12月12日 混乱と地獄絵の南京城内
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/09/07 18:43 投稿番号: [169 / 2250]
《児島襄著『日中戦争4』216〜217p
首都衛戍司令官唐生智が、首都放棄命令をだす前から、城内には城外からの敗兵の
流入がめだち、逃散にそなえて食糧を確保すべく食料品店をおそう中国兵がふえていた。
揚子江を背にして包囲された南京では、容易に想いうかぶ脱出点は下関埠頭である。
退却命令が発出される数時間前から、すでに隊伍をくんで下関にむかう中国兵の姿がみられた。
中山路にはいると次々に武器をすて、街路は小銃、手榴弾、銃剣、背嚢、さらには機銃、
火砲、乗用車、トラック、荷馬車でおおわれた。
後続する兵は、それら兵器を路の両側に蹴り寄せ、その上に自分の武器をほうり投げ、
動かぬ車輌には放火した。
ほとんどの兵が軍服をぬいで便衣に着がえ、便衣を持たぬ者は、
避難をいそぐ市民の衣服をはぎとり、中にはハダカのまま走りだす兵もいた。
程奎朗参謀の回想、『南京戦史資料集Ⅱ』から。
《中山北路の海軍部の前に行くと、第三六師の部隊がいて道路上に機関銃を置いて
交通を封鎖し、南から来る部隊の通過を許さない。(略)
中山北路上に、車輌や部隊が一杯になって潮のようにユウ江門に殺到し、
城を出る人たちは先を争い、
前に押し後に引き、ある者は踏み倒され、おじいさん、おばあさんと叫ぶ。
第三六師の歩哨は城門の胸墻 (きょうしょう) 上に機関銃を置き、大声で
〝押すな、押すと射つぞ!〟と叫ぶが、人々は依然押し合っていた。》
(東中野修道著『南京大虐殺の徹底検証』81p)
石田勇治 編集・翻訳『資料ドイツ外交官の見た南京事件』31〜32p
数人の将校が退却する大群の行く手に立ちはだかり、制止した。
怒声が響き、ピストルの銃声が鳴った。
兵士はいやいや向きを変え、重い足取りでふたたび前線に向かい始めた。
だが、長くは続かなかった。
三〇分もしないうちに、中国軍の士気が衰え、全軍の潰走が明らかとなった。
・・・
主な退却路となった中山路からほんの数ヤード隔った百万ドルの交通部庁舎に
兵士が火を放つと、地獄絵図は激しく幕を開けた。
そこは臨時の弾薬庫として使用されていたが、炎がその砲弾・爆薬庫に達すると、
恐ろしい爆音が夜空に鳴り響いた。
銃弾と砲弾の破片は鋭い音をたてて頭上を飛び交い、
河岸へ向かう道をひしめき合いながら進む群集の恐怖と混乱を煽った。
燃えさかる庁舎は巨大な炎を噴き上げ、物凄い熱を放った。
パニックに陥った群集の行列は遅々として進まず、交通は渋滞した。
大砲、トラック、オートバイ、荷馬車がひどい混乱のなかで玉突き衝突を起こし、
うしろからは前へ前へと押し寄せてくるのだった。
兵隊は死に物狂いで道を空けようとしていたが、徒労であった。
路上の集積物に火が燃え移り、幹線道路をふさぐ炎の障壁をつくった。
・・・
燃え盛る障害物を迂回し命からがら下関門に辿りついた者が見た光景は、
ただ残骸と死体で塞がれた門の姿であった。
東中野修道著『南京大虐殺の徹底検証』82p
ダーディンは昭和六十二年に、・・・語った。『南京事件資料集①アメリカ関係資料編』
によれば、脱出せんとする支那兵がユウ江門で衝突し合った。
そして「踏みつけ」あって、死骸の山ができた。
同じくスティールも、大勢の兵士がユウ江門から脱出しようとして 「圧死」 したと、
昭和六十一年に初めて真相を語った。》
交通部には、ラーベたちが大量の難民を収容していた筈。
炎と大爆発では助からないだろう。彼らによる大虐殺は無視される。
首都衛戍司令官唐生智が、首都放棄命令をだす前から、城内には城外からの敗兵の
流入がめだち、逃散にそなえて食糧を確保すべく食料品店をおそう中国兵がふえていた。
揚子江を背にして包囲された南京では、容易に想いうかぶ脱出点は下関埠頭である。
退却命令が発出される数時間前から、すでに隊伍をくんで下関にむかう中国兵の姿がみられた。
中山路にはいると次々に武器をすて、街路は小銃、手榴弾、銃剣、背嚢、さらには機銃、
火砲、乗用車、トラック、荷馬車でおおわれた。
後続する兵は、それら兵器を路の両側に蹴り寄せ、その上に自分の武器をほうり投げ、
動かぬ車輌には放火した。
ほとんどの兵が軍服をぬいで便衣に着がえ、便衣を持たぬ者は、
避難をいそぐ市民の衣服をはぎとり、中にはハダカのまま走りだす兵もいた。
程奎朗参謀の回想、『南京戦史資料集Ⅱ』から。
《中山北路の海軍部の前に行くと、第三六師の部隊がいて道路上に機関銃を置いて
交通を封鎖し、南から来る部隊の通過を許さない。(略)
中山北路上に、車輌や部隊が一杯になって潮のようにユウ江門に殺到し、
城を出る人たちは先を争い、
前に押し後に引き、ある者は踏み倒され、おじいさん、おばあさんと叫ぶ。
第三六師の歩哨は城門の胸墻 (きょうしょう) 上に機関銃を置き、大声で
〝押すな、押すと射つぞ!〟と叫ぶが、人々は依然押し合っていた。》
(東中野修道著『南京大虐殺の徹底検証』81p)
石田勇治 編集・翻訳『資料ドイツ外交官の見た南京事件』31〜32p
数人の将校が退却する大群の行く手に立ちはだかり、制止した。
怒声が響き、ピストルの銃声が鳴った。
兵士はいやいや向きを変え、重い足取りでふたたび前線に向かい始めた。
だが、長くは続かなかった。
三〇分もしないうちに、中国軍の士気が衰え、全軍の潰走が明らかとなった。
・・・
主な退却路となった中山路からほんの数ヤード隔った百万ドルの交通部庁舎に
兵士が火を放つと、地獄絵図は激しく幕を開けた。
そこは臨時の弾薬庫として使用されていたが、炎がその砲弾・爆薬庫に達すると、
恐ろしい爆音が夜空に鳴り響いた。
銃弾と砲弾の破片は鋭い音をたてて頭上を飛び交い、
河岸へ向かう道をひしめき合いながら進む群集の恐怖と混乱を煽った。
燃えさかる庁舎は巨大な炎を噴き上げ、物凄い熱を放った。
パニックに陥った群集の行列は遅々として進まず、交通は渋滞した。
大砲、トラック、オートバイ、荷馬車がひどい混乱のなかで玉突き衝突を起こし、
うしろからは前へ前へと押し寄せてくるのだった。
兵隊は死に物狂いで道を空けようとしていたが、徒労であった。
路上の集積物に火が燃え移り、幹線道路をふさぐ炎の障壁をつくった。
・・・
燃え盛る障害物を迂回し命からがら下関門に辿りついた者が見た光景は、
ただ残骸と死体で塞がれた門の姿であった。
東中野修道著『南京大虐殺の徹底検証』82p
ダーディンは昭和六十二年に、・・・語った。『南京事件資料集①アメリカ関係資料編』
によれば、脱出せんとする支那兵がユウ江門で衝突し合った。
そして「踏みつけ」あって、死骸の山ができた。
同じくスティールも、大勢の兵士がユウ江門から脱出しようとして 「圧死」 したと、
昭和六十一年に初めて真相を語った。》
交通部には、ラーベたちが大量の難民を収容していた筈。
炎と大爆発では助からないだろう。彼らによる大虐殺は無視される。
これは メッセージ 168 (kireigotowadame さん)への返信です.