『輿地勝覧』本土から欝陵島を見ていない
投稿者: ararenotomo 投稿日時: 2008/01/10 22:00 投稿番号: [16124 / 18519]
ahirutousagi2さん
早速のコメントを有難うございます。
>鬱陵島の高所から眼下を見たとする解釈は自然なのでしょうか。「日初出時風恬浪靜則」とある前提は、それではあまり意味をなさないように見えますし、「衆峰サン青岩壑呈露沙汀樹木歴々可指」とも不釣合いに見えます(とくに衆峰サン青)。
『西溪雑録』と『臥遊録』の「欝陵島」冒頭の欝陵島に関する記述は、「欝陵或曰武陵亦曰羽陵登高望之三峰岌ゲフ(山の下に業)タウ(手偏に掌)空而南峰稍低 - - 沙汀樹木歴々可指」として、「登高望之」以下の文で欝陵島の自然景観を説明しています。問題は「登高望之」がどこまで係るかですが、私は最後の「沙汀樹木歴々可指」まで係ると解釈しました。
「日初出時風恬浪靜則衆峰サン(手偏に賛)青岩壑呈露」「日初めて出る時風穏かに浪静かならば則衆峰むらがり青岩壑に呈露す」は、海上から見た景観とも取れますが、壑(ガク)は「たに。山と山のあいだの、くぼんでいるところ。土地がくぼんでいるところ。『日本語大辞典』」とあります。そこで、谷底或は窪地に露呈する青岩を、海上から見るのは困難と思われるので、欝陵島の高所から見た景観としました。もちろん、「登高望之」は「- - 南峯稍低」までに係り、「日初出時 - - 沙汀樹木歴々可指」は海上から見た欝陵島の景観とみることは可能です。
>朝鮮半島からそんなのは見えるはずはない、と言うのは、理由にはならないと考えます。
朝鮮半島から欝陵島を見たとする所説は、『世宗実録地理志』の「于山武陵二島在縣正東海中二島相去不遠風日清明則可望見」「于山・武陵の二島は相去ること遠くなく風日清明ならば望み見ることができる」との解釈を否定するために、川上健三氏によって提唱されました(『竹島の歴史地理学的研究』古今書院, 1966)。
川上氏は次のように書いています:『高麗史地理志』の中にある「一云于山武陵本二島」との一節は、全体の文脈からみて、一説として二島説のあることを挿入したものであって、「相距不遠」以下の文章は欝陵島を受けており、欝陵島が本土と相距ること遠からず、風日清明の際には望見できるとの意味と解されるのである。(中略)これをさらに裏付けるのが『輿地勝覧』の記事である。同書では、『実録地理志』の「二島相去不遠」との一節のかわりに、これに該当する箇所を「三峰岌ゲフ(山の下に業)タウ(手偏に掌)空 南峯稍卑 風日清明則峯頭樹木及山根沙渚歴歴可見 風便則二日可到」という表現に改めている。これは明らかに、本土から風日清明の際に欝陵島を望見した状況について描写したものであって、于山・欝陵二島間に関する記事ではない。
>「文章がどう読めるか。その一点が問題かと。」
全く同感です。そこで、『新筯東國輿地勝覧』の「風日清明則峯頭樹木及山根沙渚歴歴可見」の文章は、峯頭の樹木や山根の沙渚が分明に見えるとしているので、本土から140kmも離れた欝陵島を望見した状況についての描写とは、私には読めません。欝陵島に上陸して或は近くの海上から見た欝陵島を描写したものと読みます。
18世紀中頃の地理書である李重煥著平木實訳『択里志』(平凡社東洋文庫751, 2006)の「鬱陵島は江原道の三陟府の海中にある。晴れた日に高い所に登って眺めると、雲のようにみえる。」が実際に近いかと。
金正浩は『大東地志』(1863)に「鬱陵島在本縣正東海中(中略)自本縣天晴而登高望見則如雲氣」と書いていることが、yabutarou01さんによって紹介されています(No.16089)。金正浩は「自本縣天晴而登高望見則如雲氣」を『択里志』から択んだのでしょう。
早速のコメントを有難うございます。
>鬱陵島の高所から眼下を見たとする解釈は自然なのでしょうか。「日初出時風恬浪靜則」とある前提は、それではあまり意味をなさないように見えますし、「衆峰サン青岩壑呈露沙汀樹木歴々可指」とも不釣合いに見えます(とくに衆峰サン青)。
『西溪雑録』と『臥遊録』の「欝陵島」冒頭の欝陵島に関する記述は、「欝陵或曰武陵亦曰羽陵登高望之三峰岌ゲフ(山の下に業)タウ(手偏に掌)空而南峰稍低 - - 沙汀樹木歴々可指」として、「登高望之」以下の文で欝陵島の自然景観を説明しています。問題は「登高望之」がどこまで係るかですが、私は最後の「沙汀樹木歴々可指」まで係ると解釈しました。
「日初出時風恬浪靜則衆峰サン(手偏に賛)青岩壑呈露」「日初めて出る時風穏かに浪静かならば則衆峰むらがり青岩壑に呈露す」は、海上から見た景観とも取れますが、壑(ガク)は「たに。山と山のあいだの、くぼんでいるところ。土地がくぼんでいるところ。『日本語大辞典』」とあります。そこで、谷底或は窪地に露呈する青岩を、海上から見るのは困難と思われるので、欝陵島の高所から見た景観としました。もちろん、「登高望之」は「- - 南峯稍低」までに係り、「日初出時 - - 沙汀樹木歴々可指」は海上から見た欝陵島の景観とみることは可能です。
>朝鮮半島からそんなのは見えるはずはない、と言うのは、理由にはならないと考えます。
朝鮮半島から欝陵島を見たとする所説は、『世宗実録地理志』の「于山武陵二島在縣正東海中二島相去不遠風日清明則可望見」「于山・武陵の二島は相去ること遠くなく風日清明ならば望み見ることができる」との解釈を否定するために、川上健三氏によって提唱されました(『竹島の歴史地理学的研究』古今書院, 1966)。
川上氏は次のように書いています:『高麗史地理志』の中にある「一云于山武陵本二島」との一節は、全体の文脈からみて、一説として二島説のあることを挿入したものであって、「相距不遠」以下の文章は欝陵島を受けており、欝陵島が本土と相距ること遠からず、風日清明の際には望見できるとの意味と解されるのである。(中略)これをさらに裏付けるのが『輿地勝覧』の記事である。同書では、『実録地理志』の「二島相去不遠」との一節のかわりに、これに該当する箇所を「三峰岌ゲフ(山の下に業)タウ(手偏に掌)空 南峯稍卑 風日清明則峯頭樹木及山根沙渚歴歴可見 風便則二日可到」という表現に改めている。これは明らかに、本土から風日清明の際に欝陵島を望見した状況について描写したものであって、于山・欝陵二島間に関する記事ではない。
>「文章がどう読めるか。その一点が問題かと。」
全く同感です。そこで、『新筯東國輿地勝覧』の「風日清明則峯頭樹木及山根沙渚歴歴可見」の文章は、峯頭の樹木や山根の沙渚が分明に見えるとしているので、本土から140kmも離れた欝陵島を望見した状況についての描写とは、私には読めません。欝陵島に上陸して或は近くの海上から見た欝陵島を描写したものと読みます。
18世紀中頃の地理書である李重煥著平木實訳『択里志』(平凡社東洋文庫751, 2006)の「鬱陵島は江原道の三陟府の海中にある。晴れた日に高い所に登って眺めると、雲のようにみえる。」が実際に近いかと。
金正浩は『大東地志』(1863)に「鬱陵島在本縣正東海中(中略)自本縣天晴而登高望見則如雲氣」と書いていることが、yabutarou01さんによって紹介されています(No.16089)。金正浩は「自本縣天晴而登高望見則如雲氣」を『択里志』から択んだのでしょう。
これは メッセージ 16075 (ahirutousagi2 さん)への返信です.
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