共産党の策動2 五・三〇事件
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/06/11 19:08 投稿番号: [471 / 2250]
『魔都上海十万の日本人』
NHK取材班編
角川文庫
90p
《 一九二五年、五・三〇運動の全国的な展開が上海から始まる。運動の発端は、
二月以来、上海の在華紡にひろがった待遇改善と組合承認を求める労働運動にあった。
中国の民族資本による繊維産業の追いあげを受けて、日本など外国の繊維企業は、
合理化によって利潤の増大をはかろうとした。
と同時に、勢力の拡大をつづける共産党へのおそれから、
管理・締めつけをいちだんと強化し、組合つぶしに本格的に乗りだした。
こうした状況のもとで、一九二五年二月、上海の紡績工場でストライキが続発し、
四月に入ると、青島の日本資本の紡績工場にも飛び火した。
五月十五日、さきに紹介した上海の内外綿第七工場で、ストライキ中の労働者と
工場側の警備員とが真正面から衝突し、共産党員の労働者顧正紅が射殺されたほか、
中国人労働者十数名が重軽傷を負うという事件が起こった。
これに抗議する運動は、たちまち学生・知識人・労働者をまきこむ
反日運動に発展していった。
五月三十日、共産党は千人の学生・労働者を動員して、上海の歴史上はじめて、
共同租界の内部で大規模な抗議のデモを繰りひろげた。
これに対して、共同租界のイギリスの警察隊は、デモ隊に向けて一斉射撃を浴びせ、
死者十三人、重傷者数十人という大惨事に発展した。これが、五・三〇事件である。
93p
この虐殺事件は、上海はもとより、全中国に憤激の嵐を巻き起こした。
一日おいて六月一日、共産党は帝国主義打倒をスローガンに、
全上海にゼネストを指令した。学生・労働者のほかに、
民族資本家・商店主も参加し、空前の規模の闘争に発展した。
闘いの渦は、広州・北京・漢口など大陸全体に広まり、香港の労働者もこれに
足並みをそろえ、各地の租界で衝突事件が続発した。
上海のゼネストは、八月末まで続いた。中国側の発表によれば、この闘いに参加した
労働者・学生・農民は、少なく見積もっても全国で一千七百万人余りにのぼったという。》
K・カール・カワカミ著 『シナ大陸の真相 1931〜1938』(原題 Japan in China )
訳者 福井雄三 展転社 54〜55p
《 …事件が一九二五年、上海の国際租界区域で起こった。その年の五月三〇日、
数万の中国人学生が、日本の綿糸工場での労働争議に関連した暴動行為のかどで
混成法廷 (外国人の裁判官に監督された中国人の法廷)
から有罪宣告を受けた五人の学生に同情して、街路を行進した。
これに続いて、一五万六千人の中国人労働者を含む全市規模のストライキが起こった。
彼らを煽動した最大の指導者は陳独秀であった。
彼はモスクワで教育を受けた中国共産党員で、今なお著名な指導者である。
彼の背後にはチェルカソフというソ連の宣伝工作活動の専門家が控えていて、
国際租界区域のソ連領事館に事務所を構えていた。
この宣伝活動家が北京駐在のソ連大使カラハンにあてて書いた報告書が、
上海警察に押収された。
この文書によって、綿糸工場の労働争議とそれに続くデモ、ストライキは、
モスクワのコミンテルンが出した命令に従って前もって準備されていたことが完全に証明された。》
* 労働者顧正紅が警備員に射殺されましたが、この警備員はインド人の様です。
* この二年後に、第一次南京事件 (No.362〜385で書いた) が起こります。
これを仕掛けたのは共産党と言われていますが、
この流れから行くと多分そうかも知れません。
つづく
《 一九二五年、五・三〇運動の全国的な展開が上海から始まる。運動の発端は、
二月以来、上海の在華紡にひろがった待遇改善と組合承認を求める労働運動にあった。
中国の民族資本による繊維産業の追いあげを受けて、日本など外国の繊維企業は、
合理化によって利潤の増大をはかろうとした。
と同時に、勢力の拡大をつづける共産党へのおそれから、
管理・締めつけをいちだんと強化し、組合つぶしに本格的に乗りだした。
こうした状況のもとで、一九二五年二月、上海の紡績工場でストライキが続発し、
四月に入ると、青島の日本資本の紡績工場にも飛び火した。
五月十五日、さきに紹介した上海の内外綿第七工場で、ストライキ中の労働者と
工場側の警備員とが真正面から衝突し、共産党員の労働者顧正紅が射殺されたほか、
中国人労働者十数名が重軽傷を負うという事件が起こった。
これに抗議する運動は、たちまち学生・知識人・労働者をまきこむ
反日運動に発展していった。
五月三十日、共産党は千人の学生・労働者を動員して、上海の歴史上はじめて、
共同租界の内部で大規模な抗議のデモを繰りひろげた。
これに対して、共同租界のイギリスの警察隊は、デモ隊に向けて一斉射撃を浴びせ、
死者十三人、重傷者数十人という大惨事に発展した。これが、五・三〇事件である。
93p
この虐殺事件は、上海はもとより、全中国に憤激の嵐を巻き起こした。
一日おいて六月一日、共産党は帝国主義打倒をスローガンに、
全上海にゼネストを指令した。学生・労働者のほかに、
民族資本家・商店主も参加し、空前の規模の闘争に発展した。
闘いの渦は、広州・北京・漢口など大陸全体に広まり、香港の労働者もこれに
足並みをそろえ、各地の租界で衝突事件が続発した。
上海のゼネストは、八月末まで続いた。中国側の発表によれば、この闘いに参加した
労働者・学生・農民は、少なく見積もっても全国で一千七百万人余りにのぼったという。》
K・カール・カワカミ著 『シナ大陸の真相 1931〜1938』(原題 Japan in China )
訳者 福井雄三 展転社 54〜55p
《 …事件が一九二五年、上海の国際租界区域で起こった。その年の五月三〇日、
数万の中国人学生が、日本の綿糸工場での労働争議に関連した暴動行為のかどで
混成法廷 (外国人の裁判官に監督された中国人の法廷)
から有罪宣告を受けた五人の学生に同情して、街路を行進した。
これに続いて、一五万六千人の中国人労働者を含む全市規模のストライキが起こった。
彼らを煽動した最大の指導者は陳独秀であった。
彼はモスクワで教育を受けた中国共産党員で、今なお著名な指導者である。
彼の背後にはチェルカソフというソ連の宣伝工作活動の専門家が控えていて、
国際租界区域のソ連領事館に事務所を構えていた。
この宣伝活動家が北京駐在のソ連大使カラハンにあてて書いた報告書が、
上海警察に押収された。
この文書によって、綿糸工場の労働争議とそれに続くデモ、ストライキは、
モスクワのコミンテルンが出した命令に従って前もって準備されていたことが完全に証明された。》
* 労働者顧正紅が警備員に射殺されましたが、この警備員はインド人の様です。
* この二年後に、第一次南京事件 (No.362〜385で書いた) が起こります。
これを仕掛けたのは共産党と言われていますが、
この流れから行くと多分そうかも知れません。
つづく
これは メッセージ 469 (kireigotowadame さん)への返信です.