冀東防共委員会と冀察政務委員会設立
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/06/03 18:31 投稿番号: [462 / 2250]
児島襄著 『日中戦争3』 文春文庫196〜197p
《 蒋介石は、具体的には、表面では日本にたいする友好姿勢を維持しながら、
日本側が働きかけている 「北支」 実力者をきりくずし、
日本側の強硬態度をかわすために 「アル種ノ自治」 をみとめるにしても、
国民政府の統轄下にある組織にする、との方策を採用した。
まさに、日本側がしばしば指摘する 「二重政策」 である。
が、いずれにせよ、この時期における〝工作合戦〟では、蒋介石に軍配があがった。
まず、蒋介石側のきりくずし工作により、日本側があてにしていた宋哲元、
閻錫山ら 「北支」 実力者の腰が重くなった。
十一月二十三日、日本側に呼応して、緩衝地帯である 「戦区」 の行政監察専員殷汝耕が、
自治宣言をおこない、「冀東 (きとう) 防共委員会」 を組織した。
「冀 (き)」 は河北省を意味するが、宣言された自治区域は、
「戦区」 内の十九県に隣接した三県を加えたにとどまった。
ついで、国民政府は、十二月十一日、関東軍の武力発動の気配が色こくなる事情に
即応して、「アル種ノ自治」 付与の体裁をととのえる意味で、
宋哲元を委員長にする 「冀察 (きさつ) 政務委員会」 の成立を布告した。》
寺平忠輔著
『日本の悲劇
盧溝橋事件』
読売新聞社
24p
《 土肥原少将はもともと関東軍の特務機関長だった。
しかし昭和十年十月には、本格的に天津に乗り込んで来て、
日本租界の常磐ホテルに神輿 (みこし) を据え、華北工作に本腰を入れ始めた。
その努力の結晶として昭和十年十一月二十五日、
殷汝耕 (いんじょこう) を長官とする冀東防共自治政府が成立した。
次に宋哲元に働きかけ、なんとかして彼に独立政権を樹立させようと、
日夜工作に腐心した。
そのころの宋哲元の心境を卑俗な言葉で表わすなら 「フグは食いたし命は惜しし」
というのが、そのまま当てはまるのではなかろうか。
彼は現在の軍事的地位の他に、さらに政治的権勢をもつかみたかった。
今、土肥原工作に乗ずれば、その目的が達せられる事は必定である。
しかし一方、南京の蒋介石から睨まれるのが心配の種だった。
そこで彼は、冀東解消という条件を土肥原少将に提出し、
これを南京側への手土産として、
自らを華北の主権者として認めてもらおう、という画策を持ち始めた。
あたかもよし、南京行政院の本会議では、華北を今のままで放っておいたら、
日本側がまた、どのようなかいらい政権をデッチ上げないとも限らない。
そこで、十二月十一日、冀察政務委員会設置法案を、満場一致で可決し、
その委員長に宋哲元を任命してしまった。》
*
このようにして、「冀東防共自治政府」 と 「冀察政務委員会」 が出来上がります。
これにて、華北は盧溝橋事件までの間ある程度平穏な日が続きます。
テロや事件は散発しますが。
つづく
これは メッセージ 461 (kireigotowadame さん)への返信です.
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