竹島=独島は固有領土か、強奪領土か4
投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2008/01/07 22:16 投稿番号: [16105 / 18519]
明治時代の「竹島外一島」版図外確認
かつて奈良時代に全国の風土記が作成されましたが、それに匹敵する本格的な地理誌が明治初年に発刊されました。刊行は、明治時代の国家最高機関である太政官に付属した正院地誌課およびそれを引き継いだ内務省地理局によってなされました。その『日本地誌提要』は、竹島・松島を「隠岐」条にてこう記しました。
○本州の属島。知夫郡45。海士郡16。周吉郡75。穩地郡43。合計179。これを総称して隠岐の小島という。
○また、西北にあたり松島・竹島の2島がある。土俗が伝えている。穩地郡の福浦港から松島に至る。海路はおよそ69里35町(275km)。竹島に至る。海路およそ100里4町(393km)。朝鮮に至る海路およそ136里30町(537.3km)。
このように官撰地誌において竹島・松島が本州の属島外とされましたが、これは重要です。明治政府が両島を日本の領土外と断定したことを意味します。明治時代の地理学者である田中阿歌麻呂もそのように理解して『地学雑誌』200号にこう記しました。
「明治初年に到り、正院地誌課にてその島(竹島=独島)が本邦の領有を完全に非認したので、その後の出版された多くの地図はその所在を示さないようである。明治八年 文部省出版 宮本三平氏の日本帝国全図にはこれを載せても、帝国の領土外に置き塗色せず」
明治政府は、竹島・松島を日本の領土外とする方針をその後も一貫して堅持しました。その一例として明治政府の地籍編纂事業をあげることができます。明治10(1877)年、竹島(欝陵島)の地籍が問題になった時に内務省は元禄期の「竹島一件」を考慮し、竹島外一島を日本の領土外と判断しました。
ここにいう「外一島」が松島(竹島=独島)をさすことは、島根県からの伺書「日本海内 竹島外一島 地籍編纂方伺」に添付された資料から明白です。そこにこう記されました。
次に一島あり。松島と呼ぶ。周囲30町(3.3km)である。竹島と同じ船路にある。隠岐をへだてる80里(320km)ばかりである。樹木や竹は稀である。また、魚や獣(アシカか)を産する。
また、島根県からの伺い書に「磯竹島略図」が添付されましたが、そこに描かれた松島を見ても同島が竹島=独島を指すのは明らかです。内務省は「領土の取捨は国家の重大事」との認識から念のために太政官の裁可を仰ぐべく「日本海内 竹島外一島 地籍編纂方伺」を太政官へ提出しました。これは難なく承認され、竹島・松島を日本の領土外とする太政官の指令が出されました。
この決定にしたがい、国土担当機関である内務省を始め、政府機関は地図において竹島=独島を日本の領土外として扱いました。それらの一覧は下記の通りです。
1.内務省(1879)、「大日本府縣管轄圖」、竹島・松島なし
2.内務省(1880)、「大日本國全圖」、 竹島・松島なし
3.内務省(1881)、『大日本府縣分轄圖』、各府県図に竹島・松島なし
(極東図の「大日本全国略図」改訂版で竹島・松島は無彩色)
4.陸軍参謀局(1877)、「大日本全圖」、竹島・松島なし。
5.陸軍陸地測量部(1885)、「輯製二十万分一圖一覧表」、松島はなし。竹島は島名がなく、点線表示。
6.文部省(1877)、「日本帝國全圖」、竹島・松島は無彩色
これらの地図で竹島=独島はまったく記載されないか、あるいは描かれても日本領外として無彩色にされました。この認識は海軍でも同様でした。水路部は竹島=独島を『日本水路誌』には載せず、『朝鮮水路誌』にリアンコールト列岩の名で記載しました。
また、外務省の認識も同様で、明治初年の『朝鮮国 交際始末 内探書』において「竹島松島 朝鮮付属に相成候 始末」とする報告書を作成しました。このように明治政府のすべての機関が、竹島=独島を朝鮮領と考えていたといっても過言ではありません。このような事実に対して、外務省は一切沈黙したままです。これは一種の情報隠しといえます。
(つづく)
かつて奈良時代に全国の風土記が作成されましたが、それに匹敵する本格的な地理誌が明治初年に発刊されました。刊行は、明治時代の国家最高機関である太政官に付属した正院地誌課およびそれを引き継いだ内務省地理局によってなされました。その『日本地誌提要』は、竹島・松島を「隠岐」条にてこう記しました。
○本州の属島。知夫郡45。海士郡16。周吉郡75。穩地郡43。合計179。これを総称して隠岐の小島という。
○また、西北にあたり松島・竹島の2島がある。土俗が伝えている。穩地郡の福浦港から松島に至る。海路はおよそ69里35町(275km)。竹島に至る。海路およそ100里4町(393km)。朝鮮に至る海路およそ136里30町(537.3km)。
このように官撰地誌において竹島・松島が本州の属島外とされましたが、これは重要です。明治政府が両島を日本の領土外と断定したことを意味します。明治時代の地理学者である田中阿歌麻呂もそのように理解して『地学雑誌』200号にこう記しました。
「明治初年に到り、正院地誌課にてその島(竹島=独島)が本邦の領有を完全に非認したので、その後の出版された多くの地図はその所在を示さないようである。明治八年 文部省出版 宮本三平氏の日本帝国全図にはこれを載せても、帝国の領土外に置き塗色せず」
明治政府は、竹島・松島を日本の領土外とする方針をその後も一貫して堅持しました。その一例として明治政府の地籍編纂事業をあげることができます。明治10(1877)年、竹島(欝陵島)の地籍が問題になった時に内務省は元禄期の「竹島一件」を考慮し、竹島外一島を日本の領土外と判断しました。
ここにいう「外一島」が松島(竹島=独島)をさすことは、島根県からの伺書「日本海内 竹島外一島 地籍編纂方伺」に添付された資料から明白です。そこにこう記されました。
次に一島あり。松島と呼ぶ。周囲30町(3.3km)である。竹島と同じ船路にある。隠岐をへだてる80里(320km)ばかりである。樹木や竹は稀である。また、魚や獣(アシカか)を産する。
また、島根県からの伺い書に「磯竹島略図」が添付されましたが、そこに描かれた松島を見ても同島が竹島=独島を指すのは明らかです。内務省は「領土の取捨は国家の重大事」との認識から念のために太政官の裁可を仰ぐべく「日本海内 竹島外一島 地籍編纂方伺」を太政官へ提出しました。これは難なく承認され、竹島・松島を日本の領土外とする太政官の指令が出されました。
この決定にしたがい、国土担当機関である内務省を始め、政府機関は地図において竹島=独島を日本の領土外として扱いました。それらの一覧は下記の通りです。
1.内務省(1879)、「大日本府縣管轄圖」、竹島・松島なし
2.内務省(1880)、「大日本國全圖」、 竹島・松島なし
3.内務省(1881)、『大日本府縣分轄圖』、各府県図に竹島・松島なし
(極東図の「大日本全国略図」改訂版で竹島・松島は無彩色)
4.陸軍参謀局(1877)、「大日本全圖」、竹島・松島なし。
5.陸軍陸地測量部(1885)、「輯製二十万分一圖一覧表」、松島はなし。竹島は島名がなく、点線表示。
6.文部省(1877)、「日本帝國全圖」、竹島・松島は無彩色
これらの地図で竹島=独島はまったく記載されないか、あるいは描かれても日本領外として無彩色にされました。この認識は海軍でも同様でした。水路部は竹島=独島を『日本水路誌』には載せず、『朝鮮水路誌』にリアンコールト列岩の名で記載しました。
また、外務省の認識も同様で、明治初年の『朝鮮国 交際始末 内探書』において「竹島松島 朝鮮付属に相成候 始末」とする報告書を作成しました。このように明治政府のすべての機関が、竹島=独島を朝鮮領と考えていたといっても過言ではありません。このような事実に対して、外務省は一切沈黙したままです。これは一種の情報隠しといえます。
(つづく)
これは メッセージ 16102 (ban_wol_seong さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/16105.html