入って中国人に南京事件真相議論しましょう
Yahoo! Japan 掲示板トピックビューアー
12月22日 ラーベの日記
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/11/10 18:54 投稿番号: [240 / 2250]
十二月二十二日
軍事警察本部からだといって日本人が二人訪ねてきた。
日本側でも難民委員会をつくることになった由。
従って難民はすべて登録しなければならない。
「悪人ども」(つまり中国人元兵士) は特別収容所に入れることになったといっている。
登録を手伝ってくれないかといわれ、ひきうけた。
そのあいだも、軍の放火はやまない。火事が上海商業儲蓄銀行のそばの家、
つまりメインストリートの西側にまで拡がったら、とはらはらしどおしだ。
あのあたりはもう安全区に入っている。
そうなったらわが家も危ない。
仲間と安全区の中を片づけていたら、市民の死体がたくさん沼に浮かんでいるのを
みつけた (たった一つの沼だけで三十体あった)。ほとんどは手をしばられている。
中には首のまわりに石をぶら下げられている人もいた。
わが家の難民はいまだに増えるいっぽうだ。私の小さな書斎だけでも六人が寝ている。
オフィスと庭も見わたすかぎり難民で埋まっており、燃えさかる炎に照らされて
だれもが血のように赤く染まっている。今数えただけでも、七カ所で火災がおこっている。
私は日本軍に申し入れた。発電所の作業員を集めるのを手伝おう。下関には
発電所の労働者が五十四人ほど収容されているはずだから、まず最初にそこへ行くように。
ところが、なんとそのうちの四十三人が処刑されていたのだ!
それは三、四日前のことで、しばられて、河岸へ連れていかれ、機銃掃射されたという。
政府の企業で働いていたからというのが処刑理由だ。これを知らせてきたのは、
おなじく処刑されるはずだったひとりの作業員だ。そばの二人が撃たれ、
その下じきになったまま河に落ちて、助かったということだった。
今日の午後、酔っぱらった日本兵に中国人が銃剣で首を突かれた。
それを知って助けにいったクレーガーとハッツの二人も襲われた。
ハッツは椅子を使って身を守った。だが、
クレーガーのほうは日本兵にしばられそうになった。
やけどした左手を包帯でつっていなければ、そうはならなかっただろうが。
フィッチと私が車でかけつける途中、むこうから二人がもどってくるのに出くわした。
フィッチと私は二人をのせてただちに現場にむかった。
するとその兵隊は、偶然通りかかった日本の将校から平手打ちを食っていた。
そばには日本大使館の田中氏もいた。
その日本兵はどうやらクレーガーたちに不利になるような報告をしたらしい。
しかし、将校はかまわずなぐり続け、ついにそいつは目に涙をためた。
この事件は我々にとって悪い結果にはならなかった。
だが、いつもそうなるとはかぎらない。
*
「安全区の中・・・、市民の死体がたくさん沼に・・・
(たった一つの沼だけで三十体あった)。
ほとんどは手をしばられている。中には首のまわりに石をぶら下げられて」
これを見て、ラーベ達は疑わないのだろうか?
日本軍は便衣兵を摘発して連行し、別の所で処刑していたはず。
安全区の中でそんな事をしたら市民に見られるだろう。
かつ、それでは何人殺したか上層部が確認できないから、戦果として計上できない。
果たして、誰がやったものやら。
これは メッセージ 239 (kireigotowadame さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/240.html
12月21日 和平案の独逸大使宛回答文2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/11/09 18:47 投稿番号: [239 / 2250]
戦史叢書 『支那事変
陸軍作戦1』 465〜466p
日支媾和交渉条件細目
一
支那ハ
満洲国ヲ
正式承認スルコト
二
支那ハ
排日及反満政策ヲ
放棄スルコト
三
北支及内蒙ニ
非武装地帯ヲ
設定スルコト
四
北支ハ
支那主権ノ下ニ於テ
日満支三国ノ
共存共栄ヲ
実現スルニ
適当ナル機構ヲ設定
之ニ広汎ナル権限ヲ賦与シ
特ニ日満支経済合作ノ
実ヲ挙クルコト
五
内蒙古ニハ
防共自治政府ヲ
設立スルコト
其ノ国際的地位ハ
現在ノ外蒙ニ同シ
六
支那ハ
防共政策ヲ確立シ
日満両国ノ
同政策遂行ニ
協力スルコト
七
中支占拠地域ニ
非武装地帯ヲ設定シ
又
大上海市区域ニ就テハ
日支協力シテ
之カ治安ノ維持
及
経済発展ニ当ルコト
八
日満支三国ハ
資源ノ開発、関税、交易、航空、通信等ニ関シ
所要ノ協定ヲ
締結スルコト
九
支那ハ
帝国ニ対シ
所要ノ賠償ヲナスコト
附
記
(一)
北支内蒙
及
中支ノ一定地域ニ
保障ノ目的ヲ以テ
必要ナル期間
日本軍ノ駐屯ヲナスコト
(二)
前諸項ニ関スル
日支間ノ協定成立後
休戦協定ヲ開始ス
支那政府カ
前記各項ノ約定ヲ
誠意ヲ以テ実行シ
日支両国
提携共助ノ
我方理想ニ
真ニ協力シ来ル
ニ於テハ帝国ハ
単ニ右約定中ノ
保障条項ヲ解消
スルノミナラス進テ
支那ノ復興
及
其ノ国家的発展
国民的要望ニ
衷心協力スルノ
用意アルコトヲ茲 (ここ) ニ闡明 (せんめい) ス
別紙
(一)
媾和交渉条件中
保障条項タルモノ左ノ如シ
一
第三項ノ非武装地帯
二
第四項ノ折衝ニ当リ
保障ノ目的ヲ以テ
設定セラルヘキ特殊権益
及
之カ為存置ヲ 必要トスル機関
三
第七項ノ非武装地帯
四
附記 (一) 及之ニ伴フ軍事施設、主要交通ノ管理拡充ニ関スル権益
(二)
媾和ニ関連シテ廃棄スヘキ約定
一
梅津・何應欽協定、塘沽停戦協定、土肥原・秦徳純協定、上海停戦協定
二
保障事項ノ解消ト同時ニ従来ヨリ有スル対支特殊権益
(例へハ治外法権、租界、駐兵権等ノ如シ)ノ廃棄ヲ考慮ス
*
ここでは、梅津・何應欽協定、塘沽停戦協定、土肥原・秦徳純協定、
上海停戦協定や治外法権、租界、駐兵権なども廃棄しようと言っている。
中国側や反日日本人は、この時の条件を過酷と言っているが、
こんなお人好しの条件があるだろうか。
付加した条件としては、賠償金が加わった事くらいだろう。
あとは、前の条件とほとんど変わらない。
これは メッセージ 238 (kireigotowadame さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/239.html
12月21日 和平案の独逸大使宛回答文1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/11/09 18:39 投稿番号: [238 / 2250]
戦史叢書 『支那事変
陸軍作戦1』 464〜465p
日華和平交渉ニ関スル在京独逸大使宛回答文
昭和十二年十二月二十一日閣議決定
本月七日
貴大使ヨリ
本大臣ニ対スル
口頭御説明
並ニ
同日附覚書ニ依 (よ) ル
日支事変ノ
和平直接交渉ニ対スル
貴国政府ノ好意的御配慮
及
在支貴国大使ノ
御努力ハ
本大臣ノ感佩 (かんはい) スル所ナリ
然ルニ最近
戦局急速ニ発展シ
事態ニ大ナル変転ヲ
見タル情勢ニ鑑ミ
帝国政府ノ提示セントスル基礎条件ハ
左記ノ如キモノニシテ
支那側カ之ヲ媾和ノ原則トシテ
総括的ニ承認シテ
帝国ニ和ヲ乞フノ態度ヲ
表示シ来ルニ於テハ
帝国トシテモ之ニ応シ
日支直接交渉ヲ
開始スルノ用意アリ
若シ右原則ニシテ
受諾セラレサル場合ニハ
帝国トシテハ遺憾 乍(なが) ラ
従来ト全ク新ナル見地ニ立チ
事変ニ対処スルノ
己 (や) ムナキニ至ル
ヘキコトヲ
含ミ置カレ度 (たし)
左
記
一
支那ハ
容共抗日満政策ヲ放棄シ
日満両国ノ防共政策ニ
協力スルコト
ニ
所要地域ニ
非武装地帯ヲ設ケ
且
該各地方ニ
特殊ノ機構ヲ
設定スルコト
三
日満支三国間ニ
密接ナル
経済協定ヲ
締結スルコト
四
支那ハ
帝国ニ対シ
所要ノ賠償ヲナスコト
口頭説明
(一)
支那ハ
防共ノ誠意ヲ
実行ニ示スコト
(二)
支那ハ
一定ノ日限内ニ
媾和使節ヲ
日本ノ指定スル地点ニ
派遣スルコト
(三)
我方トシテハ
大体本年中ニ回答アルモノト
考へ居ルコト
(四)
蒋介石カ
只今内示ノ原則
承認ノ意ヲ表明シタル上ハ
独逸側ニ於テ
日支双方ニ対シ
停戦ノ慫慂 (しょうよう) ニアラスシテ
日支直接交渉方ノ
慫慂ヲ
為サルル様致度 (いたしたし)
(五)
独逸大使ノ質問ニ応シ
只今内示ノ原則ヲ
一層具体化セル条件トシテ
我方ニ於テ
考慮シ居ル所ヲ
御参考迄ニ
申上クレハ
別紙ノ通ナリ
(極秘トシテ)
つづく
これは メッセージ 237 (kireigotowadame さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/238.html
和平案改訂会議で異論続出
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/11/08 16:16 投稿番号: [237 / 2250]
児島襄著 『日中戦争4』 256〜257p
参謀本部の思想は、政府、陸海軍省の大勢的考えとは相違し、
こんごの政略方針の確立にあたっては、基本的な立場で対立せざるを得なかった。
まっさきに、政府側との衝突が具現したのは、
ドイツを仲介にする対中国和平条件についてである。
和平交渉は、蒋介石側が北支の宗主権、領土保全、第三国との協約尊重などを
前提にして原則的にドイツのあっせんを受諾し、
日本側が提示した条件にもとづいて交渉に応ずる意向を表明している。
南京陥落は、この和平条件も大きく湾曲させた。
「かかる条件で国民が納得するかね」
と、内相末次信正海軍大将が戦闘にたって条件の加重的修正を主張した。
「犠牲ヲ多ク 出シタル 今日、斯クノ如キ 軽易ナル条件ヲ 以テシテハ、
之ヲ 容認シ難シ」
外相広田弘毅がそうあいづちをうつと、同意、と陸相杉山元大将も応じ、
首相近衛文麿が、つけ加えた。
「大体、敗者トシテノ 言辞 無礼ナリ」
このような雰囲気で、十二月二十一日、「日華和平交渉ニ関スル在京独逸
大使宛回答文」 の形で和平条件が閣議決定された。
南京からは、主力攻撃部隊のほとんどが転進したころである。
条件は、防共政策の採用、非武装地帯の設置、経済協定の締結、賠償の支払いの
四つを主軸にし、満州国承認をふくむ細目九項が付属していた。
前文には、戦局の 「進展」 と事態の 「変転」 によって前回の条件を
修正した旨を述べ、次のように強調されていた。
「支那側ガ 之ヲ 媾和ノ条件トシテ 総括的ニ 承認シテ、 帝国ニ和ヲ
乞フノ態度ヲ示シ来ルニ 於テハ……日支直接交渉ヲ 開始スル用意アリ」
*
和平案本文は次で。
これは メッセージ 236 (kireigotowadame さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/237.html
戦争長期化へのあきらめ
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/11/07 16:10 投稿番号: [236 / 2250]
児島襄著 『日中戦争4』 254〜256p
南京陥落をむかえた日本では、しきりに戦勝ムードが強調されたが、
政府、軍幹部の多くは、一致して別の想いにさそわれていた。
「戦争長期化へのあきらめ」
−
であったというのが、
陸軍省軍事課長田中新一大佐の回想である。
たとえば、内閣書記官長風見章によれば、当時の首相近衛文麿は、こんごの
「日中戦争」 の見とおしについて、次のような判断をくだしていた、という。
「国民政府はやがて一地方政権に転落するであろうから、日本が長期戦にひきずり
こまれる心配は少なく、新政権の育成により時局収拾の道がひらかれる」
だが、かりに新政権による時局収拾が可能になるにしても、
それは、一地方政権に転落した蒋介石政権が完全に崩壊するか、降伏するか、
どちらかになる場合であり、それまでは戦争はつづかざるを得ない。
つまりは、「長期戦」である。
軍事課長田中大佐も、新政権育成に賛成する、長期戦論者である。
ただし、近衛首相とその意見に同調する政府の大部分が、南京攻略で〝勝った〟との
楽観にたっていたとすれば、大佐は、むしろ、悲観を前提にして考えていた。
世界は、明らかに第二の世界大戦にむかって歩をはやめている。
ドイツ、イタリヤにたいする米、英、ソ連という陣営がはっきりしており、
日本が前者のグループ寄りであれば、中国は後者の陣営にくみこまれている。
「究極するところ、容共抗日をあくまで固守する国民政府は、
ソ連および米英の傀儡政権であり……国際連盟や米国の態度は、
日中抗争を長期化する有力な背景をなしていた」
いいかえれば、蒋介石は 「日中戦争」 を中止できない環境にあるとも、いえよう。
となると、日本が中国に地歩を確保するためには、
すでに中国が 「西北共産支那」 と 「国民政府支那」 にわかれていると考えれば、
占領地を 「親日支那」 にして持久する以外に道はないであろう。
「百年かかっても新興支那を建設して、これと日支関係を根本的に調整することが、
基本的目標とならざるを得ない」
この近衛首相の〝楽観的新政権論〟と、田中大佐に代表される〝悲観的新興支那論〟は、
いちはやく、南京陥落の日に、北京に誕生した「中華民国臨時政府」
(行政委員長王克敏)として実現していた。
政府、企業、さらには一般国民も、戦勝と新政権の発足によって北支が
〝第二の満州国〟 になるものとみこみ、進出をきそいはじめている……。
参謀本部、とくに次長多田駿中将と第二課 (作戦、戦争指導) は、しかし、
日本の国力にそぐわない長期戦に反対であり、新政権の育成などというまわり道をせず、
現に中国の統一政権である蒋介石政府と講和して事変を終結すべきだ、と判定していた。
「此ノ時機ヲ失シタラ
愈々長期戦ニ陥ルカラ、 多少ノ不満ヲ忍ンデモ、
媾和成立ニ導クベシ」
というのが、次長多田中将の 「信念」 でもあった。
これは メッセージ 235 (kireigotowadame さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/236.html
角良晴のとんでも証言
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/11/06 18:31 投稿番号: [235 / 2250]
松井大将の副官角良晴はユウ江門や下関にある大量の死体を見て、
日本軍が虐殺したと勝手に思い込み、戦後とんでもない証言をしました。
それを、板倉由明氏がまとめられていますので、引用します。
『本当はこうだった南京事件』 288〜290p
《角証言とは、どんな内容であろうか。角の書簡数通 (昭和五十八年末より) 及び
編集長・高橋登志郎氏との問答 (昭和五十九年十一月) から、簡単に要約してみよう。
①
南京大虐殺は確かにあった。それは自分の証言するこれ一つだけで、
他はすべてウソである。絶対に他言してはならない。
②
日本軍入城時、城内には一般住民は一人も居らず、城内での虐殺は無かった。
③
日本軍来襲以前に、住民二十五万人はすべて下関に集まり、対岸浦口に渡ろうとした。
④
揚子江に面した西側城壁はキレイに取り除かれ、ユウ江門は木の枠だけ残っており、
避難民の城内から下関への通行は自由であった。
⑤
渡し賃は渡江希望者が殺到して最初の五ドルが十ドルになり、
最後には三十ドルに上って貧乏人には払えなくなった。
⑥
結局ほぼ半数、十二、三万の住民が渡江できずに下関で第六師団に捕まった。
⑦
十二月十七日朝、第六師団から首都飯店の軍司令部情報課に電話があり、
下関の支那人十二、三万をどうするか、と聞いてきた。
課長・長勇中佐は簡単に 「ヤッチマエ」 と命令した。
⑧
角は事重大と判断して松井大将に報告、松井は長に解放を命じた。
⑨
一時間後、再び同じ内容の電話があり、長は再び「ヤッチマエ」と命じた。
角には再度松井に止めてもらう勇気がなかった。
⑩
十七日、十八日、十九日と角は三度下関を視察したが、ユウ江門から揚子江に出て
(中山碼頭) 右折し、五十メートルから下流二キロにかけて幅三百メートル、
ギッチリじゅうたんのように詰まった数万を下らない死体があった。
⑪
二十日、松井軍司令官と角は自動車で下関に行き、右折して河岸道の死体の上を
静かに二キロ往復した。松井はホロホロと涙を流した。
⑫
最初の電話は第六師団参謀から、二度目は殺害命令を不審に思った
下野一霍参謀長からと思う。下野の回想録 (未発見) には
「下関の大虐殺は軍命令で師団長の意向ではなく、このことで
谷寿夫師団長の死刑は間違いである」 と述べられているはずである。》
これの間違いは、これまで私が書いてきた事を読んでおられる方には一目瞭然でしょう。
②は言うまでもなく間違い。彼はこの時、蘇州にいて南京を知らない。
③は、中国軍兵士が船を求めて下関を右往左往したのであって住民ではない。
④
門は通行不自由だった。
⑤
船がないので渡し賃も何もない。
⑦
17日は入城式
方面軍司令部は朝は湯水鎮にあった。
そして、この時
第6師団は下関にはいない。
第6師団が下関に来たのは13日、それも、佐々木隊の後。
仮に、そこで捕虜を捕まえたとして、なぜ17日まで連絡しなかったのか?
そもそも、長勇は上海派遣軍の参謀で、第6師団は第十軍所属、
第6師団が上海派遣軍にお伺いを立てる事自体あり得ない。
従って、この話は全くのナンセンス。長勇の 「ヤッチマエ」 も成り立たなくなる。
彼は、大量の死体を見て、日本軍がやったと勝手に解釈し、罪の意識から、
このような虐殺話を夢想したのでしょう。
戦後のいい加減な人の作り話も加えて。
愚か!
これは メッセージ 234 (kireigotowadame さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/235.html
12月21日 松井大将中国兵の死体に涙す
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/11/05 18:42 投稿番号: [234 / 2250]
早瀬利之著『将軍の真実
南京事件
松井石根人物伝』142〜143p
《松井方面軍司令官が下関とユウ江付近を視察したのは、十二月二十一日朝十時である。
下関やユウ江付近及び市内視察は十八日に予定していた。
しかし、角は 「治安が悪く警備に責任がもてない」 と偽って、外に出さなかった。
本当は市内に沢山の死体が遺棄されていて、松井に見せたくなかったのである。
二十一日になって、業をにやした松井はついに怒り、
「おれは一人でも行く。車を用意せよ!」
と副官の角に命令した。やむなく車を出して乗せるが、
角はなるべく死体が見えない位置に座って同行した。
それでも死体が見える。
そのとき、角は傍にいる松井方面軍司令官のようすに気づいた。
彼は遺稿集の中で、
「総司令官は、モノを言わず、ただ泣いておられた。
下剋上の思想が、このような事態になったと思う」
と書いている。
また、松井は二十一日の日記の中に、視察した感想をこう記している。
「狼藉の跡のままにて死体などそのままに遺棄せられ、今後の整理を要するも、
一般に家屋の被害は多からず、人民もすでに多少ずつ帰来せるを見る」
松井がつぎの作戦のため南京をはなれることになるのは二十二日である。
入城したのが十七日で、わずか五日間の滞在だった。
あとは派遣軍が治安にあたった。
特務部や領事官たちに政治工作、治安工作を頼んでいる。》
*
松井大将も角副官も勘違いしている。
彼らは、ユウ江門や下関にある大量の死体を日本軍が殺したものと錯覚している。
本当は中国軍が脱出の時の混乱で殺しあって出来たものなのだけど。
それを誰も知らないから、てっきり日本軍がやったと勝手に決め込んでいる。
そして 「下剋上の思想が、このような事態になったと思う」 と書いてしまう。
角副官はこの思い違いから、戦後とんでもない証言をしてしまう。
これは メッセージ 233 (kireigotowadame さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/234.html
12月21日 ラーベの日記2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/11/04 18:38 投稿番号: [233 / 2250]
午後二時、ドイツ人やアメリカ人全員
−
つまり外国人全員が鼓楼病院前に集結して、日本大使館ヘデモ行進を行った。
アメリカ人十四人、ドイツ人五人、白系ロシア人二人、オーストリア人一人。
日本大使館あての手紙一通を手渡し、その中で人道的立場から以下の三点を要求した。
一、街をこれ以上焼かないこと。
二、統制を失った日本軍の行動をただちに中止させること。
三、食糧や石炭の補給のため、ふたたび平穏と秩序がもどるよう、必要な措置をとること。
デモ参加者は全員が署名した。
われわれは日本軍の松井石根 (いわね) 司令官と会談し、全員が彼と握手した。
大使館では私が代表し意見を言い、田中正一副領事に、
日本軍は町を焼き払うつもりではないかと思っていると伝えた。
領事は微笑みながら否定したが、
書簡のはじめの二点については軍当局と話し合うと約束してくれた。
だが第三点に関しては、耳を貸さなかった。日本人も食糧不足に苦しんでいるので、
われわれのことなど知ったことではないというのだろう。
そのあと、まだ日本大使館にいるときに、海軍将校からローゼンの手紙を受け取った。
彼は南京に非常に近いところに停泊しているイギリス砲艦ピーに乗っているのだが、
まだ上陸を許されていない。
これ以上多くの人間に事情を知られたくないのだろう。ローゼンはじめ、
シャルフェンベルク、ヒュルターの両人がどうしてピーに乗っているのかわからない。
福田氏にそのことをいうと、ジャーディン社の船が爆撃されて、
沈没したのではないかと心配していた。
ローゼン書記官よりジョン・ラーベあての手紙
南京を目前にして、一九三七年十二月十九日
イギリス砲艦ピー船上より
親愛なるラーベ氏、
昨日から南京市を目の前にしながら上陸することができません。
皆さんのご様子、それからドイツ人の家が無事かどうか、お知らせください。
なお、ここからは大使あてに無線で連絡がとれます。
当方にもいろんなことがありました。
このことはいずれお目にかかった折にお話しします。
この手紙が日本軍を介して貴君に届くかどうかわかりませんが、
とにかくやってみます(願わくは私への返事もうまくいくといいのですが)。
よろしく。ハイル・ヒトラー!
敬具
ローゼン
これは メッセージ 232 (kireigotowadame さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/233.html
12月21日 ラーベの日記1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/11/03 18:38 投稿番号: [232 / 2250]
十二月二十一日
日本軍が街を焼きはらっているのはもはや疑う余地はない。
たぶん略奪や強奪の跡を消すためだろう。昨夜は、市中の六カ所で火が出た。
夜中の二時半、塀の倒れる音、屋根が崩れ落ちる音で目が覚めた。
わが家と中山路の間にはもう一ブロックしか家が残っていない。
もうすこしでそこに燃え拡がるところだったが、運良く難をのがれた。
ただし、
火花が舞い、飛び散っているので、藁 (わら) 小屋とガソリンはますます危険な状態だ。
気が気ではない。何としても、ガソリンだけはどこかほかへ移さなくては。
アメリカ人の絶望的な気分は次の電報をみるとよくわかる。
南京、一九三七年十二月二十日、在上海アメリカ総領事館
御中。
重要な相談あり。アメリカの外交官、南京にすぐ来られたし。
状況は日々深刻に。大使および国務省に報告乞う。
マギー、ミルズ、
マッカラム、スマイス、ソーン、トリマー、ヴォートリン、ウィルソン。
一九三七年十二月二十日南京日本大使館
御中。
海軍基地無線を通じて転送を要請します。
M・S・ベイツ
ほかに方法がないので、日本大使館に頼んでこの電報を送ろうというのだろう。
だがこれでは何もかもつつぬけだ。日本は承知するだろうか?
それにしても、アメリカ人は非常に苦労している。
私の場合は、ハーケンクロイツの腕章やナチ党バッジ、家と車のドイツ国旗を
これ見よがしにつきつければ、いちおうのききめはあったが、
アメリカ国旗となると日本兵は歯牙にもかけない。
今朝早く、日本兵に車をとめられたので怒鳴りつけて国旗を示したところ、
相手はすぐに道を空けた。
それにひきかえ、トリマーやマッカラムはなんと鼓楼病院で狙撃されたのだ。
運良く弾はそれた。
だが、我々外国人に銃口が向けられたということが、そもそも言語道断だ。
これでは、アメリカ人の堪忍袋の緒が切れてしまうのもむりはない。
しかもかれらは何千人もの婦女子を自分たちの大学に収容して面倒を見ているのだ。
昨日、スマイスはこんなことをいっていた。
いったいいつまで、ハッタリをきかせていられるのだろうか。
その気持ちはよくわかる。われわれの収容所にいる中国人のだれかが、
妻か娘を強姦されたといって日本兵を殴り殺しでもしたら、一巻の終わりだ。
安全区は血の海になるだろう。
つい今しがた、アメリカ総領事館あての電報が日本大使館から打電を拒否された
という知らせが入った。そんなことだろうと思っていた。
*
ラーベは日本軍が街を焼きはらっていると思い込んでいるが、
もはや、日本兵は殆どいない。
南京からは、殆どの兵が去って、居るのは警備の第16師団と安全区掃蕩の任務が
解除されていない第9師団歩兵第7連隊とこれから去る部隊のみ。
夜中に放火して、日本軍に何の利益があるだろうか?
ラーベ達の思い込みは激しい。
*
「トリマーやマッカラムはなんと鼓楼病院で狙撃された」
日本軍が外国人を狙撃して何の意味があるのか?
日本兵が少なくなったから、便衣兵が活動しやすくなったのかも知れない。
これは メッセージ 231 (kireigotowadame さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/232.html
12月20日 陸海軍の動き
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/11/02 18:36 投稿番号: [231 / 2250]
陸軍
第十軍の杭州作戦
第百一師団、・・・・師団長は歩兵一大隊から成る捜索隊をして、二十日湖州を
出発してシンガー山付近を捜索させ、主力を二縦隊及び左側支隊に区分・・・
(戦史叢書 『支那事変
陸軍作戦1』 431P)
幕府山の山田支隊
浦口へ移動
両角業作
手記
二十日
晴
九時半出発下関を経て浦口に渡河。
山田メモ
二十日
下関より浦口に向う。途中死体累々たり、十時浦口に至り国東支隊長と会見。
(鈴木明著 『「南京大虐殺」のまぼろし』 旧195p)
*
下関より浦口に向う途中の累々たる死体は、
山田支隊が関与していない事は、明白だろう。
勘違いしている者は、山田支隊が、下関から浦口へ、捕虜を送ろうとして、
国東支隊に撃たれて、下関で虐殺した、としている。
が、だったら、山田旅団長はこんな書き方をしないだろう。
第一、彼らは、前日死体を片づけている。
この死体は、基本的に中国軍の同士討ちによって生じたもの。
海軍
『ドイツ外交官が見た南京事件』 114pより
ドイツ外務省 (ベルリン) 宛、発信者
----
ローゼン (署名)
一九三八年一月二〇日付南京ドイツ大使館分館第二号
(略)
12月18日から20日にかけて、われわれが南京城手前の英国軍砲艦ビー号に
乗船していたおり、日本海軍の近藤少将が英国軍ホールト提督にたいし、
「南京から長江を下った先の大きな中州 (八卦洲) にまだ3万人の中国兵がおり、
かれらをこれから一掃せねばならない」 と通告してきた。
日本側が 「一掃」 ないし 「掃討」 と称するこの行為は、武装解除された敵の
殺害を指しており、人道的な戦争遂行の原則に反する。
*
海軍の中州掃蕩は、恐らく、山田支隊が17日夜、幕府山北岸から八卦洲へ
中国人捕虜を逃がそうとして、撃たれた事から、
武装中国兵の存在が判り、検討されたのだろう。
武装解除されてない敵の掃蕩だから、戦闘行為であり、
人道的な戦争遂行違反とは関係ない。
これは メッセージ 230 (kireigotowadame さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/231.html
12月20日 ラーベの日記
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/11/01 16:09 投稿番号: [230 / 2250]
十二月二十日
委員会本部に日本人将校がきていた。
南京一のホテル、首都飯店を片づけたいので作業員を二十人集めてくれないかという。
このホテルには日本軍の参謀将校が泊まることになっている。
私は十六人世話した。
昼にはこの将校が自分でトラックに乗せて連れ帰るうえ、
五中国ドル支払われるという約束だった。
これが日本軍が示したはじめてのまともな対応だった。
中国人たちも明らかにいい感じを受けていた。
寧海路に着いてから、棲霞山の江南セメント工場のシンバーグ氏と知り合った。
けがした中国人を数人、南京に運ぶつもりだったという。
ラジオで、南京は完全に落ち着いており、
電気・水道や電話設備も正常化しているといっていたからだ。
いざ来てみて、そうとうびっくりしたらしい。
日本軍にとめられ、けが人を途中で送り返さなくてはならなかったとのこと。
それでもとにかく南京にいこうと心に決め、延々と続く道を歩いているところを、
日本軍のトラックに拾われたという。
おそらく北門から入ったのだろう。問題は、どうやって帰るかだ。
午後六時、ミルズの紹介で、大阪朝日新聞の守山特派員が訪ねてきた。
守山記者はドイツ語も英語も上手で、あれこれ質問を浴びせてきた。
さすがに手慣れている。私は思っているままをぶちまけ、どうかあなたのペンの力で、
一刻も早く日本軍の秩序が戻るよう力を貸してほしいと訴えた。
守山氏はいった。
「それはぜひとも必要ですね。さもないと日本軍の評判が傷ついてしまいますから」
いまこうしているうちにも、そう遠くないところで家がつぎつぎ燃えている。
そのなかにはYMCA会館も入っている。
これは故意の、というよりむしろ当局の命令による放火ではないだろうか。
ブリキをうちつけておいたわが家の正門を、留守中に日本兵が銃剣でこじ開けようと
したらしい。結局開かなかったものの、銃剣の傷が残っているのと
ブリキ板の四隅が歪んでいるのがなによりの証拠だ。
できるだけまっすぐになるよう、扉をハンマーでたたかせた。
銃剣のあとは残しておくことにしよう。これも何かの記念だ。
クレーガーがシンバーグをつれて、韓の車を貸してもらえないかと頼みにきた。
シンバーグを送っていくつもりなのだ。
韓は承知したが、私は内心よせばいいのにと思っていた。
車がダメになるとはいわないまでも、タイヤがすり減ってしまうにきまってるからだ。
これは メッセージ 229 (kireigotowadame さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/230.html
中国人の訴えを信用するな2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/10/31 16:24 投稿番号: [229 / 2250]
つづき
衆怨が沸騰するに及んでは、則ち一面の詞 (ことば) を摂 (と) りて、
教士 (せんきょうし) を慫慂 (そそのか) して官に謁 (めんかい) して
剖白 (べんめい) せしめ、あるいは情節を添砌 (つみかさ) ねて
教士に (官に) 手紙で申し送るよう求めるのである。
教士は性直にして、詭譎 (あやしげ) な情形を知らず、教民が実在 (じっさい) に
いじめられたと思って、遂に地方官と難を為す。
そのじつ、ひとたび対質 (といただし) を経れば、事みな虚無なり、》
とあります。
ようするに、官憲は
「宣教師は、心が素直なので、中国人の嘘・デタラメが分らず、
それを信じて、役所に言いつける、困ったものだ」
とまー、こう言っているわけです。
この宣教師を
南京のラーベたちに
訴えているキリスト教徒を
南京の中国人に
何とかしろと言われている清国官憲を
日本軍当局に置き換えて見れば
全く同じパターンだという事が判ります。
清国官憲は
訴えているキリスト教徒 (中国人) は
嘘つきだから
信用するな
と言っているのです。
同様に考えると、ラーベたちに訴えている南京の中国人の言も信じてはいけない
ということになります。
>教士は性直にして、詭譎 (あやしげ) な情形を知らず、教民が実在 (じっさい) に
いじめられたと思って、遂に地方官と難を為す。
そのじつ、ひとたび対質 (といただし) を経れば、事みな虚無なり<
これを南京に応用しますと
外国人は、性直にして、詭譎 (あやしげ) な情形を知らず、南京市民が実在 (じっさい) に
いじめられたと思って、遂に日本軍と難を為す。
という所でしょう。
そして、現在の日本人も性直で善人心満載ですから、疑うことを知りません。
清国の官憲ですら、「信じるな」 と言っていた事を信じて、
未だに間違いを繰り返しているわけです。
「嗚呼!」
かくして、宣教師が正しいと思って 「悪いキリスト教徒」 を庇い、
本当の被害者を処罰させたりした事が、一般民衆の恨みを買い、
被害者らが反キリスト教団体を結成、それが拡大して義和団へと発展していったのです。
これは メッセージ 228 (kireigotowadame さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/229.html
中国人の訴えを信用するな1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/10/31 16:14 投稿番号: [228 / 2250]
12月19日のラーベの日記には、難民からの訴えが載っていました。
こういうのを見ると、我々日本人や西洋人は素直に信じてしまいます。
同じ様な訴えは義和団事件の前にもありました。
キリスト教徒が、「酷い目に遭わされています、助けて下さい」 と宣教師に訴え、
宣教師が地方の役人に談判して、キリスト教徒を助けようとします。
ところが、調べてみると、事実は逆だったのです。
佐藤公彦著 『義和団の起源とその運動・中国民衆ナショナリズムの誕生』
の 342P〜343P によりますと、
《
宣教師のビュッカーは、エン城県で衆人五百余が掲帖 (ビラ) を貼り出して教会を襲い、
教民を拉致殴打し、物品を破壊、掠奪して、教民に圧迫を加え、
婦女には自殺する者まで出た、沂水県王荘教会 (フライナデメッツ、バーテルス担当)
も以前に被害に遭っているが、ここにも不穏な動きがある、と訴えてきた。
官側が調査をしてみると、こうした事実はなく、むしろ中国人教民の側が、
賭博のかたに相手の息子の嫁を取ろうとして、この女性を自殺に追い込んだり、
作物や物品が失くなると、平民に罪をきせて銭を罰したりしていて、
平民と教民との間の怨念が積もり積もっていたこと、それで平民側が、
『天主教はエン邑北郷の荘家店などの処で教堂を設立し、妖言をもって衆を惑わし、
勢 (力) を倚 (かさに) きて人を訛(あざむ) いている。
(やつらは) 倫常ともに無く、男女 (の間) は混乱している。おのおの団練義勇を
興して賊窩を剿除し、もって妖気を靖んじよう』 という掲帖を出しただけであった。
こうした事態が、「通事(つうやく)」 によって歪曲増幅されてドイツ人宣教師の耳に
伝えられ、ビュッカーによる前述の如き訴えになったらしい。
官側の言い分によると、これらはみな
「通事と教民がひとたび西教 (カトリック) に入るや、目に官・長も無くなり、
中より洋人を播弄 (まるめこん) で官と難を為さしめ、
以てその勢力をかさに着て人を欺く計りごとを遂げ」 るためである。
「民人がひとたび洋教に入るや、……およそ戸婚・田産・銭債の細故で、
たまたま一度その欲を遂げざることがあると、司に告げずして通事に告げるのである。
通事はまたまた本国の民人に係るが、洋人をもって護符となし、ただちに出でて
平民を恫嚇 (おど) し、必ずや教民の欲を遂げて而してのちやむのである。
これをもって強者はあるいは言に怒り、懦者はあるいは色に怒る。
つづく
これは メッセージ 227 (kireigotowadame さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/228.html
12月19日 ラーベの日記
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/10/30 18:37 投稿番号: [227 / 2250]
十二月十九日
わが家では静かに夜が更けていった。寧海路にある本部の隣の建物には防空壕があって、
二十人ほどの女性がいたが、ここへ日本兵が数人暴行しに侵入してきた。
ハッツは塀を乗り越え、やつらを追い払った。
広州路八十三〜八十五号の難民収容所からは助けを求める請願書が来た。
南京安全区国際委員会
御中
ここに署名しました五百四十人の難民は、広州路八十三〜八十五号の建物の中に
ぎゅうぎゅうに押しこまれて収容されています。
今月の十三日から十八日にかけて、この建物は三人から五人の日本兵のグループに
何度も押し入られ、略奪されました。
今日もまたひっきりなしに日本兵がやってきました。装飾品はもとより、
現金、時計、服という服、何もかもあらいざらいもっていかれました。
比較的若い女性たちは毎夜連れ去られます。
トラックにのせられ、翌朝になってようやく帰されるのです。
これまでに三十人以上が暴行されました。
女性や子どもたちの悲鳴が夜昼となく響き渡っています。
この悲惨なありさまはなんともいいようがありません!
どうか、われわれをお助けください!
南京にて、一九三七年十二月十八日
難民一同
いったいどうやってこの人たちを守ったらいいのだろう。日本兵は野放し状態だ。
これでは発電所を復旧しようにも、とうてい人手が集まらない。
今日そのことでまた菊池氏がやってきた。私はいってやった。
「作業員は逃げてしまいましたよ。そりやそうでしょう、
私たちヨーロッパ人さえひどい目にあっているというのに、
自分たちが安全なわけがないと思ってるんですよ」
すると菊池氏はいった。
「ベルギーでもまったくおなじ状態でした!」
十八時
日本兵が六人、塀を乗り越えて庭に入っていた。門扉を内側から開けようとしている。
なかのひとりを懐中電灯で照らすと、ピストルを取り出した。
だが、大声で怒鳴りつけ、ハーケンクロイツ腕章を鼻先に突きつけると、
すぐにひっこめた。全員また塀を乗り越えて戻っていくことになった。
おまえらにはそれで十分だ。なにも扉を開けてやることはない。
わが家の南も北も大火事になった。水道はとまっているし、
消防隊は連れていかれてしまったのだから、手の打ちようがない。
国府路ではどうやら一ブロックがそっくり燃えているようだ。空は真昼のように明るい。
庭の難民は、三百人だか四百人だか正確にはわからないのだが、
筵(むしろ)や古いドア、ブリキ板で掘ったて小屋をつくって、
少しでも雪と寒さを防ごうとしていた。
だがこまったことに、なかで料理をはじめてしまったのだ。火事が心配だ。
禁止しなければ。大きい石油缶が六十四個もおいてあるので、気が気ではない。
けっきょく二カ所だけ、料理をしても良い場所をきめることにした。
*
大量の日本兵が去って行ってるというのに、南京では、不埒な“日本兵”が
沢山徘徊しているとは。
不思議な現象だ。
では、警備に残っている第16師団が犯人なのだろうか?
しかし、後に、彼らは天谷支隊と入れ替えられる、それでも、状況は変わらなかった。
では、この“日本兵”は?
これは メッセージ 226 (kireigotowadame さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/227.html
12月19日 陸軍の移動と幕府山の後始末
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/10/29 18:34 投稿番号: [226 / 2250]
南京退去
児島襄著『日中戦争4』244p
以上 (慰霊祭終了) −で、南京占領の儀式は終了し、上海派遣軍も第十軍も、
翌 (19) 日から南京をはなれはじめ、
十二月二十二日には、南京の日本軍は警備担当の第十六師団だけとなった。
戦史叢書『支那事変
陸軍作戦1』430p
十九日、軍は、第十八師団は安吉−余坑道方面から、第百一師団は武康、徳清方面から、
第一後備歩兵団は嘉興−杭州道方面から、杭州に向かい攻撃するよう命令を下達した。
431p
第百一師団主力は、十九日湖州付近に集結した。
幕府山の山田支隊
鈴木明著 『「南京大虐殺」のまぼろし』 194p
十九日には、山田旅団は浦口に移動せよとの命令が届いた。
山田メモ (鈴木明著 『「南京大虐殺」のまぼろし』 195p)
十九日
捕虜の件で出発を延期、午前、総出で始末せしむ、
軍から補給あり、日本米を食す。
山田支隊第65連隊大寺上等兵の陣中日記
[12月19日]
午前七時半整列にて清掃作業に行く。揚子江の現場に行き、折り重なる幾百の死骸に驚く。
石油をかけて焼いたため悪臭はなはだし、今日の使役兵は師団全部、
午後二時までかかり業を終わる。昼食は三時だ。
両角業作
日記
昭和十二年
十二月
十九日
次期宿営地への出発準備
これは メッセージ 225 (kireigotowadame さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/226.html
委員会が記録する日本軍の暴状
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/10/28 18:21 投稿番号: [225 / 2250]
12月13日から18日まで
児島襄著『日中戦争4』249〜250p
《「安全区」 委員会が記録する日本軍の暴状は、
ほとんどが強姦と掠奪にかんするものであり、
中国側がいう 「大屠殺期」 にあたる十二月十二日から十二月十八日までの間に、
委員会が耳にした日本軍によって殺された中国人数は、十四人だけである。
強姦例は、強姦致死二人をふくむ百三十六人の被害報告をうけている。
掠奪として記録されているのは、
「自動車五輌、自転車六輌、オートバイ数輌、牝牛二頭、ブタ一頭、小馬数頭、
米三袋、フトン五百枚、手袋二、牛乳一びん、砂糖ひとつかみ、鍋一個、
ゴミ箱一、万年筆六本、灯油半缶、ローソク若干」
なんとも、中国側が 「悪虐非道」 と強調し、また占領軍として〝全権〟をふるえる
日本軍の〝掠奪〟としては、みみっちさ(?)を感得させられる品目である。》
*
ラーベの日記には、もっと多く書かれていたような気もするが、
公式記録はこうなのかも知れない。
という事は、ラーベ達外国人は日本軍による捕虜処刑や便衣兵処刑を、
不法な殺人とは見ていないということか。
気に食わないけれど、市民虐殺とは別と見ているという事なのだろう。
これは メッセージ 224 (kireigotowadame さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/225.html
12月18日 和平案改訂会議
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/10/27 18:40 投稿番号: [224 / 2250]
戦史叢書 『支那事変
陸軍作戦1』 463〜464p
《十八日の臨時閣議でも、再び各閣僚から強硬な意見が出されたので、
結局、原案を事務当局で再検討することになった。
このようにして時日を遷延し、かつこの間、日本政府が強硬な声明等を発していたので、
トラウトマン大使が非常に心配している旨の情報がオット少将からもたらされた。
注 (原文注)
当時、文相であった木戸幸一の覚書によれば 「十七日の閣議に出席し、
提案された和平条件案をみると、あまりにも詳細なので、
これをそのまま相手方に示すことは、逆用され暴露されるおそれがあると
述べたのが契機となり種々の論議に発展した。
十八日の閣議では、これを数項目にまとめ、
これで蒋の意向を探らせることに決定した」 と。また、
「事変の早期解決には誰も異存ないが、和平達成の案件、
その手段などについては必ずしも意見が一致しておらず、
陸軍内部においても強気と弱気が相錯綜しており、
部外からはその真意を捕捉し得ない有様であった。
トラウトマン工作に対しても、
外部から見ると
陸軍省と参謀本部では必ずしも足並が揃 (そろ) っておらず、
参謀本部においては多田次長を中心に是が非でもこの機会に
和平を成立させたいと熱心に画策しているように見えたが、
陸軍省は必ずしもこれに同調せず、それが会議の論議等にも現れているようにも
思われ、この間に処して政府は政策の決定に十分な自信を得ることができず、
苦しんで荏苒 (じんぜん) 時を過すに至ったのが実情であった」 と。》
*注
荏苒:
ジンゼン
歳月が長引くさま。のびのびになる事。
これは メッセージ 223 (kireigotowadame さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/224.html
12月18日 ラーベの日記
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/10/26 18:42 投稿番号: [223 / 2250]
十二月十八日
最高司令官がくれば治安がよくなるかもしれない。そんな期待を抱いていたが、
残念ながらはずれたようだ。それどころか、ますます悪くなっている。
塀を乗り越えてやってきた兵士たちを、朝っぱらから追っ払わなければならない有様だ。
なかの一人が銃剣を抜いて向かってきたが、私を見るとすぐにさやにおさめた。
私が家にいるかぎりは、問題はなかった。やつらはヨーロッパ人に対してはまだ
いくらか敬意を抱いている。だが、中国人に対してはそうではなかった。
兵士が押し入ってきた、といっては、絶えず本部に呼び出しがあった。
そのたびに近所の家に駆けつけた。
日本兵を二人、奥の部屋から引きずり出したこともあった。
その家はすでに根こそぎ略奪されていた。
日本人将校と発電所の復旧について話し合っていたとき、
目と鼻の先で車が盗まれたこともあった。
何とか苦労して取り戻すことができたが。
将校の言うことになど、兵士たちはほとんど耳を貸さないのだ。
中国人が一人、本部に飛びこんできた。押し入ってきた日本兵に弟が射殺されたという。
言われたとおりシガレットケースを渡さなかったから、というだけで!
私は発電所の復旧の件で話し合っている将校に、なんとかしてくれと申し入れた。
するとその将校は日本語で書かれた札をくれた。
さっそくそれをドアに貼ることにして一緒に家に戻った。
家に着くと、ちょうど日本兵が一人押し入ろうとしているところだった。
すぐに彼は将校に追い払われた。そのとき近所の中国人が駆けこんできた。
妻が暴行されかかっているという。日本兵は全部で四人だということだった。
われわれはただちに駆けつけ、危ないところで取り押さえることができた。
将校はその兵に平手打ちを食らわせ、それから放免した。
ふたたび車で家に戻ろうとすると、韓がやってきた。
私の留守に押し入られ、物をとられたという。
私は身体中の力がぬけた。車から降りて、私はその将校にいった。
「一人で先にいってください」。
次から次へと起こる不愉快な出来事に、実際に気分が悪くなってしまったのだ。
しかし将校はそうはしなかった。私にあやまり、きっぱりといった。
「今日のことで、あなたがたの言うことが誇張ではないということがよくわかりました。
一日も早くこの事態を改善するよう、精一杯努力します」
十八時
危機一髪。日本兵が二人、塀を乗り越えて入りこんでいた。なかの一人は
すでに軍服を脱ぎ捨て、銃剣をほうり出し、難民の少女におそいかかっていた。
私はこいつをただちにつまみ出した。
もう一人は、逃げようとして塀をまたいでいたので、軽く突くだけで用は足りた。
夜八時にハッツがきた。日本の警部といっしょだ。
かなりの数の警官をトラックにのせてつれてきている。
金陵大学にある難民収容所を夜間見張るためだという。
日本大使館での抗議が早速いくらか役に立ったようだ。
・・・・
もらった貼り紙はあまり役に立たない。兵士たちはほとんど気にしないのだ。
* この日は慰霊祭をやっているというのに、
勝手に出回って悪さをしている日本兵がいるとは、実に不思議だ?
翌日から、第十軍も上海派遣軍の大部分も南京を去りだす。
その準備をしなければならないのに、そんな悪さをしてる暇があるとは?
犯行をやってるやつは移動命令とは無縁なのだろうか?
これは メッセージ 222 (kireigotowadame さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/223.html
12月18日 慰霊祭後の涙の訓示はなかった3
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/10/25 16:28 投稿番号: [222 / 2250]
松本氏自身が不思議がるように、どうしてこんな間違いが生じたのだろうか。
板倉由明著 『本当はこうだった南京事件』 305〜308p
《よく読めば 『上海時代』 での慰霊祭の描写には十二月のものと二月のものが
混合している。松本氏が出席していない十二月の描写は、
前田氏など出席した同盟記者からの伝聞であろう。
その前田氏の 『戦争の流れの中に』 には、日記にもないこの場面が、同様に、
見てきたように記されている。
ジャーナリストの面目躍如だが、同盟系記者の錯誤だけを責めてはいけない。
張本人の松井大将自身が両者を混同しているのである。
昭和二十三年十二月九日、巣鴨拘置所で処刑を控えた松井大将は
教諭師・花山信勝氏に次のように語ったという。
「慰霊祭の直後、私は皆を集めて軍司令官として泣いて怒った。
そのときは朝香宮もおられ、柳川中将も軍司令官だったが、せっかく、
皇威を輝かしたのに、あの兵の暴行によって一挙にしてそれを落してしまったと。
ところが、このあとでみなが笑った。
はなはだしいのは、ある師団長の如きは 『当り前ですよ』
とさえ言った。」(花山信勝・『平和の発見』)
この文の中での間違いは、二月には柳川中将など第十軍関係者は参列しておらず、
「ある師団長」 とは巷間中島中将と目されているが、すでに北支に移動しており、
これは一月二十四日、上海での転進挨拶の際の暴言の混同であろう。
・・・
言うまでもなく、松井大将は昭和二十三年十二月二十三日に処刑されており、
『上海時代』 の出版はその二十数年後のことである。
順序で言えば松本氏の錯覚は、松井大将の錯覚から誘導された可能性もある。
つまり松井大将自身が慰霊祭を一回だけ、と錯覚 (半ば故意?) していたのかもしれない。
その最大の原因は、東京裁判対策の誤算であろう。
松井大将は裁判に出頭する前に弁明資料として 「支那事変日誌抜粋」 を書き、
基とした日記を始末したという。しかし、この日記の中で、なぜか残った
昭和十二年十一月一日以後の分は、田中正明氏が発見されて、
御殿場の自衛隊に保管されている。
「日誌抜粋」 は戦後の執筆で、申し開きの目的で書かれたものであるから、
南京事件解明には直接役にたたない。
しかし東京裁判に臨むにあたっての、松井大将の 「傾向と対策」 を探る上での
資料としては貴重である。この中で最も力点の置かれているのは、
第三国権益の侵害に対して松井大将のとった措置の弁明で、量として
約四十%を占めている。つまり松井大将は、裁判に於いて
ここが最も攻撃目標にされると考えたのであろう。
中国人に対する日本軍の非行としては、「暴行・掠奪」 が、
ぐっと減って十五%程度に落ちるが、「虐殺」 に至っては全く無いといってよい。
・・・
その 「日誌抜粋」 の 「五、我軍ノ暴行、奪掠事件」 の中では次のようになっている。
「因 (よっ) テ予ハ南京入城翌日(十二月十七日)特ニ
部下将校ヲ集メテ
厳ニ
之ヲ叱責シテ
善後ノ措置ヲ要求シ、犯罪者ニ対シテハ
厳格ナル処断ノ法ヲ
執ルヘキ旨ヲ
厳命セリ。」
・・・この括弧内の日付は一日違う。・・・
推理すれば、全くの記憶違いでなければ、この部分は自己の処置に手抜かりが
無かったことを強調するため、二月の慰霊祭後の訓示を流用したものと考えられる。
・・・
無論、二月に諭した 「非行」 が 「大虐殺」 でなかったことは後述のように明瞭である。
しかし、この錯誤は定着し、その 「意味」 は当初の松井大将の意図と逆に、
あたかも 「大虐殺」 の存在証明と》
されてしまったようです。
これは メッセージ 221 (kireigotowadame さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/222.html
12月18日 慰霊祭後の涙の訓示はなかった2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/10/24 16:16 投稿番号: [221 / 2250]
板倉由明著『本当はこうだった南京事件』299〜304p
ところで、慰霊祭はもう一回あった。翌昭和十三年二月七日の上海派遣軍慰霊祭
(十二月の慰霊祭の五十日祭にあたる) である。松井日記は次のように記す。
「嚢 (さき) ノモノハ
戦勝ノ誇ト気分ニテ
寧 (むし) ロ忠霊ニ対シ
悲哀ノ情少カリシモ、今日ハ只々悲哀其 (その) 物ニ
捉 (とら) ハレ
責任感ノ太ク胸中ニ
迫ルヲ覚エタリ。
蓋 (けだ) シ
南京占領後ノ軍ノ諸不始末ト
ソノ後地方自治、政権工作等ノ
進捗 (しんちょく) セサルニ起因スルモノナリ。
仍 (よっ) テ 式後参集諸隊長ヲ集メ
予ノコノ所感ヲ披露シテ
一般ノ戒飭 (かいちょく) ヲ促セリ。」
この訓示は相当のショックを朝香宮司令官を始めとする参列者に与えた。
国際委員会公文書、上村(利通、上海派遣軍参謀副長・大佐)日記にも記されているが、
飯沼日記によればその内容は 「南京入城ノ時ハ誇ラシキ気持ニテ其翌日ノ慰霊祭又
其気分ナリシモ本日ハ悲シミノ気持ノミナリ。其レハ此 (この) 五十日間ニ幾多ノ
忌 (いま) ハシキ事件ヲ起シ、戦没将兵ノ樹テタル功ヲ半減スルニ至リタレハナリ。
何ヲ以テ此英霊ニ見 (まみ) へンヤ」という趣旨であった。
しかし、この訓示に対する軍人一般の評判はあまり良くなく 「凱旋気相当ニ横溢
シアルハ怪シカラヌトノコトモアリ」 といった批判があり、その夜の晩餐会での
「宣撫ハ兵十人ニ一人ノ支那人ヲ難有ク思ハセヨ」 という要望にも、
「日本兵より支那人が可愛いのか」 という声があったようである。
・・・・
この日、松本氏が深堀 (遊亀、上海派遣軍報道部長) 中佐と南京に居たことは、
『南京新聞』 発行と関連して、前田雄二氏の日記及び 『戦争の流れの中に』
に記されている。
・・・
「南京戦史」 の編集メンバーが初めて松本氏に会ったのは昭和六十一年暮であった。
このとき確認したのは次の四点である。
①
十二月十七日の入城式には参列していない。
②
そのころ南京へ行ったのは一回だけ。
③
汽車で往復した。
④
参列者は五百人から一千人くらい。
これでほぼ二月説が立証されたとみてよい。
①はジャーナリストがメインイベントたる入城式を抜かして、
慰霊祭だけ参列するはずがない。
マスコミ関係者はもちろん、多くの文化人たちが南京に急行した。
②は前田日記によれば二月七日の確証がある。松本は慰霊祭前に、同盟支局で
支局員たちに会えなかった、と 「上海時代」 に記しているが、
これは翌日から発行の 『南京新聞』 の準備に忙殺されていたのである。
③は汽車の開通は鎮江のトンネルが不通のため十二月二十二日からで、入城式、
慰霊祭参列の人々は、海軍艦艇に便乗して揚子江を遡行して下関から上陸した。
④の参列者数は十二月十八日には三千人以上は確実だが、二月七日は各部隊が
長以下数名の代表で参列したためほとんどが将校で、五百人程度であった(石松政敏氏談)。
しかし決定的な確証は、防衛研究所戦史部・原剛氏によってもたらされた。
原氏が発見した二月八日の 『ノース・チャイナ・デイリーニューズ』『チャイナ・プレス』
には正に相当する同盟配信の記事があったのである。
・・・
昭和六十二年三月十六日、この新聞コピーを持参しての再度の訪問で、松本氏は
「間違いなくボクの記事だ」 と記憶違いを率直に認められた。
しかし、松本氏自身が不思議がるように、どうしてこんな大きな間違いが生じたのであろうか。
続く。
これは メッセージ 220 (kireigotowadame さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/221.html
12月18日 慰霊祭後の涙の訓示はなかった1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/10/23 18:36 投稿番号: [220 / 2250]
多くの本が、松井大将が慰霊祭のあと、
「おまえたちは、せっかく皇威を輝かしたのに、一部の兵の暴行によって、
一挙にして、皇威を墜してしまった」 と
泣いて叱ったと書いています。
そして、「ある師団長などはせせら笑った」 とも。
こういう記述から、松井大将はこの時期南京大虐殺を知っていた。
だから訓示したのだ、と大虐殺の証拠にされているわけです。
ところが、板倉由明氏の調べによると、これは間違いだということです。
彼は、その著 『本当はこうだった南京事件』 日本図書刊行会で
慰霊祭後の松井大将の 「涙の訓示」 は無かった。と言っています。
同書299p
《しかし不思議なことに、参列者の記憶や一次資料によればこの日、
慰霊祭の後に訓示は無い。
例えば 「次イテ軍司令官以上ノ玉串奉奠ヲ以テ式ヲ終ル。
時ニ午後二時四十五分頃ナリ」(第十軍参謀・山崎正男少佐日記)
と泣くも泣かぬもない至極アッサリしたものである。
ご本人の書いた松井日記はもちろん、派遣軍参謀長・飯沼守少将日記、
参謀副長上村利道大佐日記、その他すべて集めた限りの日記にこの 「訓示」
は無い。また、掲載されたはずの英字新聞も、松本氏が 「絶対にあるはず」
とはいうものの、今まで発見されていなかった》
と書いています。
「チョット待て、お前の書いた 『12月18日
慰霊祭と訓示』 の中に、早瀬利之著
『将軍の真実
南京事件
松井石根人物伝』 140〜142p
の引用として、
“飯沼守参謀長は、この朝の松井訓辞を、日記にこう記している。”
とあるではないか。」
と言われるかもしれません。
ところが、飯沼守少将日記を子細に調べてみると、これは午前二時の参謀長会議での話で、
日記からは、松井大将の言葉なのか、どうかも、判りません。
原文は
◇十二月十八日
午前二・〇〇より首都飯店にて参謀長会同。
殿下より方面軍参謀長に伝へよとのこと、
師団長と共に訓示を与へらるることの其内容如何に依りては軍司令官の顔立たす。
(伝ふ) 司令官より老婆心として談話。
とあり、この後に、「例の訓示」 と同じ文章が続きます。
これは、朝香宮殿下が飯沼参謀長に、「師団長と一緒に訓示を与えられたら、
内容次第では軍司令官の顔が立たん」 と方面軍参謀長に伝えよ、と言う話です。
殿下も松井大将もこの場にいたら、こんな言い方にはならないでしょう。
その後に 「(伝ふ)司令官より老婆心として談話」 と来れば、
この場合の司令官は、朝香宮上海派遣軍司令官とも取れます。
仮に松井大将の伝言だとしても、
この場には、松井司令官も殿下もいないのですから、訓示にはなりません。
これは、早瀬氏が、先入観から、訓示と勘違いしたものでしょう。
つづく
これは メッセージ 219 (kireigotowadame さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/220.html
12月18日 松本重治氏の慰霊祭参列
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/10/22 18:37 投稿番号: [219 / 2250]
松本重治著『上海時代・下』246〜249p
翌十八日朝、南京に着いた。・・・
まず 「同盟」 の南京支局を訪れたが、一両日中に再開というので、
「同盟」 の従軍記者たちが臨時に中山路のある空家を占拠していたので、
そこを訪ね、同僚たちを労 (ねぎら) おうとしたが、
居合せたのは連絡員だけで、記者やカメラマンの多くは、取材のため、
八方飛びまわっていて、残念ながら会えなかった。
慰霊祭定刻二時の半時間前に入場せねばならぬので、探堀報道部長とともに、
急ぎ祭場の故宮飛行場へ行った。
その日は曇りで、風は強くはなかったが、膚を刺すような寒さであった。
夜来の小雨が雪と変じ、式場は薄化粧をしていた。
参列部隊は定刻までに整列を終えつつあった。
見れば、祭場の中央には東面して、白布の祭壇がしつらえられ、
祭壇の上には神酒を中に、海の幸、山の幸の供物の数々が供えられ、
その後方には高さ数メートルの四角の白木に
「中支那方面軍陸海軍戦病没将士霊標」 と認 (したた) められていた。
戦役した従軍記者、従軍カメラマンたちも合せ祀られていたのであった。
周囲には白布を垂らした真榊が立ち並び、野戦斎場の簡素な情景の中に、
森厳たるものがあった。
斎主としては、陸軍を代表して松井最高指揮官、
海軍を代表して長谷川 「支那方面艦隊」 司令長官。
両氏が定刻に喇叭の音とともに別れ、祭壇近くに着席した。
一段後方に朝香中将宮、柳川中将、近藤戦隊司令官、
さらに後方に各部隊首脳部将士約五百名が参列していた。
式は神式に則って進められ、松井・長谷川両指揮官の祭文が厳粛に読まれ、
ついで日高参事官が川越大使の弔辞を代読、両斎主の玉串奉奠があり、
その間、陸海軍の喇叭手が吹き鳴らす 「国の鎮め」 のうちに、
参列将士一斉に捧げ銃を行い、慰霊祭はいともおごそかに終った。
私はそれで終ったかと思っていると、松井最高指揮官が、つと立ち上り、
朝香宮をはじめ参列者一同に対し、説教のような演説を始めた。
深堀中佐も私も、何が始まったのかと、訝りながら聴いていると、
「おまえたちは、せっかく皇威を輝かしたのに、一部の兵の暴行によって、
一挙にして、皇威を墜してしまった」 という叱責のことばだ。
しかも、老将軍は泣きながらも、凛として将兵らを叱っている。
「何たることを、おまえたちは、してくれたのか。
皇軍として、あるまじきことではないか。
おまえたちは、今日より以後は、あくまで軍規を厳正に、
絶対に無辜の民を虐げてはならぬ。
それが、また戦病没者への供養となるであろう」 云々と、
切々たる訓戒のことばであった。
私は、心に 「松井さん、よくやったなあ」 と叫び、深堀中佐を顧みて、
「日本軍の暴行、残虐は、今、世界に知らされているんだ。
何とかして松井大将の訓戒のニューズを世界に撒きたいのだ。
ぜひとも報導部長の同意を得たい」 と頼むと、深堀中佐は、
「松本君、僕は大賛成だ。だが、今すぐ方面軍の参謀からOKをとってくるから、
ちょっと待っていてくれ」 という。
二十分ほどすると、深堀中佐が戻ってきて、
「参謀は、あまり賛成しないといっている」 というので、私は、
「深堀中佐、このニューズの打電を許可してくれれば、報導部長として、
日本のための最大の貢献になるのですよ。
これを許可しないというほうが報導部長の責任になるのだと考えられないですか」
と詰め寄る。
深掘中佐は、しばし考えていたが、「松本君、君の考え方が正しい。
参謀が何といおうとかまわない。自分は報導部長の責任において、
ニューズの発表、打電を許可する」「すごい。ありがとう。虐殺、暴行の噂は、
少なからず聞いてはいたが、松井大将の話を聞いてみると、現実に、
ずいぶんわるいことをやったらしいではありませんか。
日本軍の名誉回復の一助としたいのです。
ぜひこの電報をやりましょうや」「松本君、やってくれ」。
私は、深掘中佐の手をとって、握手をした。
これは メッセージ 218 (kireigotowadame さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/219.html
12月18日 慰霊祭と訓示
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/10/21 18:39 投稿番号: [218 / 2250]
児島襄著 『日中戦争4』 243〜244p
午後二時から故宮飛行場で陸海軍の合同慰霊祭がおこなわれた。
上海から南京まで、日本軍の損害は戦死 「二万千三百余人」、
傷病者 「約五万人」 をかぞえている。
正面にたてられた高さ八メートルの白木の墓標には、
「中支那方面陸海軍戦病没将士の霊標」 と書かれ、
白布をかけた祭壇には、上海からはこんだ供物がならんでいた。
各部隊の代表将兵が整列するころには、白雪が南京を白く化粧し、
式場にも雪片が舞った。
あらためて上官、戦友、部下の死をいたむ一同は、吹く風も降る雪も、
ともに天が示す哀悼の悲風、悲雪に想え、愁然かつ粛然として佇立していた。
早瀬利之著 『将軍の真実
南京事件
松井石根人物伝』 140〜142p
翌十八日の慰霊祭では、松井は方面軍の参謀たちに、
「中国軍の戦没者もあわせて祈り慰霊するようにせよ。
これが日支和平の基調である」
と伝達した。
しかし、日時の余裕がなく、翌十八日の日中合同慰霊は行なわれず、
日本軍だけの慰霊祭に終わった。この日は寒く、全員寒さに震えている。
松井の、中国人への思いは、十八日の慰霊祭で、祭文を読んでいるうちに声が詰まり、
涕泣したことや、また、十八日の朝の参謀長会で、軍紀風紀の振粛、
中国人軽侮思想の排除、国際関係について話したことにもうかがえる。
派遣軍の飯沼守参謀長は、この朝の松井訓辞を、日記にこう記している。
「今後、奥地に敵を窮迫すべきか否かは大本営の指示によるものにて不明なるも、
我個人の考えにては現在の命令範囲にては不十分。
江北、浙江省方面にも軍の地歩を広く獲得するは、
支那人に新しき決心を催すに必要なりと考えありゆえに意見を具申したく思いあり。
ゆえに一時後方に移駐する師団も、さらに前進する機会あると考えあるを要す。
要は武威に懼服 (くふく) せしむると共に、皇軍に心服親和せしめ、
日支一体の必要を感ぜしむる以外、出征の目的達成の途なし。
これがため、二、三注意をバイシ (数倍) したい。
軍紀風紀の粛正、支那人に対する軽侮の念多し。
これが禍いをなし、今日の事変を生起したるとも言い得、かつ軍人は満州の、
または北支の支那人に対したる観念をもってこの地方の漢民族を同一視するは
まぬかれざるところなり。
漢民族、とくに南方の支那人を個人的に観 (み) るときは、気力、
経済力共に侮るべからざる実質を有す。国民性の欠陥は統制と団結なかりしにあり。
ゆえにこれを加うれば恐るべき力をなす。しかして現今これが実を結びつつあり。
軽侮するは誤りなるを銘心せよ。
国際関係に対する自分の信念としては、支那人にはあまねく親切に、
英米その他諸外国に対しては正しく強く、言うあり。
外国人に対し日本が恐れずと認めしむるか、支那人を反省せしむる途なりと考えあり。
ただし感情的に諸外国に不快の観念をあたゆるは不可なり。
英米政府は極東における日本の勢力を認識しあり。
したがって、彼らは日本と協調的方針を採るべしと見透しあるも、
彼らの国民に対する政策上その通り実行し得ざる点あり。
ことに英国政府しかり。大国の襟度をもって裕々迫らざる態度にて接するを可とす」
このことを、松井は全将校に伝えるように参謀長会議で強調した。
児島襄著『日中戦争4』250〜251p
松井大将も次のように述懐している。
「慰霊祭の直後、私は皆を集めて泣いて怒った。・・・ところが、このあとで、
みなが笑った。甚だしいのはある師団長の如きは 『当り前ですよ』 とさえ、いった」
これは メッセージ 217 (kireigotowadame さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/218.html
幕府山捕虜射殺状況と翌日の調査
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/10/20 18:37 投稿番号: [217 / 2250]
児島襄著 『日中戦争4』 243p
・・・
捕虜たちも、また、日本側が自分たちを江上で処刑するのだ、と誤解したのである。
いっせいに喚声をあげて第一大隊におそいかかり、たちまち七人があるいは殴殺され、
あるいは銃をうばわれて射殺された。
大隊長田山少佐は射撃を下令し、包囲した機銃がうなり、
解放のはずが銃殺による 「始末」 になってしまった。
それでも、〝闇夜の鉄砲〟 の俗諺どおりに、夜間射撃の命中率は悪かったとみえ、
夜が明けると、江岸にのこる捕虜の死体は 「千人を上回った程度」 で、
その他の約三千人は逃亡した、と判定された。
鈴木明著 『「南京大虐殺」 のまぼろし』 旧196〜197p
朝、すべてが明るみに出た時、千あまり (数千ともいう) の捕虜の死体に交って、
日本兵八名と日本軍将校一名の死体があった。
その人の名を書くのは失礼だから、ここには記さない。六十五連隊将校名簿をみると、
戦死者はすべて 「上海劉家行西方にて戦死」 になっているが
(その数は、ナント全将校の半分以上にも上るが) たった一人だけ、
戦闘が行なわれなかったはずの「南京北方地区で戦死ししている人がいる。
この事件が、単に 「捕虜への一方的虐殺」 ではなかったことを、
この一人の将校の戦死の記録が、充分に物語っている。
199p
平林氏の証言
江岸に集結したのは夜でした。
その時、私はふと怖しくなってきたのを今でも憶えています。
向うは素手といえども十倍以上の人数です。
そのまま向って来られたら、こちらが全滅です。
とにかく、舟がなかなか来ない。考えてみれば、わずかな舟でこれだけの人数を
運ぶというのは、はじめから不可能だったかもしれません。
捕虜の方でも不安な感じがしたのでしょう。
突然、どこからか、ワッとトキの声が上った。
日本軍の方から、威嚇射撃をした者がいる。
それを合図のようにして、あとはもう大混乱です。
一挙に、われわれに向ってワッと押しよせて来た感じでした。
殺された者、逃げた者、水にとび込んだ者、舟でこぎ出す者もあったでしょう。
なにしろ、真暗闇です。機銃は気狂いのようにウナリ続けました。
次の日、全員で、死体の始末をしました。
ずい分戦場を長く往来しましたが、生涯で、あんなにむごたらしく、
悲痛な思いをしたことはありません。
我が軍の戦死者が少なかったのは、彼等の目的が、日本軍を〝殺す〟ことではなく、
〝逃げる〟ことだったからでしょうね。
向うの死体の数ですか?
さあ……千なんてものじゃなかったでしょうね。
三千ぐらいあったんじゃないでしょうか……」
200p
鈴木氏の証言
「兵隊は、本当に一生懸命メシを作ったんですよ。
本当に殺 (や) るつもりなら、何であんなに、こっちが犠牲になってやるもんですか。
それに、本当に殺るつもりなら、こちらが殺られるはずがない。
月日は入城式の夜です。私が入城式から帰ると、ちょうどいいところに帰ってきた。
今から護送しろといわれたので憶えているんです。
捕虜は対岸に逃がすといっていました。
しかし、舟が来ないんです。
捕虜は、だまされたといって、騒ぎはじめたんじゃないでしょうか」
山田メモ
十八日
捕虜の件で精一杯。江岸に視察す。
(鈴木明著 『「南京大虐殺」 のまぼろし』 旧195p)
これは メッセージ 216 (kireigotowadame さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/217.html
幕府山 捕虜逃がしに失敗射殺
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/10/19 18:26 投稿番号: [216 / 2250]
両角業作
手記より
十二月十七日は松井大将、鳩彦王各将軍の南京入場式である。
万一の失態があってはいけないとういうわけで、軍からは
「俘虜のものどもを“処置”するよう」 ・・・山田少将に頻繁に督促がくる。
山田少将は頑としてハネつけ、軍に収容するように逆襲していた。
私もまた、丸腰のものを何もそれほどまでにしなくともよいと、
大いに山田少将を力づける。処置などまっぴらご免である。
しかし、軍は強引にも命令をもって、その実施をせまったのである。
ここに於いて山田少将、涙を飲んで私の隊に因果を含めたのである。
しかし私にはどうしてもできない。
いろいろ考えたあげく
「こんなことは実行部隊のやり方ひとつでいかようにもなることだ、
ひとつに私の胸三寸で決まることだ。よしと期して」
− 田山大隊長を招き、ひそかに次の指示を与えた。
「十七日に逃げ残りの捕虜全員を幕府山北側の揚子江南岸に集合せしめ、
夜陰に乗じて舟にて北岸に送り、解放せよ。
これがため付近の村落にて舟を集め、また支那人の漕ぎ手を準備せよ」
もし、発砲事件の起こった際を考え、二個大隊分の機関銃を配属する。
十二月十七日、私は山田少将と共に軍旗を奉じ、南京の入場式に参加した。
馬上ゆたかに松井司令官が見え、次を宮様、柳川司令官がこれに続いた。
信長、秀吉の入城もかくやありならんと往昔を追憶し、
この晴れの入城式に参加し得た幸運を胸にかみしめた。
新たに設けられた式場に松井司令官を始め諸将が立ち並びて聖寿の万歳を唱し、
次いで戦勝を祝する乾杯があった。
この機会に南京城内の紫金山等を見学、夕刻、幕府山の露営地にもどった。
もどったら、田山大隊長より
「何らの混乱もなく予定の如く俘虜の集結を終わった」 の報告を受けた。
火事で半数以上が減っていたので大助かり。
日は沈んで暗くなった。俘虜は今ごろ長江の北岸に送られ、
解放の喜びにひたり得ているだろう、と宿舎の机に向かって考えておった。
ところが、十二時ごろになって、にわかに同方面に銃声が起こった。
さては・・・と思った。銃声はなかなか鳴りやまない。
そのいきさつは次の通りである。
軽舟艇に二、三百人の俘虜を乗せて、長江の中流まで行ったところ、
前岸に警備しておった支那兵が、日本軍の渡河攻撃とばかりに発砲したので、
舟の舵を預かる支那の土民、キモをつぶして江上を右往左往、
次第に押し流されるという状況。
ところが、北岸に集結していた俘虜は、この銃声を、
日本軍が自分たちを江上に引き出して銃殺する銃声であると即断し、
静寂は破れて、たちまち混乱の巷となったのだ。
二千人ほどのものが一時に猛り立ち、死にもの狂いで逃げまどうので如何ともしがたく、
我が軍もやむなく銃火をもってこれが制止につとめても暗夜のこととて、
大部分は陸地方面に逃亡、一部は揚子江に飛び込み、我が銃火により倒れたる者は、
翌朝私も見たのだが、僅少の数に止まっていた。
すべて、これで終わりである。あっけないといえばあっけないが、これが真実である。
表面に出たことは宣伝、誇張が多過ぎる。処置後、ありのままを山田少将に
報告をしたところ、少将もようやく安堵の胸をなでおろされ、
さも 「我が意を得たり」 の顔をしていた。
解放した兵は再び銃をとるかもしれない。
しかし、昔の勇者には立ちかえることはできないであろう。
自分の本心は、如何ようにあったにせよ、俘虜としてその人の自由を奪い、
少数といえども射殺したことは
<逃亡する者は射殺してもいいとは国際法で認めてあるが> ・・・
なんといっても後味の悪いことで、南京虐殺事件と聞くだけで身の毛もよだつ気がする。
当時、亡くなった俘虜諸士の冥福を祈る。
これは メッセージ 215 (kireigotowadame さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/216.html
12月17日 松本重治氏の南京行
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/10/18 16:05 投稿番号: [215 / 2250]
松本重治著 『上海時代・下』 245〜246p
私は、スウェター二枚の上に、「同盟」 本社が送ってよこした冬用の従軍服を着用し、
リュックに身廻り道具をぶち込み、ジョン・ケジックが贈ってくれた
ホワイト・ホースの小壜も忘れずに持って、約束の時間に北停車場に行った。
探堀報導部長は、この夏ごろ着任して以来、幾度か私ら記者たちと語り合ったり、
いっしょに前線の視察に行ったりした、気の置けぬ人柄であった。
彼は九州の殿様の末裔とのことで、小さな深堀城址がまだ熊本か長崎の附近にあると
聞いたが、何となくおっとりしており、親切な、かつユーモアたっぷりの人物でもあった。
車中で、隣席にいた若い軍医が 「上仲軍医中尉です」 と自己紹介する。
友人捕松佐美大郎の夫人のふきさんの弟で、
聖路加病院勤務中であったのを徴用されたという人であった。
名前を聞けば、以前にも、東京で、一、二度だけ会ったことのある人だが、戦地では、
友人知人と会うと、とくに人懐こく感ぜられるのは、私ばかりではないだろうと思った。
深堀中佐が、私のため、缶詰類や、その他の食料品を車中に持ち込んでくれたので、
私もホワイト・ホースを出して、お互いに飲みながら、
四方山 (よもやま) の雑談で愉しく時を過した。
夜になると車中はひどく寒いので、毛布を六枚ももらって寝た。
汽車はときどき停車したり、またゆっくりと走り出したりするわけで、
翌十八日朝、南京に着いた。
「同盟」 の従軍記者が、あらゆる苦労をしてきたのに、私らの場合は、
当時の情況からみれば全くの大名旅行であって、相済まんと思った。
着く前に、今日は陸海軍の合同慰霊祭があると探堀中佐が知らせてくれたので、
「ぜひ特別に参列させてもらいたい」と申し込んだ。
松井最高司令官の顔も見たかったからであった。
*
松本氏は汽車で行ったと言うが、この時期汽車でいくのは無理だった。
汽車の開通は鎮江のトンネルが不通のため12月22日からで、入城式、
慰霊祭参列の人々は、海軍艦艇に便乗して下関から上陸している。
(板倉由明著『本当はこうだった南京事件』303pより)
これは メッセージ 214 (kireigotowadame さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/215.html
12月17日 司令部の移動と和平案改訂
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/10/17 16:08 投稿番号: [214 / 2250]
戦史叢書『支那事変
陸軍作戦1』431p
方面軍司令部は十二月十七日、南京に移動した。
和平案改訂会議
戦史叢書『支那事変
陸軍作戦1』
463p
十七日にも (大本営政府) 連絡会議が開かれ、
広田外相から一部の条件緩和について提案があったが、採択されなかった。
十七日午後、定例閣議が開かれ、和平工作の経緯、独大使に対する回答案が審議された。
連絡会議に参加しなかった閣僚は、本案は軟弱であるとして反対した。
・・・
464p
注
当時、文相であった木戸幸一の覚書によれは
「十七日の閣議に出席し、提案された和平条件案をみると、あまりにも詳細なので、
これをそのまま相手方に示すことは、逆用され暴露されるおそれがあると
述べたのが契機となり種々の論議に発展した。・・・」
これは メッセージ 213 (kireigotowadame さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/214.html
12月17日ラーベの日記2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/10/16 18:35 投稿番号: [213 / 2250]
軍政部の向かいにある防空壕のそばには中国兵の死体が三十体転がっている。
きのう、即決の軍事裁判によって銃殺されたのだ。
日本兵たちは町をかたづけはじめた。山西路広場から軍政部までは道はすっかり
きれいになっている。死体はいとも無造作に溝に投げこまれた。
午後六時、庭にいる難民たちに莚 (むしろ) を六十枚持っていった。みな大喜びだった。
日本兵が四人、またしても塀をよじ登って入ってきた。
三人はすぐにとっつかまえて追い返した。四人目は難民の間をぬって正門へ
やってきたところをつかまえ、丁重に出口までお送りした。
やつらは外へでたとたん、駆け出した。
ドイツ人とは面倒を起こしたくないのだ。
アメリカ人の苦労にひきかえ、私の場合、たいていは、「ドイツ人だぞ!」
あるいは「ヒトラー!」と叫ぶだけでよかった。
すると日本兵はおとなしくなるからだ。
きょう、日本大使館に抗議の手紙を出した。
それを読んだ福井淳 (きよし) 書記官はどうやら強く心を動かされたようだった。
いずれにせよ福井氏はさっそくこの書簡を最高司令部へ渡すと約束してくれた。
私、スマイス、福井氏の三人が日本大使館で話し合っていると、
リッグズが呼びに来て、すぐ本部に戻るようにとのこと。
行ってみると、福田氏が待っていた。発電所の復旧について話したいという。
私は上海に電報を打った。
ジーメンス・中国本社
御中。上海市南京路二四四号。「日本当局は当地の
発電所の復旧に関し、ドイツ人技術者をさしむけてほしいとのこと。
戦闘による設備の損傷はない模様。回答は日本当局を介してお願いしたい」
ラーベ
日本軍は本当はわれわれの委員会を認めたくはないのだが、ここはひとつ、
円満にことを運んでおく方がいいということだけはわかっているようだ。
私は最高司令官に、次のようにことづけた。
「『市長』 の地位にはうんざりしており、喜んで辞任したいと思っています」
*
公用以外は日本兵の外出が禁止されているのに、なぜラーベの家に出没できる。
第九師団・山砲第九連隊・第七中隊長大内義秀氏は
私達は十二月十五日、南京に入城し、支那軍の兵営に分宿し、各隊は衛兵を立て
兵の外出を禁止したので、公用の将校以外は、各個に外出した兵はない。
(富士信夫著『「南京大虐殺」はこうして作られた』210p)
と証言している。
それに停電しているから、夜は真っ暗、南京に不案内な日本兵は、
ウロウロしたら道が判らなくなって帰れなくなるだろう。
そんな事になったら、便衣兵に虐殺される。危なくてウロつけない。
それに、翌日は慰霊祭、その次の日より、南京を去らなければならない。
その準備があるので、悪さをしている暇はないのだが。
こういう犯罪が出来るのは、南京を知り尽している中国人では?
これは メッセージ 212 (kireigotowadame さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/213.html
12月17日ラーベの日記1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/10/15 18:46 投稿番号: [212 / 2250]
二人の日本兵が塀を乗り越えて侵入しようとしていた。
私が出ていくと 「中国兵が塀を乗り越えるのを見たもので」 とかなんとか言い訳した。
ナチ党のバッジを見せると、もと来た道をそそくさとひきかえして行った。
塀の裏の狭い路地に家が何軒か建っている。
このなかの一軒で女性が暴行を受け、さらに銃剣で首を刺され、けがをした。
運良く救急車を呼ぶことができ、鼓楼病院へ運んだ。
・・・
アメリカ人のだれかがこんなふうに言った。
「安全区は日本兵用の売春宿になった」
当たらずといえども遠からずだ。昨晩は千人も暴行されたという。
金陵女子文理学院だけでも百人以上の少女が被害にあった。
いまや耳にするのは強姦につぐ強姦。夫や兄弟が助けようとすればその場で射殺。
見るもの聞くもの、日本兵の残忍で非道な行為だけ。
仲間のハッツがひとりの日本兵と争いになった。その日本兵は銃剣を抜いたが、
アッパーカットを食らい、吹っ飛ばされて地面に叩きつけられた。
そして完全武装した二人の仲間といっしょに逃げていった。
きのう、岡崎総領事から、難民はできるだけ早く安全区を出て家へ戻り、
店を開くように、との指示があった。
店?
店なんかとっくに開いてるじゃないか。
こじ開けられ、ものをとられていない店なんかないんだからな。
驚いたことに、ドイツ大使トラウトマンの家は無事だった。
クレーガーといっしょに大使の家からわが家に戻ってきた。
なんと家の裏手にクレーガーの車が停まっているではないか。
きのう日本軍将校数人とホテルにいたとき、日本兵に盗まれたものだ。
クレーガーは車の前に立ちはだかり、がんとして動かなかった。
ついに、中に乗っていた日本兵は、
“We friend … you go !”(俺たち友達ね……さあ行けよ!)
と言って返してよこしたのだった。
このときの日本兵は午後にまたやって来て、私の留守をいいことに、
今度はローレンツの車を持っていってしまった。私は韓に言った。
「『お客』 を追っ払えないときには、せめて受け取りをもらっておくように」
すると、韓は本当にもらっておいたのだ。
“I thank your present! Nippon army K.Sato.”
(プレゼントどうも!
日本軍、K・サトウ)
ローレンツはさぞ喜ぶことだろう!
*
実に不思議な話だ
松井大将や朝香宮殿下・長谷川中将などが参列して、式典が行われている最中に、
式典から外れた区域で悪行三昧をやらかす日本兵がいるとは。
最近は式典をぶち壊す、不埒な日本人が増えているが、昭和45年頃まではいなかった。
これらの“日本兵”は本当に日本人なのだろうか?
*
韓は受け取りをもらっているが、彼は日本語ができたのか?
学のない日本人は英語ができない。かつ日本人は英語を文法から習う。
しかしてこの英語は文法通りではない。
児島襄著『日中戦争4』240p
第十軍、上海派遣軍の主力は、その (慰霊祭) 直後に次期作戦のために
南京退去が指示されているので、その用意にも繁忙であった。
兵隊は、式典の参加・警備だけでなく、移動の準備もしなければならないので、
悪さなどしている、暇はない筈だが。
これは メッセージ 211 (kireigotowadame さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/212.html
12月7日 松井大将と柳川中将の喧嘩
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/10/14 18:47 投稿番号: [211 / 2250]
早瀬利之著『将軍の真実
南京事件
松井石根人物伝』139〜140p
この入城式典直後のことである。
首都飯店の方面軍司令官室で、松井と柳川との大喧嘩が起きた。
柳川平助は参謀長の田辺と二人だった。松井司令官室で二人だけの話となると、
田辺はとなりの角良晴副官室でようすをうかがっている。
そのとき、となりの松井の部屋で、突然、
松井にしては珍しく大声で怒鳴る声が聞こえた。
二人のようすが変なので、田辺は角副官に、「なんとかしてくれ」 と心配そうに言う。
角は、日ごろから、柳川平助の、方面軍司令官を無視した行動といい、
直接東京の下村定第一部長と連絡して南京攻撃に出たことといい、
腹にすえかねていたことも多く、松井の気持ちがよく分かっていた。
田辺の慌てぶりに、女房役の角は、「弱い参謀長殿だな」 と思いながら、
「大将と中将です。二人が取っ組み合いのケンカをするはずもないし、
軍政の根本問題ですから、しばらくやらしておきましょう」
と言って、ほっとくことにした。
このとき角が耳にした松井の声とは、
「支那のことは支那人にまかせ、日本軍はオブザーバーになれ」 だった。
これに対し柳川平助は、
「皇軍が血を流して取ったところである。
日本みずから、軍政を敷いてやるのが当然である」
と反論した。
この二人の激論から、占領後の南京をめぐり、軍政を敷くという柳川と、
中国人の自治体づくりによる政権、国際的視野を広げることとする松井との、
対立だったことが推測できる。
大激論がひとまずおさまった頃合いを見て、角はコーヒーを持って入った。
すると、二人とも黙り込んでいた。角はそのとき、「話し合いは決裂だな」 と直感した。
このときの会談は、柳川の方から申告されていて、
それに対して松井方面軍司令官が持論を曲げずに、柳川を説き伏せた形である。
頭ごしの 「軍政」 と 「中国人の自治政権」 との意見の相違だった。
これは メッセージ 210 (kireigotowadame さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/211.html
12月17日南京入城式
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/10/13 18:44 投稿番号: [210 / 2250]
早瀬利之著『将軍の真実
南京事件
松井石根人物伝』137〜139p
方面軍司令官と幕僚たちは、
午後十二時半に自動車が湯水鎮の臨時方面軍司令部を発った。
一時二十五分、つまり五分前には中山門の外に到着。
派遣軍、第十軍司令官及び幕僚たちに出迎えられる。
一時半きっかりに、用意されていた馬に乗馬した。
中山門は戦禍で崩れかかっている。
その門をくぐると、中山東路の右側 (北) に上海派遣軍、
左側 (南) に第十軍の各師団の兵が整列している。
上海派遣の兵は背嚢 (はいのう) を負った完全重装備。
第十軍の兵たちは外套を左肩から右脇に斜めにかけ、背嚢に水筒という略式の軽武装。
この中山門から国民政府庁舎近くまで約三キロに及ぶ。
上空には海軍の荒鷲六十機が編隊を組み、
紫金山の山頂をかすめて式場の上空を旋回しながら警戒した。
陸上ではラッパが鳴り渡る。
先頭に松井石根、その後方の右に上海派遣軍司令官朝香宮鳩彦王殿下、
後方左に第十軍司令官柳川平助中将。各司令官のあとにそれぞれの師団長、
幕僚がつづいた。
同じ時刻、ユウ江門からは海軍の入城が始まる。
海軍は長谷川清支那方面艦隊司令長官を先頭に、
大川内伝七上海海軍特別陸戦隊司令官、近藤英次郎第十一戦隊司令官がつづいた。
そして中央広場から国民政府にいたる中山路に堵列した陸戦隊を閲兵のあと、
国民政府内の陸軍と相会する。
元毎日新聞写真記者の佐藤振寿は上海戦から南京戦まで従軍し、
十二月十七日の入城式も写真にとり、文章で書き残した。
彼は陸・海両軍が国民政府内で合流したあとの模様を、つぎのように記している。
「やがて、君が代のラッパ吹奏のうちに、国民政府正門上に大きな日章旗が掲げられた。
(後略)」・・・
松井が (東方) 遥拝のあと、万歳三唱を発声した。最初の万歳は声に出た。
しかし、二度目はこみ上げるものがあり、声に出なかった。やっと三度めが声になった。
第三十旅団長の佐々木到一少将は、会場の国民政府の中庭に集合した一人で、
松井司令官のすぐ前に立っていた。
彼は、万歳三唱のあとの松井の挨拶を、眼の前で聞いている。
「大元帥陛下の御稜威 (みいつ) によりまして、わが派遣軍は赫々 (かっかく)
の戦果を収めここに……」 と挨拶したとき、松井の声がつまったのを見た。
松井は、泣いていたのである。
佐々木はこう記している。
「このとき、軍司令官の痩せた頻に、一すじの糸を引いたのを見た。
予は正面列中にいたので、老大将の胸中の動きを、明らかにその顔面神経に
看取することができたのである。だれがこの無限の感慨に心を動かさぬ者があろう。
(中略)冷酒乾盃。吾らの軍司令官殿下も、この日とくに御機嫌麗 (うるわ) かに
あらせらるるのを見上げた」
この遥拝式が終わると、師団長以上の撮影。
その後、各隊長以上を一室に集めて、角良晴が運ばせた冷酒で乾盃する。
最後は長谷川長官の 「大元帥陛下万歳」 の三唱で、入城式典を終わる。
これは メッセージ 209 (kireigotowadame さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/210.html
12月16日 松本重治氏南京行へ誘われる
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/10/12 16:14 投稿番号: [209 / 2250]
松本重治著 『上海時代・下』 245p
南京は昭和十二年 (一九三七年) 十二月十三日夕刻完全に陥落し、
十七日 「中支那方面軍」 は、松井最高指揮官を先頭に、各部隊長幕僚らや
選抜部隊が正式の入城式を行った。
その前日、軍報導部長深堀 (游亀) 中佐が、私を電話で呼び出し、
「十七日から、上海−南京間の鉄道は、途中でトラックに乗り換える必要も
あるかも知れぬが、とにかく曲りなりに修復されたので、
一度、占領後の南京をいっしょに見に行かないか」 との招待があった。
十七日午後から汽車に乗り込み、十八日朝南京到着の予定も知らされてきた。
それで、私は、前線に従軍した 「同盟」 の同僚たちにも会えるので、
「いっしょに行きましょう」 と、即座に承知した。
*
ここの記述は、松本氏が時期を勘違いして、書いているのですが、
ある重要な事の否定のためには、
この間違いが必要ですので、本の記述通りに書きます。
これは メッセージ 208 (kireigotowadame さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/209.html
松井大将 赤子を拾う
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/10/11 16:08 投稿番号: [208 / 2250]
早瀬利之著『将軍の真実
南京事件
松井石根人物伝』134〜136p
湯水鎮の焼け跡から赤子を救う
松井石根方面軍司令官は、十五日午後一時、蘇州を発った。
蘇州飛行場から句容飛行場に飛び、そこから自動車で湯水鎮の方面軍司令部に移動した。
着いたのは夕方の四時だった。
南京攻撃の日から十四日まで、松井は肺炎を併発する寸前の重態だった。
高熱と悪寒に苦しんでいる。作戦命令は病床から冷静に命令、伝達した。
当初、湯水鎮への移動は十四日を予定していたが、軍医に止められて一日延期となった。
蘇州にいる間、司令部には、天皇より参謀総長を経て、
南京攻略に関しての御語が届けられた。
「中支那方面軍の陸海軍の諸部隊が上海付近の作戦に引き続き、勇猛果敢なる追撃
を行ない、首都南京を陥れたることは深く満足に思う、この旨将兵に申し伝えよ」
松井は読み終えると、塚田攻参謀長に手渡した。
松井も幕僚たち全員も、感あまって、ついにうれし泣きした。
天皇の御語はただちに塚田から全軍に伝達された。
派遣軍司令部から各師団へ、師団から旅団へ、旅団から連隊。
その間、松井はただちに天皇への奉答の辞を書き、電送させた。湯水鎮への移動は
そのあとのことで、松井は、ひとつの区切りもあり、いくらか気分も回復していた。
この湯水鎮は温泉が湧くので有名である。
蒋介石はここに別荘をもっていたが、行ってみると戦災で焼失して跡かたもない。
松井は、久しぶりに、幕僚たちといっしょに入浴した。
「一同、久しぶりに入浴して気分を好くす」と、松井は十六日の日記に書いている。
いくらか、この日は体力をもち直していた。
宿舎に戻ったころである。松井や副官の角良晴、それに通訳の岡田尚らは、深夜、
外で赤子の泣き声を聞いて眼をさました。
岡田が外に出て見ると、焼け跡に女の赤子があった。
岡田と当番兵の二人が拾い上げ、温泉で赤子を洗った。
そのあと毛布にくるみ、松井のところに見せに行く。松井も赤子を抱き上げた。
「なんと、むざんなことを」と思った。思わず涙がぽろぽろと落ちた。
岡田がふと、
「松井閣下の松をとって、松子と名づけたい」というと、
「よし、岡田、この子を連れて、南京に行くぞ。お前、面倒見てやれ」
松井が岡田に命じた。南京近くまでは松井が赤子を背負って行ったともいわれる。
のちに、松子は東亜倶楽部の職員、鳥井氏の養女として育てられたが、
幼稚園に行くころ病没した。
これは メッセージ 207 (kireigotowadame さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/208.html
12月16日 ラーベの日記2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/10/10 16:14 投稿番号: [207 / 2250]
菊池氏と車で下関に行って、発電所と米の在庫を調べた。発電所は見たところ損傷なく、
もし作業員がきちんと保護されれば、おそらく数日中に稼働できるだろう。
手を貸したい気持ちはやまやまだが、日本軍のあの信じられない行為を考えると、
四十〜四十五人もの労働者をかき集めるのはむずかしい。
それに、こんななかで、日本当局を通じてわが社のドイツ人技術者を
こちらに呼ぶような危険なことはごめんだ。
たったいま聞いたところによると、武装解除した中国人兵士がまた数百人、
安全区から連れ出され、銃殺されたという。
そのうち、五十人は安全区の警察官だった。
兵士を安全区に入れたというかどで処刑されたという。
下関へいく道は一面の死体置き場と化し、そこらじゅうに武器の破片が散らばっていた。
交通部は中国人の手で焼きはらわれていた。ユウ江門は銃弾で粉々になっている。
あたり一帯は文字どおり死屍累々 (ししるいるい) だ。
日本軍が手を貸さないので、死体はいっこうに片づかない。
安全区の管轄下にある紅卍字会 (民間の宗教的慈善団体) が
手を出すことは禁止されている。
銃殺する前に、中国人元兵士に死体の片づけをさせる場合もある。
我々外国人はショックで体がこわばってしまう。
いたるところで処刑が行われている。
一部は軍政部のバラックで機関銃で撃ち殺された。
晩に岡崎勝男上海総領事が訪ねてきた。彼の話では、銃殺された兵士が何人か
いたのはたしかだが、残りは揚子江にある島の強制収容所に送られたという。
以前うちの学校で働いていた中国人が撃たれて鼓楼病院に入っていた。
強制労働にかり出されたのだ。
仕事を終えた旨の証明書をうけとったあと、家に帰る途中、
なんの理由もなくいきなり後ろから二発の銃弾を受けたという。
かつて彼がドイツ大使館からもらった身分証明書が、
血で真っ赤に染まっていま私の目の前にある。
いま、これを書いている間も、日本兵が裏口の扉をこぶしでガンガンたたいている。
ボーイが開けないでいると、塀から頭がにゅっとつきでた。
小型サーチライトを手に私が出ていくと、サッといなくなる。
正面玄関を開けて近づくと、闇にまぎれて路地に消えていった。
その側溝にも、この三日というもの、屍がいくつも横たわっているのだ。
ぞっとする。 (以下数行字数の都合で略)
*
〉強制労働にかり出されたのだ。仕事を終えた旨の証明書をうけとったあと、
家に帰る途中、なんの理由もなくいきなり後ろから二発の銃弾を受けた〈
これは話が不自然、証明書を渡した日本軍がなぜ撃つ必要がある?
「日本に協力してけしからん」 と、便衣兵が撃つのなら自然だが。
*
〉日本兵が裏口の扉をこぶしでガンガンたたいている。
ボーイが開けないでいると、塀から頭がにゅっとつきでた。
小型サーチライトを手に私が出ていくと、サッといなくなる。〈
これも日本兵の行為だとすると意味不明。
便衣兵なら、ラーベをして日本軍に不快感を抱かせるのに役立つが。
第九師団・山砲第九連隊・第七中隊長大内義秀氏は
私達は十二月十五日、南京に入城し、支那軍の兵営に分宿し、各隊は衛兵を立て
兵の外出を禁止したので、公用の将校以外は、各個に外出した兵はない。
(富士信夫著『「南京大虐殺」はこうして作られた』210p)
と証言している。中隊長でも勝手にウロウロ出来ない。
さて
では、この“日本兵”は何者?
これは メッセージ 206 (kireigotowadame さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/207.html
12月16日 ラーベの日記1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/10/09 18:44 投稿番号: [206 / 2250]
十二月十六日
朝、八時四十五分、菊池氏から手紙。菊池氏は控え目で感じの良い通訳だ。
今日の九時から、「安全区」で中国兵の捜索が行われると伝えてきた。
いまここで味わっている恐怖に比べれば、いままでの爆弾投下や大砲連射など、
ものの数ではない。安全区の外にある店で略奪を受けなかった店は一軒もない。
いまや略奪だけでなく、強姦、殺人、暴力がこの安全区のなかにもおよんできている。
外国の国旗があろうがなかろうが、空き家という空き家はことごとくこじ開けられ、荒らされた。
福田氏にあてた次の手紙から、そのときの状況がおおよそうかがえる。ただし、
この手紙に記されているのは、無数の事件のうち、我々が知ったごくわずかな例にすぎない。
在南京日本大使館
福田篤泰様
拝啓
安全区における昨日の日本軍の不法行為は、難民の間にパニックを引き起こし、
その恐怖感はいまだに募る一方です。
多くの難民は、宿泊所から離れるのを恐れるあまり、米飯の支給を受けたくとも、
近くの給食所にさえ行けないありさまです。
そのため宿泊所まで運ばなければならなくなり、
大ぜいの人々に食料をいきわたらせることは、大変むずかしくなっています。
給食所に米と石炭を運びこむ苦力を十分集めることすらできませんでした。
その結果、何千人もの避難民は今朝、何も口にしていません。
国際委員会の仲間が数人、なんとかして難民に食事を与えようと、今朝がた
トラックを手配しようとしましたが、日本軍のパトロール隊に阻止されました。
昨日は委員会のメンバー数人が、私用の乗用車を日本軍兵士に奪われました。
ここに日本兵の不法行為リストを同封します。
(ただし、ここにはリストは掲載されていない)
この状況が改善されない限り、いかなる通常の業務も不可能です。
電話や電気、水道などの修復、店舗の修繕をする作業員はおろか、
通りの清掃をする労働者を調達することすらできません。
……私たちは昨日は苦情を申し立てませんでした。
日本軍最高司令官が到着すれば、
街はふたたび落ちつきと秩序を取り戻すと考えていたからです。
ところが昨晩は、残念ながらさらにひどい状況になりました。
このままではもうどうにも耐えられません。
よって日本帝国軍に実情をお伝えすることにした次第です。この不法行為が、
よもや軍最高司令部によって是認されているはずはないと信じているからです。
敬具
代表
ジョン・ラーベ
事務局長
ルイス・S・C・スマイス
ドイツ人軍事顧問の家は、片端から日本兵によって荒らされた。
中国人はだれひとり、家から出ようとしない!
*
安全区内の略奪等は本当に日本兵の仕業なのだろうか?
上海派遣軍第九師団第三十六聯隊長だった脇坂次郎氏は東京裁判の宣誓供述書で
《私は十二月十五日、南京城内巡視の際、難民区の実情を視察したいと考えたが、
憲兵が厳重に警備していて、部隊長と雖 (いえど) も特に許可がなければ立入りは
禁じられていると言って拒絶され、遂に内部を視察することは出来なかった。》
と証言している。
将校ですら許可なく入れない安全区に、
どうやって兵隊が略奪や強姦などの為に入れるのだろうか?
おまけに翌日は入城式。その準備で忙しい。悪さをしている暇はない筈だが。
これは メッセージ 205 (kireigotowadame さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/206.html
12月16日 城内清掃と和平案改訂会議
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/10/08 18:25 投稿番号: [205 / 2250]
児島襄著 『日中戦争4』 238〜239p
― 十二月十六日、
日本軍は掃蕩と清掃をいそいだ。
翌日、十七日に入城式、次いで十八日に陸海合同慰霊式をおこなう
ことがきまったからである。
とくに、市内に散乱する中国側の死体の片づけが、急務とみなされた。
入城式行進のルートは、中山門から国民政府大礼堂までの目ぬき通りがえらばれている。
「安全区」 委員会に協力がもとめられ、委員会は、紅卍会 (楊登瀛) と
慈善団体 「崇善堂」(周一通) に委託した。
紅卍会は急には人夫が集められない旨を回答し、「崇善堂」 だけが、
「安全区」 の難民を 「一体四角」 の処理賃金で動員した。
だが、それでもわずか四十人をあつめ得たにすぎず、
おかげで死体処理といっても、中山路と中正路が交差する鼓楼付近の死体を、
双龍巷、石婆巷などの露地の側面につみあげるか、
いくつかの池に投棄するだけで埋葬は後日に待つほかはなかった。
死体の壁ができた露地には、たちまち野犬、野良猫、ネズミがむらがり、
凍った死体の腹をかみやぶり、その中で眠るものもいた。
捕虜の処置もいそがれ、前述した 「安全区」 の法務部から連行された
中国兵約二千三百人の大半が処刑された。
和平案改訂会議
戦史叢書 『支那事変
陸軍作戦1』 463p
十六日の大本営政府連絡会議では、独大使に対する回答案の取り扱いなどが審議された。
*
会議は翌日も続く
これは メッセージ 204 (kireigotowadame さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/205.html
12月16日 幕府山 火災で捕虜逃
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/10/07 18:37 投稿番号: [204 / 2250]
山田メモより
十六日
相田中佐を軍司令部に派遣し、捕虜の扱いにつき打合わせをなさしむ。
捕虜の監視、田山大隊長誠に大役なり。
(鈴木明著 『「南京大虐殺」のまぼろし』 旧194p)
両角業作
手記
炊事が始まった。某棟が火事になった。
火はそれからそれへと延焼し、その混雑はひとかたならず、
聯隊からも直ちに一中隊を派遣して沈静にあたらせたが、
もとよりこの出火は彼らの計画的なもので、
この混乱を利用してほとんど半数が逃亡した。
我が方も射撃して極力逃亡を防いだが、暗に鉄砲、ちょっと火事場から離れると、
もう見えぬので、少なくも四千人ぐらいは逃げ去ったと思われる。
私は部隊の責任にもなるし、今後の給養その他を考えると、
少なくなったことを却って幸いぐらいに思って上司に報告せず、
なんでもなかったような顔をしていた。
児島襄著 『日中戦争4』 236〜237p
この夜、約八千人の捕虜をかかえた幕府山の第六十五連隊では、
午後九時すぎ、夕食の炊事中に火災が発生した。
捕虜を監視していたのは、第一大隊 (田山芳雄少佐) の兵四、五人であったので、
ただちに一個中隊がかけつけたが、なにせ相手は八千人である。
あっという間に、約半数が逃亡してしまった。
が、第百三旅団長山田少将も、第六十五連隊長両角大佐も、内心はホッとした。
少将は、捕虜を 「始末」 せよとの指示をうけていたし、
大佐は、捕虜にたいする給養に苦慮していたからである。
東中野修道著 『南京大虐殺の徹底検証』 132〜133p
ともあれ、幕府山要塞の地下倉庫に備蓄された食糧が発見された。
渡りに舟とばかりに、それがバラック棟に運び込まれる。
やがて、投降兵自ら自給自足するよう、指示が出た。投降兵の炊事が始まった。
ところが、ある一棟から出火した。
不注意で出火させれば寒天の下で眠らなくてはならないから、
不注意の出火ではなかった。意図的な放火であった。
両角連隊長は、脱走を狙った放火と判断した。
これが収容三日目 (十二月十六日) のことになる。
この放火事件は、「第十三師団山田支隊兵士の陣中日記」 の筆者十九名中、
四人が陣中日記に記す。
・・・・
こうして火災の出た日 (十二月十六日) の夕方、一部の投降兵が銃殺に処せられた。
しかし、揚子江岸の処刑については、両角連隊長の手記は何も記していない。
が、両角部隊兵士の複数の陣中日記 (十二月十六日) には明記されている。
たとえば「遠藤高明陣中日記」には次のように書かれている。
《夕刻ヨリ軍命令ニヨリ捕虜ノ三分ノ一ヲ江岸二引出シⅠニ於テ射殺ス。》
「Ⅰニ於テ射殺ス」、つまり第一大隊によって投降兵は射殺された。遠藤少尉 (仮名)
の言う軍命令とは、師団命令を受けた形の旅団命令であったのであろう。
これは メッセージ 203 (kireigotowadame さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/204.html
入城式の日取・和平案改訂・幕府山捕虜
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/10/06 18:35 投稿番号: [203 / 2250]
入城式の日取り交渉
早瀬利之著 『将軍の真実
南京事件
松井石根人物伝』 136p
塚田参謀長は十五日に派遣軍司令部を訪ね、
「杭州、蕪湖、揚子江右岸地区の安定確保。
一部の兵力を大本営の使用に供すること、航空隊をもって要塞を爆撃すること」
など五項目について、松井司令官の意向を伝え、
ついでに入城式を十七日に行なうことで念を押している。
これに対し、飯沼守派遣軍参謀長、「十八日入城式」 とゆずるが、
方面軍の強腰に屈して、十七日に行なうことになっていた。
なぜ松井方面軍司令官が十七日の入城式にこだわったかは、今もなぞになっている。 ただ、
松井には、参謀本部からの要請で、二十日には上海にもどらなければならない事情があった。
広東作戦、浙江作戦、上海の新政府構想、およびパネー号事件で、上海のイギリス大使や
提督との談判など、難問題を抱えていて、南京に長くとどまっておれない事情があった。
和平案改訂会議
戦史叢書 『支那事変
陸軍作戦1』 463p
十五日の (大本営政府) 連絡会議では、
従来どおり現在の国民政府を中央政府と認めてこれと折衝するに決し、
かつ交渉条項は前日のとおり大体決定した。
多田次長は、事変の早期解決、長期持久戦回避の必要を述べたが、
出席者はこれを了承した。
幕府山捕虜の扱い
山田旅団長メモ
十五日
捕虜の始末のことで本間少尉を師団に派遣せしところ 『始末せよ』 との命を受く。
各隊食糧なく困窮せり。捕虜将校のうち幕府山に食糧ありときき運ぶ。
捕虜に食わせることは大変なり。
(鈴木明著 『 旧 「南京大虐殺」 のまぼろし』 193p)
これは メッセージ 202 (kireigotowadame さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/203.html
スミス氏講演の12月15日の分
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/10/05 18:52 投稿番号: [202 / 2250]
ラーベの日記の12月15日より
私は十二月十五日に南京を後にしましたが、それまでに私をはじめ、
ほかのヨーロッパ人の見たところによれば、
中国人の家はすべて、ヨーロッパ人の家はその大部分が、
日本兵によって略奪しつくされていました。
屋根にはためくヨーロッパの国旗も引きずりおろされました。
日本兵の一団が家財道具を取っていく姿も見られました。
とくに好まれたのは壁掛け時計だったようです。
まだ南京に残っていた外国の車は、徴発される前に国旗を引き裂かれました。
安全区国際委員会からも、乗用車二台とトラック数台が押収されました。
カフェ・キースリングの前で、私はたまたまラーベ氏に出会いました。
氏は店主と力をあわせ、日本兵を次から次へと追い払っていました。
かれらは店のドイツ国旗を外して食べ物を奪おうとしたのです。
下関では、四、五百人の中国人が連れ去られました。ヨーロッパ人が後を追おうと
したのですが、日本軍におしとどめられて果たせませんでした。
十二月十五日、外国の記者団が、南京から上海に向かう日本の軍艦に
乗せてもらうことになりました。
ところがそのあとで、イギリスの軍艦でいけることになり、
桟橋に集合するよう指示がありました。
出発までに予想以上に時間がかかったので、
偵察をかねて、あたりを少し歩くことにしました。
そこでわれわれが見たものは、広場で日本軍が中国人を縛り上げ、
立たせている光景でした。
順次、引きたてられ、銃殺されました。
ひざまずいて、後頭部から銃弾を撃ちこまれるのです。
このような処刑を百例ほど見たとき、指揮をとっていた日本人将校に気づかれ、すぐに
立ち去るように命じられました。ほかの中国人がどうなったのかはわかりません。
*
>日本兵の一団が家財道具を取っていく姿も見られました。
とくに好まれたのは壁掛け時計だったようです<
兵隊が壁掛け時計を盗んでどうするのでしょう?
彼らには移動命令が出ています。行軍には邪魔なのですが。
家財道具と言っても、本部詰所の必需品がそろえば、それ以上必要ない。
兵隊が、そんなもの盗ったところで行軍の邪魔になるだけ。
彼ら外国人は、そういう事に気づかないのでしょうか?
*
>四、五百人の中国人が連れ去られ・・・日本軍が中国人を・・・銃殺<
こういう言い方によって、スミス氏は米国市民に誤解を与えています。
中国人と言えば中国人ですが、無辜の市民ではありません。
軍服を脱ぎ便衣兵となった中国兵です。兵士が降伏せずに平服に着替えて市民の
中に潜ったら、スパイ・ゲリラと見なされます。処刑されても仕方ありません。
ラーベなどは、彼らは武器を捨てた元兵士などと言っていますが、
大事な事を忘れています。
中国軍が安全区に軍事施設を作っていた事を。
彼らは、路上で武器を捨てても、安全区に戻れば、いつでも武器を取り出せます。
処刑された人の中に、間違って市民が混じっていたとしても、
それは日本軍の罪ではありません。
間違うように仕向けた、中国式戦法こそ問題があるのです。
これは メッセージ 201 (kireigotowadame さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/202.html
12月15日 陸軍の移動命令と海軍の動き
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/10/04 15:45 投稿番号: [201 / 2250]
陸軍の移動命令
戦史叢書 『支那事変
陸軍作戦1』 431p
十二月十五日、中支那方面軍は、同月七日の大陸命に示された担任地域内主要各地の
安定確保と次期作戦準備のため隷下両軍に次の任務を与えた。
一
上海派遣軍ハ
一部ヲ以テ
揚子江左岸ニ於テ
揚州
及
ジョ (サンズイ+除) 県
付近ヲ
占領シ
江北大運河
及
津浦鉄道ヲ遮断シ
主力ヲ以テ
南京南翔間ノ
主要各地ニ
兵力ヲ配置シ
警備ニ任スルト
共ニ
次期作戦ヲ
準備スヘシ
司令部ハ
南京付近ニ
位置スヘシ
二
第十軍ハ
杭州攻略後
蕪湖、ネイ国、湖州、杭州、松江間ノ主要各地ニ
兵力ヲ配置シ
警備ニ任スルト
共ニ
次期作戦ヲ
準備スヘシ
杭州ヲ攻略セハ
司令部ハ
杭州付近ニ
位置スヘシ
三
各軍ハ
速 (すみやか) ニ
軍隊ノ整理、整頓、戦力恢復 (かいふく) 充実
並 (ならび) ニ
作戦地域ノ
安定ヲ
図ルヘシ
〔本項に関し方面軍参謀長は両軍は警備地区内において、敗残兵の掃蕩、
隠匿兵器及び軍需資材の収集、戦場掃除、破壊交通網の回復、
兵要地理の調査を実施するよう指示している〕
四
両軍ノ
作戦地境ハ
黄浦江−北新芤下流−蘇州河−呉江−和橋鎮−黄金山
−大路亭−江寧鎮下流水流ヲ
連ヌル線
*
この指示により、第十軍と上海派遣軍の大部分は慰霊祭後南京を去ります。
海軍の動き
戦史叢書『中国方面海軍作戦1』468〜469p
十五日、「栂、掃二号」はそれぞれ南京下流及び龍潭水道において残敵掃蕩。
「保津、鵲」 は徹宵執拗な敵の狙撃を冒してパネー遭難者救援作業に従事した。
01:00 米国砲艦オアフ及び英国砲艦レディバードは遭難者の収容を終わり、
「鵲」 は両艦を嚮導下江した。また 「保津」 は蕪湖に進出、夕刻同地に到着した。
これは メッセージ 200 (kireigotowadame さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/201.html
Yahoo! Japan 掲示板 アーカイヴ
[検索ページ]
(中東)
(東亜)
(捕鯨 / 捕鯨詳細)