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12月14日 山田支隊一万五千の捕虜を得る

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/09/28 18:38 投稿番号: [192 / 2250]
東中野修道著『南京大虐殺の徹底検証』128〜129p

夜が明けて 「莫大」 な投降兵集団に遭遇する。 それが十二月十四日のことであった。
付近の村落は清野作戦のため 「皆敵ノ為ニ焼カレ」 ていた。

そこで山田旅団長は、上元門 (幕府山麓) 郊外に発見された学校に武装解除後の
投降兵を収容した。 数えてみれば、投降兵は一万四七七七名の大集団である。

『南京戦史資料集Ⅲ』 の第六十五連隊両角業作連隊長の
「両角 (もろずみ) 業作手記」 によれば、一万五三〇〇余であった。

いずれにせよ、第六十五連隊の十倍以上にあたる。 「斯 (か) ク多クテハ
殺スモ生カスモ困ッタモノナリ」 とは、山田旅団長の偽らざる困惑であった。


収容された投降兵は、これが兵士かと思われるくらい、「服装も種々雑多」 であった。
しかも注意して見ると、南京から逃げてきた非戦闘員の市民も混っていた。

さらに注意して見ると、女兵士、老兵、少年兵までが混在していた。
何も知らない十二三歳の少年が戦場の第一線に立たされていた。

そしてまた、女性も志願して兵士となっていた。そのことが 『南京大虐殺を記録
した皇軍兵士たち − 第十三師団山田支隊兵士の陣中日記』 に見える。


非戦闘員を解放

そこで、戦闘員と非戦闘員とが選り分けられた。そして、非戦闘員は解放された。
残る八千人ほどが幕府山南麓のバラックに収容された。



両角業作   手記

幕府山東側地区、及び幕府山付近に於いて得た捕虜の数は莫大なものであった。
新聞は二万とか書いたが、実際は一万五千三百余であった。

しかし、この中には婦女子あり、老人あり、全くの非戦闘員 (南京より
落ちのびたる市民多数) がいたので、これをより分けて解放した。

残りは八千人程度であった。 これを運よく幕府山南側にあった厩舎か鶏舎か、
細長い野営場のバラック (思うに幕府山要塞の使用建物で、十数棟併列し、

周囲に不完全ながら鉄線が二、三本張りめぐらされている) −とりあえず、
この建物に収容し、食糧は要塞地下倉庫に格納してあったものを運こび、

彼ら自身の手で給養するよう指導した。   当時、我が聯隊将兵は
進撃に次ぐ進撃で消耗も甚だしく、恐らく千数十人であったと思う。

この兵力で、この多数の捕虜の処置をするのだから、とても行き届いた取扱いなど
できたものではない。四周の隅に警戒として五、六人の兵を配置し、彼らを監視させた。


児島襄著『日中戦争4』229〜230p

十二月十四日朝   −
その南京北部の要地・幕府山も、あっけなく陥落した。

第十三師団第百三旅団第六十五連隊第五中隊百二十人が、決死の攻撃をこころみた
のだが、中国軍第二軍団、教導総隊の残兵は、自発的に続々と投降したからである。

捕虜総数は、なんと 「一万四千七百七十七人」 ……。

もっとも、投降者の中には、中国側の焦土戦術によって家を焼かれ、
行き場も逃げ場もうしなった住民多数がふくまれている。

第百三旅団長山田栴二少将は、第六十五連隊長両角業作大佐に命令して、一見して難民
とわかる者は釈放させ、中国軍兵士だけ約八千人を幕府山付近の中国軍兵舎に収容させた。

それでも約八千人の多数である。二十二棟の兵舎にすしづめになった。
「皇軍はお前たちを殺さぬ」

連隊長両角大佐が告げると、通訳された中国軍兵士たちは、
いっせいに合掌し、次いで歓声をあげた。
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