入って中国人に南京事件真相議論しましょう

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12月15日のラーベの日記2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/10/03 17:20 投稿番号: [200 / 2250]
司令官と福田氏に別れを告げようとしているところへ、日本軍特務部長の
原田熊吉少将がやってきた。ぜひ安全区を見たいというので、さっそく案内した。

午後、いっしょに下関の発電所にいくことになった。


残念ながら、午後の約束は果たせなかった。

日本軍が、武器を投げ捨てて逃げこんできた元中国兵を連行しようとしたからだ。
この兵士たちは二度と武器を取ることはない。

我々がそう請け合うと、ようやく解放された。
ほっとして本部にもどると、恐ろしい知らせが待っていた。

さっきの部隊が戻ってきて、今度は千三百人も捕まえたというのだ。   スマイスと
ミルズと私の三人でなんとかして助けようとしたが聞き入れられなかった。

およそ百人の武装した日本兵に取り囲まれ、とうとう連れていかれてしまった。
射殺されるにちがいない。


スマイスと私はもう一度福田氏に会い、命乞いをした。
氏はできるだけのことをしようといってはくれたが、望みは薄い。

私は、もしかれらを処刑してしまったら、中国人がおびえ、
作業員を集めるのは困難になるといっておいた。

福田氏はうなずき、明日になれば事態は変わるかもしれないと言って慰めた。
この惨めな気持ちはたえられない。

人々が獣のように追い立てられていくのを見るのは身を切られるようにつらい。


だが、中国軍のほうも、済南で日本人捕虜を二千人射殺したという話だ。


日本海軍から聞いたのだが、アメリカ大使館員を避難させる途中、
アメリカの砲艦パナイが日本軍の間違いから爆撃され、沈没したそうだ。

死者二人。
イタリア人新聞記者のサンドリと梅平 (メイピン) 号の船長カールソンのふたりだ。

アメリカ大使館のパクストン氏は肩と膝に傷をおった。
スクワイヤーズも肩をやられた。

ガシーは足、アンドリューズ少尉は重傷で、ヒューズ海軍少佐も足を折ったらしい。

12月15日のラーベの日記1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/10/03 17:10 投稿番号: [199 / 2250]
十二月十五日

朝の十時、関口鉱造少尉来訪。
少尉に日本軍最高司令官にあてた手紙の写しを渡す。

十一時には日本大使館官補の福田篤泰氏。作業計画についての詳しい話し合い。
電気、水道、電話をなるべくはやく復旧させることは、双方にとってプラスだ。

このへん、氏はよく承知している。
この問題に関しては我々、もしくは私が役に立てるだろう。

韓と私は様子がわかっているから、復旧させる自信がある。

交通銀行におかれた日本軍司令部で、もう一度福田氏と会う。
この人は司令官を訪ねる際に、通訳として大いに役に立つだろう。

(福田氏に渡した手紙、14日に転記の為   略)

この手紙と司令官にあてた十二月十四日の手紙に対する司令官からの返事は、
次の議事録に記されている。


  議事録

南京における日本軍特務機関長との話し合いについて(交通銀行にて)
一九三七年十二月十五日   正午

通訳:福田氏
出席者
ジョン・ラーベ氏:代表
スマイス博士:事務局長
シュペアリング氏


一、南京市においては中国軍兵士を徹底的に捜索する。

二、安全区の入り口には、日本軍の歩哨が立つ。

三、避難した住民はすみやかに家に戻ること。
   日本軍は安全区をも厳重に調査する予定である。

四、武装解除した中国人兵士を我々は人道的立場に立って扱うつもりである。
   その件はわが軍に一任するよう希望する。

五、中国警察による安全区の巡回を認める。ただし、完全に武装解除すること。
   警棒の携帯も認めない。

六、委員会によって安全区内に貯蔵された一万担の米は、
   難民のために使用してもよいが、われわれ日本軍にとっても必要である。

   したがって米を買う許可を求める
   (地区の外にある我々の備蓄米に関する回答は要領を得なかった)。

七、電話、電気、水道は復旧が必要である。今日の午後、ラーベ氏とともに
   これらの設備の視察を行い、その後具体的な措置を取る。

八、明日より町を整備する予定であり、百人から二百人の作業員を必要とする。
   それにつき、委員会に援助を要請する。賃金は支払う。

つづく

安全区掃蕩に関する注意2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/10/02 18:43 投稿番号: [198 / 2250]
東中野修道著『南京大虐殺の徹底検証』181〜183p

秋山旅団長の 「掃蕩実施ニ関スル注意」

この 「南京城内掃蕩要領 」に基づき、「掃蕩実施ニ関スル注意」 が、右翼隊隊長
(歩兵第六旅団長秋山義兌 (よしみち) 少将) から、歩兵第七連隊等に発令された。

十二月十三日午後四時三十分のことであった。


  《二、外国権益ノ建物ヲ   敵カ之ヲ   利用シアル場合ノ外   立入ヲ厳禁ス》

外国大使館、外国人居住の住宅等に立ち入れば、あとあと大きな問題となるから、
その立ち入りが厳禁されたのである。

  《三、掃蕩隊ハ   残敵掃蕩ヲ任トシ、必ズ将校 (准尉ヲ含ム) ノ指揮スル部隊ヲ

  以テ実施シ、下士官以下   各個ノ行動ヲ   絶対ニ禁ズ》

掃蕩隊は将校のみが指揮することとなった。その任務はやはり 「残敵掃蕩」、
即ち残敵を一掃することであった。市民を虐殺することではなかった。

当然、各人の個人的行為は禁止された。
つづいて 「掃蕩実施ニ関スル注意」   は次のように命じる。


  《四、青壮年ハ   凡 (すべ) テ敗惨兵   又ハ便衣隊ト   見做 (みな) シ、凡テ之ヲ

  逮捕監禁スベシ

  青壮年以外ノ   敵意ナキ支那人民   特ニ老幼婦女   ニ対シテハ   寛容之ニ接シ、

  彼等ヲシテ   皇軍ノ威風ニ   敬仰セシムベシ》

蒋介石は 「戦えるものは誰でも駆り集め」 て戦線に送っていた。従って、
青壮年は敗残兵である疑いが極めて濃厚であったのである。

「掃蕩実施ニ関スル注意」 は、これを逮捕監禁せよと命じている。

他方、「青壮年以外ノ   敵意ナキ支那人民   特ニ老幼婦女」にたいしては、
寛容に接するよう命じている。

そして、規律ある日本軍であると一般市民が敬服するよう、行動を慎めと命じた。


  《五、銀行、銭荘等ハ侵入ヲ禁止シ、歩哨ヲ配置スベシ》

  《六、家屋内ニ侵入シ掠奪ニ類スル行動ヲ厳ニ戒ムベシ》

掠奪もまた禁じられたのである。

  《七、放火ハ勿論、失火ト雖 (いえど) モ、軍司令官注意ノ如ク厳罰ニ処ス》

  失火といえども厳罰に処する、という厳しい命令であった。

  《八、友軍相撃(あいうち) ニ就(つい) テ厳ニ注意スベシ

      合言葉ハ「金沢」「富山」ト定ム》


南京が陥落したと言っても、紫金山一帯では激戦が続いていた。城内の安全は確立していなかった。
合言葉があらかじめ決められていたのも当然であった。

なお、第九師団は富山、石川、福井の出身者からなる師団であった。

  《九、火災ヲ発見セバ   附近部隊ハ勿論、掃蕩隊ハ   速(すみやか) ニ

  消火ニ努ムベシ》

  火災を発見したならば掃蕩を中止せよ、そして直ちに消火に努めよ、と命じられた。

安全区掃蕩に関する注意1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/10/02 18:35 投稿番号: [197 / 2250]
東中野修道著 『南京大虐殺の徹底検証』1 80〜181p

城内の掃蕩戦とは、総じて、安全地帯の支那兵の摘発であり、投降兵の収容であった。
また、安全地帯における不穏な兵士の処刑であり、隠匿 (いんとく) された軍需品の押収であった。

その安全地帯の掃蕩は、すでに述べたように、歩兵第七連隊 (第九師団歩兵第六旅団)
の任務であった。

十二月十三日午後四時半に発令された歩兵第六旅団の 「右翼隊命令」 は、
歩兵第七連隊等に、「掃蕩実施ニ関シテハ   南京城内掃蕩要領ニ依 (よ) ルベシ」 と命じていた。

そこで、以下に 「南京城内掃蕩要領」 の最初の三項目だけを引用しておく。

  《一、城内ノ残敵ヲ掃蕩ス

   二、掃蕩ニ際シテハ   入城ニ関スル   注意事項ヲ   厳守ス

     但シ   敵ノ抵抗スル地帯ハ   此ノ限ニ非ス

   三、敵ノ抵抗セル場合ニ於ケル   家屋ノ焼却ニハ   特別ノ注意ヲ払ヒ 却 (かえっ) テ

     部隊ノ交通ヲ   遮断スルガ如キ事   無キ様注意ス

     又発電所、電気局、郵便電信局、水源地、瓦斯会社、諸倉庫、工場等、

     軍ノ利用スベキ箇所ハ   速 (すみやか)   ニ之ヲ占領シ、敵ノ破壊、焼却ヲ予防ス

     遁走セル敵ハ   大部分便衣ニ   化セルモノト   判断セラルル   ヲ以テ

     其ノ疑アル者ハ   悉 (ことごと) ク之ヲ検挙シ、適宜 (てきぎ) ノ位置ニ監禁ス》


掃蕩部隊の任務は 「残敵」 を掃蕩 (一掃) することであった。
しかし、敵が抵抗する場合はこの限りではなかった。

また、発電所、電気局、郵便電信局、水源地、瓦斯会社、諸倉庫、工場等は、
敵の破壊から守るよう命じられていた。

そうして改めて 「入城ニ関スル注意事項」 の厳守が命じられたのである。


  その「入城ニ関スル注意事項」とは、

①   「世界ノ斉 (ひと) シク   注目シアル大事件   ナルニ鑑ミ、正々堂々   将来モ

   模範タルベキ   心組ヲ以テ、各部隊ノ乱入、友軍ノ相撃、不法行為等、

   絶対ニ   無カラシムル」ことと、

②   外交機関、外国権益には接近しないよう、特に「中立地帯 (註・安全地帯)

   ニハ、必要ノ外立入ヲ禁ジ」 ることであった。

城内及び安全区の掃蕩

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/10/01 18:50 投稿番号: [196 / 2250]
児島襄著 『日中戦争4』 231p

城内の掃蕩を担任する各部隊は、緊張していた。

第十軍司令官柳川平助中将は、既述したように、必要があれば 「城内ヲ焼却」 しても
よいと下令し、また 「特ニ 敗敵ノ 欺賄行為ニ 乗ゼラレザル ヲ要ス」と指示した。

各部隊とも、「焼却」 戦が必要とは考えなかったが、中国側の 「欺瞞行為」 には
神経をとがらせざるを得ない。

これまでにも、中国側は、軍服をぬいで便衣で戦い、ときには老婆に変装して日本軍を
おそうほか、現実に婦女子も武器をとって戦うことは、どの部隊も体験ずみだからである。

おかげで、各部隊は、いずれも 「敵愾 (てきがい) 心ト恐怖心」 に身をこわばらせていた。

「日本軍は、いつどこから飛んでくるかわからない手榴弾や小銃弾に
極度に緊張しながら、徹底的に掃蕩した」

と、第四十七連隊戦記 『郷土部隊奮戦史』 も記述している。

掃蕩は、だから、まさに 「徹底的」 となり、いずれは軍政機関、宿舎用に
利用するビル、民家はしらみつぶしに捜索され、消防員、警察官など制服着用者は

すかさず連行され、走りだす者、逃げだす者は、とっさに銃撃の対象になった。

青壮年男性は、例外なくチェックされ、肩に銃をかついだり
背嚢をせおった形跡をのこす者は、捕虜にされた。


233〜234p

委員会は・・・「南京日本軍司令官」 あてに 「安全区」 の保護を要請する書簡を用意した。
その書簡をもって、J・マギー牧師らが第二十三連隊第三大隊をむかえたのである。

マギー牧師たちが会った日本軍将校は、牧師によれば、
説明する趣旨に諒解の意を表明した、という。


   −   だが、
現実には、日本軍にとっては、掃蕩戦のさなかである。

日本軍の推計では、南京城内にはなお 「約二万五千人」 の敗残兵がいる。
掃蕩そのものも決して無抵抗ではなく、しばしば各部隊は攻撃、狙撃をうけている。

この〝敗残兵狩り〟を完了しなくては、名実ともに 「南京攻略」 が成就したとはいえない。
とりわけて注意すべきは、攻略にともなって実施される入城式である。

入城式には、皇族である上海派遣軍司令官朝香宮鳩彦中将も参加する。
その身辺にはとくに入念に安全保障策が講じられねばならない……。

その意味では、「安全区」 といえども〝敗残兵狩り〟から除外するわけにはいかず、
委員会書記L・スミス (金陵大学教授) によれば、この日、日本軍将校が

「安全区」 を訪ね、法務部に収容されている二千六百五十人のうち、
二千三百人を 「捕虜」 として、連行した。



東中野修道著 『南京大虐殺の徹底検証』 173〜174p

そもそも安全地帯とは、非戦闘員の市民のための避難地帯であった。
そこに、便衣(普段着)の身なりの正規兵が身を潜めていた。
・・・

彼らは、後に述べるように、莫大な量の銃砲を隠し持っていた。
その武器をもって、いつ何時、支那兵が攻撃をもくろむか、計り知れなかった。

スティール記者が言うように
「市内にはまだ潜伏して狙撃してくる中国兵」 がいたのである。

『南京戦史』 によれば、実際、十二月十四日のことになるが、
戦車中隊が中山路の十字路で戦車から下車して付近の講堂に入ったところ、

敗残兵数十名から銃撃されて、日本兵が大急ぎで乗車して難を免れたことがあった。
掃蕩中に敗残兵から射撃されたこともあったのである。

日本軍としては安心できなかった。

12月14日 国際委員会と日本軍の折衝

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/09/30 18:25 投稿番号: [195 / 2250]
児島襄著 『日中戦争4』 233〜234p

委員会は、傷兵、傷病者を外交部、鉄道部、国防部にうつし、
J・マギー牧師を委員長とする 「国際赤十字南京委員会」 を組織し、

「南京日本軍司令官」 あてに 「安全区」 の保護を要請する書簡を用意した。
その書簡をもって、J・マギー牧師らが第二十三連隊第三大隊をむかえたのである。

マギー牧師たちが会った日本軍将校は、牧師によれば、
説明する趣旨に諒解の意を表明した、という。



ラーベの日記12月15日より

十二月十四日、司令官と連絡がとれなかったので、
武装解除した元兵士の問題をはっきりさせるため、福田氏に手紙を渡した。

南京安全区国際委員会はすでに武器を差し出した中国軍兵士の悲運を知り、
大きな衝撃をうけております。

本委員会は、この地区から中国軍を退去させるよう、当初から努力を重ねてきました。

月曜日の午後、すなわち十二月十三日まで、
この点に関してはかなりの成果を収めたものと考えております。

ちょうどこの時、これら数百人の中国人兵士たちが、
絶望的な状況の中で我々に助けを求めてきたのです。

我々はこれらの兵士たちにありのままを伝えました。
我々は保護してはやれない。

けれども、もし武器を投げ捨て、すべての抵抗を放棄するなら、
日本からの寛大な処置を期待できるだろう、と。

捕虜に対する一般的な法規の範囲、ならびに人道的理由から、
これらの元兵士に対して寛大なる処置を取っていただくよう、重ねてお願いします。

捕虜は労働者として役に立つと思われます。
できるだけはやくかれらを元の生活に戻してやれば、さぞ喜ぶことでありましょう。

         敬具
         ジョン・ラーベ、代表



*   最高司令官は蘇州に居て、まだ南京には来ていない。
   しかも高熱で病床に在った。

   本来はこの日に蘇州を発つはずだったが、軍医が止めた。


早瀬利之著『将軍の真実   南京事件   松井石根人物伝』134p

南京攻撃の日から十四日まで、松井は肺炎を併発する寸前の重態だった。
高熱と悪寒に苦しんでいる。作戦命令は病床から冷静に命令、伝達した。

当初、湯水鎮台への移動は十四日を予定していたが、
軍医に止められて一日延期となった。

12月14日 和平案改訂と陸海軍の動き

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/09/29 18:50 投稿番号: [194 / 2250]
和平案改訂会議

十四日午後、第二回目の大本営政府連絡会議が開かれ、
独大使に対する回答案が提出された。

出席者は、大本営側から参謀次長、軍令部次長、政府側から総理、陸、海、外三相の
ほか賀屋蔵相、末次内相 (馬場硏一辞任のため、一十四日、内閣参議から内相に就任)

が出席し、風見内閣書記官長と陸海軍両軍務局長
(町尻量基少将と井上成美少将) が幹事役であった。

この会議では、まず交渉成立の見込みが問題となった。
参謀次長は、陸軍部内でもこの見通しについては異論があるが、

次長としては見込みは少ないが一応筋を通して、
当方の誠意を示しておく必要があるという見解であった。

次いで独大使に示す案について検討したが、初めて本案を見る人もあったので、
明日更に会議を開くことになった。

また、あたかもこの日、北支に臨時政府が成立したので、
中国新中央政府の問題が論議された。

(戦史叢書 『支那事変   陸軍作戦1』 463p)



杭州作戦

十二日、軍は第十八師団は、下泗安及び広徳付近、第百一師団主力
(第六野戦重砲兵旅団主力、独立第二野戦重砲兵大隊属) は湖州付近、

第一後備歩兵団 (四大隊編成) は嘉興付近に兵力を集結し、
杭州攻撃を準備するよう命じた。

第十八師団の大部は、十四日蕪湖付近出発、

(戦史叢書『支那事変   陸軍作戦1』430p)



入城式の日取り交渉

早瀬利之著 『将軍の真実   南京事件   松井石根人物伝』 136p

十四日、蘇州から塚田参謀長を通じて 「入城式は十七日に行なう」 旨を
上海派遣軍に伝達、しかし、上海派遣軍は十七日は不可能と返答してきた。

入城式については、方面軍参謀の長勇が十六師団と現状について連絡した結果、
掃蕩の関係から、入城式は二十日以降がいいだろうと判断し、

松井方面軍司令官に事情を説明している。



海軍

十四日、第一警戒部隊各艦艇は敗残兵の掃蕩、航路の啓開を続行した。
その概要は次のとおりである。掃四は蕪湖に進出。

「二見、熱海」 は草鞋峡水路を啓開。「比良」 及び特掃二隻は鎮江において
天谷支隊の渡江作戦に協力。特別作業隊は烏龍山閉塞線の拡大啓開に従事。

「保津、鶴、安宅、鴻、江風」 は、「パネー」 遭難地にあって救助作業に従事。
各艦艇は陸戦隊を揚陸して江岸の敗残兵を掃蕩、下関の海軍碼頭、中山碼頭一帯を占拠。

(戦史叢書 『中国方面海軍作戦1』 468p)

12月14日 山田支隊一万五千の捕虜を得る

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/09/28 18:38 投稿番号: [192 / 2250]
東中野修道著『南京大虐殺の徹底検証』128〜129p

夜が明けて 「莫大」 な投降兵集団に遭遇する。 それが十二月十四日のことであった。
付近の村落は清野作戦のため 「皆敵ノ為ニ焼カレ」 ていた。

そこで山田旅団長は、上元門 (幕府山麓) 郊外に発見された学校に武装解除後の
投降兵を収容した。 数えてみれば、投降兵は一万四七七七名の大集団である。

『南京戦史資料集Ⅲ』 の第六十五連隊両角業作連隊長の
「両角 (もろずみ) 業作手記」 によれば、一万五三〇〇余であった。

いずれにせよ、第六十五連隊の十倍以上にあたる。 「斯 (か) ク多クテハ
殺スモ生カスモ困ッタモノナリ」 とは、山田旅団長の偽らざる困惑であった。


収容された投降兵は、これが兵士かと思われるくらい、「服装も種々雑多」 であった。
しかも注意して見ると、南京から逃げてきた非戦闘員の市民も混っていた。

さらに注意して見ると、女兵士、老兵、少年兵までが混在していた。
何も知らない十二三歳の少年が戦場の第一線に立たされていた。

そしてまた、女性も志願して兵士となっていた。そのことが 『南京大虐殺を記録
した皇軍兵士たち − 第十三師団山田支隊兵士の陣中日記』 に見える。


非戦闘員を解放

そこで、戦闘員と非戦闘員とが選り分けられた。そして、非戦闘員は解放された。
残る八千人ほどが幕府山南麓のバラックに収容された。



両角業作   手記

幕府山東側地区、及び幕府山付近に於いて得た捕虜の数は莫大なものであった。
新聞は二万とか書いたが、実際は一万五千三百余であった。

しかし、この中には婦女子あり、老人あり、全くの非戦闘員 (南京より
落ちのびたる市民多数) がいたので、これをより分けて解放した。

残りは八千人程度であった。 これを運よく幕府山南側にあった厩舎か鶏舎か、
細長い野営場のバラック (思うに幕府山要塞の使用建物で、十数棟併列し、

周囲に不完全ながら鉄線が二、三本張りめぐらされている) −とりあえず、
この建物に収容し、食糧は要塞地下倉庫に格納してあったものを運こび、

彼ら自身の手で給養するよう指導した。   当時、我が聯隊将兵は
進撃に次ぐ進撃で消耗も甚だしく、恐らく千数十人であったと思う。

この兵力で、この多数の捕虜の処置をするのだから、とても行き届いた取扱いなど
できたものではない。四周の隅に警戒として五、六人の兵を配置し、彼らを監視させた。


児島襄著『日中戦争4』229〜230p

十二月十四日朝   −
その南京北部の要地・幕府山も、あっけなく陥落した。

第十三師団第百三旅団第六十五連隊第五中隊百二十人が、決死の攻撃をこころみた
のだが、中国軍第二軍団、教導総隊の残兵は、自発的に続々と投降したからである。

捕虜総数は、なんと 「一万四千七百七十七人」 ……。

もっとも、投降者の中には、中国側の焦土戦術によって家を焼かれ、
行き場も逃げ場もうしなった住民多数がふくまれている。

第百三旅団長山田栴二少将は、第六十五連隊長両角業作大佐に命令して、一見して難民
とわかる者は釈放させ、中国軍兵士だけ約八千人を幕府山付近の中国軍兵舎に収容させた。

それでも約八千人の多数である。二十二棟の兵舎にすしづめになった。
「皇軍はお前たちを殺さぬ」

連隊長両角大佐が告げると、通訳された中国軍兵士たちは、
いっせいに合掌し、次いで歓声をあげた。

12月14日 日本軍の徴発

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/09/27 16:11 投稿番号: [191 / 2250]
児島襄著『日中戦争4』235p

《日本軍は、掃蕩とともに、洋の東西を問わずに占領軍がおこなう建物の接収、
軍需品の摘発、食糧の確保などをおこなっている。

これらの行為も、見方によっては 「掠奪」 になろうし、興奮している兵の動作が
過激であれば 「蛮行」 ともみなされかねない。》


スミス氏   (ロイター通信社) 講演

《十二月十四日の朝になっても、日本兵は市民に危害を加えませんでした。
しかし昼頃になると、六人から十人ぐらいで徒党を組んだ日本兵の姿が

あちこちで見られるようになりました。
彼らは連隊徽章をはずしていて、家から家へと略奪をくり返しました。

中国兵の略奪は主に食料に限られていましたが、日本兵の場合は見境なしでした。
彼らは組織的に、徹底的に略奪したのです。》

(ラーベの日記12月15日より)


*しかし、この日の行為は略奪というより徴発でしょう。
  それにしても、連隊徽章を外しているというのが、気になる。

  もしかして便衣隊のしわざか?

  それはともかく、彼ら外国人に、日本軍の徴発を避難する資格があるのでしょうか?
  これより、ほんの37年前、義和団事件の時、彼らの祖国軍が何をしたか。



斎藤聖二著 『北清事変と日本軍』 芙蓉書房出版
155〜156p

《通州への行軍過程で・・・ 「「露仏軍ハ 一ニ   地方物資ニ依頼シ   大ニ徴発ヲ為シ
掠奪ノ弊ニ陥」 り、イギリス軍も沿道の作物を奪って飢えをしのぎ、

日本軍もまた 「畑地ニ生長セル   玉萄黍 (トウモロコシ) ノ半熟セルモノヲ
採取シ或ハ   付近人家内ニ残留セル食品ヲ取」 って前進した。》

167 p
《『秘戦史』は、「(北京占領中の) 露仏軍人ノ乱暴ハ   至ラサル所ナク   掠奪、
殺傷、強姦、放火等   屡々   之ヲ耳ニシ、其 (その) 通州ニ於ケル暴挙甚シク
・・・
森海軍中佐の報告書には、「英国公使館内ニ於ケル掠奪品ノ競売」 について
記されており、「印度兵ノ   奪略シ来レル   衣類、毛革、陶磁器、金銀細工類等ヲ展列シ

同国人ハ勿論 他国人ト雖 (いえど) モ望セ   其場ニ誘引シ公然競売」 をしているとある。》



明治33年8月27日の   『日本新聞』 には

ドイツ皇帝は出征兵士に対し 「一人も容赦するなかれ、一人も捕虜となすなかれ」
と勅語した、とあります。



ウッドハウス暎子著 『北京燃ゆ・義和団事件とモリソン』 東洋経済新報社より

ドイツのヴァルダーゼー軍は10月17日北京に着いたが、すべて終わっていた。
263〜264p

《仕方なくドイツ軍は、義和団の残党狩りというふれこみのもとに討伐隊を組み、
北京周辺を荒らし回り略奪暴行の限りをつくした。ヴァルダーゼーは本国に、

「略奪行為は、どこの国もお互いさまである……みな、揃いも揃って略奪に熱を
上げている」と報告した。

兵士たちはカイザーの勅語を肝に銘じていたらしく、抵抗するものは容赦なく
殺したり、有罪無罪の別なく厳罰に処したりした。

その残忍ぶりは目に余るものがあり、正義漢モリソンは何回にもわたって
彼らの野蛮行為をタイムス紙で暴露・非難した。

例えば、同紙十一月二十三日付のモリソン記事はいう。

「ドイツ討伐軍は北京周辺を繰り返し襲っては住民を苦しめているが、
それは略奪が目的である。

このような行為を、ドイツ公文書では軍事活動と誤った呼び方をしている」》


*ラーベはこの8年後に中国に来ています。
  彼らの祖国軍に比べて日本軍が、そう悪い様には見えませんが。

海軍パネー号遭難者の救助と謝罪

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/09/26 16:02 投稿番号: [190 / 2250]
児島襄著 『日中戦争4』 227p

夕刻が近づくころ、海軍第十一戦隊は下関埠頭に入港した。

対岸の浦口には、すでに揚子江左岸を急進し国崎支隊が突入している。
第十一戦隊は浦口桟橋を確保し、陸海の南京封鎖を完了した。


戦史叢書 『中国方面海軍作戦1』 468p

先頭の保津、勢多は15:40、主隊は17:00南京に突入した。
第一掃海隊は南京到着後直ちに泊地を掃海し、また浦口桟橋を確保した。

陸軍部隊は夕刻南京城を完全に占領した。


米国砲艦パネー遭難者の救援

十三日 09:00、長谷川長官は米国東洋艦隊司令長官から、
十二日 14:30以降砲艦パネーとの無線連絡が絶えた旨、通告を受けた。

調査の結果、前日第二聯合航空隊の飛行機が南京上流二六浬付近において
中国船と思い撃沈した船が、前後の模様から察し、

米国砲艦パネー及び米国商船であったことが判明した。長谷川長官は航空部隊に対し、
何分の令あるまで揚子江における艦船の爆撃を禁止するとともに、

遭難者救助に全力を挙げるため、南京突入直後の 「保津」 に 「即時開源碼頭付近にて
日本海軍機の爆撃により損害を受けた米砲艦パネーの救助に向かえ」 と指令した。

「保津」 は直ちに下関を出港し、20:30 ころ現地に到着、開源碼頭下手に投錨し、
同地に在泊中の英艦ピーに先任将校橋本以行大尉を派遣した。

同大尉は英艦救助隊と共に英艦内火艇に乗艇、北岸の和縣に至り、夜を徹して同地避難中の
「パネー」 遭難者の救助に当たり、負傷者を収容し、十四日朝帰艦した。



政府の謝罪と処分

北博昭著『日中開戦』110〜111p

十三日、支那方面艦隊司令長官長谷川中将は艦隊参謀長杉山少将を
アメリカアジア艦隊司令長官ヤール大将のもとへ送り、陳謝した。

東京では広田外務大臣が駐日アメリカ大使グルーを訪ね、謝罪した。

また、アメリカでは斎藤博大使が広田外務大臣の指示でハル国務長官を訪問し、
日本政府からの遺憾の意を伝えた。

翌十四日には、陳謝の意を表した日本政府の公文がグルー大使に渡された。

第二連合航空隊司令官三並少将(進級)は、事件三日後の十二月十五日をもって更迭された。

日本はアメリカが翌年の三月二十一日に要求してきた額面どおりの巨額の賠償金を支払った。

12月13日のラーベの日記2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/09/25 18:42 投稿番号: [189 / 2250]
日本軍は十人から二十人のグループで行進し、略奪を続けた。
それは実際にこの目で見なかったら、とうてい信じられないような光景だった。

彼らは窓と店のドアをぶち割り、手当たり次第盗んだ。食料が不足していたからだろう。
ドイツのパン屋、カフェ・キースリングもおそわれた。また、福昌飯店もこじ開けられた。

中山路と太平路の店もほとんど全部。なかには、獲物を安全に持ち出すため、
箱に入れて引きずったり、力車を押収したりする者もいた。


我々はフォースターといっしょに太平路にある英国教会にいってみた。
ここはフォースターの伝道団の教会だ。

手榴弾が二発、隣の家に命中していた。
近所の家もみなこじ開けられ、略奪されていた。

フォースターは、自転車を盗まれそうになってびっくりしたが、
我々を見ると日本兵はすぐに逃げ去った。

日本のパトロール隊を呼び止め、この土地はアメリカのものだといって、
略奪兵を追い払うようにと頼んだが、相手は笑うだけでとりあおうとしなかった。


二百人ほどの中国人労働者の一団に出会った。安全区で集められ、しばられ、
連行されたのだ。我々がなにをいってもしょせんむだなのだ。

元兵士を千人ほど収容しておいた最高法院の建物から、四百ないし五百人が連行された。
機関銃の射撃音が幾度も聞こえたところをみると、銃殺されたにちがいない。

あんまりだ。恐ろしさに身がすくむ。


外交部のなかの病院に入れてもらえない。中国人の医師や看護人はかんづめにされている。

日本軍につかまらないうちにと、難民を百二十五人、大急ぎで空き家にかくまった。
韓は、近所の家から、十四歳から十五歳の娘が三人さらわれたといってきた。

ベイツは、安全区の難民たちがわずかばかりの持ち物を奪われたと報告してきた。
日本兵は私の家にも何度もやってきたが、ハーケンクロイツの腕章を突きつけると出ていった。

アメリカの国旗は尊重されていないようだ。仲間のソーンの車からアメリカ国旗が盗まれた。
被害を調べるため、今朝六時からずっと出歩いていた。韓は家から出ようとしない。

日本人将校はみな多かれ少なかれ、ていねいで礼儀正しいが、
兵隊のなかには乱暴なものも大ぜいいる。

そのくせ飛行機から宣伝ビラをまいているのだ。
日本軍は中国人をひどい目にあわせはしないなどと書いて。

(字数の都合で以下数行略)



*略奪の話は、「スミス氏   (ロイター通信社)講演」と合わない
スミス氏は14日の昼までは、略奪も危害もなかったと言っている。

「十二月十四日の朝になっても、日本兵は市民に危害を加えませんでした。
しかし昼頃になると、六人から十人ぐらいで徒党を組んだ日本兵の姿があちこちで

見られるようになりました。彼らは連隊徽章をはずしていて、
家から家へと略奪をくり返しました。」(12月15日のラーベの日記にある)

ラーベの日記には「14日」の項目がないから、おそらく13日に混ぜているのだろう。

>フォースターは、自転車を盗まれそうになってびっくりしたが、
我々を見ると日本兵はすぐに逃げ去った。<

日本軍が必要に応じて徴発する時は、彼らを見ても逃げない。
その“日本兵”は本当に日本人なのだろうか?

投降兵の処断

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/09/24 18:52 投稿番号: [188 / 2250]
佐々木倒一少将私記12月13日続き

午後二時頃概して掃討を終わつて背後を安全にし、
部隊を纏 (まと) めつゝ前進和平門に至る。

その後俘虜続々投降し来り数千に達す、激昂せる兵は上官の制止を肯かばこそ
片はしより殺戮する。多数戦友の流血と十日間の辛惨を顧みれば兵隊ならずとも

「皆やつてしまへ」 と云ひ度くなる。

白米は最早一粒もなし、城内には有るだらうが、
俘虜に食はせるものの持合せなんか我軍には無い筈だつた。



中島今朝吾中将(第16師団長) 日記 (12月13日)

一、斯 (か) くて敗走する敵は大部分第十六師団の作戦地境内の森林村落地帯に出て
   又   一方鎮江要塞より逃て来るものありて到る所に捕虜を見

   到底其始末に堪えざる程なり

一、大体捕虜はせぬ方針なれば、片端よりこれを片付くることとなしたる(れ)ども、
   千 五千 一万の群集となれば之が武装を解除することすら出来ず

   唯彼等が全く戦意を失ひ、ぞろぞろついてくるから安全なるものの、
   之が一旦掻擾(騒擾)せば始末に困るので

   部隊をトラックにて増派して監視と誘導に任じ
   十三日夕はトラックの大活躍を要したり乍併(しかしながら)戦勝直後の

   ことなれば中々実行は敏速には出来ず斯 (かか) る処置は当初より
   予想だにせざりし処なれば参謀部は大多忙を極めたり

一、後に至りて知る処に依りて佐々木部隊丈 (だけ) にて処理せしもの約一万五千、
   大平門(太平門)に於ける守備の一中隊長が処理せしもの約一三〇〇

   其仙鶴門附近に集結したるもの約七八千人あり尚続々投降し来る

『南京戦史資料集』 (笠原『南京事件』p.154-155)


児玉義雄氏(第十六師団歩兵第三十八連隊副官)の証言

連隊の第一線が、南京城一、二キロ近くまで近接して、彼我入り乱れて混戦していた頃、
師団副官の声で、師団命令として 『支那兵の降伏を受け入れるな。処置せよ』

と電話で伝えられた。
私は、これはとんでもないことだと、大きなショックを受けた。

師団長・中島今朝吾将軍は豪快な将軍で好ましい御人柄と思っておりますが、
この命令だけは何としても納得できないと思っております。

参謀長以下参謀にも幾度か意見具申しましたが、採用するところとならず、
その責任は私にもあると存じます。

部隊としては実に驚き、困却しましたが命令やむを得ず、各大隊に下達しましたが、
各大隊からは、その後何ひとつ報告はありませんでした。

激戦の最中ですからご想像いただけるでしょう。

(「南京戦史資料集Ⅰ」P397)



*   ところで、中島日記は本物なのだろうか?
  日記なのに、なぜ一、・・・、一、・・・、となっている。

  まるで戦犯収容所か何かで、箇条書きに罪状でも書かされたかのような。

*   しかも 「鎮江要塞より逃て来るもの」 とあるが、
   鎮江は12月7日に中国軍が焼き払い撤退している。

  その後10日に天谷支隊が占領し、11日には山田支隊もいた。
  それを、中島師団長が知らないわけがない。

  山田支隊は鎮江から応援に来たのだから。
  これは虐殺水増しに作られた話か?

*   太平門の所には、脱出の時の混乱で出来た大量の死体があったはず、
  当然、これらも戦果に入れているだろう。

  こうやって水増しされた戦果が、日本軍の水増し虐殺数としてカウントされる。

大量の投降兵の受け入れは危険だった

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/09/23 16:24 投稿番号: [187 / 2250]
オープンシティで整然と降伏したのなら、ともかく、一方で戦闘しながら、
一方で大量の捕虜を受け入れる事は非常に危険なことだった。

第十六師団では 「支那兵の降伏を受け入れるな」 と命令が下った。


東中野修道著 『南京大虐殺の徹底検証』 157p

〈 師団副官は 「支那兵の降伏を受け入れるな」 と電話で伝令した。
当然であったろう。すぐ隣の傘下の部隊からは、増援要請が相次いでいた。

それを佐々木少将は拒否していた。
そして、自衛力を有する者は自ら自衛して戦えと、全軍を叱咤していた。

このような激戦の最中、支那兵の投降を受け入れて武装解除にあたることは、
自軍の戦力を殺 (そ) ぐことになる。

それは自軍の部隊の敗北を招くかも知れなかった。
日本軍にも自己防衛の権利があったのである。

従って、彼我入り乱れた激戦の最中に、投降兵を受け入れる義務は、必ずしもない。
投降兵を処刑したとしても、必ずしも戦時国際法違反にはあたらない。

むしろ戦闘行為に属する。

159p
佐々木部隊 (第十六師団右側支隊) が和平門で数千の投降兵に遭遇してから
三時間後の十三日十七時には、湯水鎮の上海派遣軍司令部が再び襲撃された。

そして「彼我混入シテ乱闘」となっていた。

160p
この両軍の乱戦と日本軍の苦戦を抜きにしては、佐々木少将の
「六、各隊ハ師団 (註・第十六師団) ノ指示アル迄俘虜ヲ受付クルヲ許サズ」 という

歩兵第三十旅団命令 (十二月十四日午前四時五十分発令) も、考えられない。

163
あまつさえ、降伏すると見せかけて手榴弾を投げつけてくる支那兵の暴挙に、
日本軍はさんざん悩まされていた。

つまり 「降ヲ乞ヘル敵」 にたいして日本軍が戦時国際法通りに攻撃を控えると、
それが敵の攻撃を招いた。


歩兵第九連隊 (第十六師団) 第一大隊副官六車 (むぐるま) 政次郎少尉の証言を、
「証言による 『南京戦史』 ⑧」 から以下に引用する。

《一ケ小隊で中山門東方紫金山中の警備を担当したが、激戦により小隊は約三十名に
減少していた。夜半、東方の山中から敗残兵数百名が、日本軍が居るのに気付かず、

南京に向って来たのを捕えた。

しかし、我々の人数が少なく、もし小人数と判れば危ないので、銃を取りあげ
凹地に終結させ、外側の兵のみを電線で縛って逃げないようにした。

ところが、日本軍が小人数とあなどったのか、手榴弾を投げつけてきて暴れだし、
収拾がつかなくなったので、軽機・小銃で弾丸のある限り射った。》

このほか六車少尉は 『惜春賦』 の中で、
ダムダム弾(ニッケルなどの被覆のない裸の鉛弾)に被弾したことを回想している。

「ダムダム弾の禁止に関するハーグ宣言」(一八九九年) が禁止するダムダム弾まで
使った支那兵は、小銃を捨てても、手榴弾や拳銃を懐中に隠し持つ例が多かった。

そこで、敗残兵を捕えても 「ヤッテシマエ」 と襲いかかる例があった。〉

大量の投降兵に困惑する日本軍

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/09/22 16:40 投稿番号: [186 / 2250]
児島襄著『日中戦争4』223〜224p

  −   午後一時すぎ、

南京城内をすすむ各部隊は、次第に収容する中国兵捕虜の数をふやしていた。
第百十四師団第六十六連隊だけでも、すでに千数百人をかぞえていた。

捕虜は適時に後方の連隊本部、旅団司令部におくるが、各部隊ともにその処置に困惑した。
捕虜は、いわば〝扶養人口〟である。

敵ではあっても、武器を捨て降伏した以上は給養しなければならない。

「捕虜ハ   第四中隊警備地区内   洋館ニ収容シ、周囲ニ警備兵ヲ配備シ、其ノ食事ハ

捕虜二〇名ヲ使役シ、徴発米ヲ   炊爨 (すいさん) セシメテ支給セリ……

食ニ飢ヱタル彼等ハ、争ツテ貪食セリ」

第六十六連隊第一隊戦闘詳報にも、そう記述されている。


だが、数十人、数百人の捕虜なら、たとえ毎食に 「貪食」 されてもなんとかなろうが、
数千人、ひいては南京守衛軍主力の大部の数万人が投降してくるとなると、重大問題である。

日本側は、既述したように、第十軍は 「糧株ハ追送補給セズ」 と規定し、
現地徴発をたよりに南京への急進撃をかさねてきた。

その現地徴発は、中国側の 「焦土戦術」 のおかげで不如意にとどまり、
将兵はひたすら空腹に耐えている。

むろん、国際法は、交戦国に捕虜にたいする給養、必要な生活手段、
医療の供与を義務づけてはいるが、現実には、日本軍自身が 「飢ヱタル」 事情にある。

「白米はもはや一粒もなく……捕虜に食わせるものの持ち合せなんか
我軍には無いはずだった」

第十六師団第三十旅団長佐々木到一少将が、中国兵捕虜の群れを前にして、
そう、憮然と歎息するゆえんである。




幕府山で大量の投降兵を得る

戦史叢書『支那事変   陸軍作戦1』428p
山田支隊は十三日烏龍山を占領


東中野修道著『南京大虐殺の徹底検証』128p

(山田支隊第六十五連隊)   は、十二月十三日、霞棲街 (かせいがい) を通った。
霞棲街は宿泊の家もないほど、支那軍に放火されていた。

午後一時、第六十五連隊の第一大隊は揚子江岸の烏龍山砲台の占領に成功する。
次の目標は幕府山砲台の占領であった。幕府山は南京の北方三キロ先に位置する。

揚子江を睥睨 (へいげい) する、揚子江岸の山である。南京防衛の観点からすれば、
その幕府山要塞は支那軍にとり最後の防衛線であった。

ところが、意外にも支那兵の抵抗は弱かった。日本側にも戦死者や重傷者が出たものの、
抵抗らしい抵抗は見られなかった。支那兵は白旗を掲げ、続々と投降してきた。

そのときの模様を、「山田栴二日記」 は、

「他師団ニ 砲台ヲトラルルヲ   恐レ午前四時半出発、幕府山砲台ニ向フ、

明ケテ   砲台ノ附近ニ到レバ   投降兵莫大ニシテ   仕末ニ困ル」

と記録する。
夜が明けて 「莫大」 な投降兵集団に遭遇する。それが十二月十四日のことであった。

城内でソバ屋を開く中国人

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/09/21 16:13 投稿番号: [185 / 2250]
児島襄著『日中戦争4』226〜227p

南京城内の掃蕩はつづき、南部からすすむ第百十四、第六師団は、
次第に市の中央部に近づいた。

左翼を北進する第二十三連隊がたどる路上は、ほとんど人影もなく、
散発的な狙撃をうける程度であった。


そのうち、意外にも店をひらいている麺料理屋をみつけ、
連隊本部の数人がはいって注文すると、主人は手早く 『広東ソバ』 を給仕した。

「こりゃぁ、甘露だのゥ」
「テンハオですな、まったく」

銃弾がとび、手榴弾、砲弾の炸裂音、そして爆煙と屍臭がただよう、
〝死の街〟で、営業するソバ屋は、いかにも奇妙な存在である。

しかも、主人は日ごろの顧客なみに日本軍を笑顔でむかえ、
日本側も警戒を忘れてソバに舌つづみをうった。

一同は、久しぶりに料理らしい味に満足し、銀貨で代金を支払った。

主人は、紙幣ではなく銀貨をもらったが、よほど嬉しかったらしい。
「謝謝、多謝」とくり返して、第二十三連隊将兵をおくりだした。


228p
  −   だが、

  城内に残る中国軍は、なお、東部と西北部で戦いつづけていた。
  第十軍司令官柳川平助中将は、午後六時、次の 「丁集作命甲号外」 命令を下令した。

「一、敵ハ   南京城内ニ於テ   頑強ニ抵抗ヲ   続ケツツアリ。

  二、集団ハ   南京城内ノ敵ヲ   殲滅 (せんめつ) セントス。

  三、丁集作命甲第五十六号第九項   ノ制限ヲ解ク。

  四、各兵団ハ   城内ニ対シ、砲撃ハ固 (もと) ヨリ   有ラユル手段ヲ尽シ、

    敵ヲ殲滅スベシ。之ガ為、要スレバ   城内ヲ焼却シ、

    特ニ敗敵ノ   欺瞞 (ぎまん) 行為ニ   乗ゼラレザル   ヲ要ス。

引用されている「丁集作命甲第五十六号第九項」は、南京城内には各師団は
一個連隊だけを突入させ主力は城外に待機させる趣旨の指示であった。

その制限をといて主力を突入し、
しかも、南京を火攻めにしても残兵を掃蕩せよ、というのである。

231p
各部隊とも、「焼却」 戦が必要とは考えなかったが、中国側の 「欺瞞行為」
には神経をとがらせざるを得ない。

これまでにも、中国側は、軍服をぬいで便衣で戦い、
ときには老婆に変装して日本軍をおそうほか、

現実に婦女子も武器をとって戦うことは、どの部隊も体験ずみだからである。

12月13日 虐殺されていた日本兵

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/09/20 15:33 投稿番号: [184 / 2250]
12月13日から、日本軍は南京城内の制圧に入りますが、
この時、虐殺された日本兵の死体が見つかりました。


★   生きたまま焼かれた日本兵

上海派遣軍第九師団山砲連隊第七中隊   中隊長代理大内義秀氏の宣誓供述書より

《十二月十三日午後、私達は光華門の城壁を占領したが、入城は許されず、
憲兵と一部の小部隊が入城した。

その日、城壁付近で彼我不明の焼死体を発見、まだかすかに息をしていた。
これを見た大隊長芳賀少佐は激怒し犯人の捜索を厳命した。

私の部下に犯人はいなかった。
死体を検死した軍医は、これは少なくとも十時間以前の犯行であるから、

日本軍の入城前であり、
日本兵が捕虜となり、支那軍によって焼かれたものであろうと判定した。》

(冨士信夫著『「南京大虐殺」はこうしてつくられた』210p)


*   10日に第九師団・第六旅団・第36連隊の第一大隊が光華門城壁に日章旗を立ててから、
   3日間頑張っていたから、犠牲者は彼らの内の誰かかも知れない。

   また、別の残酷死体も見つかっている。


★   手足を立木に縛られ銃殺された日本兵

第三師団野砲兵第三連隊第一大隊観測班長・大杉浩の宣誓供述書より

《十二月十三日夕刻頃、南京の南方の城門から城内に入ったが、
そこには彼我の戦死体が点々と散在して居ましたが、

その中に一人の日本兵が手足を立木に縛られた儘(まま)、
身に数弾を受けて死んでゐました。

私は一見して、俘虜となった日本兵が支那軍によって虐殺されたものと感じ、
縄を切って地上に下ろしておきました。》

(冨士信夫著『「南京大虐殺」はこうしてつくられた』175p)


新愛知新聞・南正義記者の証言

★   十二月十三日ですか、先頭の部隊と共に中山門から城内に入り、中山東路を進むと、
街路樹のプラタナスに日本兵が吊るされていて大騒ぎになりました」

日本兵がですか。

「そうです。後でわかったのですが、通済門か光華門で戦いがあり、
そこで捕まった日本兵らしいのです。

それを中山東路につれてきて、殺して、プラタナスの木に吊るしたものです。
下から火であぶってありました」

何体くらいですか。

「私が見たのは二、三体です。すぐプラタナスから下ろしました。
それを見た兵隊たちはカーッとなりましてね。それでなくとも敵愾心がありますから」

(阿羅健一著「南京事件」日本人48人の証言127p)


*   こんな事をされたら、日本兵の中国投降兵に対する態度が、
酷くなるだろう事は、容易に想像がつきます。

陸軍の南京城突入

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/09/19 16:11 投稿番号: [183 / 2250]
児島襄著『日中戦争4』221〜222p

第十六師団は右翼の第三十八連隊が装甲車を先頭にして東から下関にせまり、

第三十三連隊は太平門、第九連隊は中山門の突破をこころみた。

第九師団は、第三十五連隊がまず中山門東側の城壁をおどりこえ、

第三十六連隊と第十九連隊主力は光華門内になだれこんだ。

第百十四師団は中華門からの突入をはかり、

第百二連隊、第六十六連隊が重砲の援護下にすすんだ。

その左の第六師団は、第十三、第四十七、第二十三連隊が、それぞれの正面に確保した

城壁突破口にすすみ、第二十三連隊がまっさきに城内に進出した。


   −   午前十時、

第十三師団は烏龍山攻撃をはじめ、第十六師団も次々に城壁をこえ、

第九師団は城内での掃蕩前進にうつった。

第百十四師団は中華門に日章旗をかかげ、第百二連隊を先頭にして

南京市内の中山北路を北進した。

街には、十数人ずつの中国人市民が所々にかたまっていたが、

第百二連隊が出現すると、歓呼と拍手でむかえた。

第六師団も、第二十三連隊につづいて第十三、第四十七連隊が城内にはいり、

掃蕩戦を実施した。


ただし、どの部隊もその前進は慎重をきわめた。

市街戦がいかに苛酷かは、上海でもその他の都市でも、
たっぷりと体験させられていたからである。

たとえば、第百十四師団では、参謀長磯田三郎大佐が、
とくに次のような注意を各部隊に示達していた。

「市街戦ハ   極メテ困難   ナルヲ以テ、前進路ノ   左右ニ   通ズル道路ヲ

巧ミニ利用シ、連絡ヲ緊密   ナラシムルコト……、

市街戦ニ於テ   道路上ヲ   行進スル場合ハ、土嚢ヲ積ミタル   樽等ヲ利用シ、

之ヲ   転ガシナガラ   前進スルヲ要ス……。

敵ガ家ノ二階   又ハ   屋上ヲ利用スル場合ハ、先ヅ下階ヲ占領シ、

之ヲ焼却スルカ   又ハ上ニ向ツテ   掃蕩スル……」


  すべての建物は敵陣であり、動くものはすべて敵とみなす配慮が必要なのが、
市街掃蕩戦であり、

それだけに日本軍将兵は、恐怖をこめた不安と緊張に眼を血走らせていた。

掃蕩 (そうとう) 区域の割り当て

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/09/18 18:39 投稿番号: [182 / 2250]
東中野修道著 『南京大虐殺の徹底検証』 174p

南京城攻略要領に基づき掃蕩戦に入る

支那兵が市民の中に潜伏していなければ、
これほど、城内の掃蕩は問題とはならなかったであろう。

日本軍は十二月七日発令の 「南京城攻略要領」 に基づき、直ちに、掃蕩戦に入った。

「掃蕩」 とは、東京裁判でウエッブ裁判長も言うように、
「敵を蹴散らす、あるいは追払う」 ことであった。

『国際検察局尋問調書』 第五十巻の 「南京事件」 Nanking Incident にもあるように、
「掃蕩」 は英語の drive out ないしは drive away に相当する。

これは敵を 「追い払う」 軍事行動なのである。



177〜178p
作戦地域の指定と責任の明確化
掃蕩区域が次のように割りあてられた。

①   獅子山砲台を含む城内東北部(中山東路以北)

   第十六師団麾下 (きか) の歩兵第三十旅団の第三十三連隊

   (野田部隊) と第三十八連隊 (助川部隊) が担当。

②   光華門から西の漢西門まで

   第九師団麾下の歩兵第十八旅団の歩兵第十九連隊 (人見部隊) が担当。

③   中山門から中山東路へと東に向う地域 (中山東路以南、中正路以東)

   第九師団麾下の第六旅団の歩兵第三十五連隊 (富士井部隊) が担当。

④   北部 (中山路以西、漢中路以北の地域)

   第九師団麾下の歩兵第六旅団の歩兵第七連隊 (伊佐部隊) が担当。


なお、中華門 (南門) 周辺と城内東部は初めから問題外であった。

中華門周辺の掃蕩は、支那軍が早くから安全地帯や北門 (ユウ江門 ) へ向けて
撤退していたから、不要であった。

城内東部は、第十軍参謀の山崎正男少佐の陣中日記にもあるように、

「南京城東部ハ広漠タル空地」 であった。

また、第十六師団後方参謀の木佐木久少佐の陣中日記にもあるように、

「城内ノ南半部ハ市街地ナルモ、北半部、及ビ西半部ハ尚 (なお) 畑地アリ」

という状況であった。東部は支那兵の潜伏可能な地理的状況ではなかった。
そこで、掃蕩戦が展開されなかったのである。

12月13日のラーベの日記1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/09/17 18:57 投稿番号: [181 / 2250]
十二月十三日
日本軍は昨夜、いくつかの城門を占領したが、まだ内部には踏み込んでいない。

本部に着くとすぐ、我々はたちどころに国際赤十字協会をつくりあげ、
私が役員として加わった。ここしばらくこの件を担当していた盟友マギーが会長だ。

委員会のメンバー三人で野戦病院に行く。それぞれ外交部・軍政部・鉄道部のなかに
つくられていた。行ってみてその悲惨な状態がよくわかった。

砲撃が激しくなったときに医者も看護人も患者をほうりだして逃げてしまったのだ。
我々はその人たちを大ぜい呼び戻した。

急ごしらえの大きな赤十字の旗が外交部内の病院の上にはためくのを見て、
みな再び勇気をとりもどした。


外交部にいく道ばたには、死体やけが人がいっしょくたになって横たわっている。
庭園はまるで中山路なみだ。一面、投げ捨てられた軍服や武器で覆われている。

入り口には手押し車があり、原形をとどめていない塊が乗っていた。
見たところ遺体にみえたが、ふいに足が動いた。まだ生きているのだ。

我々はメインストリートを非常に用心しながら進んでいった。
手榴弾を轢いてしまったが最後、ふっとんでしまう。

上海路へと曲がると、そこにもたくさんの市民の死体が転がっていた。


ふと前方を見ると、ちょうど日本軍がむこうからやってくるところだった。
なかにドイツ語を話す軍医がいて、我々に、日本人司令官は二日後にくるといった。

日本軍は北へむかうので、われわれはあわててまわれ右をして追い越して、
中国軍の三部隊をみつけて武装解除し、助けることができた。全部で六百人。

武器を投げ捨てよとの命令にすぐには従おうとしない兵士もいたが、日本軍が進入して
くるのをみて決心した。我々は、これらの人々を外交部と最高法院へ収容した。

私ともう一人の仲間はそのまま車に乗っていき、鉄道部のあたりでもう一部隊、
四百人の中国軍部隊に出くわした。同じく武器を捨てるように指示した。


どこからかいきなり弾が飛んできた。音が聞こえたが、どこから撃っているのかわからない。
やがて一人の中国人将校が馬に乗ってカービン銃をふりまわしているのを見つけた。

おそらく我々がしたことが納得できなかったのだろう。たしかに彼の立場からすれば、
無理ないのだろうが、こっちとしてもほかにどうすることもできなかったのだ!

ここで、安全区の境で、市街戦が始まりでもしたら、逃げている中国軍が、
安全区に戻ってくるのは火を見るより明らかだ。

そうなったら安全区は非武装地帯ではなくなり、壊滅とまではいかなくても
徹底的に攻撃されてしまうことになる。

我々はまだ希望を持っていた。完全に武装解除していれば、捕虜にはなるかもしれないが、
それ以上の危険はないだろう、と。我々に銃口を向けた将校がそれからどうなったか知らない。

ただ、仲間のハッツが彼からカービン銃を奪うのを見届けただけだ。


本部に戻ると、入り口にすごい人だかりがしていた。
留守の間に中国兵が大ぜいおしかけていたのだ。

揚子江をわたって逃げようとして、逃げ遅れたのにちがいない。
我々に武器を渡したあと、かれらは安全区のどこかに姿を消した。

シュペアリングは非常に厳しい固い表情で正面玄関にたち、モーゼル拳銃を手に、
といっても弾は入っていなかったが、武器をきれいに積み上げさせ、ひとつひとつ数えさせていた。

あとで日本軍にひき渡さなければならない。
町を見まわってはじめて被害の大きさがよくわかった。

百から二百メートルおきに死体が転がっている。
調べてみると、市民の死体は背中を射たれていた。

多分逃げようとして後ろから射たれたのだろう。



*   ここまでは極端な問題はない。ただ、道路の死体や惨状は昨夜の中国兵脱走劇
   による混乱で生じたもので、日本軍はまだ関与していない。

   しかし、その説明がないから、ラーベの日記だけを読んだ者は、
   日本軍がやったと勘違いさせられる。

  「市民の死体は背中を射たれて」 これは、日本軍が来る前にできているのだから、
   督戦隊のしわざ。この 「市民」 が本当の市民か、軍服を脱いで 「市民」

   に化けた中国兵なのかは判らない。

12月13日海軍の下関突入

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/09/16 18:37 投稿番号: [180 / 2250]
《戦史叢書『中国方面海軍作戦1』467〜468p

南京突入(一三日)   烏龍山砲台の守備兵は十三日未明の陸軍第十三師団山田支隊の
進出及び海軍部隊の砲爆撃により、敗走した模様であった。

南京においては陸軍部隊は城内に突入し始めた。   近藤指揮官は急速閉塞線を突破して
南京に進出するに決し、12:00 ころ各隊に進撃を下命した。


これより先、「保津、勢多」 は霧の晴れるのを待って 10:30 抜錨、閉塞線を
突破して劉子口野砲陣地からの猛射に反撃しつつ烏龍山砲台及び水路を偵察

(この間第二十四駆逐隊は掩護射撃) し、命によりいったん引き返したのであった。

13:30 前衛隊 (保津、勢多、掃一、掃三号、山風、海風)、15:15 主隊
(二見、掃一、掃四号、江風、涼風、安宅は錨鎖に掃海索が絡まり出港が遅れ、

近藤指揮官はとっさに江風に旗艦を変更、南京入港後安宅に復帰した) の順に
泊地発、縦陣列で閉塞線を突破し南京に向け進撃した。

更に主隊の後に第一水雷隊の 「鵲、鴻」、「安宅、熱海、掃二、掃五号」 がこれを追った。


江上、江岸は敗走する敵大部隊、舟艇、筏 (いかだ) で充満していた。

各艇はこれらに猛攻撃を加え、更に天河口、硫安工場付近の野砲陣地その他の抵抗を
排除しつつ前進し、先頭の保津、勢多は 15:40、主隊は 17:00 南京に突入した。

第一掃海隊は南京到着後直ちに泊地を掃海し、また浦口桟橋を確保した。
陸軍部隊は夕刻南京城を完全に占領した。



児島襄著『日中戦争4』222〜223p

  −   正午、
烏龍山沖の閉塞戦を除去した海軍第十一戦隊司令近藤英次郎少将は、南京への前進を下令した。

戦隊が縦陣列ですすむにつれ、江岸と江上は脱出をいそぐ中国側の筏、
小舟、さらに泳ぐ人馬で満ちあふれていた。

各艦は砲、機銃で 「猛攻撃」 を加え、さらに左右岸の中国軍陣地を
銃砲撃しながら、下関埠頭をめざした。

はるかに南京の空は黒煙でおおわれ、ときに舌なめずりするように火焔がゆらめきのぼる。

艦の横を掃蕩された中国兵の死体が流れすぎ、
中には太い一本の竹にすがる中国兵が波におされて近づいてきた。

「ニイ、来々……」

水兵が片言の中国語で呼びかけ、手をさしのべる仕ぐさをみせたが、
中国兵は頭を左右にふり、光る眼で艦を注視しながら流れて行き、

後続艦の機銃掃射をうけて水没した。》



*   ここでは、「江上、江岸は敗走する敵大部隊、舟艇、筏 (いかだ) で充満していた。
   各艇はこれらに猛攻撃を加え」 とあるが、どこまで本当だろうか?

南京城内から脱出しようとした連中は、船がないので、とっくに城内に戻っている。
幕府山から烏龍山の間は第2軍が全員渡河したので、もう殆ど船がないだろう。

午前10時ころには下関は佐々木支隊によって占領されている。

海軍が閉塞線から、進発するのが 12:00 、海軍が来るころに、
敵大部隊がどうやって渡河できる?


江上にあるのは、下関から流れてくる漂流者や大量の漂流死体では?
海軍は、これを銃撃して、手柄にしていないか?

陸軍佐々木支隊も漂流死体に銃弾を浴びせて手柄にしている。
海軍も同じ漂流死体に銃弾を浴びせて手柄にしている。

その前に南京の南西部で第6師団が攻撃している。
これらの戦果は三重に重複しているだろう。

しかして、これらの漂流死体を作ったのは、主に、中国軍の同仕打ち。
南京南西部の戦いのみ日本軍の関与。

何も知らない、善人心の日本人は、これらの漂流死体を
日本軍の大虐殺によるものと思いこんでいる。

12月13日 佐々木隊 下関占領

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/09/15 18:51 投稿番号: [179 / 2250]
佐々木倒一少将私記
十二月十三日

払暁前我が第一線は敵陣地に突入し続て敵を急迫し、
軽装甲車中隊午前十時頃先ず下関に突進し、

江岸に蝟集し或いは江上を逃れる敗敵を掃討して
無慮一万五千発の弾丸を撃ち尽くした。


この間 歩三八 (歩兵第38連隊) は城北に面する五個の城門を占領して敵の退路を絶ち、
連隊長は三三の大隊と共に装甲車に追及して西面ユウ江門付近に進出し、

逃げ遅れた敵兵と戦闘を交えた。

司令部は予備隊たる歩兵一中隊を以って左後方より突撃し来る前後数回の敵と
激戦を交へ、通信手、輜重兵、伝騎に至るまで戦線に加入敵を撃退し、

その後方を追及しつつ道路の不良に悩みつづけた野砲兵大隊は
是又 夜間敵の襲撃を受け援護の歩兵一中隊、工兵一小隊と共に

零分割射撃以って敵に応戦、四時間の久しきに亘 (わた) って戦闘。

更にその後方には後衛として残置した歩兵二中隊が夜半 以降
又 二方面より反復殺到する敵の大部隊と戦闘してこれを撃滅した。

更にその後方衛生隊附近に集成騎兵団が位置していたが、暗黒の裡に敵の襲撃を受けて
部落内に突入せられ、人二百馬六十の損害を被るが如き失態を演じている。

此 (この) 騎兵も又その後方に在った重砲も盛んに増援を請うてきたが
自衛力を有するものを顧みる遑 (いとま) はなかった、

蓋 (けだ) し予の部隊は数里の長きに亘って延伸し側面に対して
至る処 (ところ) 激戦を交えている状態だったからである。


午前十時頃、我左翼援護の為 高地上に位置せしめた中隊の陣地に対し
後方から重砲の試射らしき数弾が飛来し、続いて効力射に移り、

あれよあれよと兵隊が騒いでいるうちに三十余発の砲弾を集中した。
山頂は爆煙に被われて此部隊の損害が目に見えるような気がした。

血迷った我重砲が味方撃ちをやったのであるが、幸に背嚢一個ふっ飛ばされたのみ。
因に此中隊も山の上から敵の背後を攻撃している。


前述する如く午前十時我支隊の軽装甲車が最初に下関に進出して完全に敵の背後を絶ち
又 我歩兵は北面の城門全部を占領封鎖して敵を袋の鼠とし、

少し遅れて第六師団の一部が南方より江岸に進出し、
海軍第十一戦隊が遡江して流下する敵の舟筏を掃射しつつ午後二時下関に到着し、

国崎支隊は午後四時対岸浦口に来着した。

其他の城壁に向かった部隊は城内を掃蕩しつつある。
実に理想的の包囲殲滅戦を演じているのであつた。

此日我支隊の作戦地域内に遺棄された敵屍は一万数千に上りその外、
装甲車が江上に撃滅したもの並各部隊の俘虜を合算すれば我支隊のみにて

二万以上の敵は解決されている筈である。



*   ここには 「江岸に蝟集し或いは江上を逃れる敗敵を掃討」
  と書いてあるが、これは、本当の話だろうか?

中国兵が船を求めて右往左往していたのは、もっと早い時間。
船の奪い合いで、同士撃ちをやって、下関附近には、死体の山ができていたはず。

そして、船や筏に乗った者も積載オーバーで沈没、流されていた。
殆どの兵は、乗るものがないため、諦めて城内に戻った。

何で、こんな時間に、そんなにたくさんの兵が居る?
装甲車に追われて来た兵と南から第6師団に追われて来た兵は別として。


「江岸に蝟集し或いは江上を逃れる敗敵を掃討」というのは、
既に、下関附近にあった大量の死体や、江上を漂流する死体を、

戦果とするために、作っていないか?

佐々木日記には、到着したとき、既にそこに「大量の死体があった」とは書いていない。

まるで、自分たちが、初めて、死体を作ったかのように書いている。
これが、後世、大虐殺の証拠にされてしまうとも知らずに。

12月13日 南京城外南西部での激突

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/09/14 18:30 投稿番号: [178 / 2250]
南京の北東部で佐々木隊が激闘を繰り広げていたころ
南西部でも脱出軍との激突があっていた。


児島襄著『日中戦争4』219〜221p

水西門の北西に集結した第七十四軍の第五十一、第五十八師は、
しかし、城外に出て、揚子江沿いに南進する準備をととのえた。

  そこで、十二月十三日   −

日本側にとって 「南京城突入」 の日の戦いは、
まず、西側を脱出南下する中国軍第七十四軍と、

退路遮断のために北上する第六師団第四十五連隊主力との交戦で、
開幕したのである。


この日も朝霧が濃く、日出前の午前六時すぎでは、第四十五連隊がすすむ江岸一帯は
闇につつまれ、右手の南京城壁も城内の火焔を背にして黒い森のようにみえる。

第十一中隊の尖兵小隊長赤星中尉が、出発を歩哨に指示すべく本道に出て、
人の気配をたよりに近づくと、相手もこちらをたしかめるためか、顔をよせてきた。

(ご苦労……) と唇を動かしかけたとたん、中尉は相手に気づいて、立ちすくんだ。

敵   ―   である。しかも、相手は将校斥候らしく、
中尉は数人の兵の銃剣にかこまれ、敵将校と対面していたのである。

「私は軍刀に手をかけようと思うが、動けば直ぐやられるような気がして、
どうしてどうして生きた心地は致しません」


闇の中の緊張の対峠がつづいたが、敵将校がふと一歩をふみだしたとき、
中尉は、夢中で軍刀をぬいてふりまわし、横の溝に身を投げだして、

敵襲ッ、敵襲ッ、と連呼した。

脱出してきた中国軍第七十四軍主力は、約六千人。 優勢であるうえに、
生きのびようとする決意に燃えているので、その攻撃もはげしかった。

チャルメラ風の中国軍ラッパを、日本側では 「テラテラ喇叭」 と呼んでいたが、
第七十四軍はそのラッパを吹き鳴らして、第四十五連隊に殺到した。

第十一中隊は、中隊長大薗庄蔵大尉が戦死してあやうく包囲されかけたが、
大隊砲と連隊主力の応援で危機をきりぬけ、逆に殲滅戦に移った。


中国軍第七十四軍は潰乱し、北に逆行する者、江岸に逃げる者、
あるいは日本軍の間をすりぬける者にわかれたが、

南進した将兵は、待ちかまえた日本側の騎兵第六連隊の銃火になぎ倒された。
第四十五連隊は追撃し、北河鎮を経て 「大同製麺公司」 工場にたてこもる残兵を一掃した。

次いで、江岸に機銃をすえ、筏や戸板にすがって渡河しようとする敗兵を掃射し、
工兵が敵屍体を積んで急造した 「気味悪い橋」 をわたり、下関への道をいそいだ。



*   この戦いで、新たに、揚子江に浮かぶ漂流者や漂流死体が作られた。
  しかし、これは戦闘によるものであって、無辜の市民の虐殺ではない。

12月13日 脱出軍と佐々木支隊との激突

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/09/13 16:20 投稿番号: [177 / 2250]
前日、司令官唐生智より、敵中突破で脱出しろと、中国軍に命令があっていた。
兵隊たちは、下関へ脱出路を求めたが、船が無いため、戻り、

或る者は安全区に隠れ、それを潔しとしない者は、命令どおり、敵中突破の挙にでた。
そこに、佐々木倒一少将の部隊がいた。


佐々木倒一少将私記
十二月十三日

《十二日の夜は至る処に激烈なる銃声を聞き、後半夜には砲声さへも聞えた、
併 (しか) し一般の情勢から判断すれば落城は刻一刻近づきつつあるので、

予備隊の直ぐ左に在る高地に敵が出てくれば忽 (たちま) ち苦境に陥らなければならず、
而かもこゝに僅 (わず) か一中隊の兵力を割 (さ) くことができるばかりの

手薄だつたに拘 (かかわ) らず極めて安易な気持になつた。

併しやつと断続して取れるやうになつてゐる師団司令部との無線連絡に依 (よ) つて
師団命令や情報を聴く為に終夜を費し、

追撃命令を下達したのは午後六時に近かつたのである。
而かも此 (この) 間銃声が近距離に起り、銃弾が盛んに壁に命中してくるのであつた。


満州の旧部下が苦辛 (くしん) して持つてきて呉れたするめや魚の干物を分配、
そして久し振りにクレーヴンの芳香に接した。

此人達から東宮中佐が去十一月十三日杭州湾上陸作戦の花と散つたことを聴いたのである。

去八月の中頃大連で別れたのが最後で、此人は満洲移民の生みの親と云はれ、
もつと生きてゐて貰ひ度かつた惜しい武人だつた。万感胸に迫る。

焚火 (たきび) を掻 (か) き立てゝ煤 (すす) けた寝台に横になり忽ち熟睡。


午前八時頃ふと目を醒 (さま) せば至近の距離に激烈な銃声がしてゐて、通信手や
行李 (こうり) の輜重 (しちょう) 兵までが銃を執 (と) つてばたばたやつてゐる。

「何事だ?」
屋外を走りかけた副官に尋ねる。

「今撃退したところです、紫金山から真つ黒になつて降りてきました」
「敗残兵か?」

「チェックを腰だめで撃つてくるのです、それが何回も何回も五六百一所になつて」
「鉄砲を取り上げろ」

「降伏なんかするもんですか、皆殺しです」
くるわ、くるわ、あつちにもこつちにも実に夥 (おびただ) しい敵兵である、

彼らは紫金山頂に在つた教導師の兵で血路を我支隊の間隙に求めて戦線を
逆に討つてでたものであつた。銃声の間に怒号罵声すら聞えてゐる。


家屋に立て籠っていつまでも抵抗するもの、いち早く便衣に替えて逃走を計るもの、
そして三々五々降伏する者は必ず池の中に投じ或いは家の中に投げ込んで放火していた。

この点は実に徹底していた。 当面の敵は蒋介石が虎の子のように
していた師団だけあって最後迄最も勇敢に戦ったようである》

第2軍の脱出と訒竜光の敵中突破

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/09/12 16:19 投稿番号: [176 / 2250]
第二軍団の脱出成功

軍団長徐源泉は、首都衛戍司令との連絡がとれぬままに退却命令も知らずにいたが、
深夜、敗兵が陣内にまいこんできて報告した.

「南京己於本日午後失陥、下関江辺無船可渡」

軍団長徐源泉は、日本軍 (第十三師団) が烏龍山にせまっているが、
なお、同山と幕府山、南京の間は無事であり、

遡江している日本海軍部隊も烏龍山付近の揚子江閉塞線でストップしている事情を考え、
「保存戦力」 のために退却を決意した。

周家沙、黄泥湯の渡船場から渡河をはじめ、夜明けには、
主力は対岸にわたることができた。

日本海軍の遡江部隊である砲艦七隻、駆逐艦三隻を基幹とする第十一戦隊
(近藤英次郎少将) は、おりから烏龍山沖の閉塞線の除去作業をおこなっており、

中国軍第二軍団の脱出渡河は、その〝鼻先き〟を密行する形であった。

(児島襄著 『日中戦争4』 218〜219p)



訒竜光と第66軍・広東軍の敵中突破

『南京保衛戦』・・・   劉紹武は書いている。

「十二日午後二時頃、唐生智から電話が入り、訒竜光に会議に来い、といわれる。
訒竜光は側近の陳文を連れて出かけると、五時頃、訒竜光から、

〝広東軍はすべて葉肇の下に入って、前線を突破して撤退する。
その第一として、広東軍はすべて太平門に集結せよ〟 と命令が入った。

このとき誰かが、大きな声で 〝逃げるんだ〟 と叫んだ。
この声で、多くの官兵は大混乱となった。

私 (筆者である劉紹武) はとりあえず五百万分の一の地図を持ち、
車で太平門に行こうとしたが、道は人の山で身動きも出来ない。

歩行で、暗くなった頃、やっと中央党部に着き、軍長の訒竜光とは会えたが、
師長の李江はいなかった。そして太平門に着いたのが午後八時である。


しかし、太平門は敵の進撃を封じるためにコンクリートで閉められていたので、
内側から外に出ることが出来なかった。葉肇の軍隊が、その障害物を爆破し、

とり除くのに懸命になっていた。
太平門に大挙集合した広東軍はいら立ち、

逆に外部からは日本軍がこの辺りに攻めてくるという情報もあって、
焦りは頂点に達する寸前だった。

午後九時を過ぎた頃、突然大声が起り、通路が開かれ、人が流れはじめた。
周辺は闇に包まれ、その中で人びとは先を争って城外に飛び出した。

弱者は倒れてふみつけられ、命を落し、強者はその上を通って、命を長らえた。
あとで私がきいたところによると、ある男は踏みつけられて下敷になり、

身につけていた手榴弾を投げつけて、周囲の者とともに自爆した、という。
惨劇のほどがうかがわれるであろう。


私は訒竜光とともに城外に出て、先頭部隊のあとを迫って公路を南下した。
しかし先頭部隊はたまたま日本軍との遭遇戦になり、葉肇軍の羅策群副師長は、

「几 (幾) 大就几大、唔好做哀仔呀」(これは、広東語特有の表現で、
「広東人の誇りを失わず、人に後ろ指をさされるようなことはするな」

というような場合に使われるらしい) と叫びながら戦死した。

(鈴木明著『新「南京大虐殺」のまぼろし』265〜266p)



児島襄著『日中戦争4』218p

第六十六軍長葉肇と第八十三軍長訒竜光は、脱出方法について協議・・・
太平門を出て紫金山の南をかすめ、

ちょうど日本軍第十六師団と第九師団の中間をすりぬける……。
第百六十師が太平門内側の土嚢を撤去して脱出を開始したが、

たちまち城外に敷設した自軍の地雷原で損害をうけ後続する部隊の足をすくませた。

12月12日 安全区にかくれる中国兵

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/09/11 18:48 投稿番号: [175 / 2250]
児島襄著『日中戦争4』217〜218p

将兵の一部は、渡江をあきらめ、再び城壁にのれんなみにたれ下った綱にすがり、
城内にもどる者もいた。

多数は〝暴徒〟化して放火をはじめ、深夜には交通部にも放火された。

火は外のゴミ、遺棄された弾薬にものびて大火災となり、
まきこまれて焼死する人馬の悲鳴が夜空にひびきつづけた。



松村俊夫著『「南京虐殺」への大疑問』55pより

翌年二月二日の南京アメリカ大使館エスピーからの報告書も紹介されている。

〈中国軍自身が略奪行為を犯したこともまぎれもない事実なのです。
中国兵は気も狂わんばかりに軍服を脱ぎ捨て、

そして民間服を得ようとして市民の服欲しさに殺しまでやったのです。〉

(同書 (たぶん『南京大虐殺の現場へ』と思われる) 106頁)



郭岐の証言 (『南京大虐殺の現場へ』の笠原十九司が集めた証言集105頁)

〈十二日深夜になっても鼓楼病院 (城内を南北に走る道路のほぼ真ん中に位置する)
から先へ進めなかった。

ユウ江門まではまだ約四キロ余あったが、
中山北路は立錐の余地なく人垣で埋まり、少しも動かなかった。

郭岐は下関脱出を断念して五台山に部隊を待機させ、
翌十三日午後に部下五〇〇余人を便衣 (民間人の平服) に着替えさせ、

各自逃亡するよう命令して部隊を解散し、本人はイタリア大使館に避難した。〉
(松村俊夫著 『「南京虐殺」 への大疑問』 55p)



宋希濂の回想録 『鷹犬将軍』 より

孫元良の、あのように卑劣な行為 (原註=孫元良は、十二日午後五時に長官邸に行き、
会議が散会されたあと、部隊には帰らないで、軍服を脱いで平服に着変え、

難民区に行った。そのまま一カ月潜んだあと、日本軍が難民を地方に疎開させたとき、
その中に紛れ込んで抜け出した) は幹部にふさわしくない、恥ずかしいことだった。

(鈴木明著 『新 「南京大虐殺」 のまぼろし』 262〜263p)



スミス氏   講演より

《十二月十二日の夜、支那軍と市民が略奪を始めた。・・・
このとき特徴的であったのは、城内南部の支那人洋服品店で起きた騒ぎであった。

数百人の兵士がこの商店に殺到した。市民服であれば、既製服という既製服が、
飛ぶように売れた。なけなしのお金をはたいて、全兵士が服を買い求めた。

そして路上で着替え、軍服を投げ捨て、市民となって消えた。
あとになって、この数百人の市民は、軍官学校と励志社に集合した》

(東中野修道著『南京大虐殺の徹底検証』198p)
  (ラーベの日記12月15日にも同じ記事あり)



*   城内南部は激戦地の筈、安全区に避難もせず、店を開いていたのだろうか?

  光華門 (東南門) から、掃蕩戦に入った第九師団の歩兵第十九連隊
  第四中隊長土屋正治中尉は、『南京戦史』 に

  《ただ不気味な静寂、・・・市街に深く進入すればするほど、まさに 「死の街」
  という感じを深くした。敵弾の飛来はもちろん、人影一つ見えず、

  粛然とした軒並みのみが果てしなく続いていた。》
  (東中野修道著『南京大虐殺の徹底検証』178〜179p)


  と証言している。尤も場所によって異なるだろうが。

実際にあった攪乱工作3

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/09/10 18:43 投稿番号: [174 / 2250]
外国人も、最初は日本軍の犯罪と考えていましたが、
徐々にそうではないことが判ってきます。

松村俊夫著 『「南京虐殺」 への大疑問』 140〜141pを見てみましょう。

《憲兵も毎日日暮れ以後はあまり活動せず、七時、八時にはまったく影も形も
なくなった。それで強奪などの事件は後を断つことがなかった。

最初、新街口で難民収容所が一つ襲われた。・・・その次は孫軍需官で、
彼は教導総隊第一連隊の軍需主任である。

出発直前まで私は彼と一緒にいたが、その後、連絡が途絶えた。・・・
軍需という目標はとくに大きいので、普通は軽々しくは外出しなかった。

彼が用事で五台山付近へ出かけたとき、二人の盗賊に金をゆすられた。

彼は 「私は藁をしき、藁をかけて寝ているのに、どうして金など持っていようか」
と言ったが、彼らはいたるところを探した。

中国人の強盗は日本人よりもずっと芸が細かい。
彼らは全身裸にして靴下さえも脱がし足の指に金の指輪をはめていないかまで調べ、

衣服のいたるところをさわって縫い目の中に紙幣を隠していないかどうかまで調べた。
(②234頁〜235頁)

・・・
これは 『資料集②』 に載っている郭岐の手記の一部である。》



*ここに 「軍需という目標」 という言葉があります、これが単なる市民の
   言葉でない事は確かでしょう。



次はローゼンがコヴィルに言った言葉
151p

〈日本人はいかなる文明も持っていない。(中略)日本は負ける(中略)
ゲリラがゴリラに対抗しているのだから、ゴリラが敗退するのは必定だ。〉(①116頁)


*この中で言う 「ゲリラ」 とは便衣隊の事ですね。


151〜152p
《三月三十一日、「南京から、見せかけの経済についてのノート」 という宛先不明の
文書がベイツによって書かれている(①194〜197頁)。

・・・
〈日本軍の統制の不安定さについての根拠のない噂が出回っている。
その原因は、全体的に信頼できるニュース源をまったく欠いていること、

および 「国民政府軍の便衣隊」 という快適なタイトルに多少なりとも
値する彷捏える中国軍部隊の活動があることに求められる。)(①196頁)》


*   南京陥落から三カ月半も過ぎたころになって、ベイツも、ようやく混乱の
原因が便衣隊にあると、わかってきたようです。


*つまり、便衣隊の攪乱工作は実際に行われていたのです。
  従って、龍と周が命により残留させられたのなら、

  攪乱工作の密命を帯びていると疑うのは当然でしょう。


次からは通常のルートに戻ります。

実際にあった攪乱工作2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/09/10 18:33 投稿番号: [173 / 2250]
『ニューヨーク・タイムズ』(1938年1月4日号)

「元支那軍将校が避難民のなかに   ―   大佐一味が白状、南京の犯罪を日本軍のせいに」
と題する記事は、次のように言う。以下は全訳である。

《南京の金陵女子大学に、避難民救助委員会の外国人委員として残留している
アメリカ人教授たちは、逃亡中の大佐一名とその部下の将校六名を

匿 (かくま) っていたことを発見し、心底から当惑した。 実のところ教授たちは、
この大佐を避難民キャンプで二番目に権力ある地位につけていたのである。

この将校たちは、支那軍が南京から退却する際に軍服を脱ぎ捨て、
それから女子大の建物に住んでいて発見された。

彼らは大学の建物の中に、ライフル六丁とピストル五丁、砲台からはずした機関銃一丁に、
弾薬をも隠していたが、それを日本軍の捜索隊に発見されて、自分たちのものであると自白した。

この元将校たちは、南京で掠奪したことと、ある晩などは避難民キャンプから
少女たちを暗闇に引きずり込んで、その翌日には日本兵が襲ったふうにしたことを、

アメリカ人たちや他の外国人たちのいる前で自白した。

この元将校たちは逮捕された。
戒厳令に照らして罰せられ、恐らく処刑されるであろう。》

(東中野修道著『南京大虐殺の徹底検証』275p)



『チャイナ・プレス』(1938年1月25日号)は

  馬中将は安全地帯で反日撹乱行為を煽動

また、上海でアメリカ人の発行する『チャイナ・プレス』
(一九三八年一月二十五日号)も、同じことを報じている。

それによれば、十二月二十八日現在で、外国大使館や建物から、
支那軍の将校二十三名と、下士官五十四名、兵卒一四九八名が摘発された。

これは、十二月二十四日からの住民登録の結果でもあった。
つづけて『チャイナ・プレス』一月二十五日号は、

その前日公表された南京日本軍憲兵隊の報告書を引用する。


《その報告書の主張するところによれば、
彼らのなかには南京平和防衛軍司令官王信労 (ワンシンロウ:音訳) がいた。

彼は陳弥 (チェンミイ:音訳) と名乗って、
国際避難民地帯の第四部門のグループを指揮していた。

また、前第八十八師の副師長馬&#36305;香 (マーポーシャン:音訳) 中将や、
南京警察の高官密信喜 (ミシンシ:音訳) もいると言われている。

馬中将は安全地帯内で反日撹乱行為の煽動を続けていた、と言われる。

また、安全地帯には黄安 (ファンアン:音訳) 大尉のほか十七人が、
機関銃一丁、ライフル十七丁を持ってかくまわれ、

王信労と三人の元部下は掠奪、煽動、強姦に携わったという。》


・・・
注意すべきは、安全地帯の支那軍将兵たちは強姦の話を撒(ま) き散らしただけではなかった。
それを証明すべく、自ら 「強姦に携わった」 か、強・姦未遂に携わったことである。

そのような舞台裏を知っていたのであろう、支那人の中から、
強姦は支那軍がやったのだと証言する者が現れる。

東京裁判に提出されたマッカラムの一九三八年一月の日記は、

「支那人ノ 或ル者ハ 容易ニ掠奪・強姦及ビ 焼打等ハ 支那軍ガ ヤツタノデ、
日本軍ガ ヤツタノデハ無イト 立証スラ 致シマス」

(東中野修道著『南京大虐殺の徹底検証』276〜277p)

実際にあった攪乱工作1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/09/10 18:24 投稿番号: [172 / 2250]
松村俊夫著『「南京虐殺」への大疑問』154p

《『資料集②』の郭岐の手記
・・・
〈日本の獣兵は南京市を占領していたが、周辺のデマで日夜不安であり、
まるで針の延に座っているかのようだった。

あるとき、中央〔国民政府〕の便衣隊約五、六人が入城し、
中華路付近の地下室内に潜んでいた。

ちょうど五人の獣兵が三、四人の人夫をともなって北から南へやって来ていて、
わが便衣隊の近くに来た。

彼らはすぐさま発砲して獣兵を皆殺しにし、
四人の人夫に 「中央軍はすでに入城した」 と言って、人夫たちを安心させた。

この四人の人夫は常態を失して狂気乱舞した。
彼らは大あわてで道をかけ、途中、日本人・中国人を問わず、

人に会うごとに 「中央軍が来た!」「中央軍が入城した!」 と大声で叫んだ。
中華路からずっと難民区内まで叫び続けたので、町中にうわさが広がり、

みな疑心暗鬼になった。・・・〉》


*   これと符合する話がラーベの日記の一月八日の所にあります。


〈今日、中国人の間で、中国兵たちが南京を奪いかえそうとしているという噂が、
またもやひろまった。それどころか、市内で中国兵の姿をみかけた、という話まで出ている。

まず、安全区の家々に飾られていた小さな日の丸がそっくり姿を消した。
日本の腕章も。中国人のほぼ全員がつけていたのだが。

そしてつい今し方、ミルズが教えてくれたところによると、相当数の難民が
日本大使館を襲おうと考えていたという。

このときのささやかな暴動に加わった人たちは死刑になった。〉


もう一度   松村俊夫氏の『「南京虐殺」への大疑問』に戻りましょう。


136p
《ウィルソンの一月八日付の手紙にも次のような話がある。

〈南京市は絶えずでたらめの噂で一杯だが、
私たちはこうした噂をラジオでチェックしている。きょう面白い事件があった。

中国人の噂によると、中国軍が城門のところまで来ていて、
再び市を奪還しようとしているというのだ。

日本大使館に行って衣類の洗濯をしていた女性が数人、
手に大きな包みを抱えて家に帰ってきた。

彼女たちが大学に近づくと、日本人が大使館を出ていったので、この女性たちが
略奪品を持って帰ってきたというニュースが野火のように広まった。

たちまち一群の女性たちが略奪の分け前にあずかろうと、
有刺鉄線のある柵を乗り越えて入って行った。

由々しい事態が発生しないうちに彼女たちは大使館の建物の裏から、
中国人使用人に押し出されたという。〉   (①297頁)》



注:松村俊夫氏の言う資料集とは、青木書店刊『南京事件資料集』の事
   ①はアメリカ関係資料編
   ②は中国関係資料編

12月12日のラーベの日記 2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/09/09 17:41 投稿番号: [171 / 2250]
十八時半

《紫金山の大砲はひっきりなしに轟いている。あたりいちめん、閃光と轟音。
突然、山がすっぽり炎につつまれた。

どこだかわからないが、家や火薬庫が火事になったのだ。
紫金山の燃える日、それは南京最後の日。昔からそういうではないか。

南部から逃げてくる人たちが、安全区を通って家へ急ぐのが見える。
その後から中国軍部隊がぞろぞろつづいている。

日本軍に追われているといっているが、そんなはずはない。
いちばんうしろの連中がぶらぶらのんびり歩いているのをみればわかる。

この部隊は中華門、あるいは光華門で手ひどくやられ、
パニック状態で逃げてきたことがわかった。

しだいに落ち着き、最初は気が狂ったように逃げていたのが、
いつしかのんびりとした行進にかわっていた。

それはともかくとして、日本軍がもう城門の前まで攻めてきていること、
したがって最終戦が目前に迫っていることは、もはや疑いようがない。

・・・
夜の八時少し前、龍と周がやってきた。

ここに避難させてもらえないかといってきたので、私は承知した。
韓と一緒に本部から家に帰るまえに、この二人は、本部の金庫に三万ドル預けていた。

二十時

南の空が真っ赤だ。・・・。ふたつある門の両方でノックの音がする。
なかにいれてもらおうと、女の人や子どもたちがひしめいている。

ドイツ人学校の裏の塀を乗り越えてがむしゃらに逃げこんできた男たちもいる。
これいじょう聞いていられなくなって、私は門をふたつとも開けた。

防空壕はすでにいっぱいなので、建物の間や家の陰に分散させた。
ほとんどの人はふとんを持ってきている。

庭に広げてある大きなドイツ国旗の下で寝ようというちゃっかりした連中もいる。
ここが、一番安全だと思っているのだ。・・・


十二時ちょっとまえ、門のところでドシンというすごい音がした。
行ってみると友人のクリスティアン・クレーガーだった。
・・・

クリスティアンの話だと、メインストリートには、軍服や手榴弾、
そのほかありとあらゆる兵隊の持ち物がばらまかれているという。

中国軍が逃走中に投げ捨てたものだ。
・・・

真夜中になってようやくいくらか静かになった。私はベッドに横たわった。
北部では、交通部のりっぱな建物が燃えている。
・・・

夜の九時に龍が内密で教えてくれたところによると、唐将軍の命により、
中国軍は今夜九時から十時の間に撤退することになっているという。

後から聞いたのだが、唐将軍は八時には自分の部隊を置いて船で浦口に逃げたという。


それから、龍はいった。「私と周の二人が負傷者の面倒をみるために残されました。
ぜひ力を貸していただきたいんです」本部の金庫に預けた三万ドルは、

このための資金だという。私はこれをありがたく受け取り、協力を約束した。》



*この二人は、便衣隊による攪乱工作の密命を受けているかもしれない。
次回は、そう疑う根拠を示します。そして、その後で本来のルートに戻ります。

12月12日 下関(シャーカン) での悲劇

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/09/08 18:50 投稿番号: [170 / 2250]
宋希濂の回顧録 『鷹犬将軍』 より

《わが方は第八十三軍 (広東軍、訒竜光) が命令通り、
棲霞山付近にいた敵軍の前を迂回して脱出に成功しただけで、

他はすべて下関に押し寄せ、勝手放題に船を求めて殺到した。

このことが、十二日夜、ユウ江門、下関一帯に極度の混乱を招き、
戦史の上でも稀にみる、一大悲劇を招いた原因になった。


長江両岸を連絡する下関と浦口との間には、もともと二隻のフェリーが就航していた。
このフェリーは一回に七、八百人を乗船させることが可能で、一往復するのに、

四、五十分かかる。 午後五時には暗くなるので、夜明けまでに
十四時間航行することが出来 (昼間は空襲があるので航行出来ない=原註)、

もし防衛長官がこのフェリーを確保していれば、
少なくとも三万人の渡河が可能だったであろう。

しかし、彼等 (唐生智司令部) は、
この二隻のフェリーを既に漢口に行かせてしまっていた。


下関の船着き場に残っていたのは数隻のランチ (せいぜい、百馬力ほどのもの=原註)
と、二、三百隻の民船だけであった。

これだけ多くの人員が渡ろうとしていることと、船がこれだけしかないことが、
また悲惨な事件への導火線となった。

(その中で) 唐生智はすぐに渡河をはじめたが、
各部隊は指示通り前方突破には向わなかった。

教導総隊 (桂永清)、八十七師 (王敬久)、八十八師 (係元良)、七十四軍 (兪済時)、
六十六軍 (葉肇・広東軍)、それに南京警察などは、

中山路に沿ってユウ江門を抜けて下関にゆこうと先を争って、誰も譲らなかった。
ユウ江門を守っていた三十六師 (宋希濂) と激しい衝突となり、混乱は頂点に達した。


下関はさらに混乱、船は少なくなった。それでも人びとは船を奪い合い、勝手に発砲した。
船は重量に耐えられず、長江の半ばで転覆するものや、河に漕ぎ出した船を撃って、

民船を沈没させる者もいた。   まさに、地獄絵そのものだった。
多くの将兵は、商店の扉や門の板を外して、速成の筏 (いかだ) を作ったりしたが、

長江の流水を制御することが出来ず、転覆する者、溺死する者も、
千百人 (百人が千ある。つまり 「沢山」 の意味) を越えた。

悲しみの声と救いを求める声は南北両岸に響き、嘆きの感情は鬼哭 (きこく) に充ちて、
人の世の惨劇を呪っているようだった。

(鈴木明著『新「南京大虐殺」のまぼろし』261〜262p)



児島襄著『日中戦争4』217p

敗兵たちは、ロープ、ゲートル、ベルト、さらには軍服をひきさいて急造した綱で
城壁外におりたが、夢中で飛びおりて死ぬ者もいた。

ようやく下関にたどりつくと、埠頭は渡船をもとめる市民 (?) と将兵の争乱場である。
「江面雖有少数船舶、因統制無人、多被争奪士兵撃沈、亦有装載過重沈没者、状至悽惨」

と、中国側 「抗日戦史」 も記録しているように、乗れぬと思った兵は船に発砲し、
乗れたとしても定員過剰で沈没し、つめかける群集におされて水中に転落する者もあり、

江上と江岸は阿鼻と叫喚につつまれた。》



市民は安全区に避難しているのに、何で危険な城外にいる?
船で逃げられる者は、何日も前に逃げている。

南京にいる者は金がなく、逃げ出せなかった者ばかり。
しかも門を塞ぎ、兵隊が邪魔しているから出られない。

この市民とは、平服に着替えた兵士ではないのか?


それは、ともかく、このようにして、ユウ江門と下関周辺には大量の死体ができ、
揚子江には大量の漂流死体が浮かんだ。

これを、後から来た、善人心の日本人は、日本軍が殺したと思いこむ。

12月12日 混乱と地獄絵の南京城内

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/09/07 18:43 投稿番号: [169 / 2250]
《児島襄著『日中戦争4』216〜217p

首都衛戍司令官唐生智が、首都放棄命令をだす前から、城内には城外からの敗兵の
流入がめだち、逃散にそなえて食糧を確保すべく食料品店をおそう中国兵がふえていた。

揚子江を背にして包囲された南京では、容易に想いうかぶ脱出点は下関埠頭である。
退却命令が発出される数時間前から、すでに隊伍をくんで下関にむかう中国兵の姿がみられた。

中山路にはいると次々に武器をすて、街路は小銃、手榴弾、銃剣、背嚢、さらには機銃、
火砲、乗用車、トラック、荷馬車でおおわれた。

後続する兵は、それら兵器を路の両側に蹴り寄せ、その上に自分の武器をほうり投げ、
動かぬ車輌には放火した。

ほとんどの兵が軍服をぬいで便衣に着がえ、便衣を持たぬ者は、
避難をいそぐ市民の衣服をはぎとり、中にはハダカのまま走りだす兵もいた。



程奎朗参謀の回想、『南京戦史資料集Ⅱ』から。

《中山北路の海軍部の前に行くと、第三六師の部隊がいて道路上に機関銃を置いて
交通を封鎖し、南から来る部隊の通過を許さない。(略)

中山北路上に、車輌や部隊が一杯になって潮のようにユウ江門に殺到し、
城を出る人たちは先を争い、

前に押し後に引き、ある者は踏み倒され、おじいさん、おばあさんと叫ぶ。

第三六師の歩哨は城門の胸墻 (きょうしょう) 上に機関銃を置き、大声で
〝押すな、押すと射つぞ!〟と叫ぶが、人々は依然押し合っていた。》

(東中野修道著『南京大虐殺の徹底検証』81p)



石田勇治   編集・翻訳『資料ドイツ外交官の見た南京事件』31〜32p

数人の将校が退却する大群の行く手に立ちはだかり、制止した。
怒声が響き、ピストルの銃声が鳴った。

兵士はいやいや向きを変え、重い足取りでふたたび前線に向かい始めた。
だが、長くは続かなかった。

三〇分もしないうちに、中国軍の士気が衰え、全軍の潰走が明らかとなった。
・・・

主な退却路となった中山路からほんの数ヤード隔った百万ドルの交通部庁舎に
兵士が火を放つと、地獄絵図は激しく幕を開けた。

そこは臨時の弾薬庫として使用されていたが、炎がその砲弾・爆薬庫に達すると、
恐ろしい爆音が夜空に鳴り響いた。

銃弾と砲弾の破片は鋭い音をたてて頭上を飛び交い、
河岸へ向かう道をひしめき合いながら進む群集の恐怖と混乱を煽った。

燃えさかる庁舎は巨大な炎を噴き上げ、物凄い熱を放った。
パニックに陥った群集の行列は遅々として進まず、交通は渋滞した。

大砲、トラック、オートバイ、荷馬車がひどい混乱のなかで玉突き衝突を起こし、
うしろからは前へ前へと押し寄せてくるのだった。

兵隊は死に物狂いで道を空けようとしていたが、徒労であった。
路上の集積物に火が燃え移り、幹線道路をふさぐ炎の障壁をつくった。

・・・
燃え盛る障害物を迂回し命からがら下関門に辿りついた者が見た光景は、
ただ残骸と死体で塞がれた門の姿であった。


東中野修道著『南京大虐殺の徹底検証』82p

ダーディンは昭和六十二年に、・・・語った。『南京事件資料集①アメリカ関係資料編』
によれば、脱出せんとする支那兵がユウ江門で衝突し合った。

そして「踏みつけ」あって、死骸の山ができた。

同じくスティールも、大勢の兵士がユウ江門から脱出しようとして 「圧死」 したと、
昭和六十一年に初めて真相を語った。》



交通部には、ラーベたちが大量の難民を収容していた筈。
炎と大爆発では助からないだろう。彼らによる大虐殺は無視される。

12月12日 唐生智 南京脱出

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/09/06 16:11 投稿番号: [168 / 2250]
宋希濂の回顧録『鷹犬将軍』より

十二日午後二時、防衛司令長官部 (唐生智) からわが師 (三十六師)
に対して、次のような指示があった。

①   下関から (長江を渡って、対岸の) 浦口 (ほこう) ヘのルートは、
   わが軍の唯一の交通路であり、あらゆる手段で秩序を維持しなければならない。

   従って三十六師以外の部隊将兵や逃亡兵などが勝手に集まることを厳禁する。

②   第七十四軍 (兪済時) は上河鎮で敵と戦っているが、城内との連絡は漢西門
   (鈴木氏注:漢中門、の間違いではないか) を通じて行い、

   七十四軍は、三サ河を渡って、下関に行くことを禁止する。

④   宋希濂部隊はユウ江門から下関に到る一帯に即時戒厳令を実施、
   一切の (他部隊の)活動を禁止せよ。

四時頃になると、七十四軍は三サ河に浮き橋をかけ、
下関に渡ろうとしたが、唐生智の命令によって、止められた。

(五行略)

午後五時、唐生智はもはや戦局が逆転出来ないことを認め、師長以上の将領を集めて、
分散して包囲を前面突破する計画を提出し、参会者にも異議はなく、

命令書が各人に配られて、会議は二十分で終った。

この命令によると、

①ユウ江門から下関の線を守っていた三十六師 (宋希濂) は、唐生智の長官公署の
   直属部隊の渡河掩護を行い、その実行完了後に、(三十六) 師が続いて渡河する。

②その他の部隊は、一切渡河することを許さず、すべて長官部の指定した方向、即ち、

   広徳 (十一月三十日、四川軍が放棄した地点)、

   宜 (ぎ) 城 (十二月七日、陳誠軍が放棄した地点)、

   蕪湖 (十二月十日、日本軍国崎支隊はこの地で長江上流を越え、ほとんど戦う
     ことなく十二月十三日には、下関の対岸、浦口の近くまで迫っていた)

の方向に向って日本軍の間を抜けて強行突破せよ、という内容であった。

ところが、わが方は第八十三軍 (広東軍、訒竜光) がこの命令通り、
棲霞山付近にいた敵軍の前を迂回して脱出に成功しただけで、

他はすべて下関に押し寄せ、勝手放題に船を求めて殺到した。

このことが、十二日夜、ユウ江門、下関一帯に極度の混乱を招き、
戦史の上でも稀にみる、一大悲劇を招いた原因になった。

(鈴木明著 『新 「南京大虐殺」 のまぼろし』 260〜261p)

12月12日のラーベの日記 1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/09/05 16:09 投稿番号: [167 / 2250]
十二月十二日

日本軍はすんなり占領したのではないかという私の予想はみごとにはずれた。
黄色い腕章をつけた中国人軍隊がまだがんばっている。

ライフル銃。ピストル。手榴弾。完全装備だ。警官も、規則を破ってライフル銃をもっている。
軍も警察も、もはや唐将軍の命令に従わなくなってしまったらしい。

これでは安全区から軍隊を追い出すなど、とうていむりだ。
朝の八時に、再び砲撃が始まった。


十一時に唐将軍の代理だといって龍上校と周上校がやってきた。
三日間の休戦協定を結びたい、ついてはその最後の試みをしてもらえないかという。

休戦協定の内容は ― この三日間で、中国軍は撤退し、日本軍に町を明け渡す。

われわれは、まずアメリカ大使あての電報、つぎに調停を依頼する唐将軍の手紙
(大使に電報を打つ前に、唐がこれをわれわれに出さなければならない)、

最後に軍使に関するとりきめを、まとめあげた。   軍使は、白旗に守られて、
前線にいる日本軍の最高司令官にこの手紙を渡さなくてはならない。

シュペアリングが、軍使をつとめようと申し出た。
龍と周が唐将軍の手紙をもって戻ってくるのを、昼の間じゅういまかいまかと待っていた。


夕方六時近くになってようやく龍が姿を見せた。
龍は言った。

「残念ながら、せっかくの努力が水の泡でした。
すでに日本軍は城門の前まで攻めてきているため、時すでに遅し、とのことです」

だが私はショックを受けなかった。
こうなったのを悲しいという気持ちさえわかない。

はじめから気にくわなかったからだ。唐の魂胆はわかっている。
蒋介石の許可を得ずに休戦協定を結ぼうというのだ。

だから、日本軍あての公式書状で、「降伏」 という言葉を使われては具合が悪いのだろう。

なにがなんでも、
休戦願いはわれわれ国際委員会の一存だと見せかけなければならないというわけだ。

要するに、われわれの陰に隠れたかったんだ。
蒋介石や外交部がこわいからな。

だから国際委員会、ないしはその代表であるこの私、
ラーベに全責任をおしつけようとしたんだ。汚いぞ!



続きは順番の都合   あとで。

12月12日 陸海軍の動き

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/09/04 18:32 投稿番号: [166 / 2250]
上海派遣軍においては、

第十六師団が、・・・十二日紫金山頂を南北に連ぬる線を占領した。
山田支隊は、十二日鎮江出発、烏龍山方向に向かう。

第九師団右翼隊は、・・・十二日城壁に近迫したが、幅の広い水濠
(この付近の水幅は約二〇〇米) に出会ったので、この渡河準備を実施した。

左翼隊の、雨花台東端を攻撃した部隊は頑強に抵抗する敵を逐次撃破したが、
十二日朝、態勢整理のため、旅団命令により攻撃を一時中止した。


第十軍においては、

第百十四、第六師団を並列して雨花台方向に攻撃・・十二日、
両師団は城壁の一部を占領した。

(戦史叢書『支那事変   陸軍作戦1』428〜429p)



海軍の揚子江啓開
  十二日の経過   烏龍山下流まで進撃

烏龍山付近下流まで右岸は陸軍天谷支隊の一部が進出して残敵掃蕩中であるが、
左岸一帯は敵陣地であり、遡江部隊の進撃を極力阻止せんとする模様であった。

近藤指揮官は前衛部隊 (二見、熱海、掃六、掃一、掃三.掃四号)、
主力部隊 (山風、海風、江風、安宅、掃二、掃五号) の順に

08:30 進撃を開始、鎮江から下江して来た 「保津、比良、勢多」 と共に、
都天廟砲台及び付近の残敵の猛射を反撃、

かつ途中左岸一帯の敵陣地密集部隊と交戦、
これを撃破制圧しつつ全軍一丸となって砲台下を強行通過した。

この間、神川丸機及び陸軍天谷支隊の有効な協力があり、
猛烈な機銃の反撃はあったが、砲台は沈黙を守っていた。


10:10 ころ、令により 「掃六、掃三号」 は掃海具を揚収して分離し、
先頭部隊の 「保津、勢多」 に合同、烏龍山水道に急速進出し、

閉塞線の偵察及び同付近下流の泊地掃海を実施することとなった。
陸岸の敵陣地を砲撃しつつ前進し

12:30 ころ烏龍山閉塞線付近に到着し予定作業に移ったが、
北岸の劉子口付近から野砲、機銃、小銃の猛射を受け、これと交戦した。

この際 「保津」 は命中弾を受け左舷機故障、「掃六、掃三号」
も敵弾の集中砲火を受け、掃海不能となり 12:30 ころ掃海索を一時投棄した。

更に掃六号は後部艦橋に、掃三号は艇長室水線付近に、それぞれ被弾し負傷者発生、
一時避退し応急修理を行った。15:30ころ、主隊は閉塞線付近に到着した。

第二十四駆逐隊並びに神川丸機及び二聯空機は、烏龍山砲台及び北岸陣地の砲爆撃を実施した。


同夜、23:00 ころから諸岡少佐指揮の工作隊は安宅の高速艇に乗り、
「勢多」 掩護の下に閉塞線に接近し、閉塞船をつなぎとめていたワイヤーを切断し、

箱舟やジャンクを取り除き、約三時間後幅三〇〇米の可航水路を啓開した。

(戦史叢書『中国方面海軍作戦1』466〜467p)

百人斬り記事 第4号

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/09/03 18:48 投稿番号: [165 / 2250]
〔昭和12年12月13日   東京日々新聞朝刊〕
百人斬り〝超記録〟向井 106−105 野田/両少尉さらに延長戦

《 [紫金山麓にて十二日浅海、鈴木両特派員発]

南京入りまで〝百人斬り競争〟といふ珍競争を始めた例の
片桐部隊の勇士向井敏明、野田巌 (ママ) 両少尉は

十日の紫金山攻略戦のどさくさに百六対百五といふレコードを作つて、
十日正午両少尉はさすがに刃こぼれした日本刀を片手に対面した

野田   「おいおれは百五だが貴様は?」
向井   「おれは百六だ!」……

両少尉は

〝アハハハ〟結局いつまでにいづれが先に百人斬ったかこれは不問、結局
「ぢやドロンゲームと致さう、だが改めて百五十人はどうぢや」

と忽ち意見一致して十一日からいよいよ百五十人斬りがはじまつた、
十一日昼中山陵を眼下に見下ろす紫金山で敗残兵狩真最中の向井少尉が

「百人斬ドロンゲーム」 の顛末を語つてのち

知らぬうちに両方で百人を超えていたのは愉快ぢや、
俺の関孫六が刃こぼれしたのは一人を鉄兜もろともに唐竹割にしたからぢや、

戦ひ済んだらこの日本刀は貴社に寄贈すると約束したよ

十一日の午前三時友軍の珍戦術紫金山残敵あぶり出しには俺もあぶりだされて
弾雨の中を   「えいまゝよ」 と刀をかついで棒立ちになってゐたが一つもあたらずさ

これもこの孫六のおかげだ
と飛来する敵弾の中で百六の生血を吸った孫六を記者に示した。》



向井少尉は、まるで、スーパーマンのように描かれているが、
当の向井少尉は丹陽で負傷し入院している。

弾に当たらないどころか、とっくに当たっている。
しかも、まだ入院中だから、この場にいない。



『「百人斬り競争」の虚報を証明した野田少尉の手記』
《・・・・
野田ハ   麒麟門東方ニ於テ   記者ノ   戦車ニ添乗シテ来ルニ   再会セリ

記者「ヤアヨク会ヒマシタネ」

野田「記者サンモ御健在デオ目出度ウ」

記者「今マデ   幾回モ打電シマシタガ   百人斬競争ハ   日本デ大評判ラシイデスヨ。

    二人トモ百人以上   突破シタコトニ   (一行不明)

野田「ソウデスカ」

記者「マア其ノ中   新聞記事ヲ楽ミニ   シテ下サイ、サヨナラ」

瞬時ニシテ記者ハ   戦車ニ搭乗セルママ   去レリ。


当時   該記者ハ   向井ガ   丹陽ニ於テ   入院中ニシテ   不在ナルヲ   知ラザリシ為、

無錫ノ対話ヲ   基礎トシテ   紫金山ニ於イテ   向井野田両人ガ談笑セル記事   及

向井一人ガ   壮語シタル記事ヲ   創作シテ   発表セルモノナリ。》

(『正論』2001年8月号   336p)

12月12日 第16師団佐々木支隊の戦い

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/09/02 18:39 投稿番号: [164 / 2250]
佐々木倒一少将の日記
  十二月十二日

終夜咳が甚しくて睡つては醒めして安眠が取れず、
一個月来の作戦に疲労したからだにはかなりこたへた。

早朝起きて見たが頭が割れるばかりに痛みどうにもならず、
重大時期にと考へて見ても重い頭はやはり重い。

「副官、困つたな。これでは何も考へられん」
「お休みください、ご計画通り吾々でやりますから」
「うむ」

藁 (わら) の中に寝転んで見たが激しい銃砲声を聞いては寝ては居れない
午前十時頃に至り遂に意を決して飛出し銀孔山に指揮所を進めた。


塹壕やその後方の斜面は実に夥 (おびただし) しい敵の死体である。

部隊は昨夜命じた部署に就いて曹長から敵の主陣地帯を攻撃してゐる、
今日中に之を攻略しなければ敵の退路を遮断することができない。

そう考へるから病気なんかの為寝てはゐられなかつたのである。


見ると前面近くの高地に三八長が突ッ立つて督戦してゐる、(やつて居るな) 併 (しか) し
予は直ぐさま電話を以て 「軽挙はするな」 と云つてやつたのである。

指揮官の勇敢なる態度は必要であるが、高い姿勢は敵弾を吸収する、
そして損害を受けるものは周囲にゐる者である。

だがこゝにも高い姿勢が敵陣地を注視してゐ敵の小銃弾が盛んにやつてくる。
鳥竜山砲台から又撃つてくる、高地の稜線後にゐても砲台からは丸見えである。

又この砲台の高射砲は最後迄我軍の飛行機を射撃してゐた、
三門斉発の射弾が丁度吾々の頭上に炸裂するのを凄〃見た。

我十加 (10センチ・キャノン砲か?) が一万米の射距離で制圧射撃を始めた。
観測所が現在同じ所に在るので砲撃の結果を刻〃知ることができる。

命中弾を得たと云つてゐた。
紫金山北麓の敵野砲も亦盛に撃つてきた。


第一線歩兵の攻撃は幸に着々進捗、

遺棄死体等に依つて判断するに我支隊当面の敵は第七十八帥と四十八帥の一部であるらしい、
数倍の敵を刻〃圧迫しつゝあるのであるから痛快である。

正午頃我右翼前方に在つた敵を撃退し得たのでこゝに再び左旋回を行ひ
南京城北側地区に進出することに決した。

一時頃堯化門 (地名) 附近の雑樹林に於て転身に関する命令を下した後行動に就く、
然るに該地を去つて五分間も経たぬうちに敵の迫撃砲弾が予の立つてゐた土饅頭に命中、

それをふッ飛ばした。


紫金山北麓を前進して是より先敵既設陣地の攻撃を開始した歩三三の第一大隊は
多数の死傷者を生じつゝも敵を圧迫してゐるので、

これを拠点として我支隊主力は左旋回を為さねばならぬ、
然るにその進路は砲兵の前進に適せずとの砲兵斥候の報告であり

砲兵大隊長も不可能であるとの意見なる故砲兵を堯化門に残し
歩兵のみを以て前進することに決した。

本道から畑の中の間道に入つて間もなく忽ち石橋の落とされてゐるのに会ひ、
工兵小隊に依つて修理を加へる間、兎も角歩兵の各部隊殊に山砲は苦辛しつゝ畑の中に進入する。
・・・

午後三時頃紫金山北麓岔路口附近の敵撤退す、戦は勝ったとの感がする、
しかし正面の敵はまだ頑張つてなかなか撃退することはできない。

夕刻興街村着、紫金山の裾の寒村。一小隊を直ぐ左の高地に上げて左翼を警戒、
前面からは小銃弾がプスプスやつてくる。

12月12日 南京攻防戦

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/09/01 18:48 投稿番号: [163 / 2250]
児島襄著『日中戦争4』

《210〜211p

第二十三連隊の右の第四十七連隊第一大隊の先頭第三中隊 (三明保真大尉) が、
中華門西側城壁の前の水濠で待機していた。
・・・

水濠の幅は、この付近では約四十メートル、深さは約二メートル。
・・・
中隊長三明大尉が苦慮していると、偶然に小舟が流れてきた。
見酉公夫上等兵がハダカになって寒流にとびこみ、舟をひっぱってきた。

・・・
舟には櫓(ろ) も櫂(かい) も付属していなかった。

旗竿で舟をおしだし、そのあとを水野上等兵が泳いで竹ハシゴを対岸に渡した。
ハシゴは二本。四メートルと六メートルの長さである。

この二本をつないで城壁にたてかけ、
不安定にゆれるハシゴをまず粟津一等兵がのぼりはじめた。

中国側は手榴弾を投げ、銃撃して登壁阻止にはげみ、
粟津一等兵は右腕に貫通銃創をうけて転落した。

安東軍曹が代り、中津留伍長がつづき、二人はハシゴの長さがたりない城壁を、
壁面にはえているツタ、木の根をつかみ、

あるいはゆるんでいる煉瓦をぬいて足がかりにして、城壁上に立った。

212p
二人は、銃に日章旗を結びつけている。
・・・

中国軍は逆襲し、決死隊のうち安東軍曹、真鍋、寺山一等兵は戦死した。
江口一等兵も負傷し、中津留伍長一人が敵の機銃をうばって奮戦した。

第二小隊第一分隊長白石躬喜雄軍曹が、水濠をわたって城壁下の民家に放火し、
煙幕展張にかえた。軍曹は戦死したが、

この即席煙幕のおかげで第三中隊は続々と城壁にのぼり、拠点を確保した。
・・・

213p
第二十三連隊第三大隊も、十五センチ榴弾砲の支援をうけて城壁にせまり、
午後四時四十四分、第九中隊が、工兵が人柱でささえる仮橋をわたって西南角城壁を占領した。

・・・
第九、第十六師団方面はいぜんとして苦戦がつづき、第九師団第三十六連隊は
催涙ガス弾攻撃をうけた。
・・・

214p
第六十六連隊主力は、中華門突入をこころみたものの、
門扉を破壊できずに攻撃を中止した。

第六師団地区では、第十三連隊が奮起していた。師団の攻撃主力三個連隊のうち、
第十三連隊だけが城壁に日章旗をたてずに夜をむかえたからである。

第一大隊長十時和彦中佐は、第二中隊長松本正雄中尉に 「正子」(午前零時) を
期して中華門城壁を突破せよ、と命じた。

この夜は陰暦十一月九日。
前半夜は月があるので、月が沈んでからの攻撃を企図したのである。

目標の城壁は、第四十七連隊の右側にあたり、第二中隊は、吉住義継少尉指揮の突撃隊を
先頭にして、工兵が立ち泳ぎしながらささえる渡橋をわたり、未明に城壁を占領した。

しかし、こうして南京城の南壁は日本軍の軍靴に制圧されたが、他の囲壁は健在にみえた。
「我ガ砲兵   射撃ヲ開始セバ、敵砲兵   沈黙シ、我射撃ヲ   中止セバ、彼レ又射撃ヲ   開始セリ」

という状況がつづき、南京城攻略には、なお一日の力攻が必要だと判断された。》



ここで注目すべきは、中国軍が 「催涙ガス」 を使っていたということです。
もし日本軍が、同じ物を使ったら、「毒ガス」 使用と、毒々しく宣伝されたでしょう。

12月12日の外国船爆撃・パネー号沈没

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/08/31 18:50 投稿番号: [162 / 2250]
石田勇治   編集・翻訳 『資料ドイツ外交官の見た南京事件』 大月書店

《5p
一二日の日曜日・・・午後には浦口が、中国軍部隊の退却を阻止しようとした
日本軍爆撃機による空襲を延々と受けた。

そのさい、ハルクを含むほぼすべての英国船舶が甚大な損害を被った。
また日本軍の武装モーターボートも現われたが、もっぱら河の中央を航行していた。


11日からの続き
16〜17p

接触はまず一二日の朝、日本軍の奇襲砲撃のさなかにおこなわれた。
この砲撃で英国人水兵一名が命を落とし、オドネル大佐も右手の指一本を失った。

しかし英国人たちは、こうした日本軍の前代未聞の挑発行為にもめげず交渉を続け、
その席で蕪湖の橋本大佐から、

長江上の全船舶にたいして砲撃命令が下っていることを聞き出した。
この告白は、日本側にとってはこのうえなく都合の悪いものとなった。

降臨節の第三日曜日〔一二月一二日〕は、光り輝く朝日をあびて穏やかに明けた。

午前中、引き船と平底船に乗った日本軍歩兵たちがわれわれの近くで上陸し、
[いつものように] 岸辺とジャンクで無実の民間人を数名殺害した。

その後、かれらは停泊中のわれわれの船団の周囲を航行したが、
それはわれわれが中立的で平和的な船団であることを確信する絶好の機会となった。


この少し前、パナイ号はスタンダード・オイル社の三隻の米国タンカーとともに
そばを通過し、われわれの視界の及ばない上流の和県付近に停泊した。

日本軍上陸部隊がわれわれの船団を視察した後、
もはやこれ以上の襲来の危険はないと思っていた。

しかし、予想外にも一三時三〇分、突然何の通告もなく、
日本軍爆撃機三機がハルクにつながれていた大きくて豪華な標的、

黄浦号に三回攻撃を加え、地上約三〇〇メートルまで降下して爆撃した。

九発の爆弾   −   そのうち一発は不発弾   −
が直撃弾とならなかったことは奇跡というほかない。

しかし風圧と破片で黄浦号と、とくにハルクに甚大な被害がでた。


この攻撃の後、クリケット号のアシュビー海軍大尉   −
いまや軍務歴最長の英国将校   −   は外国人をただちにハルクと黄浦号から

砲艦クリケット号とスカラブ号に移し、集結していた船団を散開するよう命じた。
われわれが小さな引き船に乗って黄浦号からクリケット号に乗り移ったとき、

日本軍の無法きわまりない爆撃機がふたたび飛来し、
〔英国〕アジア石油会社のタンカーの船尾すれすれに六発の爆弾を投下した。

ついにアシュビー海軍大尉は、自らの責任において、二隻の砲艦から砲撃を開始した。
機関銃各二丁、小速射砲各二砲、三インチ砲各二砲による攻撃である。

ただし、六インチ砲は対空防衛には不適なため使用しなかった。その断固とした
責任感あふれる行為によってアシュビー海軍大尉は、英国船団を恐るべき運命から守った。


だがこのとき、数マイル上流の米国人はまさにその恐るべき運命に見舞われていたのである。

一六時一〇分の三回目の攻撃で、日本軍は四個の爆弾   −   今回は迎撃されたため
目標からだいぶそれた   ―   を投下した。

これでわれわれは総計一九発の爆弾を頂戴した。
日本軍砲兵隊はこの前日には黄浦号に二四発の砲撃を加えていた。》



この爆撃機は海軍機です。

この日   他に、英国砲艦レディバード号が陸軍から砲撃を受け、
米国砲艦パナイ (パネー) 号は16時過ぎの海軍機空襲の後   沈没しました。

この事により、外国人の対日感情が悪くなります。

12月11日 陸海軍の動き

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/08/30 16:42 投稿番号: [161 / 2250]
上海派遣軍

第十三師団は、十一日、一部をもって図山要塞を奪取し、主力は同日鎮江に集結し
渡河を準備した。     (戦史叢書『支那事変   陸軍作戦1』424p)

軍司令官は、第十六師団の右翼方面の攻撃を容易にしかつ敵の東方に向かう退路を
遮断するため、十一日、渡河のため鎮江に待期中であった第十三師団の山田支隊を

南京北側に派遣して烏龍山及び幕府山砲台を攻略するよう部署した。

第三師団は、十一日、軍命令に基づき先遣隊を第九師団の左翼に進出させた。
(戦史叢書『支那事変   陸軍作戦1』428p)


第十軍
十一日、軍司令官は第十八師団を杭州攻略に参加させるため、南京に向かう追撃を中止し、
主力を太平、蕪湖の間に集結させた。

国崎支隊は、十一日、同地北方慈湖鎮付近で揚子江を渡河し左岸に移動した。
(戦史叢書『支那事変   陸軍作戦1』425p)



海軍の揚子江啓開

十一日の経過
鎮江下流右岸は我が陸軍部隊の進出により、残敵はおおむね掃蕩された模様であった。

「掃一、掃三号」 (一掃第三小隊) は 07:00 泊地発、「山風、海風」 の前路を掃海し、
大港鎮まで嚮導した後、亀山から裕龍洲立標までの深海を実施した。

また田村一掃司令は第一、第二小隊の掃海艇四隻を率い 09:00 泊地発、
主隊の前路を掃海し、裕龍洲下端付近まで進出した。

14:00 ころ、第二十四駆逐隊及び 「安宅」 からの派遣陸戦隊は尹公洲及び
その対岸に上陸、管制機雷衛所及び電纜を捜索したが、成果なく、18:00 ごろ打ち切った。

また右岸に上陸した陸戦隊は、陸軍部隊と協力、焦山を占領した。


「保津、勢多、二見、熱海、比良」 並びに一掃各艇は、16:25 泊地発、
丹徒水道を探海しつつ遡 (そ) 江し、都天廟狭水道付近に達するや、

都天廟砲台 (十二糎 (センチ) 砲四門) 及びその東方陣地から猛烈な射撃を受けた。

これに対し、16:30 第二十四駆逐隊各艦は掩護射撃を開始し、神川丸機も協力爆撃を行った。
各艦艇は弾雨の中、掃海を続行し、17:00ころ都天廟敷設線を掃海突破した。

拘束機雷はなかった。
本戦闘において各艦艇の船体各部に機銃弾が命中したが、人員その他被害はなかった。

なおこの日 「比良」 は捕虜から焦山方面に機雷は敷設してない旨の情報を得た。

同艦に続き 「勢多、保津」 が焦山南水道を突破して鎮江に突入、18:00 桟橋に横付けした。
この日、第一水雷隊 (隼、鵯欠) は第一警戒部隊に編入され、「栗」 が除かれた。

(戦史叢書『中国方面海軍作戦1』465〜466p)

ラーベの日記 12月11日

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/08/29 16:50 投稿番号: [160 / 2250]
  十二月十一日   八時

水道と電気が止まった。だが銃声は止まらない。ときおり、いくらか静まる。
次の攻撃にそなえているのだ。どうやらこれがうちの 「ペーター」 のお気に召したらしい。

さっきから声を限りに合奏している。
からす (ラーベ) よりカナリアのほうが神経が太いようだ!

爆音をものともせず、道には人があふれている。この私より 「安全区 (セーフティ・ゾーン)」 を
信頼しているのだ。ここはとっくにセーフでもなんでもないのだが。

いまだに武装した兵士たちが居すわっているのだから。いくら追い出そうとしてもむだだった。
これでは、安全区は非武装だと日本軍に知らせたくともできないじゃないか。

  九時
ついに安全区に榴弾が落ちた。

福昌飯店 (ヘンペル・ホテル) の前と後ろだ。十二人の死者とおよそ十二人の負傷者。
このホテルを管理しているシュペアリングが、ガラスの破片で軽いけが。

ホテルの前にとまっていた車が二台炎上。さらにもう一発、榴弾 (こんどは中学校)。
死者十三人。


軍隊が出て行かないという苦情があとをたたない。
鼓楼病院の前に − ということは安全区側だ − 砦が築かれることになった。

だがこれを命じられた中国軍の将校は、通りの向こう側で作業するのを断ってきた。
事態を丸く収めようと、私はマギー牧師と一緒にその将校に会いに行くことにした。

山西路広場(バイエルン広場)を通りかかったとき、
広場の真ん中で兵士たちが穴を掘って隠れているのをみつけた。

角の家は軒並み兵士たちにこじ開けられている。目の前で次々とガラスや扉が壊されている。
なぜそんなことをするのだろう?   だれに聞いても、わからない、という!


けが人がひっきりなしに中山路に運ばれて行く。

砂袋、引き倒した木、有刺鉄線の柵でバリケードを作っているが、
こんなもの、戦車がくればひとたまりもないだろう。

鼓楼病院の前で例の将校に砦を築くように頼んだが、相手はおだやかな物腰ながら断固拒否した。
病院から龍に電話で報告すると、さっそく唐将軍に問い合わせるとの返事。

  十八時
記者会見。出席者は、報道陣のほかは委員会のメンバーのみ。
ほかの人はジャーディン社の船かアメリカの砲艦パナイで発ったのだ。


スマイスがいうには、目下名ばかりわれわれの配下にある警察が、
「こそ泥」 を捕まえ、その処分について聞いてきたという。

この件でちょっとばかり座がにぎわう。おそれ多くも裁判官までつとめることに
なるとは……。私もそこまでは考えていなかった。

われわれはまず、死刑を宣告し、恩赦により、と二十四時間の拘置にし、
留置場の不足によりやむをえず、とふたたび自由の身にしてやった。


午後八時、韓を呼び、家族をつれて寧海路五号の委員会本部に引っ越すようにいった。
あそこの防空壕のほうが安全だ。

しかもわが家は、いま日本軍から猛攻撃されている五台山のすぐそばなのだ。
私もいずれ引っ越そうかと考えている。夜は猛攻撃をうけるだろう。

それなのに韓はまだ家を出ていこうとはしない。
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