡が起こったのでした。


  日本の行いの全てを美化することは間違いです。
しかしながら、現在、不当に歪曲されてしまっている歴史の事実を
客観的に捉え直すことこそが、本シリーズ刊行の意図です。

  一四八九年のバスコ・ダ・ガマのインド上陸以来続いてきた欧州による
アジア支配は、十九世紀には、米国も加わって熾烈を極め始めていました。
そして欧米列強による日本の植民地化は時間の問題でした。

  そこで時の維新の志士たちは、祖国を侵略されないための政策として、
日本国を創り変え、富国強兵という近代国家政策を決定したのでした。

彼の福沢諭吉も、当初は中国・朝鮮の自力更生を支持し、辛抱強くその時を
待ち続けたのですが、不幸にして朝鮮・中国からその声は聞かれず、
その行動は見られず、遂に福沢翁をして、中国、朝鮮の無能ぶりに落胆、
地政学的に侵攻せざるを得ないと言わしめたのでした。


つづく

Re: 「母国は日本祖国は台湾:柯徳三著」

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/10/06 20:22 投稿番号: [628 / 735]
歴史の正しい認識と再評価が必要

  今も日本の学校では、台湾のことがきちんと教えられていません。
台湾が日本領だったということも、歴史の教科書には書いてはあるけれども、
戦争のこともあって、近代史はきちんと教えられていません。
教えられるとしたら、日本が悪いことをしたということばかりなわけです。
だから、日本人は正しい歴史を直視していないと思います。

  大東亜戦争で、日本人が悪いことをした、悪いことをしたと、
一生懸命、何十年も経っても謝っていますが、これは大いに間違いです。
大間違いです。

戦争というのは愚かな歴史ではありますが、日本が戦争に突入していかざる
を得なかった当時の状況を、日本人はきちんと学ぶ必要があるのです。

  日本は,戦争中に酷いことをした、と今だに中国に謝り続けていますが、
中共(中国共産党)が台頭する前の中国に対して謝っていれば、
もう済んでしまっていることでしょう。

  中共というのは、わずが三十年くらいの歴史しか持っていません。
中共は国民党を追い出した後で天下を取ったのであって、初めは八路軍と
して日本軍に抵抗しただけで、大した被害を受けていないのです。
被害を受けたのは、大陸にいた人間達ですから、それはもう蒋介石の時代に
謝ってけりがついている筈で、それをいつまで経っても頭を下げている
なんて、私たちから見ればちょっとだらしないのです。


  日本の政治家も、言うことを言わなければいけません。
オッパイばっかりあげて、何も見返りもない。

私から見れば、日本人は少し阿呆くさいですよ。
どこか少し抜けている所がある。
なにか知らないけれど頭を低くして中共の機嫌ばっかりとっているのは、
おかしいと思います。

.

Re: 「母国は日本祖国は台湾:柯徳三著」

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/10/06 01:21 投稿番号: [627 / 735]
アメリカのスパイ

  戦時中、アメリカやイギリスに関しては、
限られた情報しか知らされていませんでした。
最初の頃は英語の授業もありましたが、特に戦争の終わりの頃は
「鬼畜米英」で、英語の教育さえやめてしまいました。

  台北一中と高等学校の高等科を掛け持ちしていた英会話の先生で、
私も何年間も教えてもらったジョージ・H・カールという先生がいました。

この先生は、毎週月曜日、自分が指名した台湾人の生徒を自宅に集めて、
英会話の練習をしていました。
その中に日本内地人はいませんでした。

  英会話というのは名目で、実はスパイ行為だと言われましたが、
今から考えてみると確かにスパイだったのかもしれません。

  というのは、「今日、出征軍人の見送りをやったのか」とか、
そういった質問を英語でするのです。
それに対して、私達は英語で答えます。
英会話の練習にかこつけて色々な情報を私達から聞き出していたわけです。

  結局、その先生は台北一中の教練の先生に「お前はスパイだ」
と言われて殴られて、戦争突入前にアメリカに引き揚げていきました。

  戦争が始まり、アメリカ軍が台北を爆撃した際、
B29が爆撃したところは、実は、全て内地人の居住区でした。
台湾人の居住区には一発も落ちなかったのです。
これは、あのカール先生が情報を提供したためでした。

しかし、台北一中には弾が二発落ちました。
私が思うに、それはカール先生が一中の教官に殴られた恨みが
あったからではないでしょうか。

  これには後日談があります。
終戦後、国民党政府が来た時に、カール先生は台北駐在の
アメリカ副領事として再び台湾にやって来ました。
というのは、台湾についての情報は、この先生が一番良く知っていたからです。

蒋介石に建言したのはカール先生なのです。


  しかし、今度は国民党に楯突いた台湾人を何人も救い出してアメリカに
逃がしたために、とうとう最後は「歓迎されざるアメリカ人」と言われて
蒋介石に追っ払われて、またアメリカに帰っていきました。

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Re: 「母国は日本祖国は台湾:柯徳三著」

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/10/06 01:18 投稿番号: [626 / 735]
皇民化教育と先生

  大東亜戦争については、自衛のための聖戦と聞かされていました。
そして、大東亜共栄圏を建設するのだ、と。も
ちろん、その時は、言われたまま理解していました。

  高等学校や大学の先生方は、戦争に関しては、それ以上のことは言いませんでした。
やれ非国民だとか、そういうことも言いません。

大学や高等学校の先生は、自由主義の人間が多いですから、
口では言えないけれども、学問の自由とかいうことを第一に考えて、
戦争には、どちらかというと反対の立場だったのでしょう。

  私の考えでは、台湾で生まれ育って、
台湾で教育を受けた日本内地の人は、概して台湾人を馬鹿にします。

特に、一中に入ったり高等学校に入ったりする人は、たいてい官吏の息子か
大きい商売人の息子です。
父親がそういう目で台湾人を見ているから、
息子もそういう目で見るようになるのです、

逆に、塩幡先生のように、日本内地から赴任して来て、台湾について
何も知識のない人間は、差別がありません。
後になってから、台湾人が一段下に見られているという社会の構造に、
だんだん気がつくのです。

  これは、後になって私が感じたことです。
当時は、何も分かりませんでした。
どうして差別されるのか、分かりませんでした。

  面白いことに、差別した人ほど、今度は逆に台湾を懐かしがるのです、
終戦後、二つの国になったら、
「懐かしいな。昔はどうもすまなかった」と言うのです。

  もう皆、年をとりましたから、昔のことは、水に流してしまっています。
私はよく言うのです。
「私の所は、島国で小さい国だけど、大国民の風土ですから」
という具合に。

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Re: 「母国は日本祖国は台湾:柯徳三著」

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/10/06 01:15 投稿番号: [625 / 735]
庇ってくれた内地人の隣人

  そんな時代でも、思いやりのある、差別のない日本人ももちろんいました。

  私の家は割合に規則を守っていて、闇物資を買いませんでしたから、
戦争が始まって一番困ったのは、食べ物でした。
お米も困ったし、肉でも何でも困りました。

米に芋やかぼちゃを一緒に入れて炊いたりして、空腹をしのいだものです。
大東亜戦争が始まるまでは、台湾は物資は豊富でしたから、
あまり困ることはありませんでした。

  当時、私の家の隣に住んでおられたのが、大学に勤める佐藤教授の一家でした。
大変良い先生で、奥さんもとても良い人でしたから、親しく付き合っていました。

  その当時は、父が、香港電力に転勤になり、
家族のほとんどが香港に行っていました。

開戦直後、日本が香港を占領したため、父は香港電力の営業課長として
香港に転勤になったのです。
そして、占領中の三年間ずっと香港にいました。
ですから、台湾の家に残っていたのは、私と、妹一人、弟一人と、
外祖母(私の母の母)でした。

  ですから、よけいに私達一家を気遣ってくれて、
いつも、闇物資を塀越しにポンと投げ入れてくれたのです。
これは本当に有難かったです。私達をとても可愛がってくれました。

  佐藤さんは、隣組でもよく庇ってくれました。
ご近所は皆、日本内地人で、私の一家だけ台湾人で異分子でしたから、
陰では色々と言う人もありました。
しかし、佐藤さんは、「秋元さんのところは、いい人だよ」と皆に言って
くれたり、隣組の会議の時でも色々と取り計らってくれました。
感謝しています。

  私が海軍に入隊した時には、闇で買った米に小豆を入れて赤飯を炊いて、
見送ってくれました。
あの味は、忘れられません。
終戦後、佐藤さん一家が引き揚げた時は、涙で見送りました。

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Re: 「NHKのど自慢イン台湾」

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/10/05 00:49 投稿番号: [624 / 735]
投稿者 :
phantom_of_bonanza

ふ〜む。。。いい話だね   ありがとう(^o^)ノ

10月29日?   土曜日だね   30日のマチガイかな?

とにかく   必ず観るよ

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
投稿者 :
turitaiji

NHKも中韓寄りと言われているから信用していない。
それにしてもなぜよその国に遠慮して発言を控えなければならないんだろうね。

台湾の人たちは友好的な人が多いから大切にしたいと思っている。
(とりとめのない文章で失礼しました)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
投稿者 :
nippon813

台湾に見習おう

台湾は中国国民党支配の時代があったにも拘らず、
今や日本をよりも正しく現代史を教えている立派な国。

私たちも台湾に見習って真実の歴史を広めよう。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
のど自慢♪ 2011/10/ 3 16:17 [ No.15465
投稿者 :
bilibili_joel

みなさん、こんにちは。

昨日は「NHKのど自慢in台湾」が開催されました。
一昨日が予選で昨日は本大会。
歌好きの台湾人と我々のような在留邦人が25組出場です。

応募者が1500人近くあったようです。
わが社からも応募した者がいたけど書類選考でアウト。
練習費用(カラオケクラブで)そうとうつぎ込んだのにね。
それはぼくじゃないかって?   うふふ・・・。(^^)

2ヶ月ぐらい前から知らせがあって公開には行こう、
行こうと思っていながらもコロッと忘れていました。

ゲストは小林幸子と吉幾三。
放送は今月の29日夜のようです。

お時間のある方は観てくださいね。

       ビリー

 

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Re: 「NHKのど自慢イン台湾」

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/10/05 00:31 投稿番号: [623 / 735]
NHKのど自慢★台湾大会裏話 2011/10/ 4 9:41 [ No.14501
投稿者 :
kamen_rider_blue777

いい話を見つけました
韓王の影響が無いと良い番組ができるようです
台湾の皆様へ感謝すると共に小林幸子さんにも感謝します

138 :新北市的日本人住民:2011/10/03(月) 01:23:50.60 ID:U/AzNTE6
昨日の予選会と本日の本選を観覧してきた、台湾在住日本人です。
TVに映らない部分をレポートします。

(予選会)
書類審査で通った250組を25組に絞るのが目的で、1分/組で歌って、
その後次の組が歌っている1分間で 司会の徳田アナの面接(?)を受ける
システムで、効率良くやっていましたが、それでもなんせ250です。

観覧するだけでも5時間以上!
ましてやスタッフや生バンドの皆さん、ご苦労様です。

また本選でもそうですが、日本人会のボランティアさん
(100人位いたでしょうか?)が揃いのTシャツで大活躍。
日本語世代の80代のお年寄りの手を引いて丁寧に観客席にお連れする
姿に、ほのぼのとしたものを感じました。


(本選)
収録開始前に観客席の横断幕を全てチェック。
ウチワを振るグループは「は〜い   そのウチワ、裏側も見せて下さ〜い」
と、フロアディレクターが観客席を走り回って事前チェック。

政治的にどっちに転んでも揚げ足とられるNHKの立場としては、本番中に
変なメッセージ出されたくない訳で、まあこれも必要なもんでしょうね。

日本からは、なんたら事業本部長の肩書きのスーツ姿の方が台湾開催に
至った経緯やら、 台湾から震災に200億円の義捐金が寄せられ、
これがNHK上層部を動かした旨の説明がありました。

私としては「世界で一番多額の・・・」の一言を期待していたのですが、
それはあの国の反発必至でしょうから、案の定出ませんでした。

特筆すべきはゲストの小林幸子が収録終了後、TVカメラマンも去った会場で
観客だけの為に衣装を換えて(本番は和服、収録後はドレス)
3曲歌い、舞台から去る最後に「本番中にあんまり言うのは遠慮したけど、
震災に際して台湾の皆さんの支援に心から感謝しています」と
涙まじりに頭を下げたことです。

観客も万雷の拍手で答え、私もウルッときました。
彼女、すごくいい人みたいです
(この辺の雰囲気は29日、TVを見ても感じられると思います)。

今回、予選・本選ともに台湾の方々の震災後の日本へのエールと、
それに感謝する在台日本人の感謝の気持ちで満たされた大会でした。

TVで放映されない部分で(舞台でも観客席でも)性別,年齢,国籍を超えた、
いい雰囲気の収録でした。

以上、会場のナマの様子をお知らせしました。29日の放送、必見です 。

つづく

Re: 「母国は日本祖国は台湾:柯徳三著」

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/10/04 20:48 投稿番号: [622 / 735]
内地人と台湾人の亀裂

  大学の三年に上がると、臨床医学の実習が始まりました。
このため、病院の方に学生控え室が設置されてありました。

控え室は二間あったのですが、自然と台湾人と内地人とに分かれてしまったのです。
なぜそうなったのかは分からないのですが、自然にそうなってしまったのです。
台湾人の控え室の方には内地人はあまり入らない。
内地人の控え室の方には、台湾人はあまり行かないのです。

  私だけが両方を行ったり来たりしていましたから、台湾人から一時
「お前は内地人かぶれの、こうもりか」と言われたこともあります。

私は、感情だけで、こういう自分の身にとって役に立たないことをするのは
良くない、あまり露骨に反抗したり抵抗したりするのは良くない、
という考え方を持っていましたから。

  大学生ともなると、二十歳も越えていますから、やはり自分の
アイデンティティというか、民族的な意識が出てきていたのでしょう。

特に、高等教育を受けると、台湾人の方には、何となく民族意識が
芽生えてきて、自分達のことを「フォル(フォルモサ〈ポルトガル語で
麗しの島の意〉のフォル)」と呼び、内地人のこと「ジャップ」と
呼んでいました。

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Re: 「母国は日本祖国は台湾:柯徳三著」

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/10/04 20:46 投稿番号: [621 / 735]
同級生との苦い再会

  台北一中の同級生で、高等商業に進学した内地人がいました。
向こうは高等商業を三年で卒業して、予備幹部で台北の山砲隊の少尉、
小隊長になっていました。

  私が大学二年の時、その同級生と偶然再会したのです。
私は、連合演習(学生と軍隊の合同練習)という野外演習をしていました。
大学生も鉄砲を担いで連合演習をさせられたのです。

  見ると、その同窓生が、現役の少尉として立派に一小隊の山砲を
引き連れて一緒に演習に来ているではありませんか。
行軍している途中で、懐かしく、思わず「おいおい、○○君」と声をかけました。

向こうはバリバリの軍服を着た勇ましい軍人です。
ああ、いいなあと思って見ていたのです。
すると、彼はつかつかと寄って来て、ピシャッと私のほっぺたを
一つ殴ったのです。何のために殴ったのか、分かりませんでした。

  後で考えてみると、自分は戦場でいつ死ぬか分からないけれど、
お前は台湾人だから兵隊にもならなくていい(台湾人に対しては、
終戦間際まで徴兵制度がありませんでした)、
のうのうと医学部で勉強していることが癪に障ったのでしょう。
そう解釈する以外、自分を慰める術がありませんでした。
哀しい思い出です。

  その人は、まだ存命です。台北一中の同窓会で何回も台湾に
招待していますが、まだ一回も見えていません。
恐らく当時の思い出が苦く残っているのではないでしょうか。
そういう時代だったとしか言いようがありません。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

★軍隊というところは、上下関係のきびしいところです。
いくら元同級生でも親友でも、公でしかも部下の面前で、
「○○君」はないと思います。

演習が終って、個人対個人のときであれば、またべつの対応があったのでは
ないでしょうか。

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Re: 「母国は日本祖国は台湾:柯徳三著」

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/10/04 20:40 投稿番号: [620 / 735]
思想の統制が厳しくなる

  医学部では、昭和十八年(一九四三)頃から、学生課長として配任に
なった憲兵の予備少尉が、特に台湾人学生に対して目を光らせていました。

  卒業前の年、昭和十九(一九四四)年に、医学部在学の台湾人学生の
検挙があり、反戦思想の疑いのある数名の学生が憲兵隊に連行されました。

生活改善部とか生活指導部とかいうのがあり、学生課長などが
目を光らせているところで、学生大会といって討論会をやるのです。
出るように言われて、私も出席したことがありますが、討論会の題が、
「天皇制についてどう思うか」とか
「台湾における皇民化運動についてどう考えるか」など難題ばかりで、
何も言えないのです。

  ですから、私は一回も発言したことはありません。
喋りたい心は沢山あります。でも、言えない。言いたい事を言えば、
引っ掛かるから、結局、何も言えずに黙ってしまうのです。
それ以外に方法はありませんでした。

  私の上のクラスの台湾人で、こんなことを言った人がいました。
「皇民化運動というのは、私の考えでは、内地人が台湾人を引っ張って、
日本人に同化する運動ではなく、内地人も努力し、台湾人も努力して、
お互いに一段上で融和して立派な台湾を作る。これが皇民化運動だ」と。
苦し紛れに、そう言ったらしい。私はその場で聞いていました。
翌日、憲兵隊が入って連れていかれました。


  その人は終戦まで締められて、八月十五日に釈放されたのです。
つまり、皇民化運動というのは、一方的に引っ張っていくものなのです。
台湾人には、頭から台湾人という意識をなくさせ、
完全な日本人にするための運動なのです。
つまり、それが軍部の考え方だったのです。

  天皇制についての座談会の時は、やはり台湾人の学生が、
「天皇は神様みたいで神様じゃないけど、とにかく我々は尊敬しないと
いけない」とか何とか、適当にお茶を濁すような発言をしました。
そうしたら、すぐに憲兵隊が入ったのです。
天皇は、神のようだけど神じゃない、と言ったところが恐らく
いけなかったのでしょう。あの時は、天皇陛下は神様でしたから。

  それから、お目付役がスパイを使って、台湾人学生が日頃どういう
行動をして、どういう話をしたか、いちいち報告していました。
それで結局、私が三年の時に、四年と三年の学生で、
憲兵隊に連れていかれたのが五人ぐらいいました。

拷問を食らって、ぶん殴られて、水を飲まされて、エビみたいに吊されて
竹刀で叩かれて、八月十五日に釈放になりました。
中で拷問で死んだ人も一人います。

  死んだ人は、国民党政府が来た時に、忠烈祠に祀られました。
反日の義士だとかいうのです。
実際には義士でも何でもありません。
これは国民党の宣伝に利用されたに過ぎません。
彼らが憲兵隊に連れて行かれた容疑は、重慶政府(国民党政府)と通じた
というスパイの容疑。
それから反日本政府という容疑でした。

あの時、大学で北京語を教えていた支那人の先生の教え子達は、
特に狙われました。
この先生も重慶政府のスパイという疑いがかけられて、捕まりました。
これが、軍隊が幅を利かせていた時の被害です。

  私など、何も喋らず、慎ましい態度で小さくなっていましたので、
睨まれる方ではありませんでした。
努めて内地人と接触して、「お互いにコミュニケーションをやろう」と、
やっていましたから、皆からは「こいつはちょっと異分子だな」
と思われていたことでしょう。

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Re: 「母国は日本祖国は台湾:柯徳三著」

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/10/04 20:35 投稿番号: [619 / 735]
第四章   軍医となって

日米開戦

  日本は、昭和十二(一九三七)年、盧溝橋事件に端を発する
支那事変から、急速に戦争へと突入していきました。

  戦争という時代でしたから、社会にも、人々の心にも歪みが生じていました。
台湾人の私にとっては、締め付けと差別の苦しい時代でしたが、
それは日本国内でも同様でした。
読者の皆さんにとっては、耳の痛い話もあるでしょうし、あまり愉快な話では
ないでしょうが、この時代の私の体験を、ありのままに綴りたいと思います。

  支那事変が起きたのは、中学の時ですから、よく覚えています。
「支那事変勃発」と聞き、ああそうか、と思った程度でした。
同年十二月、南京陥落の時は、提灯行列に行きました。
街中が勝利に湧いていました、私も、日本が勝ったのは喜ばしいことだと
思っていました。
この頃は、まだ、戦争という実感はありませんでした。
遠いところでの出来事でしたし、ピンとは来なかったのです。

  私が大学に入った年、昭和十六(一九四一)年の十二月に、
大東亜戦争が始まりました。
戦争がいよいよ始まったとのニュースは、学校で聞いたり新聞を見たりして
知りました。
皆、真珠湾の戦果だとか言って喜んでいましたから、
ああ、そうかそうかと思っていました。
それまで、日本は経済封鎖などで、かなり締め上げられていて、
物も不足していましたから、
やった!   これから楽になるという気持ちもありました。

  一番嬉しかったのは、シンガポールが陥落した時です。
開戦直後の昭和十七(一九四二)年二月のことでした。
日本軍は、ハワイ攻撃と共にこのマレー作戦を重視し、
ハワイ、マレー、フィリピン、香港、グアムへの先制攻撃をもって
大東亜戦争を開始したのです。

  英国の極東根拠地だったシンガポールが陥落した時、小学生は、
皆ゴムまりを一つ配給されました。
あそこはゴムの産地だということで、
テニスボールの柔らかいものが一つずつ配られたのです。

軍部は、そういう宣伝もやりました。皆、大喜びでした。
あの時、ゴムはありませんでしたから、運動靴もゴム底がないのです。
シンガポールが陥落したら、ゴムが沢山入って良いことだ、と思っていました。
その頃は、物もそろそろなくなりかけている頃でしたから。

  しかし、一方では、台湾人に対する皇民化運動はますます厳しくなり、
成年した私は思想的にも内心を表現することが出来ず、
思い悩むこともしばしばでした。

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Re: 「母国は日本祖国は台湾:柯徳三著」

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/10/04 20:32 投稿番号: [618 / 735]
日本教育の恩恵

  小学校から大学までを通して、私が接してきた先生方は
概して良い人が多かったと思います。
中には悪い人もいたのは事実です。

しかし、全体的に見れば、先生方は大きな使命感を持ってやっていたと思います。
良い悪いというのは、あくまで台湾人の立場から見てであって、
日本人の立場で見れば、私達台湾人が嫌っていた先生のやり方も
悪いとは言えないのではないかと思います。

  台北一中の教練の先生に対する私の印象は悪いものでしたが、日本人の
同窓生は皆、その先生のことを厳しい良い先生だと、今でも尊敬しています。
この先生は、私の同級生の台湾人が、朝食にニンニクを食べて教練の
授業に出たところ、ニンニク臭いとぶん殴ったことがありました。

  また、文句なしに台湾人を嫌っていた先生もいました。
しかし、大半の先生は、日本人でも台湾人でも、勉強がよく出来る子供を
可愛がりました。これが当たり前だと思います。

勉強の出来ない子に厳しいのは、先生として当たり前の感情でしょう。
私は真面目に勉強しましたから、たいてい可愛がられました。

  高等学校の化学に卯原という先生がいました。
私が夏休みのレポートを大変真面目にやったところ、
卯原先生は非常に褒めて下さいました。
その後、試験で満点を取った時に、特別に呼ばれて、
「お前はよく出来るから、今回の試験では百二十点をあげよう。
この次の試験の時に失敗したら、その二十点を補いに使ってくれ」と。
こんな先生もいました。面白いことを言うな、と思いましたよ。
この先生も、台湾人と日本人の区別など、全くつけたことのない先生でした。

  私は小学校から中学と、日本人の学校に学びました。
そこで得たものは、私の人生のあり方や専門職業に多大な影響を及ぼしました。
私の受けた日本教育は私の一生を決めたのです。
教師には個人的に好き嫌いがありましたが、教育そのものの恩恵は否定できません。
これが、八十四歳となった私の実感です。

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Re: 「母国は日本祖国は台湾:柯徳三著」

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/10/03 21:49 投稿番号: [617 / 735]
島田謹二先生の型破りな授業

  台北高等学校での三年間は、辛いマイナスの面もありましたが、プラスの
面もありました。教師の中で台湾人に対して差別をしない立派な方もありました。

  ドイツ語の中村為吉先生は特にそうでした。
クラスに「沈」という生徒がいて、「チン」と呼ばれていましたが、
先生は、正しい発音は「シン」だと主張して、
台湾人としての誇りを持ちなさい、と言いました。

  高等学校時代においても、大変に幸運なことに、
恩師といえる先生との出会いがありました。
それは高等学校三年生の時の英語の教師、島田謹二先生です。

  島田先生は、教科書として英文の小説を採用して、
原文をそのまま私達に読ませました。
先生は比較文学の大家で、講義も一般の教授とは異なった方式をとっていました。

例えば、サマーセット・モームの "The pavilion on the links" という
小説の一句に、"An assistant arrived in the afternoon." というものが
ありますが、これなどは「a」を並べて、ストーリーの暗黒さを暗示して
いると教えてくれました。
こんなことは言われなければ気づかず、文章を味わうことなど出来ません。

  英文の現代小説を原文で読み、その意味を理解していくのは大変でした。
しかし一年間で、どうにか全体のストーリーを読み終え、
学期末の試験に備えて必死で単語や文章の和訳を暗記しました。

  ところが試験当日、先生が出題された問題を見て、皆びっくりしました。
それは、「この小説を読んで何を感じたかを日本文で書け」という問題でした。
単語や文章の暗記など全く無駄なことだったのです。
しかも、英語の授業なのに答えは日本語で書くのです。

  私は何とか頭の中に残っているストーリーと、
吟味すべき所々の名文について、自分なりの論説を答案用紙一枚に書き、
及第点を得ました。
先生は諸外国の言葉に精通され、中でも英国、イタリア、ロシア、
フランス等の作家を多く比較研究されていたようでした。

  「しまきん」というあだ名も、今では大変懐かしく、親しみとして残っています。

昭和十六(一九四一)年頃は、私達の高校生活も戦時色を帯びて、
息苦しくなっていました。
自由思想のかけらさえも残っていなかったこの時代に、このような
素晴らしい啓蒙的な講義をなさっていた先生は、私の青年時代の良き思い出
となって、老境に入った今の私にとっても忘れ難いものです。

内台間の差別や、異なる民族間の違和感等のあったあの時代に、
先生はそのような感情は一切なく、私達台湾人も一様に生徒として
同じく薫陶を受けました。

英語の先生でしたが、ご自分に備わっている教養、議論のやり方と
いったことまで、いつの間にか教えて下さっていました。

  日本人である島田先生から、文学についての知識を学び、
その深い造詣に触れ、私の読書の習慣は養われました。
文学、哲学、芸術等あらゆる分野の書を乱読し、
友達と激論を交わしたのも高校時代でした。

武者小路実篤、森鴎外など、日本の小説や随筆も多く読み、
近松門左衛門に没頭したこともあります。
中国の本では、林語堂というエッセイストの本などをずいぶんと読みました。

  島田先生は、青年だった私達に読書の意欲を注ぎ込んでくれたのです。
これは、高等学校で一番の収穫だったと思っています。
読書は人生を豊かにしてくれました。

  青年時代に培われた日本語による高等教育は、私の一生を決定し、
今日の成就をもたらしました。

この島田先生は、私の最も尊敬する恩師の一人です。
残念ながら、もう亡くなってしまいましたが、当時は、
そういうずば抜けた人間的に尊敬できる先生がいたのです。

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Re: 「母国は日本祖国は台湾:柯徳三著」

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/10/03 21:42 投稿番号: [616 / 735]
  軍部の台頭と締め付け

  私の実感では、昭和十(一九三五)年辺りを境に、
だんだんと軍部の締め付けが厳しくなってきたと思います。
台湾でも「内台融和」のスローガンが「皇民化運動」に変わっていきました。

  まず、昭和十二(一九三七)年に、国語常用家庭制度が出来ました。]
国語、つまり日本語を常用している家庭は、審査に通ると「国語常用家庭」
という標識を家の前に掲げて、様々な特権を得るようになりました。
当時は、次第に配給制度になりつつある頃でしたから、
配給などで日本人と同様に優遇されたのです。

  その後、昭和十五(一九四〇)年には、改姓名運動が始まりました。

  私の家も国語常用家庭でした。
さらにその後、改姓名も行い、表向きは日本人と何ら変わりなく、
毎日を過ごしていました。

  改姓名は強制ではありません。
しかし、改姓名をすればやはり利益があるから、皆、行うのです。

  というのは、改姓名して日本名を名乗ると、配給物が日本人と同じになるのです。
改姓名しない者の配給物は違うわけです。
例えば、砂糖は、台湾人には黒砂糖、日本人には白砂糖が配給されます。
豚肉は、台湾人には脂身で、日本人には赤身、という具合です。
「台湾人はカボチャと芋を食え」ということで、台湾人にはカボチャと芋ばかり。
葉物の野菜などは日本人優先でした。
ただ、それは仕方がないことではありました。

  国語常用家庭で改姓名をすれば、完全な日本人だというのです。
そうなると、配給も何もかも全て内地の日本人と同じ扱いでした。

ただ、台湾人の中でもインテリで最後まで頑張って名前を変えなかった人もいます。
「あなたはどうして名前を改めないのか」と聞くと「先祖からもらった
名前を変えるわけにはいかない。それは祖先に反することだ」
と話していました。
こういう人も確かにいて、改姓名しなかったからといって、
罰則があったわけでもありませんでした。

  私の家は開けていましたから、さっさと改めました。
昭和十五(一九四〇)年に日本政府の許可が出てすぐです。
私が高等学校二年生の時のことでした。

  改姓名をした時の、面白いエピソードがあります。
どういう名前にするか色々と悩んだ末に、父が「秋元」という名前を考え出しました。
祖父の名前が柯秋潔でしたから、秋の時代に元を発したという意味です。

  私がもらった名前は「秋元良一」。
良い日本人になる長男という意味で、そうつけたようです。
祖父は、「秋元教道」です。
自分で「私は教師をずっとやってきたから、教道でいいよ」と言ったのです。

  そういう具合にして、面白く名前をつけたようです。
祖父は自分の妻には「経子」と付けました。
仏教のお経ばかりあげていたからだそうです。
私の母は裁縫が好きなので「絹子」でした。考えたものです。

  そういう具合にして、一家全員が名前を変えました。
私の父は「弘義」です。字画も数えてつけたということでした。

  初めは「秋元」という姓ではなくて、「高林」にしようかなどと話していました。
「高」は高砂で台湾島のこと、「林」は士林の林というわけです。
しかし、高林はどうも発音がよくないということで、日本に高林という
姓があるかどうかを調べました。するとどうもないようでした。
平林ならありますが、高林はないのです。

  それで父が「いっそのこと、あなたの名前を使って、秋元にしたらどう
でしょうか」と言い、祖父も「それも一理ある」と二人で決めたようです。

~~~~~~~~~~~~~~~~
★高林・・・ないこともないような気がしますが、どうなんでしょう。
上林(かんばやし)ならありますね。
あと、中林、松林、竹林、館林は?
小林、大林・・・

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Re: 「母国は日本祖国は台湾:柯徳三著」

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/10/03 21:32 投稿番号: [615 / 735]
第三章   学生時代の恩師

  一番偉い人は天皇陛下

  小学校では、一番偉い人は天皇陛下だと教えられました。
それとは別に「お前の好きな偉い人は誰か」とも聞かれました。
私は、それをなかなか思いつかなかったことを覚えています。

塩幡先生は、よくそういうことを生徒達に聞きました。
「乃木大将」という人もいるし、「西郷隆盛」という人もいます。
私は「どの人を挙げて良いか分かりません」と答えました。

それに対して先生は何も言いませんでした。
恐らく子供の考え方を試しただけなのでしょう。
お前は将来どういう人を手本にして、どういう人になりたいのか、
という意味で聞いたのだと思います。

  小学校や中学校では、ことさら台湾の歴史というものは習いませんでした。
私はそれを祖父の話から学びました。

家には歴代の家系図もありましたし、祖先がいつ頃台湾に渡ってきて、
どうなったといった話も聞きました。
祖父の書いた書状もあります。
台湾の地理は日本地理の中に入っていますので、
学校の授業の中に自然に出てきました。

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Re: 「母国は日本祖国は台湾:柯徳三著」

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/10/03 21:29 投稿番号: [614 / 735]
   日本人による統治

  台湾割譲で日本が台湾にやって来た時のことは、
祖母や祖父からよく聞かされました。
日本軍は、澳底から上陸して、三貂嶺を越えて、基隆の方へ出て、
台北の城へ入ってきたのです。

  上陸の知らせがあり、台北を通って士林あたりにも来るらしいという噂が
流れて、皆、怖れをなして逃げ、さとうきび畑や檳榔樹の林の中に隠れました。
当時は、台北と士林街とを隔てている淡水河にはまだ橋がありません
でしたから、台北との行き来は渡し船でした。
日本軍が船で渡れば、その知らせが来ることになっていました。
皆、いつ来るか、いつ来るかと緊張していたということです。

台湾の歴史は、外敵の度重なる侵略の歴史で、この日本上陸も、
また蛮人が攻めてきたと考えていたのです。
「日本人が来た」「日本の野蛮人だ」というわけです。
日本兵は乱暴をするという噂が広まっていました。

  祖母は子供と一緒にさとうきび畑の中に潜んでいたそうです。
子供が声を立てはしないかとはらはらしていたと聞きます。
その子供というのは父の姉で、後には日本の憲兵にずいぶんと可愛がられた
のですが、七、八歳で早世してしまったということです。

隣近所の奥さんの中には、子供が泣き声を立てたので絞め殺してしまった
という人もいたそうです。それほど日本兵が怖かったのです。

  しかし実際は、そんなことはありませんでした。
極めて平和的に日本の統治は始まったのです。

  日本軍が無血上陸を遂げた後、台湾側からも大した抵抗はありませんでした。
日本側も、恐らく教えを広めるというようなつもりでやってきている
のですから、抵抗に遭うとは考えていなかったでしょう。
台北に入る時も、全く抵抗はなく無血開城でした。

ただ、その後台湾全土を制圧するまでには各地で抗日闘争があり、
日本軍も苦労しました。

  私達の住んでいた士林には、日本時代に土匪と言われた人達、
つまり流れ者達がいましたから、その人達が策動して、
「日本は怖い」と言いふらしたのではないか、と私は推測しています。

結局、日本兵が乱暴をはたらいたり、殺戮や掠奪をするなどということは
ない、ということは、すぐに分かりました。

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Re: 「小沢一郎は朝鮮人!?」

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/10/03 21:21 投稿番号: [613 / 735]
こんばんは、はじめまして。


◆「小沢一郎は朝鮮人」と西村眞悟先生

西村真悟さんは、「小沢のマインドが朝鮮人」とおっしゃっておられます。
血統については触れておられません。
数年前、「真悟の時事通信」に、小沢とのいきさつ、小沢の人間像などを
書いておられました。


◆「初代天皇は朝鮮人!?」民主   小沢幹事長   2009年12月韓国での講演にて

まともな学者なら江上波夫の騎馬民族説など、ハナにもひっかけません。
とうの昔にゴミ箱に入っている虚偽捏造説をひっぱりだして、皇室と日本国民を
貶め、朝鮮人に媚びるとは、ほんとうに醜い酷いやつです。
第一、当のご本人である江上が、この騎馬民族説を最初に持ち出した座談会で、
出席者から多くの疑義の声があがり、通常座談会の記録を活字にして遺すところ、
どうしても本人が承諾しなかった、といういきさつがあります。

この江上という学者もホラフキのケがあるのではないですか。
天皇陛下から直接「騎馬民族説に興味がある」と電話をもらったとか、
言っていたらしいですから。


◆小沢の先祖の墓は日本にない
◆「偽装国士、小沢済州島一郎の化けの皮」について

小沢一郎の先祖の墓が済州島にあるというのは、ネットでは有名です。
母親が朝鮮人とも、両親そろって朝鮮人とも言われています。
父親が戦後のどさくさに小沢佐重喜の戸籍をのっとったとか・・・。
小沢一郎じたいも岩手出身ではありません。
たしか中学生のとき一年間だけいたのではないですか。
人相は、まずそうなジャガイモみたいで泥臭いですけど。

>小沢済州島一郎<    とは、言い得て妙です。
わたしはよく「小沢十億郎」と言ったものですが。


◆小沢一郎と朝鮮の影

小沢の美人秘書が韓国人で、大きな噂になりました。
小沢が、政治資金で買った、リビングから総ガラス張りでまるみえの
バスルームのあるマンションに出入りしていたのも、韓国人と支那人の
若い女だったという噂もありました。
日本の国家機密などないも同然、韓国につつぬけですね。

小沢は韓国人のために、外国人参政権制定に必死です。支那人のためにも。
空き缶は、北朝鮮に日本の税金をくれてやろうと必死でした。
さっきのニュースで、空き缶がもらった政治献金は不起訴だといっていましたが。
いまいましいですね。

小沢は支那人のナンバー・シックスのシュウ・チンピラのために、ルール
無視をして天皇陛下との会見をゴリオシセット、世論の非難を浴びました。
あのとき小沢は、自分が天皇陛下よりえらくなったとでも思ったんでしょうね。
天皇陛下をないがしろにしたら、にほんの世論が許しません。
小沢の失脚もむべなるかな。

できたらトロいイカサマ師三人まとめて、刑務所にぶちこんでもらいたいものです。

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「小沢一郎は朝鮮人!?」

投稿者: maotaoton_001 投稿日時: 2011/10/03 16:22 投稿番号: [612 / 735]
「小沢一郎は朝鮮人」と西村眞悟先生
http://www.youtube.com/watch?v=E7VQCu3HGt8&feature=related

「初代天皇は朝鮮人!?」民主   小沢幹事長   2009年12月韓国での講演にて
http://www.youtube.com/watch?v=xyz7pZ7_HP8&feature=related
 
小沢の先祖の墓は日本にない
http://www.youtube.com/watch?v=P_xPwme7BQQ&feature=related
 
「偽装国士、小沢済州島一郎の化けの皮」について
http://richardkoshimizu.at.webry.info/200712/article_26.html
 
小沢一郎と朝鮮の影
http://www.tamanegiya.com/ozawaitiroutyoujin22.3.24.html

「NHKのど自慢イン台湾」

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/10/03 01:33 投稿番号: [611 / 735]
6年ぶりの海外開催「NHKのど自慢イン台湾」予選実施   台北
2011.10.1 16:39     産経ニュース


海外では6年ぶり。
台北市の国父紀念館で開かれたNHKのど自慢イン台湾の予選(NHK提供)

  【台北=吉村剛史】
海外では6年ぶりの開催となる「NHKのど自慢イン台湾」の予選が1日、
台北市の国父紀念館で行われ、書類審査で選ばれた250組の老若男女が、
元気な歌声を披露し合った。

  地デジ放送開始を記念した特別番組。東日本大震災の義援金が約200億円
に達するなど、親日感情が強く、日本の音楽文化も浸透している台湾だけに、
海外では過去最高の1480組が応募。
ブラジル・サンパウロの674組の記録を大きく更新した。

  この日は、本番同様に徳田章アナウンサーの司会で進行し、客席には
「がんばれ日本・台湾」など応援の横断幕も。
浴衣姿で倖田來未さんの「愛のうた」を披露した台北市の高校3年生、周祖寧さん
(17)は「歌手になる夢がかなったようで興奮しました」と笑顔で話していた。

  本番は2日、同会場に歌手の小林幸子さんや吉幾三さんらを迎え、
約25組が出場。29日夜に放送される。

  海外開催は、1998年のサンパウロから計12都市目で、
2005年のメキシコシティ以来6年ぶり。
アジアでは北京、シンガポール、ソウルに続く開催地となった。
今年は台湾日本人会設立50周年、台北市日本工商会設立40周年でもあり、
両事務局でも開催に協力した。

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台湾でNHKのど自慢   6年ぶり海外公演
2011.10.2 21:20     産経ニュース

  NHKのど自慢の台湾公演が2日、台北の国父記念館で行われ、
約2千人の観客が集まった。
海外公演は2005年のメキシコ以来6年ぶりで、12回目。

  台湾は高齢者から若者まで日本への親近感が強いこともあって、
NHKによると、応募総数は海外公演としては過去最高の1480組。
これまではブラジル・サンパウロ公演の674組が最高だった。

  1日の予選で選ばれた25組が、2日の本番に出場。
台湾在住の日本人もいたが、大半は台湾人。
戦前の日本統治時代に育った84歳の女性や先住民アミ族のカップル、
日本での歌手デビューを目指す若者らが、演歌からポップス、韓国女性歌手
グループ「少女時代」の歌までさまざまな日本語の歌を熱唱し、
台湾北部・基隆市の男性がチャンピオンになった。

  公演の模様は10月29日夜、NHK総合テレビで放送される。(共同)


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★仙人さん、
いつも有難うございます。
ゆっくり拝見させていただきます。

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Re: 柯徳三氏が逝去/南無

投稿者: sennin_194012 投稿日時: 2011/10/02 14:28 投稿番号: [610 / 735]
1/2【台湾取材レポート】柯徳三氏へのインタビュー・前半[桜 H21/6/15]
http://www.youtube.com/watch?v=fkhvc1BbNmQ
 
2/2【台湾取材レポート】柯徳三氏へのインタビュー・後半[桜 H21/6/15]
http://www.youtube.com/watch?v=s1WTd0bPPlk&feature=relmfu
 
【台湾取材レポート】藍昭光氏へのインタビュー[桜 H21/6/16]
http://www.youtube.com/watch?v=HcIKQgjuMt8&feature=relmfu

Re: 「母国は日本祖国は台湾:柯徳三著」

投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/10/02 02:43 投稿番号: [609 / 735]
また、十八歳の時から、自分で設立した私塾で児童に漢学を教えていました。
日本が来る前、台湾に学校はありませんでしたから、
まさに寺子屋のようなものでした。

  黄文雄先生の「拓殖大学の台湾語講座と台湾の言語事情」
(『外国語・地域研究の系譜・拓殖大学百年の学統〈2〉・』拓殖大学)に
よれば、清時代にも書房や義塾、社学といった学童の教育機関がありましたが、
その教育目的は科挙にあって、しかも就学率はきわめて低かったようです。
それには、

「清国時代の書房の普及率については統計がないが、日本領台二年後の
明治三十(一八九七)年に行われた台湾総督府の調査では、
当時の書房数は千百二十七箇所、生徒数は一万七千六十六人であり、
入学年齢は七歳からが一般的である。

  この統計数字から単純に計算すると、一校の生徒は平均約十四・五人で、
近代国民学校の教室に比べると規模はそれほど大きくなかった。
当時の台湾総人口は約三百万人であったため、書房で学ぶ者の割合は
わずか〇・五七%に過ぎず、義塾や社学を入れても一%にも満たない」
とあり、また、その後の日本統治時代の就学率の変化については
次のように書かれています。

「公学校令施行の翌明治三十二(一八九九)年の公学校(台湾人の初等学校)
への就学率は二・〇四%であった。
それは中国大陸に比べ、ほぼ同数に近い。
しかし大正元(一九一二)年は六・六%になり、昭和元(一九二六)年は
二八・四二%、義務教育制の施行によって昭和十八年は六五・七六%、
昭和十九年は七一・一七%と飛躍的に向上している。
これは当時のアジアにおいて日本に次ぐ数値である。

  台湾は日本の植民地だったとされているが、世界で現地住民の就学率が
これほどまでに高かった植民地が当時存在しただろうか。
むしろこの点からだけでも、日本の内地延長政策の下、
台湾が植民地ではなかったということが証明できるはずである。

昭和二十三年に学齢児童全員に義務教育実現を予定していたが、
日本の敗戦によって実現するには至らなかった」

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