12月14日 日本軍の徴発
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/09/27 16:11 投稿番号: [191 / 2250]
児島襄著『日中戦争4』235p
《日本軍は、掃蕩とともに、洋の東西を問わずに占領軍がおこなう建物の接収、
軍需品の摘発、食糧の確保などをおこなっている。
これらの行為も、見方によっては 「掠奪」 になろうし、興奮している兵の動作が
過激であれば 「蛮行」 ともみなされかねない。》
スミス氏 (ロイター通信社) 講演
《十二月十四日の朝になっても、日本兵は市民に危害を加えませんでした。
しかし昼頃になると、六人から十人ぐらいで徒党を組んだ日本兵の姿が
あちこちで見られるようになりました。
彼らは連隊徽章をはずしていて、家から家へと略奪をくり返しました。
中国兵の略奪は主に食料に限られていましたが、日本兵の場合は見境なしでした。
彼らは組織的に、徹底的に略奪したのです。》
(ラーベの日記12月15日より)
*しかし、この日の行為は略奪というより徴発でしょう。
それにしても、連隊徽章を外しているというのが、気になる。
もしかして便衣隊のしわざか?
それはともかく、彼ら外国人に、日本軍の徴発を避難する資格があるのでしょうか?
これより、ほんの37年前、義和団事件の時、彼らの祖国軍が何をしたか。
斎藤聖二著 『北清事変と日本軍』 芙蓉書房出版
155〜156p
《通州への行軍過程で・・・ 「「露仏軍ハ 一ニ 地方物資ニ依頼シ 大ニ徴発ヲ為シ
掠奪ノ弊ニ陥」 り、イギリス軍も沿道の作物を奪って飢えをしのぎ、
日本軍もまた 「畑地ニ生長セル 玉萄黍 (トウモロコシ) ノ半熟セルモノヲ
採取シ或ハ 付近人家内ニ残留セル食品ヲ取」 って前進した。》
167 p
《『秘戦史』は、「(北京占領中の) 露仏軍人ノ乱暴ハ 至ラサル所ナク 掠奪、
殺傷、強姦、放火等 屡々 之ヲ耳ニシ、其 (その) 通州ニ於ケル暴挙甚シク
・・・
森海軍中佐の報告書には、「英国公使館内ニ於ケル掠奪品ノ競売」 について
記されており、「印度兵ノ 奪略シ来レル 衣類、毛革、陶磁器、金銀細工類等ヲ展列シ
同国人ハ勿論 他国人ト雖 (いえど) モ望セ 其場ニ誘引シ公然競売」 をしているとある。》
明治33年8月27日の 『日本新聞』 には
ドイツ皇帝は出征兵士に対し 「一人も容赦するなかれ、一人も捕虜となすなかれ」
と勅語した、とあります。
ウッドハウス暎子著 『北京燃ゆ・義和団事件とモリソン』 東洋経済新報社より
ドイツのヴァルダーゼー軍は10月17日北京に着いたが、すべて終わっていた。
263〜264p
《仕方なくドイツ軍は、義和団の残党狩りというふれこみのもとに討伐隊を組み、
北京周辺を荒らし回り略奪暴行の限りをつくした。ヴァルダーゼーは本国に、
「略奪行為は、どこの国もお互いさまである……みな、揃いも揃って略奪に熱を
上げている」と報告した。
兵士たちはカイザーの勅語を肝に銘じていたらしく、抵抗するものは容赦なく
殺したり、有罪無罪の別なく厳罰に処したりした。
その残忍ぶりは目に余るものがあり、正義漢モリソンは何回にもわたって
彼らの野蛮行為をタイムス紙で暴露・非難した。
例えば、同紙十一月二十三日付のモリソン記事はいう。
「ドイツ討伐軍は北京周辺を繰り返し襲っては住民を苦しめているが、
それは略奪が目的である。
このような行為を、ドイツ公文書では軍事活動と誤った呼び方をしている」》
*ラーベはこの8年後に中国に来ています。
彼らの祖国軍に比べて日本軍が、そう悪い様には見えませんが。
《日本軍は、掃蕩とともに、洋の東西を問わずに占領軍がおこなう建物の接収、
軍需品の摘発、食糧の確保などをおこなっている。
これらの行為も、見方によっては 「掠奪」 になろうし、興奮している兵の動作が
過激であれば 「蛮行」 ともみなされかねない。》
スミス氏 (ロイター通信社) 講演
《十二月十四日の朝になっても、日本兵は市民に危害を加えませんでした。
しかし昼頃になると、六人から十人ぐらいで徒党を組んだ日本兵の姿が
あちこちで見られるようになりました。
彼らは連隊徽章をはずしていて、家から家へと略奪をくり返しました。
中国兵の略奪は主に食料に限られていましたが、日本兵の場合は見境なしでした。
彼らは組織的に、徹底的に略奪したのです。》
(ラーベの日記12月15日より)
*しかし、この日の行為は略奪というより徴発でしょう。
それにしても、連隊徽章を外しているというのが、気になる。
もしかして便衣隊のしわざか?
それはともかく、彼ら外国人に、日本軍の徴発を避難する資格があるのでしょうか?
これより、ほんの37年前、義和団事件の時、彼らの祖国軍が何をしたか。
斎藤聖二著 『北清事変と日本軍』 芙蓉書房出版
155〜156p
《通州への行軍過程で・・・ 「「露仏軍ハ 一ニ 地方物資ニ依頼シ 大ニ徴発ヲ為シ
掠奪ノ弊ニ陥」 り、イギリス軍も沿道の作物を奪って飢えをしのぎ、
日本軍もまた 「畑地ニ生長セル 玉萄黍 (トウモロコシ) ノ半熟セルモノヲ
採取シ或ハ 付近人家内ニ残留セル食品ヲ取」 って前進した。》
167 p
《『秘戦史』は、「(北京占領中の) 露仏軍人ノ乱暴ハ 至ラサル所ナク 掠奪、
殺傷、強姦、放火等 屡々 之ヲ耳ニシ、其 (その) 通州ニ於ケル暴挙甚シク
・・・
森海軍中佐の報告書には、「英国公使館内ニ於ケル掠奪品ノ競売」 について
記されており、「印度兵ノ 奪略シ来レル 衣類、毛革、陶磁器、金銀細工類等ヲ展列シ
同国人ハ勿論 他国人ト雖 (いえど) モ望セ 其場ニ誘引シ公然競売」 をしているとある。》
明治33年8月27日の 『日本新聞』 には
ドイツ皇帝は出征兵士に対し 「一人も容赦するなかれ、一人も捕虜となすなかれ」
と勅語した、とあります。
ウッドハウス暎子著 『北京燃ゆ・義和団事件とモリソン』 東洋経済新報社より
ドイツのヴァルダーゼー軍は10月17日北京に着いたが、すべて終わっていた。
263〜264p
《仕方なくドイツ軍は、義和団の残党狩りというふれこみのもとに討伐隊を組み、
北京周辺を荒らし回り略奪暴行の限りをつくした。ヴァルダーゼーは本国に、
「略奪行為は、どこの国もお互いさまである……みな、揃いも揃って略奪に熱を
上げている」と報告した。
兵士たちはカイザーの勅語を肝に銘じていたらしく、抵抗するものは容赦なく
殺したり、有罪無罪の別なく厳罰に処したりした。
その残忍ぶりは目に余るものがあり、正義漢モリソンは何回にもわたって
彼らの野蛮行為をタイムス紙で暴露・非難した。
例えば、同紙十一月二十三日付のモリソン記事はいう。
「ドイツ討伐軍は北京周辺を繰り返し襲っては住民を苦しめているが、
それは略奪が目的である。
このような行為を、ドイツ公文書では軍事活動と誤った呼び方をしている」》
*ラーベはこの8年後に中国に来ています。
彼らの祖国軍に比べて日本軍が、そう悪い様には見えませんが。
これは メッセージ 190 (kireigotowadame さん)への返信です.