入って中国人に南京事件真相議論しましょう
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漢口引揚げに関する意見の調整1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/01/24 18:47 投稿番号: [720 / 2250]
これまでの
「引揚げ」
は漢口より上流のものでして、
漢口より下流はまだ決まっていませんでした。
そのため、長沙の高井領事代理もグズったわけですが、漢口もモメる事になります。
戦史叢書 『中国方面海軍作戦〈1〉』
293p
松平総領事代理の引揚げ過早の意見
《 七月二十九日午後、第十一戦隊参謀安藤憲栄少佐は、
松平忠久漢口総領事代理に漢口在留居留民婦女子の引揚げ促進を申し入れた。
同総領事代理はまだその時機にあらず任意引揚げの程度でよいと力説し、
更に次の所見を述べた。
一
今回の漢口での日本海軍の戦備は、
かえって中国側及び在留居留民を刺激し危倶の念を与えた。
二
中国側は、北支事変が万一拡大しても、
漢口在留居留民の生命、財産の安全保障を確言しており、
事変勃発以来、事故 (窃盗逮捕、交通事故など) の解決が敏速となったのは
その例証であり、日本海軍が警泊しおるための効果ではない。
何成濬の威令はよく行われ、安全と認める。
三
要するに平戦両時を通じ、日本海軍
(注
日本海軍とは第十一戦隊及び
陸戦隊なりやとただしたところしかりと答えた)
は駐屯しない方が、
かえって安全であり、当地有識者及び一般民衆が等しく感じおるところで、
また揚子江各地領事の総意でもある。
この観念の対立は、居留民に去就を迷わせる虞 (おそれ) があった。
そこで翌三十日、谷本司令官は、 23:30 海軍中央部あて、次のように打電した。
本職
今回ノ事変突発以来
主トシテ左記ノ如キ諸象ヲ
綜合 (そうごう)
観察スルニ、 漢口ノ一般情勢ハ
決シテ冷静平穏トハ認メ難ク、
寧 (むし) ロ
人心ノ動揺、不安ノ念ハ
日ニ増シ募 (つの) リツツアル
モノト判断ス。
一
流言蜚 (ひ) 語ハ
盛ンニ行ハレ
民心ヲ刺戟 (しげき) スルコト著シ。
二
日本租界 及 其ノ附近居住支那人ニシテ
租界外ニ避難スルモノ続出シ
更ニ増加ノ傾向アリ。
三
在留邦人ハ
速カニ引揚ノ要アリト
説ク者多数ニ達シ
(中ニハ不純ノ
動機ヲ以テスルモノ若干アリ)、 参事会長ハ
之ガ制止ニ
努力シツツアリ。
又本日迄ノ
邦人引揚員数約百五十名
(主トシテ婦女子)
ニ達シ、
更ニ激増ノ傾向アリ。 (参事会長談)
四
邦人経営会社、銀行、商店ニ対スル
支那人ノ出入殆ド絶ユ、 之等ハ
支那側同業組合ノ自衛手段トモ見ルベク
漸次統制アル圧迫ヲ加へ
経済
絶交ヲ策シツツアル
ヤニ考ヘラルル点アリ。 (民国時局委員会ニ於ケル一代表所見)
五
本日迄ニ英米仏軍艦
(英三、米二、仏二)
ハ
旗艦以外何レモ中流ニ転錨シ
(概ネ
「ハルク」
横付ヲ例トス)
相当警戒シツツアリ。》
*
ここで注目すべきは、松平総領事代理の言葉です。
彼は、
1、日本海軍の戦備は中国側を刺激する。
2、中国側は、日本人居留民の生命、財産の安全を保障している。
3、日本海軍が駐屯しない方が、かえって安全
と言っています。これって今の平和憲法主義者と全く同じ考えですよね。
それを、総領事代理が、海軍の指揮官に面と向かって言ってたのです。
総領事代理が、海軍の指揮官に侮辱的発言をしたからといって、
仕返しをされるわけではありません。
この状態は、文民統制ではないでしょうか。
つづく
これは メッセージ 719 (kireigotowadame さん)への返信です.
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長沙の引揚げ3 難色を示す高井領事代理
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/01/23 15:37 投稿番号: [719 / 2250]
戦史叢書 『中国方面海軍作戦〈1〉
291〜292p
《 時に (三十一日朝来) 高井領事代理は、三十日の何鍵の言
(何鍵が 「責任者を呼びつけて排日侮日行為の頼り締まりを徹底する」 旨述べた言)
を信用し、漢口居留民の引揚げが考慮されない現状では、
八月三日の引揚げすら再考を要すべく、
昨年の苦い経験(十一年十月過早に引揚げ準備したこと) もあり、
海軍の方針を盲信せずとの意図の下に、
既に早期引揚げ差し支えない旨の訓電があったにもかかわらず、
吉見艦長に対し、一応外務大臣に請訓するの要ありと申し出ていた。
・・・・
八月一日午前、谷本司令官は第三艦隊参謀長に
「長沙引揚ニ関シテハ
従来ノ行懸 (いきがか) リモアリ、
貴司命部ニテ引揚促進方然ルベク
御手配ヲ乞フ」
旨を打電した。
午後、第三艦隊参謀長は南京駐在武官に
「長沙居留民引揚ニ関シ
中央空軍ノ北方集中等
事態拡大ノ可能性相当大ナリ
ト思考セラルルヲ以テ
重慶、宜昌モ既ニ引揚ヲ開始セル
次第モアリ、
予定通八月三日ニ
引揚グルヲ適当ト認メラル。
大使館側ニ交渉シ
引揚促進方
然ルベク手配アリ度シ。本件外務側ト協議済」
と打電した。一方、この日高井領事代理は三十一日付の
「上流居留民引揚ノ場合ハ一応漢口迄ヲ建前トス」
る旨の外相電を受けた。
居留民を炎暑の漢口で、長く船内に留め置くことは危険であり、
かつ船長逃亡の虞 (おそれ) もあった。
そこで、高井領事代理は、ますます引揚げに難色を示すに至り、
外相あてあらためて、引揚先及び八月五日朝引揚げ差し支えの有無につき、具申した。
吉見艦長また、谷本司令官、第三艦隊参謀長あて、
速やかに居留民の内地引揚げにつき協議ありたいと具申した。
二日、高井領事代理は、請訓電に対する返電は未着であったが、
八月五日未明引揚げ出帆と予定し、
居留民の荷物を
○ (サンズイ+元) 江丸へ積み込むよう指令した。
一方、南京駐在武官は、日本大使館から
「引揚命令は領事の所信によるも差し支えなく、
早目に引揚げを実行するよう長沙領事に指令するよう決定した」
旨の連絡を受けた。同時、外相から高井領事代理あて、
「貴電ノ通り取計ハレ差支へナシ。海軍側通報済ミ」
との回訓があった。
かくて、結局、八月五日を期して、長沙居留民総引揚げを断行することとなった。
三日午後、谷本司令官は、長谷川司令長官に漢口居留民自体、引揚げ準備中で
船腹の不足を来しおり、
上流各地居留民の漢口収容は困難につき、上海直航を可と認める旨を具申した。
同司令長官は右意見に同意し、上海の外務官憲に協前するとともに、
更に海軍中央部に対し、至急実現取り計らい方を具申した。
四日、海軍中央部から、長沙居留民引揚げは上海直航の方針で進められたく、
かつ外相も右に関する長沙領事代理の請訓を承認して回訓した旨の申進があり、
ここに引揚げ先決定の問題も、現地の希望どおり、解決した。
同夜、長沙居留民は遺留財産を封印の上、中国官憲に委託し、
全員(七六名) ○ (サンズイ+元) 江丸に乗船を終了した。
五日 05:00 、 ○ (サンズイ+元) 江丸は漢口に向け長沙発、
「勢多」
は 05:30 長沙発、○ (サンズイ+元) 江丸を護衛して下江し、
「勢多」
は六日 09:45 、○ (サンズイ+元) 江丸は同日 10:40 、
それぞれ漢口に無事到着した。
そして、引揚げ居留民のうち、領事館及び日清汽船関係者のみ漢口に上陸し、
その他は○ (サンズイ+元) 江丸に乗船のまま、
六日 21:50 漢口発、九日 06:30 無事上海に到着した。
つづく
これは メッセージ 718 (kireigotowadame さん)への返信です.
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長沙の引揚げ2 状況の険悪化
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/01/22 16:43 投稿番号: [718 / 2250]
戦史叢書 『中国方面海軍作戦〈1〉』
290〜291p
《 二十四日〜二十五日の中央党部の指令により湖南省党部特務室は
湖南人民抗敵後援会を組織し、かつ、日貨を取扱う者、日本人と往来する者を、
軍警の手を借りず直接特務室へ引致処分し始めた。
二十七日から一両日の聞に二十数名の中国人を
「スパイ」 、漢奸の名目で引致した。
二十八日の新聞に重慶、宜昌、沙市の我が居留民の引揚げ準備、
第二九軍への我が爆撃が報ぜられるや、市中は落ち着きを失い、商取引も途絶した。
同夜、何鍵は電話で高井領事代理に急に全国的に対日空気悪化し当地治安維持上
寒心に堪えず、せっかく最善の努力を払うつもりであるが、
貴官においても特別に注意警戒されたいと申し出た。
二十八日夕、吉見艦長は、第三艦隊から重慶、宜昌、長沙には汽船をおおむね
何日でも一隻ずつ使用し得るよう船繰りしつつ運航せよとの指令を受け、
○ (サンズイ+元) 江丸を定期どおり二十九日朝下江させることとし、引揚用として
在長沙曳船 (ひきぶね) 竹丸及び鉄製
「ライター」
を使用することとした。
同夜、同艦長は谷本司令官の照会電に接し、長沙領事は
「些 (いささか) ニテモ
不穏ノ兆(きざし) ヲ
見ルニ至ラバ
直チニ引揚命令ヲ出ス。
但シ長沙ノ情況
如何 (いかん) ニ拘 (かかわ) ラズ
日支全面的開戦トナル見込
立タバ直チニ発令ス」
る決心をしており、小官は
「長沙ノミノ情勢ニ基ク限リ
即時引揚発令ハ
過早ナリト認ム」 るも
「全面的開戦ノ公算
大ナリト認メラルル
現状ニ於テハ」 「居留民引揚前ニ行ハルベキ
警備艦ノ交戦等ヲ考慮シ、
過早ノ引揚コソ
万全ノ策ナリト認ム」 る旨返電した。
二十九日、日本居留民会その他に雇われている中国人が圧迫され、なお、
省党部特務室は時機切迫せば主要日本人暗殺を計画しておるとの情報もあった。
二十九日夜、吉見艦長は、長谷川長官及び谷本司令官に長沙引揚げに関する
予想を、次のように打電した。
一
戦況急変ナキ限リ
八月三日早朝
○ (サンズイ+元) 江丸ニテ
居留民引揚ヲ
行フコトニナルベシ。
(売掛金回収ヲ考慮)
二
予メ準備ヲ進メ置キ
引揚命令発令後
六時間以内ニテ
出帆可能ノ見込ナリ。
右に対し、谷本司令官は直ちに次のように返電した。
○ (サンズイ+元) 江丸三十日漢口発、三十一日長沙着の予定。
領事ト協議ノ上
同船貴地着後
準備完了次第
引揚ヲ可ト認ム。
よって、吉見艦長は高井領事代理と協議した。
高井領事代理は、八月三日以前の引揚げに同意せず、かつ引揚げ発令時機が不適当な
場合は一部居留民の売掛金回収不能などによる破産を招く虞 (おそれ) があるので、
今回の引揚げは命令によらず、引揚げ勧告の形式で実施したいと主張した。
三十日、北支戦局の影響は、長沙の排日気分に敏感に反映し、
市中には戦争気分がみなぎった。
三十一日、長沙の対日空気は更に悪化し、日本人使用人に対する圧迫顕著となった。
「勢多」
へ石炭、重油を運搬する船頭は水上警察署巡響から脅迫され、
今後運搬不能の旨、申し出た。
また○ (サンズイ+元) 江丸行動用石炭販売を拒絶した石炭商に対し、
我が方は公安局を動かしてようやく入手するほどであった。
○ (サンズイ+元) 江丸はこの日夕刻、長沙に到着した。
*
何鍵は
「貴国居留民の生命財産は絶対に保証する」
と言ったそうだが、
日貨を取扱う者、日本人と往来する者を、スパイとして引致し、
日本人に雇われている中国人を圧迫したら、何にもならない。
こういうやり方が、中国の巧妙なところ。
直接危害を加えず間接的にやる。
言葉に
間違いはない。
しかし・・・・。
日本人はこういうレトリックを理解しない。
つづく
これは メッセージ 717 (kireigotowadame さん)への返信です.
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長沙の引揚げ1 唐炳初の申し出
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/01/21 18:49 投稿番号: [717 / 2250]
戦史叢書 『中国方面海軍作戦〈1〉』
289〜290p
《 七月二十日午前、勢多艦長吉見信一中佐は、湖南省政府顧問 唐炳初から
何鍵 (十九日廬山から帰着) の意向として、要旨左記の密談を受けた。
一
最悪の場合、日本警備艦が在艦しなくとも、
貴国居留民の生命財産は絶対に保証する。
二
全面的開戦の場合は中国各省に警泊の日本軍艦に対して
武装解除を要求することになろう。
唐顧問は、何鍵の真意は警備艦の撤退を望むにある旨付言した。
吉見
「勢多」
艦長は、次のとおり何鍵に伝言を依頼した。
平和尊重の精神は全然御同感であるが、警備艦の進退については、
本職の権限にあらざることを了とされたい。
武装解除要求に次いで行われるべき貴方からの攻撃の場合は、
それ以前に長沙市民全部を安全地域に避難させおかれんことを希望する。
同日午後、唐顧問は、長沙領事代理高井末彦を訪問し、何鍵の伝言なりとして、
不幸にして当地において日本警備艦と中国軍との間に交戦状態発生せば、
事実上貴国居留民の保護は保障し難いので了解されたい、と申し出た。
なお、高井領事代理の得た情報によれは、右の武装解除に関する何鍵の申し出は、
次のような国民政府令達に基づいたようであった。
密報ニ依レバ
日本第十一戦隊ハ 開戦ノ場合
左ノ計画ニ依リ
中国後方撹乱ヲ
企図シアルモノノ如シ。
一
重慶警備艦ハ重慶、宜昌間、
宜昌警備艦ハ宜昌、城陵磯間、
長沙警備艦ハ長沙、岳州間
ノ都邑 (とゆう : 都市や村) ヲ攻撃シツツ
下航シ、三艦合同ノ上
漢口迄江岸各地ヲ砲撃ス。
二
漢口下流ハ
第十一戦隊ノ主力ヲ以テ
南京迄ノ各都市ヲ攻撃ス。
三
南京下流ハ
第三艦隊ヲ以テ攻撃セントス。
開戦トナラバ
惨事ヲ被ラザル以前ニ
各地ニ於テ速 (すみや) カニ
日本軍艦ノ武装解除ヲ
行フベシ。
二十一日、何鍵は唐顧問を通じ、高井領事代理に次のように伝言した。
昨日申入レノ件 (筆者注
全面的開戦の場合日本警備艦の武装解除を要求する件)
ハ
自分が
貴国海軍側トモ多年友好的間柄ニアル為
老婆心ヨリ御話シタル迄ナルニ
海軍側ニテハ余程之ヲ重大視シ
居ラルル模様ナル処、自分ノ申出ハ
好意的以外
何物モナキ
次第ニ付キ(筆者中略)尚
毎晩御送付ヲ煩ハシ居ル
「ラジオ・ニュース】(筆者注
NHK放送を聞き書きしたもの)ニテ
自分ハ今回ノ事変ノ真相ハ
十分早ク知り居ルニ付キ、南嶽ニ落着キタル上ハ
蒋介石アテ両国国交打開方策ニツキ
電報ニテ進言スル積リナリ。
*
中国側の
「貴国居留民の生命財産は絶対に保証する。」
という話が
空疎な事は、これまでの数々の事例でわかっていることですが、
日本人は基本的に善人根性のお人好しですから、これを本気にする人がでて来ます。
また、 「国民政府令達」
の
「日本第11戦隊の開戦ノ場合ノ計画」
も
事実と全く違い、殆ど妄想に近いものです。
結局、彼らは徹頭徹尾、妄想の侵略日本軍を頭に描いて、
平和を望んでいる本当の日本に戦争を仕掛けるわけです。
つづく
これは メッセージ 716 (kireigotowadame さん)への返信です.
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揚子江方面 宜昌、沙市引揚げ
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/01/20 18:43 投稿番号: [716 / 2250]
戦史叢書 『中国方面海軍作戦〈1〉』
288p
《 七月二十日、田中宜昌領事は、高井長沙領事代理から、
開戦の場合、中国は日本軍艦の武装解除を行うとの情報を得た。
また、二十日、二十一日の内地の
「ラジオ」
その他は時局の
ひっ迫を感じさせるものがあった。
よって、宜昌市内の情勢は表面平静であったが、引揚げ準備を行うこととし、
二見艦長有田貢中佐は谷本司令官に二十日、日清汽船一隻の常時碇泊方を要請し、
二十一日
「在留邦人ノ引揚ニ着手シ然ルベキヤ」
と打電した。
また、田中宜昌領事は、二十一日夕、中国側に引揚げ時の遺留財産保護を申し入れた。
また、二十二日、在漢口
「保津」
は
「二見」
と交代すべき第十一戦隊命令により、
同日漢口発、二十六日午後宜昌着、 「二見」
から宜昌領事館の御真影を奉遷のうえ
警備や申し継ぎを受けた。
二十七日、日本人使用の中国人に対する圧迫、その他が加わった。
同夜
「二見」 (二十一日突風のため長陽丸及び中国船に接触)
による
中国側被害者四、五〇名が、損害賠償につき、日清汽船事務所に押し掛けて来た。
二十八日、保津艦長上田光治中佐は、第三艦隊電により、自重警戒すべき旨を、
官房機密電により、居留民引揚げに関する中央の方針を承知した。
また、田中領事は、同日朝、中央部から、情況によっては早期引揚げ
差し支えなき旨の別命に接した。
よって、同日午後、飯事館において関係者が打合せを行い、
八月一日 08:00 までに居留民総引揚げを完了し、
長陽丸に乗船の上、重慶居留民と歩調をそろえ、漢口に引揚げることとなった。
二十九日、宜昌では北支中国軍快勝の号外が飛び、
爆竹連発し、軍隊、学生等は市中行進した。
一部中国人の日本人への侮蔑行動などが顕著となったので、
我が居留民は行動を慎重にしつつ引揚げ準備を急いだ。
三十日早朝、上田 「保津」 艦長は、谷本司令官から、引揚げ期日承認の電を受領し、
重慶居留民の出発予定日時を考慮し、
八月一日
09:00
宜昌発、途中沙市居留民を収容し、漢口に回航と予定した。
翌三十一日朝
「重慶居留民の引揚げ時機決定」
の報その他に接し、
「明八月一日宜昌引揚げ」
と確定した。
沙市においては、県党部は宋哲元あて激励電の打電、抗敵講演会の開催などを実施したが、
十九日来の増水により市民に排日行為なく、日清汽船による荷動きも相当あった。
二十五日、上田
「保津」
艦長は、 「二見」
と宜昌警備交代のため同地へ
向かう途中沙市に寄港し、居留民 (領事を合わせ一三名) 引揚げにつき打合せた。
二十八日、沙市居留官民は引揚げ準備を完了し、長陽丸 (宜昌から下江) の
来着を待った。三十一日、小林領事事務代理は同地の中国軍当局に遺留財産の保護を
申し入れ、公文を交換した。
八月一日、宜昌においては、 「保津」
の厳戒下 09:15 官民総員 (五七名) の
長陽丸乗船を無事終了した。 10:00 「保津」
は長陽丸を護衛して漢口に向け宜昌発、
途中 15:30 から約一時間沙市に仮泊し、同地居留民の長陽丸乗船を警戒し、
三日 12:45 、無事漢口に到着し任務を終了した。
なお、長陽九は漢口情勢険悪のため、宜昌、沙市居留民乗船のまま、
翌四日 15:50 漢口発下江し、六日午後上海に安着した。
ただし、領事館及び日清汽船関係者は漢口に上陸した。》
つづく
これは メッセージ 715 (kireigotowadame さん)への返信です.
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揚子江方面 重慶居留民の引揚げ
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/01/19 18:52 投稿番号: [715 / 2250]
戦史叢書 『中国方面海軍作戦〈1〉』
286〜288p
《 七月二十日、従来比較的平静であった重慶に抗敵後援会が組織され、
情勢次第に悪化の兆しが見え始めたので、同地在泊の
「比良」
艦長
土井中二中佐は糟谷重慶領事と次のように協議した。
居留民の生命に脅威のない限り、できるだけ踏みとどまるのを原則とするが、
(1)
日支全面衝突の場合、
(2)
重慶の情勢悪化し引揚げを要すると判断する場合、
(3)
重慶は平穏であるが中・下揚子江沿岸各地の情勢悪化し居留民が引揚げた場合の、
いずれかの情勢に立ち至れば、時機を失せず引揚げを断行する。
・・・
二十一日朝、土井艦長は、谷本司令官から、重慶居留民 (当時二九名) に対しては、
随時、要すれば其の艦で引揚げ準備をなしおけ、との命を受け、同日糟谷領事と協議し、
居留民は発令後一〇時間以内に、日清汽船宜陽丸 (七月十五日から在泊) で
引揚げる準備を整えることとなった。
二十八日、外務中央部から糟谷領事あて、重慶居留民は情況により、
早目に引揚げよとの訓令があり、よって同領事は、居留民に対し、
とりあえず三十日朝までに家財を宜陽丸に積み込み、
その上で即時引揚げから形勢暫時観望かのいずれかに決定する旨、説明した。
そして、 「比良」
は引揚げ作業直接掩護のため、同日午後、嘉陵江に転錨した。
なお、この日夕方、重慶に中国軍大勝の報が伝わり、市内では伝単及び
爆竹などにより祝意が表され、以後対日感情は悪化の一路をたどった。
三十日 12:00 、土井艦長は、槽谷領事と協商の上、次の情況判断(要旨)を
もって、我が居留民を宜陽丸で全部引揚げることとし、
八月一日 04:30 、 「比良」
護衛の下に重慶発、宜昌を経て漢口回航に決した。
情況判断(要旨)
一
日中全面衝突は到底避けられない。
二
重慶の抗日気勢は次第に悪化の可能性がある。
三
当地で引揚げを感ずる時は既に時機を失し、下江の困難想像に余りあり。
むしろ事件発生前に一時引揚げる方が、民心も早く平静となり、再復帰が容易である。
二十九〜三十一日、糟谷領事は中国側の関係各官公署を歴訪し、
早期引揚げに至った次第を説明し、
遺留財産日録を添えてその保護を要求した。
先方は、我が申し入れを快諾し、引揚げを安全にする各種処置をとった。
しかし、市内の情況は次第に険悪となり、
三十一日、市商会は日貨売買を禁止し、違反者に対し厳罰を加える旨の宣言を発した。
かかる状況下に重慶居留民総員二九名は、同日18:00宜陽丸に乗船を終えた。
八月一日 06:40 、「比良」は、同船を護衛して重慶発、
二日 16:30 宜昌仮泊、同地に残留した居留民一名を収容し、同日 18:00 宜昌発、
四日 16:00 漢口着、無事護衛任務を終了した。
なお、糟谷領事以下館員少数は漢口に上陸し、その他は、宜陽丸に乗船のまま、
翌五日21:00 漢口発下江し、七日午前無事、上海に到着した。》
*
28日に
「中国軍大勝の報」
とありますが、これは例の
「南京嘘放送」
で、
通州保安隊が騙されたのと、同類のものでしょう。
つづく
これは メッセージ 714 (kireigotowadame さん)への返信です.
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揚子江方面 状況の険悪化
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/01/18 18:41 投稿番号: [714 / 2250]
戦史叢書 『中国方面海軍作戦〈1〉』
286p
《 七月二十日、従来比較的平静であった重慶に抗敵後援会が組織され、
273p
二十日ころから南京、漢口を通過移動する中国軍隊が次第に多くなった。
かつ漢口では十八日から中国軍の夜間演習開始、二十日夜租界外周に
陣地構築など、事態拡大を思わせる諸情報があった。
290p
(長沙)
二十四日〜二十五日の中央党部の指令により湖南省党部特務室は
湖南人民抗敵後援会を組織し、かつ、日貨を取扱う者、日本人と往来する者を、
軍警の手を借りず直接特務室へ引致処分し始めた。 二十七日から一両日の間に
二十数名の中国人を
「スパイ」、漢奸の名目で引致した。
273p
(上海)
二十五日夜、上海閘北 (ザホク) 水電路にある日本人経営の野菜農園の
かきを破壊して、何者かが侵入し、掲揚してある国旗を持ち去った事件があった。
288p
(宜昌)
二十七日、日本人使用の中国人に対する圧迫、その他が加わった。
291p
(長沙)
二十九日、日本居留民会その他に雇われている中国人が圧迫され、なお、
省党部特務室は時機切迫せば主要日本人暗殺を計画しておるとの情報もあった。
三十一日、長沙の対日空気は更に悪化し、日本人使用人に対する圧迫顕著となった。
「勢多」
へ石炭、重油を運搬する船頭は水上警察署巡響から脅迫され、
今後運搬不能の旨、申し出た。
またガン (サンズイ+元) 江丸行動用石炭販売を拒絶した石炭商に対し、
我が方は公安局を
動かしてようやく入手するほどであった。
288p (重慶)
三十一日、市商会は日貨売買を禁止し、違反者に対し厳罰を加える旨の宣言を発した。
294p
(漢口)
八月一日に至るや中国側は日本人に対し米、塩の販売を停止。
301p
(八月一日現在の九江)
日本人ニ接スル中国人ニ対シ監視厳重商取引モ杜絶、抗敵後援会モ組織サレ
新聞ノ論調マタ抗日宣伝ニ努メツツアリ。
301p
(八月一日、南京)
当地ノ居留民中開業医及雑貨取扱商ハ最近ニ至リ営業殆ンド杜絶
二日、南京の漢字紙は
「日本全力ヲ傾ケテ我ガ国ヲ侵略ス」、
「敵大挙再ビ我ヲ犯スハ目睫ニ迫ル」
などの大見出しをもって掲載 》
注
杜絶
トゼツ
:途絶えること。
目睫
モクショウ:目とまつげで近い事。
*
20日ごろは、未だ日本は停戦協定の詰めを行っていた時期で、
郎坊事件も起こっていなかったのに
中国は戦争準備を進めていた。
つづく
これは メッセージ 713 (kireigotowadame さん)への返信です.
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軍艦 「栂」 への中国機 非礼事件
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/01/17 18:42 投稿番号: [713 / 2250]
北支で盧溝橋事件が起こってから、揚子江流域でも、危険な状況になって来ます。
この時、中国軍機が日本の軍艦
「栂 (つが)」
に対して、挑発的な行動に出ました。
戦史叢書 『中国方面海軍作戦〈1〉』
273p
《 南京においては、七月中旬市内は平静であったが、七月十六日ころから軍隊の移動が
活発となり、二十三日在泊中の
「栂」
に対する中国飛行機の非礼行為が発生した。
すなわち、二十日ころから毎日、中央軍偵察機が
「栂」
上空に飛来
(いずれも高度一、〇〇〇米以上)
していたころ、
二十三日午前には
高度五〇〇米で直上を通過、 更に午後には
艦尾方向
高度五〇〇米付近から
緩降下し、右舷至近距離を 艦橋とほぼ同高度で通過、
艦首付近から左旋回、上昇避退した。 「栂」
はこれに対し航空機防禦の
配置につき、各機銃実弾装填、連続照準し一触即発の姿勢を取った。
右の非礼行為に対し、南京駐在武官中原三郎海軍大佐は、同月夕刻軍政部を訪問し、
「四月十二日大角海軍大将乗艦の
『栂』
に対する非礼事件あり、今また
本事件発生、誠意を疑う」
旨、厳重抗議した。
翌二十四日、中国側から、南京はじめ各航空部隊に対し、厳重に注意し、
かつ当該操縦員に対し調査の上処分する旨、回答があり、事件は一応落着した。
南京市長馬超俊は、二十四日、 「時局ますます重大化する今日、首都南京の治安は
最も重要である。もし民衆を扇動し過激行為ある場合は厳重処罰する」
旨布告して治安の維持に努め、また物価取り締まりを行った。
これより先、十五日守土抗敵後援会が組織されたが、全般的抗日運動の中心は
むしろ中央党部であり、同部は新聞雑誌その他の出版物、音楽、戯劇、
ラジオなどの方法を通じ、抗敵精神の向上に努め、市内は表面平静であったが、
抗日風潮が瀰漫 (びまん) 深刻化したものと認められた。
また、二十三日、中国軍艦江元、楚同 (砲艦)
が上流に向け出港し、
陸兵約五〇〇名が浦口から下関に移動、三十日航空機用器材が江上輸送で
上流に向かうなど、軍隊、艦船の移動がひん繁となり、また獅子林山砲台を
整備するなど、戦備の促進に努めつつあることが看守された。》
*
最近でも、中国軍のヘリコプターが、自衛艦のすぐ側まで接近してきたという事件が
ありましたが、中国は、大日本帝国の時代でも、こういう事をしていたのです。
日本が優しく、善意で接していると、そういう事をするわけです。
中国が善処するとか言っても、口だけで信用できないのは、今も昔も同じ事。
口では、 「過激な者を取り締まる」
とか言いながら、裏では、反日を煽る、
それが中国ですから。
つづく。
これは メッセージ 712 (kireigotowadame さん)への返信です.
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全面戦争回避を図る石原莞爾
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/01/16 15:52 投稿番号: [712 / 2250]
児島襄著 『日中戦争4』 文春文庫
60〜62p
《 参謀本部第一部長石原莞爾少将が、この赤煉瓦の一室で、軍令部次長
嶋田繁太郎中将と対座したのは、七月三十日午前十時すぎである。
「通州事件」
については、なにか異変があったらしいとはつたえられたが、
まだ詳細は報道されていない。
石原少将は、前日に作成した 「対支作戦計画ノ大綱」 案を持参して、
海軍側の同意をもとめたのである。
主旨は、こんごの中国での作戦行動の範囲を
「保定、独流鎮ノ線以北」
に限定し、
そのほか
「止ムヲ得ザル場合」
に青島、上海をふくませることにして、
早期に中国との戦いを終熄 (しゅうそく) させよう、とするものであった。
保定と独流鏡を結ぶ線を作戦限界ラインにする点については、
すでに支那駐屯軍司令官香月清司中将にその旨が指示されている。
北京、天津を制圧し、中国軍第二十九軍を永定河西方に駆逐した
支那駐屯軍は、次期作戦を用意する段階にはいった。
陸軍の作戦主務者である石原少将としては、あらためて対中国作戦にかんする
基本かつ既定方針を徹底させるべく、「大綱」
を策案したわけだが、
とくに海軍側に諒解をもとめたのにも、理由があった。
三日前、海軍省と軍令部の幹部が協議して、
「時局処理
及
準備ニ関スル
省部協議覚要旨」
を作成したが、その冒頭には、次のように明記されていたからである。
「事変不拡大、局地解決ノ方針ハ
依然
堅持スルモ、 今後ノ情勢ハ
対支全面作戦ニ導入
ノ機会大ナルヲ以テ、 海軍トシテハ、 対支全面作戦
ニ対スル
準備ヲ行フコトトス」
石原少将は、 このような意見は、 「作戦ノ本質」
を知らぬものだ、と、
嶋田中将に強調した。
陸軍の主敵はソ連である。 その対ソ戦備にはげまねばならぬときに、
「対支全面戦争」
にしばられてソ連の進出に遭遇したら、どうなるのか。
いや、陸軍には、 中国との戦争だけでも相手を
「屈服サセル成算」
がたたない。
日本の軍事力が不十分だからであり、現在、中国との戦いに動員できる兵力は
「四個師団」
までであり、 四個師団でできる作戦の限界が
「保定、独流鎮」
の線である。
石原少将は、 だから、 保定−独流鎮ラインに達するまでに中国側に痛打をくわえ、
和平にみちびくべきであり、 そのさいは、満州国承認だけをもとめ、
日本が中国にもつ既得権益はすべて中国側に返還すればよい、と述べた。
「コレガ日支親善、 貿易好転ノ 唯一ノ策デアル」
嶋田中将はうなずき、中将の報告をうけた海軍首脳部も
「大綱」
に
対する同意を表明した。
つづく
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8月1日 大幅に譲歩した石射和平案
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/01/15 15:00 投稿番号: [711 / 2250]
ここより先は、このトピの最初の所
「9大幅に譲歩した和平案」
から
「352南京での殺害その他について〜361米英軍の残虐」
までに
既に書いておりますが、 「最初から読め」
というのも何ですから、
新たに捕捉を加えて書くことにします。
松本重治著 『上海時代・下』 中公新書
177〜178p
《 八月一日、石射局長は、陸軍の柴山軍事課長と海軍の保科軍務局第一課長を招き、
かねて用意していた
「国交調整案」
を提示して、陸・海の同意を得ようとした。
この三省会談で、陸軍はあまり面倒な注文を出さず、石射案に沿って
三省の意見一致をみることになり、各次官や各大臣の諒承を得、
近衛首相は、待っていましたとばかりに、ただちにその支持を与えることになった。
従来の三省間で合意された第一次、第二次の
「北支処理要綱」
などの作文は、
いつも陸軍がリードしていたが、こんどの三省一致の
「国交調整案」
は、
外務の石射局長が完全にリードしたのであった。
石射原案に基く政府決定は、満州事変以後の日本の対中国政策における最も
画期的な案であった。停戦が眼目ではあったが、
中国をして停戦に応ぜしめるためには思いきった譲歩を含む
「停戦条件」
と
「全面的国交調整案」
とを同時に中国側に提示する必要があったのである。
石射原案は、一九三五年秋の広田・蒋作賓交渉以来、一九三六年の川越・張群交渉を
通じて、中国側が日本に対して一貫して示してきた要望条項をほとんどすべて
日本側が受け納れ、その代りに、従来日本側が中国に対して要求してきた
諸項目をだいたい中国側が黙認あるいは原則的同意を与え得るかたちで提示
するとともに、盧溝橋事件突発後の華北の新現状に即した新しい非武装地帯
(中国側の行政権を完全に認めるもの) を設定せんとするものであり、
さらに華北における日本軍のプレゼンスを盧溝橋事件以前の状態に引き戻す
ことをも約束しようとするものであった。
少しく、この政府決定を述べると、まず、日本側の譲歩は、
塘沽停戦協定の解消、
梅津‐何応欽 「協定」 の解消、
土肥原−秦徳純協定の解消、
冀察政権の解消、
冀東政権の解消、
冀東特殊貿易の廃止、
非武装地帯海面の中国側密輸取締りの自由恢復、
華北における 「自由飛行」 の廃止、
中国側がしいて要求すれば上海停戦協定をも解消する
こと等々を、すべて含むものであった。その見返りとして、日本側は
上記非武装地帯の設定のほか、
「『満州国を今後問題とせずとの約束を隠約の間になすこと、
日中両国間に防共協定をなすこと、
邦交敦睦令を徹底せしめること、
両国の経済の連絡、貿易の増進を図ること』
等を要望するものであった」》
*
この譲歩案は、ほとんど敗戦国が出すような内容ですが、中国はこんな
有利な提案ですらも、大山中尉虐殺によって、ぶち壊したのです。
石射猪太郎は、こちらが譲歩すれば相手も理解してくれると考えていますが、
中国は、譲歩を弱さの表れと見て、さらに突っ込んで来ます。
石射猪太郎の考えは、最初から的外れ
なのです。
つづく
これは メッセージ 710 (kireigotowadame さん)への返信です.
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7月30日 天皇陛下のご軫念
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/01/14 18:43 投稿番号: [710 / 2250]
注:軫念 (しんねん)
うれえ思う。
悲しむ。
心配する。
松本重治著『上海時代・下』中公新書
175〜177p
《 三十日午後四時、議会に出席中の近衛首相に対し、
「御召しの御沙汰あらせられたので、首相は直ちに広田外相、杉山陸相、米内海相、
賀屋蔵相と各個別に会見して各方面の情報を仔細 (しさい) に聴取し、
互いに意見交換を遂げたのち四時三十分恐懼 (きょうく) して参内、
天皇陛下に拝謁仰せ付けられ、最近の時局に関して委曲奏上 (いきょくそうじょう)、
種々御下問に奉答して同五時四十分宮中を退出し、直ちに入った。
而して (首相は) 院内大臣室において杉山陸相と会見し、陛下が時局に関し
御軫念あらせられている御趣を伝達したのち、前後一時間にわたり
『北支』
事変を中心に今後の対策につき慎重協議を遂げ、
つづいて首相は広田外相とも会見し同七時会談を終った。
右に関し政府は左のごとく発表した。
『〔政府発表〕 陛下には時局を御軫念遊ばされ、総理大臣を御召しあり、
総理大臣は委曲奏上して退下した』」(「朝日」七月三十一日附朝刊記事をそのまま引用)。
石射東亜局長によると、彼は広田外相から、
「二十九日(ママ)の夕、お召しによって伺候した近衛首相に対し、
『もう、この辺で外交交渉により問題を解決してはどうか』
とのおことばがあった」
と聞かされた
(石射猪太郎著『外交官の一生』二四五ページ)。
この話が
「陸軍に伝えられ、それが利いたものと見え、三十一日 (陸軍省の)
柴山軍事課長が (東亜局に) 来訪し、停戦を中国側からいい出させる工夫は
あるまいかと相談をかけてきた。 軍は面目上、
停戦を中国からいい出させたいというけちな考えにとらわれていたのだが、
それを咎めている暇はない。 工夫あり、私 (石射) の持つ全面的国交調整案を、
停戦交渉と平行的に試みるならば、停戦の可能性ありと告げて私は、
国交調整案を柴山課長に説明した。 柴山氏も私の考察を了承して帰っていった」
(石射氏同上、二四五ページ)。
同じ七月三十一日、参謀本部の石原作戦部長は、天皇に対して
軍事情勢に関する御進講をしたが、その際、
「軍としては保定の線に進むことが精一杯で、それ以上の戦線の拡大には自信がもてない。
したがってそこまで行く前に、外交手段により兵を収めることを最善の策と信ずる」
旨を言上し、天皇も同感の意を表されたといわれる
(上村伸一著『日本外交史』第二十巻、一〇三ページ参照)。
石原氏は最後的の努力を傾注して、海軍首脳部がすでに外交手段による局面の
収拾を支持していたので、福富 (繁) 作戦課長にも会い、
米内海相を通じて杉山陸相を説得するよう依摂したりして、
政府関係省間のとりまとめに尽力した。》
*
天皇陛下は戦争をうれえ、 『もう、この辺で外交交渉により問題を解決してはどうか』
と
言われたらしいが、陛下も典型的な日本人、
中国の方から、仕掛けているとの発想が欠けておられる。
仕掛けた方がやめない限り、仕掛けられた方はやめようがないのだ。
石射猪太郎は、陸軍が、「停戦を中国側からいい出させる工夫はあるまいか」
と相談をもちかけたのに対し、
「軍は面目上、停戦を中国からいい出させたいというけちな考えに
とらわれている」、と妄想している。
日本側から停戦を提案したが、中国は停戦協定を踏みにじっているのだ。
後で判るが、彼の、自信たっぷりの秘策も、中国には通用しない。
つづく
これは メッセージ 709 (kireigotowadame さん)への返信です.
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7月30日 怨みに報いるに徳を以ってす
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/01/13 18:34 投稿番号: [709 / 2250]
児島襄著 『日中戦争4』 文春文庫
58p
《 温厚な人柄で知られる第二十九軍軍事顧問中島弟四郎中佐が、
重機関銃二挺をくれ、と叫んだ。
「安定門に行って、その反乱保安隊をバリバリやっつけ、殉難日本人の仇討ちをする」
だが、それでは
「暴に酬ゆるに暴を以てする」
ことになるだけだ、
との意見が出て、特務機関は支那駐屯軍司令部と連絡したのち、殷汝耕と
その専属伝令一人だけを
『六国飯店』
に収容し、保安隊は放置した。》
寺平忠輔著 『日本の悲劇
盧溝橋事件』 読売新聞社刊
401〜402p
《 結局日本側は、殷汝耕の身柄だけを保安隊から受け取り、
後は野となれ山となれという事にして、完全に彼等を放棄してしまった。
彼等は数日間北京北郊でゴロゴロしていたが、やがてまた関東軍に追いまくられ、
次第に北上して、その後大半の者が張家口方面、湯恩伯の軍に合流してしまったようである。
殷汝耕はそれから数日の後、天津の軍司令部に護送され、そこでも軍律会議にかけられた。
関東軍あたりは、彼を極刑に処せよといった意向で、盛んに電報を打って来ていたが、
今度の通州事件は決して彼がひき起したものではない。
彼は寧ろ被害者の立場である事が、調べに従ってはっきりして来た。
一ケ月ばかりの後、身柄は釈放され、
とりあえず北京安定門内前円恩寺十六号、金粟軒の自宅に落ち着いた。
彼は救出時のお礼といった意味で、早速武官室や北京特務機関に挨拶回りにやって来た。
いたって慎ましやかな態度の彼は
「……私の身の潔白がわかっていただけまして、こんな嬉しい事はありません。
私は今後当分の間、政治方面から遠ざかって金粟軒に引き籠り、
もっぱら通州殉難音数十名の日本の方々のご冥福をお祈りし続けていきたいと
思います」
そういう彼の掌には、黒い大粒の数珠がつまぐられていた。
*
結局、保安隊員は、誰一人罰せられることなく、全員釈放されたわけです。
戦後よく、蒋介石が
「怨みに報いるに徳を以ってす」
と言ったと、言われていますが、
それよりずっと早く昭和12年に、日本陸軍は、
「暴に酬ゆるに暴を以て」
してはならないとして、
大虐殺犯を処罰せずに釈放しているのです。
善行では、こちらが先です。
蒋介石は
「怨みに報いるに徳を以ってす」
と言いましたが、
もともと戦争を仕掛けたのは中国ですから、怨む事自体が
筋違いです。
日本は、虐殺犯の保安隊員を処罰せずに放免しましたが、
中国は、無実の日本人を戦犯として殺害し、
かつ、満洲や中国全土に於ける、日本人の資産をタダ取りしました。
これから見ると、善行では、日本の方が数段上でしょう。
これは メッセージ 706 (kireigotowadame さん)への返信です.
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Re: 本多勝一という人物考
投稿者: konoyo_anoyo 投稿日時: 2011/01/13 17:24 投稿番号: [708 / 2250]
のうのうと日本国で棲息している本多勝一。
何で、日本のマスゴミは本多を責めないのか〜!
これは メッセージ 707 (kabu_kachan7 さん)への返信です.
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本多勝一という人物考
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/01/13 00:34 投稿番号: [707 / 2250]
元朝日新聞記者で、彼の著書「中国の旅」で南京大虐殺を説いてまわった人物。
当時この本は日本中に衝撃を与えた。
しかしその後、この本に掲載されている写真がことごとく「ニセモノの写真」であることが判明したにもかかわらず、未だに一言の謝罪も行っていない。誰でも自分の著書に間違いがあれば、謝罪して訂正するだろうに。
あのアイリス・チャンも自分の著書「ザ・レイプ・オブ・南京」で同じ「ニセモノの写真」を使っていた。さすがに彼女は自責の念に駆られたのかピストル自殺している。
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7月30日 反乱保安隊員処分の会議
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/01/12 18:36 投稿番号: [706 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇
盧溝橋事件』 読売新聞社刊
400〜401p
《 殷汝耕の救出処理は武官室の仕事である。
反乱保安隊の対策措置は特務機関の役目である。
私は殷汝耕の見た通州事件真相の聴取を終ると、すぐ特務機関に引き返した。
いったいこうした場合、殷汝耕の身柄は憲兵隊の牢屋に抑留すべきか、
それともホテルあたりに宿泊させて保護すべきか、
そういった点、軍の意向を確かめるために手間取っていた武官室は、
やがて方針が定まると、渡辺雄記事務官が数名の憲兵と一緒に、
安定門に出かけて行った。 そして殷汝耕及び専属伝令一名だけの入城を許可し、
これを東交民巷の六国飯店に送り込んだのである。
見張りの憲兵が交代で監視し、局外者との面接を一切、遮断するよう努めた。
一方、特務機関では、反乱保安隊に対する対策会議が開かれた。
平素温厚な笠井半蔵少佐が、いった。
「……このような残虐保安隊に飯を食わせてやるなんてもっての外です。
日本人を虐殺した彼等を、日本人の税金で賄ってやる義務がどこにありますか。
道義的にもそんな事は絶対必要ありません」
広部大隊誘導の立役者だった中島弟四郎中佐がその後を引き継いだ。
「ワシにいわせると、反乱保安隊には飯を食わせてやるよりも、弾を食わせてやる
必要があると思います。全員に洩れなく食わしてやらんければ腹の虫がおさまりません。
先ほどの補佐官の話によりますと、保安隊は今、安定門外に一杯、
充満しとるというじゃありませんか。
ワシに重機関銃二挺、貸して下さい。安定門にとんで行って、
その反乱保安隊をバリバリやっつけ、通州殉難日本人の仇討ちをして来ます。
そうしなきゃ、細木機関長や甲斐君達の霊に対して、ワシは全く相済まん」
中佐の眼は憤怒の涙さえ湛 (たた) えていた。
機関長は
「今すでに憲兵や警察局の連中が行って、武装解除だけはもうやり始めているらしい。
中島君の気持は納得出来る。しかしいったん丸腰にしてしまったやつに、
さらに弾をブチ込むという事はどうかな」
私も私の思いつき若干を述べ立てた。
「軍人としての気持の上では、確かに今中島顧問のいわれた通りです。
しかし列国軍環視のこの北京城において、丸腰の兵をバリバリやっつけたりしたら、
日本側にとってかなり不利益な反響をまき起すんじゃないでしょうか。
通州事件の結果、今各国は挙って中国人の蛮性を非難しています。
そこで日本側がバリバリやったら、中国も日本もドッチもドッチだ
っていう事になってしまいはせんでしょうか。
もちろん彼等に飯を食べさせてやる必要はありません」》
つづく
これは メッセージ 705 (kireigotowadame さん)への返信です.
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7月30日 投降する通州保安隊
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/01/11 18:33 投稿番号: [705 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇
盧溝橋事件』 読売新聞社刊
399〜400p
《 午後零時三十分、銃声砲声はまだしきりに鳴り響いていた。
しかし頭首を失った保安隊には、それっきり何の命令も伝わってこなかった。
高向級幹部がまず
「総隊長がいないのに、俺達ばかり戦争したって意味はないぞ」
と騒ぎ始めた。
幹部は置き去りにされていた殷汝耕の車の周りに集って来た。
長官の縄目はすぐに解かれた。
長官はいった。
「私はすでに、長官としての立場を失ってしまった。
だから今さら君達を指揮するなんて、出来はしない」
「我々は長官に楯突く気持はなかったんです。
ただ、総隊長がむりやり命令したもんですから、こんな結果になってしまって。
我々今後の身の振り方は、長官におすがりする以外、全然方法がありません」
「君達がそういう希望を持っているなら、とりあえず私を日本側と交渉させなさい。
そうすれば今後の措置について、あるいは何とか目鼻がついてくるかもわからない」
殷汝耕はここから日本大使館に電話しようと思ったが、城門は厳重に鎖され、
そのすべがない。やむなく車を反転させ、先ほど来た城壁の下を通り、
安定門外環状鉄路の駅舎に到着した。 駅長に交渉して駅の電話を借り、
殷汝耕自らまず電話をかけた。 相手は大使館武官室の今井少佐である。
武官室からはすぐこの事が特務機関に連絡された。 私は武官室の浦野大尉、
及び憲兵一名を伴って安定門に向って自動車をとばせた。
城門の上から外を眺めると、広場には何百という保安隊が押しかけて来ているが、
あの時ほどの殺伐さはなく、すこぶる平静な態度だった。
私達は城門から降りた。 そして巡警に命じて門扉を小開きにさせ、
そこにいた保安隊員の一人に、殷長官をお呼びするよう伝えた。
駅長室で休憩していた殷汝耕は、やがて私の前に姿を現わした。
細目に開けられた鉄扉の間から、彼は手を差し伸べて私と握手した。
彼の双眸 (そうぼう) からは涙がこぼれ落ちていた。
私と殷汝耕とは昭和十年の二月、彼がまだ薊密 (そみつ) 区督察専員だった時代、
玉田保安隊移駐勧告のため、雪降り注ぐ厳冬のさなか、
一緒の自動車で玉田県城に乗り込んで行った事があった。その時が初対面だった。
数日にわたって彼と同じ釜の飯を食べ、寝台を並べて横たわり、ことに
「あなたのご出身は静岡市なんですか。
私の家内も静岡の三浦女学校を卒業しましてね、……」
といったような話から、格段の親しみを覚えるようになった。
その後彼は、池宗墨を伴って、しばしば天津明石街の私の家を訪れて来た。
私が北京特務機関補佐官として、着任挨拶のため冀東政府に行った時、
彼は
「なぜ、通州特務機関に来て下さらなかったんですか」
と
さんざん怨み言を並べたのも覚えている。
今日の殷汝耕は、一昨夜以来の心痛のため、げっそり痩せ衰えているのが目立っていた。
「私の統率が不十分だったため、日本の方々を多数、ああした悲惨な結果に
立ち到らせ、お詑びの言葉もありません。
ついては冀東の善後措置もご相談申し上げたいので、お電話したような次第です」
「今井武官がその件で、今関係方面と連絡しています。それが終り次第、
こちらにお迎えを差し向けることと思いますので、もうしばらくここでお待ち下さい」》
つづく
これは メッセージ 704 (kireigotowadame さん)への返信です.
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7月30日 脱走した通州保安隊の総隊長
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/01/10 16:05 投稿番号: [704 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇
盧溝橋事件』 読売新聞社刊
397〜398p
《 一味は宋哲元の後を追って、永定河の西岸に出ようと企てたらしい。
副官は総隊長の命令を、部下各隊に伝達した。
各隊は北京城の北側を、そのまま真っ直ぐ西進して京綏鉄路を横切った。
そして西直門から万寿山に通ずるアスファルトの街道に出ようとした。
一方、七月二十九日正午、清河鎮の攻略を終った関東軍の鈴木兵団は、その夜
清河鎮の南、八家という部落に宿営し、夜十一時、次の要旨の兵団命令を下達した。
命
令
一、兵団は本夜有力な一部をもって西苑を奪取し、主力は明三十日、
西苑 − 五堆子 − 西直門を連ねる線に向って前進す。
二、酒井機械化兵団は、依然前任務を続行すべし。
三、右縦隊 (麦倉連隊を基幹とするもの) は三十日午前六時、七軒房を出発し、
西苑に向って前進すべし。
四、左縦隊 (奈良連隊を基幹とするもの) は三十日午前六時、八家を出発し、
五堆子に向い前進すべし。特に北京方向に対して警戒する事肝要なり。
だから七月三十日の朝、鈴木兵団は南下するし、反乱保安隊は西進する。
この両軍は期せずしてアスファルト舗装の万寿山街道で、
ぶつかる運命をおわされていたのである。
この街道は北京郊外唯一の観光道路だった。
平素は高級自動車が往来し、路幅は十メートル余り、
両側には楊柳の並木が、鬱蒼と繁っていた。
その外側には深さ一メートル、幅二メートルの排水濠が設けられていた。
熱河の山奥から出て来た関東軍の兵隊は、この街道に出たとき、
鼻唄でも唱いたいような気持でアスファルトの上を行軍していった。
突然、この奈良部隊の先兵に不意急襲の猛射撃が浴せかけられた。
午前十時五十分、斜左、高梁畑切れ目の方向からである。
両軍は激しい射ち合いを始めた。敵の兵力は百、二百、・・、四百、
だんだん増加してきた。奈良部隊も先兵の左に先兵中隊が増加する。
その左翼に前衛本隊が展開する。大隊砲や連隊砲、配属山砲まで参加した。
勝敗は明らかである。
南京放送がデマに過ぎなかった事は、西直門の巡警の言葉ではっきりしたし、
殷汝耕を宋哲元に献上しようという大きな夢も、日本軍の砲声一発で吹ッ飛んでしまった。
大切な献上品殷汝耕は、グルグル巻きにして自動車でここまで運んで来はしたものの、
今はもう、それにかかわり合っている余裕さえなかった。
自動車の中で素早く便衣に着換えた張硯田と張慶余は、殷汝耕や部下保安隊
一千数百名を、すべて放ったらかして、高梁畑の中に姿をくらましてしまったのである。》
つづく
これは メッセージ 703 (kireigotowadame さん)への返信です.
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7月30日 中国軍の敗北を知る通州保安隊
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/01/09 13:18 投稿番号: [703 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇
盧溝橋事件』 読売新聞社刊
396〜397p
《 実情を把握した私は機関に戻って詳細を松井機関長に報告した。
機関長は沈痛な面持で口を開いた。
「君が出かけてから間もなく、通州守備隊から電報があった。
特務機関は保安隊の襲撃で全滅してしまったらしい」
余りの驚愕 (きょうがく)、私は喉 (のど) がつまってしばらくは物も言い得なかった。
温情あふれる細木機関長、豪胆不屈の甲斐補佐官、ついせんだって私を取り囲んで、
盧溝橋の戦況を
「それから、それから」
と根掘り葉掘り尋ねた人達、
それがあの建物で一人残らず全滅してしまったとは。
朝陽門外の反乱保安隊は今度は北側、東直門の方に回って行った。
すでにここも土嚢で固めてあるので入城出来ない。
次に西北方の安定門に回って行った。ここは土嚢こそ積んではいなかったが、
鉄扉を堅く鎖して入城を拒否している。
彼等は徳勝門に回った。それから西直門に回って行った。
ここは万寿山に通ずる枢要な街道なので、これまで閉鎖している事はまずあるまい、
というのが彼等幹部達の狙いだった。来てみるとこの大門は閉まってはいたが、
小門の方が随時あけたて出来るようになっていた。
保安隊総隊長張硯田 (ちょうけんでん)、 張慶余 (ちょうけいよ) は
自動車から降りると、城門監視の巡警に語気荒々しく
「さっきから朝陽門、東直門、安定門、徳勝門、一つとして俺達のために
扉を開けてくれようとしない。北京の戒厳はそんなに厳重なのか」
「戒厳は昨朝から解かれています。ただ警察局長の命令で厳重閉鎖しているだけです」
「何、警察局長の命令?
宋委員長や秦市長は一体全体どうしてるんだ!」
「宋委員長も秦市長も、一昨日の夜おそく、この城門を出て保定の方に行って
しまわれました」
「すると政務はいったいだれが代行してるんだ?」
「日本軍です」
これを聞いたとたん、愕然たる表情が彼等の面に現われた。
「何?
日本軍?
すると盧溝橋の戦況は今どうなってるんだ?」
「二十九軍が敗けて、もう一兵残らず永定河の西に撤退してしまいました」
張硯田、張慶余は、しばし茫然自失の有様だった。
つい今の今まで
自分達が考えていた情勢とはおよそ百八十度の食い違いだからである。
二人はそれ以上、深く立入って聞こうとはしなかった。
西直門外石橋のほとりに自動車を停めて、ヒソヒソ相談していたが、
副官をもう一遍城内に走らせて、巡警に宋哲元脱走の経路を確かめさせた。
それが、西直門
−
万寿山
−
門頭浦
−
長辛店
−
保定、
というコースである事を知ると、何か心に決するところがあったらしく、
車を万寿山の方に向けた。
七月三十日、午前九時半ごろの事である。
一味は宋哲元の後を追って、永定河の西岸に出ようと企てたらしい。
副官は総隊長の命令を、部下各隊に伝達した。
各隊は北京城の北側を、そのまま真っ直ぐ西進して京綏鉄路を横切った。
そして西直門から万寿山に通ずるアスファルトの街道に出ようとした。》
つづく
これは メッセージ 702 (kireigotowadame さん)への返信です.
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7月30日 北京へやって来た通州保安隊
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/01/08 12:06 投稿番号: [702 / 2250]
南京の嘘放送に騙されて、日本人居留民を200人以上虐殺し、それを手土産に
宋哲元に忠誠を示そうとした、通州保安隊員が北京にやって来ました。
まさか、宋哲元が、いないとも知らずに。
寺平忠輔著 『日本の悲劇
盧溝橋事件』 読売新聞社刊
395〜396p
《 七月三十日、夜が明けそめたころである。 給仕の杉沢が
「荒木五郎」
という名刺を持って来て緊急要件で面会を求めていると伝えた。
私は上衣をひっかけるなり応接室に行った。
純白の背広に開襟シャツと云ういでたちのその人は、四十四、五歳、
キリリと緊まった風貌には、一種犯し難い気品があった。
「私は北京に住む巷 (ちまた) の一浪人に過ぎません。
ご多用中甚だ恐縮ですが、今、通州反乱保安隊が、
大挙北京の朝陽門に押し寄せて来ているという情報を掴 (つか) みましたので、
至急特務機関に善処していただかなければと思ってご報告に上りました」
「反乱保安隊がですか?
朝陽門に?」
「そうです。今、城門監視の巡警と、城門をあけろあけないで
盛んに押問答している最中です。絶対あけさせちゃいけません」
私は至急警察局長と連絡をとった。
警察局長播毓桂 (はんいくけい) に電話すると
「その件はタッタ今、私の所へも報告が入ったところです。
大分大勢やって来て、小銃などをブッ放し、開門を迫っているようですが、
私はとりあえず、絶対扉を開けてはいかん。昨日来取除け始めた土嚢を
もう一遍積み上げて、厳重警戒するよう命じたところです」
「それをうかがって安心しました。朝陽門ばかりじゃない。東直門も安定門も、
全部完全に閉鎖させて下さい。
一兵たりとも北京城内に入らせないよう……お頼みしますよ」
私は応接室に引き返した。そして荒木氏に、礼を述べるとともに
「これは私も一応実情を確かめておいて、今後の対策を講じたいと思います。
今からすぐ、朝陽門に出かけましょう。あなたも一緒に行って下さいますか」
「もちろんお伴させていただきましょう」
二人は玄関口に出た。そして自動車にとび乗った。私はここで初めて荒木氏に尋ねた。
「あなたは巷の浪人だっておっしゃいましたが、中国にはかなり永くお住いなんですか」
「お恥かしい次第ですが、実は私も元軍人のハシクレでしてね。
それが気まぐれから軍人をやめて満州にころがり込んだんです……」
「すると、もしかするとあなたは張作霖の模範旅長黄慕 (ホワンムー) 将軍じゃ
ありませんか」
「ハア、そうなんです。よくご記憶でいらっしゃいますね」
「そうでしたか。そういう大先輩とは存じ上げず、大変ご無礼致しました。
実は私も若いころから中国の研究が好きでしてね。
黄慕 (ホワンムー) 将軍だとか張宗援将軍、つまり伊達順之助さんなんかの
ご活躍振りには、少なからず若い血を沸かしたものでした」
話に夢中になっている間に、車は東四牌楼の十字路を右に曲って、朝陽門に到着した。
城門に土嚢が二メートルぐらいの高さまで積み上げられている。
突然、城外で、バーンと一発銃声がした。城壁に上り、薄靄をすかして眺めると、
保安隊が四百や五百どころか七百、八百、いやもっと大勢いるかもわからない。
それが口々に
「開門 (カイメン)、快著 (コワイチョ) 点児 (テル)
開門罷 (カイメンパ)!」
(早く門をあけろ!) とどなり続けている。
巡警がそれに応じないものだから、彼等は腹立ちまぎれに楼門めがけ、小銃
ブッ放しての威嚇ぶりである。二発が私達の頭上を掠 (かす) めてとんだ。》
つづく
これは メッセージ 699 (kireigotowadame さん)への返信です.
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中国人は通州で日本人30万人を虐殺した
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/01/08 03:57 投稿番号: [701 / 2250]
30万でも3千でも一人でも同じ。まさか数量は減少したら、日本人や通州の被害者や彼らの親類の悲しい感じも減少できる?いいえ、同じです。
これは メッセージ 1 (rdupwatch さん)への返信です.
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通州事件は中国人と左翼に対する魔除け
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/01/07 23:07 投稿番号: [700 / 2250]
ぜんぜん来ない。
これは メッセージ 1 (rdupwatch さん)への返信です.
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通州事件6 証言2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/01/07 18:33 投稿番号: [699 / 2250]
東中野修道著 『南京虐殺の徹底検証』 展転社
19〜20p
桂鎮雄(元陸軍少佐)証言
《錦水楼の門に至るや、変り果てた家の姿を見て驚くと共に、
死体より発する臭気に思はず嫌な気持になりました。
(略)次に帳場配膳室に入りました。
ここに男一人、女二人が横倒れとなり、
或はうつぶし或は上向いて死んでをり、ここの屍体は強姦せられたか否かは
判りませんが、闘った跡は明瞭で、
男は目玉をくりぬかれ上半身は蜂の巣の様でありました。》
《私は一年前に行ったことのあるカフェーへ行きました。
扉を開けて中へ入りましたが、部屋は散乱してをらず、
これは何でもなかったかと思ひつつ進んだ時、一つのボックスの中に、
素っ裸の女の屍体がありました。
これは縄で絞殺されてをりました。カフェーの裏に日本人の家があり、
そこに二人の親子が惨殺されて居りました。
子供は手の指を揃へて切断されてをりました。》
《南城門の近くに一日本人の商店があり、そこの主人らしきものが引っぱり出されて、
殺された屍体が路上に放置されてありました。
これは腹部の骨が露出し、内臓が散乱して居りました。》
20p
桜井文雄(元陸軍少佐)
支那駐屯歩兵第二連隊小隊長である。
《先 (ま) づ守備隊の東門を出ますと、殆 (ほとん) ど数間 (すうけん) 間隔に
居留民男女の惨殺死体が横 (よこた) はつて居るのを目撃し、
一同悲憤の極に達しました。
敵兵は見当りませんでしたので、夜半迄、
専 (もっぱ) ら生存者の収容に擔 (あた) りました。
「日本人は居ないか」
と連呼し乍 (なが) ら、各戸毎に調査して参りますと、
鼻部に牛の如く針金を通された子供や、片腕を切られた老婆、
腹部を銃剣で刺された妊婦等が、彼所此所 (そこかしこ) の塵、埃(ほこり) 箱の中や、
壕の内、塀 (へい) の蔭等から、続々這 (は) ひ出して来ました。》
《某飲食店内には一家悉 (ことごと) く皆首と両手を切断惨殺されて居るのを
目撃しました。婦人と云ふ婦人は十四五歳以上は悉く強姦されて居りまして、
見るに忍びませんでした。》
《旭軒と云ふ飲食店に入りますと、そこに居りました七八名の女は全部裸体にされ、
強姦射(刺)殺されて居りまして、陰部に箒 (ほうき) を押込んである者、
口中に土砂を填 (う) めてあるもの、腹部を縦に断ち割ってあるもの等、
全く見るに堪へませんでした。》
《東門の近くの鮮人商店の付近に池がありましたが、その池には首を縄で縛り
両手を併 (あわ) せて、それに八番鉄線を通し(貫通)
一家六名株数継ぎにして引廻された形跡、歴然たる死体がありました。
池の水は血で赤く染って居たのを目撃しました。》
つづく
これは メッセージ 697 (kireigotowadame さん)への返信です.
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中国人の大ウソ「南京大虐殺」のトリック
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/01/07 00:29 投稿番号: [698 / 2250]
中国人は、通州虐殺事件で中国人に虐殺された日本人の写真を使って「これが南京で日本軍に虐殺された中国人の写真だよ」と言って、ありもしない南京大虐殺をでっち上げた。
その写真を見せられた日本人は、その虐殺された人たちが自分たちと同じ日本人とは知らずに中国に向かって土下座して謝り続けている。
なんという情けない構図だ。こんなことを未来永劫続けるのか〜?
これは メッセージ 1 (rdupwatch さん)への返信です.
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通州事件6 証言1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/01/06 18:30 投稿番号: [697 / 2250]
東中野修道著 『南京虐殺の徹底検証』 展転社
17p
外務省情報部長談話。
《支那人は婦女、子供をも共に、全日本人を虐殺せむと企てた。
婦人の多くは掻 (か) きさらはれて、二十四時間虐待酷使された後、
東門の外で殺されたが、其処 (そこ) まで連れて行かれるには手足を縛られ、
或は鼻や喉 (のど) を針金で突き通されて、曳 (ひ) きずられたのであつた。
死骸は近くの他にぶち込まれ、或る者は強力な毒物をぬりつけられて、
顔がずたずたになってゐた。》
18〜19p
萱嶋証言
『極東国際軍事裁判速記録』 第五巻
《城内は実に凄惨なもので、到る処、無惨な日本居留民の死体が横 (よこた) はって
居りまして、殆ど全部の死体には首に縄がつけられてありました。
頑是 (がんぜ) なき子供の死体や婦人の虐殺死体は殆ど見るに耐へませんでした。》
《其 (そ) の記録は今日ありません。
従って私は私の目撃したことを主として、記憶を辿 (たど)り、左に陳述します。
然 (しか) しそれは余りにも残酷でありましたので、
私は一生忘れることの出来ない印象となって頭に残って居ります。》
《旭軒とか云ふ飲食店を見ました。そこには四十から十七、八歳迄 (まで) の女
七、八名は皆強姦され、
裸体で陰部を露出した儘 (まま)、射殺されて居りました。
其の中 (うち) 四、五名は陰部を銃剣で突刺されてゐました。
(略)家の内は家具、布団、衣類等、何物もなく掠奪されてゐました。
其の他の日本人の家屋は殆ど右同様の情態でありました。》
《錦水楼と云ふ旅館は凄惨でありました。同所は危険を感じた在通州日本人が
集まつた所でありましたものの如く、大量虐殺を受けてをります。
(略)
錦水楼の女主人や女中等は殊子繋ぎにされ、手足を縛された儘、
強姦され、遂に斬首されたと云ふことでした。》
つづく
これは メッセージ 694 (kireigotowadame さん)への返信です.
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通州虐殺の写真を南京大虐殺で使用
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/01/06 00:18 投稿番号: [696 / 2250]
あるブログに書いてあった。
男性は青龍刀で腹を裂かれ、頭部を割り、腹を裂かれた上に腸を引きずり出される。
腸を道端に投げ捨て、「日本人の腸を食うぞ!」と叫ぶ中国人。
女性は陵辱の限りをつくされた後、吊るされた上に銃剣等で突かれ殺された。
妊婦に至っては、銃剣で腹を引き裂かれ赤ん坊を取り出し、それをサッカーボールのように扱う。
それを黙って見ていたり、笑いながら残虐非道の限りを尽くす中国人。
以上は通州虐殺の様子を語ったものの一部。
これと同じような虐殺が、あの元朝日新聞記者の「中国の旅」に、写真つきで丁寧に説明してあったぞ。
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中共政府は通州事件を「日本軍の行為」に
投稿者: sainotakerunomikoto 投稿日時: 2011/01/05 19:13 投稿番号: [695 / 2250]
すり替えているようですよ。
あろうことか、日本軍が中国人を虐殺した場所にしてるようです。
この一事を見ても、南京大虐殺が頭の狂った中共当局のキチガイどものでっち上げの可能性が高いってことがわかる。
これは メッセージ 690 (kabu_kachan7 さん)への返信です.
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7月30日 通州事件5 救援部隊の到着2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/01/05 16:47 投稿番号: [694 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇
盧溝橋事件』 読売新聞社刊
393〜394p
《 偵察隊は続いて旭食堂に向った。ネオンの光、緑酒の香りも今すでになく、
窓際にはマダムの死体が無残な有様となって横わっていた。
蝿が一杯たかっている。さらに一歩、足を踏み込むと、四人の女給、
それに三歳ぐらいの男の子が、銃剣で、あるいは拳銃で殺されており、
ことに子供は逆さに振って、頭を壁にたたきつけて殺された痕跡が歴然としている。
すべてが着物はもちろん下着まではぎ取られてしまっている。
小犬と猫とが死体の間をじゃれ跳んでいるのが、いっそう鬼気をさそう。
こうして、領事館警察や邦人家屋を、次から次に回ってみたが、生存者の姿は
どこにも発見する事が出来なかった。あの多くの居留民連は、いったいどうしたのか。
偵察隊一同は、次第に焦燥と不安に駆り立てられて行った。
空色の塗装も美しい近水楼の外観は、平素と何等変ってはいなかった。
せめてここだけにでも、何人かの生存者が残っていてくれますようにと念じつつ、
玄関の扉を開いた瞬間、目に映ったのは年若い女中数名の惨殺死体だった。
一行はグネクネした小路を迫って、北門脇の細木機関長公館を訪れて行った。
入り口の石のきざはしを昇り、門を開いて一間一間、内部の部屋を探してみたけれど、
機関長はじめ人ッ子一人、姿を見出すことは出来なかった。
偵察隊が引き揚げようとしたとき、一人の兵が東南方、城壁のあたりを指差していった。
「どうだい、あのカラスの沢山飛んでいること、まるで胡麻をブチ撒いたみたいじゃないか」
他の者も立ち停まって
「凄いカラスだなあ」
と、その方を眺めた。
夕焼空に、何百何千というカラスが、ガアガアいいながら飛び回っている。
一同の足は引きつけられるようにその方に向った。一行は女子師範学堂の広場に出た。
ここは城壁の真近で、先ほどのカラスが黒山のように固まって餌をついばんでおり、
獰猛 (どうもう) な野犬十数頭が、しきりにその間をうろつき回っていた。
「いったい何を食っているんだ、あのカラスは」
死体だ!
人間の死体だ!
七十何人という日本人の銃殺死体なのだ!
一同は冷水を浴せられたように、身を硬直させた。
陽は次第に暮れて行った。やがてカラスの鳴声も鎮まると、
あたり一帯は寂寥 (せきりょう)の中に包まれて、
ただ、同胞の悲愁のみが、惻々 (そくそく) 人に迫って来るのだった。
鬼哭啾々 (きこくしゅうしゅう)、生温い風が薄気味悪く、人の面を撫で渡って行く。
かくて冀東二ヶ年、栄華の歴史は、遂にここに通州事件という、
一大残虐史を以てその幕をとざしてしまったのである。
古色蒼然たる大ラマ塔だけが静かに通州の街を見下している。》
東京裁判の証言へとつづく
これは メッセージ 691 (kireigotowadame さん)への返信です.
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通州大虐殺ー30万人を虐殺
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/01/05 06:47 投稿番号: [693 / 2250]
30万でも3千でも一人でも同じ。まさか数量は減少したら、日本人や通州の被害者や彼らの親類の悲しい感じも減少できる?いいえ、同じです。
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中国人の伝統的虐殺方法
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/01/04 17:20 投稿番号: [692 / 2250]
「近水楼入口で女将らしき人の死体を見た。足を入口に向け、顔だけに新聞紙がかけてあった。本人は相当に抵抗したらしく、着物は寝た上で剥(は)がされたらしく、上半身も下半身も暴露し、4つ5つ銃剣で突き刺した跡があったと記憶する。陰部は刃物でえぐられたらしく、血痕が散乱していた。帳場や配膳室は足の踏み場もない程散乱し、略奪の跡をまざまざと示していた。女中部屋に女中らしき日本婦人の4つの死体があり、全部もがいて死んだようだった。折り重なって死んでいたが、1名だけは局部を露出し上向きになっていた。帳場配膳室では男1人、女2人が横倒れ、或(ある)いはうつ伏し或いは上向いて死んでおり、闘った跡は明瞭で、男は目玉をくりぬかれ上半身は蜂の巣のようだった。女2人はいずれも背部から銃剣を突き刺されていた。階下座敷に女の死体2つ、素っ裸で殺され、局部はじめ各部分に刺突の跡を見た。1年前に行ったことのあるカフェーでは、縄で絞殺された素っ裸の死体があった。その裏の日本人の家では親子2人が惨殺されていた。子供は手の指を揃(そろ)えて切断されていた。南城門近くの日本人商店では、主人らしき人の死体が路上に放置してあったが、胸腹の骨が露出し、内臓が散乱していた」
(東京裁判の証言より)
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7月30日 通州事件5 救援部隊の到着1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/01/04 15:43 投稿番号: [691 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇
盧溝橋事件』 読売新聞社刊
391〜393p
《 七月三十日、守備隊は朝来幾組かの斥候を城内のそこここに派遣した。
そして極力敵情を探索し、併 (あわ) せて居留民の収容に努めた。
この日午後四時ごろ、守備隊直接警戒の監視兵が
「増援隊がやって来たぞ!」
と、
狂気のように大声を挙げた。 すると守備隊の兵隊も、収容されていた居留民も、
一斉に
「ワーッ」
という喚声諸共、門の方に向って走り始めた。
馬蹄の響も高らかに、まず駆けつけて来たのが一ヶ分隊の乗馬斥候である。
指揮官の軍曹は辻村中佐を求めて兵舎の中に入って行った。
そして軍曹は中佐を前に顔をほてらせながら報告した。
「萱島部隊の先遣斥候、長以下六名、到着致しました。
部隊は目下、通州街道を守備隊に向って急進中で、
主力は約一時間後、到着し得る距離にあります」
斥候は言葉を続けた。
「萱島連隊長殿からお言付けで、部隊は二十八日、南苑付近の戦闘で、
三十数名の死傷者を生じ、その運搬に難渋しておりますので、
守備隊から自動車二、三輌、至急拝借したいと申しておられます。
部隊の位置へは、我々斥候がこれから誘導して参ります」
トラック数台は直ちに、山田自動車隊の手で整えられた。
それが通州街道を西に向って疾駆し始めたころ、守備隊の柵のあたりには、
増援隊の来着を待つ避難邦人の群の山が築かれていた。
中には西の城門まで駆け出して行く者さえあった。
やがて
「来たぞ来たぞッ、万歳、増援隊万歳!」
守備隊の筋向い、
通州師範学校の前にカーキ色の日本軍の姿が点々として見え始めて来た。
この日午後、在留邦人探索の目的をもって派遣された望月少尉の偵察隊は、
まず通州特務機関に向って行った。
門のところまで来ると、早くも異様な屍臭が鼻を衝く。二、三歩中に入って行くと、
壁という壁には、機関銃弾が蜂の巣のように射ち込まれていて、
戦闘がいかに熾烈 (しれつ) だったかを物語っていた。玄関に近づくとそこには、
顔も名前も判別出来ないような機関員の惨殺死体が構わっていた。
堅く握りしめた五本の指、真っ赤に染まった背広服、見るからに壮烈果敢、
最後まで特務機関を死守した苦闘の状が偲ばれるのだった。
別の一機関員は両手を荒縄で縛り上げられ、刺され、撲られ、
散々に斬りさいなまれたあげく、首が斬り落されていた。
応接間にはワイシャツを二の腕までもまくり上げ、身に六弾をうけた甲斐少佐が、
白鉢巻も勇ましく、大の字なりに横わっていた。
すぐ其の情報室は、天井まで焼け落ちていて、部屋の前の石畳には、
可憐な少年給仕二人の死体が構わっていた。
重要書類焼却の任務を忠実に果し、拳銃一つに己が生命を託し、
頑張って頑張り抜いたのだろう。》
つづく
これは メッセージ 689 (kireigotowadame さん)への返信です.
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南京大虐殺は中国のでっち上げ
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/01/03 23:05 投稿番号: [690 / 2250]
この通州事件の虐殺のありさまをじっくり観察すれば気が付く。
南京大虐殺と同じ殺し方ではないか。中国人にしかできない殺し方。
当時、中国人はあちこちでこのような虐殺と強奪を行っていた。
同じ自国民に対してである。そしてその虐殺をあたかも日本人がやったかのように仕組んでニセモノの写真を作った。このニセモノの写真を本物と思ったのか、何十枚も自分の本に掲載してあたかも南京大虐殺があったかのように書いた元朝日新聞の記者がいた。私も彼の本を読んだとき、虐殺は本当にあったのだと思いました。しかしそれらの写真がニセモノであることが判明して愕然としました。その時以来、南京大虐殺は疑えば疑うほどほころびが出てくることがわかった。
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7月29日 通州虐殺事件4 近水楼4
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/01/03 14:55 投稿番号: [689 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇
盧溝橋事件』 読売新聞社刊
390〜391p
《 この一言、実に一同に最後の決心をつけさせてくれました。
ほこり臭い土塀の路次を抜けて行くと、あたりの中国人や野良犬までが、
胡散臭さそうな眼付きをして、私達一行を眺めているのです。
私達は黙々として様々な想いにふけりながら、
文字通り屠所の羊となって曳(ひ) かれて行くのでした。
やがて銃殺場につきました。そこは北門城壁のすぐ近くで、城壁の土は一部分
崩れ落ち、その斜面に楊柳の潅木 (かんぼく) が点々生い繁っております。
城壁の内側には黄色く濁った水をたたえて、幅十メートルばかりの濠があり、
私達はその城壁の下、細い道路上に一列に立たされて、
濠の手前から銃殺される事になったのです。
ちょうど真昼どき、非常な暑さでしたけれど、
この時まで暑さの事なんかちょっとも考えた事はありませんでした。
私が一団の最先頭に立って城壁の下まで進んで行くと、
初めて城壁からムーッと暑さの照り返しがくるのを意識しました。
振り返って後を見ると、濠のあちらでは二十名近くの保安隊が、
隊伍を整えて今、狙撃の準備にとりかかっているではありませんか。
私達十一名は、一列にならんで濠の縁に立たされました。
保安隊の兵が、ガチャリと銃に弾を込めた瞬間
「皆さん逃げましょう」
絹を裂くような女の一声!
とたん、ハッと我に返った私は、もう無我夢中でした。 あらかじめ緩めておいた
手のいましめを外し、一散に城壁の崩れを上へ上へと駆け上りました。
パンパン!
ビューンビューン!
という音が、私一人を追っかけて来ます。
どこをどう走ったか、全く覚えておりません。次の瞬間、私は城壁上から身を躍らせ、
丈余の城壁の外側を、ズルズル下に滑り降りている自分を見出しました。
石垣に生えた楊の枝がビシンと顔に撥ね返って来る。
両の掌が真赤になるまで擦り剥(む)かれてしまう。
全くこの時の気持といったら、心も身に添わず、使い古した映画みたいに、
眼の前を小さな星の光が盛んに乱れ飛んでおりました。
ドスーン、下に転がり落ちるや否や、私は直ちに小さな溝を渡って、
一散に生い繁る高梁畑の巾にとび込みました。
それこそ本当にモグラかドブ鼠の様な格好だったと思います。私は高梁の幹を
押し分け押し開き、がむしゃらに前方、大きな楊の木の方向に進んで行きました。
途中、背後で激しい一斉射撃の銃声を耳にしましたが、想えばあの銃声が、
逃げ遅れた同胞十名の生命をついに断ってしまったのでしょう。
それからの数日間、本当に飲まず食わずの私は、あるいは高梁の畑に眠り、
あるいはドブの中にひそみ、精神力ただ一つで盲目滅法西へ西へと歩み続け、
八月一日、ようやく北京城朝陽門外に到着する事が出来ました。
いったん銃殺場まで引っ張られて行って、首の座に直った私が、
今、こうしてあなたとお話している事を思うと、夢ではなかろうかと、
今なお我と我が身をつねってみたくなるくらいです。》
児島襄著 『日中戦争4』 文春文庫
54p
《『旭食堂』
では、女性五人が射殺または刺殺され、男の子二人が
足をつかまれてさかさに壁にうちつけられ、頭骨を粉砕されて殺された。》
つづく
これは メッセージ 688 (kireigotowadame さん)への返信です.
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7月29日 通州虐殺事件4 近水楼3
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/01/02 15:07 投稿番号: [688 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇
盧溝橋事件』 読売新聞社刊
389〜390p
《 私はポケットの中の百元の旅費を、スッカリまき上げられてしまったばかりでなく、
さらに商売道具のカメラまで取られてしまい、それこそ着のみ着のままになってしまいました。
この際、金なんかてんで問題じゃありません。生命さえ保証してくれるんだったら、
百元が千元でも決して惜しいとは思わなかったんです。
ところがどうでしょう。金を全部集め終ると、保安隊はどこからか麻縄を持ち出して来て、
私達の腕を片ッ端しから縛り始めました。
私は今までによく、中国の巡警が賭博犯人や何かを捕まえて、
何人も数珠つなぎにして引っ張って行くのを見た事がありますが、
今の私達は、全くあれと同じにされてしまったのです。
二階から降されて玄関まで来ると、どうでしょう。
まだ真新しい壁、柱に、小銃弾や拳銃弾が沢山食い込んでいて、
そこの板張りには、朱色の血潮がダブダブ一面に流れているのです。
私は歩きながら、チラリと左の方、女中部屋をのぞき込みました。
そこには三、四名の女中が、惨殺されたばかりと見えて、深紅に染まって
折り重なっており、まだ完全に死に切れないでピグピグうごめいているんです。
残忍眼をおおわしめるといおうか気の弱いご婦人なんかにこの場の光景をお見せしたら、
即座に貧血を起して倒れてしまう事は確実です。私達はこの日朝から、
今か今かと、立て続けに生命の脅威におびえ続けてきたもんですから、
大分肚も据わってしまい、冷静に情況を判断するだけの余裕が出来ておりました。
私共が近水楼の玄関前に曳き出された時、そうです。もう十一時にはなっていたでしょう。
時計が無いからわからんのですよ。真夏の陽が、頭の真上からカンカン照りつけて
おりました。そこへ先程の隊長がやって来て、
「生命を保護する」
といった言葉なんかてんで忘れ、部下に対し
「オイ、
こいつ等を北門内の槍斃場 (チャンピージャン) へ連れて行け!」
と命じました。
槍斃場 (チャンピージャン)、つまり銃殺場、
このくらいの中国語は皆わかるもんですから、そこで一同愕然 (がくぜん) として!
さてはやっぱり銃殺だったのか
−
と、今さらながら瞞 (だま) された事に気がつきました。
武装した数名の保安隊に護衛され、銃殺場に引き立てられて行く途中、私は
−
どうせこうなったら、我我何もおとなしく保安隊のいう事なんか聴く必要はない。
生きるか死ぬかの瀬戸際じゃないか。一つこの縄、ブチ切って逃げてやろう。
逃げられるだけ逃げて、それで失敗したからといっても、死ぬ事においては
結局同じじゃないか。万が一助かるという事がないでもあるまい。
−
盛んにそんな気持にかり立てられました。
その時、その中の一人の婦人が
「皆さん、殺されると決まったら、日本人として立派に覚悟いたしましょう」
と、キッパリ大声で言い放ちました。》
つづく
これは メッセージ 685 (kireigotowadame さん)への返信です.
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Re: 通州事件ー東京裁判の証言より
投稿者: konoyo_anoyo 投稿日時: 2011/01/01 21:22 投稿番号: [687 / 2250]
これって全く南京大虐殺そのものですね〜。
南京大虐殺はシナ人が日本国を貶めるために造った。
通州事件の大虐殺は事実有った。これをシナ人学べ!
ま、シナ人は21世紀になっても蛮人そのもの。
これは メッセージ 686 (kabu_kachan7 さん)への返信です.
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通州事件ー東京裁判の証言より
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/01/01 19:02 投稿番号: [686 / 2250]
次の文章は、通州事件の目撃者による証言の一部である。
「守備隊の東門を出ると、数間ごとに居留民男女の死体が横たわっていた。某飲食店では、一家ことごとく首と両手を切断され、婦人は十四、五歳以上は全部強姦されていた。旭軒という飲食店に入ると、七、八名の女が全部裸体にされ、強姦射刺殺され、陰部に箒を押し込んである者、口中に砂を入れてある者、腹部を縦に断ち割ってある者など見るに堪えなかった。東門の近くの池では、首を電線で縛り、両手を合わせて、それに八番線を通し、一家六名数珠つなぎにして引き廻した形跡歴然たる死体が浮かんで居り、池の水は真っ赤になっていた。夜半まで生存者の収容に当たり、『日本人はいないか』と叫んで各戸ごとに調査すると、鼻に牛の如く針金を通された子供、片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦などが、そこそこの塵箱の中やら塀の陰から出て来た」(朝日新聞法廷記者団『東京裁判』昭和三十八年・中巻30ページ)
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7月29日 通州虐殺事件4 近水楼2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/01/01 17:14 投稿番号: [685 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇
盧溝橋事件』 読売新聞社刊
387〜389p
《 やがて表の方で、 「ピリリーッ、ピリッ!」
という呼笛の音が聞えました。
学生団はそれを合図にドヤドヤッと家の中にとび込んで来ました。
屋根裏の小窓からのぞいていると、彼等は椅子、机、お客さんの靴、置時計など、
手当り次第に掠奪を始めているのが、手にとるようによくわかります。
突然、玄関の所で、二、三発の銃声と共に、けたたましい女の悲鳴が起りました。
これは玄関脇の押入れに隠れていた女中達が、拳銃弾の洗礼をうけ、
非業の最期をとげた時の悲痛な叫びだったのです。
学生団は土足のまま、とうとう二階まで駆け上って来ました。
襖や板戸を蹴飛ばす音、すぐ間近で発射する拳銃の響、
最初のうちは単なる掠奪だと思っていたのですが、先程のボーイの言葉といい、
今また玄関口での女の悲鳴といい、それやこれやを思い合わせ
−
彼等の目的とするところは、日本人の虐殺なんだ
−
そう感付いた時、にわかに襟元から三斗の冷水を浴せかけられたような気持がしました。
我々の運命はもはや旦夕に迫っているんだ。お互いはいわず語らず、ただ、
わずかに目くばせしながら、息をこらして事の成り行きを静観し続けました。
辛い、学生達は私共が天井裏に隠れている事には、とうとう気がつかなかったらしく、
やがて
「さあ、取るだけ取ったらみんな下へ降りろ!」
声諸共、ドカドカ階段を降りて表の方に行ってしまいました。
−
やれ安心!
−
息つく暇もなく、今度は保安隊が入れ違いに入って来ました。
一難去ってまた一難、こいつらは冀東長官殷汝耕の衛隊なのです。
彼等はスッカラカンに掠奪された部屋の中に、まだ何か目星しいものが
残ってやしないかと、眼を皿のようにしてあちこち捜し回りました。
そしてだんだん私達の隠れている方に近づいて来ました。この時の気持といったら、
十一人が十一人、全く生きた心地もせず、ただただ神仏にすがりたい気持で一杯でした。
−
南無三
−
しかしその時はもうおそかったのです。保安隊の隊長らしいのが、
私達の屋根裏の入り口を見付け出してしまいました。
何とかッ!
と叫ぶと、部下の保安隊が五、六名、バタバタッと彼の周囲に駆け
集まって来ました。隊長は、グッと首を突き伸ばし、私共の方に向って呼びかけました。
「おい君達、君達の生命は確実に保護して上げる。
保護する代りに持っている金は全部ここに出し給え!」
否といえばすぐにでも発射せんばかりに、隊長の右手には大型拳銃が握られているのです。
一同は無言のまま、ゴソゴソやって蟇口や財布の中から、
しわくちゃになった一元札や、紫色の判をベタベタ押した五元紙幣を
取り出しました。彼等は金が欲しいばかりに、
私達一人一人に手を貸して、屋根裏から下に助け降してくれました。》
つづく
これは メッセージ 684 (kireigotowadame さん)への返信です.
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7月29日 通州虐殺事件4 近水楼1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/12/31 14:09 投稿番号: [684 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇
盧溝橋事件』 読売新聞社刊
386〜387p
《 残忍な殺戮は町から町へ、巷 (ちまた) から巷へと続けられて行った。
掠奪は城内随所で、もうだれはばかるところなく、白昼公然行われていた。
かの有名な近水楼の大虐殺、並 (ならび) に凄惨 (せいさん) 極まる銃殺場の
情況については、当時だれ一人これを知る者もなかったが、
同盟通信特派員、安藤利男氏が、冒険をあえてして銃殺場を脱出し、
北京にたどり着いたので、初めて惨劇の実相が世界に向って発表されたのである。
安藤特派員が、直接私に語った真相は次の通りだった。
その晩、私は近水楼に泊っておりました。
二十九日の明け方早くから起った銃声や砲声。私は寝床の中で
−
いよいよ通州の近くでも戦争が始まったんだなあ、宝通寺の敗残兵共、
いくらこんなところでジタバタしたって勝てるもんか。
やるつもりならやってみろ
−
そんな事を考えておりました。
でもそこが特派員としての職業意識ですかね。戦争が始まったなら始まったで、
早速これをニュースにして送らなければならぬ。
ちょうどいいところに来合わせたとはいうものの、果してこれがどの程度の
ニュースバリューを持っているかな、など思いながら、
床から起き上ろうとした時、銃声砲声が俄然はげしくなってきました。
どうやらすぐ近くの日本軍守備隊付近で起っているらしいのです。
−
さては日本軍、もうやっているんだな!
勇ましいなあ
−
私はホテルのガラス戸越しに外の様子を窺いました。
すると池のかなたを、カーキ服の保安隊が走る。
黒服黒帽の学生らしいのが走る。それ等が所嫌わずポンポン拳銃をブッ放して
騒ぎ回っているのです。初めて冀東保安隊の兵変と云う事に気がつきました。
銃声は大掃除の時、畳をたたく音にも似て、ある時は激しく、ある時は静かに、
また時としては全くの沈黙状態にかえる事さえあったのでした。
午前九時半、いったん銃声も静まり、ホッと一安心しているところに、
近水楼子飼いの中国人ボーイが、血相変えてとび込んで来ました。
「大変です!
旦那!
街では日本人が鏖殺 (みなごろ) しになっていますぜ!
北平館も旭食堂も、女給さんや店の人達、みんな血だらけになって殺されちゃいました。
早く!早く今の中 (うち) に逃げ出して下さい!
今に家にもきっと保安隊がやって来ますよッ!」
近水楼の女中達はそれを聞くなり、キャーッといって騒ぎ始めました。
荷物を整理する者、身の置きどころもなく右往左往する者等々。
その中に銃声砲声がまたまた激しくなってきました。
黒服の学生団がだんだん近水楼の方に押し寄せて来ます。
私はすぐさま二階に駆け上り、畳をあげて一応の弾避けをこしらえてはみましたものの、
彼等が家の中に躍り込んで来たが最後、こんな事くらいで対応出来得るものじゃないと
悟りまして、宿泊客十九名の中、我々十一名は天井板を外して、
屋根裏にもぐり込んで行きました。
女中や何か、下の部屋にいた人達は、
それぞれ物置きや押入れの中に隠れたようでした。》
つづく
これは メッセージ 683 (kireigotowadame さん)への返信です.
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7月29日 通州虐殺事件3−2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/12/30 17:35 投稿番号: [683 / 2250]
浜口特務機関員兄妹の死2
寺平忠輔著 『日本の悲劇
盧溝橋事件』 読売新聞社刊
385〜386p
《 一通り掠奪が終りますと、彼等はみんなドヤドヤ出て行ってしまいました。
私はかすかに目を見開いてあたりの様子を窺いました。
すると文子さんが全身血に染まって苦しそうな息づかいの下から
「痛い!
痛い!」
と唸 (うな) っています。
「文ちゃん!
しっかりしてね。今すぐ介抱してあげますよ」
と小声でいって、
その方にいざり寄ろうとしましたけれど、私も横腹の傷から出血が止まらず、
ズキズキ痛んで寝返り打つ事さえ出来ない有様です。
手を差し伸べて文子さんに触るだけがようやっとの事でした。
可哀相に文子さんは転々として、しきりに苦しみ悶えておりましたが、最後に
「お母さま!
お母さま!」
二声呼んだきり、とうとう息を引取ってしまいました。
文子さんはお父様もお母様も、もう七、八年も前に亡くなっておりました。
でも非常な親思いの娘さんでしたから、この時、多分お母様の霊が文子さんを
迎いにいらっしゃったのかもわかりません。
それから数時間、私は意識不明の中に、こんこんとして眠り続けました。
ふと気がつきますと、安田さんの奥様が、他の方の死体の間から頭をもたげて、
あたりを見回しておられるのです。私は覚えず
「奥様!」
呼んだっきり、しばらくは続く言葉もございませんでした。嬉しさ、悲しさ、
怖ろしさ、あらゆる感情がゴッチャになって、一時にこみ上げて来たのですね。
十人ばかりの中、助かったのは私と安田さんの奥様と、タッタ二人っきりでした。
外の方ではまだ一しきり、激しい銃声砲声が続いておりました。
でもあの日、日本軍の飛行機の爆音が聞えた時の嬉しさ
−ああこれでやっと助かる−
生れてこの方、こんなに有難いと思った事はありませんでした。
翌三十日、私は守備隊の方に助け出されてこちらに参りましたが、
ここでまず気にかかりましたのは主人の消息です。
私は傷の痛みも押しこらえ、兵隊さん方とご一緒に特務機関に参りました。
ここは本当に形容のしようもないほどひどく荒されておりまして、保安隊の死体と
日本人の死体とが、入り混じって数多くそこの土間に斃 (たお) れておりました。
私はようやくにしてその中から、主人の死体を見出しましたが、
随分悪戦苦闘したものとみえまして、身体には弾丸が七発も食い込んでおり、
その上、大きな切り傷までも受けていまして、
全く顔をそむけずにはおられない状態でした。
こうして主人は遂に命を堕してしまいましたが、でも、光栄ある特務機関の一員として、
お国のために大陸の土となりました事は、どんなに本望だった事でございましょう。
兄妹そろって靖国神社にお祭りしていただけるとうかがいまして、今となっては
ただそれだけがせめてもの……といったまま、夫人はハンカチで顔を掩って嗚咽した。》
つづく
これは メッセージ 682 (kireigotowadame さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/683.html
7月29日 通州虐殺事件3−1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/12/29 18:55 投稿番号: [682 / 2250]
浜口特務機関員兄妹の死1
寺平忠輔著 『日本の悲劇
盧溝橋事件』 読売新聞社刊
383〜385p
《 次にもう一人、通州特務機関員、浜口良二氏の夫人、
茂子さんから当時の模様をきいてみよう。
主人は機関の方のお仕事が忙しいため、そのころは連日連夜、
特務機関に詰め切っておりました。
私は二十八日の夜、同じく特務機関にタイピストとしてお勤めしておりました主人の妹、
文子さんと、枕を並べて寝ておりましたところ、
明け方近く、突然、パンパーンという激しい銃声が始まりました。
これが冀東保安隊の反乱だなどとは、どうして想像いたしましょう。
私はお近くの安田さんの奥さんやその他の方々と
「これはきっと宝通寺にいた二十九軍の敗残兵が、
意趣返しにやって来たに違いありませんワ。ナーニ、
「守備隊には日本の兵隊さんがいらっしゃるし、城内には城内で、
冀東の保安隊が沢山いるんだから、私達、親船に乗った気持でいればいいのよ。
この機会に、ちょっと戦争見物でもさせていただきましょうか」
など話し会って、コワイ中にもお互い励ましあっておりました。
ところが銃声は下火になるどころか、ますます激しさを加えて参ります。
そしてだんだん私共の家の方に近づいて来る事がわかって来ました。
一人の奥さんが
「ちょっと外の様子を確かめてみましょう」
と、表の戸を
開けたとたん、ビュッ、と飛んで来た一発の小銃弾で、負傷なさってしまいました。
間もなくその敵兵は、門を壊し土塀を乗り越え、ドヤドヤ家の中へとび込んで参りました。
そのカーキ色の服を見た時
「アラッ!冀東の保安隊じゃない?」
私達は覚えず声を挙げて驚くと同時に、にわかに怖ろしさが増して来ました。
今の今まで、何よりの味方と信頼し切っていたその保安隊に、
スッカリ裏切られてしまったんですもの!
小銃、拳銃の弾が情け容赦なく、パンパン私共の方に注がれて参ります。
一緒に集まっていた方々が、私の眼の前でバタバタ斃 (たお) されて行くのです。
私が実の妹のように可愛がっていた文子さんも、とうとうやられてしまいました。
私も一発、右腹部に弾をうけましてその場に倒れてしまいました。
保安隊は片ッ端から掠奪を始めています。私と安田さんの奥さんとは、
真っ赤に返り血を浴びて倒れていましたため、多分もう死んだとでも思ったのでしょう。
それでも大刀で私の肩を小突きながら
「死んだか。死んだか」
と確かめているのです。
ちょっとでも動いたらバッサリやられてしまうんですから、
私はもう、本当に息を殺して死んだ風を装っておりました。
そしたら保安隊の一人が、突然、私の指輪を、指も千切れんばかりにもぎ取りました。
次に腕時計を剥ぎ取りました。
他の方々の死体を彼方 (あっち) に転がしたり此方 (こっち) に転がしたりして、
まだ何か金目のものはないかと探しているらしいのです。》
つづく
これは メッセージ 681 (kireigotowadame さん)への返信です.
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7月29日 通州虐殺事件2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/12/28 18:42 投稿番号: [681 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇
盧溝橋事件』 読売新聞社刊
381〜383p
《 一通り掠奪が終ると、保安隊は私に、「起てッ!」
と荒々しい怒声。
私はほとんど追いまくられるようにして北門内の銃殺場、女子師範学堂に
引っ張られて行きました。そこにはすでに、
私より先に捕まえられた二十人あまりの内、鮮人が来ておりました。
みんな蒼ざめた、そして髪ふり乱した顔に、沈痛の色を漂わしております。
まだうら若い朝鮮の女性が、荒縄でグルグル巻きに縛られたまま、
保安隊から銃の台尻で、骨も砕けんばかりにヒドくたたかれ、
ヒーヒー叫び声をあげている姿を目撃しました。
いったいあの女性に何の罪咎 (つみとが) があるというのでしょう。
いや、これは決して他人事ではない、やがては間もなく私の身にも降りかかって
来るのだと思った時、もうジッと正視している事が出来ないで、
下を向いたまま目をつぶってしまいました。
私の脳裏にはまず洋子の姿が映じて参りました。満洲夫の叫び声が聞えて参りました。
−
そうだ。私は早く帰って、満洲夫を助け出してやらなければならない
−。
私は眼を開きました。そしてあたりを見回しますと、監視兵の姿が見えません。
私は立ち上りました。そしてまっしぐらに町の方にとび出しました。
もう傷の痛さも仕返しの怖ろしさも、何も考えませんでした。
土塀の間を縫って、グネグネした小路をたどって、どこをどう走ったかも、
全然記憶に残っておりません。
やがて私が目ぬき通りを横切ろうとした時、保安隊の幹部が三人、馬に乗って
走って来るのに出会いました。私はもうこれで、お終いだと観念しました。
ところが彼等は、別に馬の速度を落すような様子もなく、
それでも何度も何度も振り返り、私の方を眺めながら行き過ぎました。
恐らく頭から一杯浴びた洋子の血汐と肉片を見て、大変な重傷だ、
放っておいても間もなく死ぬだろうぐらいに思ったのかも知れません。
私が家にたどりつくと、主人は家の前で敵弾に当って、すでにこと切れておりました。
満洲夫は私が曳 (ひ) かれた後を慕って、追いかけたのでしょう。
その方向に腹這い寄ったまま、出血多量でなくなっておりました。
家の中に入って見ると、もう床板一枚無いまでにひどい掠奪をうけているのです。
この掠奪は、保安隊だけがやったのではなく、近所の住民がこのドサグサに便乗し、
何から何まで運び去っていった事は明瞭でした。
彼等はそれから後も、まだ何か残ってやしないかと入れ代り立ち代りやって
来ますので、私はその都度、今度こそは今度こそはと覚悟を決めておりました。
・・・
お昼ごろ、どこからともなく飛行機の爆音が聞えて参りました。日本軍の飛行機です。
私はこの時程嬉しい思いをした事はありませんでした。
覚えず庭にとび出して、今まで大事に大事に懐に納めておりました
日の丸の旗を取り出しまして、力一杯振り回しました。
−
日本人がここにおりますよ!
−
叫びたい気持で一杯でした。
でも付近には保安隊がまだまだ沢山います。
見つかったが最後、一たまりもなく殺されてしまいますので、
振っては家の中に駆け込み、またとび出しては振る
そうした努力は致しましたけれど、飛行機にはそれが通じたのか通じなかったのか、
やがて北の方へ飛び去って行ってしまいました。
・・・
ともかくここを脱出しよう。・・・
と思いつきました。
その手段として中国人のようにスッカリ断髪してしまい、
汚れた中国服を身にまといまして、脱出の機会をうかがいました。
我が爆撃のお陰で保安隊もスッカリ退散してしまい、三十日には日本の兵隊さんが
私達を救い出しに来て下さいましたので、どうやら命だけは助かる事が出来ました。》
つづく
これは メッセージ 680 (kireigotowadame さん)への返信です.
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