竹島
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『西溪雑録』と『臥遊録』の記事
投稿者: ararenotomo 投稿日時: 2008/01/10 22:13 投稿番号: [16125 / 18519]
yabutarou01さん
ご意見と疑問点の指摘を有難うございます。
>いずれにせよ寧海と鬱陵島との間が近いということであって、半日か一日半かは本質的な議論ではありませんね。
そうですね、同感です。私も「僧侶が、「半日の航程」と思っていたかはさて措き、欝陵島と寧海との距離が近い、と認識しているのは明らかです。」と書きました(No.16070)。彼は欝陵島と寧海との距離が近いと認識していたからこそ、「盖二島(于山と欝陵)去此(寧海)不甚遠一ハン(馬の右に風)風可至」と云ったのでしょう。また、「麋鹿熊シャウ(獣偏に章)徃徃越海出來」とも語りました(これは勇み足ですが)。なお、yabutarou01さんはこれを「欝陵島に生息しているはずのない熊が140 kmも離れていて渡れるはずのない朝鮮本土まで泳いで渡っている」と語ったと解釈されていますが、これは朝鮮本土ではなく欝陵島へ出で来たという意味です。次の「- - 島中黄雀群飛來投竹邉串」は、鳥は一般に海を越えるとき群れを作りますから、僧侶は欝陵島で、島中の黄雀が群れをなして竹邉串の方へ飛んで行くのを見たのでしょう。何れも欝陵島は朝鮮本土に近いことを、示したかったからかもしれません(No.16054)。
>ararenotomoさんは欝陵島の高所から鬱陵島の低所にある「- - 青岩壑呈露沙汀樹木」を見たと解釈されていますが、私はそうは思いません。「風恬浪靜則
可指」(風がおだやかで波が静かならば
見える)という文言があります。これは水平線の間際に鬱陵島があるので波が高いと波が邪魔で見えないということであり、海を隔てたどこかから鬱陵島を見たとしか解釈できません。
No.16124で書きましたが、私は「壑」という言葉が気になります。「壑」は『大字典』では「谷間のミゾのこと」とあり、「へこみ系」の言葉のようですので、海上よりはむしろ高所から見たとしました。べつに「海を隔てたどこかから鬱陵島を見た」という解釈は否定しません。ただし、「海を隔てたどこか」は陸上ではなく海上でしょう。
>欝陵島の高所から眼下の「- - 沙汀樹木歴々可指」を見たのであれば波の状態如何で見えやすさが変化するはずがありません。
風浪が激しければ、飛沫のため沙汀の樹木が歴々とは見えなくなることはあります。
>私はこの文が朝鮮半島から二島(于山と欝陵)が見えると判断した根拠として文章の構造上の問題を根拠に挙げましたが、ararenotomoさんは「去此」の「此」が何を指しているとお考えですか。
私は、最初の答えとNo.16054で述べたように、「此」は寧海を指すと考えます。「此」が欝陵島を指すとは考えておりません。
yabutarou01さんが朝鮮半島から二島(于山と欝陵)が見えると判断した根拠は、「盖二島去此不甚遠一ハン(馬の右に風)風可至」の「此」は寧海もしくは朝鮮半島を指すので、次の「于山島勢卑不因海氣極芿朗不登最高頂則不可見」と「欝陵稍峻風浪息則尋常可見」も朝鮮半島から見たと解釈されたのではないかと思います。
しかし于山島を竹嶼とすると、寧海からは標高100mの竹嶼は、高さ500m以上はある欝陵島の山々の陰に隠れて高所に登っても見えません。竹嶼から西〜南西5kmのところに500mの山があるとすると、朝鮮半島から竹嶼を見るには10000m以上の高さが必要です。従って私は、ahirutousagi2さんがNo.16075で言われたように「文章がどう読めるか。その一点が問題」と思いますから、「于山島勢卑不因海氣極芿朗不登最高頂則不可見」の于山島は、海気が極めて晴朗な日に欝陵島の最高頂に登って見ることのできる獨島=現竹島、と解釈しました。「欝陵稍峻風浪息則尋常可見」は、朝鮮半島の100m以上の場所から見たのであれば、yabutarou01さんがNo.16079でお書きになったように、「波の状態如何で見えやすさが変化するはずがありません。」から、私は海上から欝陵島を見たと読みます。
これは メッセージ 16079 (yabutarou01 さん)への返信です.
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『輿地勝覧』本土から欝陵島を見ていない
投稿者: ararenotomo 投稿日時: 2008/01/10 22:00 投稿番号: [16124 / 18519]
ahirutousagi2さん
早速のコメントを有難うございます。
>鬱陵島の高所から眼下を見たとする解釈は自然なのでしょうか。「日初出時風恬浪靜則」とある前提は、それではあまり意味をなさないように見えますし、「衆峰サン青岩壑呈露沙汀樹木歴々可指」とも不釣合いに見えます(とくに衆峰サン青)。
『西溪雑録』と『臥遊録』の「欝陵島」冒頭の欝陵島に関する記述は、「欝陵或曰武陵亦曰羽陵登高望之三峰岌ゲフ(山の下に業)タウ(手偏に掌)空而南峰稍低 - - 沙汀樹木歴々可指」として、「登高望之」以下の文で欝陵島の自然景観を説明しています。問題は「登高望之」がどこまで係るかですが、私は最後の「沙汀樹木歴々可指」まで係ると解釈しました。
「日初出時風恬浪靜則衆峰サン(手偏に賛)青岩壑呈露」「日初めて出る時風穏かに浪静かならば則衆峰むらがり青岩壑に呈露す」は、海上から見た景観とも取れますが、壑(ガク)は「たに。山と山のあいだの、くぼんでいるところ。土地がくぼんでいるところ。『日本語大辞典』」とあります。そこで、谷底或は窪地に露呈する青岩を、海上から見るのは困難と思われるので、欝陵島の高所から見た景観としました。もちろん、「登高望之」は「- - 南峯稍低」までに係り、「日初出時 - - 沙汀樹木歴々可指」は海上から見た欝陵島の景観とみることは可能です。
>朝鮮半島からそんなのは見えるはずはない、と言うのは、理由にはならないと考えます。
朝鮮半島から欝陵島を見たとする所説は、『世宗実録地理志』の「于山武陵二島在縣正東海中二島相去不遠風日清明則可望見」「于山・武陵の二島は相去ること遠くなく風日清明ならば望み見ることができる」との解釈を否定するために、川上健三氏によって提唱されました(『竹島の歴史地理学的研究』古今書院, 1966)。
川上氏は次のように書いています:『高麗史地理志』の中にある「一云于山武陵本二島」との一節は、全体の文脈からみて、一説として二島説のあることを挿入したものであって、「相距不遠」以下の文章は欝陵島を受けており、欝陵島が本土と相距ること遠からず、風日清明の際には望見できるとの意味と解されるのである。(中略)これをさらに裏付けるのが『輿地勝覧』の記事である。同書では、『実録地理志』の「二島相去不遠」との一節のかわりに、これに該当する箇所を「三峰岌ゲフ(山の下に業)タウ(手偏に掌)空
南峯稍卑
風日清明則峯頭樹木及山根沙渚歴歴可見
風便則二日可到」という表現に改めている。これは明らかに、本土から風日清明の際に欝陵島を望見した状況について描写したものであって、于山・欝陵二島間に関する記事ではない。
>「文章がどう読めるか。その一点が問題かと。」
全く同感です。そこで、『新筯東國輿地勝覧』の「風日清明則峯頭樹木及山根沙渚歴歴可見」の文章は、峯頭の樹木や山根の沙渚が分明に見えるとしているので、本土から140kmも離れた欝陵島を望見した状況についての描写とは、私には読めません。欝陵島に上陸して或は近くの海上から見た欝陵島を描写したものと読みます。
18世紀中頃の地理書である李重煥著平木實訳『択里志』(平凡社東洋文庫751, 2006)の「鬱陵島は江原道の三陟府の海中にある。晴れた日に高い所に登って眺めると、雲のようにみえる。」が実際に近いかと。
金正浩は『大東地志』(1863)に「鬱陵島在本縣正東海中(中略)自本縣天晴而登高望見則如雲氣」と書いていることが、yabutarou01さんによって紹介されています(No.16089)。金正浩は「自本縣天晴而登高望見則如雲氣」を『択里志』から択んだのでしょう。
これは メッセージ 16075 (ahirutousagi2 さん)への返信です.
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Re: 「無主地」として編入した?
投稿者: henchin_pokoider01 投稿日時: 2008/01/10 08:37 投稿番号: [16123 / 18519]
>現実には領土的価値がないからどの国も捨て置いたものを、
例えば、東グリーンランドの判例では数百年間、自国領としての認識や実効支配を示す証拠がないけど、委棄とはみなされていません。ですから「事実上」とか「実質的」という判断を軽々にすることはできないと思います。
これは メッセージ 16118 (husenoyaji さん)への返信です.
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付記
投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2008/01/10 01:01 投稿番号: [16122 / 18519]
一応、付け足しておきますが、
>質疑応答の状況の詳細は知りませんが、仮に内藤様が「口ごもった」のが事実であったとすれば、いかに不条理を感じようとも、それをまずは質問者にお詫び申し上げた上で、議論を再開するのが筋ではないでしょうか。
と書きましたが、内藤様が仰るように、下條氏の話が続くと考えて黙っていたのであり、そこで司会者による中断がなされた、ということであっても同じことです。
いかなる事情があろうとも、発表者として返答をしなかった以上は、その非をまずは詫びて、それから、議論を展開すべきではないでしょうか。それは研究会やシンポジウムで発表するものの原則ではないのでしょうか。
以上、付け足しておきます。
これは メッセージ 16119 (ahirutousagi2 さん)への返信です.
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内藤様へ:内藤教授の発言に思う(その3)
投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2008/01/10 00:42 投稿番号: [16121 / 18519]
続きです。
3.
>ダジュレー島(松島)とかアルゴノート島(竹島)をもちだすためには、シーボルトの「日本図」(1840年)が必要になる。しかし、アルゴノート島は1854年のロシア艦隊バルラダ号の測量で存在が否定されることはよく知られているところで、その後の一時期には、アルゴノート、ダジュレー、リアンクールの三つの島が記載された欧米製地図もあったようであるが、20年を経過した頃には、ダジュレーまたは松島、そしてリアンクールという二つの島だけが記載されるようになる。
二つの島だけが記されるのはその通りですが、その島が、どの位置で考えられたか。それぞれどの島に比定されたか、その認識が大切ではないでしょうか。それは、結局、1878年の外務省による鬱陵島=松島の規定や、軍艦天城の調査にまでつながって来るのです。
あるいは、まさか、私のような素人がこの掲示板に書き込んでいるような、
1867年
勝海舟「大日本国沿海略図」(アルゴノート・ダジュレーが竹島・松島。リアンクールも記載あり)
1875年
陸軍参謀局「朝鮮全図」(鬱陵島が二つに分かれて竹島・松島[アルゴノート・ダジュレーか])
1877年
文部省「日本全図」(鬱陵島が二つに分かれて竹島・松島[アルゴノート・ダジュレーか])
1881年
内務省地理局「大日本府県分轄図」(アルゴノート・ダジュレーの位置に竹島・松島)
この程度のものさえ、ご覧になっていらっしゃらないということはないと思いますが。
4.
>まずはじめに、島根県が付属文書として提出した「由来ノ概略」である。そこでは「磯竹島 一ニ竹島ト稱ス」として、隠岐から120里にある竹島の詳細が記されている。そして「次ニ一島アリ、松島ト呼ブ」として、竹島と同一線路にあり、隠岐から80里の位置にある松島について記述する。
これは、何らダジュレー島(松島)・アルゴノート島(竹島)としての理解の反論にはなってません。
ちなみに、竹島問題に触れながらよく思うのですが、現代の目から見て、と言うのは、無意味です。これは、半月城氏も内藤氏も同様に行っている誤謬であるように思われます。現代の目から見て、というのは、何の根拠にもならないのです。
最後に、内藤様の姿勢について、もう一つだけ申し上げます。
内藤様は、必ずしも韓国側の立場に立つ研究者ではなく、それについてちゃんと明言もされています。しかし、韓国メディアは、内藤様をあたかも韓国側の立場の研究者として扱いますし、内藤様はそのせいかは知りませんが韓国側の意見の問題点について、必ずしも上段から批判するような立場はとっていらっしゃいません。
もしも、韓国側の理解に問題点があるとお考えの部分があるのなら、せっかくの韓国メディアを利用して、どうしてそれを韓国の方々に伝えようとはなさらないのでしょうか。私は、内藤様がなすべき仕事は、むしろそちらのほうが重要であるように思います。
少なくとも、下條氏の見解に何ら本質的な返答もせず、ただ、その発言の変化をからかうよりは、はるかに望ましいものです。
私の理解が間違っていて、内藤様が韓国側の意見に問題点がないと思っていらっしゃるのなら、何も申し上げることはありません。半月城さんとともに下條批判に熱中なさるのもよろしいかと存じます。
内藤様は下條氏の記述について「下條流のプロパガンダ」と書いていらっしゃいました。内藤様。プロパガンダは、下條氏でしょうか。それとも、最近内藤様が随分と入れ込んでいらっしゃる、半月城氏でしょうか。
ご自身が、そのプロパガンダの渦中に巻き込まれていっていることを、一度、自覚なさるのが望ましいのではないかと、僭越ながら感じていることを正直に申し上げて、失礼させていただきます。
これは メッセージ 16120 (ahirutousagi2 さん)への返信です.
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内藤様へ:内藤教授の発言に思う(その2)
投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2008/01/10 00:30 投稿番号: [16120 / 18519]
続きまして、内藤様のお考えについて、いくつかのことを申し上げます。
1.
>したがって、当日の私の講演の趣旨を「1877年、日本の太政官が『竹島外一島本邦関係これなし』と決定した太政官指令を根拠に、日本政府は1877年に竹島を自国領でないとしたので、外務省の言う固有領土説は成立しないというものであった」と断定するのは、いかにも下條流の一面的な言いがかりといわなければならない。
そのあとの内藤様の文章に照らして、これのどこが一面的な言いがかりなのか、正直、意味が分かりませんでした。
2.
>島根県が伺書の付属文書として内務省に提出したさいには「大谷家図面」、内務省が太政官に提出した付属文書では「磯竹島略図」であり、下條氏がいっているような「当時使用されていた地図」が参考資料として取りあげられたとは思われない。
太政官の判断において、二つの意見があると思われます。
一つは、太政官に上げられた「大谷家図面」「磯竹島略図」の松島は「現在の目から見て」竹島=独島にほかならない。太政官がほかの資料をあたった証拠もない。だから、外一島は独島という立場。
もう一つは、当時の政府で竹島・松島をどのように認識したのかを文献を整合的に考える立場。太政官にどの資料が提出されたかにとどまらず、当時の政府でどのような考え方がなされていたかを整合的に見る、ということ。この場合、松島=独島はありえない。
普通で考えれば、後者が妥当ではないでしょうか。
島根県が地図を提出した。それの返事が太政官の判断だ。だから、太政官が放棄したのは島根県の地図に出ている独島だ、今の目から見ればまさに竹島だ、というのは、どうにも短絡的な論理ではないでしょうか。
太政官が「大谷家図面」「磯竹島略図」以外の地図を見た証拠を出せ。これでは小学生の喧嘩ではないかと思われます。
何らかの文書が政府に上げられた場合、それに対する返答は、申し出の文書だけが返答の根拠になるのではなく、返答をする側である政府の立場が整合的に考えられるべきであるのは、ある意味で、当たり前のことではないでしょうか。
太政官においても、それは変わりません。
ちなみに、当時の地図では、竹島・松島が正確に認識されてはいませんでした。日本地図においては、竹島・松島が描かれていないか、竹島・松島がアルゴノート・ダジュレーの位置で描かれた地図ばかりのようです。
私の知る限り、竹島(=鬱陵島)・松島(=リアンクール岩)の二島で正確な位置で描かれた政府関係の地図は、存在しないものと思います。
これは メッセージ 16119 (ahirutousagi2 さん)への返信です.
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内藤様へ:内藤教授の発言に思う(その1)
投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2008/01/10 00:08 投稿番号: [16119 / 18519]
内藤様
下條教授への反論を読ませていただきました。私は別段、下條氏の考え方をすべて肯定するものではありませんが、いくつかの点について思ったことを申し上げさせていただきます。
インターネットでの公開を依頼されたということは、他の人間の発言にも耳を傾ける意志がおありだとの判断をさせていただき、このように書き込ませていただく次第です。
まず、第一に、研究者としての姿勢について。
研究会なりシンポジウムにおいて質問が出た場合には、まずはそれに答えるべきであり、仮に仰るように質問者の質問が発表者が話した趣旨と沿わないものであれば、その場でその旨を返答すればよいだけのことです。
質疑応答の状況の詳細は知りませんが、仮に内藤様が「口ごもった」のが事実であったとすれば、いかに不条理を感じようとも、それをまずは質問者にお詫び申し上げた上で、議論を再開するのが筋ではないでしょうか。
その場では返答せず、公開の場であるネットにおいて売り言葉に買い言葉で、発表者が質問者を批判するのはちょっとどうでしょうか。
ましてや、質問者の考え方の変化に中心を置いて、ネットで批判を展開することはいささか的がずれている気もします。韓国には「鐘路で頬を打たれて漢江に行ってにらみつける」ということわざがあります。ちょうど、それにあたるような印象です。
一方、研究者の持論が変化することについての批判は天に唾することにはならないでしょうか。内藤氏は持論の変化ということで、思い当たることはないのでしょうか。
もちろん、下條氏の立場の変化は、詳しい説明も無いことから、不誠実であるとも言えます。しかし、それはそれ。論旨の変化そのものを、議論における批判の中心にすえるべきではないと考えます。
結局、内藤氏の反論は、下條氏の理解に対して、反論になっていたでしょうか。私には、そこにあるのは、発言の変化に対する皮肉の域を出ていなかったように見えました。本質は、そこにはないのです。
謙虚であること。批判や議論以前にまず本質を見失わないこと。そのあたりは、研究者としての原点ではないでしょうか。
今回の反論につきまして、正直な所、内藤様にいささかの失望を覚えたことを付記しておきます。
これは メッセージ 16114 (ban_wol_seong さん)への返信です.
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Re: 「無主地」として編入した?
投稿者: husenoyaji 投稿日時: 2008/01/09 22:39 投稿番号: [16118 / 18519]
henchinさんこんばんは、
>他国に占領された形跡がなく」を「占領されてない=無主地」と国際法を
独自解釈してるんじゃないでしょうかね
ありがとうございます。
私が無主地と書いたわけではありませんが、事実上無主地だと思いますね。
政府の論理は名目上は無主地の取得ではないとしても、実質的には同じことだと思います。
でなければ、国境確定の作業時に主張したはずです。
現実には領土的価値がないからどの国も捨て置いたものを、日露戦争で望楼を造る必要上日本領としないとまずかったということだろうと推察します。
鬱陵島にさえ望楼があるのですから、韓国領だと思うなら皇帝に通知すればよいだけですので、わざわざ日本領にしたのは、そういう認識がなかったからだと思います。
これは メッセージ 16112 (henchin_pokoider01 さん)への返信です.
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答えに窮した? 内藤教授の反論4
投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2008/01/09 20:49 投稿番号: [16117 / 18519]
下條正男教授の「竹島外一島」に関する主張を整理すると下記のようになります。
2004、5年、「外一島」は竹島=独島かどうか不明。
2006年、
「外一島」は現在の竹島=独島とみられる。
2007年3月、島根県のいう「外一島」は「磯竹島略図」の松島、すなわち竹島=独島。
太政官のいう「外一島」は欝陵島。
2007年9月、島根県のいう「外一島」は欝陵島。
毎年のように自説を目まぐるしく変えているようです。そのような人にどんな説明をしようと、本人は「明確な答えになっていない」というのが通例でしょうか。
これは メッセージ 16116 (ban_wol_seong さん)への返信です.
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答えに窮した? 内藤教授の反論3
投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2008/01/09 20:26 投稿番号: [16116 / 18519]
まずはじめに、島根県が付属文書として提出した「由来ノ概略」である。そこでは「磯竹島 一ニ竹島ト稱ス」として、隠岐から120里にある竹島の詳細が記されている。そして「次ニ一島アリ、松島ト呼ブ」として、竹島と同一線路にあり、隠岐から80里の位置にある松島について記述する。
さらにつづけて大谷甚吉漂着のことを記している。この記述を下條氏のように、松島の説明とみることはできず、明らかに竹島についての説明とみるべきで、大谷甚吉が漂着した松島というのは、歴史の事実を無視した曲解といわなければならない。
したがって、竹島とともに松島についても、島根県は欝陵島と認識していたというのも、記述内容からいっても当らない。
島根県が伺書の付属文書として内務省に提出したさいには「大谷家図面」、内務省が太政官に提出した付属文書では「磯竹島略図」であり、下條氏がいっているような「当時使用されていた地図」が参考資料として取りあげられたとは思われない。
ダジュレー島(松島)とかアルゴノート島(竹島)をもちだすためには、シーボルトの「日本図」(1840年)が必要になる。しかし、アルゴノート島は1854年のロシア艦隊バルラダ号の測量で存在が否定されることはよく知られているところで、その後の一時期には、アルゴノート、ダジュレー、リアンクールの三つの島が記載された欧米製地図もあったようであるが、20年を経過した頃には、ダジュレーまたは松島、そしてリアンクールという二つの島だけが記載されるようになる。内務省そして太政官が参照したのであれば、付属文書に地図名が記されていなければならない。
以上で下條説は全面的に否定されることになる。文献批判を怠ったのは、当の下條氏自身である。
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(つづく)
これは メッセージ 16115 (ban_wol_seong さん)への返信です.
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答えに窮した? 内藤教授の反論2
投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2008/01/09 20:12 投稿番号: [16115 / 18519]
当日のレジュメに明記してあるように、私のこの問題に対する見解は、「1876年10月16日、島根県が内務省に『日本海中 竹島外一島 属否の事』を照会したのに対して、1877年3月、太政官は『竹島外一島の義 本邦関係これなし』と決定した。外一島は松島(現竹島)である」ということである。
そうである以上、下條氏の質問に対して、内藤が窮したというのは当らない。すでに講演のなかで述べているのであるから、下條氏の質問は何であったかということになる。恐らく、下條氏はつづいて持論を述べるつもりであったと思われる。そのことを予想した私は、直ちに回答することをしなかったため、司会の発言で討論は中断されることになった。
下條氏の「外一島」についての見解は毎年のように改変されてきている。
まず2004年の『竹島は日韓どちらのものか』(文春新書)では「太政官による審査は十分とはいえなかった。『竹島外一島』の『一島』が今日の竹島を指すのかそうでないのか、判然としないからである。もしその『一島』が今日の竹島だったとすれば、『本邦関係これなき』というはずがない」と記していた。2005年刊の『竹島、その歴史と領土問題』も同文である。
ところが、島根県が竹島問題研究会の中間報告として2006年に発行して、県内全戸に配布した『フォトしまね』161号では「外一島とは現在の竹島とみられる」としているのである。
そして2007年の島根県竹島問題研究会の『最終報告書』では島根県が伺い出た「竹島他一島」と、太政官が判断した「竹島他一島」には違いがあったという。島根県が提出した「磯竹島略図」には、現在の竹島と磯竹島が記載されているが、太政官が「関係なし」とした『公文録』その他の文書には、欝陵島に当る竹島と米子の大谷家が漂着した松島についての記述があっただけで、現在の竹島については何も書かれていない。
したがって、太政官が「関係なし」とした「竹島他一島」は、二つの欝陵島を指しており、現在の竹島とは関係がなかった。これは当時使用されていた地図に、実在しない竹島(アルゴノート島)と松島(ダジュレー島)が描かれていることに起因するというのである。
さらに、2007年9月号の『諸君!』誌上では、島根県による竹島と松島の説明で、欝陵島に当る竹島はよいとして、松島についての説明も欝陵島に関するもので、島根県は竹島だけでなく、松島も欝陵島と認識していたという。そしてそうした混乱の原因は、当時使われていたシーボルトの日本図を基にした地図にあり、そこでは竹島をアルゴノート島、松島をダジュレー島として描いていた。しかし両島の緯度はともに現在の竹島のものとは異なっているので、明治政府が決定した「竹島他一島」の「一島」は今日の竹島とすることができないというものである。
この下條氏の所論には、二つの問題がある。その一つは、関係文書には欝陵島の竹島と、大谷家が漂着した松島についての記述はあるが、現在の竹島について何も書かれていない、松島の記述も欝陵島についてであり、島根県は竹島、松島ともに欝陵島と認識していたというが、果してそうであるかという問題である。
つづいては、当時使われていた地図は、シーボルトの「日本図」を基にした地図であるといっているが、どのような名称の地図であったかを明らかにすべきであり、その地図を内務省および太政官が参照したとする資料があるのかどうかということである。
(つづく)
これは メッセージ 16114 (ban_wol_seong さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/16115.html
答えに窮した? 内藤教授の反論
投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2008/01/09 20:11 投稿番号: [16114 / 18519]
半月城です。
江戸時代から明治初期にかけて、現在の竹島=独島は松島とよばれ、欝陵島は竹島あるいは磯竹島と呼ばれました。明治政府は「竹島外一島」すなわち竹島と松島を日本の版図外にする太政官指令を1877年にくだしました。
この「竹島外一島」をめぐって、ある専門家が刺激的な論説を書きました。島根大学の内藤正中教授はそれを見るに見かね、下記の文章をインターネットに公表してほしいとの依頼をなされました。
ある専門家とは、毎年のように自説を二転、三転させてきた拓殖大学の下條正男教授ですが、同氏は『諸君!』に「内藤氏は答えに窮した」などと事実に反することを書きました。その神経はいかがなものでしょうか。
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「竹島外一島 本邦関係無之」をめぐって
ー下條正男氏の妄論批判ー
内藤正中
『正論』2008年2月号に、下條正男氏の「韓国人研究者との出会いで痛感した『竹島問題』の不毛」なる論稿が掲載されており、そのなかで、去る11月16日に東京大学東洋文化研究所で開催されたシンポジウムにおける私の発言が批判されている。
すなわち、質疑応答で下條氏が質問し、「外務省が主張する竹島の固有領土論を批判する論拠を尋ねたが、内藤氏は回答することはできなかった」(P265)とか、「竹島他一島本邦関係これなしの竹島と外一島は、今日のどこの島をさしているのか、説明を求めたが、内藤氏は口ごもり答えることができなかった」とも記している(P271)。
そしてつづいて、「内藤氏が答えに窮したのも当然であった。当時、日本海には架空の竹島(アルゴノート島)と松島(ダジュレート島)、それに今日の竹島(リャンクールロック)があるとされ、『竹島外一島』はダジュレート島とアルゴノート島を指していたからである。内藤氏は、『竹島外一島本邦関係これなし』の字面だけを読み、文献批判を怠ったのである。「竹島は韓国領」とする東洋文化研究所の思惑は粉砕されたのである」と述べるのであった(P271)。
だがしかし、下條流のプロパガンダに惑わされないためには、事実関係の確認をしておく必要がある。
当日のシンポジウムでの私のテーマは「竹島固有領土論への疑問」であって、下條氏がいっているような「竹島固有領土論再考」ではない。そして当日会場で配布したレジュメで明らかなように、1618年の幕府による竹島渡海免許をはじめ、1696年の竹島渡海禁止、そして1905年のリヤンコ島の日本領土編入に至るまでについて、それぞれの項目についての疑問点を指摘したものであった。
したがって、当日の私の講演の趣旨を「1877年、日本の太政官が『竹島外一島本邦関係これなし』と決定した太政官指令を根拠に、日本政府は1877年に竹島を自国領でないとしたので、外務省の言う固有領土説は成立しないというものであった」と断定するのは、いかにも下條流の一面的な言いがかりといわなければならない。
(つづく)
これは メッセージ 1 (ritiarno さん)への返信です.
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Re: 半月城さんへ
投稿者: puracyaka2007 投稿日時: 2008/01/09 03:51 投稿番号: [16113 / 18519]
さて、yabutarou01様による次の投稿に半月城様はお答えになる気は無いようです。
***********************************
話は変わりますが半月城さんは自著『竹島=独島論争』のなかで『東国文献備考』の「輿地志がいうには 鬱陵 于山は皆 于山国の地 于山はすなわち倭がいうところの松島なり」の解釈について、
たとえ下條説の史書改ざん説を認めたとしても、朝鮮の于山島=松島に対する領有意識はその時期が単に1770年にずれるのみで大勢に影響はありません。
竹島=独島問題、櫻井よしこ氏を批判する(1)
http://www.han.org/a/half-moon/hm110.html#No.805とお書きになっています。半月城さんもよくご存知のように、最近になって輿地志には「于山はすなわち倭がいうところの松島なり」の記述が存在しないことが判明しました。
[2007年10月2日]
『諸君!』2007年9月号(文藝春秋刊)記事
「日本の領土『竹島』の歴史を改竄せし者たちよ」 下條正男
(PDF 1.16MB)
http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima04/takeshima04-1/ということは半月城さんは少なくとも1770年より前に完成した地図や地誌その他の記録にある于山島は竹島=独島ではないと論説を修正されたと解釈してもよろしいですよね?
(yabutarou01様15994より抜粋)
***********************************
無理もありません。yabutarou01様の「1770年より前に完成した地図や地誌その他の記録にある于山島は竹島=独島ではない」という指摘は殆ど致命的なのです。
1770年より前に、現在の竹嶼を于山島とした地図が朝鮮には存在しました。そこに「鬱陵 于山は皆 于山国の地 于山はすなわち倭がいうところの松島なり」という情報が加わった場合、読み手はどのように理解するでしょうか。恐らく自分たちが持つ地図を見て、鬱陵島の隣にある于山島=竹嶼を日本人は松島と呼んでいるという理解にしかなりません。松島が于山島なのではなく、于山島が松島なのです。おわかりでしょうか。従って、「『東国文献備考』の「輿地志がいうには 鬱陵 于山は皆 于山国の地 于山はすなわち倭がいうところの松島なり」」といったところで、松島(現在の竹島)に対する領有意識が生じたなどとは到底言えないのです。「鬱陵 于山は皆 于山国の地 于山はすなわち倭がいうところの松島なり」という記述をもって現在の竹島が于山島と呼ばれたと主張するのは一見もっともなようで一種の手品みたいなものです。
さらに、鬱陵島=于山島という説も有力でしたから、この説に立てば当然に松島に対する領有意識など生じる訳がありません。
さらにさらに、1860年前後から後には鬱陵島=松島となっていますから、これによっても現在の竹島に対する領有意識などあり得ないことになります。
だからこそ朝鮮政府は松島に対して巡視等何ら具体的行動も取らなかったし、地図にも載せなかったし、大韓地誌や大韓新地誌でも松島(現在の竹島)を自国の領域から除外しているのです。
以上の通り、『東国文献備考』は松島に対する領有意識の証拠にすらならないことが明らかになりました。このことは、朝鮮政府の具体的行動や、地図、地誌類によってさらに裏付けられているのです。
これは メッセージ 16096 (puracyaka2007 さん)への返信です.
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「無主地」として編入した?
投稿者: henchin_pokoider01 投稿日時: 2008/01/08 22:34 投稿番号: [16112 / 18519]
http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka/takeshima/2a11rui981-1905/
閣議決定には、「無主地として編入」なんて書いてないですよ。
「他国に占領された形跡がなく」を「占領されてない=無主地」と国際法を
独自解釈してるんじゃないでしょうかね。
国際法上の無主地は「如何なる国家も権原を取得していない領域」ですので、
「占領の有無」とは異なります。
今でも物理的な占領がなされていない日本の島は沢山あります。
まぁ、韓国側に国際法上で有効な証拠が存在しないことから、島根編入
をなんとかして「無効」にしないといけない。このために考え出されたのが、
「島根編入は通知義務違反」と「無主地編入してるので矛盾だ」理論です。
金明基という韓国人学者は、「戦後の日韓の往復文書で日本が無主地として
編入したと言った。矛盾だ」と論文で主張しているのですが、実際の日本の
書簡には「近代国際法上に基づき取得した」としか書いてありませんでした。
国際法上、権原の取得と維持に実効的な占有(無人島等に関しては頻度等
が緩和)が求められるようになったのは19世紀後半からですし、
ヨーロッパ流国際法を受容してなかった野蛮な国家は全て無主地となります。
実際に江戸時代の出来事は「未成熟権原」とみなされる可能性は大きい
とは、思いますがそれを判断できるのはICJだけでしょう。
これは メッセージ 16111 (husenoyaji さん)への返信です.
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これは言えてるな。
投稿者: husenoyaji 投稿日時: 2008/01/08 10:32 投稿番号: [16111 / 18519]
>その際の口実は、竹島=独島は「無主地」であるというものでした。これは現在の外務省が主張する「固有領土」説と相いれないことはいうまでもありません
江戸時代に日本が領有権を確立していたとは言い難いな。
それでも韓国側よりよっぽど有力であることは間違いないですが。
韓国側がさかのぼって主張したので対抗して話しが矛盾したんだな。
それに、明治期は近代的領有権によってフォーマットされる過程だったから
諸外国に対して主張できるだけのものでは無かったと思う。
しかし、日本領でないと認めていたとしても韓国領にもならない。
朝鮮国王が李奎遠に命じて探査させた結果、鬱陵島近傍以外の島の存在は
否定されてますので。
半月城氏のここの部分の解釈はすごかったですね。
引用文と解釈があまりにも違うので、何回も読み直しちゃったくらい。
なんで読めばそのままわかる屁理屈を書くのか理解不能でした。
これは韓国側に共通することですね。
韓国人は嘘つきだとか卑怯だとか言うのでなく、国家のためなら事実を曲げてでも忠節を尽くすのが正義なんでしょう。
価値観が根本的にちがうんだと最近思ってます。
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Re: 竹島=独島は固有領土か、強奪領土か4
投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2008/01/07 23:31 投稿番号: [16110 / 18519]
自分の都合のいい資料を、自分の都合のいいようにだけ利用する。その一貫した姿勢には敬服さえしたくなります。せっかくの圧倒的な資料を、ただただ色眼鏡を通してしか扱わない姿勢は、ある意味では害でしかないようにも思えます。
すべては歴史の審判にまかせましょう。
さて、「竹島=独島は固有領土か、強奪領土か4」における1877年以降の年表についてですが、これもどうにも恣意的な印象がいなめません。
私は、以前に、14831で、以下のように記したことがあります。
******
1867年
勝海舟「大日本国沿海略図」(アルゴノート・ダジュレーが竹島・松島)
1875年
陸軍参謀局「朝鮮全図」(鬱陵島が二つに分かれて竹島・松島)
1877年
文部省「日本全図」(鬱陵島が二つに分かれて竹島・松島)
1877年
太政官判断。
1878年
外務省、鬱陵島=松島。(竹島言及なし)
1880年
同上
1881年
内務省地理局「大日本府県分轄図」(アルゴノート・ダジュレーが竹島・松島…半月城さん「偶然の一致」)
1881年
内務省が外務省に鬱陵島照会。外一島資料添付。反応なし。
1882年
鬱陵島への日本人渡航について朝鮮政府から抗議。
1883年
鬱陵島渡航禁止
1883年
太政大臣三条実美、同上令において「北緯37度30分、東経130度49分に位置する日本称する松島、一名竹島、朝鮮称する鬱陵島」と記録。
******
せめて、
1877年
文部省「日本全図」
1881年
内務省地理局「大日本府県分轄図」
程度は言及して欲しいものです。あるいは「大日本全国略図」改訂版で竹島・松島が無彩色となっていることについて「日本領外として」と規定していいものかどうか。それももう少し詳しく言及して欲しいものです。何しろ小笠原や、沖縄周辺の島、隠岐の島前までが無彩色ですから。
というか、どうでもいいです。ほかにも一つ一つ議論をするときりがありません。所詮、半月城さんにとっては、掲示板は、広告の場に過ぎないのですし。
これは メッセージ 16105 (ban_wol_seong さん)への返信です.
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半月城氏は韓国政府の公務員5
投稿者: yabutarou01 投稿日時: 2008/01/07 22:45 投稿番号: [16109 / 18519]
続きです。
○『韓日関係-懸案と争点』公開シンポ - 東京大と共同開催
-社会: 玄大松(東京大教授)
-発表: 内藤正中 (島根大学名誉教授),“竹島(竹島) 固有領土論に対する疑問”
-パネル: 朴炳渉=半月城 (独島問題研究Net 代表),菅豊(東京大教授)
1.内藤正中教授の “竹島固有領土論に対する疑問”の主題発表後これに対するパネルたちの論評及び質問の時間を持ち
2.日本の歴史的史実に根拠した主題発表に対して朴炳渉=半月城先生の日本官撰地図相議竹島表記に対する追加説明と菅豊教授の文化人類学籍見地で見た領土論に対する問題申し立てがあった
3.山陰中央新報と産経新聞の記者及び多くのマスコミ関係者たちが集まった席で
下條正男, 拓殖大教授の主題反論及び質問があった
4.日本側史料ではない韓国側史料による独島領有権主張根拠を提示しなさい
増えた下條正男教授の要請があったしこれに対して朴炳渉=半月城先生が返事する
5.討論後山陰中央新報と産経新聞で内藤正中教授と主題発表に対してインタビューをハム
□日本国会図書館独島関連資料コピー及び行く(神田)地域で独島関連書籍購入
○日本国会図書館独島関連資料コピー
1.学術雑誌は国会図書館別館で保管中で,マイクロフィルムは本館で閲覧及びコピー可能
2.総 7種の独島関連論文閲覧及びコピー
3.資料の中で 1種は古書籍な関係でコピーを申し込んで一週間後郵便で発送要請
4.コピー資料はリスト化して独島研究センターの収集資料保管予定
5.今後の日本学術雑誌の独島特集記事を中心に資料収集予定
○行く(神田)地域古書漸加で独島関連書籍購入
1.独島及び海洋境界関連書籍の調査
2.国際法関連新刊書籍購入
3.購入図書リスト(日本語)
排他的 経済水域,領土帰属の 国際法,講義 国際法,国際法,船舶の 国籍と 便宜置籍, 現代の 海洋法
□面談者
-履修だ,東大総合文化研究課博士課程,日本史料解釈お問い合わせ
-金英作,豪勢梨花女大学法廷大学ビジティングプロフェッサー,英文書で自問
これは メッセージ 16108 (yabutarou01 さん)への返信です.
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半月城氏は韓国政府の公務員4
投稿者: yabutarou01 投稿日時: 2008/01/07 22:42 投稿番号: [16108 / 18519]
続いて11月 16日に東京大東洋文化研究所で開かれたシンポジウムの報告書を紹介します。こちらは山陰中央新報の記事
http://www.sanin-chuo.co.jp/news/modules/news/article.php?storyid=445285006と「正論」二月号の下條氏の記事をあわせて読むと興味深いものがあります。
韓国海洋水産開発院独島研究センター責任研究員柳美林(ユ・ミリン)博士の国外出張復命書
グーグルのキャッシュ(韓国語)
ttp://72.14.253.104/search?q=cache:PM_UKNReeDUJ:www.kmi.re.k
r/data/gongi/(20071114-1117)%2520%25EC%259D%25BC%25EB%25B3%25B8-%25EC%259C%25A0%25EB%25AF%25B8%25EB%25A6%25BC,%25EC%25A1%25B0%25EC%259D%2580%25ED%259D%25AC.hwp+%EB%B0%95%EB%B3%91%EC%84%AD+%EB%8F%85%EB%8F%84&hl=ja&ie=UTF-8ヤフーのウエブ翻訳
http://honyaku.yahoo.co.jp/url___________________________________
1.出張目的
-英文図書『韓日関係-懸案と争点』発刊のための 2次ワークショップ
: 日本東大とシンポ共同開催
2.出張者及び出張日程
-ユミリム責任研究員,ゾウンフィ研究員
-2007年 11月 14日(水) ~ 2007年 11月 17日(土)(3泊 4日)
3.出張日程及び出先
日付け
訪問先(機関)
11月14日(水)
東京到着出発(ソウル→東京)
11月15日(木)
国会図書館行く
(神田) 古書店独島関連資料の調査及び書籍購入
11月16日(金)
東京大学
英文図書発刊のための 2次ワークショップ
11月 17(土) ソウル到着
出発(東京→ソウル)
5.評価
○英文図書
『韓日関係-懸案と争点』発刊に先立って争点に対する論旨の
統一性調律及び各界専門家の意見蝕合
○今後 ‘独島’懸案を含めて韓日関係問題に対する自問ネットワーク確保
国外出張報告書
題目 : 英文島で『韓日関係-懸案と争点』発刊のための 2次ワークショップ
-日本東大とシンポ共同開催
1.出張目的
-英文図書『韓日関係-懸案と争点』発刊のための 2次ワークショップ
: 日本東大とシンポ共同開催
-国会図書館と行く(神田)地域古書店で独島関連資料の調査及び書籍購入
2.出張者
-ユミリム責任研究員 -ゾウンフィ研究員
3.出張期間
-2007年 11月 14日〓11月 17日(3泊 4日)
-2007年 11月 14日〓11月 17日(3泊 4日)
4.出先
-日本(東京)
5.出張内容
□英文図書『韓日関係-懸案と争点』発刊のための 2次ワークショップ
○非公開ワークショップ午前セッション
-社会: 玄大松=ヒョンデソング(東京大教授)
-報告: 高橋Tetsuya (東京大教授),“靖国問題に対して”
アリミツKen (戦後補償ネットワーク事務局長),“韓日の前後補償問題”
キミなのTadashi (東京大教授),“冷戦体制と韓日関係
1.玄大松教授の社会で各研究者の研究見て後,これに対する論評及び質問時間持ち
2.各主題別論文構成及び順番と目次内容を討論する
3.英文図書の読者層を英米文化圏の大学 1~2年生で取って,新聞記事のように平易な門ザングチェに敍述することにハム
4.前書き部分で各くせに大韓概括的な紹介部分を入れることで初めて韓日関係を接する読者層を気配りすることにハム
5.韓日関係にもっと深い関心を誘導しようと論文の後半部には各研究者の研究争点に対する見解及び論旨を記述して深度あるように韓日関係の争点事項を紹介することにハム
○非公開ワークショップ午後セッション
-社会: 玄大松(東京大教授)
-報告: 玄大松(東京大教授),“韓日領土問題の争点とその起源”
朴炳渉=バックビョングソブ =半月城(独島問題研究Net 代表),“明治時代の資料で本独島のグィソックムン私の”
内藤正中(島根大学名誉教授),“日本での安竜福“
姜徳相 (私邸県立大学名誉教授),“韓日歴史摩擦の歴史的起源”
1.玄大松教授の社会で各研究者の研究見て後,これに対する論評及び質問時間を持ち
2.午前セッションで論議された編集方向及び論文敍述方向を討議
3.午前と違い歴史問題を中心にする午後セッションでは各主題の論文内容この重複されないように内容構成を論議
4.歴史的史実(史実)を基礎にする部分は英米圏読者たちを念頭に置いてピョングイハ
これは メッセージ 16107 (yabutarou01 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/16108.html
半月城氏は韓国政府の公務員3
投稿者: yabutarou01 投稿日時: 2008/01/07 22:21 投稿番号: [16107 / 18519]
続きです。
□島根県立図書館資料調査及び収集
○島根県立図書館には島根県にだけ所蔵されている郷土史料があるのでこれを調査する
-県立図書館所長独島関連史料は 190余件が検索される
-このなかに本センターのほほ笑み場資料を集中の調査,収集し
-資料調査は本センター海外諮問委員である朴炳渉氏と共同調査する
-収集した資料は一次で朴炳渉氏がデジタル化した後またセンターで郵送する方式を取ることにハム
-コピーに必要となった経費は朴炳渉氏が支払い,センターでは資料収集費用で追後支払うことにハム
○収集リスト: 島根県立図書館所長資料リスト添付
-この家運に大部分資料を確認,コピーし
-亀山,島根タイムズのように島根県立図書館にだけある資料を集中調査する
□島根地域民団本部と広島総領事など関連の人士と業務共助
○バックフィテック島根県民団本部常任顧問,キム・ジン式広島総領事,独島守護隊金店区代表などと出会い
-民団事務室で朴病攝氏とともに竹島の日行事関連情報及び動向に関する情報を持ち
-日本で竹島の日条例制定を主導したことは染みて支社の本意ではなくてここには中央政府のAokiミキオ自民党議員会長が介入されたように見えると聞き
-島根県と慶尚北道との姉妹提携締結にバックフィテック常任顧問の役目がこの上なく大きかったしこれは島根県の宿願事業なので韓国との友好関係破棄がほしくはないとの説明を聞き
-バックフィテック常任顧問が染みて支社と山陰中央新報に対論にインタビューした記事を受けて詳しい話を聞き取りする
□東亜日報記者と朴炳渉氏インタビュー
-東亜日報東京特派員天光癌さんが朴炳渉氏とインタビューして独島に関する研究傾向を持ち
-記者に韓国海洋水産開発院独島研究センターの事業現況及び独島問題に関する研究現況に対して説明してくれる
□島根県の広報行事把握
○県庁の広報行事
-島根県では竹島に関する 10分余りのビデオを作って県庁国民の請願室で大型スクリーンを通じて一般人に提供している
-毎時間上映するのにこれを観覧する一般人はほとんどなかった
○右翼団体の広報行事
-日本士道会という右翼団体が 23日県民会館の前で竹島を含めた日本領土問題に対して一般人に広報する演説を 1時間ほどハム
-一般聴衆はいなくて報道陣と警察だけが見詰めている
○句県立博物館臨時開館, 資料展示
-竹島に関する史料と地図 30点を句県立博物館 2階でかりに 22- 24日 3日間展示する
-写真撮影を禁止して展示リストを配り
-開館時間が 10時から午後 4時までに短くて一般人の観覧が制限的のうえ展示資料も極めて少量だ.
□面談者
-升田 優 : 島根県総務部総務課課長,竹島問題研区会委員
-松村健次: 山陰中央新報 報道部次長
-キム・ジン式, ギムフングイック: 駐広島大韓民国領事館領事
-天光癌東亜日報東京特派員
-バックフィテック民団常任顧問
-ユンヒョックヒョン民団顧問
-海外諮問委員東京大ヒョンデソング(玄大松)教授と通話
これは メッセージ 16104 (yabutarou01 さん)への返信です.
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竹島=独島は固有領土か、強奪領土か5
投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2008/01/07 22:17 投稿番号: [16106 / 18519]
日本の「竹島領土編入」
帝国主義国家として著しい発展を遂げた日本帝国は、朝鮮や満州における勢力圏確保をめぐってロシアと対立するようになり、1904年2月、旅順のロシア艦隊に奇襲攻撃をかけて日露戦争を始めました。
しかし、初期の戦況は日本に不利でした。特に日本海では日本の輸送船がウラジオ艦隊に次々と沈められ、軍需物資の補給に支障をきたしていました。そのため、日本海における軍事施設の強化が急務であり、欝陵島や竹島=独島は重要な軍事上のキーストーンとして浮かびあがりました。
そうした折、隠岐に住む中井養三郎はリヤンコ島(竹島=独島)におけるアシカ猟の独占を図り「リヤンコ島領土編入ならびに貸下願」を政府に提出しました。しかし、これには内務省が反対しました。
かつて同省は竹島=独島を版図外とする太政官指令を受けていただけに、願書に対して「この時局に際し、韓国領地の疑ある莫荒たる一箇不毛の岩礁を収めて、環視の諸外国に我国が韓国併呑の野心あることの疑を大ならしむ」として願書を一旦は却下しました。
しかし、外務省の考えは違っていました。政務局長の山座円二郎は「時局なればこそ、その領土編入を急要とするなり。望楼を建築し、無線もしくは海底電信を設置せば、敵艦監視上きわめて屈竟ならずや。特に外交上、内務のごとき顧慮を要することなし。すべからく速やかに願書を本省に回付せしむべし」として中井を督促しました。
この時期、日本は日英同盟や桂タフト条約を締結しており、もはや朝鮮問題で西欧列強に神経を使う必要がなかったのでした。日本は帝国主義国家の本性のままに領土拡張の牙をむきだしにしたのでした。この外務省の論理に内務省も従い、1905年2月、リヤンコ島を日本領へ編入することを閣議決定しました。
日本政府が竹島=独島を領土編入した論理ですが、それは「無主地」であるリアンコ島に中井が1903年以来「移住」したので、これを国際法上の占領と認めて日本の領土に編入したというものでした。
しかし、この論理には無理があります。まず、竹島=独島は民間人が居住できるような島ではなかったし、また中井が竹島=独島に本格的に居住した事実もありませんでした。
それにも増して重要なのは、それまで日本政府が朝鮮領と考えていたリアンコ島を無主地と判断したことです。かつて明治政府は、内務省や外務省、海軍、太政官など関係機関が同島を朝鮮領と考えていましたが、その判断を根本的に覆すものでした。
閣議決定後、領土編入は政府内で秘密裏に処理されました。官報による告示もなく、わずかに政府の訓令を受けた島根県が県告示で関係者に公表したにとどまりました。同県は2月22日、県告示四〇号で同島を竹島と命名し、隠岐島司の所管にすると公示しました。
このように日本の竹島=独島編入は政府レベルで秘密裏になされたので、日本国民はその事実をほとんど知らずにいました。それどころか主要なマスコミすら知らずにいました。告示から三か月以上たった五月三十日、日本海海戦の勝利を伝えるほとんどの新聞は「竹島」の名前を用いずに、外国名の「リアンコールド岩」という名で報道しました。
はなはだしくは、海軍省や官報ですら「竹島」でなく「リアンコールド岩」の名を使用していました。これは水路部を擁し、国境について熟知しているはずの海軍省においてすら「竹島」編入の事実が周知徹底していなかったようです。また、地元の山陰新聞は県告示を「隠岐の新島」という見だしで小さく報道しました。地元でも固有領土の意識は皆無だったようです。
おわりに
日本は江戸、明治時代をとおして竹島=独島の領有を確認したことは一度たりともありませんでした。それどころか、元禄期および明治10年の二回にわたり、竹島=独島を朝鮮と関連づけて幕府や太政官は日本の領土ではないと判断したのでした。
その後、帝国主義国家として発展した日本は、日露戦争のさなか「時局なればこそ、その領土編入を急要とするなり」との判断から竹島=独島の領土編入を閣議決定しました。
その際の口実は、竹島=独島は「無主地」であるというものでした。これは現在の外務省が主張する「固有領土」説と相いれないことはいうまでもありません。
参考書;内藤正中・朴炳渉『竹島=独島論争』新幹社、2007
(半月城通信)
http://www.han.org/a/half-moon/
これは メッセージ 16105 (ban_wol_seong さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/16106.html
竹島=独島は固有領土か、強奪領土か4
投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2008/01/07 22:16 投稿番号: [16105 / 18519]
明治時代の「竹島外一島」版図外確認
かつて奈良時代に全国の風土記が作成されましたが、それに匹敵する本格的な地理誌が明治初年に発刊されました。刊行は、明治時代の国家最高機関である太政官に付属した正院地誌課およびそれを引き継いだ内務省地理局によってなされました。その『日本地誌提要』は、竹島・松島を「隠岐」条にてこう記しました。
○本州の属島。知夫郡45。海士郡16。周吉郡75。穩地郡43。合計179。これを総称して隠岐の小島という。
○また、西北にあたり松島・竹島の2島がある。土俗が伝えている。穩地郡の福浦港から松島に至る。海路はおよそ69里35町(275km)。竹島に至る。海路およそ100里4町(393km)。朝鮮に至る海路およそ136里30町(537.3km)。
このように官撰地誌において竹島・松島が本州の属島外とされましたが、これは重要です。明治政府が両島を日本の領土外と断定したことを意味します。明治時代の地理学者である田中阿歌麻呂もそのように理解して『地学雑誌』200号にこう記しました。
「明治初年に到り、正院地誌課にてその島(竹島=独島)が本邦の領有を完全に非認したので、その後の出版された多くの地図はその所在を示さないようである。明治八年 文部省出版 宮本三平氏の日本帝国全図にはこれを載せても、帝国の領土外に置き塗色せず」
明治政府は、竹島・松島を日本の領土外とする方針をその後も一貫して堅持しました。その一例として明治政府の地籍編纂事業をあげることができます。明治10(1877)年、竹島(欝陵島)の地籍が問題になった時に内務省は元禄期の「竹島一件」を考慮し、竹島外一島を日本の領土外と判断しました。
ここにいう「外一島」が松島(竹島=独島)をさすことは、島根県からの伺書「日本海内 竹島外一島 地籍編纂方伺」に添付された資料から明白です。そこにこう記されました。
次に一島あり。松島と呼ぶ。周囲30町(3.3km)である。竹島と同じ船路にある。隠岐をへだてる80里(320km)ばかりである。樹木や竹は稀である。また、魚や獣(アシカか)を産する。
また、島根県からの伺い書に「磯竹島略図」が添付されましたが、そこに描かれた松島を見ても同島が竹島=独島を指すのは明らかです。内務省は「領土の取捨は国家の重大事」との認識から念のために太政官の裁可を仰ぐべく「日本海内 竹島外一島 地籍編纂方伺」を太政官へ提出しました。これは難なく承認され、竹島・松島を日本の領土外とする太政官の指令が出されました。
この決定にしたがい、国土担当機関である内務省を始め、政府機関は地図において竹島=独島を日本の領土外として扱いました。それらの一覧は下記の通りです。
1.内務省(1879)、「大日本府縣管轄圖」、竹島・松島なし
2.内務省(1880)、「大日本國全圖」、
竹島・松島なし
3.内務省(1881)、『大日本府縣分轄圖』、各府県図に竹島・松島なし
(極東図の「大日本全国略図」改訂版で竹島・松島は無彩色)
4.陸軍参謀局(1877)、「大日本全圖」、竹島・松島なし。
5.陸軍陸地測量部(1885)、「輯製二十万分一圖一覧表」、松島はなし。竹島は島名がなく、点線表示。
6.文部省(1877)、「日本帝國全圖」、竹島・松島は無彩色
これらの地図で竹島=独島はまったく記載されないか、あるいは描かれても日本領外として無彩色にされました。この認識は海軍でも同様でした。水路部は竹島=独島を『日本水路誌』には載せず、『朝鮮水路誌』にリアンコールト列岩の名で記載しました。
また、外務省の認識も同様で、明治初年の『朝鮮国 交際始末 内探書』において「竹島松島 朝鮮付属に相成候 始末」とする報告書を作成しました。このように明治政府のすべての機関が、竹島=独島を朝鮮領と考えていたといっても過言ではありません。このような事実に対して、外務省は一切沈黙したままです。これは一種の情報隠しといえます。
(つづく)
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半月城氏は韓国政府の公務員2
投稿者: yabutarou01 投稿日時: 2008/01/07 22:00 投稿番号: [16104 / 18519]
続きです。
5.出張内容
□日本の ‘竹島の日’ 行事参観及び調査
○日本島根県の竹島の日 2周年行事に参加,現況を把握する
○行事日程及び内容
1)13:00 - 14:00 記念式
-プロモーターあいさつの言葉,染みて支社あいさつの言葉,旧ライTsuyoshi県民回の議長あいさつの言葉, 訴えだShigeo県議代表あいさつの言葉,Aokiシゲで来賓あいさつ,
-国会議員あいさつ
-監事長贈呈: タムラセイザブで,富士だシゲマサ,モリスがズオなど竹島関連資料寄贈者 5人に監事長贈呈式
-これらは皆竹島が日本領土なのを再確認して,漁業問題との深い連関性を言って独島問題が解決されればこそ漁民の生活が保障されるという点を力説する
2)14:00 - 15:30 竹島ブックバングヤングトバンファンヨグウンドングヒョンミンフェの
○領土問題を思うフォーラム
<講演 1: 佐 昌盛(防衛大学名誉教授): “今,北方領土返還要求運動に必要なこと”>
-島国である日本とイギリスは国家,民族概念がそれぞれ違う.
-日本は ‘尊厳’ 感覚がない.
-韓国が日の丸を焼くことはそれが国家のシンボルだからだ.
-領土を軽視する民族は歴史的に尊敬されることができない.
-竹島問題のためにも北方領土問題が解決されなければならない.しかしこれら問題の解決には時間が必要なので苛立たしがってはいけない.
-10年以上の時間がかかるかも知れないが学校教育で理解させることが重要だ.
-拉致家族問題も受賞官邸で動くまでは相当な時間がかかった.
<講演 2: 黒田勝弘(産経新聞ソウル支局長): “韓国はなぜ,竹島/独島に沸き返えるか”
-どうして島根地域に ‘竹島の日’を知らせる垂れ幕一つがかからなくてあるか?
-韓国の反日キャンペーン, 愛国株の鼓吹に比べれば日本はとても静かだ.
-日本で竹島問題は国家的問題ではなく地域の問題だ.
-国会議員もこの地域出身だけ参加しなかったのか.
-世論調査が 70パーセントを越したと言うが韓国は 100パーセントだ.
-韓国は日本大使の発言を妄言で見ている.外交的に率直に言えなくするのが韓国の雰囲気だ.
-最近韓国のメディアはもっと梗塞されている.
-韓国のこのような誇張された愛国株の,民族主義は高まった国力を誇示しようとする自己中心主義的行動だ.
-過去には反共が国論を統一させたが最近北朝鮮の脅威が消えながら国論統一のために独島問題を利用するきらいがある.
-今年韓国の静かな態度は日本を刺激しないという計算である.
-朝日新聞は韓国に譲り渡し発言以後攻撃を受けると態度が変化した
-見込み: 茂朱誌を近代国際法的に告示したことに対して異意をつける韓国は法的な概念がないのだ.韓国が前後に不法的に占有したのだ.
-I.C.J.提訴件: 韓国が勝てば問題にならないが日本が勝てば韓国はよらないことが明らかだ.
3)15:30- 17:00 竹島問題研区会報告
○ブズァザング 杉原隆 “海東地図に見える于山島鬱陵島 - 鬱陵島調査報告を中心に-”
-川上健三が鬱陵島で独島が見えないと言った事実は間違いなのが今度鬱陵島現地の調査で判明された.
-隠岐島でも北風が強い日には山で竹島が見える.
-イカ乾かし方を日本が伝授してくれた.
-1910年頃には 200人以上のOki人が鬱陵島に渡って漁撈活動をした.
○座長 下條正男の報告 “2年間の研究活動と以後の見込みに対して”
-韓国が普通国家になったら良いだろう.
-竹島問題が解決されなければ中間水域問題によって日本は魚も食べることができない状況になる.
-鳥取県ウィフェでも政府に意見書を提出して問題の深刻性を認識している.
-外務省ホームページ内容が ‘竹島の日’ 条例制定以後変わり始めたのだ.
-韓国のこんな動きで利益を見ることはロシアだ.
-韓国は根拠がなしに主張する国だ.根拠があると言ったらそれは国宝級になるでしょう.
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半月城氏は韓国政府の公務員1
投稿者: yabutarou01 投稿日時: 2008/01/07 21:56 投稿番号: [16103 / 18519]
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竹島=独島は固有領土か、強奪領土か3
投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2008/01/07 21:52 投稿番号: [16102 / 18519]
朝鮮王朝の竹島=独島領有意識
朝鮮では古くから朝鮮の東海に二島あることが知られていました。二島とは欝陵島と于山島ですが、欝陵島は時には武陵島、蔚陵島など様々な名前で呼ばれました。両島は15世紀の官撰地理誌である『世宗実録』地理志にこう記されました。
于山と武陵の二島が県の真東の海中にある。お互いに遠くなく、風日が清明であれば望見することができる。新羅の時に于山国と称した。一説に欝陵島と云う。その地の大きさは百里という。
欝陵島近辺には無数の岩や島がありますが、天候が清明の時にだけ望見できる島は竹島=独島しかありません。したがって、この文章における于山島は竹島=独島とみることができますが、その位置や大きさなどは記載されませんでした。
さらに、当時の欝陵島には倭寇などを避けるために空島政策がしかれ、渡海が禁じられていました。そのため、于山島の認識はあいまいで、いわば書物の上だけの観念的な存在でした。
ところが、1696年に一大転機が訪れました。韓国で英雄とされる漁民の安龍福が鳥取藩へやって来ました。かれは、3年前に欝陵島で日本の大谷船により拉致されたことがありましたが、今度はみずから来日しました。その目的は鳥取藩への訴訟であり、朝鮮の官吏を装って、船に「朝欝両島 監税将 臣 安同知騎」と書いた旗を立ててやって来ました。
旗の意味を日本では「朝鮮の欝陵、子山両島の監税将、臣、安同知が乗務」と解されました。子山は于山島であり、同知は職名です。この時の安龍福は訴訟のために「朝鮮八道の図」まで用意しました。その地図で欝陵島と子山島が朝鮮の江原道に属するとされました。
しかも欝陵島は日本でいう竹島、子山島は松島であり、両島は朝鮮領であるとされました。この事件は、鳥取藩のみならず、幕府や対馬藩に衝撃を与えました。紆余曲折の末、対馬藩は当初の主張とは逆に日本人の渡海禁止を朝鮮へ伝達して「竹島一件」交渉を終結させました。
この安龍福の第2次渡日事件により、朝鮮の官撰史書である『東国文献備考』や『萬機要覧』などに「欝陵、于山は皆于山国の地、于山はすなわち倭がいうところの松島なり」と記されるようになり、于山島に対する領有意識が確立しました。
しかし、離島に対する空島政策がその後も継続されたため、于山島の存在は次第にあやふやになり、1900年の勅令41号では于山島の名が消え、竹島=独島は石島とされました。その詳細は文末の参考書に譲ることにします。
(つづく)
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竹島=独島は固有領土か、強奪領土か2
投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2008/01/07 21:47 投稿番号: [16101 / 18519]
日本が竹島や松島をいかによく知っていようとも、それだけでその地が日本領になるわけではありません。また、その地で頻繁に漁労や竹木の伐採等を行なうことは、もしその地が外国領であれば、その行為は密漁ないしは略奪行為であり、許されるものではありません。欝陵島がその典型例でした。
1620年、江戸幕府は対馬藩に命じて、竹島(欝陵島)で密貿易を行なっていた弥左衛門・仁右衛門親子を「潜商」の罪で捕えました。そのことが幕府の外交資料集である『通航一覧』に記されましたが、その記事において欝陵島は「竹島、朝鮮国属島」と記述されました。幕府は竹島を明確に朝鮮領と認識していたのでした。
それにもかかわらず、幕府は「潜商事件」の5年後、外務省が説明するように、竹島への渡海免許を鳥取藩の大谷・村川両家に与えました。幕府に竹島奪取の意図があったのかどうか疑われるところです。このように幕府や対馬藩が朝鮮領と考えていた竹島へ大谷・村川両家が出漁したのですから、朝鮮漁民との「遭遇」は必然でした。
元禄期の1693年、二度目の遭遇を契機に、幕府は朝鮮との通商をまかせていた対馬藩に対し、竹島へ朝鮮人が渡海しないように朝鮮へ要求する交渉を命じました。外務省のホームページに述べられた「竹島一件」の始まりですが、これは無理難題でした。朝鮮領である欝陵島へ朝鮮人の渡海を禁じるという途方もない要求だっただけに、朝鮮が受けいれるはずがありません。交渉はたちまち暗礁に乗りあげました。
その時になって、幕府はやっと竹島問題を本格的に調査し始めました。まず、鳥取藩へ7か条の問い合わせをおこないました。その第1条を意訳すると「因州、伯州に付属する竹島はいつのころから両国の付属か?」となります。当時の幕府は、竹島が因伯両国を支配する鳥取藩の所属と思いこんでいたようです。
しかるに、鳥取藩の回答は「竹島は因幡、伯耆の付属ではありません」として自藩領ではないことを明言しました。そもそも、竹島への渡海許可は鳥取藩主によるものではなく、幕府の老中4人が連署した奉書によってなされたので、鳥取藩の回答は当然でした。
幕府は、他に竹島の大きさや渡海の実情などを尋ねましたが、注目されるのは第7条の「竹島の他に両国へ付属の島はあるか?」との質問です。これに対する鳥取藩の回答は「竹島や松島、その他、両国に付属する島はありません」として、松島(竹島=独島)も鳥取藩の付属でないことを明言しました。実はこの時、幕府は松島の存在を知らなかったのでした。幕府は回答書に松島の名が登場したことに関心を示し、追加質問をおこなったくらいでした。
外務省のホームページは、欝陵島への渡航禁止後も松島への「渡航は禁じませんでした」と記しましたが、これは明らかに我田引水です。竹島が鳥取藩所属でない、ひいては日本領でないという理由で同島への渡海を禁止したのですから、同じく鳥取藩所属でない松島もひいては日本領ではないので、渡海が当然禁止されたとみるべきです。
さらに当時、松島は竹島と一対ないしは竹島の付属島と考えられており、史料に「竹島近辺松島」「竹島の内松島」などと記されました。そもそも、松島はその名前に反して松の木はおろか、木が1本も生えていない岩の島でした。それにもかかわらず松島と呼ばれたのは、竹島と対をなすという考えから自然に名づけられました。そのため、多くの「地図や文献」で両島は一対に扱われました。しかし、公的な地図や文献で両島が日本領として記載されたことは一度たりともありませんでした。
地図でいえば、外務省は沈黙していますが、江戸時代に発行された唯一の官撰地図「官版 実測日本地図」に竹島・松島は記述されませんでした。この地図は伊能忠敬の地図を元に作られたのですが、伊能図にも竹島・松島はありません。官撰地図や官撰絵図からも江戸幕府は竹島=独島を日本領と認識していなかったことがわかります。
(つづく)
これは メッセージ 16100 (ban_wol_seong さん)への返信です.
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竹島=独島は固有領土か、強奪領土か1
投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2008/01/07 21:45 投稿番号: [16100 / 18519]
半月城です。雑誌『もう一つの世界』第12号から転載します。
竹島=独島は固有領土か、強奪領土か
はじめに
竹島=独島問題は日韓間に突きささったトゲのようなもので、事あるごとに両国の民族心を刺激し、過去にはそれが高じて銃撃戦にまで発展したこともありました。一昨年も竹島=独島周辺の調査船問題がこじれて、一時は日韓両国の警備艇同士が衝突する事態も懸念されたほどでした。
もともと竹島=独島問題の根は深く、日韓両国が正反対の見解で角突き合わせているだけに、今後も同じような騒動が繰り返される恐れがあります。昨年も韓国の盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領は対日政策に関する異例の特別談話を発表し、竹島=独島問題は「日本が朝鮮半島の侵略で最初に奪い去った歴史の土地だ」と述べ、激しく日本を非難しました。
これに対する日本政府も一歩も後へ引かないようです。その核になっているのは、半世紀以上も外務省が言いつづけてきた「竹島は日本の固有領土」という主張です。このように日韓両国は竹島=独島の歴史を根拠に強硬な主張を繰り返していますが、その割には竹島=独島の歴史が、特に日本ではよく知られていないのが現状です。そこで、この稿では主に歴史に重点をおき、江戸時代から明治時代を概観することにします。
江戸時代の竹島=独島領有意識
日本政府が竹島=独島を日本の固有領土とする根拠は時代とともに変化してきたのですが、その詳細は省き、最近の主張を同省のホームページにみることにします。竹島=独島を固有領土とする根拠として下記の3項目を掲げました。
(1)竹島の認知
今日の竹島は、我が国では明治時代の初め頃までは「松島」の名前で呼ばれており、当時「竹島」(または「磯竹島」)と呼ばれていたのは、現在の鬱陵島のことでした。しかし、我が国が、古くから「竹島」や「松島」をよく認知していたことは、多くの文献や地図等により明白です。
(2)竹島の領有
我が国は、遅くとも江戸時代初期にあたる17世紀半ばには、竹島の領有権を確立していたと考えられます。この当時、鳥取藩米子の大谷・村川両家は、鬱陵島への渡海を幕府から公認され、交互に毎年1回、同島に渡海して漁労や竹木の伐採等を行うとともに、これによって得られた鮑(あわび)を幕府に献上してきました。この間、今日の竹島は、鬱陵島への渡海の船がかりの地として、また、漁採地として利用されていました。
(3)鬱陵島への渡海禁止
大谷・村川両家による鬱陵島の開発は約70年間平穏に続けられていました。しかし、1692年に村川家が、また、1693年に大谷家が鬱陵島に出向くと、多数の朝鮮人が鬱陵島において漁採に従事しているのに遭遇しました。これを契機に、日本と朝鮮の政府間で鬱陵島の領有権を巡る交渉が開始されましたが、最終的に幕府は、1696年1月、鬱陵島への渡海を禁止することとしました(いわゆる「竹島一件」)。ただし、竹島への渡航は禁じませんでした。
(つづく)
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毛玉大先生(朝鮮人)吼える!
投稿者: jalopy2005 投稿日時: 2008/01/06 22:03 投稿番号: [16098 / 18519]
わしは南朝鮮生まれ育ちの朝鮮人である。
ここでの名前は毛玉である。
わしは、竹島問題に関して、それにまつわる古い文献を読んだりの深い知識は全然もっておらんのだが、
一言いわしてもらおうやないけ。
もうええ加減にせえよ、おまえら!(毛玉先生、早くもキレちゃった)
わし、わりと最近まで、竹島問題に関してはあんまり関心がなかったし、99.999%の韓国人と同じように韓国側の主張が正しいのかなと思ってた。
それが、外務省のHPの説明を読んで、初めて韓国側のこの問題についての認識というより姿勢に問題アリやなと考えるようになった。
単純にいえば、イルボン側の主張は論理的なのに対し、ウリナラの主張は感情丸出しの強引なこじつけ、ウソ、詭弁ではないか。
「正論」2月号の記事を読んだ(立ち読みだけど)。
半月城氏など、日韓の「独島はウリタン(我が領土)倶楽部」の先生方が東大でシンポジウムをやったとか。
ほんで、記事の筆者が肝心なところについてパネラーの一人に質問したら、全然返事が返ってこなかったそうじゃないか。
竹島問題をわかり易くいおう。要するに韓国側の主張は、拉致問題は解決済みだとかいって逆ギレしてる北朝鮮の態度に似てるといえようーまあ、ほとんどの一般国民は政府やメディアのウソに騙されているわけだが。それだけ次元の低い話なんよ。
南朝鮮のそのようなモーラルのなさは置いといて、何よりも嘆かわしいというか情けないのは、半月城とやらの在日知識人の姿勢である。
本来なら、祖国の人々のそういった間違った認識や態度を叱り、正しい方向に導かなけりゃならん立場なはずやのに、
なんで南朝鮮政府の提灯持ちをやっとんねん。生計を立てていくためか。
半月城とやらのおっさんよ。
わしが、このイルボンに長年住んでおって、祖国に一対して一番望んでるのは「品格」やねん。
邪魔せんといてや。
これは メッセージ 1 (ritiarno さん)への返信です.
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何やってんだ日本! 『大日本国全図』
投稿者: senkaku_islands 投稿日時: 2008/01/06 21:27 投稿番号: [16097 / 18519]
これは メッセージ 16095 (senkaku_islands さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/16097.html
Re: 半月城さんへ
投稿者: puracyaka2007 投稿日時: 2008/01/06 20:50 投稿番号: [16096 / 18519]
久しぶりに投稿します。
***********************************
話は変わりますが半月城さんは自著『竹島=独島論争』のなかで『東国文献備考』の「輿地志がいうには 鬱陵 于山は皆 于山国の地 于山はすなわち倭がいうところの松島なり」の解釈について、
たとえ下條説の史書改ざん説を認めたとしても、朝鮮の于山島=松島に対する領有意識はその時期が単に1770年にずれるのみで大勢に影響はありません。
竹島=独島問題、櫻井よしこ氏を批判する(1)
http://www.han.org/a/half-moon/hm110.html#No.805とお書きになっています。半月城さんもよくご存知のように、最近になって輿地志には「于山はすなわち倭がいうところの松島なり」の記述が存在しないことが判明しました。
[2007年10月2日]
『諸君!』2007年9月号(文藝春秋刊)記事
「日本の領土『竹島』の歴史を改竄せし者たちよ」 下條正男
(PDF 1.16MB)
http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima04/takeshima04-1/ということは半月城さんは少なくとも1770年より前に完成した地図や地誌その他の記録にある于山島は竹島=独島ではないと論説を修正されたと解釈してもよろしいですよね?
半月城さんは竹島問題に関しては自他共に認めるオピニオンリーダーであり、私は半月城さんは民団における竹島問題関連の最高責任者ではないかと考えています。論説を修正されるのであれば説明責任を果たしていただきたいと思います。(15994より抜粋)
***********************************
いまだに回答ありませんね。
これは メッセージ 15994 (yabutarou01 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/16096.html
Re: 『三国史記』 『大日本史』
投稿者: senkaku_islands 投稿日時: 2008/01/06 13:56 投稿番号: [16095 / 18519]
>『三国史記』の口語訳において、文の末尾の「国人恐懼則降」の訳が書きもれのようです。
chaamieyさん、ご指摘頂き、ありがとう御座います。早速修正致しました。chaamieyさんも麻生さんを応援して下さい。言い遅れましたが、今週の竹島掲示板エンディングテーマを掲載します。
next, coming up
『日本外交文書』 18巻 534-5、573-6
『日本外交文書』 23巻 531、532、574-5
『日本水路史』海上保安庁S46
160-161
『朝鮮半島図』陸地測量部刊(S19)
『陸軍省 大日記』
シリーズ「竹島の車窓から」米子編〜北九州編まで
新春から始まる「新シリーズ・韓国直送資料」
『皇城新聞』1900年9月23日
『皇城新聞』1906年5月9日
『大東新報』 1905年9月
『大韓毎日申報』 1905年9月22日
『大韓毎日申報』 1906年5月1日
今週の竹島掲示板エンディングテーマ
「"とてつもない日本"解放への戦火/麻生太郎」
http://jp.youtube.com/watch?v=yE6DSTDA0vY&feature=related
これは メッセージ 16094 (senkaku_islands さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/16095.html
『新増東国輿地勝覧』 『増補文献備考』
投稿者: senkaku_islands 投稿日時: 2008/01/06 13:44 投稿番号: [16094 / 18519]
これは メッセージ 16091 (senkaku_islands さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/16094.html
Re: 『三国史記』 『大日本史』
投稿者: chaamiey 投稿日時: 2008/01/06 06:59 投稿番号: [16092 / 18519]
継続的な資料収集の御努力に敬意を表します。
ところで、『三国史記』の口語訳において、文の末尾の「国人恐懼則降」の訳が書きもれのようです。
これは メッセージ 16091 (senkaku_islands さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/16092.html
『三国史記』 『大日本史』
投稿者: senkaku_islands 投稿日時: 2008/01/06 00:03 投稿番号: [16091 / 18519]
これは メッセージ 16090 (senkaku_islands さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/16091.html
迎春 『世宗実録地理志』 『通航一覧』
投稿者: senkaku_islands 投稿日時: 2008/01/05 01:54 投稿番号: [16090 / 18519]
これは メッセージ 16067 (senkaku_islands さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/16090.html
Re: 「壬辰の乱」の俘虜と『西渓雑録』
投稿者: yabutarou01 投稿日時: 2008/01/04 05:39 投稿番号: [16089 / 18519]
続きです。
金正浩の大東地志に「鬱陵島在本縣正東海中
(中略)
自本縣天晴而登高望見則如雲氣」
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2007/11/1863-description-of-ulleungdo-from-kim.h
tml
とあるのは、それまでの世宗実録地理志の「于山武陵二島在県正東海中二島相去不遠風日清明則可望見」・『西渓雑録』の「盖二島去此不甚遠一ハン風可至于山島勢卑不因海氣極芿朗不登最高頂則不可見」をより具体的かつ正確に描写したものではないでしょうか。
大東地志に「本(蔚珍) 県より高い所に登って望見する」とあるのをみれば『西渓雑録』の「登最高頂」も朝鮮半島から高い所に登ったということですよね。
半月城さんも
かれ(金正浩)は『世宗実録』地理志や『東国輿地勝覧』など地理志の伝統を受けついだことだけはたしかで、そうした趣旨がかれの著書『大東地誌』『輿國備志』『東輿圖地誌』などにうかがえます。
朝鮮の近代地図「大東輿地図」
http://www.han.org/a/half-moon/hm093.htmlとお書きになっています。半月城さんは官撰ではない『西渓雑録』を持ち出していらっしゃいますから、私が官撰ではない地誌や地図を持ち出しても構いませんよね。
『西溪雑録』「欝陵島」の柳博士のいう第4部には『蔚陵島事蹟』に載っている内容とほぼ同じ張漢相が鬱陵島を検察した際の報告が載せられています。これによると張漢相は鬱陵島で二つの望見しました。
「東方五里許 有一小島 不甚高大 海長竹叢生於一面 霽〓捲之日 入山登中峯 則南北両峯 岌崇相面 此謂三峯也 西望大関嶺透〓之状 東望海中有一島 杳在辰方 而其大未満蔚島三分之一 不過三百余里」
そのうちの一つ「東方五里許 有一小島 不甚高大 海長竹叢生」とあるのは鬱陵島の北東にある竹の生えている島竹嶼だと考えられます。もう一つ「東望海中有一島 杳在辰方」「東側に海を望んだところ、東南方向に島がひとつかすかにあるが・・・」とあるのは方角から考えて竹島(独島)だと思われます。もし『西溪雑録』「欝陵島」の「于山島勢卑不因海氣極芿朗不登最高頂則不可見」の于山島が竹島(独島)を指していて当時朝鮮半島で于山島は竹島(独島)であると考えられていたとすれば朝鮮の朝廷は「東望海中有一島 杳在辰方」とある島を于山島と考えていたはずです。
しかし1711年に鬱陵島を検察した朴錫昌が描いた鬱陵島図形には北東方向に「海長竹田所謂于山島」と書かれた島があります。竹島(独島)には竹が生えていませんし同じ「海長竹」という表現が使われているわけですからこの島は「東方五里許」にある「小島」である竹嶼であるはずです。もし当時朝鮮半島で于山島は竹島(独島)であると考えられていたのであれば朴錫昌が竹嶼に「海長竹田所謂于山島」と書き込むはずがないのではないでしょうか。
使いまわしですいません。。。
これは メッセージ 16088 (yabutarou01 さん)への返信です.
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Re: 「壬辰の乱」の俘虜と『西渓雑録』
投稿者: yabutarou01 投稿日時: 2008/01/04 05:29 投稿番号: [16088 / 18519]
半月城さんへ
>>しかも、それまでの「于山と欝陵はお互いに遠くなく、天候が清明なら望見される」とされる程度であった認識がより具体的になり、「于山島は地勢が低く、くっきり晴れた日に高い所に登らなければ見えない」と明確にされ、描写がより具体的になったことです。そのような島は竹島=独島しかあり得ません。
半月城さんは長々と文章をお書きになりましたが私と下條氏が提示した疑問に全くお答えになっていません。半月城さんは建設的な議論をするお気持ちがあるのでしょうか。最近2ちゃんねるにあれこれ書き込んでいらっしゃるようですが、疑問にちゃんとお答えにならないと半月城さんの意図とは逆の結果になってしまいますよ。。
そんなわけで半月城さんには改めて質問にお答えいただきたいと思います。
「云盖二島去此不甚遠一ハン風可至于山島勢卑不因海氣極芿朗不登最高頂則不可見鬱陵稍峻風浪息則尋常可見」
私はこの文が朝鮮半島から二島(于山と欝陵)が見えると判断した根拠として文章の構造上の問題を根拠に挙げましたが、半月城さんは「去此」の「此」が何を指しているとお考えですか。もし「此」が鬱陵島を指すのであれば、
「鬱陵島と于山島は鬱陵島からそれほど遠くなく于山島は鬱陵島から見えて鬱陵島は鬱陵島から見える。」
という意味になってしまいます。これでは支離滅裂ですよ。。
「中宗実録」
中宗 六年(1511年) 5月 21日の項に
「謂臣曰, 寧海居軍官朴自範云, 江原道武陵島, 與此相望, 夜有火光, 疑是倭船隱接, 或我國逋亡人潛寓。」
とあるのを見れば「去此」の「此」が朝鮮半島(寧海) を指していて世宗実録地理志の「于山武陵二島在県正東海中二島相去不遠風日清明則可望見」の「相去不遠」は「于山と欝陵はお互いに遠くなく」ではなく「(蔚珍) 県と于山欝陵二島はお互いに遠くなく」であって、朝鮮半島から鬱陵島が見えると理解すべきではないでしょうか。
これは メッセージ 16083 (ban_wol_seong さん)への返信です.
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Re: 「壬辰の乱」の俘虜と『西渓雑録』3
投稿者: husenoyaji 投稿日時: 2008/01/03 23:23 投稿番号: [16087 / 18519]
>しかも、それまでの「于山と欝陵はお互いに遠くなく、天候が清明なら望見される」とされる程度であった認識がより具体的になり
そんな認識はありません。
相去るは半島からの話しであるのがフォーマットですから、此処を去ることと
入れなくても二島が半島から遠くないと読むのが基本です。
この掲示板でその話しは出てますよ。
仮に二島間の関係なら、渚や木が見えるということが決定的に矛盾します。
100mしか離れて無くても、天気が雨なら見えません。
すでに何度も出たことですが、rom専の方のために書いておきます。
すくなくともそれらの記述を読んだ当時の人間の解釈は地図の位置です。
これは メッセージ 16086 (ban_wol_seong さん)への返信です.
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「壬辰の乱」の俘虜と『西渓雑録』3
投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2008/01/03 22:10 投稿番号: [16086 / 18519]
両書の前後関係はともかく、ここで重要なのは「欝陵島」の記述が性質も時代も違う二書に記述されたことです。これは取りも直さず、その話が17世紀半ば以降は広く知れわたっていたことを意味します。
しかも、それまでの「于山と欝陵はお互いに遠くなく、天候が清明なら望見される」とされる程度であった認識がより具体的になり、「于山島は地勢が低く、くっきり晴れた日に高い所に登らなければ見えない」と明確にされ、描写がより具体的になったことです。そのような島は竹島=独島しかあり得ません。
(注1)半月城通信<東郷・元外相は朝鮮出身?>
http://www.han.org/a/half-moon/hm064.html#No.412(注2)中村栄孝『日鮮関係史の研究』下、吉川弘文館、1969、P456
(注3)韓国「王室図書館蔵書閣デジタルアーカイブ」の「臥遊録解題」によれば、『臥遊録』は2種類が知られており、「欝陵島」が記載されている蔵書閣の『臥遊録』は17世紀半ばまでの史料のみが掲載されているとのこと。
http://yoksa.aks.ac.kr/jsp/aa/HajeView.jsp?aa10up=kh2_je_a_vsu_24513_0
00&keywords=%E8%87%A5%E9%81%8A%E9%8C%84%20AA50(注4)朴世堂(1629―1703、仁祖7―粛宗29)の経歴(Yahoo! Korea辞書による)
朝鮮中期の学者、文臣。字は季肯、号は西渓。本貫は播南。1660(顕宗1)年、増広文科に首席で及第し、成均館典籍に叙授された後、兵曹正言などを経て、1664年に副修撰、黄海道の暗行御使になった。1667年に修撰、翌年に吏曹佐郎になったが、就任せずに杖刑を受けた後、同年に冬至使書状官として清を往復した。
その後、礼曹、刑曹の参議を勤め、1694(粛宗20)年の甲戌喚局以後に少論が重用されるや、承旨に特進し、翌年、工曹判書を経て吏曹判書を勤めた。1703年に判中樞府事として耆老所に入ったが、『思辨録』を書いて朱子学を批判し、独自の見解を発表したため、斯文乱賊の烙印を押されて官職を剥奪され、配流途中に玉果で死ぬ。
・ ・・・
実学派の先駆的人物として、彼の思想と学問は批判的な観点から出発したが、自主意識が強く、自由奔放な独創性を帯びている。
(半月城通信)
http://www.han.org/a/half-moon/(追記)(1)に下記の「
」を追加します。
その中に『西渓雑録』に登場する僧がいた可能性は充分に考えられます。「その僧が欝陵島へ行ったとする丙午年は、僧の年令から考えて 1606年と思われます。」
また、前回の書き込みで「購読」は「講読」の間違いでした。また「韓文」は間違いではないので、念のため。
これは メッセージ 16084 (ban_wol_seong さん)への返信です.
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Re: 半島から鬱陵島の2つの頂が
投稿者: henchin_pokoider01 投稿日時: 2008/01/03 22:08 投稿番号: [16085 / 18519]
なるほど、将に三峰島ですね。
真ん中の峰と右の峰で2つの島に見える以外に、
一番低い左端の峰が一つ、真ん中と一番右の二峰があわせて一つ、
その間の谷が水平線に隠れるという可能性もありますね。
う〜。半島から見た写真がほしい。
これは メッセージ 16082 (chaamiey さん)への返信です.
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「壬辰の乱」の俘虜と『西渓雑録』2
投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2008/01/03 21:50 投稿番号: [16084 / 18519]
弥左衛門は歳役を納めていたので、やはり竹島(欝陵島)で公認の事業をしていたようです。しかも、かれは公儀から御朱印をもらっていたようで、中村栄孝は「柚谷記に曰、磯竹島は、昔、鷺坂弥左衛門父子、渡此島 陰(ママ)居、自公儀以御朱印」と紹介しました(注2)。
磯竹島に倭人が入り込んでいたことは朝鮮史書『芝峰類説』にもあり、「壬辰變後 人有往見者 亦被倭焚掠 無復人煙 近聞倭奴占據 礒竹島 或謂礒竹 即蔚陵島也」と記されました。すなわち、壬辰の変以後、倭人が礒竹島(蔚陵島)を占拠したとされました。これは弥左衛門親子の居住をさすものと思われます。
そうした実績に立ち、対馬は欝陵島を自国領にすべく、1614年、朝鮮に対して竹島(欝陵島)は日本領であると言いだしました。これを『通航一覧』は「宗對馬守 義智より朝鮮國東莱府使に書を贈りて、竹島は日本屬島なるよしを諭せしに、彼許さず、よて猶使書往復に及ぶ」と記しました。ただし、同書はこれを慶長17(1612)年のこととして書き、注で『朝鮮通交大紀』では慶長19年のこととしていると記しました。
これに対応する記事が『光海君日記』1614年9月2日条に見えるので、対馬の申し入れは慶長19年が正しいようです。朝鮮は対馬の主張をもちろん受けいれるはずはありません。東莱府使の尹守謙は「いわゆる磯竹島は、これ我国の欝陵島なり・・・・・貴国の我国に来往するは、ただ釜山一路を除くのほか、皆海賊をもって論断せり」と回答したことが『通航一覧』巻137に記されました。
以上のように、弥左衛門親子は慶長年間に豊臣秀吉や対馬国の公認のもとに竹島(欝陵島)で活動していたことは史料からも裏付けられます。したがって、その時に『西渓雑録』に登場する僧が対馬から弥左衛門親子にしたがって欝陵島へ渡航したことは充分あり得ます。僧は日本人と行動した時のことをこう語りました。
「(欝陵島で)倭人が竹を伐り、薬草を採っていた。自分が船に残り留守番をしていたところ、横の船に同じような俘虜が七人いたので、夜、一緒に語り合った。ちょうど暁どきに船を出して以来、日が申時(午後3-5時)にはもう寧海の地に着いたと云う」(韓国人研究者訳)
この伝聞によると、僧は俘虜7人とともに欝陵島から寧海へ行ったとされますが、それが可能かどうか疑わしいところです。俘虜の送還は対馬から朝鮮の東莱府へなされているので、俘虜を欝陵島経由で送ることは考えられません。ただ、俘虜たちが欝陵島から逃げて寧海へ行ったとするなら、まだ少しは可能性があるかもしれません。
いずれにせよ、僧の話には多少の脚色があるようです。ま、僧が俘虜として日本へ行った話だけは信じられるとしても、欝陵島から寧海へ行ったという話は、実は倭人に随った時のことではなく、別な機会に朝鮮から往復していたのかも知れません。
そこで思い当たるのは、弥左衛門親子が「潜商」であった事実です。彼らは欝陵島で単に木の伐採だけを行なっていたのではなく、交易の途絶えた朝鮮とは欝陵島を中継地点にして密貿易をおこなっていたのではないかと想像されます。
ところで、話はかわりますが、下條正男氏は「朴世堂は、『東国輿地勝覧』の記事を基に僧侶からの旧聞を加え、八百字程で「欝陵島」を作文したのである」としていますが、朴世堂が僧から直接話を聞いたかどうかは疑問です。
ここで注意すべきは、すでに紹介されているように『西渓雑録』の「欝陵島」は同書だけでなく『臥遊録』にも登場することです。時期的にはどうやら『臥遊録』のほうが古いようです。韓国蔵書閣の『臥遊録』は17世紀半ばまでの記事を扱っており、その中に「欝陵島」が記載されているので、その頃に「欝陵島」の話は完成していたと見られます(注3)。
それに対し、朴世堂『西渓雑録』は「欝陵島」以外に張漢相「蔚陵島事蹟」も載せているので、同書の成立は1693年以降、亡くなる 1703年以前と思われます。したがって、朴世堂が『臥遊録』の文をそっくり転載したか、あるいは両書共通の種本があったと見られます。朴世堂の経歴からすると(注4)、そのころの朴世堂は種々の情報を容易に得られる立場にあったようです。そのために「蔚陵島事蹟」の転載も可能だったと思われます。
(つづく)
これは メッセージ 16083 (ban_wol_seong さん)への返信です.
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