12月12日 下関(シャーカン) での悲劇
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/09/08 18:50 投稿番号: [170 / 2250]
宋希濂の回顧録 『鷹犬将軍』 より
《わが方は第八十三軍 (広東軍、訒竜光) が命令通り、
棲霞山付近にいた敵軍の前を迂回して脱出に成功しただけで、
他はすべて下関に押し寄せ、勝手放題に船を求めて殺到した。
このことが、十二日夜、ユウ江門、下関一帯に極度の混乱を招き、
戦史の上でも稀にみる、一大悲劇を招いた原因になった。
長江両岸を連絡する下関と浦口との間には、もともと二隻のフェリーが就航していた。
このフェリーは一回に七、八百人を乗船させることが可能で、一往復するのに、
四、五十分かかる。 午後五時には暗くなるので、夜明けまでに
十四時間航行することが出来 (昼間は空襲があるので航行出来ない=原註)、
もし防衛長官がこのフェリーを確保していれば、
少なくとも三万人の渡河が可能だったであろう。
しかし、彼等 (唐生智司令部) は、
この二隻のフェリーを既に漢口に行かせてしまっていた。
下関の船着き場に残っていたのは数隻のランチ (せいぜい、百馬力ほどのもの=原註)
と、二、三百隻の民船だけであった。
これだけ多くの人員が渡ろうとしていることと、船がこれだけしかないことが、
また悲惨な事件への導火線となった。
(その中で) 唐生智はすぐに渡河をはじめたが、
各部隊は指示通り前方突破には向わなかった。
教導総隊 (桂永清)、八十七師 (王敬久)、八十八師 (係元良)、七十四軍 (兪済時)、
六十六軍 (葉肇・広東軍)、それに南京警察などは、
中山路に沿ってユウ江門を抜けて下関にゆこうと先を争って、誰も譲らなかった。
ユウ江門を守っていた三十六師 (宋希濂) と激しい衝突となり、混乱は頂点に達した。
下関はさらに混乱、船は少なくなった。それでも人びとは船を奪い合い、勝手に発砲した。
船は重量に耐えられず、長江の半ばで転覆するものや、河に漕ぎ出した船を撃って、
民船を沈没させる者もいた。 まさに、地獄絵そのものだった。
多くの将兵は、商店の扉や門の板を外して、速成の筏 (いかだ) を作ったりしたが、
長江の流水を制御することが出来ず、転覆する者、溺死する者も、
千百人 (百人が千ある。つまり 「沢山」 の意味) を越えた。
悲しみの声と救いを求める声は南北両岸に響き、嘆きの感情は鬼哭 (きこく) に充ちて、
人の世の惨劇を呪っているようだった。
(鈴木明著『新「南京大虐殺」のまぼろし』261〜262p)
児島襄著『日中戦争4』217p
敗兵たちは、ロープ、ゲートル、ベルト、さらには軍服をひきさいて急造した綱で
城壁外におりたが、夢中で飛びおりて死ぬ者もいた。
ようやく下関にたどりつくと、埠頭は渡船をもとめる市民 (?) と将兵の争乱場である。
「江面雖有少数船舶、因統制無人、多被争奪士兵撃沈、亦有装載過重沈没者、状至悽惨」
と、中国側 「抗日戦史」 も記録しているように、乗れぬと思った兵は船に発砲し、
乗れたとしても定員過剰で沈没し、つめかける群集におされて水中に転落する者もあり、
江上と江岸は阿鼻と叫喚につつまれた。》
市民は安全区に避難しているのに、何で危険な城外にいる?
船で逃げられる者は、何日も前に逃げている。
南京にいる者は金がなく、逃げ出せなかった者ばかり。
しかも門を塞ぎ、兵隊が邪魔しているから出られない。
この市民とは、平服に着替えた兵士ではないのか?
それは、ともかく、このようにして、ユウ江門と下関周辺には大量の死体ができ、
揚子江には大量の漂流死体が浮かんだ。
これを、後から来た、善人心の日本人は、日本軍が殺したと思いこむ。
《わが方は第八十三軍 (広東軍、訒竜光) が命令通り、
棲霞山付近にいた敵軍の前を迂回して脱出に成功しただけで、
他はすべて下関に押し寄せ、勝手放題に船を求めて殺到した。
このことが、十二日夜、ユウ江門、下関一帯に極度の混乱を招き、
戦史の上でも稀にみる、一大悲劇を招いた原因になった。
長江両岸を連絡する下関と浦口との間には、もともと二隻のフェリーが就航していた。
このフェリーは一回に七、八百人を乗船させることが可能で、一往復するのに、
四、五十分かかる。 午後五時には暗くなるので、夜明けまでに
十四時間航行することが出来 (昼間は空襲があるので航行出来ない=原註)、
もし防衛長官がこのフェリーを確保していれば、
少なくとも三万人の渡河が可能だったであろう。
しかし、彼等 (唐生智司令部) は、
この二隻のフェリーを既に漢口に行かせてしまっていた。
下関の船着き場に残っていたのは数隻のランチ (せいぜい、百馬力ほどのもの=原註)
と、二、三百隻の民船だけであった。
これだけ多くの人員が渡ろうとしていることと、船がこれだけしかないことが、
また悲惨な事件への導火線となった。
(その中で) 唐生智はすぐに渡河をはじめたが、
各部隊は指示通り前方突破には向わなかった。
教導総隊 (桂永清)、八十七師 (王敬久)、八十八師 (係元良)、七十四軍 (兪済時)、
六十六軍 (葉肇・広東軍)、それに南京警察などは、
中山路に沿ってユウ江門を抜けて下関にゆこうと先を争って、誰も譲らなかった。
ユウ江門を守っていた三十六師 (宋希濂) と激しい衝突となり、混乱は頂点に達した。
下関はさらに混乱、船は少なくなった。それでも人びとは船を奪い合い、勝手に発砲した。
船は重量に耐えられず、長江の半ばで転覆するものや、河に漕ぎ出した船を撃って、
民船を沈没させる者もいた。 まさに、地獄絵そのものだった。
多くの将兵は、商店の扉や門の板を外して、速成の筏 (いかだ) を作ったりしたが、
長江の流水を制御することが出来ず、転覆する者、溺死する者も、
千百人 (百人が千ある。つまり 「沢山」 の意味) を越えた。
悲しみの声と救いを求める声は南北両岸に響き、嘆きの感情は鬼哭 (きこく) に充ちて、
人の世の惨劇を呪っているようだった。
(鈴木明著『新「南京大虐殺」のまぼろし』261〜262p)
児島襄著『日中戦争4』217p
敗兵たちは、ロープ、ゲートル、ベルト、さらには軍服をひきさいて急造した綱で
城壁外におりたが、夢中で飛びおりて死ぬ者もいた。
ようやく下関にたどりつくと、埠頭は渡船をもとめる市民 (?) と将兵の争乱場である。
「江面雖有少数船舶、因統制無人、多被争奪士兵撃沈、亦有装載過重沈没者、状至悽惨」
と、中国側 「抗日戦史」 も記録しているように、乗れぬと思った兵は船に発砲し、
乗れたとしても定員過剰で沈没し、つめかける群集におされて水中に転落する者もあり、
江上と江岸は阿鼻と叫喚につつまれた。》
市民は安全区に避難しているのに、何で危険な城外にいる?
船で逃げられる者は、何日も前に逃げている。
南京にいる者は金がなく、逃げ出せなかった者ばかり。
しかも門を塞ぎ、兵隊が邪魔しているから出られない。
この市民とは、平服に着替えた兵士ではないのか?
それは、ともかく、このようにして、ユウ江門と下関周辺には大量の死体ができ、
揚子江には大量の漂流死体が浮かんだ。
これを、後から来た、善人心の日本人は、日本軍が殺したと思いこむ。
これは メッセージ 169 (kireigotowadame さん)への返信です.