12月12日 安全区にかくれる中国兵
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/09/11 18:48 投稿番号: [175 / 2250]
児島襄著『日中戦争4』217〜218p
将兵の一部は、渡江をあきらめ、再び城壁にのれんなみにたれ下った綱にすがり、
城内にもどる者もいた。
多数は〝暴徒〟化して放火をはじめ、深夜には交通部にも放火された。
火は外のゴミ、遺棄された弾薬にものびて大火災となり、
まきこまれて焼死する人馬の悲鳴が夜空にひびきつづけた。
松村俊夫著『「南京虐殺」への大疑問』55pより
翌年二月二日の南京アメリカ大使館エスピーからの報告書も紹介されている。
〈中国軍自身が略奪行為を犯したこともまぎれもない事実なのです。
中国兵は気も狂わんばかりに軍服を脱ぎ捨て、
そして民間服を得ようとして市民の服欲しさに殺しまでやったのです。〉
(同書 (たぶん『南京大虐殺の現場へ』と思われる) 106頁)
郭岐の証言 (『南京大虐殺の現場へ』の笠原十九司が集めた証言集105頁)
〈十二日深夜になっても鼓楼病院 (城内を南北に走る道路のほぼ真ん中に位置する)
から先へ進めなかった。
ユウ江門まではまだ約四キロ余あったが、
中山北路は立錐の余地なく人垣で埋まり、少しも動かなかった。
郭岐は下関脱出を断念して五台山に部隊を待機させ、
翌十三日午後に部下五〇〇余人を便衣 (民間人の平服) に着替えさせ、
各自逃亡するよう命令して部隊を解散し、本人はイタリア大使館に避難した。〉
(松村俊夫著 『「南京虐殺」 への大疑問』 55p)
宋希濂の回想録 『鷹犬将軍』 より
孫元良の、あのように卑劣な行為 (原註=孫元良は、十二日午後五時に長官邸に行き、
会議が散会されたあと、部隊には帰らないで、軍服を脱いで平服に着変え、
難民区に行った。そのまま一カ月潜んだあと、日本軍が難民を地方に疎開させたとき、
その中に紛れ込んで抜け出した) は幹部にふさわしくない、恥ずかしいことだった。
(鈴木明著 『新 「南京大虐殺」 のまぼろし』 262〜263p)
スミス氏 講演より
《十二月十二日の夜、支那軍と市民が略奪を始めた。・・・
このとき特徴的であったのは、城内南部の支那人洋服品店で起きた騒ぎであった。
数百人の兵士がこの商店に殺到した。市民服であれば、既製服という既製服が、
飛ぶように売れた。なけなしのお金をはたいて、全兵士が服を買い求めた。
そして路上で着替え、軍服を投げ捨て、市民となって消えた。
あとになって、この数百人の市民は、軍官学校と励志社に集合した》
(東中野修道著『南京大虐殺の徹底検証』198p)
(ラーベの日記12月15日にも同じ記事あり)
* 城内南部は激戦地の筈、安全区に避難もせず、店を開いていたのだろうか?
光華門 (東南門) から、掃蕩戦に入った第九師団の歩兵第十九連隊
第四中隊長土屋正治中尉は、『南京戦史』 に
《ただ不気味な静寂、・・・市街に深く進入すればするほど、まさに 「死の街」
という感じを深くした。敵弾の飛来はもちろん、人影一つ見えず、
粛然とした軒並みのみが果てしなく続いていた。》
(東中野修道著『南京大虐殺の徹底検証』178〜179p)
と証言している。尤も場所によって異なるだろうが。
将兵の一部は、渡江をあきらめ、再び城壁にのれんなみにたれ下った綱にすがり、
城内にもどる者もいた。
多数は〝暴徒〟化して放火をはじめ、深夜には交通部にも放火された。
火は外のゴミ、遺棄された弾薬にものびて大火災となり、
まきこまれて焼死する人馬の悲鳴が夜空にひびきつづけた。
松村俊夫著『「南京虐殺」への大疑問』55pより
翌年二月二日の南京アメリカ大使館エスピーからの報告書も紹介されている。
〈中国軍自身が略奪行為を犯したこともまぎれもない事実なのです。
中国兵は気も狂わんばかりに軍服を脱ぎ捨て、
そして民間服を得ようとして市民の服欲しさに殺しまでやったのです。〉
(同書 (たぶん『南京大虐殺の現場へ』と思われる) 106頁)
郭岐の証言 (『南京大虐殺の現場へ』の笠原十九司が集めた証言集105頁)
〈十二日深夜になっても鼓楼病院 (城内を南北に走る道路のほぼ真ん中に位置する)
から先へ進めなかった。
ユウ江門まではまだ約四キロ余あったが、
中山北路は立錐の余地なく人垣で埋まり、少しも動かなかった。
郭岐は下関脱出を断念して五台山に部隊を待機させ、
翌十三日午後に部下五〇〇余人を便衣 (民間人の平服) に着替えさせ、
各自逃亡するよう命令して部隊を解散し、本人はイタリア大使館に避難した。〉
(松村俊夫著 『「南京虐殺」 への大疑問』 55p)
宋希濂の回想録 『鷹犬将軍』 より
孫元良の、あのように卑劣な行為 (原註=孫元良は、十二日午後五時に長官邸に行き、
会議が散会されたあと、部隊には帰らないで、軍服を脱いで平服に着変え、
難民区に行った。そのまま一カ月潜んだあと、日本軍が難民を地方に疎開させたとき、
その中に紛れ込んで抜け出した) は幹部にふさわしくない、恥ずかしいことだった。
(鈴木明著 『新 「南京大虐殺」 のまぼろし』 262〜263p)
スミス氏 講演より
《十二月十二日の夜、支那軍と市民が略奪を始めた。・・・
このとき特徴的であったのは、城内南部の支那人洋服品店で起きた騒ぎであった。
数百人の兵士がこの商店に殺到した。市民服であれば、既製服という既製服が、
飛ぶように売れた。なけなしのお金をはたいて、全兵士が服を買い求めた。
そして路上で着替え、軍服を投げ捨て、市民となって消えた。
あとになって、この数百人の市民は、軍官学校と励志社に集合した》
(東中野修道著『南京大虐殺の徹底検証』198p)
(ラーベの日記12月15日にも同じ記事あり)
* 城内南部は激戦地の筈、安全区に避難もせず、店を開いていたのだろうか?
光華門 (東南門) から、掃蕩戦に入った第九師団の歩兵第十九連隊
第四中隊長土屋正治中尉は、『南京戦史』 に
《ただ不気味な静寂、・・・市街に深く進入すればするほど、まさに 「死の街」
という感じを深くした。敵弾の飛来はもちろん、人影一つ見えず、
粛然とした軒並みのみが果てしなく続いていた。》
(東中野修道著『南京大虐殺の徹底検証』178〜179p)
と証言している。尤も場所によって異なるだろうが。
これは メッセージ 174 (kireigotowadame さん)への返信です.