竹島=独島は固有領土か、強奪領土か1
投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2008/01/07 21:45 投稿番号: [16100 / 18519]
半月城です。雑誌『もう一つの世界』第12号から転載します。
竹島=独島は固有領土か、強奪領土か
はじめに
竹島=独島問題は日韓間に突きささったトゲのようなもので、事あるごとに両国の民族心を刺激し、過去にはそれが高じて銃撃戦にまで発展したこともありました。一昨年も竹島=独島周辺の調査船問題がこじれて、一時は日韓両国の警備艇同士が衝突する事態も懸念されたほどでした。
もともと竹島=独島問題の根は深く、日韓両国が正反対の見解で角突き合わせているだけに、今後も同じような騒動が繰り返される恐れがあります。昨年も韓国の盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領は対日政策に関する異例の特別談話を発表し、竹島=独島問題は「日本が朝鮮半島の侵略で最初に奪い去った歴史の土地だ」と述べ、激しく日本を非難しました。
これに対する日本政府も一歩も後へ引かないようです。その核になっているのは、半世紀以上も外務省が言いつづけてきた「竹島は日本の固有領土」という主張です。このように日韓両国は竹島=独島の歴史を根拠に強硬な主張を繰り返していますが、その割には竹島=独島の歴史が、特に日本ではよく知られていないのが現状です。そこで、この稿では主に歴史に重点をおき、江戸時代から明治時代を概観することにします。
江戸時代の竹島=独島領有意識
日本政府が竹島=独島を日本の固有領土とする根拠は時代とともに変化してきたのですが、その詳細は省き、最近の主張を同省のホームページにみることにします。竹島=独島を固有領土とする根拠として下記の3項目を掲げました。
(1)竹島の認知
今日の竹島は、我が国では明治時代の初め頃までは「松島」の名前で呼ばれており、当時「竹島」(または「磯竹島」)と呼ばれていたのは、現在の鬱陵島のことでした。しかし、我が国が、古くから「竹島」や「松島」をよく認知していたことは、多くの文献や地図等により明白です。
(2)竹島の領有
我が国は、遅くとも江戸時代初期にあたる17世紀半ばには、竹島の領有権を確立していたと考えられます。この当時、鳥取藩米子の大谷・村川両家は、鬱陵島への渡海を幕府から公認され、交互に毎年1回、同島に渡海して漁労や竹木の伐採等を行うとともに、これによって得られた鮑(あわび)を幕府に献上してきました。この間、今日の竹島は、鬱陵島への渡海の船がかりの地として、また、漁採地として利用されていました。
(3)鬱陵島への渡海禁止
大谷・村川両家による鬱陵島の開発は約70年間平穏に続けられていました。しかし、1692年に村川家が、また、1693年に大谷家が鬱陵島に出向くと、多数の朝鮮人が鬱陵島において漁採に従事しているのに遭遇しました。これを契機に、日本と朝鮮の政府間で鬱陵島の領有権を巡る交渉が開始されましたが、最終的に幕府は、1696年1月、鬱陵島への渡海を禁止することとしました(いわゆる「竹島一件」)。ただし、竹島への渡航は禁じませんでした。
(つづく)
竹島=独島は固有領土か、強奪領土か
はじめに
竹島=独島問題は日韓間に突きささったトゲのようなもので、事あるごとに両国の民族心を刺激し、過去にはそれが高じて銃撃戦にまで発展したこともありました。一昨年も竹島=独島周辺の調査船問題がこじれて、一時は日韓両国の警備艇同士が衝突する事態も懸念されたほどでした。
もともと竹島=独島問題の根は深く、日韓両国が正反対の見解で角突き合わせているだけに、今後も同じような騒動が繰り返される恐れがあります。昨年も韓国の盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領は対日政策に関する異例の特別談話を発表し、竹島=独島問題は「日本が朝鮮半島の侵略で最初に奪い去った歴史の土地だ」と述べ、激しく日本を非難しました。
これに対する日本政府も一歩も後へ引かないようです。その核になっているのは、半世紀以上も外務省が言いつづけてきた「竹島は日本の固有領土」という主張です。このように日韓両国は竹島=独島の歴史を根拠に強硬な主張を繰り返していますが、その割には竹島=独島の歴史が、特に日本ではよく知られていないのが現状です。そこで、この稿では主に歴史に重点をおき、江戸時代から明治時代を概観することにします。
江戸時代の竹島=独島領有意識
日本政府が竹島=独島を日本の固有領土とする根拠は時代とともに変化してきたのですが、その詳細は省き、最近の主張を同省のホームページにみることにします。竹島=独島を固有領土とする根拠として下記の3項目を掲げました。
(1)竹島の認知
今日の竹島は、我が国では明治時代の初め頃までは「松島」の名前で呼ばれており、当時「竹島」(または「磯竹島」)と呼ばれていたのは、現在の鬱陵島のことでした。しかし、我が国が、古くから「竹島」や「松島」をよく認知していたことは、多くの文献や地図等により明白です。
(2)竹島の領有
我が国は、遅くとも江戸時代初期にあたる17世紀半ばには、竹島の領有権を確立していたと考えられます。この当時、鳥取藩米子の大谷・村川両家は、鬱陵島への渡海を幕府から公認され、交互に毎年1回、同島に渡海して漁労や竹木の伐採等を行うとともに、これによって得られた鮑(あわび)を幕府に献上してきました。この間、今日の竹島は、鬱陵島への渡海の船がかりの地として、また、漁採地として利用されていました。
(3)鬱陵島への渡海禁止
大谷・村川両家による鬱陵島の開発は約70年間平穏に続けられていました。しかし、1692年に村川家が、また、1693年に大谷家が鬱陵島に出向くと、多数の朝鮮人が鬱陵島において漁採に従事しているのに遭遇しました。これを契機に、日本と朝鮮の政府間で鬱陵島の領有権を巡る交渉が開始されましたが、最終的に幕府は、1696年1月、鬱陵島への渡海を禁止することとしました(いわゆる「竹島一件」)。ただし、竹島への渡航は禁じませんでした。
(つづく)
これは メッセージ 1 (ritiarno さん)への返信です.
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