入って中国人に南京事件真相議論しましょう

Yahoo! Japan 掲示板トピックビューアー

[ << 最初のページ | < 前のページ | メッセージリスト | [ メッセージ # オフセット ] | 次のページ > | 最後のページ >> ]

謎の宛平城射撃と 空砲演習の通告要請

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/06/19 15:15 投稿番号: [481 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇   盧溝橋事件』 読売新聞社刊

51〜52p

《 馮治安が、今度河北省政府のある保定に、新たに外賓招待所というのをこしらえて、
どういう風の吹き回しか、陸軍武官今井武夫少佐に、

迎賓ナンバーワンの招請状を発してきた。
七月三日、武官は馮治安と列車を共にして保定に向った。


車中、馮治安は

「このごろ宛平城の北面の壁めがけて、夜間しきりに機関銃の射撃をする者が
あって困るんです。それが空包じゃなくって実弾なんです。

一応日本側でも、豊台の部隊あたりを調べてみて下さいませんか?」
と申し出た。

「そりゃ初耳です。どういう理由か知らないが、一応調べるだけは調べてみましょう」
翌四日、武官はそれを旅団次級副官の小野口大尉に照会した。

副官は早速豊台部隊に連絡し、各中隊隈 (くま) なく調べたがそんな事実は全くない。
そこで五日朝、その事が武官に報告され、武官から馮治安あてに回答が発せられた。

日本軍が好き好んで夜中に宛平城を射撃するなど常識としても考えられないし、
ことに実弾使用という事になると、

日本軍では射耗報告がやかましいので、そんなでたらめな射撃は出来るはずがない。》


*   3日に馮治安が、こういう事を言い、翌4日、林耕宇が旅団の方に、
空砲の演習でも事前通告してくれと申しこみます。


48p〜49p

《「特務機関ですか、私、旅団副官の松山少佐です。
寺平補佐官を電話口までお願いします」 七月四日のもう日暮れ時である。

明日、軍に提出しなければならない冀察 (きさつ) 情報月報に筆を入れていた私は、
早速ペンを投じて電話にかかった。

・・・
「・・・   時に今日はですねえ。ちょっと面倒な事をご相談するんですが……

実は昨日、河辺閣下のお伴をして中国側の宴会に行ったんです。
そしたら例の外交専員の林耕宇がですねえ。

今後日本軍が空包を使って演習する場合、とりわけ夜間演習の時には、
必ず中国側にあらかじめ通告して欲しいというんです。・・・」》


つづく

戦争前の不穏な状態

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/06/18 18:39 投稿番号: [480 / 2250]
児島襄著 『日中戦争3』 文春文庫


381〜383p
《 だが、この年の会議は異質であった。

これまでと同様に軍の夏期訓練もおこなわれるが、今回は 「政治学校訓導班」
「中央軍事機関各庁長」 「各軍校教育長」 「機械化部隊各隊長」 が招集された。

また、国民政府の各院長、行政院各部長をはじめ政府主要機関の幹部もあつめられ、
各大学、専門学校の教授、中学校長、ジャーナリスト、民間団体の有力者など

約四千五百人も参集して、「救国談話会」 をひらく。

蒋介石は、会議の要目を国防、政治、経済、教育の四つにしぼり、
訓練の目標を 「組織管理能力」 の向上と 「精神力」 の強化においた。


だが、この時期に 「全支の人材総動員!」 と 『東京朝日新聞』 も嘆声をあげたほどの
大会議を招集するのは、たんなる軍官民の研修のためだけではないはずである。

一般にも、この会議は、「招集各党各派及各軍商議救国方案」 という
「西安事変」 いらいの共産党側の要求にこたえたもの、と理解されていた。

つまりは、抗日戦にそなえての〝国家統一会議〟の性格をもつものであろう。

この 「廬山会議」 の予定会期が、七月十五日から八月十五日である。
その会期末までに綏遠省の防禦工事を完成せよ   −   と、蒋介石は指示する。

米参事官ペック風に推理すれば、あるいは 「廬山会議」 で
対日宣戦が決議されるのでもあろうか……。


―   北京では、
いぜんとして、夜間特別警戒が施行されていた。

警戒措置は、前述したように、「青年学生的便衣隊」 の〝暴発計画〟にあわせて
実施されたが、その最終予定日の六月二十八日がすぎても解除されなかったのである。

「青年学生的便衣隊」 事件については、なにも公表されていない。

そこで、連夜の警戒態勢に応じて、ますます不穏な噂が乱れとぶことになったが、
その多くは、日本人の 「使嗾」 または 「参加」 による暴動、兵変を予告するものであった。

北京駐在武官補佐官今井武夫少佐は、不審と不安を感じた。

とくに少佐の神経が刺戟 (しげき) されたのは、警戒措置の責任者が〝反日派〟で
知られる第三十七師長馮治安であることであった。


少佐には、警戒措置の理由は不明である。

日本人が関係するという暴動の噂のためか、とも思うが、その噂が無根であることは
少佐自身が承知しているし、その種の噂はこれまでにも少くなかった。

そんな噂を根拠にして警戒態勢がとられるとは、思えない。

豊台の日本軍の演習は、近づく第二期検閲 (七月九日〜十六日) にそなえて、
六月二十五日から強化された。北京の夜間警戒措置は、その翌日から施行された。


では、警戒は日本軍の演習にたいするものなのか   −   といえば、これもおかしい。

日本軍の駐留は、明治三十四年 (一九〇一年) の 「北清事変ニ関スル議定書」
によって、英、米、フランス、イタリヤ各国とともに認められたもので、

駐留地での演習も公認されたものだからである。

すると、北京をふくむ河北省の軍事、政治両面の最高責任者である宋哲元が不在中に、
あえて第三十七師長馮治安が警戒態勢を実施するのは、なぜか……。》


つづく

中国の対日戦準備

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/06/17 18:34 投稿番号: [479 / 2250]
児島襄著 『日中戦争3』 文春文庫
379〜381p


《 日本は戦争を望んでいないと判断され、
その判断は、川越声明で裏書きされたといえる。

蒋介石は、六月三十日、これまでの措置が 「皆有相当之成就也」
と満足の意を日誌に記述し、翌日、七月一日には、

「中国 応具 必戦之決心 而後 可以免戦、必 如是 乃得 達成不戦 而 収復失地之目的」
と、こんごの方針を定めた。

戦争の決意と準備をしてこそ、戦争も回避できるし、
戦わずに失地回復の目的も達成できる、といった趣意である。

日本に 「戦意」 がないと見定め、逆に中国側の 「戦意」 と武備の誇示
によって日本の譲歩をさそおうとする方策でもあろうか……。


では、蒋介石は、いつまでに対日戦備をととのえようとするのか。

既述したように、蒋介石は二月には 「三年ないし五年」 を予定し、
ソ連の五カ年計画、ドイツの四カ年計画の研究も指示している。

日本の参謀本部が 「一九四〇年」 をメドに対ソ戦備の充実を企図している如く、
蒋介石もほぼ同時期を対日戦備の完成期に想定していたのであろうか。

いやもっと早く、日本側の 「戦意」 と戦備不足に乗じて対日宣戦をする   ―   と
推理したのが、米大使館参事官W・ペックであった。

参事官ペックは、蒋介石が 「必戦之決心」 方針をさだめた七月一日、
外交部長王寵恵と会談した。


王部長は、ソ連との経済交渉が頓挫している旨を語り、
対日関係についても率直に次のように述べた。

「日本政府は、当分、新たな侵略行動には出ないと思う。
その間に、中国政府は、

国益を守るには武力に依存せねばならぬことを考え、
自衛力の増強のために全力をあげる。

とくに十一月十二日の国民大会までは、(日本との)武力衝突がないことを願っている。

陝西省北部の共産軍の一部は、すでに提案を受諾しているが、政府は、
有事のさいの 『有力な武器』 としての共産軍の維持につとめている」

参事官ペックは、この王部長の発言から、中国は、日本側の準備未熟の機会をとらえて、
「おそらく十一月の国民大会で対日宣戦をする」 ものと、予測したのである。


蒋介石は、訪米中の財政部長孔祥煕にたいして 「十年以上」 の延払いで建設機材、
発電機械および 「煉鋼廠」「人工煉油廠」「機関車頭製造廠」「造船廠」「飛機製造廠」

などのプラント輸出、また軌道千キロ分、機関車百輌の売却を米政府にもとめるよう
指示したが、七月二日、綏遠省主席傳作義に次のように急電している。

「指示関 於 綏東綏北 各区工事、務於 八月十五日以前 全部 完成、
切望 厳督各部、星夜カン築、勿誤」

なぜ、なにがなんでも 「八月十五日」 までに完工させねばならないのか。
この日付けで連想できるのは、いわゆる 「廬山会議」 である。》


つづく

事件を企む怪しい学生達

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/06/16 18:39 投稿番号: [478 / 2250]
児島襄著 『日中戦争3』 文春文庫   376〜378p


《   −   六月二十三日、

通州方面から中国服姿の若者が三々五々といった形で、次々に北京市内にはいってきた。
似たような雰囲気の青年たちで、どうやら二、三百人のグループであるらしい。

巡警が数人に不審訊問をこころみると、いずれも大学生だとこたえた。 ただし、
大学はそれぞれにちがい、燕京大学、清華大学、東北大学、輔仁大学などの名をあげた。

そして、その主張どおりに、青年たちは以上の大学付近にむかい、
民家にはいったり、街をぶらついたりしていた。

どうも、おかしい   −   というので、報告をうけた北京市長秦徳純は、
公安局長陳継淹に調査を命じた。


公安局長が二、三人を連行して取調べすると、その一人が不穏な計画を自供した。
「われわれは大学生だが、共産主義者ということになっている」

六月二十六、二十七、二十八日のうち、風向きの良い夜をえらび、西直門付近で放火、
暴動を起し、「打倒宋哲元」「歓迎紅軍北上」 を市民に呼びかける計画だ、という。

当人が自白したアジトを捜索すると、拳銃、機関銃、赤旗、
宣伝ビラその他の証拠品が発見された。

公安局は、ただちに 「不穏青年」 たちの検挙を開始し、
北京市内に潜入した大部を捕え、一部は逃亡した。


以上   −   は、中国紙 『港報』 がつたえる事件の概要である。
・・・
暴動計画の実行日とみられる六月二十六日から、北京市内には夜間特別警戒が施行された。

事件は極秘にされ、特別警戒の理由も公表されなかったので、
かえって流言と輩語の勢いを増した。

だが、「青年学生的便衣隊」 のほとんどが事前に逮捕されたためか、
暴発の予定日と告白された二十六、二十七、二十八日は、いずれも無事にすぎた。


その翌日、六月二十九日、駐支大使川越茂が帰任し、上海で記者会見をおこない、
日中両国の親善を強調したが、とくに次のように言明した。

「日本の発展と中国の発展とにより、あるいは摩擦を生ずることも考えられるが、
日本は戦争を欲しておらず、中国もまた同じであろうと信ずる」

日本は戦争を欲せず   ―   という、この川越声明は、中国側に歓迎され、
蒋介石にも安堵感をあたえた。


蒋介石は、それまでに、あるいはドイツにたいして
「軽戦車百二十輌、十五センチ加農 (カノン) 砲八門」 の追加注文をおこない、

米国に経済援助をもとめ、さらには山東省主席韓復腧と青島市長沈鴻烈に
防備を促進するよう指示していた。

すべては対日戦争の準備であるが、中国側としては、
戦備がととのわないうちに日本の進攻をまねいてはまずい。


つづく

戦争を望む中国と望まない日本

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/06/15 18:40 投稿番号: [477 / 2250]
寺平忠輔著 『日本の悲劇   盧溝橋事件』 読売新聞社刊
38p

《 四月三日の朝、北寧鉄道の沿線、落垈 (ラオファー) の西方で、
日本の軍用電線が八間隔にわたって切断された。

この場所は私の着任前、一月十八日にも五間隔ばかり切断された前例もあり、
かたがた、軍参謀長は四月八日、河北省政府主席馮治安に対し、

犯人の逮捕、・・・、以上四項目を要求した。
彼は、これに対してなんらの回答もしてこない。

そのうち五月三日、落垈 (ラオファー) の同一地点で、
またもや八間隔の切断事件が報告されてきた。
・・・

39p
六月五日黎明 (れいめい)、またもや同一場所で五間隔が切断されたのである。
さすがに温厚な松井機関長も業を煮やした。

44p
  南苑の第三十八師・・・。一日司令部で将校の兵棋戦術が統裁され、
団を単位とする防禦戦闘が研究題目になった。その時若い将校が一人、

席を蹴って起ち上がった。「統裁官、我々は防禦の研究はもう沢山です。
それよりもっと大切な、奇襲攻撃を指導して下さい。・・我々はすべからく、

こちらから逆九・一八を仕掛けるくらいの決意があってしかるべきです」
その意気当るべからざるものがあった。

統裁官はこれをなだめ 「意見はなるほどもっともである。
しかし今日の研究課題は防禦戦闘という事になっているのだから…‥」

「いや豊台を奇襲することは焦眉の急です。今晩もし、
日本側から奇襲を仕掛けて来たら我我はいったいどうなってしまいます」

「統裁官、私も豊台即時襲撃論に賛成です。逆九・一八をやらなくちゃだめです」


*   このように、中国側では、下の方が対日戦争を要求していました。
   一方、日本側は

47p
「七夕様の晩に華北で第二の柳条満車件が起る」 という謡言は、
私はじめ現地で耳にした者はない。

それがどういうものか、遥か海を越えた東京三宅坂あたりに、
ある程度の迫真力をもって伝えられていったという事実がある。

これが参謀本部の作戦部長石原莞爾少将に考えさせるものがあった。
早速陸軍省軍務局長後宮 (うしろく) 淳 (じゅん) 少将とも相談し、

軍事課の高級課員岡本清福中佐を現地に派し、
華北の情勢を仔細に検討させることになった。

出発に当って石原少将は「現地の若い連中が、何かエラく勢込んでいる風評がある。
とんでもない事だ。バカげた事件でも起すといかん。

至急現地に行って、それらの芽生えを摘み取って来てくれ」といった。


岡本中佐は華北にとんだ。そして山海関 (さんかいかん)、ラン州 、唐山、
天津等現地部隊の情況を逐次打診した。

橋本参謀長と言い池田純久経済参謀と言い、時局に対してはいたって冷静であり慎重である。

和知機関にせよ茂川機関にせよ極めて神妙であって、
軽挙妄動するような気配は微塵だにも感ぜられない。

引き続き北京を訪れた岡本中佐は、同期の木原義雄大隊長を交えて、
河辺旅団長のもとで懇談した。旅団長は語った。

「現地軍の思潮、これには何ら憂慮すべき点はない。ことに私の隷下部隊に関する限り、
厳に軽挙妄動を戒め、慎重の上にも慎重を期するよう徹底させてある。

この事は安心して内地に復命してくれ給え」》


つづく

共産党の策動5 コミンテルンの指令2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/06/14 18:52 投稿番号: [476 / 2250]
《 ソ連のコミンテルンは、日中全面戦争を仕掛けるためのプランを作成し、
その実行を、中国共産党に命じました。

  その内容は

一、あくまで局地解決を避け、日支の全面的衝突に導かねばならぬ。

二、右の目的を貫徹するため、あらゆる手段を利用すべく局地解決

   (例えば北支を分離せしめることに依って戦争を回避するの類)

   日本への譲歩に依って支那の解放運動を裏切ろうとする要人を抹殺してもよい。

三、下層民衆階級に工作し、これをして行動を起こさしめ、国民政府をして

   戦争開始のやむなきに立ち至らしめなければならぬ。

四、党は対日ボイコットを全支那的に拡大しなければならぬ。   日本を援助

   せんとする第三国に対してはボイコットを以て威嚇する必要がある。

五、紅軍は国民政府軍と協力する一方、パルチザン的行動に出なければならぬ。

六、党は国民政府軍下級幹部、下士官、兵士並びに大衆を獲得し、

   国民党を凌駕する党勢に達しなければならぬ。》

(「盧溝橋事件に関するコミンテルンの指令」昭和14年10月興亜院政務部資料)

というものです。



寺平忠輔著 『日本の悲劇   盧溝橋事件』 読売新聞社刊40〜41p

《 西苑の兵営は、・・・、今では完全に侮日抗日の巣窟と化し、・・・
中共北方局の主任劉少奇あたりも、学生の軍事訓練に便乗して

この方面に顔を出し、盛んに抗日をアジっていたという情報が入っている。》


46p
《 このころ、京津の地には、随分様々な謡言が乱れとんでいた。

「日本軍は近く華北で事を起し、これを機会に第二の満州国を
デッチ上げる計画を持っている」

とか、

「日本軍は戦略要衝盧溝橋に基盤を築き、北寧 (ほくねい)、
京漢両鉄道を支配下に置くべく、目下隠密裡に工作を進めている」

とか、こうした巧妙な謡言は、相当の知識人でさえ 「あるいは?」 と
考えさせられる深刻味と迫力を持っていた。


そこで我々としては、このような流言輩語が、いったいどこから出て来たかを
探索したかった。北京憲兵分隊長赤藤 (しゃくどう) 庄次少佐は

「私共は今、極力それを探らせています。しかし流言というやつは読んで字の通りで、
なかなかその実態が掴 (つか) めるものじゃありません。

ここ一、二ケ月の間というもの、我々は毎日毎日、まるで流言に翻弄されてるみたいで、
全く搾 (しめ) 木にでもかけられているような、実にイヤな感じです。

ただ、いえる事は、流言を漂わす者は学生層に多いという事です。
また学生といえば、どうも西苑の軍事訓練あたりから出ているんじゃないか

と思われる節があることです。
そうなると延 (ひ) いて、共産の策動じゃないかとも考えられます。》


つづく

共産党の策動4 コミンテルンの指令

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/06/13 15:18 投稿番号: [475 / 2250]
K・カール・カワカミ著 『シナ大陸の真相   1931〜1938』(原題 Japan in China )
訳者   福井雄三    展転社   60〜62p


《一九三六年五月一六日、リャザノフスキーという名のコミンテルン天津代表が、
コミンテルン上海本部の出した次の指令を実行するために北京へ赴いた。


「一、天津のヤチェイカ (共産党細胞) は、共産主義者を通じて
   北京〜天津地域の学生たちの間に、

   日本軍の北支守備隊の増加と日本の密輸活動に関する暴露運動を行い、
   反日感情をかき立てなければならない。

二、夏休みの間に学生たちを動員して農村へ行かせ、農民たちの間に
   反日感情を広めるために講義を行わせること。

三、反日運動とボイコットを同時に行うこと。
   ボイコットを実施するためには密輸問題を取り上げて、

   北支で出回っている日本製品は全て密輸品であると言わねばならない。
   こうすれば、日本製品に対する反感が広範囲にわたって引き起こされるだろう。

   同時に、日本製品を買う者に対して南京政府は罰則を用意している、
   という声明を出すことによって、日本製品の購入を阻止するよう努めること」


一九三六年三月、陝西省の省都の西安で蒋介石が張学良と揚虎城によって
捕らえられ投獄されると言う悲喜劇のニュースが世界を襲った。

ここで今一度思い起こしていただきたいのであるが、蒋介石を捕らえた側の
一人である張学良は、かつて反日的な満洲の支配者であった。

彼は満洲の日本企業を破壊しようと計画したために日本の激怒をかって、
一九三一年満洲から追放される羽目になってしまった。

その後彼はパリへ行ってそこで二年間歓楽の生活を送り、
かつて彼が支配していた人々から略奪した数百万ドルのお金を浪費した。

一九三四年、この放蕩息子は上海へ戻ってきた。


それから間もなく蒋介石総統は張学良を 「平定委員」 に任命した。
その任務は河南省と山西省の共産主義者を征服することであった。

日本が特殊権益を持っていた北支に向かって着実に進撃しつつあった
共産党軍を 「平定」 する任務に、

蒋介石がこの日本嫌いの男を選んだのは単なる偶然の一致であったのか?
あるいはまたそれは慎重に考え抜かれた上での計画であったのか?

この日本嫌いのかつての満洲支配者が 「平定司令官」 に任命されるや否や、
彼は共産主義者と接触し始め、彼らの真の敵は蒋介石ではなく日本なのだと説いて回った。

共産主義者と戦おうとしないで、張学良は彼らを日本と対抗するための
自分の野望の道具にしようとしたのである。


彼は何とかして日本に恨みを晴らそうと固く決心していた。
実際、張学良はヨーロッパ滞在中にモスクワと接触を持っていたことが分かっている。

中国へ帰国後、彼が中国にいるソ連の工作員と親密な関係にあったことは間違いない。
南京の蒋介石総統はこれを全て知っていたにもかかわらず、張学良をそのポストに任命した。

そしてそのことは張学良を中国人の共産主義者たちと直接接触させることになったのである。
彼らは自分たちの共産主義をカモフラージュする目的で、「日本打倒」 と

「 日本に対する戦争」 を自分たちのスローガンにしていた。


つづく

Re: 中国人による無数の暴虐事件3

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/06/12 16:52 投稿番号: [474 / 2250]
>一つも日本国土で起こったことではないよな、
>1840年アヘン戦争以来列強が中国にたいする侵略、略奪にならって、
>後追いでやってきた日本軍国主義はいじめられた国でいろんなことにあうのがしぜんであろう、
>逆に日本が100年以上もあんなひどいことされたら、みなさんはどうおもうのか。


理由にならない、詭弁はやめよう。

日本には、米軍が65年間大量に駐留し、沖縄など酷い目に遭っているが、
一度も、米軍を襲撃したり、米国人を虐殺などしていない。

日本軍が中国に駐留したのは義和団鎮圧後の北清議定書 (1901年) によるもので、

清国政府が居留民を保護せず、逆に義和団に加担して、宣戦布告したから
居留民保護のために、この条項がいれられた。

日本に占領米軍が駐留しているのとほとんど変わらない。

日本軍が北京に二千人くらい駐留してから、支那事変前まで、
たったの36年しか経っていない。


日本の米軍駐留期間はその倍に近い。
量も   とても二千人の比ではないだろう。   とてつもなく多い。

しかし、日本人は、一度も、米軍や米国人を襲撃していない。
だから反撃されないだけだ。

中国の問題点は、自分が先に攻撃しておいて、反撃されたら、
「ひどいことされた」 とすり替えている事。

「ひどいことされた」 ではなく、中国が外国人に対して 「ひどいこと」 を
したから、反撃されたのであって、逆恨みが間違っている。

中国人自身が、反撃される原因を造っているという事を理解しなさい。

共産党の策動3 コミンテルンの決議

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/06/12 16:06 投稿番号: [473 / 2250]
K・カール・カワカミ著 『シナ大陸の真相   1931〜1938』(原題 Japan in China )
訳者   福井雄三    展転社
59〜60p

《一九三五年八月モスクワで開かれた第七回コミンテルン大会で演説したとき、
ディミートロフは中国における日本の帝国主義を非難して次のように言った。


「中国では人民運動を通して広大な地域がソビエト化され、強力な紅軍が組織された。
しかし日本帝国主義の獰猛な侵略と南京政府の裏切り行為によって、

中国民族の国家的存続は危機にさらされている。
現時点において中国のソビエト地区のみが全ての反帝国主義勢力のための結集点となり、

中国を奴隷化し分割しようとする帝国主義列強諸国の野望と戦うことが出来、
さらに民族紛争に苦しんでいる中国人を助けることが出来る。


それ故我々は満場一致で中国共産党の次の提案を支持する。
すなわち、国土の保全と人民解放のために戦うべく準備された中国内に現存する

全ての軍隊と組織をまとめることによって、日本及び中国人の裏切り者に対する
広範囲の統一反帝国主義戦線を打ち立てようという提案を。

数多くの戦いの試練を経てきた英雄的な中国紅軍に対して、
我々は心からの熱列な挨拶を送る。

そして我々は中国人民に次のことを保証する。
すなわち、全ての帝国主義的で獰猛な列強諸国とその中国人の傀儡の支配から

中国国民を解放する戦いにおいて、
我々は彼らを援助する決心がしっかり固まっているのであると」


この見解に従って、コミンテルンの会議は次の決議を採択した。

中国においては、ソビエト運動の拡大と紅軍の戦闘力の確立は、
帝国主義に対する全国規模の人民運動としての統一計画と調和させなければならない。

この運動はそのスローガンとして、これは帝国主義的圧迫
(とりわけ日本帝国主義とその中国人傀儡) に対する戦いであるという

考え方を掲げることによって、最もうまく行われるだろう。
ソビエト地区は、解放戦争を戦っている全中国人民の結集点とならねばならない。

帝国主義諸国のプロレタリアの人々は、帝国主義の侵略者に対して戦っている植民地
及び半植民地の人民に対して援助の手を差し伸べなければならない」》


つづく

Re: 中国人による無数の暴虐事件3

投稿者: aibao222 投稿日時: 2010/06/12 12:43 投稿番号: [472 / 2250]
一つも日本国土で起こったことではないよな、
1840年アヘン戦争以来列強が中国にたいする侵略、略奪にならって、
後追いでやってきた日本軍国主義はいじめられた国でいろんなことにあうのがしぜんであろう、
逆に日本が100年以上もあんなひどいことされたら、みなさんはどうおもうのか。

共産党の策動2 五・三〇事件

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/06/11 19:08 投稿番号: [471 / 2250]
『魔都上海十万の日本人』   NHK取材班編   角川文庫   90p

《 一九二五年、五・三〇運動の全国的な展開が上海から始まる。運動の発端は、
二月以来、上海の在華紡にひろがった待遇改善と組合承認を求める労働運動にあった。

中国の民族資本による繊維産業の追いあげを受けて、日本など外国の繊維企業は、
合理化によって利潤の増大をはかろうとした。

と同時に、勢力の拡大をつづける共産党へのおそれから、
管理・締めつけをいちだんと強化し、組合つぶしに本格的に乗りだした。

こうした状況のもとで、一九二五年二月、上海の紡績工場でストライキが続発し、
四月に入ると、青島の日本資本の紡績工場にも飛び火した。


五月十五日、さきに紹介した上海の内外綿第七工場で、ストライキ中の労働者と
工場側の警備員とが真正面から衝突し、共産党員の労働者顧正紅が射殺されたほか、

中国人労働者十数名が重軽傷を負うという事件が起こった。

これに抗議する運動は、たちまち学生・知識人・労働者をまきこむ
反日運動に発展していった。

五月三十日、共産党は千人の学生・労働者を動員して、上海の歴史上はじめて、
共同租界の内部で大規模な抗議のデモを繰りひろげた。

これに対して、共同租界のイギリスの警察隊は、デモ隊に向けて一斉射撃を浴びせ、
死者十三人、重傷者数十人という大惨事に発展した。これが、五・三〇事件である。


93p
この虐殺事件は、上海はもとより、全中国に憤激の嵐を巻き起こした。
一日おいて六月一日、共産党は帝国主義打倒をスローガンに、

全上海にゼネストを指令した。学生・労働者のほかに、
民族資本家・商店主も参加し、空前の規模の闘争に発展した。

闘いの渦は、広州・北京・漢口など大陸全体に広まり、香港の労働者もこれに
足並みをそろえ、各地の租界で衝突事件が続発した。

上海のゼネストは、八月末まで続いた。中国側の発表によれば、この闘いに参加した
労働者・学生・農民は、少なく見積もっても全国で一千七百万人余りにのぼったという。》



K・カール・カワカミ著 『シナ大陸の真相   1931〜1938』(原題 Japan in China )
訳者   福井雄三    展転社    54〜55p

《 …事件が一九二五年、上海の国際租界区域で起こった。その年の五月三〇日、
数万の中国人学生が、日本の綿糸工場での労働争議に関連した暴動行為のかどで

混成法廷 (外国人の裁判官に監督された中国人の法廷)
から有罪宣告を受けた五人の学生に同情して、街路を行進した。

これに続いて、一五万六千人の中国人労働者を含む全市規模のストライキが起こった。
彼らを煽動した最大の指導者は陳独秀であった。


彼はモスクワで教育を受けた中国共産党員で、今なお著名な指導者である。

彼の背後にはチェルカソフというソ連の宣伝工作活動の専門家が控えていて、
国際租界区域のソ連領事館に事務所を構えていた。

この宣伝活動家が北京駐在のソ連大使カラハンにあてて書いた報告書が、
上海警察に押収された。

この文書によって、綿糸工場の労働争議とそれに続くデモ、ストライキは、
モスクワのコミンテルンが出した命令に従って前もって準備されていたことが完全に証明された。》



*   労働者顧正紅が警備員に射殺されましたが、この警備員はインド人の様です。

*   この二年後に、第一次南京事件 (No.362〜385で書いた) が起こります。

   これを仕掛けたのは共産党と言われていますが、
   この流れから行くと多分そうかも知れません。


つづく

共産党の策動1 ソ連の反日工作

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/06/10 18:36 投稿番号: [469 / 2250]
蒋介石は一応、釈放され、建前としては、取引は無かったとされていますが、
共産党への攻撃は停止され、

劉少奇などが西苑の兵営などに出入りしていますから、
やはり何か取引があったのでしょう。

ところで、共産党の元締めソ連は、中国に対して早くから工作をしていました。

日露戦争に敗けた事で、ロシアでは帝国の力が弱まり、
それが革命へと導かれ、

ソビエト社会主義共和国連邦が出来ました。
ソ連は中国に、反日をさせるよう画策します。


K・カール・カワカミ著 『シナ大陸の真相   1931〜1938』(原題 Japan in China )
訳者   福井雄三    展転社   58〜59p

《 中山大学は中国人の学生を勧誘するために一九二五年一月、モスクワに設立された。
・・・この学校は中国人の入学だけを認めており、男女共学である。

在学中、学生たちは個人的な出費を含む必要経費を全て支給される。
一九二五年に第一回卒業生一五五名を出した。   カリキュラムは東方大学と似ている。

テキストはロシア語と中国語の両方で使用されている。
現在の教授陣は約五〇名のロシア人と二五名の中国人から成る。

一九二八年以降、登録された学生数は年によって異なるが、
大体年間四百名から五百名といったところである。


さらにまた、中国人はソ連の軍事関係の学校、例えば赤軍陸軍大学、
歩兵士官学校、高級空軍学校などへの入学を許されている。

赤軍陸軍大学には一五名の中国人、高級空軍学校には二〇名の中国人、
歩兵士官学校には一二〇名の中国人と朝鮮人が在籍している。


このようにして学生と兵士双方合わせて毎年数百名の共産主義者たちが祖国へ
送り返され、そこで彼らはコミンテルンとその現地工作員の指示の下に働くのである。

中国の広大な地域が次々に共産化していったとしても何の不思議があろうか。
アジア経由で共産革命をヨーロッパへ導入するというレーニンの夢は実現するかも知れない。

日本は中国の目の前の隣国として、
他の資本主義諸国よりもはるかに鋭くその危険を察知している。

コミンテルンが中国人の間で宣伝工作活動を推し進める目的のために、
反日運動に共産主義の要素を付け加えた時

(ちょうど一九二五〜二七年にかけての反英運動に共産主義の要素を付け足した時のように)、
この日本の恐怖感はさらに一段と大きなものになった。》


『魔都上海十万の日本人』   NHK取材班編   角川文庫   86〜87p

《 共産党は、一九二五年、労働組合の全国組織である中華全国総工会を設立するが、
上海にはそれより早く、一九二二年の共産党成立のころから、

中国労働組合書記部を設けて労働者の組織化を進めていた。
また、この年、労働者に対する教育工作を強化するため、

上海大学が開校された。・・・
末端の労働者に対する大衆工作にも力が注がれた。

その結果、上海の大小の工場には共産党の組織が網の目のように張りめぐらされ、
内外綿工場などの日本企業にも、共産党の細胞組織が設立されたのである。》


つづく

西安事件3

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/06/09 18:40 投稿番号: [468 / 2250]
焦った張学良は蒋介石を監禁して、共産党討伐をやめ、共産党と手を組んで、
日本と戦争するよう要求しました。   その具体的内容は以下の通り。


松本重治著 『上海時代・下』 中公新書

59p
《   八項目の主張とは次のとおりです。

(1)南京政府を改造し、各党各派の参加を許し、ともに救国の責任を負わしめよ。

(2)すべての内戦を停止せよ。

(3)上海で逮捕された愛国運動の指導者をただちに釈放せよ。

(4)全国のすべての政治犯を釈放せよ。

(5)人民の張会・結社等すべての政治的自由を保障せよ。

(6)民衆の愛国運動を公認せよ。

(7)孫総理の遺嘱を確実に遵守せよ。

(8)ただちに救国会議を召集せよ」》


しかし、蒋介石は応じず、

56〜57p
《 蒋   「まだ、私を委員長と呼ぶか?
    上官と認めるなら、命令に従って洛陽に送り還せ。

    さもなければ、君は反逆者、私は反逆者の捕虜だ。
    即座に銃殺しろ。他にいうべきことなどありはしない」

張   「委員長がわれわれの意見を受諾されるなら、もちろん命令に従います」

蒋   「君は、いったい、私の部下なのか敵なのか?……敵ならばただちに私を殺せ。
   二つに一つ、ほかに何もいう必要はない。私は何をいわれても聞く耳を持たぬぞ」》


と突っぱねた。

ここに周恩来がやって来、宋美齢もやってきた。
そして宋美齢は周恩来と会い、蒋介石も周恩来と会っている。


66p
《 宋美齢の 「回想録」 によると、彼女は二十三日には二時間、
また二十四日にも、周恩来と会談をしている。

張学良が頼んでも蒋介石が会いたくないといっている人だといって、
張は彼女に周思来を紹介している。

宋美齢は、周恩来に意外にも好感をもったようで、宋美齢の斡旋で、
周恩来は蒋介石に短時間会ったようである。

周は、蒋に対し、蒋介石領導での一致抗日、そのための内戦停止を簡潔に述べたが、
蒋としては、説得される必要は全然なかった。

それで、口頭で、「統一戦線を約束したようであり、周恩来と 『再び共に仕事を』 したい」
(ハン・スーイン著 『毛沢東』 松岡洋子訳二五三ページ) と、

いとも簡単な挨拶をしたというのが、ことばどおりではないにしても、
おそらく真相に近かろうと思われる。》


*   どういう取引が有ったか分かりませんが、ともかく、蒋介石は釈放されました。
   そして、以後共産党の討伐も行われていません。

西安事件2 張学良のあせり

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/06/08 18:54 投稿番号: [467 / 2250]
蒋介石は張学良が共産党と接触している事を知っていました。


児島襄著 『日中戦争3』 文春文庫


251p
《 蒋介石は、既述したように、張学良の不穏な動きについての情報を
耳にしていたわけであるが、

十二月七日、華清池を訪れた 『大公報』 紙主筆張季鸞との間に、
次のような問答をかわしている。

「請問○(ニイ)們在廷安的記者、最近有什麼重要消息○(マ)?」

(貴社の延安駐在の記者から、最近なにか重要なニュースははいらないか?)

「謡言很多、但是他不相信這些無稽之談」(デマは多い、信用できぬ話ばかりです)

「○(ニイ)所謂謡言、是否己聴到了張漢卿 (学良) 輿共産党在廷安面商擁護中央、

一致抗日的消息○(マ)?」

(そのいわゆるデマの中に、張学良が延安で共産党と中央の擁護、
一致抗日を交渉した話はふくまれていないか?)

「是的」(あります)

この問答は、張学良・周恩来秘密会談が、すでに蒋介石の情報網にキャッチされていた
のみならず、一般にも知られていたことを告げている。》


松本重治著 『上海時代・下』 中公新書

52
《 中共により、紅軍により、また救国会の運動により、学生運動により、
旧東北軍や西北軍が、約一年前からの 「内戦停止」「一致抗日」

「中国人は中国人と戦わない」 などのスロ−ガンと、その魅力あるアッピールのために、
それほどまでにも (張学良が)「洗脳」 されていたとは、蒋はそのときまで全然知らなかった。

それで張季鸞の報告と忠言に耳を懐けた蒋介石は、
ただちに、第六次 「剿匪」 事業の作戦を根本的に練り直す必要を感じた。

「剿匪」 事業のためには、東北軍も西北軍もすでにつかいものにならぬと感じたからであった。》


53〜54p
《 十二月九日になると、西安の学生たちは、一二・九記念デモをやり、「内戦停止」
「一致抗日」 の要求書を、蒋介石に親しく会って手渡しするため、華清池に向って出発した。

間もなく、警察の発砲によって、デモ隊、とくに年少学生に負傷者が出たので、
学生たちは非常に激昂した。

張学良は、それを聞いて駈けつけ、やっとのことでデモ隊を思いとどまらせ、
市内に引き返させた。

その夜、張は華清他に行き、蒋に面会を求めて、学生に代り、
その衷情を訴えたが、逆に蒋からは、頭から叱られてしまった。

張は、「極度の衝撃を受けた」 と 「懺悔録」 に書いている。


翌十日には、張は、前夜、学生に語ったように、蒋に面を冒して自己の所信を
述べるため、ふたたび蒋に会見を求め、「内戦停止」「一致抗日」 の立場から、

蒋の掃討計画に疑問を強硬に表明したが、にべなく拒否され、
ふたたび蒋から叱正を受けた。

そればかりではない。西安綏靖主任たる楊虎城はまだしも、
いやしくも西北 「剿匪」 副司令たる張学良にとって、

「数回の軍事会議に ― これは張の思い過しでもあったが ― 召集されなかった」
ことは、異常のショックであった。

張の 「懺悔録」(前掲、七八ページ)によれば、
「それは、私 (張) と楊虎城に疑惑と不安を抱かせた。》


つづく

西安事件1 張学良 共産党と接触

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/06/07 18:38 投稿番号: [466 / 2250]
蒋介石は日本が戦争する意思はない事を知って安心して、共産党退治に乗り出しました。
内側に叛乱分子を抱えていては対日戦争などできないからです。

そこで、張学良を西北剿匪副総司令に任命し、西安へ共産党討伐に行かせますが、
張学良はこれに不満でした。   彼の望みは、対日戦争でしたから。


児島襄著 『日中戦争3』 文春文庫

244p
《 西安には、もともと西安綏靖公署主任・第十七路軍総指揮楊虎城が位置していた。

楊虎城は、馮玉祥系の軍閥将領で、その第十七路軍約五万人も、
いわば楊虎城があつめた部隊であり、「陝 (せん) 軍」 の通称で呼ばれていた。

ただし、軍隊としては装備、素質ともに劣悪で、土匪なみの集団であった。

それだけに、楊虎城としては、勢力範囲とその中での 「静かな搾取生活」 を
楽しむのが望みであり、共産軍との戦いも中央軍の進出も好まなかった。

現に、楊虎城は共産軍 「紅第四方面軍」 と〝相互不可侵協定〟を
むすんでおり、蒋介石の剿匪作戦についても批判的であった。》


246〜247p

《 張学良は、「剿匪がいやになった」と楊虎城にもらし、
一九三六年をむかえると、共産党側との接触を開始した。
・・・・
四月四日、第六十七軍長王以哲を通じて、共産党連絡局長李克農と
洛川の第六十七軍司令部で会見した。

張学良は、より以上の幹部、たとえば周恩来との会談を希望し、
李克農はただちに連絡して、周恩来が会談に応ずる旨を返事した。

張学良は、延安での会談を指定し、同市に駐屯する第六十七軍
第一二九師 (周福成) に安全を保障するよう、指示した。

四月九日深夜、延安市東方的五キロの天主堂で張・周会談がおこなわれた。
・・・・
共産党側にも、張学良の接近を喜ぶ 「内部事情」 があった。


共産党軍は、当時、ほぼ第一、第二、第四方面軍にわかれて、甘粛省北部での合流を
めざしていたが、総兵力は 「長征」 を開始した当時の三分の一以下、約七万人にすぎない。

しかも、中央軍の追尾をうけているだけでなく、
山西の閻錫山軍も動いて、側背をおびやかされている。

もし、中央軍側の総攻撃が開始されれば、
全滅しないまでも組織的戦力を破砕されるのは必至であろう。

その非命を回避し、叫んでいる 「抗日」 戦の第一線にたつには、
「停止剿共」 を国民政府側にもとめる以外に方法はない……。》


つづく

戦争を好まない日本陸軍

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/06/06 16:19 投稿番号: [465 / 2250]
児島襄著 『日中戦争3』 文春文庫

229p
《 蒋介石は、九月二十四日、あらためて軍政部長何応欽に電令した。

「拠昨今形勢、日方己具一戦決心、務令京滬漢各地、立即準備一切、

  厳密警戒、俾随時抗戦為要」

北京、上海、漢口で火ぶたがきられる可能性がある、臨戦態勢をとれ、との趣旨である。

そして、蒋介石は、とくに 「上海事変」 の再発をおそれ、
上海市長呉鉄城にたいしても、「積極戒備」 を下令した。


230〜231p

  −   だが、
実際には、日本側の 「一戦決心」 には現実性がとぼしかった。

戦争となれば、当然に陸海軍の一致した「決心」が必要だが、
海軍とは逆に、陸軍の姿勢は消極的であったからである。

陸軍側は、上海の水兵射殺事件が発生する前日、九月二十二日、
参謀本部第一課長石原莞爾大佐が海軍軍令部第一課長福留繁大佐をたずね、

陸軍には 「全支作戦」 をおこなう意志はない旨を、きっぱりと通告していた。
二十六日の三省局長会議でも、豊田、磯谷両局長の間で次のような問答がかわされている。


豊田   「北支事態ガ重大ナルガ、陸軍ノ腹 (ハ) 如何」

磯谷   「北支五省ヲ 満州国ノ延長ト スルガ如キ 極端ナル事ヲ

     考ヘヲルモノ、ナシ……」

豊田   「蒋介石 (ガ) 帰京セザル場合、如何スルカ」

磯谷   「一月デモ二月デモ待ツ。其ノ際ハ 国論モ ヤカマシクナルガ、

     北支ニ対シ 既定方針ニテ進ム」


磯谷少将は、参謀本部と陸軍省の間に思想統一ができていない、
と陸軍の内情ももらした。

たとえば、派兵の目標にしても、参謀本部はやむを得なければ 「北支」 に
するというが、陸軍省は 「上海、南京」 をえらぶ。

陸軍省側の観察では、「北支」 は中国の 「急所」 ではない、しかし、南京を奪えば
「国民党部ハ解散シ浙江財閥ハ (蒋介石ニ) 離反ス」 るとみこまれるからである。

だが、いずれにせよ、意見不一致のままでは戦争はできない。
「用意ハ有ス。(しかし) 兎モ角、出来ル丈 (だけ) 一兵モ使用シタクナシ」

磯谷少将は、あるいは自身の本意にはそぐわぬためか、
やや憮然としながらも、明確に陸軍の 「本音」 をつたえた。


蒋介石も、その 「本音」 は戦争回避である。

十月一日、軍事委員会弁公庁副主任劉光は、またしても
ドイツ人軍事顧問団長ファルケンハウゼン中将の献策を、伝達してきた。

漢口、上海の租界地の日本軍を奇襲して開戦の主導権をにぎれ ― と、いう。

蒋介石は、広州から南昌にうつっていたが、軍政部長何応欽の来訪をもとめて協議した。
軍政部長何応欽は、「日中戦争」 はなお時期尚早である旨を詳述した。


*   ドイツ軍事顧問団長ファルケンハウゼン中将は日中戦争をけしかけていた。


つづく

頻発するテロに戦争の危機迫る

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/06/05 15:15 投稿番号: [464 / 2250]
豊台事件の翌日、中支でも事件がおきました。


児島襄著 『日中戦争3』 文春文庫   227〜229p


《十九日、漢口で日本総領事館勤務の巡査吉岡庭二郎が暗殺された。

吉岡巡査は、日本租界内の派出所付近で立番中、午前十一時五十分ごろ、
背後から近づいてきた犯人に後頭部を狙撃され、前のめりに二、三歩歩いて即死した。

状況を目撃していた露店タバコ商人によれば、暗殺者は「年齢三十歳くらい、
身長五尺五、六寸、頭髪は丸刈、顔は細面、眼は小さい」男であったという。

自室の殺人事件、しかも、制服着用の日本人警官が暗殺されたのである。


漢口に駐留する海軍第十一戦隊司令官日比野正治少将は、すかさず指揮下の軍艦 『安宅』
『熱海』 から陸戦隊員を上陸させ、上海の第三艦隊司令長官及川古志郎中将も、声明した。

「反日行為の暴状は……満州事変勃発以前に過ぐるものあり、
全支における帝国臣民の生命財産の不安は甚しきものあり」

海軍は、佐世保特別陸戦隊員四百八十三人を漢口に急派するとともに、
次のような 「海軍省当局談」 を発表した。

「帝国海軍としては……事態斯 (か) くなる以上……或は自衛上必要の処置に
出づるの己 (や) むなきに至る場合を考慮し……手配を進むることとなったのである」


もはや戦争だ、戦争以外にはない   −   というのが、
ドイツ人軍事顧問団長ファルケンハウゼン中将の論評であったが、

四日後、またしても上海でテロ事件が発起した。


九月二十三日午前八時二十分ごろ、第三艦隊旗艦 『出雲』 の乗組水兵四人が、
上海市共同租界の海ネイ路と呉淞 (ウースン) 路の交差点付近にさしかかると、

停車中のバスの背後から四、五人の中国人が拳銃を乱射してきた。
四人の水兵のうち、一人は無傷であったが、

二等水兵田港朝光は右胸部と左腕貫通銃創をうけて死亡し、一等水兵八幡良胤、
出利葉蔵巳はそれぞれ右上膊複雑骨折盲管銃創、左右上膊貫通銃創をうけた。

三人は、付近の書店 『至誠堂』 にはこびこまれ、田港二等水兵は、書棚に
すがりつこうとしたが、さしのばした手に力は無く、床にくずれおちて息絶えた。


上海海軍特別陸戦隊は非常配備につき、在郷軍人分会もその指揮下に編入された。

「適当なる自衛手段をとるほかなき次第と認める」と、日本大使館が声明を
発表すると、陸軍武官喜多誠一大佐も、記者団に語った。

「最後の一線に近づいたというほかは、ない」
  蒋介石も 「日中戦争」を覚悟した。


つづく

豊台事件

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/06/04 18:38 投稿番号: [463 / 2250]
華北は平和に見えても、中国の反日が消えたわけではありません。
ときおり散発的に、事件が起こります。


寺平忠輔著 『日本の悲劇   盧溝橋事件』 読売新聞社刊   40〜41p


《 馮治安は河北省の出身で、当年四十四歳、馮玉祥の旧部下ではあったけれど、
抗日の鼻息荒く、する事なす事、宋 (哲元) の意に反するところが多かった。

そこで遠く手離しておくと、何を仕出かすかわからないというので、
一番手近な北京周辺の要地に配してあった。

ある日私が万寿山の方に車をとばせて行くと、ちょうど西宛の兵営から出て来た
馮治安の部隊、歩兵の一ヶ連が私の車とすれ違った。この時、彼等が歌っていた軍歌は


  打倒日本   打倒日本     除軍閥   除軍閥

  努力革命成功        努力革命成功

  去奮闘    去奮闘


というのだった。この歌詞はもともとは、打倒列強   打倒列強というのだが、
三十七師はそれをわざわざ打倒日本と置き換えて歌わせていた。

黒塗り厳めしい西苑の兵営は、昔、独逸人技師の設計監督の下に建てられた
という事だが、今では完全に侮日抗日の巣窟と化し、

さきに梅津・何応欽協定で華北から逐(お)われた、二十五師長関麟徴なども、
しばしばここに姿を現わして兵を煽動し、

また中共北方局の主任劉少奇あたりも、学生の軍事訓練に便乗して
この方面に顔を出し、盛んに抗日をアジっていたという情報が入っている。

師長馮治安が徹底的に日本嫌いな男であってみれば、上の行なうところ
下これに倣(なら)うのも、またやむを得ないところではある。


話は少々遡(さかのぼ)るが、昭和十一年九月十八日、豊台事件というのが勃発した。
満州事変柳条溝の一発から、満五年の記念日である。

こういう日には日華双方、お互いが余程気をつけ慎み合わないと、
とかく不慮のゴタゴタを引き起しがちである。

この日の夕刻、豊台駐屯一木大隊の一ケ中隊が、駅前近くを通りかかったところ、
折りから演習帰りの中国軍一ケ連とすれ違った。

ところが中国兵の一人が、穂積中隊最後尾の兵を、
故意に路外に押し出すような行動をとった。

部隊の後から乗馬でやって来た年少血気の小岩井光夫中尉、
やにわに中国兵の群に躍り込んで連長に対し、鋭く彼の不法を難詰した。

中国兵の一人が小岩井中尉の馬の尻をたたき、馬が驚いて跳ね上った。


中国兵は即座に銃に弾を込め、自分達の兵営の前に散開して、対応の姿勢をとったので、
日本軍も直ちにこれと相対峙 (たいじ) し、睨 (にら) み合いの態勢に移った。

北京から特務機関の浜田補佐官や桜井徳太郎軍事顧問がとんで来た。
もちろん牟田口廉也連隊長もやってくるし、

中国側の副師長許長林少将や外交専員林耕宇などもかけつけて来た。

河辺旅団長が即刻、隷下日本軍に発砲禁止を命じたので、彼我の交渉は、
その翌日の明け方まで続けられたが両軍干戈を交えるまでには立ち至らず、

結局中国側の陳謝と、関係者の処罰、ならびに中国軍部隊の豊台撤去を条件として、
一応この問題に終止符が打たれた。》

冀東防共委員会と冀察政務委員会設立

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/06/03 18:31 投稿番号: [462 / 2250]
児島襄著 『日中戦争3』 文春文庫196〜197p


《 蒋介石は、具体的には、表面では日本にたいする友好姿勢を維持しながら、
日本側が働きかけている 「北支」 実力者をきりくずし、

日本側の強硬態度をかわすために 「アル種ノ自治」 をみとめるにしても、
国民政府の統轄下にある組織にする、との方策を採用した。

まさに、日本側がしばしば指摘する 「二重政策」 である。
が、いずれにせよ、この時期における〝工作合戦〟では、蒋介石に軍配があがった。

まず、蒋介石側のきりくずし工作により、日本側があてにしていた宋哲元、
閻錫山ら 「北支」 実力者の腰が重くなった。


十一月二十三日、日本側に呼応して、緩衝地帯である 「戦区」 の行政監察専員殷汝耕が、
自治宣言をおこない、「冀東 (きとう) 防共委員会」 を組織した。

「冀 (き)」 は河北省を意味するが、宣言された自治区域は、
「戦区」 内の十九県に隣接した三県を加えたにとどまった。

ついで、国民政府は、十二月十一日、関東軍の武力発動の気配が色こくなる事情に
即応して、「アル種ノ自治」 付与の体裁をととのえる意味で、

宋哲元を委員長にする 「冀察 (きさつ) 政務委員会」 の成立を布告した。》



寺平忠輔著   『日本の悲劇   盧溝橋事件』   読売新聞社   24p


《 土肥原少将はもともと関東軍の特務機関長だった。

しかし昭和十年十月には、本格的に天津に乗り込んで来て、
日本租界の常磐ホテルに神輿 (みこし) を据え、華北工作に本腰を入れ始めた。

その努力の結晶として昭和十年十一月二十五日、
殷汝耕 (いんじょこう) を長官とする冀東防共自治政府が成立した。

次に宋哲元に働きかけ、なんとかして彼に独立政権を樹立させようと、
日夜工作に腐心した。


そのころの宋哲元の心境を卑俗な言葉で表わすなら 「フグは食いたし命は惜しし」
というのが、そのまま当てはまるのではなかろうか。

彼は現在の軍事的地位の他に、さらに政治的権勢をもつかみたかった。
今、土肥原工作に乗ずれば、その目的が達せられる事は必定である。

しかし一方、南京の蒋介石から睨まれるのが心配の種だった。
そこで彼は、冀東解消という条件を土肥原少将に提出し、

これを南京側への手土産として、
自らを華北の主権者として認めてもらおう、という画策を持ち始めた。


あたかもよし、南京行政院の本会議では、華北を今のままで放っておいたら、
日本側がまた、どのようなかいらい政権をデッチ上げないとも限らない。

そこで、十二月十一日、冀察政務委員会設置法案を、満場一致で可決し、
その委員長に宋哲元を任命してしまった。》



*   このようにして、「冀東防共自治政府」 と 「冀察政務委員会」 が出来上がります。
   これにて、華北は盧溝橋事件までの間ある程度平穏な日が続きます。

   テロや事件は散発しますが。


つづく

北支五省分治工作2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/06/02 18:29 投稿番号: [461 / 2250]
児島襄著 『日中戦争3』 文春文庫   194〜196p


《だが、そうなると、日本は困る。
これまでの経緯が告げているように、

   −   「国民政府の全国統一の未完成」
   −   「列国の不干渉」

という、二大要素があったからこそ、満州も管制できたし、
「北支」に緩衝地帯を設ける布告もうつことができた。

幣制改革が成功すれば、その二つの要素は消失する。
そして、「北支」 が経済的、政治的に国民政府のコントロール下に

はいるのであれば、緩衝地帯もまた消失し、さらに 「北支」 に
交易の基礎をおく満州国は、重大な経済的脅威にさらされるであろう。

日本側とくに陸軍は危機を感得したが、いち早く行動したのは、
関東軍と支那駐屯軍である。


「(事態を打開するには) 北支諸省ヲ経済的ニ   南京政府ヨリ分離 セシムルヨリ他ニ、

対策ナキコトハ、アエテ議論ヲ 要セザル所ナリ」

関東軍司令官南次郎大将は、そう参謀総長閑院官載仁元帥に具申し、
支那駐屯軍と協力して、工作をすすめた。

「北支諸省」 は、河北、山東、山西、チャハル、綏遠省をいい、いわゆる
「華北五省ノ分治」 あるいは〝華北独立〟をはかるのが、そのねらいである。


当時のそれら五省の政府主席は、次のとおりであった。
河北省=商震、山東省=韓複腧、チャハル省=蕭振瀛、綏遠省=傳作義、

山西省=徐永昌。だが、この地区の実力者は、いぜんとして旧軍閥将領である
閻錫山 (山西)、宋哲元 (チャハル)、萬福麟 (河北) らとみられ、

日本側は、各省主席はむろんのこと、これら実力者にはとくに入念にはたらきかけた。
また、陸軍の 「北支」 工作は、十一月十八日、陸軍、海軍、外務三省間の

協議で承認され、十一月二十日、駐支大使有吉明は、蒋介石に面会して、
「北支ニアル種ノ自治ヲ許ス」よう、申しいれた。・・・

蒋介石は、有吉大使がいう 「北支自治」 は行政の統一を阻害するので
認められない、と反対した。


*   「蒋介石は・・・認められない、と反対した。」

   そりゃ、まー、当然でしょう。
   ここだけの動きを見ていると、日本が悪く見えます。

   しかし、それ以前の中国側の動きからすると、日本側の反応も理解できます。
   一見、正当な幣制改革に見えますが、「中国人には兌換はおこなわない。」とあります。

   まともな改革ではなく、あくまでも、満洲国潰しのための政策かと疑えます。
   満洲事変前、中国は満鉄潰しのため、利益無視で満鉄平行線を造っていましたから。


つづく

北支五省分治工作1 中国の幣制改革

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/06/01 18:31 投稿番号: [460 / 2250]
中国は武力による満洲再侵略を試みていましたが、うまく行かないので
作戦を変更し、こんどは幣制改革で対抗する事にしました。

これは、中国国内のお金の制度を変える事ですので、
日本が口をはさめる事ではありません。

それがなぜ、問題なのかと言うと、
それをやられると満洲国に不都合を生じるからです。


児島襄著 『日中戦争3』 文春文庫   193〜194p

《 翌日 (汪兆銘が銃撃された日の)、十一月二日   ―。

上海の政府系の 「中央」「中国」「交通」 銀行をはじめ、市中銀行のほとんどに、
預金を現銀に兌換するための群集がおしかけ、取付状態が現出した。

預金の外国銀行にたいするあずけ替をこころみる市民も多く、
正午までにその額は一千万元をこえた、とつたえられた。

この日は土曜日なので銀行は正午で扉をしめて群集も退散したが、市民の動揺は
消えず、週明けの四日には、金融パニックの到来は必至とみこまれた。


国民政府は緊急協議をおこない、かねて考案していた幣制改革を断行することにして、
翌日、三日、日曜日の午後、財政部長孔祥煕が必要措置を発表した。


①四日からは 「中央」「中国」「交通」 の三政府銀行の紙幣だけを、法定通貨とする。

②銀本位制を維持するため、銀貨、銀塊は額面および純分量で買いあげ、
   発行準備にあてる。   中国人には兌換はおこなわない。

③対英為替レートを一シリング二・五ペンスとし、このレート維持のために
   三政府銀行は無制限に外国為替の売買をおこなう。

これら幣制改革の基礎は、既述したように、鉄道を担保にした
対英借款千万ポンドに置かれていた。


また、国民政府は、銀貨、銀塊の回収についてはとくに厳格に対処することにして、
次のように布告した。

「一、銀貨銀塊ヲ通貨ノ目的ニ使用スルコトハ、一切之ヲ禁止ス……。

  二、何人 (なにびと) タルヲ問ハズ、故意ニ銀貨銀塊ヲ隠匿又ハ不法ニ

    所有流通スルモノアル時ハ、緊急治罪法ヲ以テ処断ス……」

つまりは、〝銀国有令〟であり、発行準備の確保策であるとともに、現銀との
兌換をもとめての市民の取付騒ぎを阻止する対策でもあった。


   −   しかし、
幣制改革には、さらに別の効果もみこまれた。

中国経済は、これまで地方単位の性格が強く、
政府の紙幣よりは銀が通貨の主役をつとめてきた。

おかげで、一地方の経済的破綻がそのまま他地方に波及しない利点もあったが、
政府の全国統一のさまたげにもなっていた。

幣制改革は、この〝経済的割拠体制〟を打破することによって、
政治的な統一を促進させ、

しかも通貨が英貨とリンクするので、
英国との強固な政治的、経済的連帯が期待できる……。》


つづく

梅津・何応欽協定

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/05/31 18:41 投稿番号: [459 / 2250]
満洲事変のあと、中国はテロ行為だけでなく満洲への再侵略も執拗に試みていました。
そのため、日本側は対応を迫られます。


寺平忠輔著『日本の悲劇   盧溝橋事件』読売新聞社刊   昭和45年発行

19p
《 前年 (昭和9年) 十一月、彼 (宋哲元) の部下、馮治安 (ひょうちあん) の部隊が突如、
熱河省を侵犯し、大灘 (だいなん) 西方二十キロ、断木梁という部落に進出して来た。 》


21〜22p
《 この年 (昭和10年) の四月、・・・、五月三日、天津の日本租界で、
国権報の社長胡恩傅 (こおんふ) と、振報社長白逾桓 (はくゆかん) の二人の
親日分子が白昼何者かに襲撃され命をおとした。

こえて五月二十四日には、孫永勤という抗日匪軍が熱河を犯し、
続いて非武装地帯に侵入するという新たな事態が引き起された。

このところ華北の空気はめまぐるしいまでに物情騒然、混沌模糊として、
不安な日が続くようになった。

由来、天津軍本来の任務は、北京、山海関間の鉄道の保全、ならびにこの間に在住する
居留民の保護にあったが、現状ではこの任務さえも、とかくおびやかされがちだった。

  ―   こんな事では全く困る。華北の明朗化を妨げるやからは、
    この際抜本的に荒療治してしまうんだな。   ―

気の早い酒井参謀長は、起案紙に一気呵成、華北粛清対策案をなぐり書きした。
これが梅津・何応欽協定の骨子となったのであるが、その内容は概ね次の通りである。


    通   告

一、最近華北に頻発しつつある排日侮日の諸現象は、方 (ひと) しく塘沽 (タンクー)
   協定の破壊行為たると共に、また北清事変議定書の精神をも蹂躙するものなり。

   我が方はこれを明確なる対日挑戦行動と認め、条約上の権限に基き、
   今後自衛上必要と信ずる行動に出づる事あるを通告す。

二、   これを未然に解決せんがため、左記各項の即時実行を要求す。

   イ   軍事委員会北京分会、憲兵第三団、国民党部、政治訓練所、
     藍衣社 (らんいしゃ) 等の一律華北退去。

   ロ   黄杰 (おうけつ) の第二師、関麟徴 (かんりんちょう) の
     第二十五師等、中央直系諸軍の華北撤退。

   ハ   河北省政府主席于学忠、憲兵第三団長蒋孝先、藍衣社主任劉一飛等の
     罷免ないし処罰。

   ニ   排日侮日行為徹底取締りの確約。
                    以   上》


そして、6月28日、断木梁侵犯なんか絶対に出来ない様にと、土肥原少将が新たに

《 京綏鉄道以北の察哈爾省内に非武装地帯を設定する (23頁) 》

という協定を秦徳純に結ばせたのが土肥原・秦徳純協定です。


*   善人心の人達は、『梅津・何応欽協定』 や 『土肥原・秦徳純協定』 を
   押しつけた事を非難しますが、なぜ、そうなったのを見ようとはしません。

錦州爆撃から塘沽停戦協定まで

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/05/30 16:00 投稿番号: [458 / 2250]
関東軍が満洲事変を起こし、満洲国を建国しても、出来たばかりの満洲国に
自衛能力は有りません。いきおい関東軍が肩代わりする事になります。

中国が、つねに再侵略を試みていますので。
満州事変では、いくつかの地域が独立をしましたが、他は手つかずで残っていました。


最初、関東軍は中国東北辺防軍のいる錦州は攻撃しませんでした。
それは、日本政府が中国と全面戦争になることを恐れていたからです。

関東軍は馬賊の討伐もやっていますので、これを追撃すると錦州に逃げ込みます。
関東軍が手を出せないので、錦州が馬賊の聖域となっていました。

そしてこの馬賊は中国東北辺防軍の別働隊でもあったのです。
また錦州政権の存在は関東軍占領下の小軍閥の動きにも影響を与えていました。

そこで、関東軍は錦州を何とかしなければと考え、錦州を爆撃する事にしました。

といっても爆撃機ではなく偵察機で、しかも人が手でもって落とすという
原始的なやりかたですけど。だから、効果は知れています。

しかも、日本政府の意思を無視してです。


何でそんな事をしたのかというと、目的は軍事効果ではなく、
それによって、お目出度い政治家の頭を吹き飛ばす事にあったそうです。

後に日本は交渉で張学良軍を山海関の外に移動させます。

(児島襄著 『日中戦争2』 文春文庫148〜153p 要約)


しかし、これで、満州国が安定したわけではありません。


昭和7年7月17日午後1時ごろ、満州熱河省の北票から遼寧省の錦州に向かう列車が
両省の境に近い南領〜朝陽寺間にさしかかった所、一隊の武装兵が停車を命じ、

乗っていた関東軍嘱託の石本権四郎を拉致しました。
犯人は匪賊的に行動している抗日義勇軍の一部です。

熱河省は満州の一部ですが、まだ関東軍の手はついていません。

満州を追われた張学良は、4万の義勇軍を熱河に送り込み反満抗日の拠点にしていたのです。
そのため関東軍はこれをも一掃せざるを得なくなりました。

結局、熱河省も制圧しない事にはどうにもならなかったのです。関東軍は
昭和8年熱河作戦を行い、結果、本来の満州の領域である熱河省の回収に成功しました。


この作戦では、最初、関東軍の武藤司令官は長城越えを禁じていました。
ところが、中国軍が南から熱河奪還作戦を行うものですから、

結局、長城の南にも行かざるを得なくなりました。
その時、関東軍は、天津・北平(北京)に迫る勢いを見せます。

これは不都合ですからやめさせなければなりません。
長城の北だけなら満州国の防衛と主張できますが、

南に行くとその理屈が通らなくなります。外国から見ると侵略に見えます。
だから止めなければならないのです。

ところが現場が止まりません。というのは中国兵を南に追いやっても、
関東軍が引っ込むと、また戻って来るからです。

だから“もっと遠くへ”とやっている内に、こうなったのです。
しかしこれでは際限がありません。


そこで“中国軍が二度と満州を侵略できないようにと
《北京北方から密雲以東、長城線から約五〜六十キロの深さの河北省》を

非武装地帯にする”という 塘沽停戦協定を中国に結ばせて、
関東軍は長城の北に引き揚げました。

(児島襄著 『日中戦争』 文春文庫   2巻287p〜3巻106p 要約)


これにて、満州事変は終了します。しかし中国側は納まりません。
つねに満州再侵略を試み、また中国国内での排日運動を激化させます。


つづく

中国人による無数の暴虐事件3

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/05/29 16:08 投稿番号: [457 / 2250]
K・カール・カワカミ著 『シナ大陸の真相   1931〜1938』 (原題 Japan in China )
訳者   福井雄三    展転社


127〜129p
※   南   支

一、一九三六年一月六日、汕頭で二千人の中国人の中学生が日本に対する
   戦争を要求しつつデモを行った。

二、一九三六年一月二一日、汕頭の日本領事館に所属する日本人の警官が
   自宅から出勤途中、中国人に射殺された。

三、一九三六年一月、中国警察と税関警備兵が広東の三六ヶ所の中国人
   事務所を襲い、日本商品を没収した。

四、一九三六年七月三日、広東の中国人商店は反日組織により、
   日本商品ボイコット相互組合に加入することを余儀なくされた。

五、一九三六年九月六日、汕頭でもう一つの反日デモが行われ、
   日本人経営の商店で働く中国人に退職を余儀なくさせた。

六、一九三六年九月三日、広東省バクホイで中野という名前の日本人薬局経営者
   (薬剤師) が、一九路軍の中国人兵士によって惨殺された。

   暴徒が薬局を急襲した時、中野の家族は夕食を食べていた。中野は
   街路に引きずり出され、そこで蹴られ、殴られ、そして殺された。

   その間、彼の中国人の妻は筆舌に尽くしがたい程の虐待を受けた。
   店は完全に略奪された。

   広東の日本領事館員が調査のため汽船でバクホイに赴いたが、
   一九路軍は力ずくで彼らの上陸を妨げた。

   彼らはいったん広東へ戻らねばならず、そこで二〇日間待たされたあげく、
   ようやくバクホイに入ることを許された。

七、一九三七年三月、広西省当局は反日感情を煽り立てるためのただそれだけの
   理由で、全ての日本人を広西省から追放した。

八、一九三七年五月二二日、汕頭の日本領事館に勤務する警官が
   中国警察に滅多打ちにされた。


このリストは、南京政府が十年間に渡って資金を援助し、煽動してきた反日宣伝活動が、
蒋介石自身が予期したよりもはるかに決定的な効果を及ぼしたことを示している。


*   このように、中国人は自分達の満洲侵略行為を棚に揚げ、
   それを正された事を逆恨みして、暴虐の限りをつくしていたのです。

*   一方、中国政府も取り返された満洲を再侵略すべく、
   あの手この手を使って満洲侵攻を試みていました。

『丸一洋行』 店主惨殺事件

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/05/28 18:27 投稿番号: [456 / 2250]
児島襄著 『日中戦争3』 文春文庫
225〜226p

《九月三日、またしても日本人殺害事件が発生した。
現場は、広東省雷州半島の西方の北海市。

被害者は、同市第七区泰華鎮珠海中路第九十号の
『丸一洋行』 店主・中野順三であった。

北海市には、八月二十四日、反蒋介石を主張する第十九路軍の一部、
○(分+羽) 照垣指揮の「抗日救国軍第一師」 約千五百人が進駐し、

随行してきた学生約三百人とともに、「打倒日本賊」 「打倒蒋介石漢奸」
などのビラをまき、市内要所にたむろしていた。

中野順三の店は、なかなかの盛業ぶりを示し、家族は第一、第二夫人、
男児四人、女児一人であった。

なぜ『丸一洋行』が対象になったかは不明だが、師長○(分+羽) 照垣は、
進駐してくると、商務局をつうじて立ち退き要求をくり返し、

中野順三も、やむなく承知して店じまいの準備をすすめていた。


すると、九月三日午後七時ごろ   ―

『丸一洋行』 に三十歳前後の男二人がはいってきて、はじめは買物客の風情で店内を
歩きまわっていたが、店番をしていた中野順三の長男清に、いきなり拳銃をつきつけた。

「(ここは) 日本人ノ店ナルベシ」

拳銃をむけられた長男清は、二人の質問に答える余裕もなく、
「オ父サン」 「オ父サン」と連呼しつつ、二階にかけのぼった。

二人は拳銃を発射した。その発砲音が合図であったらしく、いずれも十七、八歳の
青年四、五人が 「ジャック・ナイフ」 をふりまわしながら乱入してきた。


中野一家のうち、第二夫人は年少の男児三人をつれて外出中で、
店には中野当人のほかは第一夫人、長男清、長女千鶴子がいた。

第一夫人と長女千鶴子は、長男清のあとを追おうとしたが、
乱入してきた一味につきとばされた。

二階に殺到した一味は、食事中の中野順三におそいかかり、猿グツワをして
壁におしつけ、ナイフで右胸部、腹部、頸部を刺して、殺害した。

長男清は、その間に二階の裏窓からとびおりて逃げ、階段をはいのぼってきた
長女千鶴子が、なかば気失しながら、父親が刺殺される状況を目撃していた。》

日本人記者惨殺事件4

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/05/27 18:36 投稿番号: [455 / 2250]
児島襄著 『日中戦争3』 文春文庫
221〜222p


《田中武夫の記憶によると、部屋には安楽椅子二脚が壁際におかれ、
壁を背にして左の椅子の前に田中、右の椅子の前に渡辺、

渡辺の前に瀬戸、二脚の椅子の間に深川が立っていた。

群衆は、前回とちがって、「殴れ」 「殴れ」 と叫びながら四人に殺到し、
たちまち、深川経二が異様なうめき声をあげて倒れた。

そのもがく姿を見たあとの田中武夫には、自身のことしか記憶に残っていない。

夢中で、眼前によろめいてきた中国人警官の腰にしがみつき、
警官を楯にして棍棒、鉄拳の攻撃をさけようとした。

警官はあわててふりはなそうとする。田中武夫はなおもしがみついていたが、
隣室に逃げこむ警官は大きく腰をふって、ふりきった。

田中武夫は、群衆の中に孤立したことを自覚すると、抵抗を断念し、
暴徒が電灯線をひきちぎって両手をしばろうとするときも、すすんで手をさしだした。


両手をしばられたあと、財布、時計その他身につけた物を掠奪され、
外にひきずりだされた。

旅館の庭、周辺は男女の群衆でうずめつくされ、のちにその数は約一万人と推算されたが、
多数の中学生、さらには小学生もあつまって、口々に田中をののしった。

現場には、警備司令部から派遣された武装兵士約二百人が到着していたが、
発砲して群衆を解散させることもなく、傍観するだけであった。

いや、田中が学生に連行されてくると、兵士が学生から引きつぎ、
田中をひきまわしさえした。

田中は、次々に群衆の殴打をうけながら夜の街を歩かせられていたが、
右耳を棍棒で強打されて倒れた。


警官が、この男は死んだ、と叫んで、なおも殴ろうとする群衆を制止し、
人力車でカナダ人経営の 『四聖病院』 にはこばせた。

気がついた田中が看護婦に時刻をたずねると、午後九時とのことであった。

群衆はなおも病院内におしかけ、さすがに乱暴はしなかったが、
いれかわり立ちかわりに、懐中電灯で田中の顔を照射した。

午後十一時ごろ、田中は担架で督弁公署にうつされ、
軍医の手当をうけて、ようやく安堵した。

瀬戸尚も督弁公署にはこばれていて、二人は無事を喜びあい、同時に、
残る二人の安否を気づかった。


田中武夫が、特派員渡辺洸三郎と記者深川経二の死を知ったのは二日後だが、実際には、
翌日、八月二十五日午前五時ごろ、二人の死体が王府街の火神廟前で発見されている。

二人ともに全裸にされ、さんざんに殴られて殺されたとみえ、
顔もぐしゃぐしゃにつぶれ、酸鼻をきわめた死にざまであった。


*   この被害者達には酷な言い方だが、日本人には平和憲法的感覚が多すぎる。
   こういう結果になりそうな事は、行く前から想像がつきそうなものに。

   昔の日本人も今の日本人と同じで、「話せばわかる」、「同じ人間じゃないか」
   「武器を持たない者を攻撃しないだろう」と言う、

   美しい心で、出かけて行って虐殺される。
   なぜ、日本人は歴史に学ばないのだろうか。


つづく

日本人記者惨殺事件3

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/05/26 18:33 投稿番号: [454 / 2250]
児島襄著 『日中戦争3』 文春文庫
220〜221p

《食堂にいた田中、深川の二人は、学生たちが護衛の警官と大声で押問答をかさね、
次第に市民たちも内庭にあつまってくる様子をみると、

不安を感じて、三階の二人に合流した。

警官は、しっかりカギをかけてくれ、絶対に外に出るな、と指示し、
用便のときはどうするのだ、と質問すると、それでも部屋を出てはいけない、と答えた。


田中武夫によると   −

「宿屋の庭や (隣接した) 空地で荒々しい演説の声がすると思うと、拍手、
そして叫喚。熱した群衆の凄い空気が、部屋の中まで伝わって来る」

扇風機はあるが、扉も窓もしめきっているので、室内は文字どおりに
「蒸し風呂」 にはいっている暑さであった。

四人は、とにかく警官が警戒しているので、いずれデモ群衆も退散するものと思い、
汗まみれになりながら談笑していた。


ところが、午後五時ごろ   −

階下からガラスが割れる音、家具をうちこわす音がひびき、
その音が一階から二階に上昇してきた。

これは……と、四人は危険を感じ、室内の机、椅子をドアにあてがって防禦物にした。
とたんに、そのドアをたたく音、叫声がひびき、

ドアの下半部は机、椅子でおさえられているので、上半部に打撃が集中し、
メリメリと板が破られた。

破孔から一人の中学生がのぞきこみ、叫んだ。
たぶん、日本人がいたぞ、とでもわめいたものと、田中武夫たちは想像したが、

その中学生の叫びを合図に体当り攻撃が加えられ、
ドアの破片とバリケードがわりの机、椅子をけちらして、十数人が乱入してきた。


四人は、「護照」 を提示し、日本総領事館開館には無関係である旨を説き、
ようやく、相手は納得して部屋を出た。

旅館の各階に充満していた群衆は、なおも 「打倒」 「打倒」 と連呼していたが、
午後六時三十分ごろ、旅館の前から姿を消した。

  −   だが、
ものの三十分間もすると、再び群衆は旅館におしよせ、
前回にも増して激しく 「打ちこわし作業」 を開始した。

中国人警官は、この間に約四十人が増員されていたが、
やはり丸腰なので制止できず、群衆はまたもや四人の部屋に乱入した。》


つづく

日本人記者惨殺事件2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/05/25 18:32 投稿番号: [453 / 2250]
児島襄著 『日中戦争3』 文春文庫

218〜220p
《岩井領事代理には、上海から四人の同行者がいた。

『大阪毎日新聞』 上海特派員渡辺洸三郎、『上海毎日新聞』 記者深川経二、
南満州鉄道上海事務所員田中武夫、漢口の 『瀬戸洋行』 店主瀬戸尚の四人である。

四人は、「兎ニ角」 成都に行くことにした。
瀬戸尚は商用もあったが、他の三人は取材および視察が目的である。

総領事館開館には関係がないので、「護照」 もあっさりと発給され、
一行は、八月二十一日、バスで成都にむかった。


八月二十三日   −

重慶では、商工会、学生その他各種団体が成都総領事館開館に反対する集会をひらき、
組織された宣伝隊は、市内に 「反対日本在蓉設領」 「阻止岩井西上」

などのビラをはり、糾察隊は、商船『 萬懸号』 ではこばれてきた岩井領事代理の
乗用車を荷揚げしようとする労働者を 「漢奸」 (売国奴) とののしり、作業を中止させた。

特派員渡辺洸三郎ら四人は、午後二時三十分ごろ、成都に到着した。
街は平静な雰囲気につつまれ、一行は、公安局に 「護照」 を提示し、

『大川旅館』 に投宿した。
中国側は、非武装の警官約二十五人を旅館周辺の警戒にあたらせた。


翌日、八月二十四日   −

成都市内では、午前中に小城公園で 「日本総領事館開館反対民衆大会」 が
ひらかれたが、演説とシュプレヒコールがくり返されただけで、デモ行進もなく、散会した。

四人は、午前十一時ごろ、『大川旅館』を出た。
『瀬戸洋行』 店主瀬戸尚は商用をはたすため、他の三人は市内見物のためである。

街は、前日と同様に平穏であったが、電柱、壁には、「岩井領事は即刻四川を去れ」
「岩井と合作する漢奸を除け」 などのビラがべたべた貼られている。

三人は、なにがなし異常を感得しながら、午後一時半ごろ、旅館に帰り、
つづいて、瀬戸尚も帰館した。


午後三時ごろ、満鉄社員田中武夫は 『上海毎日』 記者深川経二をさそい、
食堂で四川名物の 「タンタン麺」 を食べた。

「タンタン麺」 は、唐辛子を大量に使い、その辛さで名高い。

盛夏の熱風が吹きこむ食堂で、すさまじい辛さの麺を食べるのだから、
たちまち二人は汗みずくになった。

それでも、いや夏はこのほうが良い、などとヤセ我慢してお代りを注文していると、
窓越しに制服姿の中学生約十五人がビラ貼りをしているのが、みえた。

「あんな子供まで動員されているとなると、あんまり良い空気じゃないなァ」

田中武夫がつぶやき、深川経二がうなずいていると、その中学生たちは旅館に
はいってきて、二階から三階にのぼり、やがて、降りて来ると、外に出ていった。

四人は、三階の大部屋に同宿している。


中学生たちはその部屋におしかけ、在室していた特派員渡辺洸三郎と瀬戸尚の二人の
前でビラの文句を読みあげ、二人を 「凄い目でにらみ」 つけて立ち去った、という。


つづく

日本人記者惨殺事件1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/05/24 17:58 投稿番号: [452 / 2250]
児島襄著 『日中戦争3』 文春文庫

215p
《八月二十四日、
四川省の首都成都で、日本人二人が市民に惨殺されるという予想外の事件が、突発した。

事件は、日本側が一九三一年いらい閉鎖していた成都の日本総領事館を
再開しようとしたことにからんで、発起したものであった。
・・・

日本政府は、五月二十二日に外務書記生岩井英一を領事代理に任命して
成都総領事館再開のために派遣した。


216p
ところが、領事代理岩井英一が上海に到着した七月二十七日、国民政府外交部
国際司長呉頌皋は、「各国領事の成都駐在は認め難い」 と言明した。

三日後、七月三十日、外交部は上海にいる亜州司長高宗武あてに成都総領事館の
再開は不承認である旨を通報し、駐支大使川越茂につたえさせた。

川越大使は、しかし、かねて四川省政府主席劉湘が反蒋介石派といわれていることもあって、
あるいは現地は別の反応を示すかもしれぬと思い、領事代理岩井英一に指示した。

「兎ニ角、行ケ」

上海から成都に行くには、重慶まで揚子江を船でのぼり、
重慶から飛行機を利用するのが、一般的な方法である。

岩井領事代理も、このコースをえらび、八月一日、上海を出発した。
この岩井領事代理の出発にあわせて、重慶、成都の各新聞、とくに 『新蜀報』

『人民日報』『商務日報』『済川公報』 などは、いっせいに日本総領事館の
再開と岩井領事代理の赴任に反対するキャンペーンを展開した。


217p
岩井領事代理は、八月十七日に重慶に到着した。

十七日間の船旅であったが、途中では何事もなく、岩井領事代理も有名な
三峡の風光を楽しむなど、のんびりした気分ですごした。

岩井領事代理は、重慶領事糟谷廉二と協議して、
八月二十一日に飛行機で成都にむかうことにした。

ところが、外交部川康特派員呉沢湘は、岩井領事代理の赴任を阻止する態度を示した。
もし総領事館開館のために成都に行くのであれば、「護照」(通行証) は発給しない。

私人の資格でなら差しつかえないが、その場含も、岩井領事代理が開館事務をとったら
責任をもって召還することを、糟谷領事が文書で保証してもらいたい   ―   と、いう。

こころみに、中国航空公司で成都行の航空券を買おうとすると、すでに
「官憲ノ指示」 をうけているとみえ、空席があるにもかかわらず、発売しない。


218p
岩井領事代理は、とりあえず成都行をあきらめ、東京に事情を打電して、訓令を待つことにした。


つづく

中国人による無数の暴虐事件2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/05/23 15:19 投稿番号: [451 / 2250]
K・カール・カワカミ著 『シナ大陸の真相   1931〜1938』 (原題 Japan in China )
訳者   福井雄三    展転社


125〜127p
《   ※中   支

一、一九三五年一一月九日、日本海軍准尉の中山秀夫が上海国際租界で射殺された。

二、一九三五年一二月二〇日、漢口での大規模な反日デモ。

三、一九三五年一二月二一日、約一千名の中国人学生が 「日本帝国主義を倒せ」
   「全ての日本人を上海から追い出せ」 と叫びながら、

   上海国際租界の中心部を行進した。彼らは反日ビラを配布した。

四、一九三五年三月二六日、上海国際租界にある日本海軍の本部公館に
   爆弾が投げ込まれた。

五、一九三六年一月七日、三千人の学生が南京の孫文墓地に集まり、反日デモを行った。
   さらにまた、南京の日本総領事館の前でもデモが行われた。

六、一九三六年七月二〇日、世界的に有名な東京三井物産の上海支店の
   日本人社員が国際租界で射殺された。

七、一九三六年七月一八日、中国人の暴漢が日本人の通行人を殴打し、重傷を負わせた。
   日本人の女や子供に投石する事件や上海の中国人が日本人に対して行う暴力行為は、

   日を追うにつれて頻繁になった。
   短期間にそのような事件が二〇件以上も報告されている。

八、一九三六年八月七日、南京の日本総領事館の松村秘書官が上海に到着した際、
   彼の外交上の地位を知っていたにもかかわらず、

   中国人の税関職員は彼の携行していた革カバンの中を調べた。

九、一九三六年八月二四日、四川省の成都で大阪毎日及び東京日々の特派員と
   もう一人の日本人の新聞社特派員が一万人の中国人の暴徒

   (その大部分は幼い少年少女だったのであるが) に襲われ、
   最も残忍なやり方で殺された。他の二人の日本人が重傷を負った。

   中国の地方当局は暴動を抑えるための何の手段も講じなかった。
   南京の中央政府も同様に無関心だった。

   四川省当局は必死で証拠を隠滅しようとし、
   日本の外務省が成都に派遣した調査団を妨害した。

   日本の度重なる抗議の後八月二六日、国民政府は行政部門の特別会議を招集し、
   日本国籍を持つ者に適切な保護を与えるよう各地方長官に命令を出した。

一〇、一九三六年九月元日、漢江の日本領事館の警官が中国人に射殺された。

一一、一九三六年九月二三日、日本海軍の水兵が上海の街路で射殺された。
    他の二人の水兵は重傷を負った。
一二、一九二六年九月二六日、湖南省湘潭にある日本の汽船会社の事務所に
    中国人の暴徒が放火した。

    一九三六年九月二九日、長沙の日本総領事館の建物に爆弾が投げ込まれた。

一三、一九三六年一〇月、上海の中国警察による日本人の女や子供の気紛れで
    不法な逮捕と拘留の事件が増加。

一四、一九三六年一一月一一日、日本の汽船会社に雇われた日本人の船乗りが
    上海で射殺された。

一五、一九三七年二月三日、漢口で日本人の事業家の妻が中国人に襲われた。


つづく

中国人による無数の暴虐事件1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/05/22 16:09 投稿番号: [450 / 2250]
K・カール・カワカミ著 『シナ大陸の真相   1931〜1938』 (原題 Japan in China )
訳者   福井雄三    展転社

123〜125p
《宣伝活動の結果、事態は絶望的となった。
殆どの中国の都市が日本人の住民にとってもはや安全ではなくなった。

日本人はもはや安心して家の外を歩けなくなった。
中国人の商人は反日組織の側からの報復を恐れて日本の商品を扱おうとはしなかった。

日本に対して友好的な中国人、または日本人と商売したりつきあったりしている中国人は
脅迫され、恐喝され、襲撃され、時には殺されさえもした。

中国の全国土は日本への憎しみで燃えさかっていたが、しかしそれは自然発生的に
燃え上がったものではなくて、国民政府自身が火つけ役となった大火だったのである。

当然のことながらここ数年間に反日的な事件が次から次へと目まぐるしく発生した。
次に掲げるのはその中の一部のリストである。


  ※北   支

一、一九三五年五月、日本贔屓の傾向のある二人の中国人の新聞編集者が
   天津で殺害された。

二、一九三五年一二月一七日、天津の日本軍守備隊総司令官である多田陸軍中将の
   邸宅に爆弾が投げ込まれ、中国人の召使いが負傷した。

三、一九三五年八月、満洲国の国境から天津に向けて走行中の満洲国・中国
   国際列車が匪賊に襲撃された。

   調査により判明したところでは、彼らは天津の反日組織に煽動されていた。
   約二〇名の乗客が殺害された。

四、一九三六年一月二日、天津付近のタークーで二軒の日本人商店が
   中国軍正規兵によって略奪された。

五、一九三六年六月二六日、北京近くで中国軍の正規兵が、
   豊台日本軍守備隊に所属する日本人兵士に襲いかかり重傷を負わせた。

   それに対する謝罪を要求して中国軍の兵営に赴いた日本人の陸軍大尉が
   中国軍兵士に刀と銃剣で斬りつけられた。

六、一九三六年六月一九日、山東省防東で日本人が中国人に射殺された。

七、一九三六年七月二二日、天津の市役所所属の中国人警備兵が、
   天津の日本総領事館に勤務する二名の警官を領事館の前で銃撃した。

   一人は殺され、もう一人は重傷を負った。

八、一九三六年八月二三日、河北公共治安部隊の数名の兵士が天津の日本語学校を
   襲撃して略奪し、日本人の教師に暴行を加えて拉致した。

九、一九三六年一〇月、反日組織に煽動されたストライキのおかげで、
   山東省青島の日本人経営の紡績工場が二週間閉鎖された。

一〇、一九三七年五月二三日、各々四九トンの二隻の日本の漁船が満洲国の
    大連沖で操業中に、中国の税関パトロール船に発砲された。

    中国人の税関警備兵がこの日本の漁船に乗船して捜索したが、
    犯罪に関する物は何も発見出来なかった。

一一、一九三七年六月一日、中国人の暴徒の一団が天津付近の日本人経営の
    農場施設を襲い、一つの倉庫と三つの住居に放火し、

    多くの日本人従業員が負傷した。》


つづく

中国民衆の暴虐は反日教育から2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/05/21 18:46 投稿番号: [449 / 2250]
つづき

K・カール・カワカミ著『シナ大陸の真相   1931〜1938』(原題 Japan in China )
訳者   福井雄三    展転社   121〜123p


《これと同じ話はあらゆる学校や大学の教科書で、
別の言葉で繰り返し述べられている。

実際問題として、中国は澎湖諸島にはっきりとした名称を付けたことは
それまで一度も無かったのである。

台湾 (フォルモサ) の島は一八九四年の日清戦争後に日本へ割譲された。

遼東半島は一九〇四〜〇五年の戦争の後に、
日本が中国からではなくロシアから獲得したものである。


例えばメキシコ政府が学校の教科書を通じてアメリカのテキサス併合を取り上げながら、
メキシコの子供たちの心にアメリカに対する憎しみの気持ちを煽り続けてきた、

などということが想像出来るであろうか?

例えばイギリス政府が現在オレゴン州やワシントン州となっている地域を
アメリカが併合したと非難することによって、

イギリスの若者の柔軟な心に反米感情を注入し続けてきた、
などということが想像出来るであろうか?

例えばワシントンの政府が手をこまねいて傍観していた場合に、
学校を通じてのこのような宣伝活動がアメリカ人の殺害やアメリカ商品のボイコット

などを含む果てしない一連の事件を引き起こした、
などということが想像出来るであろうか?


国民政府は算数の教科書すらも反日宣伝のために利用している。
例えば小学校の「高学年算数」四巻六四頁には次のような問題が載っている。


「宋哲元がシフェンコウの日本軍部隊を攻撃した時、兵士は全部で五万人いた。
その内の二万五千人を孫の部下が殺した。これは何パーセントになるか」


満洲の分離が、中国政府の教科書による日本攻撃の格好の題材に
なっていることは言うまでもない。

それが及ぼしてきた影響力は計り知れないものがある。
ここ数年間に起こった様々の事件の中で、一四、五歳かそこらの中国人の少年少女たち

(彼らの心は幼稚園や学校での反日イデオロギー教育で染まっているのだが) が、
日本人に対してなされた残虐行為の指導的役割を演じてきた。


例えば一九三六年八月、二人の日本人の新聞特派員
(その内の一人は大阪毎日と東京日々の外国関係のニュース係であった)が

投石され、刺され、物を奪われた上に殺されたのであるが、
その犯人は四川省成都の暴徒と化した子供たちや少年少女の一群だったのである。

軍の反日宣伝活動はそれに優るとも劣らず激しかった。
この十年間、中国には軍歌や憎悪を心底讃える歌が響き渡り、

中国における日本の権益を破壊すべく軍隊を煽り立てた。

軍はさらにまた、日本を不倶戴天の敵と見なすよう
兵士に注意を促すような巧みな問答形式のやり方を用いた。》


*   算数の教科書
   「宋哲元がシフェンコウの日本軍部隊を攻撃した時、兵士は全部で五万人いた。
   その内の二万五千人を孫の部下が殺した。これは何パーセントになるか」

   これと同じ教育を、今北朝鮮がやっています。


つづく

中国民衆の暴虐は反日教育から1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/05/20 18:34 投稿番号: [448 / 2250]
満洲事変後、大量の反日残虐事件が、発生しますが、
「満洲事変後に起こる反日は、満洲事変が直接の原因ではなく、中国の反日教育の結果」 だ

とK・カール・カワカミ氏が、言っていますので、それを紹介します。


K・カール・カワカミ著 『シナ大陸の真相   1931〜1938』 (原題 Japan in China )
訳者   福井雄三    展転社    120〜121p


《一、反日的教科書

西洋世界がはっきり肝に銘じておかねばならぬ一つのことは、
中国の反日運動は満洲を分離したことから生じたのではなく、

それ以前の日本の政策が全く融和的であった十年以上の間に
既に進行していた現象であった、ということである。

この期間に中国は反日運動のやり方を磨いてそれを実に効果的に用いてきた。
一九二八年六月、南京政府の資金援助を受けた反日連盟国民大会は次の宣言を発表した。

「我々の反日運動の目的は、日本との経済断交を引き起こすことによって
彼らを打倒することである。

その余波はやがては他の全ての帝国主義国家に及ぶだろう。
その最終目的は全ての不平等条約を取り消すことにある」


一九二九年八月までに、政府の資金援助を受けた 「不平等条約撤廃連盟」 は、
日本商品を扱っている中国人の商人を直接処罰することによって、

反日ボイコットを公然と強行した。
これは日本との外交上の紛糾を引き起こした。

日本の抗議をかわすために国民政府は一九二九年八月、
そのような公然たる直接の行動を停止した。

その代わりに国民政府は 「あらゆる地域の商人連盟 (政治的な協会ではない) は、
祖国を外国の経済的侵略から扱うために自ら責任を負うべし」 という命令を出した。

国民政府は 「個々の商人による日本商品の取引の全ての事件を調査し
かつ適切に処分しないような商人連盟は処罰の対象になる」

という訓辞を掲げた。この指令は当然の事ながら秘密に流された。


またその一方で、幼稚園から大学に至るまであらゆる教育機関が、
日本に対する敵意を幼児や若者の心に注入するために利用された。

これは国民党が蒋介石の指導の下に一九二七年南京に政府を樹立した時、とりわけ
顕著になった。一九二八年五月、南京の国民教育会議は次の決議を採択した。


一、国家の屈辱に関する豊富な資料を、中学校及び小学校の教科書に載せること。

二、我らの国家的屈辱に関する事実を宣伝し、どの国が中国の最大の敵であるかを
   国民に印象づけるために、あらゆる機会を用いて学校を利用すること。

三、国家の屈辱を描いている地図と絵を用いること。
   そしてあらゆる機会を利用して生徒の注意をそれらに向けさせること。

四、中国の最大の敵を打倒できる方法を、教師と生徒は共に学ぶこと」


この計画の中にある中国の 「最大の敵」 とは日本を意味していた。この計画が
採択される以前においてさえも、幼稚園の本には次のような言葉が載っていた。


「日本は敵国だ!   日本は中国から澎湖諸島と台湾を奪い、遼東半島を奪った。
日本は侵略国だ。

国民政府は、日本の侵略を阻止しこれらの領土を取り返すことを目的とする政府だ」


これと同じ話はあらゆる学校や大学の教科書で、別の言葉で繰り返し述べられている。
実際問題として、中国は澎湖諸島にはっきりとした名称を付けたことは

それまで一度も無かったのである。》


*   澎湖諸島と台湾は清国から割譲されたのであって、
   所有者でもなかった中国にとやかく言われる筋合いはない。

   清国以前の中国はこれらを領有していなかった。
   満洲人の王朝清国が初めて領有した。

   中国の理屈は泥棒の理屈に過ぎない。


つづく

中共の作り話

投稿者: nyaon3love 投稿日時: 2010/05/20 06:23 投稿番号: [447 / 2250]
当時国民党と共産党による内戦中で、そこに日本軍が進駐し南京を占領平定し各種テロや掠奪強姦がなくなったのだよ。
もし強姦虐殺そのものが真実なら、その行為は同じ支那人によるものだと理解したまえ。そのような悪行は得意な民族性なんだろ?

上海で日本人僧侶が殺される

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/05/19 18:42 投稿番号: [446 / 2250]
自分達の悪行が分からず逆恨みした中国は、反日を激化させ、
上海では日本人僧侶を殺害しました。


児島襄著 『日中戦争2』 文春文庫
169p

《上海居留民団の記録によれば、前年の「満州事変」から年末までの三カ月間で、
商社、商店、個人がうけた掠奪、暴行などの被害件数は二百件をこえ、

とくに通学児童にたいする妨害、悪戯は七百余件にも達して、
日本側の反撥を強めていた。》


174〜176p
《一月十八日   −

上海で日本人僧侶が中国人暴徒に殺害されるという、
より一層に日中関係を悪化させる事件が突発した。

この日、上海郊外の屈家橋に草庵を設けて布教中の 『日本山妙法寺』
上海布教主任天崎啓昇は、楊樹浦 (ヤンジッポ) 方面に寒行に出かけることにした。

ウチワ太鼓をたたき題目をとなえて、街を行脚してまわるのである。
僧天崎啓昇は、僧水上秀雄、信者後藤芳平、同藤村国吉、同黒岩浅次郎と

ともに、午後三時、草庵を出発した。

僧二人は白の法衣、信者三人は洋服姿であった。
一行は、虹口 (ホンキュ) 方面から匯山路に出て、華徳路を東に進んだ。

じつは、先頭に立つ僧天崎啓昇は、この華徳路を平涼路と誤解し、
公大紡・第一廠工場付近に出るつもりであったが、


道は馬玉山路に通じ、やがて午後四時すぎ、一行は同路のタオル工場
『三友実業社』 横にさしかかった。

工場付近には、工員らしい中国人がたむろしていて、一行が近づくと、
朝鮮人だ、朝鮮人だ、と口走った。

だが、一行は 『日本山妙法寺』 と墨書した提燈をもち、
たたくウチワ太鼓にも寺名が明記してあった。

「日本人だ」 「日本人だ」 との叫びが起り、次いで 「殺 (や) れ」 「殺せ」
の叫びにかわり、中国人群集約三百人が一行に大小の石塊を乱投した。

一行五人は、太鼓と腕で投石を避け、ひときわ高声で題目をとなえながら、
通りぬけようとした。


中国人群集は、一行に抵抗の意思がないことを察知すると、
喚声をあげておしよせ、棍棒と石、瓦、コンクリート杭などで五人を乱打した。

僧二人と信者後藤芳平は、法衣と服を血だらけにして倒れ、信者藤村、黒岩両人は
必死で逃れ、工部局警察の楊樹浦署によろめき込んで救援をもとめた。

楊樹浦署員は、二人を北四川路の日本人病院 『福民医院』 に送り、現場に急行した。
現場では、中国人暴徒は、信者二人が逃走したあとすぐに四散し、

遠望していた中国人巡警が付近に住む 『東華紡』 社員檀宗三郎とともに、
三人を亭国路のフランス病院 『聖心病院』 にはこんでいた。

三人は、翌日、『福民医院』 に移されて手当をうけたが、僧天崎は全治六カ月、
信者後藤は全治一カ年の重傷で、僧水上秀雄は二十四日、死亡した。》


*   ところでこの事件は田中隆吉が関東軍に頼まれて仕組んだと言っています。
   しかし僧天崎は、道を間違えたのに、その間違えた道で襲われたのです。

   雇われた襲撃者が、予定のルートから外れた所で待ち伏せするでしょうか。
   田中隆吉は自然発生的事件を自分の手柄にしたロクデナシのようです。

満洲事変後の反日

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/05/18 18:31 投稿番号: [445 / 2250]
孫文が中国の独立闘争をしていた頃、孫文にとって満洲は夷狄の地でした。
だから、満洲の売却に何のためらいも有りませんでした。

ところが、清国を滅ぼすと、中国は清国の全領土が欲しくなりました。
そこで侵略に乗り出すわけです。

当然、満蒙独立運動が起こります。
中国は、世界の協力を得て独立運動をつぶし、侵略にある程度成功しました。

しかし、満洲に先にいた日本人と関東軍を怒らせたため、
引っ繰り返され、土地を満洲人に取り返えさせられたわけです。

中国は自分達が泥棒である事を理解しませんから、
取り返させた日本を逆恨みし、泥棒と罵り、反日を激化させました。


児島襄著 『日中戦争2』 文春文庫

127〜129p
《中国内での反日運動は日ごとに勢いを強め、長沙、南昌、北京、
上海その他全国的に反日市民大会がひらかれた。

寧波 (ニンポー) の大会では 「対日宣戦、永久反日」 が決議され、
漢口、武漢を中心とする湖北救国会は、次の 「排日十大方針」 を宣言した。

  一、日貨を買わず日貨を用いず。

  二、日貨を積まず。

  三、日本船に乗らず。

  四、日本人と往来せず。

  五、日本人に雇われず。

  六、日本人を雇わず。

  七、日本の銀行に預金せず。

  八、日本人に食料を供給せず。

  九、日本に留学せず。

  十、日本で商売せず。

この 「十大方針」 は各地に同調の環をひろげ、同時に日本人居留民に
暴行を加える傾向も高まり、満州、中国本土からの邦人引き揚げがつづいた。


・・・
国民党中央常務委員会は、高等中学校以上の学校に 「青年義勇軍」、

初等中学校以下に 「童子義勇軍」 を組織させ、各学校の教職員、学生に
「不買日貨」 を宣誓させていたのである。

これら 「義勇軍」 は、そのほか各自の胸に 「団結奮闘雪恥救国」 と墨書した
白布をぬいつけ、毎日の朝礼のさい、次のスローガンを高唱することを義務づけられた。

「永為忠勇国民」 「誓雪中国国恥」 「恢復中国領土」 「振興中国民族」

「三民主義万歳」 「中華民国万歳」……。


つづく

満洲国建国4 川島浪速の拝謁

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/05/17 18:38 投稿番号: [444 / 2250]
波多野勝著 『満蒙独立運動』 PHP新書

270〜272p
《七年二月十八日独立を宣言、溥儀は満州国の執政に、
そして九年三月一日満州国皇帝に就任した。

こうしたことは、満蒙独立運動に何度も身を投じた川島をいたく感激させていた。
これこそが満蒙独立運動の結実だった。老いた川島にとってはまさに夢の実現だった。


昭和二年三月、一度川島は天津に滞在中の溥儀を訪問したことはあったが、
七年三月長春で再度溥儀に会見した時は、自身の二十年間を振り返って誠に感慨深いものだった。

まもなく拝謁 (はいえつ) の時がやってきた。謁見室の扉をしずしずと開けるや、
溥儀はツカツカと歩み寄り川島の手を固く握りしめた。

川島は敬礼も出来ず、そのまま溥儀に手を引かれて椅子の所まで導かれた。
川島の煙草の火までつける溥儀に、川島はただただ恐縮するばかりだった。

「先生は馬にまだ乗れますか。……予は唯々、風外(川島)そちを頼りと思ふ」
「予が満州国へ来たのは帰郷だ。即ち祖先の故郷に返ったのだ。……

粛親王家の子弟も、風外そちの力で一同成人しているが、予はその苦心に厚く
感謝をして居る。子弟にも川島の恩義は忘れてはならぬと堅く申付けてある」


粛親王家では数多くいた兄弟の中で二人の子息が薄儀の侍従武官を務めていた。
川島の夢はこうして今や現実になった。

帝制が実施されると、長野県松本市では帝政実施の功労者として
川島を慰労する宴が開催され、養女で満州国の服を着た廉子も参列した。


昭和十 (一九三五) 年四月、皇帝に就いた溥儀は初めて日本を訪問、
昭和天皇と会見して日満一体化を東京で華々しく演出する会合や宴に出席した。

十三日溥儀は川島邸に工藤侍衛官長を勅使として参向させた。この時、
第二次満蒙独立運動に参加した入江種矩ら関係者も呼び出され、川島邸に参集した。

満蒙独立運動は、結局、大陸浪人ではなしえなかったが、粛親王ではなく
軍部が支えた溥儀の登場によって見果てぬ夢が現実となったのである。》


*   満洲国建国は、満蒙の人達の夢だったのです。

   中国人に侵略されていた土地を取り戻すための、
   満蒙独立運動の総仕上げでもあったわけです。

   満洲は中国人の土地ではありません。満州人の土地です。清国は満洲の地で興り、
   長城を越えて明を支配しウイグル・チベットを支配したのです。

   辛亥の年になって、中国は清国から独立しました。
   蒙古もチベットも別に独立しました。ウイグルはかなり後になって独立しますが。


   しかし、中国は詭弁を使って、旧清国の支配地は全部中国の領地としました。
   だから独立運動が起こったわけです。

   ただ、日本や他の外国は中国の詭弁に騙されて、
   それらの独立闘争を妨害する動きに出ていたのです。

   しかしながら、最後に中国が関東軍を怒らせたため、ひっくり返され、
   満洲人に土地を返させられたわけです。

   ところが、中国は自分が泥棒である事を理解しませんから、
   日本を逆恨みし、悪質なテロ、残虐行為へと走りました。

満洲国の建国3

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/05/16 15:52 投稿番号: [443 / 2250]
黄文雄著 『満洲国の遺産』 光文社

252〜253p
《東省特別区のハルビン市長・張景恵は、板垣大佐に説得され、
治安維持会を組織して一九三二年一月一日、独立宣言をした。

東辺道鎮守使、于止 (草カンムリがついてる) 山 (うしざん) は満蒙独立派とみられる
人物で、事変直後は周囲の様子をうかがっていたが、やがて保境安民派についた。

張学良ら満州軍閥が関東軍から追放された後、新国家建設運動は、
各地でまさに澎湃 (ほうはい) として生じたのだ。

一九三二年二月、全満建国促進運動連合大会が奉天城内自治指導部大講堂で開催された。
各省代表以外には、モンゴル、各種団体、満蒙青年同盟、吉林省朝鮮人、

東省特別区朝鮮人など各代表約七百人が参加し、満州建国を宣言した。


張景恵、煕洽、馬占山、臧式毅 (ぞうしきき) の満州四巨頭は、
奉天市長・張欣伯邸で新国家創設の建国会議を開き、

建国の原則と大綱を決めたが、国体・政体については、
夜を徹して激論を続けたものの決着するには至らなかった。

しかし、東北行政委員会を結成し、張景恵委員長、臧式毅、煕洽、馬占山、
湯玉麟 (とうぎょくりん)、斉王、凌陞 (りょうしょう) の六委員を選出した。

満州国政府は一九三二 (大同元) 年三月、建国を発表した。 「三千万民衆の意嚮 (いこう)
をもって即日、中華民国との関係を離脱し、満州国を創設する」 ことを宣言した。》


254〜255p
《関東軍が溥儀 (清朝の宣統帝) を擁立しようとした当時は、
日本政府内部にも反対者が少なくなかった。

たとえば松岡洋右前満鉄総裁、南次郎陸軍大臣、幣原外相らは強く反対している。
清朝復辟と誤解されやすいからだった。

板垣参謀は一九三二年一月二十九日、
本庄繁関東軍司令官の命令を受けて旅順で溥儀氏の意向を確かめた。

  このとき溥儀は、復辟にこだわっていた。その理由は、


  ①満州人、蒙古人とも帝政を欲している。

  ②宣統帝廃帝のときは、清朝優待条件で皇帝の称号は廃止されていない。
   したがって、こんにち、自分がなおも皇帝の地位にある。

  ③満州の民度は低く、帝政に適している。

   帝政の制度として内閣を組織し、その上に皇帝直属の政府を設けて、
   万機を親裁したい。清朝の故土である満州において皇帝として復帰したい。

などであった。

帝政への復帰という意向は、旧臣の鄭孝胥、羅振玉 (らしんぎょく) ら
だけでなく、復辟派の煕洽も強く支持した。》


波多野勝著 『満蒙独立運動』 PHP新書232p

《一方、満洲国の建国により、粛親王の第一王子は満州国宮内府侍従山武官に、
第七子の憲奎(けんけい) は新京特別市長、さらに龍江省府に就任、

また第十四子が斉々哈爾市長、に就任した。》


そして溥儀は九年三月一日満州国皇帝に就任し、川島浪速の夢は成就しました。

満洲国建国2 溥儀の天津脱出

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/05/15 15:58 投稿番号: [442 / 2250]
田中正明著 『東京裁判とは何か』 大手町ブックス   日本工業新聞社発行

155p
《清朝の廃帝を租先の地に迎え、中国本土から独立しようという運動が各地におこった。

これらの運動と同時に、溥儀氏擁立の運動となり、一九三一年十月、
満州各地の代表が、揃って天津に溥儀氏を訪ね、出馬を懇請している》


関東軍の土肥原は天津の溥儀をたずね意思を伺いました。

臼井勝美著 『満洲事変   戦争と外交と』 中公新書 105p

《土肥原は十一月二日、溥儀と会見した。
このとき溥儀は、新国家が共和か帝制かを質疑し、復辟ならば満州に行くが、

共和ならば行かないと語ったのに対し、土肥原は、もとより 「帝制」 であると明言した。
土肥原は溥儀に、この機会を逸せず、十六日以前に是非渡満ありたいと要請した。》


波多野勝著 『満蒙独立運動』 PHP新書270p

《十一月八日土肥原賢二が天津で騒擾 (そうじょう) を起こして溥儀を連れ出し、
営口を経由して旅順に入った。》


粛親王の娘で川島浪速の養女となった金壁輝(きんぺきき) は芳子と名乗り、
東洋のマタハリとして活躍していたが、溥儀の妻秋鴻を天津から脱出させた。

波多野勝著 『満蒙独立運動』 PHP新書233p

《溥儀が旧清朝の高官栄源の娘、秋鴻と結婚して天津で生活していた・・・
彼らが満州に向かう前、天津脱出に際して、

秋鴻を変装させ芳子自身は男装して夫婦を装って無事脱出した。
やはり芳子は清朝の血筋を引く人物だったのである。》

つづく

満洲国建国1 各地の独立

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/05/14 18:39 投稿番号: [441 / 2250]
粛親王の死去によって、満蒙独立運動は一旦途絶えたかのように見えましたが、
満蒙の人達は諦めてはいませんでした。

1931年 (昭和6年) 9月18日   柳条溝事件が起こり満州事変に発展すると、
すかさず各地方が独立を宣言しました。


児島襄著 『日中戦争2』 文春文庫129p

《九月下旬には、満州では遼寧 (奉天) 省、吉林省、黒龍江省、コロンバイル
などで独立宣言がおこなわれ、》


大日本帝国の戦争1   『満洲国の幻影』   1931−1936   毎日新聞社   27p

《9月26日   煕洽、吉林省独立を宣言》


日にちを見ると明らかですが、柳条溝事件発生から、ほんの一週間で独立宣言を
しています。いくら関東軍でも、こんなに早く、工作は出来ないでしょう。

たった一万の人数で二十万の兵や馬賊を相手に戦争をしているのですから、
工作に人を割いている余裕は無いはずです。


田中正明著 『東京裁判とは何か』 大手町ブックス   日本工業新聞社発行

155p
《一九三一年十月、満州各地の代表が、揃って天津に溥儀氏を訪ね、出馬を懇請している》


黄文雄著 『満洲国の遺産』 光文社

251〜253p
《実際、当時の満州の民は、日本関東軍の張軍閥打倒に快哉 (かいさい) を叫び、
感謝したのである。これは否定できない歴史的事実である。

奉天市では、張作霖の法律顧問・張欣伯が市長に推された。これをはじめ、奉天省の
商民代表は自治派と提携して袁金凱委員長、于沖漢副委員長の奉天自治維持会を組織した。

中国本土と絶縁して民意に基づく新政権樹立を目指し、
遼寧省地方維持委員会に改組して省の行政機構がつくられはじめたのである。

彼らが目指したのは、民族自決主義、民意による遼寧省の独立、
共和制独立国家の建設であった。


また、吉林省も独立宣言した。吉林省主席・張作相は満州事変当時、天津にいたので、
実権を握っていた東北辺防軍副司令官公署参謀長・煕洽が、

清朝復辟(ふくへき:溥儀の復位)派巨頭として長春にいた張学良派の
誠允、馮占海を追放して吉林省独立を宣言したのである。

吉林省と同時に独立宣言を発表したのは、遼寧省地方維持委員会である。
前熱河省都督・○ (門+敢) 朝璽 (かんちょうじ) ら武断派が組織した

遼寧四民臨時維持会と共同して、独立宣言を発表したのだ。


彼らの独立宣言には、「わが東北民衆は、軍閥の暴政下にあること十数年、
いまやこれらの悪勢力を一蹴すべき千載一遇 (せんざいいちぐう) の機会に到達した。

……新独立政権の建設を計らざるを得ざるに至った。
これがために、本会は張学良と関係ある綿州政府ならびに軍閥の禍首

蒋介石らの声明蠢動 (しゅんどう) を否定することを決議した……」
とある。》


大日本帝国の戦争1   『満洲国の幻影』   1931−1936 毎日新聞社 27p

《11月10日   清朝廃帝・溥儀   天津を脱出

  11月21日   馬占山、黒竜江省政府を樹立》


つづく
[ << 最初のページ | < 前のページ | メッセージリスト | [ メッセージ # オフセット ] | 次のページ > | 最後のページ >> ]

Yahoo! Japan 掲示板 アーカイヴ

[検索ページ] (中東) (東亜) (捕鯨 / 捕鯨詳細)