竹島

Yahoo! Japan 掲示板トピックビューアー

[ << 最初のページ | < 前のページ | メッセージリスト | 掲示板表示 | [ メッセージ # ] | 次のページ > | 最後のページ >> ]

竹島=独島は固有領土か、強奪領土か2

投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2008/01/07 21:47 投稿番号: [16101 / 18519]
   日本が竹島や松島をいかによく知っていようとも、それだけでその地が日本領になるわけではありません。また、その地で頻繁に漁労や竹木の伐採等を行なうことは、もしその地が外国領であれば、その行為は密漁ないしは略奪行為であり、許されるものではありません。欝陵島がその典型例でした。
  1620年、江戸幕府は対馬藩に命じて、竹島(欝陵島)で密貿易を行なっていた弥左衛門・仁右衛門親子を「潜商」の罪で捕えました。そのことが幕府の外交資料集である『通航一覧』に記されましたが、その記事において欝陵島は「竹島、朝鮮国属島」と記述されました。幕府は竹島を明確に朝鮮領と認識していたのでした。

  それにもかかわらず、幕府は「潜商事件」の5年後、外務省が説明するように、竹島への渡海免許を鳥取藩の大谷・村川両家に与えました。幕府に竹島奪取の意図があったのかどうか疑われるところです。このように幕府や対馬藩が朝鮮領と考えていた竹島へ大谷・村川両家が出漁したのですから、朝鮮漁民との「遭遇」は必然でした。
  元禄期の1693年、二度目の遭遇を契機に、幕府は朝鮮との通商をまかせていた対馬藩に対し、竹島へ朝鮮人が渡海しないように朝鮮へ要求する交渉を命じました。外務省のホームページに述べられた「竹島一件」の始まりですが、これは無理難題でした。朝鮮領である欝陵島へ朝鮮人の渡海を禁じるという途方もない要求だっただけに、朝鮮が受けいれるはずがありません。交渉はたちまち暗礁に乗りあげました。

  その時になって、幕府はやっと竹島問題を本格的に調査し始めました。まず、鳥取藩へ7か条の問い合わせをおこないました。その第1条を意訳すると「因州、伯州に付属する竹島はいつのころから両国の付属か?」となります。当時の幕府は、竹島が因伯両国を支配する鳥取藩の所属と思いこんでいたようです。
  しかるに、鳥取藩の回答は「竹島は因幡、伯耆の付属ではありません」として自藩領ではないことを明言しました。そもそも、竹島への渡海許可は鳥取藩主によるものではなく、幕府の老中4人が連署した奉書によってなされたので、鳥取藩の回答は当然でした。

  幕府は、他に竹島の大きさや渡海の実情などを尋ねましたが、注目されるのは第7条の「竹島の他に両国へ付属の島はあるか?」との質問です。これに対する鳥取藩の回答は「竹島や松島、その他、両国に付属する島はありません」として、松島(竹島=独島)も鳥取藩の付属でないことを明言しました。実はこの時、幕府は松島の存在を知らなかったのでした。幕府は回答書に松島の名が登場したことに関心を示し、追加質問をおこなったくらいでした。

   外務省のホームページは、欝陵島への渡航禁止後も松島への「渡航は禁じませんでした」と記しましたが、これは明らかに我田引水です。竹島が鳥取藩所属でない、ひいては日本領でないという理由で同島への渡海を禁止したのですから、同じく鳥取藩所属でない松島もひいては日本領ではないので、渡海が当然禁止されたとみるべきです。
  さらに当時、松島は竹島と一対ないしは竹島の付属島と考えられており、史料に「竹島近辺松島」「竹島の内松島」などと記されました。そもそも、松島はその名前に反して松の木はおろか、木が1本も生えていない岩の島でした。それにもかかわらず松島と呼ばれたのは、竹島と対をなすという考えから自然に名づけられました。そのため、多くの「地図や文献」で両島は一対に扱われました。しかし、公的な地図や文献で両島が日本領として記載されたことは一度たりともありませんでした。

   地図でいえば、外務省は沈黙していますが、江戸時代に発行された唯一の官撰地図「官版 実測日本地図」に竹島・松島は記述されませんでした。この地図は伊能忠敬の地図を元に作られたのですが、伊能図にも竹島・松島はありません。官撰地図や官撰絵図からも江戸幕府は竹島=独島を日本領と認識していなかったことがわかります。
(つづく)
[ << 最初のページ | < 前のページ | メッセージリスト | 掲示板表示 | [ メッセージ # ] | 次のページ > | 最後のページ >> ]

Yahoo! Japan 掲示板 アーカイヴ

[検索ページ] (中東) (東亜) (捕鯨 / 捕鯨詳細)