第2軍の脱出と訒竜光の敵中突破
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/09/12 16:19 投稿番号: [176 / 2250]
第二軍団の脱出成功
軍団長徐源泉は、首都衛戍司令との連絡がとれぬままに退却命令も知らずにいたが、
深夜、敗兵が陣内にまいこんできて報告した.
「南京己於本日午後失陥、下関江辺無船可渡」
軍団長徐源泉は、日本軍 (第十三師団) が烏龍山にせまっているが、
なお、同山と幕府山、南京の間は無事であり、
遡江している日本海軍部隊も烏龍山付近の揚子江閉塞線でストップしている事情を考え、
「保存戦力」 のために退却を決意した。
周家沙、黄泥湯の渡船場から渡河をはじめ、夜明けには、
主力は対岸にわたることができた。
日本海軍の遡江部隊である砲艦七隻、駆逐艦三隻を基幹とする第十一戦隊
(近藤英次郎少将) は、おりから烏龍山沖の閉塞線の除去作業をおこなっており、
中国軍第二軍団の脱出渡河は、その〝鼻先き〟を密行する形であった。
(児島襄著 『日中戦争4』 218〜219p)
訒竜光と第66軍・広東軍の敵中突破
『南京保衛戦』・・・ 劉紹武は書いている。
「十二日午後二時頃、唐生智から電話が入り、訒竜光に会議に来い、といわれる。
訒竜光は側近の陳文を連れて出かけると、五時頃、訒竜光から、
〝広東軍はすべて葉肇の下に入って、前線を突破して撤退する。
その第一として、広東軍はすべて太平門に集結せよ〟 と命令が入った。
このとき誰かが、大きな声で 〝逃げるんだ〟 と叫んだ。
この声で、多くの官兵は大混乱となった。
私 (筆者である劉紹武) はとりあえず五百万分の一の地図を持ち、
車で太平門に行こうとしたが、道は人の山で身動きも出来ない。
歩行で、暗くなった頃、やっと中央党部に着き、軍長の訒竜光とは会えたが、
師長の李江はいなかった。そして太平門に着いたのが午後八時である。
しかし、太平門は敵の進撃を封じるためにコンクリートで閉められていたので、
内側から外に出ることが出来なかった。葉肇の軍隊が、その障害物を爆破し、
とり除くのに懸命になっていた。
太平門に大挙集合した広東軍はいら立ち、
逆に外部からは日本軍がこの辺りに攻めてくるという情報もあって、
焦りは頂点に達する寸前だった。
午後九時を過ぎた頃、突然大声が起り、通路が開かれ、人が流れはじめた。
周辺は闇に包まれ、その中で人びとは先を争って城外に飛び出した。
弱者は倒れてふみつけられ、命を落し、強者はその上を通って、命を長らえた。
あとで私がきいたところによると、ある男は踏みつけられて下敷になり、
身につけていた手榴弾を投げつけて、周囲の者とともに自爆した、という。
惨劇のほどがうかがわれるであろう。
私は訒竜光とともに城外に出て、先頭部隊のあとを迫って公路を南下した。
しかし先頭部隊はたまたま日本軍との遭遇戦になり、葉肇軍の羅策群副師長は、
「几 (幾) 大就几大、唔好做哀仔呀」(これは、広東語特有の表現で、
「広東人の誇りを失わず、人に後ろ指をさされるようなことはするな」
というような場合に使われるらしい) と叫びながら戦死した。
(鈴木明著『新「南京大虐殺」のまぼろし』265〜266p)
児島襄著『日中戦争4』218p
第六十六軍長葉肇と第八十三軍長訒竜光は、脱出方法について協議・・・
太平門を出て紫金山の南をかすめ、
ちょうど日本軍第十六師団と第九師団の中間をすりぬける……。
第百六十師が太平門内側の土嚢を撤去して脱出を開始したが、
たちまち城外に敷設した自軍の地雷原で損害をうけ後続する部隊の足をすくませた。
軍団長徐源泉は、首都衛戍司令との連絡がとれぬままに退却命令も知らずにいたが、
深夜、敗兵が陣内にまいこんできて報告した.
「南京己於本日午後失陥、下関江辺無船可渡」
軍団長徐源泉は、日本軍 (第十三師団) が烏龍山にせまっているが、
なお、同山と幕府山、南京の間は無事であり、
遡江している日本海軍部隊も烏龍山付近の揚子江閉塞線でストップしている事情を考え、
「保存戦力」 のために退却を決意した。
周家沙、黄泥湯の渡船場から渡河をはじめ、夜明けには、
主力は対岸にわたることができた。
日本海軍の遡江部隊である砲艦七隻、駆逐艦三隻を基幹とする第十一戦隊
(近藤英次郎少将) は、おりから烏龍山沖の閉塞線の除去作業をおこなっており、
中国軍第二軍団の脱出渡河は、その〝鼻先き〟を密行する形であった。
(児島襄著 『日中戦争4』 218〜219p)
訒竜光と第66軍・広東軍の敵中突破
『南京保衛戦』・・・ 劉紹武は書いている。
「十二日午後二時頃、唐生智から電話が入り、訒竜光に会議に来い、といわれる。
訒竜光は側近の陳文を連れて出かけると、五時頃、訒竜光から、
〝広東軍はすべて葉肇の下に入って、前線を突破して撤退する。
その第一として、広東軍はすべて太平門に集結せよ〟 と命令が入った。
このとき誰かが、大きな声で 〝逃げるんだ〟 と叫んだ。
この声で、多くの官兵は大混乱となった。
私 (筆者である劉紹武) はとりあえず五百万分の一の地図を持ち、
車で太平門に行こうとしたが、道は人の山で身動きも出来ない。
歩行で、暗くなった頃、やっと中央党部に着き、軍長の訒竜光とは会えたが、
師長の李江はいなかった。そして太平門に着いたのが午後八時である。
しかし、太平門は敵の進撃を封じるためにコンクリートで閉められていたので、
内側から外に出ることが出来なかった。葉肇の軍隊が、その障害物を爆破し、
とり除くのに懸命になっていた。
太平門に大挙集合した広東軍はいら立ち、
逆に外部からは日本軍がこの辺りに攻めてくるという情報もあって、
焦りは頂点に達する寸前だった。
午後九時を過ぎた頃、突然大声が起り、通路が開かれ、人が流れはじめた。
周辺は闇に包まれ、その中で人びとは先を争って城外に飛び出した。
弱者は倒れてふみつけられ、命を落し、強者はその上を通って、命を長らえた。
あとで私がきいたところによると、ある男は踏みつけられて下敷になり、
身につけていた手榴弾を投げつけて、周囲の者とともに自爆した、という。
惨劇のほどがうかがわれるであろう。
私は訒竜光とともに城外に出て、先頭部隊のあとを迫って公路を南下した。
しかし先頭部隊はたまたま日本軍との遭遇戦になり、葉肇軍の羅策群副師長は、
「几 (幾) 大就几大、唔好做哀仔呀」(これは、広東語特有の表現で、
「広東人の誇りを失わず、人に後ろ指をさされるようなことはするな」
というような場合に使われるらしい) と叫びながら戦死した。
(鈴木明著『新「南京大虐殺」のまぼろし』265〜266p)
児島襄著『日中戦争4』218p
第六十六軍長葉肇と第八十三軍長訒竜光は、脱出方法について協議・・・
太平門を出て紫金山の南をかすめ、
ちょうど日本軍第十六師団と第九師団の中間をすりぬける……。
第百六十師が太平門内側の土嚢を撤去して脱出を開始したが、
たちまち城外に敷設した自軍の地雷原で損害をうけ後続する部隊の足をすくませた。
これは メッセージ 175 (kireigotowadame さん)への返信です.