戦争前の不穏な状態
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/06/18 18:39 投稿番号: [480 / 2250]
児島襄著 『日中戦争3』 文春文庫
381〜383p
《 だが、この年の会議は異質であった。
これまでと同様に軍の夏期訓練もおこなわれるが、今回は 「政治学校訓導班」
「中央軍事機関各庁長」 「各軍校教育長」 「機械化部隊各隊長」 が招集された。
また、国民政府の各院長、行政院各部長をはじめ政府主要機関の幹部もあつめられ、
各大学、専門学校の教授、中学校長、ジャーナリスト、民間団体の有力者など
約四千五百人も参集して、「救国談話会」 をひらく。
蒋介石は、会議の要目を国防、政治、経済、教育の四つにしぼり、
訓練の目標を 「組織管理能力」 の向上と 「精神力」 の強化においた。
だが、この時期に 「全支の人材総動員!」 と 『東京朝日新聞』 も嘆声をあげたほどの
大会議を招集するのは、たんなる軍官民の研修のためだけではないはずである。
一般にも、この会議は、「招集各党各派及各軍商議救国方案」 という
「西安事変」 いらいの共産党側の要求にこたえたもの、と理解されていた。
つまりは、抗日戦にそなえての〝国家統一会議〟の性格をもつものであろう。
この 「廬山会議」 の予定会期が、七月十五日から八月十五日である。
その会期末までに綏遠省の防禦工事を完成せよ − と、蒋介石は指示する。
米参事官ペック風に推理すれば、あるいは 「廬山会議」 で
対日宣戦が決議されるのでもあろうか……。
― 北京では、
いぜんとして、夜間特別警戒が施行されていた。
警戒措置は、前述したように、「青年学生的便衣隊」 の〝暴発計画〟にあわせて
実施されたが、その最終予定日の六月二十八日がすぎても解除されなかったのである。
「青年学生的便衣隊」 事件については、なにも公表されていない。
そこで、連夜の警戒態勢に応じて、ますます不穏な噂が乱れとぶことになったが、
その多くは、日本人の 「使嗾」 または 「参加」 による暴動、兵変を予告するものであった。
北京駐在武官補佐官今井武夫少佐は、不審と不安を感じた。
とくに少佐の神経が刺戟 (しげき) されたのは、警戒措置の責任者が〝反日派〟で
知られる第三十七師長馮治安であることであった。
少佐には、警戒措置の理由は不明である。
日本人が関係するという暴動の噂のためか、とも思うが、その噂が無根であることは
少佐自身が承知しているし、その種の噂はこれまでにも少くなかった。
そんな噂を根拠にして警戒態勢がとられるとは、思えない。
豊台の日本軍の演習は、近づく第二期検閲 (七月九日〜十六日) にそなえて、
六月二十五日から強化された。北京の夜間警戒措置は、その翌日から施行された。
では、警戒は日本軍の演習にたいするものなのか − といえば、これもおかしい。
日本軍の駐留は、明治三十四年 (一九〇一年) の 「北清事変ニ関スル議定書」
によって、英、米、フランス、イタリヤ各国とともに認められたもので、
駐留地での演習も公認されたものだからである。
すると、北京をふくむ河北省の軍事、政治両面の最高責任者である宋哲元が不在中に、
あえて第三十七師長馮治安が警戒態勢を実施するのは、なぜか……。》
つづく
381〜383p
《 だが、この年の会議は異質であった。
これまでと同様に軍の夏期訓練もおこなわれるが、今回は 「政治学校訓導班」
「中央軍事機関各庁長」 「各軍校教育長」 「機械化部隊各隊長」 が招集された。
また、国民政府の各院長、行政院各部長をはじめ政府主要機関の幹部もあつめられ、
各大学、専門学校の教授、中学校長、ジャーナリスト、民間団体の有力者など
約四千五百人も参集して、「救国談話会」 をひらく。
蒋介石は、会議の要目を国防、政治、経済、教育の四つにしぼり、
訓練の目標を 「組織管理能力」 の向上と 「精神力」 の強化においた。
だが、この時期に 「全支の人材総動員!」 と 『東京朝日新聞』 も嘆声をあげたほどの
大会議を招集するのは、たんなる軍官民の研修のためだけではないはずである。
一般にも、この会議は、「招集各党各派及各軍商議救国方案」 という
「西安事変」 いらいの共産党側の要求にこたえたもの、と理解されていた。
つまりは、抗日戦にそなえての〝国家統一会議〟の性格をもつものであろう。
この 「廬山会議」 の予定会期が、七月十五日から八月十五日である。
その会期末までに綏遠省の防禦工事を完成せよ − と、蒋介石は指示する。
米参事官ペック風に推理すれば、あるいは 「廬山会議」 で
対日宣戦が決議されるのでもあろうか……。
― 北京では、
いぜんとして、夜間特別警戒が施行されていた。
警戒措置は、前述したように、「青年学生的便衣隊」 の〝暴発計画〟にあわせて
実施されたが、その最終予定日の六月二十八日がすぎても解除されなかったのである。
「青年学生的便衣隊」 事件については、なにも公表されていない。
そこで、連夜の警戒態勢に応じて、ますます不穏な噂が乱れとぶことになったが、
その多くは、日本人の 「使嗾」 または 「参加」 による暴動、兵変を予告するものであった。
北京駐在武官補佐官今井武夫少佐は、不審と不安を感じた。
とくに少佐の神経が刺戟 (しげき) されたのは、警戒措置の責任者が〝反日派〟で
知られる第三十七師長馮治安であることであった。
少佐には、警戒措置の理由は不明である。
日本人が関係するという暴動の噂のためか、とも思うが、その噂が無根であることは
少佐自身が承知しているし、その種の噂はこれまでにも少くなかった。
そんな噂を根拠にして警戒態勢がとられるとは、思えない。
豊台の日本軍の演習は、近づく第二期検閲 (七月九日〜十六日) にそなえて、
六月二十五日から強化された。北京の夜間警戒措置は、その翌日から施行された。
では、警戒は日本軍の演習にたいするものなのか − といえば、これもおかしい。
日本軍の駐留は、明治三十四年 (一九〇一年) の 「北清事変ニ関スル議定書」
によって、英、米、フランス、イタリヤ各国とともに認められたもので、
駐留地での演習も公認されたものだからである。
すると、北京をふくむ河北省の軍事、政治両面の最高責任者である宋哲元が不在中に、
あえて第三十七師長馮治安が警戒態勢を実施するのは、なぜか……。》
つづく
これは メッセージ 479 (kireigotowadame さん)への返信です.