シェン‐ツォンウェン【沈従文】
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/10/09 01:20 投稿番号: [636 / 735]
★シェン‐ツォンウェン【沈従文】 [1902〜1988]
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/93911/m0u/
中国の小説家。本名、沈岳煥。湖南省出身。
「辺城」など西南辺境を舞台にした小説を書いた。
人民共和国建国後に、非政治性を批判され自殺をはかる。
のち、考古学の研究に転じ、大著「中国古代服飾研究」を完成させた。
しんじゅうぶん。
★「沈」は、固有名詞の場合、「チン」ではなく「シン」と読みます。
漢語では、普通名詞と固有名詞の発音が異なるケースがたくさんあり、
日本語の発音で読む場合もそれに準拠します。
★高島俊男「お言葉ですが・・・別巻③」
『漢字検定のアホらしさ』連合出版, p56より
“実に才能豊かな作家で、民国時代、二十歳のころからつぎつぎと
いい作品を書いていた。
その抒情が日本人の感性にもピッタリ合って日本でも愛好者が多かった。”
“1949年に中華人民共和国ができた時にはまだ40代で、環境さえ許せば、
これから成熟期、という年であったのだが、共産党支配のもとで、
作品を書くことが許されぬのはもとより、ずっと半拘束状態がつづき、
特に1957年の反右派闘争以後はひどい批判と抑圧を受けて、
屈辱にたえ切れず自殺を図ったが未遂に終わった。
1956年からの文化大革命中は五七幹部学校(知識人の強制収容所)に入れられて
いた。1976年に毛沢東が死んで、文革が終って、やっと身柄を解放された。
1978年にわれわれ中国(日本の中国、つまり岡山県、広島県、島根県等々)
四国地区の中国研究者の訪中団が中国へ行って、先方から「何か希望があるか」
ときかれた時、「沈從文はどうしている、もし生きているなら合いたい」
というのが、全員一致。だれも異存のない要望でした。
とは言ってもとても無理だろう、とはみな思ってました。
ところが会わせてくれた。場所はたしか北京大学だったと思う。
1903年(まだ清帝国の時代、日本で言えば明治36年)の生れだから、
その時70代半ばですね。しなびた小さなお爺さんになっていた。
30年間痛めつけられて、全然精気なし。
共産党の指導のもとで、昔の服飾の研究をさせてもらっている、
と言っていました。あの才能あふれる作家が古代服飾の研究ですよ。
なるほど人畜無害にはちがいない。
共産主義というのは、そういう人間性をふみにじる制度なのだ。
もちろん、1949年中共建国の際に、台湾か香港へ逃げればよかった。
そうすれば存分に才能を発揮することができたでしょう。
しかしその時には、共産党というのがそれほど知識人に対して
兇暴で残酷なものだとは、ほとんどの人が思わなかった。
胡適や梁実秋のように、共産主義のおそろしさをあらかじめ察知して
逃げた人は少数です。多くの知識人は大陸にのこってふみにじられた。
いや、共産党を批判したとか、そういうことではないのですよ。
ただ知性や知識が悪とされ、
字も知らない無知な農民が潔白で正しい、とされたわけです。”
つづく
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http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/93911/m0u/
中国の小説家。本名、沈岳煥。湖南省出身。
「辺城」など西南辺境を舞台にした小説を書いた。
人民共和国建国後に、非政治性を批判され自殺をはかる。
のち、考古学の研究に転じ、大著「中国古代服飾研究」を完成させた。
しんじゅうぶん。
★「沈」は、固有名詞の場合、「チン」ではなく「シン」と読みます。
漢語では、普通名詞と固有名詞の発音が異なるケースがたくさんあり、
日本語の発音で読む場合もそれに準拠します。
★高島俊男「お言葉ですが・・・別巻③」
『漢字検定のアホらしさ』連合出版, p56より
“実に才能豊かな作家で、民国時代、二十歳のころからつぎつぎと
いい作品を書いていた。
その抒情が日本人の感性にもピッタリ合って日本でも愛好者が多かった。”
“1949年に中華人民共和国ができた時にはまだ40代で、環境さえ許せば、
これから成熟期、という年であったのだが、共産党支配のもとで、
作品を書くことが許されぬのはもとより、ずっと半拘束状態がつづき、
特に1957年の反右派闘争以後はひどい批判と抑圧を受けて、
屈辱にたえ切れず自殺を図ったが未遂に終わった。
1956年からの文化大革命中は五七幹部学校(知識人の強制収容所)に入れられて
いた。1976年に毛沢東が死んで、文革が終って、やっと身柄を解放された。
1978年にわれわれ中国(日本の中国、つまり岡山県、広島県、島根県等々)
四国地区の中国研究者の訪中団が中国へ行って、先方から「何か希望があるか」
ときかれた時、「沈從文はどうしている、もし生きているなら合いたい」
というのが、全員一致。だれも異存のない要望でした。
とは言ってもとても無理だろう、とはみな思ってました。
ところが会わせてくれた。場所はたしか北京大学だったと思う。
1903年(まだ清帝国の時代、日本で言えば明治36年)の生れだから、
その時70代半ばですね。しなびた小さなお爺さんになっていた。
30年間痛めつけられて、全然精気なし。
共産党の指導のもとで、昔の服飾の研究をさせてもらっている、
と言っていました。あの才能あふれる作家が古代服飾の研究ですよ。
なるほど人畜無害にはちがいない。
共産主義というのは、そういう人間性をふみにじる制度なのだ。
もちろん、1949年中共建国の際に、台湾か香港へ逃げればよかった。
そうすれば存分に才能を発揮することができたでしょう。
しかしその時には、共産党というのがそれほど知識人に対して
兇暴で残酷なものだとは、ほとんどの人が思わなかった。
胡適や梁実秋のように、共産主義のおそろしさをあらかじめ察知して
逃げた人は少数です。多くの知識人は大陸にのこってふみにじられた。
いや、共産党を批判したとか、そういうことではないのですよ。
ただ知性や知識が悪とされ、
字も知らない無知な農民が潔白で正しい、とされたわけです。”
つづく
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これは メッセージ 635 (ajisai110701 さん)への返信です.
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