答えに窮した? 内藤教授の反論
投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2008/01/09 20:11 投稿番号: [16114 / 18519]
半月城です。
江戸時代から明治初期にかけて、現在の竹島=独島は松島とよばれ、欝陵島は竹島あるいは磯竹島と呼ばれました。明治政府は「竹島外一島」すなわち竹島と松島を日本の版図外にする太政官指令を1877年にくだしました。
この「竹島外一島」をめぐって、ある専門家が刺激的な論説を書きました。島根大学の内藤正中教授はそれを見るに見かね、下記の文章をインターネットに公表してほしいとの依頼をなされました。
ある専門家とは、毎年のように自説を二転、三転させてきた拓殖大学の下條正男教授ですが、同氏は『諸君!』に「内藤氏は答えに窮した」などと事実に反することを書きました。その神経はいかがなものでしょうか。
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「竹島外一島 本邦関係無之」をめぐって
ー下條正男氏の妄論批判ー
内藤正中
『正論』2008年2月号に、下條正男氏の「韓国人研究者との出会いで痛感した『竹島問題』の不毛」なる論稿が掲載されており、そのなかで、去る11月16日に東京大学東洋文化研究所で開催されたシンポジウムにおける私の発言が批判されている。
すなわち、質疑応答で下條氏が質問し、「外務省が主張する竹島の固有領土論を批判する論拠を尋ねたが、内藤氏は回答することはできなかった」(P265)とか、「竹島他一島本邦関係これなしの竹島と外一島は、今日のどこの島をさしているのか、説明を求めたが、内藤氏は口ごもり答えることができなかった」とも記している(P271)。
そしてつづいて、「内藤氏が答えに窮したのも当然であった。当時、日本海には架空の竹島(アルゴノート島)と松島(ダジュレート島)、それに今日の竹島(リャンクールロック)があるとされ、『竹島外一島』はダジュレート島とアルゴノート島を指していたからである。内藤氏は、『竹島外一島本邦関係これなし』の字面だけを読み、文献批判を怠ったのである。「竹島は韓国領」とする東洋文化研究所の思惑は粉砕されたのである」と述べるのであった(P271)。
だがしかし、下條流のプロパガンダに惑わされないためには、事実関係の確認をしておく必要がある。
当日のシンポジウムでの私のテーマは「竹島固有領土論への疑問」であって、下條氏がいっているような「竹島固有領土論再考」ではない。そして当日会場で配布したレジュメで明らかなように、1618年の幕府による竹島渡海免許をはじめ、1696年の竹島渡海禁止、そして1905年のリヤンコ島の日本領土編入に至るまでについて、それぞれの項目についての疑問点を指摘したものであった。
したがって、当日の私の講演の趣旨を「1877年、日本の太政官が『竹島外一島本邦関係これなし』と決定した太政官指令を根拠に、日本政府は1877年に竹島を自国領でないとしたので、外務省の言う固有領土説は成立しないというものであった」と断定するのは、いかにも下條流の一面的な言いがかりといわなければならない。
(つづく)
江戸時代から明治初期にかけて、現在の竹島=独島は松島とよばれ、欝陵島は竹島あるいは磯竹島と呼ばれました。明治政府は「竹島外一島」すなわち竹島と松島を日本の版図外にする太政官指令を1877年にくだしました。
この「竹島外一島」をめぐって、ある専門家が刺激的な論説を書きました。島根大学の内藤正中教授はそれを見るに見かね、下記の文章をインターネットに公表してほしいとの依頼をなされました。
ある専門家とは、毎年のように自説を二転、三転させてきた拓殖大学の下條正男教授ですが、同氏は『諸君!』に「内藤氏は答えに窮した」などと事実に反することを書きました。その神経はいかがなものでしょうか。
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「竹島外一島 本邦関係無之」をめぐって
ー下條正男氏の妄論批判ー
内藤正中
『正論』2008年2月号に、下條正男氏の「韓国人研究者との出会いで痛感した『竹島問題』の不毛」なる論稿が掲載されており、そのなかで、去る11月16日に東京大学東洋文化研究所で開催されたシンポジウムにおける私の発言が批判されている。
すなわち、質疑応答で下條氏が質問し、「外務省が主張する竹島の固有領土論を批判する論拠を尋ねたが、内藤氏は回答することはできなかった」(P265)とか、「竹島他一島本邦関係これなしの竹島と外一島は、今日のどこの島をさしているのか、説明を求めたが、内藤氏は口ごもり答えることができなかった」とも記している(P271)。
そしてつづいて、「内藤氏が答えに窮したのも当然であった。当時、日本海には架空の竹島(アルゴノート島)と松島(ダジュレート島)、それに今日の竹島(リャンクールロック)があるとされ、『竹島外一島』はダジュレート島とアルゴノート島を指していたからである。内藤氏は、『竹島外一島本邦関係これなし』の字面だけを読み、文献批判を怠ったのである。「竹島は韓国領」とする東洋文化研究所の思惑は粉砕されたのである」と述べるのであった(P271)。
だがしかし、下條流のプロパガンダに惑わされないためには、事実関係の確認をしておく必要がある。
当日のシンポジウムでの私のテーマは「竹島固有領土論への疑問」であって、下條氏がいっているような「竹島固有領土論再考」ではない。そして当日会場で配布したレジュメで明らかなように、1618年の幕府による竹島渡海免許をはじめ、1696年の竹島渡海禁止、そして1905年のリヤンコ島の日本領土編入に至るまでについて、それぞれの項目についての疑問点を指摘したものであった。
したがって、当日の私の講演の趣旨を「1877年、日本の太政官が『竹島外一島本邦関係これなし』と決定した太政官指令を根拠に、日本政府は1877年に竹島を自国領でないとしたので、外務省の言う固有領土説は成立しないというものであった」と断定するのは、いかにも下條流の一面的な言いがかりといわなければならない。
(つづく)
これは メッセージ 1 (ritiarno さん)への返信です.
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