7月30日 投降する通州保安隊
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/01/11 18:33 投稿番号: [705 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇
盧溝橋事件』 読売新聞社刊
399〜400p
《 午後零時三十分、銃声砲声はまだしきりに鳴り響いていた。
しかし頭首を失った保安隊には、それっきり何の命令も伝わってこなかった。
高向級幹部がまず
「総隊長がいないのに、俺達ばかり戦争したって意味はないぞ」 と騒ぎ始めた。
幹部は置き去りにされていた殷汝耕の車の周りに集って来た。
長官の縄目はすぐに解かれた。
長官はいった。
「私はすでに、長官としての立場を失ってしまった。
だから今さら君達を指揮するなんて、出来はしない」
「我々は長官に楯突く気持はなかったんです。
ただ、総隊長がむりやり命令したもんですから、こんな結果になってしまって。
我々今後の身の振り方は、長官におすがりする以外、全然方法がありません」
「君達がそういう希望を持っているなら、とりあえず私を日本側と交渉させなさい。
そうすれば今後の措置について、あるいは何とか目鼻がついてくるかもわからない」
殷汝耕はここから日本大使館に電話しようと思ったが、城門は厳重に鎖され、
そのすべがない。やむなく車を反転させ、先ほど来た城壁の下を通り、
安定門外環状鉄路の駅舎に到着した。 駅長に交渉して駅の電話を借り、
殷汝耕自らまず電話をかけた。 相手は大使館武官室の今井少佐である。
武官室からはすぐこの事が特務機関に連絡された。 私は武官室の浦野大尉、
及び憲兵一名を伴って安定門に向って自動車をとばせた。
城門の上から外を眺めると、広場には何百という保安隊が押しかけて来ているが、
あの時ほどの殺伐さはなく、すこぶる平静な態度だった。
私達は城門から降りた。 そして巡警に命じて門扉を小開きにさせ、
そこにいた保安隊員の一人に、殷長官をお呼びするよう伝えた。
駅長室で休憩していた殷汝耕は、やがて私の前に姿を現わした。
細目に開けられた鉄扉の間から、彼は手を差し伸べて私と握手した。
彼の双眸 (そうぼう) からは涙がこぼれ落ちていた。
私と殷汝耕とは昭和十年の二月、彼がまだ薊密 (そみつ) 区督察専員だった時代、
玉田保安隊移駐勧告のため、雪降り注ぐ厳冬のさなか、
一緒の自動車で玉田県城に乗り込んで行った事があった。その時が初対面だった。
数日にわたって彼と同じ釜の飯を食べ、寝台を並べて横たわり、ことに
「あなたのご出身は静岡市なんですか。
私の家内も静岡の三浦女学校を卒業しましてね、……」
といったような話から、格段の親しみを覚えるようになった。
その後彼は、池宗墨を伴って、しばしば天津明石街の私の家を訪れて来た。
私が北京特務機関補佐官として、着任挨拶のため冀東政府に行った時、
彼は 「なぜ、通州特務機関に来て下さらなかったんですか」 と
さんざん怨み言を並べたのも覚えている。
今日の殷汝耕は、一昨夜以来の心痛のため、げっそり痩せ衰えているのが目立っていた。
「私の統率が不十分だったため、日本の方々を多数、ああした悲惨な結果に
立ち到らせ、お詑びの言葉もありません。
ついては冀東の善後措置もご相談申し上げたいので、お電話したような次第です」
「今井武官がその件で、今関係方面と連絡しています。それが終り次第、
こちらにお迎えを差し向けることと思いますので、もうしばらくここでお待ち下さい」》
つづく
399〜400p
《 午後零時三十分、銃声砲声はまだしきりに鳴り響いていた。
しかし頭首を失った保安隊には、それっきり何の命令も伝わってこなかった。
高向級幹部がまず
「総隊長がいないのに、俺達ばかり戦争したって意味はないぞ」 と騒ぎ始めた。
幹部は置き去りにされていた殷汝耕の車の周りに集って来た。
長官の縄目はすぐに解かれた。
長官はいった。
「私はすでに、長官としての立場を失ってしまった。
だから今さら君達を指揮するなんて、出来はしない」
「我々は長官に楯突く気持はなかったんです。
ただ、総隊長がむりやり命令したもんですから、こんな結果になってしまって。
我々今後の身の振り方は、長官におすがりする以外、全然方法がありません」
「君達がそういう希望を持っているなら、とりあえず私を日本側と交渉させなさい。
そうすれば今後の措置について、あるいは何とか目鼻がついてくるかもわからない」
殷汝耕はここから日本大使館に電話しようと思ったが、城門は厳重に鎖され、
そのすべがない。やむなく車を反転させ、先ほど来た城壁の下を通り、
安定門外環状鉄路の駅舎に到着した。 駅長に交渉して駅の電話を借り、
殷汝耕自らまず電話をかけた。 相手は大使館武官室の今井少佐である。
武官室からはすぐこの事が特務機関に連絡された。 私は武官室の浦野大尉、
及び憲兵一名を伴って安定門に向って自動車をとばせた。
城門の上から外を眺めると、広場には何百という保安隊が押しかけて来ているが、
あの時ほどの殺伐さはなく、すこぶる平静な態度だった。
私達は城門から降りた。 そして巡警に命じて門扉を小開きにさせ、
そこにいた保安隊員の一人に、殷長官をお呼びするよう伝えた。
駅長室で休憩していた殷汝耕は、やがて私の前に姿を現わした。
細目に開けられた鉄扉の間から、彼は手を差し伸べて私と握手した。
彼の双眸 (そうぼう) からは涙がこぼれ落ちていた。
私と殷汝耕とは昭和十年の二月、彼がまだ薊密 (そみつ) 区督察専員だった時代、
玉田保安隊移駐勧告のため、雪降り注ぐ厳冬のさなか、
一緒の自動車で玉田県城に乗り込んで行った事があった。その時が初対面だった。
数日にわたって彼と同じ釜の飯を食べ、寝台を並べて横たわり、ことに
「あなたのご出身は静岡市なんですか。
私の家内も静岡の三浦女学校を卒業しましてね、……」
といったような話から、格段の親しみを覚えるようになった。
その後彼は、池宗墨を伴って、しばしば天津明石街の私の家を訪れて来た。
私が北京特務機関補佐官として、着任挨拶のため冀東政府に行った時、
彼は 「なぜ、通州特務機関に来て下さらなかったんですか」 と
さんざん怨み言を並べたのも覚えている。
今日の殷汝耕は、一昨夜以来の心痛のため、げっそり痩せ衰えているのが目立っていた。
「私の統率が不十分だったため、日本の方々を多数、ああした悲惨な結果に
立ち到らせ、お詑びの言葉もありません。
ついては冀東の善後措置もご相談申し上げたいので、お電話したような次第です」
「今井武官がその件で、今関係方面と連絡しています。それが終り次第、
こちらにお迎えを差し向けることと思いますので、もうしばらくここでお待ち下さい」》
つづく
これは メッセージ 704 (kireigotowadame さん)への返信です.