入って中国人に南京事件真相議論しましょう

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8月7日 ボツにされた松本氏の電文

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/19 18:51 投稿番号: [1530 / 2250]
松本氏は、保安隊の接近から危険を察知し東京に打電しましたが、

翌朝海軍武官室から呼び出されました。



松本重治著   『上海時代・下』   中公新書   191〜192p


《 九時出社した。十時半ごろ、海軍武官室から   「武官室まですぐ来てくれ」   との

電話があった。今さっきいっしょにゴルフをやったのに何用かと訝   (いぶか)   りつつ、

本田少将に会うと、 「松本君、君に問題が起ったのだよ」   という、

「何ですか?」   と驚きながら尋ねると、

「実は島田 (繁太郎) 軍令部次長からの電報で、 昨日君が打った電報は、



『上海内外の情況を誇大に描いたアラーミングな電報である。

海軍は不拡大主義に徹しているので、松本支局長が、ああいう調子で

打電しつづけるのは軍の方針に背馳することになる。

もっと冷静に打電するならばともかく、

そうでなければ、即刻退去命令を出せ』   という意味の訓電だ」



「本田さん、冗談じゃあありませんよ。 昨日、スコット路北方へ馬で行ってみると、

保安隊が、上海を包囲する恰好で逐次包囲圏を圧縮しつつある客観的事実を発見したので、

そのまま報道しただけですよ。誇大だとかアラーミングだとかの批判は、

納得できませんね、本田閣下」   と、私は少し改まって、

「あなたもよく私を知っておられるでしょう。私がそんな好戦的な電報なぞ

絶対的に打たないことを、閣下もご存じでしょう」



「松本君、解っているよ。解っているよ。そんなに怒るなよ。

しかし、軍令部次長から私に直接電報が来ているので、何とか処置したことを

返電せねばならない。このことは、君も解ってくれるだろう」

「本田閣下、じゃ、私を叱っておいたといって返電されればいいでしょう」

「ウン、厳重警告したってね」

「それでも結構です。僕は、まだ、この上海でやらねばならぬ仕事があるので、

退去命令はやめて欲しいです」



「解ったよ、しかるべく処理してしまおう。心配するなよ」

「イヤ、ありがとう」   というわけで、握手して別れた。

後年、問題の電報を探してみたが、 『同盟旬報』 にもなかった。

結局、海軍報導部で発禁にしてしまったからであったろうと思った。》



*   よく世間では、軍が検閲して、戦争に反対する記事を、

   出させなかったとか言われますが、

   この場合は、 「戦争を煽るから出させられない」   と言う趣旨のボツでした。

   世間一般のキメつけとは、逆の行動です。



つづく

3月8日 休憩から進軍へ作戦の変更

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/19 18:42 投稿番号: [1529 / 2250]
児島襄著   『日中戦争4』   文春文庫
295〜297p


《 三月八日   −

北支那方面軍第一軍の山西省戡定(かんてい) 作戦は終了し、

第二十師団は潼関をのぞむ黄河左岸、第十四師団はその東方のネイ城、平陸、白波渡、

温県に到着したが、それ以上の   「急進的行動」   に出る気配は示さなかった。



膠済線から南西進した第五師団の一部は、

第二十一旅団長坂本順少将が指揮する第十一連隊(長野祐一郎大佐)と

第二十一連隊(片野定見大佐)を基幹とする有力な部隊だったが、

沂州北東の沂河の東岸の湯頭鎮に集結し、

これまた進撃をいそぐ様子はなかったからである。

・・・


この日、中支那派遣軍から徐州作戦を具申してくると、中佐は、

不拡大方針に変更はない旨の返電を起案して、発信している。

・・・

同じこの日、北支那方面軍第二軍司令官西尾中将は、

参謀鵜沢尚信中佐をエン州の第十師団司令部に派遣した。


  「密電ニ依レバ、 津浦沿線ニ於ケル   数ケ師団ノ敵ハ、

   近ク我ニ向ヒ   攻撃ヲ企図シ   アルモノノ如シ」



そこで、エン州の南方の滕県の占領、さらにその東北東の大平邑を確保したい。

  「これは命令ではなく、軍司令官閣下の希望であります」

つまりは、追認を含意する独断行動の要求であり、その種の上司の   「希望」   を

つたえられては、師団長磯谷廉介中将も即応せざるを得ない。

中将は、さっそく、午後六時、第三十三旅団長瀬谷啓少将に第十連隊、

第六十三連隊基幹の支隊を編成させ、下令した。



「瀬谷支隊ハ、適時、津浦線沿線ノ敵ヲ撃滅シテ   先ヅ界河付近ニ進出スベシ」

・・・

第二軍司令官西尾中将は、 「希望」   が師団命令として具体化したのを知ると、

北支那方面軍司令官寺内大将を通じて東京の認可をもとめた。

あくまで当面の敵の掃蕩作戦である。決して深く南進はしない……。

参謀本部は、第二軍の   「掃蕩作戦」   を認可した。



第二軍の言葉を信頼したい、との作戦課長稲田中佐の判断によるが、

「掃蕩作戦」   にせよ、新作戦の実施であり、

七月まで   「作戦休憩」   するとの方針の破綻である。》

8月6日 保安隊に遭遇する松本重治氏

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/18 15:26 投稿番号: [1528 / 2250]
盧溝橋事件が起こると、蒋介石は本格的に戦争準備を始めました。

上海の外側の非武装地帯に、ドイツ軍将校指導の下、トーチカを築き、

上海から南京に至る途中には防御線をしきました。



トーチカの築造については、上海憲兵隊の塚本誠氏が、7月24日ごろ、

上海の周辺の非武装地帯に中国軍がトーチカを造っているうわさを聞き、

私服を着て、ゴルファーの格好で出掛けていき、現物を確認しています。

( 塚本誠著   『ある情報将校の記録』   中公文庫   196pより )



そして中国は、上海の外側に、遠巻きに保安隊を配置し、

徐々に包囲網を狭めていました。

8月6日、同盟通信上海支局長の松本重治氏は、この保安隊に遭遇しています。

松本氏は、いつものように、夕刻、スコット路の北方二、三キロの道路を、

愛馬ポニーで走っていたら、



松本重治著   『上海時代・下』   中公新書    190〜191p


《 中国保安隊員数人がおのおの手榴弾二つを胸にかけ、剣附鉄砲で、

これより以北は、まかりならぬと指示した。

それではと、少し廻れ右しながら北方へ斜めに走らせようとすると、

また、保安隊員がいる。



上海北辺には保安隊が最近増加したとは聞いていたが、上海を包囲する

恰好で、包囲圏を圧縮しているという陣形の気配が明瞭に看取された。

私は、自分の乗馬による散歩通がだんだんと圧縮されたのに、多少は憤慨もしたが、

それよりも、今までは保安隊がいなかったのに、こんなところまでに、やってきたし、

その背後には中央軍が近接しつつあるものと感じ、すべては中国側の

対戦準備の一環ではないかと悟って、そのことをすぐ東京に打電した。》



と言っています。しかしながら、保安隊に遭遇したのは彼だけではありません。

当時、上海の海軍陸戦隊本部にいた小川貞二さんも南西の方で遭遇しています。

彼はサイドカー運転員に誘われて越界路をドライブしていたら、



《 突然、目の前に掘っ建て小屋が現れ、哨兵が小銃を構えて停止を求めました。

シマッタ。これは大変なことになったと思いました。

車も止めて極力冷静に落ち着きを装い、とっさの機転でメモを取り出しました。


「東亜同文書院 (大学) へ行く途中だが、どの方向か」   と筆談を試みました。

哨兵はなんら疑う様子もなく指差して、 「左の道を行け」   と指示してくれました。

ヤレヤレ助かった。・・・猛スピードで飛ばしてフランス租界に入り、

共同租界を経て虹口地区 (日本人居留地) へ入り安堵しました。

本部へ帰った後も知らん顔で、二人とも   「口外しない」 「他言しない」

と約束して別れました。 》



と   『正論』   2001年6月号の   「編集者へ」 に投稿され、

大山中尉の死には自分も関係があると述べられています。


つづく

3月 樋口季一郎ユダヤ人救出に動く

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/18 15:16 投稿番号: [1527 / 2250]
1938年   (昭和13年)   3月8日、ハルビン特務機関長であった樋口季一郎のところに、

満洲里駅対岸に位置するソ連領オトポール駅に、ユダヤ人難民が姿を現したという、

報告が入った。



ラビ・M・トケイヤー著   『ユダヤ製国家日本』   加瀬英明訳

39p

《 満州にあったユダヤ人居留民組織であった、極東ハルビン・ユダヤ人協会の

幹部たちが、ハルビンにあった関東軍の特務機関の機関長であった樋口季一郎

少将   (当時)   と会って、オトポールのユダヤ難民を救うように、懇請した。

当時、ハルビン特務機関には将校や、下士官を始め一千人近い機関員がいた。

満州は日本の国防の第一線だった。》



40〜42p

《 日本人の大多数が、ナチス・ドイツによるユダヤ人迫害を、快く思っていなかった。

満鉄調査部が   『猶太   (ユダヤ)   問題時事報』   を定期的に発行して、

関係者に配布していたが、記事は一貫して、ユダヤ人に同情的なものだった。



一例をあげれば、 「独逸国民六千五百万ノ   一割ニモ満タヌ   在独逸猶太人

六十五万人ガ、優秀民族トシテ内外共ニ許ス   独逸民族ヲ、

圧倒デキル筈ガナイデハナイカ」   という、鋭い批判が行われている。

このように書いた満鉄の社員は、ナチスを見事に嘲   (あざけ)   っていた。

ドイツにおけるユダヤ人の人口は、百分の一にすぎなかった。



樋口は一九三七   (昭和十二)   年八月に、ハルビン特務機関長に任命されると、

満州に住むユダヤ人を助けて、翌年一月にハルビンの商工クラブで

第一回極東ユダヤ人大会を開かせた。



この大会には、満州だけではなく、香港や天津、上海などの中国大陸の各地や、

日本からも、ユダヤ人の代表が参集した。   安江大佐は樋口と陸軍士官学校の

同期生だったが、陸軍きってのユダヤ問題専門家だった。

安江は樋口を機関長とする特務機関にあって、樋口の同志として、ユダヤ人を援けた。



樋口はこの極東ユダヤ人大会に来賓として出席して祝辞を述べ、

「ユダヤ民族の祖国を建設しようとする熱意を、よく理解することができる」

といって、盛んな拍手を浴びた。

今日でも残っている写真を見ると、演壇に日満両国の国旗が飾られ、

背広の私服を着た樋口がユダヤ人指導者たちと並んでいる。




満州国を事実上、支配していた関東軍は、ユダヤ人難民の入境を拒むこともできた。

しかし、樋口はオトポールのユダヤ人難民を救う、決断を行った。


そして、樋口は軍人として当然のことだったが、

新京   (現在の長春)   に司令部を置いていた関東軍の参謀長だった東條英機中将に、

ユダヤ人難民の入国を許可するように求めた。

日本軍ではこのような案件は、軍司令官ではなく、参謀長が決裁した。

樋口は東條の同意を得て、満州国外交部(外務省)と折衝したうえで、

ユダヤ人難民を入境させる措置をとった。》



*   別の本やネットでは、樋口が独断でユダヤ人救出に動いた、

   ともありますが、東條英機が承認したのは事実ですから、

   先に許可を得たか、事後承認かは、問わない事にします。

8月6日 中国 長期戦略を決める

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/17 14:07 投稿番号: [1526 / 2250]
日本が大幅に譲歩した和平案でもって、

これなら中国も応じてくれるだろうと甘い幻想を抱いていたころ、

中国は逆に戦争の準備をすすめていました。



戦史叢書   『支那事変   陸軍作戦1』   264〜265pには


《 中国においては8月6日、第一回国防会議を開催し、

次のような対日方針を決定していた

長期抗戦ヲ原則トシ

   北支那方面防備ノ為   其の主防禦線ヲ   保定 ― 滄州ノ線ニ、

   第二線ヲ   彰徳 ― 済南ノ線ニ、

   第三線ヲ   洛陽 ― 鄭州 ― 開封 ― 徐州 ― 淮陰ノ線ニ

選定シ   徹底的抗日戦ヲ 実施スル為   全般的ニハ   集団戦ヲ避ケ   消極戦ニ

終始スル如ク   各部門ニ亙   (わた)   リ   戦備ノ充実ヲ期ス 》


とあり。



児島襄著   『日中戦争4』   文春文庫   78〜79pには


《「勝倭の道」   「大敵に遇えば即退き、小敵に遇えば即戦う」

「対倭作戦」   「戦術でもって武器の不足を補う」

「戦術原則五項目」

一   要以 持久戦   消耗戦之決策   以 打破 敵人   速戦 即決 之 企図

ニ   要立 主動   敵攻我守   待 其気 衰力疲   我即 乗 出撃

三   要固守 陣地   堅忍不退   以 深溝 高塁 厚壁   粉砕 敵進攻

四   要利用 民力 地物   処処設穽防   従抗戦殺敵

五   要講求防制敵機   大砲戦車 毒気   之戦術   便其攻撃気効 》


とあります。



一、二は   「空間を以って時間に代える」   持久戦・消耗戦略で、

   要するに奥地に引きずり込み疲弊させる、というもの。

二は、主動的立場に立ち、敵が攻めれば我は守り、

   敵が疲れて其の気力の衰えるのを待ち、我乗り出して撃つ

三は、深い溝、高い防塁、厚い壁で以って敵の進攻を粉砕し、

   陣地を固守し、絶対に退かない。

四は、民衆の力、地の利を利用し、罠を仕掛けてのゲリラ戦

五は、空襲、大砲、戦車、毒ガスへの対策

です。



つまり、三つの防御ラインと、長期戦を目的とした戦争方針を作っていたわけです。

  この文書だけでは、戦争準備は8月6日から始まったかのように見えますが、

  本当は、もっと早くから始めていました。


つづく

3月8日 松本氏高宗武と和平を語る2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/17 13:58 投稿番号: [1525 / 2250]
松本重治著   『上海時代・下』   中公新書 268〜269p


《 君も知っているように、日本の通信社には新聞聯合と   『電通』   があった。

第三の新しい同盟通信を作って、既存の両社を吸収合併したという現実の体験が

私にはある。通信社と政府とは、本質的に違うが、それに似た考え方は、

宗武、何か参考にならないかね。



『聯合』   は   『同盟』   に吸収合併されたが、

その錦の御旗ともいうべき、新聞社の連合体という性格をそのまま残し、

同時に、海外との無線発受の特権を独占したのが   『同盟』   だ。

実体は、第三の通信社ではなく、 『聯合』   の発展的解消なのだ。

もちろん政府の改組は、しんこ細工のように、容易に出来るものではないが、

改組にも、やり方はいろいろあるだろうが、

国民政府の歴史の上にも、一九三一年末のように前例があるのではないか?」



「シゲ、第三政府的な論議などは、だめだと思う。

だが、徹底抗戦から和平に切り換えれば、事実上、改組になることになる。

現に、国民政府内でも、いろいろな論議が行われているのは事実だ。

誰彼と、名前をいうことは、今はできないが、

『一致抗日』という金看板は降すわけにはいかないが、

内々に、和平の途を探求しようと考えているものもある」



「宗武、おそらく君もその一人だろうが、ほかに頼りになるような友人があるのかい?」

「まず、周仏海だな」「驚いたね。周さんは蒋介石の第二侍従室長じゃないかね」

「そのとおりだ。蒋が最も信頼している部下だ。

おまけに、彼は党の宣伝部長もやっているよ」

「そうかね。君はまだ亜洲司長をやってるのかね?」



「イヤ、やめたよ。蒋介石さんの諒解の下に、周仏海と話し合って、表面上は、

香港で日本の作戦情報を集める役目をやっているが、僕は、作戦以外の情報が欲しいのだ。

香港だけではだめなので、こっそりと上海まで来て君に会っているわけだ

二月中旬だったか、董(道寧)君と会ったよ。

君の指令で、彼が川越大使に会ったことは聞いたよ」

「董君には、君にも会うようにといっておいたのだよ。

だが、その後の董君の動静が判らない。

上海まで来たのは、一つは董君との連絡をとるためだったんだよ」。



そう聞くと、私は、ちょっと口をつぐんだ。

董君の訪日のことをここで話してしまうか、どうか迷った。

私は意を決して、「宗武、君の情報蒐集は、主として和平のためなのだろう?」

「もちろん、そうだよ」

「君が真剣に和平を考えているのなら、一つ話したいことがある。怒っちゃいけないよ」

「シゲちゃんが何をいったって、僕が怒るものかね」



「では、白状するが、董君は東京へ行ったのだ」   と話すと、

高君の顔面が急に緊張してきた。   私はつづいて、

西・董・私と三人協議のうえ董君を東京へ遣ったことを正確に話したうえ、

「董君が、東京へ行くことは高君の指令範囲外になると、彼自身少なからず躊躇していたが、

僕が責任をもって高司長に釈明するといって、決心させたのだ。

わるかったら、僕がお詫びをする。僕は、董君を東京へ遣ったこと自体は、

両国の和平のためのきっかけになると確信しているんだ。その点、董君が

帰ってきても、あまり叱らずにおいて欲しい。これは僕の頼みだよ」   と述べると、



高君は、「それで、判らぬことが、万事、氷解したよ。

僕だって、叱りやしないよ。しかし、帰りが遅いな」

「ウン、二月十五日ごろ発っていったのだから、もうそろそろ帰ってくるだろう。

帰ってきたら、君が待っているから、すぐ連絡するよう話そう」

「そうしてくれ給え。今日の君の話では、いろいろ、よからぬ既成事実が

出来上ってしまって、和平運動が、ますますむつかしくなるような感じだね」



「その点は、まさしくそのとおりだが、本当の和平運動が、

傀儡政府を通じてやれるものではないことは、明瞭だ。

案外、董君の報告が、われわれにも嬉しい吉報となるかも知れんよ」

「そうなればよいがねえ。とにかく、上海逗留を延そう」

「また、会えるといいがね」   と長談義を終った。》

8月6日 やっと漢口引揚げを発令

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/16 18:53 投稿番号: [1524 / 2250]
戦史叢書   『中国方面海軍作戦〈1〉』
299p


《 漢口では五日   22:00   ころから、中国側が日本租界への交通及び電話を遮断し、

六日零時ころから租界周囲全線の土のう陣地に兵力を増強した。



一方第十一戦隊司令官は、同夜在漢口艦船部隊に戦闘配備に就き

警戒を至厳にすべき旨下命した。

戦闘配備に就いた陸戦隊漢口分遣隊は六日零時から内線の土のう構築を開始した。

かくて近々数十米を隔てて、両軍対峙の状態となり、

正に一触即発の危機迫るの感があった。

六日朝から中国空軍機が編隊で錨地及び租界上空を低空航過して、

夕方までに郊外飛行場に集結した飛行機数二一に及んだ。



このように情勢険悪となったにもかかわらず、

松平総領事代理が依然自由引揚げ以上の措置に出なかったので、

居留民代表は六日   12:00 、同総領事代理に引揚げの発令を迫り、

もし   24:00   までに発令のないときは民団は自由行動に出るべき旨申し入れた。

また漢口に来ていた田中宜昌領事も全面的引揚げの不可避を説いたので、

同総領事代理は   21:00   に至り、全面引揚げを発令した。



谷本司令官は六日、 23:00 、漢口総引揚げに関し海軍中央部、第三艦隊あて、次のように報告した。


  (1)   外務大臣ノ回訓ニ基キ   漢口総僚事代理ハ   本六日夕刻

    在留邦人全部ニ   引揚ヲ命ゼリ。

  (2)   在留邦人ハ   八月七日午後五時迄ニ   全部(約千名)ヲ   日清汽船鳳陽九、

    信陽丸ニ収容セシメ、 勢多、 比良ヲシテ護衛シ、 急遽上海ニ下江セシム。

  (3)   特別陸戦隊ハ   七日深更、 八重山、 栂、 栗ニ収容シ

    八日未明漢口発   下江ノ予定。

  (4)   総領事代理ハ   後始末ノ為 残留シ、 重慶、 宜昌、 長沙領事ハ

    行動ヲ共ニスル予定。 之ガ収容ノ為   岳陽丸ヲ停船ノ筈。



外務官憲は揚子江流域の我が居留民全面引揚げ発令に先立ち、

漢口に日清汽船信陽丸、鳳陽丸、岳陽丸を、九江に瑞陽丸を、蕪湖に襄陽丸を、

南京に洛陽丸、大貞丸を、それぞれ停船若しくは臨時回航させ配備していた。》


つづく

3月8日 松本氏、高宗武と和平を語る1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/16 18:47 投稿番号: [1523 / 2250]
松本重治著   『上海時代・下』   中公新書
266〜268p


《 三日ほど経ってから、高宗武からの電話で、同じ仏租界の空家然たる家で、

四時ごろからふたたび会談した。董君は、東京から上海へはまだ帰っていなかった。



高君は、 「このあいだは、久しぶりで、愉しかったよ。

君の話で、東京の情勢が手にとるように判ったように思う。

そこで、では、これから中国側はどうしたらよいかということを、僕も考えたいのだ。

が、参考のために、ぜひ君の意見を聴きたいね」   という。



「中国側がどうしたらよいのかを僕に尋ねたって、

こちらは、意味のあるような返答なんかはあり得ないじゃないか。

中国側は   『徹底抗戦』   を呼号し、また実行しているじゃないかね。

南京が陥落したって、蒋介石はへこたれるような人間ではないし、

初めから長期抗戦はこれを計画していることだし、……」

と話し出すと、高君は、遮るように、いった。



「軍人は戦争が商売だからいいが、外交官である僕は、呑気に考えてはいられないのだ。

戦争が長期化し、拡大すれば、両国とも、消耗がひどいに定っているし、

戦禍は、主として中国民衆が被害者になるのだよ。

僕としては、何とかして和平の方向に両国を向けねばならんと考えているのだ。

それで、しつこいようだが、君の意見を尋ねているんだ」   と、熱を籠めていう。



私が、高君の顔をじいっと眺めていると、たんなる情報集めをやりに来たのではなく、

「通郵問題」   以来、高君が日中関係のために挺身してきた姿勢が、

今日までも続けられているように思え、国境を越え、戦争の真最中でも、

友人たるに変りはないという感じを得た。



「宗武、僕が一介の新聞記者であり、政府や軍部の代弁者でないことは、

君の知っているとおりだ。常識から考えても、戦争はよくないよ。

ことにこんどの日中戦争は、よろしくない。

日本の国民は、 『何々占領』   とか   『何々陥落』   とかいって、捷報続きで、

酔いしれている。中国国民の多くの人々が、悲惨な戦禍を被っている。

戦線が前進拡大するたびに、占領区域は、その実質はともかく、拡がっていく。

上海・南京区域には、今月末にも   『維新政府』   なるものが、出来上りそうだ。



こういう既成事実が続々と出来るので、

国民政府との和平が、いよいよ困難になってきている。

一月十六日の声明だって、その既成事実をますます強化する方向に向っている。

中国のナショナリズムを評価しているものの一人として、

僕は、こういう傀儡政権と日本が国交を調整しようとしたって、

全くのノン・センスだと思っている。



ノン・センスではあるが、傀儡政椎だって、それぞれ一つの歴然たる既成事実なのだ。

一日も早く和平をもたらすためには、国民政府を改組するか、

あるいは形式的にでもこれらの傀儡政権を吸収合併し得るような第三政府

というようなものをでも考えざるを得ないと思う。



つづく


*   松本氏は占領区に造った臨時政府を傀儡政権として批判しているが、

   こういう見方は住民の事を忘れている。


   軍も行政官も逃げて、そこには中国の行政がない。   誰が行政を担当するのか?

   日本軍に、直接統治をしろと言うのか?   日本が侵略するつもりならやっただろう。

   しかし、日本には侵略の意図はない。 だから、住民に自治をやらせた。

   それを傀儡で愚劣と言う。 ならば日本領にして行政官を送り込めと言うのか?

   口先だけのキレイ事を言うのは簡単だが、住民の立場を忘れてはいないか。

   そういう単純な発想が、結局は、中国の詭弁に利用されてしまう。

漢口情勢の険悪化

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/15 18:45 投稿番号: [1522 / 2250]
戦史叢書   『中国方面海軍作戦〈1〉』


301p

《「鳥羽」 (艦長   久保田智中佐)   は、第十一戦隊司令官の命により、

三十一日漢口発、翌八月一日夜蕪湖に到着した。

三日までは平静であったが、四日、各種抗日後援会が組織された。》



296p

《 八月三日、漢口では日本人使用の中国人に対する圧迫が加わり、

日本人経営の工場は中国人職工の欠勤で就業不能となり、

また日清汽船の中国人船長は乗船を拒み、

武昌では学生の抗日運動が激化した。



軍隊の移動、陣地構築、建築物の対空迷彩などと相まって

漢口は元より流域各地の全面的引揚げは、もはや時間の問題となった。

三日の見通しでは、漢口の任意引揚げは、日清汽船便により八日までに終わる見込みで、

後男子約五〇〇名が残留のこととなった。

このように既に漢口では引揚げ準備に多忙を極めていたので、

当時既に開始された漢口上流各地居留民の引揚げは上海直航のこととなった。》



299p

《 漢口では五日 22:00 ころから、中国側が日本租界への交通及び電話を遮断し、

六日零時ころから租界周囲全線の土のう陣地に兵力を増強した。》



つづく

3月5日 松本氏、高宗武と和平を語る2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/15 18:41 投稿番号: [1521 / 2250]
松本重治著   『上海時代・下』   中公新書
264〜266p


《「もちろん、読んだよ。 国民政府は対手にしないで、日本と

『真に提携するに足る新興   「支那」   政権の成立発展を期待』   する

というのは、中国のためにも、日本のためにも、いただけないね」



「全くそのとおりだ。冀東政権も、冀察政権も日本の軍の力で作り、

また軍の力でつぶしてしまった。昨年末、北平に出来た   『臨時政府』   だって、

日本が   『真に提携するに足る』   ものに発展すると期待するのが、おかしい。

王克敏だって、娘を君にやろうとまでいって、君の将来を見抜く洞察力をもっている。

その王克敏が傀儡政権でない、それ以上のものを構想しているとすれば、

複雑な事情があることは想像できるが、結局、無理な、できない話だとしか考えられない。



軍部が、被占領地域の行政をやるために、

中国人を狩り出して自治委員会とか、何とか政権とかを作らせ、

青天白日旗の代りに五色旗を復活掲揚せしめたりしても、

所詮、うまくゆかないに定っている。

占領軍たる日本軍が強力な支持を与えても、新政権の発展は、本質において、

中国民族主義   (ナショナリズム)   の昂揚を無視するもので、歴史に逆行するのではないか。



私の忖度   (そんたく)   ではあるが、一月十六日の声明は、

北平からの要望に対し誤って応えたものだと思われる節がある。

昨年末、上海で特務機関をやっている塩沢   (清宜)   陸軍大佐が私のアパートに来て、

私に語ったところによれば、日本がトラウトマンの仲介に飛びついたり、

国民政府との直接交渉を期待する限り、王克敏の周りには有力な人が集まらない。

いつ逆賊にされるか判らぬからだ、と王克敏がこぼしている、と聞いたよ。



『そこで、僕   (塩沢)   は東京に行って、蒋介石政権との一切の交渉関係を断たせてくる。

そうすれば、王克敏だって、しゃんとなるだろうと思う』   といっていた。

私は、塩沢大佐に対し、 『王克敏のいっていることはほんとうに違いないが、

蒋介石政権との交渉関係を断てば、それで、すぐさま王克敏の政権が

中国人民の眼に堂々たる政権として映るようにはなりそうにはないと心配しているよ』

というと、 『軍は大幅の権力を王克敏政権に与えてあるし、蒋と絶縁すれば、

自然、中国の人材が集まるに定っている。君の心配もさることながら、

のるかそるか判らぬが、やってみる決心だよ』   といって東京へ発って行った。



その後三週間ほど経つと、例の声明となってしまった。

僕も声明の全文を幾度か読み直し、塩沢大佐の話を思い合せると、

北平の中華民国臨時政府に対し、日本政府が、期待すべからざる期待を寄せたために、

あの声明となったとしか考えられない。

私の考えたとおり、あれから一カ月半、北平では、これというほどの進展はないようだ。

当り前のことだ。そうなれば、考え直さなければならぬのは、東京であり、

近衛総理だということになる。



だから、半年か一年も経たぬうちに、北平への配慮から全局の把握を失ったという、

誤った考え方への反省が、聡明な近衛さんには起ってくるのではないか。

しかし、それが政府の国策としての転換となるには、

今すぐにはいかず、数カ月を要するだろう」   と高君に説明した。

「シゲちゃん、実によく判るよ。もっと話を続けたいが、ここは寒々とした部屋で、

もう二時間も二人で坐っているので、お互いに風邪を引いたらだめだ。

また、三、四日したら電話をかけるから、僕が香港に帰るまでに、

いま一度会いたいね」 「よかろう」といって、別れた。》



つづく


*   松本氏の言葉に   「冀察政権も日本の軍の力で作り」   とあるが、

   これは松本氏の勘違い。

   「冀察政権」   は中国南京政府が創ったもの。

   日本側が宋哲元に働きかけていたので、中国側が先手を打って作り、

   宋哲元をトップに据えた。

引揚げに反対する漢口総領事代理

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/14 18:52 投稿番号: [1520 / 2250]
これまでの   「引揚げ」   は漢口より上流のものでして、

漢口より下流はまだ決まっていませんでした。

そのため、長沙の高井領事代理もグズったわけですが、漢口もモメる事になります。



戦史叢書   『中国方面海軍作戦〈1〉』   293p



《 七月二十九日午後、第十一戦隊参謀安藤憲栄少佐は、

松平忠久漢口総領事代理に漢口在留居留民婦女子の引揚げ促進を申し入れた。

同総領事代理はまだその時機にあらず任意引揚げの程度でよいと力説し、

更に次の所見を述べた。



一   今回の漢口での日本海軍の戦備は、

   かえって中国側及び在留居留民を刺激し危倶の念を与えた。


二   中国側は、北支事態が万一拡大しても、漢口在留居留民の生命、財産の

   安全保障を確言しており、事変勃発以来、事故 (窃盗逮捕、交通事故など) の

   解決が敏速となったのはその例証であり、

   日本海軍が警泊しおるための効果ではない。

   何成濬の威令はよく行われ、安全と認める。


三   要するに平戦両時を通じ、日本海軍

   (注   日本海軍とは第十一戦隊及び陸戦隊なりやとただしたところしかりと答えた)

   は駐屯しない方が、かえって安全であり、

   当地有識者及び一般民衆が等しく感じおるところで、

   また揚子江各地領事の総意でもある。》



*   この他にも、いろんな交渉がありますが、

   漢字カタカナ混じりの文は読みづらいので省略します。


*   ここで注目すべきは、松平総領事代理の考え方です。   彼は、

   1、日本海軍の戦備は中国側を刺激する。

   2、中国側は、日本人居留民の生命、財産の安全を保障している。

   3、日本海軍が駐屯しない方が、かえって安全



   と言っています。これは今の平和主義者と全く同じ発想です。

   それを、総領事代理が、海軍の指揮官に面と向かって言っているわけです。

   総領事代理が、海軍の指揮官に侮辱的発言をしたからといって、

   仕返しをされるわけでもありません。

   これが戦前だったのです。


つづく

3月5日 松本氏、高宗武と和平を語る1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/14 18:43 投稿番号: [1519 / 2250]
松本重治著   『上海時代・下』   中公新書
262〜264p


《 たしか三月の五日だったと思う。

「同盟」   の中南支総局に、私宛の電話がかかった。

私が受話器を取ると、 「シゲちゃん、誰だか判るかい?」。 声に憶えがある。

「宗武   (ツンウー)   だろう」   というと、

「そうだ。今、仏租界の友人の家からかけているのだ。都合がよければ、

来てくれないかね。話がしたいのだ」 「よし、すぐ行くよ」   と、車を飛ばして、

教えられた仏租界のカウフマン路の家のベルを押した。



高   (宗武)   君自身が玄関の戸を開き、私を招じ入れたが、

応接間も、どこも、暖房はなく、召使のものも一人もいない様子だ。

お互いに元気を喜びながら、挨拶もそこそこにして、すぐ話の主題に入った。

高君は、 「君だけに会いにやってきたのだよ」   と前置きしながら、すぐ質問を始めた。

要するに、 「爾後国民政府を対手にせず」   という日本政府の声明は、

ほんとうに本気なのか、どうか、という問題であった。



私は、 「一月十六日の声明は、私個人としては、如何なる事情があるにせよ、

愚劣極まる声明だと思っている。トラウトマンの仲介交渉が成功しなかっただけで、

『爾後国民政府を対手にせず』   といいきるのは、

昨秋和平に望みを託した日本政府として、筋が通らぬ話だ。

こんどの声明が出されたのは、他にさし迫った原因があったに違いない。



南京占領も、その一因だろう。

また、一月十五日に大本営と政府との連絡会議があり、

その決定が同夜八時の臨時閣議で議決され、

近衛総理は、そのすぐあと、宮中に参内して、委曲を奏上し、

翌十六日の正午に内閣から政府声明となったもので、その経緯を想起すれば、

『本気なのかどうか』   と訊かれれば、日本政府は   『本気だ』   と

答えざるを得ないね」   と、私が説明すると、



高君は、 「『本気だ』   と君がいうのだから、 『本気だ』   と

受けとらぬわけにはいかないね。しかし、シゲちゃん、

日本政府は、いつまで、その声明どおりの姿勢をとりつづけ得るだろうか?」   と、

つづけて痛い質問をする。私が、



「日本政府があの声明を出すにはあれだけ重要な手続を踏んでやったのだし、

また川越大使をも召還したのだから、明日から取り消すというわけにはいかない。

まず、当分は何ともならない。

少なくも半年か一年はあの姿勢が続くものとみなければなるまい」   と答えると、

高君は、 「日本政府が   『本気だ』   と君はいうが、永久に、ああいう姿勢を

とりつづける決意ではないだろうね」   と、だめを押してくる。



「日本政府の決意は固くないなどといえば、日本を裏切ることになるので、

私は、 『固くない』   とはいわない。しかし、問題の本質論から考えれば、

その固い決意も、いつかは変更を余儀なくされる可能性があるように思えるし、

そうあって欲しいと、私個人としては考えているのだ。

あの声明の中で、今後は

『帝国と真に提携するに足る新興   「支那」   政権の成立発展を期待し、

これと国交を調整して更生新   「支那」   の建設に協力せんとす』   と

書いてある箇処を、君も読んだことだろう」》



つづく

長沙の引揚げ3 難色を示す高井領事代理

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/13 18:56 投稿番号: [1518 / 2250]
戦史叢書   『中国方面海軍作戦〈1〉
291〜292p


《 時に (三十一日朝来) 高井領事代理は、三十日の何鍵の言

(何鍵が 「責任者を呼びつけて排日侮日行為の頼り締まりを徹底する」

旨述べた言)   を信用し、漢口居留民の引揚げが考慮されない現状では、

八月三日の引揚げすら再考を要すべく、

昨年の苦い経験   (十一年十月過早に引揚げ準備したこと)   もあり、

海軍の方針を盲信せずとの意図の下に、

既に早期引揚げ差し支えない旨の訓電があったにもかかわらず、

吉見艦長に対し、一応外務大臣に請訓するの要ありと申し出ていた。・・・



八月一日午前、谷本司令官は第三艦隊参謀長に

「長沙引揚ニ関シテハ   従来ノ行懸 (いきがか) リモアリ、

貴司命部ニテ   引揚促進方然ルベク   御手配ヲ乞フ」   旨を打電した。

午後、第三艦隊参謀長は南京駐在武官に



「長沙居留民引揚ニ関シ   中央空軍ノ北方集中等   事態拡大ノ可能性相当大ナリ

ト思考セラルルヲ以テ   重慶、宜昌モ既ニ引揚ヲ開始セル   次第モアリ、

予定通八月三日ニ   引揚グルヲ適当ト認メラル。大使館側ニ交渉シ

引揚促進方   然ルベク手配アリ度シ。本件外務側ト協議済」   と打電した。

一方、この日高井領事代理は三十一日付の

「上流居留民引揚ノ場合ハ一応漢口迄ヲ建前トス」   る旨の外相電を受けた。



居留民を炎暑の漢口で、長く船内に留め置くことは危険であり、

かつ船長逃亡の虞 (おそれ) もあった。

そこで、高井領事代理は、ますます引揚げに難色を示すに至り、

外相あてあらためて、引揚先及び八月五日朝引揚げ差し支えの有無につき、具申した。

吉見艦長また、谷本司令官、第三艦隊参謀長あて、

速やかに居留民の内地引揚げにつき協議ありたいと具申した。



二日、高井領事代理は、請訓電に対する返電は未着であったが、

八月五日未明引揚げ出帆と予定し、居留民の荷物をゲン江丸へ積み込むよう指令した。

一方、南京駐在武官は、日本大使館から

「引揚命令は領事の所信によるも差し支えなく、早目に引揚げを実行するよう

長沙領事に指令するよう決定した」   旨の連絡を受けた。

同時、外相から高井領事代理あて、

「貴電ノ通リ取計ハレ差支へナシ。海軍側通報済ミ」   との回訓があった。

かくて、結局、八月五日を期して、長沙居留民総引揚げを断行することとなった。



三日午後、谷本司令官は、長谷川司令長官に漢口居留民自体、

引揚げ準備中で船腹の不足を来しおり、上流各地居留民の漢口収容は困難につき、

上海直航を可と認める旨を具申した。

同司令長官は右意見に同意し、上海の外務官憲に協前するとともに、

更に海軍中央部に対し、至急実現取り計らい方を具申した。



四日、海軍中央部から、長沙居留民引揚げは上海直航の方針で進められたく、

かつ外相も右に関する長沙領事代理の請訓を承認して回訓した旨の申進があり、

ここに引揚げ先決定の問題も、現地の希望どおり、解決した。

同夜、長沙居留民は遺留財産を封印の上、中国官憲に委託し、

全員(七六名)ゲン江丸に乗船を終了した。



五日 05:00 、ゲン江丸は漢口に向け長沙発、「勢多」   は 05:30 長沙発、

ゲン江丸を護衛して下江し、「勢多」   は六日 09:45 、ゲン江丸は同日 10:40 、

それぞれ漢口に無事到着した。

そして、引揚げ居留民のうち、領事館及び日清汽船関係者のみ漢口に上陸し、

その他はゲン江丸に乗船のまま、六日 21:50 漢口発、九日 06:30 無事上海に到着した。》


つづく

徐州会戦が要求される理由

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/13 18:35 投稿番号: [1517 / 2250]
児島襄著   『日中戦争4』   文春文庫
294p


《 もし、黄河までという制約を守れば、すでに山東半島の根もとの青島をとり、

上海、南京をおさえているというのに、黄河の西と南の山東省の大部は空白となり、

中国軍は容易に進出するだろう。


しかし、徐州をおさえれば、第一軍の進出とともに隴海線が確保できる。

隴海線は、開封からほぼ直線に黄海岸まではしっているから、

黄河の東の山東省大部も管制できるし、中支那派遣軍とも握手できる。

いいかえれば、第一軍の黄河進出は、必然的   (?)   に東側面の確保を「必須」とし、

すかさず第二軍の南下による徐州作戦が「必至」になる……。》



井本熊雄著   『支那事変作戦日誌』    203〜204p


《 既述の如く、南京攻略後徐州を占領せよという意見は、各方面から盛んに行われた。

対支積極作戦を考えるならば、これは定石的な意見である。

前年七月支那事変勃発当初から、いわゆる拡大思想で行ったと仮定すれば、

徐州は既に初期の作戦で占領していたに違いない。

当初から北支とともに山東に兵を進めて膠済沿線を進攻し、

済南および徐州方面を占傾すべき策案は、多くの有力者によって唱えられていた。

徐州は、中原に鹿を争う者が必ず占領すべき戦略要点である。



この作戦の実行要領については、前記の如く、

南京占領後の方策を検討する段階で一応研究済であった。

それはまことに簡単なことで、北支および中支軍の各々有力な一部を以て、

南北から進んで徐州附近で手を握らせることで万事成就である。

その際大きな敵の抵抗はまず予想せられなかった。



しかし徐州作戦   (津浦線打通作戦といってもよい)   を作戦課長交迭後間もなく

行うことになれば、その理由を天皇に申上げて決裁を受け、実行するのに

少々バツの悪い思いをしなければならなかったと思われる。

それはいうまでもなく、既述の如く二月十六日に御前会議で決定せられた

戦面不拡大の方針を、舌の根も渇かない中にひっくり返すことになるからである。



ところが幸か不幸か、ここにはからずも事情変更ともいうべき状況が起った。

それは、済南方面から逐次南下して徐州近くまで達した我第二軍の一部と、

前面の支那軍間に戦闘が起り、支那軍は逐次に増加して約四十師、

四十万と称せられる大軍が徐州附近に集り、

我方が大打撃を与える好目標を呈したことであった。



児島襄著   『日中戦争4』   文春文庫
294p


《 第二軍参謀長鈴木率道少将は、 「作戦休憩」   方針である指導要綱が

決定された翌日、おりからエン州北西のブン上、南西の済寧が攻撃されたのを機会に、

第十師団   (磯谷廉介中将)   にたいして、これら地域の敵の   「撃攘」   を指示した。》


つづく

長沙の引揚げ2 状況の険悪化

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/12 19:05 投稿番号: [1516 / 2250]
戦史叢書 『中国方面海軍作戦〈1〉』
290〜291p


《 二十四日〜二十五日の中央党部の指令により

湖南省党部特務室は湖南人民抗敵後援会を組織し、

かつ、日貨を取扱う者、日本人と往来する者を、

軍警の手を借りず直接特務室へ引致処分し始めた。

二十七日から一両日の聞に二十数名の中国人を 「スパイ」、漢奸の名目で引致した。



二十八日の新聞に重慶、宜昌、沙市の我が居留民の引揚げ準備、

第二九軍への我が爆撃が報ぜられるや、市中は落ち着きを失い、商取引も途絶した。

同夜、何鍵は電話で高井領事代理に急に全国的に対日空気悪化し

当地治安維持上寒心に堪えず、せっかく最善の努力を払うつもりであるが、

貴官においても特別に注意警戒されたいと申し出た。



二十八日夕、吉見艦長は、第三艦隊から重慶、宜昌、長沙には汽船をおおむね

何日でも一隻ずつ使用し得るよう船繰りしつつ運航せよとの指令を受け、

ゲン江丸を定期どおり二十九日朝下江させることとし、引揚用として

在長沙曳船 (ひきぶね) 竹丸及び鉄製   「ライター」   を使用することとした。



同夜、同艦長は谷本司令官の照会電に接し、長沙領事は

「些 (いささか) ニテモ   不穏ノ兆(きざし) ヲ   見ルニ至ラバ

  直チニ引揚命令ヲ出ス。 但シ長沙ノ情況   如何 (いかん) ニ拘 (かかわ) ラズ

  日支全面的開戦トナル見込   立タバ直チニ発令ス」   る決心をしており、

小官は   「長沙ノミノ情勢ニ基ク限リ   即時引揚発令ハ   過早ナリト認ム」るも

  「全面的開戦ノ公算   大ナリト認メラルル   現状ニ於テハ」

「居留民引揚前ニ行ハルベキ   警備艦ノ交戦等ヲ考慮シ、過早ノ引揚コソ

  万全ノ策ナリト認ム」 る旨返電した。



二十九日、日本居留民会その他に雇われている中国人が圧迫され、なお、

省党部特務室は時機切迫せば主要日本人暗殺を計画しておるとの情報もあった。

二十九日夜、吉見艦長は、長谷川長官及び谷本司令官に長沙引揚げに関する

予想を、次のように打電した。


  一   戦況急変ナキ限リ   八月三日早朝   ゲン江丸ニテ   居留民引揚ヲ

   行フコトニナルベシ。   (売掛金回収ヲ考慮)

  二   予メ準備ヲ進メ置キ   引揚命令発令後   六時間以内ニテ   出帆可能ノ見込ナリ。



右に対し、谷本司令官は直ちに次のように返電した。

  ゲン江丸三十日漢口発、三十一日長沙着の予定。 領事ト協議ノ上

  同船貴地着後   準備完了次第   引揚ヲ可ト認ム。



よって、吉見艦長は高井領事代理と協議した。

高井領事代理は、八月三日以前の引揚げに同意せず、

かつ引揚げ発令時機が不適当な場合は一部居留民の売掛金回収不能などによる

破産を招く虞 (おそれ) があるので、今回の引揚げは命令によらず、

引揚げ勧告の形式で実施したいと主張した。

三十日、北支戦局の影響は、長沙の排日気分に敏感に反映し、

市中には戦争気分がみなぎった。



三十一日、長沙の対日空気は更に悪化し、日本人使用人に対する圧迫顕著となった。

「勢多」   へ石炭、重油を運搬する船頭は水上警察署巡響から脅迫され、

今後運搬不能の旨、申し出た。

またゲン江丸行動用石炭販売を拒絶した石炭商に対し、

我が方は公安局を動かしてようやく入手するほどであった。

ゲン江丸はこの日夕刻、長沙に到着した。》



*   何鍵は   「貴国居留民の生命財産は絶対に保証する」   と言ったそうだが、

   日貨を取扱う者、日本人と往来する者を、スパイとして引致し、

   日本人に雇われている中国人を圧迫したら、何にもならない。

   こういうやり方が、中国の巧妙なところ。   直接危害を加えず間接的にやる。

   言葉に   間違いはない。   しかし・…。日本人はこういうレトリックを理解しない。


つづく

河辺課長更迭と不拡大方針の撤回

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/12 18:53 投稿番号: [1515 / 2250]
井本熊雄著   『支那事変作戦日誌』
202


《 河辺作戦課長は、二月下旬から三月始めにかけて出先軍司令部を一巡して帰京した。

ところが河辺大佐を参謀本部で待ち構えていたのは、

新方針に基づく諸施策実行の仕事でなく、

「浜松飛行学校附に補す」   という辞令であった。



トラウトマン和平工作以来、意見の対立で参謀本部と陸軍省は気拙 (まず) い関係に

為ったといわれているが、筆者は当時そんな印象を受けた記憶はない。

杉山陸相は大勢の方向と同じく、強硬な対支もう一押し論である。

梅津次官も山東作戦、徐州作戦の遂行によって津浦線沿線の南北打通を

熱心に主張している。その下僚である軍務局を初め陸軍省の主力は、

挙って積極作戦思想に傾いていた。



その陸軍省から見れば、参謀本部特に次長と第二課長等作戦系統は甚だ弱い。

こんな弱気の対支態度をとっていたのでは、ますます蒋介石を増長させ、

とても事変の早期解決はできないという強い作戦当局批評となったことは容易に肯ける。



しかし統帥権独立の制度下において、純統帥   (作戦用兵)   の根本を握っているのは

参謀本部の作戦系統である。

ここが方針を決めて押し通せば、陸軍省も正面切って反対するわけに行かない。

消極的な方針を変更するには、作戦当局の人を代える以外に方法はないことになる。

このようなことで河辺第二課長転出ということになったのであろうと

筆者は推察するのである。



河辺課長の後任は、前年河辺大佐の下で戦争指導課の部員であり、

その後軍事課課員であった稲田正純中佐であった。

稲田作戦課長の着任後、従来の戦面不拡大方針は逐次に改められて、

精極的事変解決の施策が思い切って進められた。

だからといって、これは稲田課長個人の意思でも施策でもない。



陸軍の大勢がそのように動いたのである。

稲田中佐   (間もなく大佐)   は、頭脳明晰なことは定評があったが、

実に物事にこだわらぬ柔軟な考え方をする課長であった。

この特性が、課長時代の難問題処理はもとより、その後大東亜戦争間の

各種国難な任務に柔軟に対処した所以であると推察せられるのである。



とにかく、作戦課長更迭を機として、この事変当初からの不拡大思想は、

完全に一掃せられた。

間もなく徐州会戦が行われ、引続いて漢口、広東の大作戦が遂行せられた。

かくして昭和十三年は、支那事変中唯一の最も積極的で大規模な作戦に

終始する年となった。

河辺構想の戦面不拡大方針は天皇の御承認を得てから一ケ月も経たない中に崩壊した。》

長沙の引揚げ1 唐炳初の申し出

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/11 15:03 投稿番号: [1514 / 2250]
戦史叢書 『中国方面海軍作戦〈1〉』
289〜290p


《 七月二十日午前、勢多艦長吉見信一中佐は、湖南省政府顧問 唐炳初から

何鍵   (十九日廬山から帰着)   の意向として、要旨左記の密談を受けた。


一   最悪の場合、日本警備艦が在艦しなくとも、

   貴国居留民の生命財産は絶対に保証する。

二   全面的開戦の場合は中国各省に警泊の日本軍艦に対して

   武装解除を要求することになろう。



唐顧問は、何鍵の真意は警備艦の撤退を望むにある旨付言した。

吉見   「勢多」   艦長は、次のとおり何鍵に伝言を依頼した。

平和尊重の精神は全然御同感であるが、警備艦の進退については、

本職の権限にあらざることを了とされたい。

武装解除要求に次いで行われるべき貴方からの攻撃の場合は、それ以前に

長沙市民全部を安全地域に避難させおかれんことを希望する。



同日午後、唐顧問は、長沙領事代理高井末彦を訪問し、何鍵の伝言なりとして、

不幸にして当地において日本警備艦と中国軍との間に交戦状態発生せば、

事実上貴国居留民の保護は保障し難いので了解されたい、と申し出た。

なお、高井領事代理の得た情報によれは、右の武装解除に関する何鍵の申し出は、

次のような国民政府令達に基づいたようであった。



   密報ニ依レバ   日本第十一戦隊ハ 開戦ノ場合   左ノ計画ニ依リ

   中国後方撹乱ヲ 企図シアルモノノ如シ。


一   重慶警備艦ハ重慶、宜昌間、   宜昌警備艦ハ宜昌、城陵磯間、

   長沙警備艦ハ長沙、岳州間   ノ都邑ヲ攻撃シツツ下航シ、

   三艦合同ノ上   漢口迄江岸各地ヲ砲撃ス。


二   漢口下流ハ   第十一戦隊ノ主力ヲ以テ   南京迄ノ各都市ヲ攻撃ス。

三   南京下流ハ   第三艦隊ヲ以テ攻撃セントス。

   開戦トナラバ   惨事ヲ被ラザル以前ニ   各地ニ於テ速カニ

   日本軍艦ノ武装解除ヲ行フベシ。



二十一日、何鍵は唐顧問を通じ、高井領事代理に次のように伝言した。

昨日申入レノ件 (筆者注   全面的開戦の場合日本警備艦の武装解除を要求する件)   ハ

自分が   貴国海軍側トモ   多年友好的間柄ニアル為   老婆心ヨリ御話シタル迄ナルニ

海軍側ニテハ   余程之ヲ重大視シ   居ラルル模様ナル処、自分ノ申出ハ

好意的以外何物モナキ   次第ニ付キ(筆者中略)尚   毎晩御送付ヲ煩ハシ居ル

「ラジオ・ニュース】(筆者注   NHK放送を聞き書きしたもの)ニテ

自分ハ今回ノ事変ノ真相ハ   十分早ク知り居ルニ付キ、南嶽ニ落着キタル上ハ

蒋介石アテ両国国交打開方策ニツキ   電報ニテ進言スル積リナリ。



*   中国側の   「貴国居留民の生命財産は絶対に保証する。」   という話が

   空疎な事は、これまでの数々の事例でわかっていることですが、

   日本人は基本的に善人根性のお人好しですから、これを本気にする人がでて来ます。


*   また、 「国民政府令達」   の   「日本第11戦隊の開戦ノ場合ノ計画」   も

   事実と全く違い、殆ど妄想に近いものです。


   結局、彼らは徹頭徹尾、妄想の侵略日本軍を頭に描いて、

   平和を望んでいる本当の日本に戦争を仕掛けるわけです。


つづく

2月末 ソ満国境にユダヤ人難民現る

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/11 14:49 投稿番号: [1513 / 2250]
ラビ・M・トケイヤー著   『ユダヤ製国家日本』   加瀬英明訳
38〜39p


《 この年の二月のことだった。

ナチス・ドイツの迫害から逃れた、大量のユダヤ人難民の第一陣が、

ヨーロッパから広大なシベリアの原野を、シベリア鉄道に揺られて、

満州国の北東の端の満州里   (まんしゅうり)   駅のすぐソ連側にある

オトポールに到着した。



ドイツから命からがら必死の思いで、ポーランドを経由して脱出してきたユダヤ人たちである。

・・・・

ユダヤ人難民がオトポールに、連日つぎつぎと到着して、

ほどなくその数は二万人近くにまで脹   (ふく)   れあがった。

難民たちはオトポールの荒涼たる原野にテントをはったり、

急造のバラックをこしらえて、耐乏生活をはじめた。なかに、多くの幼児もいた。

難民のアジア的な哀調をおびた祈祷の声や、合唱の声が、凍てつく原野に流れた。



三月に入ったといっても、シベリアでは気温が零下数十度にまで落ちる。

ソ連がユダヤ人難民の受け入れを拒んだので、

難民たちは満州国に入国することを、強く望んだ。》



*   満洲国外交部が入国を拒否していた為、

   彼らは厳寒の地にテントを張るしかありませんでした。

   この人たちは後、関東軍の樋口季一郎少将らによって救われます。


*   ラーベはこのころ上海にいますが、祖国ドイツがユダヤ人にしている

   現実を知らないで幸せだったでしょう。

   祖国に帰れば、いやでも現実を見る事になりますから。

揚子江方面 宜昌、沙市引揚げ

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/10 15:43 投稿番号: [1512 / 2250]
戦史叢書 『中国方面海軍作戦〈1〉』   288p


《 七月二十日、田中宜昌領事は、高井長沙領事代理から、

開戦の場合、中国は日本軍艦の武装解除を行うとの情報を得た。

また、二十日、二十一日の内地の   「ラジオ」   その他は時局のひっ迫を

感じさせるものがあった。



よって、宜昌市内の情勢は表面平静であったが、

引揚げ準備を行うこととし、二見艦長有田貢中佐は谷本司令官に

二十日、日清汽船一隻の常時碇泊方を要請し、

二十一日   「在留邦人ノ引揚ニ着手シ然ルベキヤ」   と打電した。

また、田中宜昌領事は、二十一日夕、中国側に引揚げ時の遺留財産保護を申し入れた。



また、二十二日、在漢口   「保津」   は   「二見」   と交代すべき第十一戦隊命令により、

同日漢口発、二十六日午後宜昌着、 「二見」   から宜昌領事館の御真影を

奉遷のうえ警備や申し継ぎを受けた。



二十七日、日本人使用の中国人に対する圧迫、その他が加わった。

同夜   「二見」 (二十一日突風のため長陽丸及び中国船に接触)   による

中国側被害者四、五〇名が、損害賠償につき、日清汽船事務所に押し掛けて来た。

二十八日、保津艦長上田光治中佐は、第三艦隊電により、自重警戒すべき旨を、

官房機密電により、居留民引揚げに関する中央の方針を承知した。



また、田中領事は、同日朝、中央部から、

情況によっては早期引揚げ差し支えなき旨の別命に接した。

よって、同日午後、飯事館において関係者が打合せを行い、

八月一日   08:00   までに居留民総引揚げを完了し、長陽丸に乗船の上、

重慶居留民と歩調をそろえ、漢口に引揚げることとなった。



二十九日、宜昌では北支中国軍快勝の号外が飛び、爆竹連発し、

軍隊、学生等は市中行進した。一部中国人の日本人への侮蔑行動などが

顕著となったので、我が居留民は行動を慎重にしつつ引揚げ準備を急いだ。



三十日早朝、上田 「保津」 艦長は、谷本司令官から、引揚げ期日承認の電を受領し、

重慶居留民の出発予定日時を考慮し、

八月一日   09:00   宜昌発、途中沙市居留民を収容し、漢口に回航と予定した。

翌三十一日朝   「重慶居留民の引揚げ時機決定」   の報その他に接し、

「明八月一日宜昌引揚げ」   と確定した。



沙市においては、県党部は宋哲元あて激励電の打電、抗敵講演会の開催などを実施したが、

十九日来の増水により市民に排日行為なく、日清汽船による荷動きも相当あった。

二十五日、上田   「保津」   艦長は、 「二見」   と宜昌警備交代のため同地へ向かう途中

沙市に寄港し、居留民   (領事を合わせ一三名)   引揚げにつき打合せた。



二十八日、沙市居留官民は引揚げ準備を完了し、長陽丸   (宜昌から下江)   の来着を待った。

三十一日、小林領事事務代理は同地の中国軍当局に遺留財産の保護を申し入れ、

公文を交換した。



八月一日、宜昌においては、 「保津」   の厳戒下   09:15   官民総員   (五七名)   の

長陽丸乗船を無事終了した。 10:00 「保津」   は長陽丸を護衛して漢口に向け宜昌発、

途中 15:30 から約一時間沙市に仮泊し、同地居留民の長陽丸乗船を警戒し、

三日 12:45 、無事漢口に到着し任務を終了した。

なお、長陽九は漢口情勢険悪のため、宜昌、沙市居留民乗船のまま、

翌四日 15:50 漢口発下江し、六日午後上海に安着した。

ただし、領事館及び日清汽船関係者は漢口に上陸した。》


つづく

董道寧と影佐大佐

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/10 15:33 投稿番号: [1511 / 2250]
塚本誠著   『ある情報将校の記録』   中公文庫
263〜264p


《 影佐大佐は   「日華事変」   が華北で始まった直後八月、参謀本部の支那課長になり、

事変の不拡大を当時の参謀本部石原作戦部長と共に主張した統帥部内の一人であった。

ところが、志とはちがって事態は拡大の一途をたどり、

日本政府は昭和十三年一月十六日の    「爾今国民政府を相手にせず」   という

近衛第一次声明で蒋介石の国民政府を否認することとなり、

日中の関係はまったく泥沼に入ってしまったのである。



かねて影佐大佐はこの事態をどのようにして一日もはやく収拾するかについて

脳漿を絞っていたが、重慶と直接和平が望めない今日としては、

和平に熱意をもち、民衆の輿望   (よぼう)   を荷い得る人物が中心となり、

日本の和平主義者と協力し、運動を日中双方に拡大して、

日本政府、重慶政府ならびに日中の国民をして和平論に耳を傾けざるをえないような

情勢をつくり出すほかはあるまい、と考えていた。



たまたま十三年二月、元国民政府亜洲司の日本課長董道寧が

松本重治、西義朗、伊藤芳男の三氏の紹介で東京に現われた。

董が単身敵地に乗り込んだ情熱と勇気とに対し感銘を受けた影佐さんは、

密かに董と横浜で会見した。影佐さんは当時参謀本部第八課の初代課長であった。



董は、日中の衝突を速やかに打ち切るため何らかの工夫を講ずる必要があるといって、

日本側の理解と努力をもとめた。

董の所説には琴線に触れるものがあり、その情熱と至誠は影佐さんを動かした。

影佐さんは、全力を傾けて董に援助することを約束して、

参謀次長多田中将に一切を報告した。



董が東京を去るに当たり、影佐さんは自発的にかねて尊敬していた

蒋介石の信頼する何応欽、張群に宛てて書翰を認め、これを董に託した。

その手紙の中には、 「日華事件の解決は条件の取引というような方法では

根本的な解決がつくものではない。日本も中国も互いに裸と裸で抱き合わねばならん」

という意味を述べている。

影佐さんは一身を挺して日中解決に当たる決意を固めたのであった。》

揚子江方面 重慶居留民引揚げ

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/09 18:46 投稿番号: [1510 / 2250]
戦史叢書   『中国方面海軍作戦〈1〉』
286〜288p


《 七月二十日、従来比較的平静であった重慶に抗敵後援会が組織され、

情勢次第に悪化の兆しが見え始めたので、

同地在泊の   「比良」   艦長土井中二中佐は糟谷重慶領事と次のように協議した。


  居留民の生命に脅威のない限り、できるだけ踏みとどまるのを原則とするが、

(1)   日支全面衝突の場合、

(2)   重慶の情勢悪化し引揚げを要すると判断する場合、

(3)   重慶は平穏であるが中・下揚子江沿岸各地の情勢悪化し居留民が引揚げた場合の、

いずれかの情勢に立ち至れば、時機を失せず引揚げを断行する。
・・・


二十一日朝、土井艦長は、谷本司令官から、重慶居留民   (当時二九名)   に対しては、

随時、要すれば其の艦で引揚げ準備をなしおけ、との命を受け、同日糟谷領事と協議し、

居留民は発令後一〇時間以内に、日清汽船宜陽丸 (七月十五日から在泊) で

引揚げる準備を整えることとなった。



二十八日、外務中央部から糟谷領事あて、重慶居留民は情況により、

早目に引揚げよとの訓令があり、よって同領事は、居留民に対し、

とりあえず三十日朝までに家財を宜陽丸に積み込み、

その上で即時引揚げから形勢暫時観望かのいずれかに決定する旨、説明した。



そして、 「比良」   は引揚げ作業直接掩護のため、同日午後、嘉陵江に転錨した。

なお、この日夕方、重慶に中国軍大勝の報が伝わり、

市内では伝単及び爆竹などにより祝意が表され、以後対日感情は悪化の一路をたどった。


三十日 12:00 、 土井艦長は、槽谷領事と協商の上、

次の情況判断   (要旨)   をもって、我が居留民を宜陽丸で全部引揚げることとし、

八月一日 04:30 、 「比良」   護衛の下に重慶発、宜昌を経て漢口回航に決した。



    情況判断(要旨)

一   日中全面衝突は到底避けられない。

二   重慶の抗日気勢は次第に悪化の可能性がある。

三   当地で引揚げを感ずる時は既に時機を失し、下江の困難想像に余りあり。

  むしろ事件発生前に一時引揚げる方が、民心も早く平静となり、再復帰が容易である。



二十九〜三十一日、糟谷領事は中国側の関係各官公署を歴訪し、

早期引揚げに至った次第を説明し、遺留財産日録を添えてその保護を要求した。

先方は、我が申し入れを快諾し、引揚げを安全にする各種処置をとった。



しかし、市内の情況は次第に険悪となり、

三十一日、市商会は日貨売買を禁止し、違反者に対し厳罰を加える旨の宣言を発した。

かかる状況下に重慶居留民総員二九名は、同日 18:00 宜陽丸に乗船を終えた。

八月一日 06:40 、 「比良」 は、同船を護衛して重慶発、

二日 16:30 宜昌仮泊、同地に残留した居留民一名を収容し、同日 18:00 宜昌発、

翌四日 16:00 漢口着、無事護衛任務を終了した。

なお、糟谷領事以下館員少数は漢口に上陸し、その他は、宜陽丸に乗船のまま、

翌五日   21:00 漢口発下江し、七日午前無事、上海に到着した。》



*   28日に   「中国軍大勝の報」   とありますが、これは例の   「南京嘘放送」   で、

   通州保安隊が騙されたのと、同じ類 (たぐい) のものです。


つづく

不拡大方針を説明して回る河辺課長

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/09 18:35 投稿番号: [1509 / 2250]
児島襄著   『日中戦争4』   文春文庫
292p


《 二月二十四日、・・・参謀本部作戦課長河辺虎四郎大佐が、東京を出発した。

七月までは中国で新作戦をおこなわないとの方針を、各軍司令官に説明し、

理解を徹底させるためである。》



井本熊雄著   『支那事変作戦日誌』
201〜202p


《 主任者の河辺大佐が出かけて手渡し、直接説明する役を仰せつかった。

以下その出張先の状況を、河辺回想録そのままを引用することによって

明らかにしたいと思う。



「……それで漸く私の案が通りまして、

自分で案を書きましてそれを御前会議で御決裁を仰ぎ、

大本営の通報として各軍司令官に渡すことを決めて頂きました。

それならば一つお前が書いた案であるから自分で持って行って来いという訳で、

北京、張家口、新京、竜山各軍司令部へ私が持って参り、それを伝えるとともに、

御前会議で総長殿下が申上げられたことをそのまま各軍司令官に申上げたのであります。



当時畑大将は中支に行かれた直後で、参謀長が東京に来ておりましたから

それを渡してやりました。

こう云う訳で二月未から三月初めにかけて廻って来ました。

その時各軍司令官の態度は

『よしそれじゃ文句は言わぬ。そのまま大本営の仰せの通り承る』

というのが大体共通的でありましたが、



北支方面軍司令官の寺内閣下は

『無論大本営の示されることに反対はしないが意見としてはあるぞ』   と云われました。

そして   『どうしても徐州はやらなくちゃならぬ。

八月以降になると気候の関係で非常にやりにくい。

また敵情もこれを許さぬだろう。しかし大本営のお示しは承っておく』

と云うことでありました。



駐蒙軍の蓮沼閣下は別に意見なく承知されました。

関東軍も直接関係なく東條参謀長、石原参謀副長もどっちかと言えば

これに同意であったと思います。



朝鮮軍も直接の関係はありませんが、小磯閣下は全く個人の意見として

強硬に徐州作戦の必要性を唱えられました。

『苟   (いやしく)   も支那を討つものが徐州に手をつけないと云うことは嘘だ。

しかしおれは漢口をやれとは云わぬ』   と云っておりました。

また   『鄭州に一石を打っておけ』   とも云われました。

私は   『御意見はよくわかりますが、

とにかく今の軍隊は至急に一応の整理をしなければなりません』

と云いました所   『わかった』   と明白に云われました。



要するに当時以後の作戦指導は大体そういう様な考えで、八月頃の新態勢をとるまで

一時徐州、鄭州、ということは考えないでやるべきだということになりました。……」


このようにして河辺作戦課長は、二月下旬から三月始めにかけて

出先軍司令部を一巡して帰京した。》

揚子江方面 状況の険悪化

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/08 18:44 投稿番号: [1508 / 2250]
戦史叢書 『中国方面海軍作戦〈1〉』


286p

《 七月二十日、従来比較的平静であった重慶に抗敵後援会が組織され、


273p

二十日ころから南京、漢口を通過移動する中国軍隊が次第に多くなった。

かつ漢口では十八日から中国軍の夜間演習開始、

二十日夜租界外周に陣地構築など、事態拡大を思わせる諸情報があった。



290p   (長沙)

二十四日〜二十五日の中央党部の指令により湖南省党部特務室は

湖南人民抗敵後援会を組織し、

かつ、日貨を取扱う者、日本人と往来する者を、

軍警の手を借りず直接特務室へ引致処分し始めた。

二十七日から一両日の聞に二十数名の中国人を「スパイ」、漢奸の名目で引致した。



273p   (上海)

二十五日夜、上海閘北 (ザホク) 水電路にある日本人経営の野菜農園のかきを破壊して、

何者かが侵入し、掲揚してある国旗を持ち去った事件があった。


288p   (宜昌)

二十七日、日本人使用の中国人に対する圧迫、その他が加わった。


291p   (長沙)

二十九日、日本居留民会その他に雇われている中国人が圧迫され、

なお、省党部特務室は時機切迫せば主要日本人暗殺を計画しておるとの情報もあった。

三十一日、長沙の対日空気は更に悪化し、日本人使用人に対する圧迫顕著となった。

「勢多」   へ石炭、重油を運搬する船頭は水上警察署巡響から脅迫され、

今後運搬不能の旨、申し出た。

またゲン江丸行動用石炭販売を拒絶した石炭商に対し、

我が方は公安局を動かしてようやく入手するほどであった。



288p (重慶)

三十一日、市商会は日貨売買を禁止し、違反者に対し厳罰を加える旨の宣言を発した。


294p   (漢口)

八月一日に至るや中国側は日本人に対し米、塩の販売を停止。


301p   (八月一日現在の九江)

日本人ニ接スル   中国人ニ対シ   監視厳重   商取引モ杜絶、

抗敵後援会モ   組織サレ   新聞ノ論調マタ   抗日宣伝ニ   努メツツアリ。



301p   (八月一日、南京)

「当地ノ居留民中   開業医及雑貨取扱商ハ   最近ニ至リ   営業殆ンド杜絶

二日、南京の漢字紙は   「日本全力ヲ傾ケテ我ガ国ヲ侵略ス」、

「敵大挙再ビ我ヲ犯スハ目睫ニ迫ル」   などの大見出しをもって掲載 》



注    杜絶   トゼツ    :途絶えること。

    目睫   モクショウ:目とまつげで近い事。



*   20日ごろは、未だ日本は停戦協定の詰めを行っていた時期で、

   郎坊事件も起こっていなかったのに   中国は戦争準備を進めていました。


つづく

2月22日 ラーベの日記

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/08 18:35 投稿番号: [1507 / 2250]
  二月二十二日

《 羅福祥氏は空軍将校だ。

本名を汪漢萬といい、軍官道徳修養協会の汪上校とは兄弟だ。

汪氏は韓の力ぞえで上海行きの旅券を手に入れることができたので、

私の使用人だといってビー号に乗せるつもりだ。

南京陥落以来、わが家にかくれていたが、これでやっと安泰だ。》



*   ラーベは23日に乗船南京を発ちました。中国軍将校羅福祥を連れて。

   よって、ラーベの日記は、これにて終了となります。

軍艦 「栂」 への中国機 非礼事件

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/07 18:38 投稿番号: [1506 / 2250]
北支で盧溝橋事件が起こってから、揚子江流域でも、危険な状況になって来ます。

この時、中国軍機が日本の軍艦   「栂 (つが)」   に対して、挑発的な行動に出ました。



戦史叢書   『中国方面海軍作戦〈1〉』   273p


《 南京においては、七月中旬市内は平静であったが、

七月十六日ころから軍隊の移動が活発となり、

二十三日在泊中の   「栂」   に対する中国飛行機の非礼行為が発生した。



すなわち、二十日ころから毎日、中央軍偵察機が   「栂」   上空に飛来

(いずれも高度一、〇〇〇米以上)   していたころ、

二十三日午前には高度五〇〇米で直上を通過、

更に午後には艦尾方向高度五〇〇米付近から緩降下し、

右舷至近距離を艦橋とほぼ同高度で通過、艦首付近から左旋回、上昇避退した。

「栂」   はこれに対し航空機防禦の配置につき、

各機銃実弾装填、連続照準し一触即発の姿勢を取った。



右の非礼行為に対し、南京駐在武官中原三郎海軍大佐は、同月夕刻軍政部を訪問し、

「四月十二日大角海軍大将乗艦の   『栂』   に対する非礼事件あり、

今また本事件発生、誠意を疑う」 旨、厳重抗議した。

翌二十四日、中国側から、南京はじめ各航空部隊に対し、厳重に注意し、

かつ当該操縦員に対し調査の上処分する旨、回答があり、事件は一応落着した。



南京市長馬超俊は、二十四日、

「時局ますます重大化する今日、首都南京の治安は最も重要である。

もし民衆を扇動し過激行為ある場合は厳重処罰する」   旨布告して

治安の維持に努め、また物価取り締まりを行った。



これより先、十五日守土抗敵後援会が組織されたが、

全般的抗日運動の中心はむしろ中央党部であり、

同部は新聞雑誌その他の出版物、音楽、戯劇、ラジオなどの方法を通じ、

抗敵精神の向上に努め、市内は表面平静であったが、

抗日風潮が瀰漫   (びまん) 深刻化したものと認められた。



また、二十三日、中国軍艦江元、楚同 (砲艦)   が上流に向け出港し、

陸兵約五〇〇名が浦口から下関に移動、

三十日航空機用器材が江上輸送で上流に向かうなど、

軍隊、艦船の移動がひん繁となり、また獅子林山砲台を整備するなど、

戦備の促進に努めつつあることが看守された。》



*   最近でも、中国軍のヘリコプターが、自衛艦のすぐ側まで接近してきた

   という事件がありましたが、中国という国は、

   大日本帝国の時代ですら、こういう挑発行為をしていたのです。


つづく。

2月21日 松井大将ら上海を発つ

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/07 18:30 投稿番号: [1505 / 2250]
松井大将らは解任され、上海を出ることになりました。



早瀬利之著   『将軍の真実   南京事件   松井石根人物伝』
191p


《 上海出港は三班に別れた。

まず二十一日に松井中支方面司令官、

二十二日には東京丸で柳川第十軍司令官が、

二十三日には吉野丸で朝香宮上海派遣軍司令官たちである。》

お人よしの日本人

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/06 18:46 投稿番号: [1504 / 2250]
通州で、日本人を大虐殺した犯人たちは、意気揚々北京にやって来ました。

ところが、そこにいたのは宋哲元ではなく、日本軍だったのです。

彼らは慌てて逃げますが捕まります。

温厚な中島29軍顧問は   「機関銃をくれ、仇をとってやる」   と息まきましたが、

「それでは暴に酬ゆるに暴を以ってするだけだ」   と止められ、

結局、連中は収容もされず城外に放置されたままでした。

彼らは後、移動して中国軍に加わります。



それだけではありません。

石射東亜局長は、中国が呑みやすいように大幅に譲歩した和平案を考えたのです。

その内容は、


(1)   塘沽協定の解消    (2)   梅津−何應欽協定の解消

(3)   土肥原−秦徳純協定の解消    (4)   冀察政権の解消

(5)   冀東特殊貿易の廃止    (6)   非武装地帯海面の中国側密輸取締りの恢復

(7)   華北における自由飛行の廃止    (8)   中国側が要求すれば上海停戦協定をも解消


というものです。

  まるで、日本が敗戦国かのような内容の和平案です。

  これをもって、上海に和平会談を設定します。


  ところが、この善意の提案は中国側によって踏みにじられます。

2月18日 オーストリアの抵抗

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/06 18:39 投稿番号: [1503 / 2250]
シューシュニックはヒットラーに独・墺併合を強要され、対策を考えました。

2月18日にオーストリア・ナチスに転向していた

アルトゥル・ザイス=インクヴァルトを内務大臣に任命します。

オーストリア国内ではオーストリア・ナチスが

公然と政府打倒とドイツへの併合を求める動きを開始していました。



シューシュニックには、奥の手として暖めておいた秘策があります。

それは国民投票を実施してオーストリア国民に

「ドイツとの合併」   か   「自主独立」   か選択させ、

正面からヒトラーの要求を拒絶することです。



ドルフス前首相暗殺以来のドイツ側による様々な圧力に国民の反感が高まっており、

実施されれば   「自主独立」   の選択が確実でしょう。

更にかつてドルフスが非合法化したオーストリア社会民主党とも極秘に交渉し、

国民投票への協力と引き換えに非合法化の取消を約束しました。

Re: 郎坊事件と広安門事件

投稿者: ninstomach 投稿日時: 2012/03/05 18:49 投稿番号: [1502 / 2250]
  ご苦労様です。
  史実に基づく解説ですから、非常に解り易い。

  私は、戦犯裁判全般を調べているのですが、松井大将が平和に対する罪・無罪になっているのは、チナ(ナチが逆立ちしても勝てないw)側の侵略により開始された戦争であった事を国際法廷が否定出来なかったから。

  人道に対する罪が不起訴になっているのは、組織的虐殺行為が無かったから。

  百人斬り将校・記者らの事情聴取を行なったように、通例戦争犯罪を起訴したかったのだが、起訴相当の事件が存在せず、実行犯の訴追も出来なかった。

  そこでチナの面子のため、犯罪事実を特定しないまま、戦死体処理と偽証に基づき、組織的でなければ不可能な犯罪が行われたという虚構を前提に、松井大将のB級不作為責任追及で絞首刑にした事件であったと理解しています。

  その認識が正しい事が、ここに述べられているのだと思いますw。

通州虐殺事件

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/05 18:42 投稿番号: [1501 / 2250]
香月中将は、最後通牒を出し、通告どおり7月28日、

北京の中国軍へ攻撃を開始、実力排除に出ました。

宋哲元はこれまでと北京を去りましたが、只では逃げません。

通州と天津に分駐する冀東保安隊と第38師の一部に “蜂起” を指令しました。



そしてその指令は実行されます。

天津の中国軍は、天津駅、東機器局、飛行場、日本租界、支那駐屯軍司令部などを

襲撃しました。尤も、これは日本軍によって撃退されますが、

一方、通州の方は事情が異なっていました。

通州は親日政権冀東防共自治政府の所在地であり、

保安隊は野砲を持つ強力な存在だったので日本軍は安心していたのです。



ところが、彼らは、ひそかに宋哲元に服従していました。

南京から   「日本軍が負け、中国軍が勝っている」   というラジオの嘘放送があり、

これを信じた彼らは、このまま親日でいたら自分たちが危ない、

ここは一つ手柄をたてて、宋哲元の下に馳せ参じようと考えたのです。



そこで、彼らは29日、通州にある特務機関、警察分署、守備隊、旅館、

出張所、食堂、民家、など日本人のいる所を一斉に襲撃しました。

ここで彼らは軍人、警察官だけでなく、非戦闘員の日本人居留民約260人を

惨殺しています。老若男女の別なく。

その、惨状は、聞きしに勝るものでした。証言には



《城内は実に凄惨なもので到る処、無惨な日本居留民の死体が横たわって

居りまして、殆ど全部の死体には首に縄がつけてありました。

頑是なき子供の死体や婦人の虐殺死体は殆ど見るに耐えませんでした》



《旭軒とか云ふ飲食店を見ました。そこには四十から十七〜八歳迄の女七〜八名は

皆強姦され裸体で陰部を露出したまま射殺されて居りました。

そのうち四〜五名は陰部を銃剣で刺されていました。

家の内は家具・布団・衣類等は何物もなく掠奪されていました》



《錦水楼と云ふ旅館は凄惨でありました。

同所は危険を感じた日本人が集まったものの如く大量虐殺を受けておりました。

錦水楼の女主人や女中等は数珠繋ぎにされ、手足を縛られたまま強姦され、

遂に斬首されたと云ふ事でした》



《男は目玉をくり抜かれ、上半身は蜂の巣の様でありました》


《南城門の近くに一日本人の商店があり、そこの主人らしき者が引っ張りだされ

殺された屍体が路上に放置されてありました。

これは腹部の骨が露出し、内蔵が散乱しておりました》



《旭軒と云ふ飲食店に入りますと、そこに居りました七〜八名の女は全部裸体にされ、

強姦射(刺)殺されて居りまして、陰部に箒を押し込んである物、

口中に土砂を填めてあるもの、腹部を縦に割ってあるもの等、

見るに耐えませんでした》



《東門近くの鮮人商店の付近に池がありましたが、

その池には首を縄で縛り両手を併せて、それに八番鉄線を通し(貫通)、

一家六名数珠繋ぎにして引廻された形跡、歴然たる死体がありました。

池の水は血で赤く染まって居たのを目撃しました》



《守備隊の東門を出ますと、殆ど数間間隔に居留民男女の惨殺死体が

横たわって居るのを目撃し、一同悲憤の極に達しました。

敵兵は見当たりませんでしたので‥‥   「日本人は居ないか」   と連呼し乍ら、

各戸毎に調査して参りますと、鼻部に牛の如く針金を通された子供や、

片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦等が、

そこかしこの塵埃箱の中や壕の内、塀の蔭等から続々這い出して来ました》

昭和13年2月18日 重慶初爆撃

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/05 18:32 投稿番号: [1500 / 2250]
海軍戦史叢書   『中国方面海軍作戦〈2〉』
108


  (一)   奥地攻撃の開始

《 重慶に対する初攻撃は、昭和十三年二月十八日

木更津空飛行隊長佐多直大少佐指揮の中攻三機をもって決行されたが、

爾   (じ)   後四川省方面の天候不良のため保留されていた。》



注:   中攻とは九六式陸上攻撃機の事


*    これは、単に、敵の飛行場を叩く、いつものタイプの攻撃で一回きりです。

    次は、昭和14年5月までありません。

郎坊事件と広安門事件

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/04 15:22 投稿番号: [1499 / 2250]
蒋介石は、7月16日宋哲元に

「日本側の策謀に乗じられるな、戦備を整えよ」   と打電しました。

宋哲元は、日本と和平を進めたいのですが、

蒋介石の逆の命令でジレンマに立たされます。



また蒋介石は、7月17日に宋哲元への牽制をも込めてラジオから

『生死関頭演説』   を流しました。 すべてを犠牲にして戦うというものです。

蒋介石は、19日までに30個師団を北支に集結させ、

22日までには梅津・何応欽協定を破って、蒋介石直属の師団を河北省に入れました。



宋哲元だけでなく、これまで親日と言われていた石友三の部隊や

冀東防共自治政府の兵の中にも動揺するものが出てきます。

蒋介石が、そこまで決意している時に、いつまでも親日をやっていたら、

将来、漢奸として罰を受けかねない。もう見切り時と見たのでしょう。

彼らが口火を切って、日本軍に攻撃を掛けてきます。



7月24日、郎坊付近で日本軍の電話線が切られたので、修理班が現地に行くと、

これまでと雰囲気が違っていました。

この辺は親日と言われる石友三の部隊の管轄ですが、

駅の周囲には陣地が構築され、修理中に中国兵が銃を向けていたのです。

その日は何とか無事に終えましたが、翌日、また郎坊付近で電話線が切られ

ましたので,今度は護衛兵をつけることにしました。



修理班と五ノ井中隊は午後四時過ぎ郎坊に到着しましたが、修理は手間取り、

五ノ井中隊は宿舎の提供を中国側に要請しました。

しかし拒否されたので、仕方なく、駅で夜を明かしていると、

午後11時30分、中国側が、突然小銃、機銃を乱射してきたのです。

五ノ井中隊が応戦せずにいると、午前0 時過ぎ、中国側は迫撃砲を撃ち始め、

たちまち、重傷二人、軽傷四人の損害を出しました。

そこで反撃開始、天津に急報します。



報告を受けた香月中将は、舌打ちする想いに襲われました。

即座に兵を派遣して助けたいのですが、14日づけの

「事変処理ニ関スル方針」   で   「兵力使用ハ中央部ノ承認ヲ得ル事」   と

指示されたからです。

「こんな事で、急の場合、間に合うのか」   と言っていた事が、現実になりました。

(何か、今の自衛隊を見ているようです)



香月中将は、独断で派兵を決心し、東京に兵力使用の要請電を発しました。

今度は、参謀本部も許可しました。

応援部隊がやって来て、中国軍を蹴散らし郎坊事件は終わります。



ところが、今度は広安門で事件が起きました。

香月中将は、郎坊に部隊を送る時、北京にも部隊を送ったのです。

居留民の保護のためです。

ところが、これが中国側の警戒心を高め事件となりました。

早めに通告すると、妨害が予想されるので、直前になって通告したのです。

広部部隊が入城していると、途中から門を閉められ、兵を分断され銃撃されました。


ここに至って、穏忍自重していた日本軍も遂に切れ、実力行使に転じます。


つづく

2月16日、戦面不拡大の作戦指導要領

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/04 15:14 投稿番号: [1498 / 2250]
井本熊雄著   『支那事変作戦日誌』
200〜201p


《 二月十六日の御前会議で決定せられた作戦指導要領は次のとおりであった。


自昭和十三年二月   至同年     夏季

支那事変帝国陸軍作戦指導要領



   第一   方針

支那ニ於ケル現占拠地域   (北支那方面、 津浦線以西ニ在リテハ   黄河ノ線迄ヲ

含ム)   ヲ   確保シテ   其ノ安定ヲ期スルト共ニ   対ソ支二国作戦ノ為

軍ノ実質的整備ノ 完遂ヲ図リ   第三国 特ニソ連ニ対シ   警戒ヲ厳ニス

状況之ヲ許スニ至ル迄   右戦面ヲ拡大シ   又ハ新方面に対し作戦ヲ行フコトナシ



   第二   作戦指導要領

一、北支那方面

  膠済沿線ノ確保及ヒ   済南ヨリ上流   黄河ノ線ニ   向フ作戦ヲ継続シ   爾後概ネ

  右両限界以北ノ地域ヲ   確保安定スル外、敵後方ニ対スル   航空作戦ヲ続行ス


二、蒙疆方面

  現占拠地域ヲ確保シ   占拠地域附近ニ対シ   現有兵力ヲ以テスル

  剿匪的作戦ヲ行フ外   遠ク積極作戦ヲ実施セス

三、済南、浦口鉄道(津浦線南部)

  現在以上ニ作戦ヲ拡大セス


四、中支方面

  海軍ト協同シテ   現占拠地域ヲ確保安定スル外   敵後方ニ対スル航空作戦ヲ続行ス

  情況之ヲ許スニ至ラバ   所要ノ航空基地ノ獲得ヲ図ル

五、其他ノ方面

  情況特ニ全般ノ戦備   之ヲ許スノ時期ニ於テハ   所要ノ方面ニ作戦ヲ

  進ムルコトアリ



   第三   兵力ノ整備

  別ニ定ム



本要領が御前会議で決裁せられた後、これを出先の主要軍司令官に伝えることになり、

主任者の河辺大佐が出かけて手渡し、直接説明する役を仰せつかった。》


つづく

停戦協定を破る中国軍

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/03 14:07 投稿番号: [1497 / 2250]
《 7月10日に停戦協定が調印されて、日本人は安心しましたが、

それは甘い考えでした。



翌々日の13日には中国兵が大紅門で、

移動中の日本軍トラックに手榴弾を投げ込み全員を爆死させました。

ドーンという音を聞いた笠井顧問と周参謀は現場を見に行きましたが、

そこは惨憺たる状態でした。



そこへ中国軍の営長が四、五人の部下をつれて通り掛ったので、周参謀は呼び止めて

「これは、お前の部下がやったのか」   と聞くと

「ハイ、そうです。ちょうどこの付近を警備していた私の部下がやっつけたんです」   と

得意満面に答えたのです。周参謀は声を荒げて   「とんでもない事をしてくれた。…」   と

張師長の命令書を見せました。とたんに営長の顔色が変わりました。



ここで笠井顧問は   「日本軍が今日ここを通ったのは、豊台に移動するのが目的で、

あなたの部下と戦争する為ではありません。今後もこの付近を通るでしょうが、

師長の命令にある通り、今後こういう事をしてはいけません」   と注意しました。

この事件でトラックに乗っていた日本兵は肉片と化しましたが、

日本側は厳しい注文をつけませんでした。



注文は

一、破壊自動車後片付けに対する援助

ニ、日本軍通過部隊に対する安全保障

だけです。日本側は、これほどまでに中国側に気を使っていたのです。



そうした所、今度は、団河付近で騎馬兵が殺されました。

14日、天津騎兵隊は通州を通過して豊台に向かっていたのですが、

大紅門事件の事を聞いていましたので不測の事態を避ける為、迂回していたのです。

主力は無事豊台に着きましたが、二人ほど、落鉄のため部隊から遅れ馬をひいて

歩いていると中国兵に出くわし、機銃攻撃をうけました。

近藤二等兵はその場に撃ち倒され、大垣軍曹は高粱畑に逃げ込み、

日が暮れてから、通州に歩いて戻りました。



翌日、桜井顧問が現地に派遣され、営長の董少校と会見します。

始めのうちは言を左右にしていましたが、営長室の片隅に立てかけてあった

日本の四四式騎兵銃を見つけられ、白状しました。

現場に行き死体の検証を行うと、二等兵は銃弾六発を身に受け即死、

その後、青竜刀で頭を二つに割られ、脳漿がなくなっていました。

その上、右脚も切り落とすという残酷な殺され方だったのです。



日本側は、戦闘を小競り合いで終わらせ、拡大しないように努力しているのに、

中国側は、日本がルールを守って攻撃しないのを良い事に、

一方的に攻撃をかけているのです。

それだけでは、ありません。蒋介石は宋哲元に

「日本軍は15日に総攻撃をかけてくるから戦闘態勢に入れ」   と要求しました。

誰の吹き込んだガセネタかは判りませんが、中国側の一方的な思い込みで、

事態はますます悪い方へ進んでいきます。


つづく

参謀本部、戦面不拡大で検討

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/03 13:58 投稿番号: [1496 / 2250]
井本熊雄著   『支那事変作戦日誌』
199〜200p


《 南京攻略後の対支作戦を如何に指導するかに関しては、

省部の間においても、出先の各軍からも色々の意見があった。


意見の分野は概ね前節に述べた陸軍の大勢たる積極的対支作戦指導に対し、

一部少数の現占領地域における持久戦指導を基調とするものであった。

陸軍省の首脳部および主要幕僚の大部が前者を代表し、

出先各軍の意見は概ねこれに同調するものであった。

後者は参謀本部の作戦謀が主張し、次長もその考えが強かった。



具体的な作戦遂行要鎖として、津浦線沿線を南北から進攻して

占領地域を連接する意見が最も多かった。

その他漢口、広東を攻略せよという声も若干聞かれた。

海軍は対支航空作戦強化の目的で安慶を占領することを強く主張していた。



このような空気の中で兵力運用の責任を持っている実行機関は、

何といっても参謀本部の第一部であり、第二課(作戦諜)がその中枢である。

第二課としては、陸軍総兵力の懐(ふところ) 工合を一番よく承知している。

一般が積極論だからといって、軽々しく無い袖を振るわけには行かない。


特に河辺第二課長は物堅い思想の持主で、根からの支那事変不拡大主義者であった。

陸軍の保有する全戦力と、最も考慮を要する対ソ兵力と、

現在支那に突っこんでいる兵力との相互関係を深刻に考えなければ、

次の手を打つわけには行かなかったのであった。



一月十六日の近衛声明以後、河辺作戦課長を中心として、今後の用兵方針が検討せられた。

河辺大佐の回想によると、作戦課では、

差当り七月頃までは積極作戦は行わない方針を決めて、

省部および海軍の関係方面の同意を取付け、上司の決裁を受けた。

当時六ケ師団の兵力を、八月頃までに新設する計画が進捗中であった。》

だまし討ちをする中国

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/02 19:04 投稿番号: [1495 / 2250]
7月9日、やっと停戦の話がまとまったので、

日本軍が約束通り兵を退こうとすると、宛平県城の方から撃ってきました。

だから、また戦闘になります。


そのあと、スッタモンダしてやっと宛平城の兵の移動が始まると、

今度は、宛平城に正規の保安隊以外に、別の保安隊もやってきます。

中国側が妙な小細工をするものだから、

話がややこしくなり、変な事になっているのです。


--------


本交渉で協定案文の詰めが行われている最中、

不測の事態を起こさせない為、軍を動かさないよう、

中国側から申し入れが、10日午後4時にありました。



ところが中国側は、その日の夕方、襲撃を掛けてきたのです。

実は、申し入れより前すでに中国側は、夜襲を計画していました。



埼玉県の海軍受信所は7月10日(土)午後2時、

北京の米海軍武官から米本土にあてた

「信頼スベキ情報ニヨレバ、 第29軍、 宋哲元麾下ノ一部将兵ハ

  現地協定ニアキタラズ、今夜7時ヲ期シ、

  日本軍ニ対シ   攻撃ヲ開始スルコトアルベシ」

という電報を傍受しました。



この情報はすぐさま、陸軍省に伝えられましたが、陸軍側は

「何かのデマだろう、現地協定ができている以上、そんな事はある筈がない」

と取り合いませんでした。

ところが、実際、襲撃してきたのです。

日本人というのは、つくづくお人好しです。



つづく

2月15日 ラーベの日記

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/02 18:55 投稿番号: [1494 / 2250]
  二月十五日

《 昨晩、龍と周の二人がわが家を去った。今日発つという。

どうやって家に帰るのかは知らない。

計画を打ち明けられなかったし、こちらも聞かなかった。

残念ながら我々の友情にはひびが入った。

・・・

委員会の報告には公開できないものがいくつかあるのだが、

いちばんショックを受けたのは、

紅卍字会が埋葬していない死体があと三万もあるということだ。

いままで毎日二百人も埋葬してきたのに。そのほとんどは下関にある。

この数は下関に殺到したものの、船がなかったために

揚子江を渡れなかった最後の中国軍部隊が全滅したということを物語っている。》



*   「昨晩、龍と周の二人がわが家を去った。」

   龍と周は12月12日の夜、密命を帯びて南京に留まった中国軍将校


   ラーベが南京を去らねばならなくなり、

   彼の影に隠れての犯行が不可能になったので、南京を去ったのであろう。



*   「死体があと三万・・・この数は下関に殺到したものの、

   船がなかったために揚子江を渡れなかった最後の中国軍部隊が

   全滅したということを物語っている。」


   全滅と書くと、まるで日本軍が殺したかの様に取れるが、これは同士討ちによるもの。

   日本軍が来る前に死体の山は出来ていた。

   それに全滅ではない。

   船に乗れなかった者は脱出をあきらめて、城内に戻り、安全区に潜伏した。

   日本軍は、そのずっと後に来た。

盧溝橋事件4 新聞に嘘を書く林耕宇

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/01 18:41 投稿番号: [1493 / 2250]
《 軍使一行は北京に行く事になりましたが、城門には土嚢が積まれていて

出られません。そこでロープを伝って城壁から降りる事にしました。

ところが、そこに米人記者エドガー・スノーが来ていて、この光景を写真に

撮っていました。 そこで一行は、スノーの車を借りて北京に行く事にしました。

米国国旗がついているので、両方の攻撃を受けないで済むからです。



北京に着いた、寺平補佐官は秦徳純市長を捜しましたが、なかなか捉まりません。

やっと捉まえて、交渉しても埒があきませんでした。

中国側は   「中国軍が永定河の西に移動する」   事を、

「日本が東側を盗る」   と考えているのです。

寺平補佐官は   「私が言ってるのは、永久駐屯とか何かじゃなくて、

今の事件を丸く納める為の一時的措置なんです」   と言ってるのに、

グズッてなかなか進みません。


スッタモンダの挙句、秦市長は   「一応、皆と相談してみます」   と

言って、会議室に消えました。



その時突然、林耕宇が彼の主宰する新聞、亜州日報を差し出したのです。

「寺平さん、もう今日の記事と写真ができましたよ。早いでしょう」

「ほほう、これが私の宛平城乗り越えの写真か、…」



「何だって?   至今晨四時許   到達宛平県署   寺平仍堅持日軍須入城捜査   …、

林さん!これだとまるで日本軍が勝手に戦争を始めたようじゃないか。

これが君の筆だとすると、私の方にも文句があるぞ。

私がいつ城内の捜査を要求したんだ?…」



「イヤ、これはその、実情を知らない記者が書いたんで、…」   と

にわかに狼狽し始めた。

「宛平城内の状況を知っているのは、林さんしかいないじゃないか…」

林耕宇は、いろいろ弁解しましたが、結局、この記事は訂正されることなく、

現在も、中国側に、盧溝橋事件の原因として利用されています。



二、三十分して、秦市長は戻って来、

「まだ時間がかかる。午前三時頃までには、ご返事できます」   と言って、

寺平補佐官達を帰らせました。



ところが、午前一時ごろ張允栄がもうやってきて、次のことを言ったのです。

「死傷者の手当て、整理の為に、七、八十名の兵を残して欲しい。

次に部隊が撤退してしまうと、治安の維持をする者がいなくなってしまうので、

代わりに北京から五百名の保安隊を入れたい」   と。

寺平補佐官は、停戦をする為に、一時的に兵を別けるだけ、と言っているのに、

こういう事を言って、話をややこしくするわけです。


つづく

2月14日 董道寧の赴日

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/01 18:32 投稿番号: [1492 / 2250]
松本重治著   『上海時代・下』   中公新書
261〜262p


《 二月初め、伊藤君は上海に現れ、西君の要望に従い、

董君の訪日問題については、私とともに綿密な計画を練った。

主として、パレス・ホテルで董君を交え、

三人で数回にわたる打合せをやった。



まず、東京での西君の工作が成功して、

影佐大佐が多田   (駿)   参謀次長を説き、

董君の来日のための準備が一応完了するまで、

董君は暫く上海に逗留することに決めたが、

それは、蒋介石の特務隊の監視をはぐらかす時間が必要でもあったからである。



やがて、二月十日ごろ、西君から伊藤君に青信号が届いたので、

董君は、伊藤君に伴われて、十四日、船便で上海を発って行った。

私は董君の壮途の成功を祈念しながらも、

あまり目に立つようなことは絶対避けるべしとの配慮から、

本意なくも見送りを差し控えた。》

盧溝橋事件3 白々しい嘘の秦徳純

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/29 18:39 投稿番号: [1491 / 2250]
《 桜井顧問は   「イヤ今度は止めやせん。

ただちょっと貴方にお話しておかにゃならん事があるんです」   と切り出しました。

「ここに来る前、私は秦徳純に会いました。ところが先方は

『城外には一兵も配置しておらん』   と言うんです」

「そんな事は絶対ありません。現に…」



「まー、私の話を聞いて下さい。それでもし城外で銃声がしたと言うなら、

それは29軍の兵士でなく匪賊かもしれん。便衣隊の仕業かも知れん。

あるいは西瓜畑の番人が泥棒と間違えて撃ったかも知れない、と言ってるんです」。

「そんな馬鹿な…」

「まー待って下さい。それからこうも言っとるんです。

もしかしたら29軍の兵士かも知れない。

だとしたら上司の命令を聞かないワカラズヤどもだから、

攻撃しようと討伐しようと、日本側のご自由に、とこう言うんです」



「へー」

「そこで私の意見を申し上げますと、宛平県城には一般民衆も住んでいますから、

どうかこの城だけは攻撃しないで下さい」

「承知しました。宛平県城に対しては銃先を向けません。

その代わり城外にいる匪賊か便衣隊か西瓜泥棒か判らんやつは攻撃します」

「そうして下さい。じゃあ私は宛平県城に入りますから」   と言って二人は別れました。



宛平県城に軍使一行が入り、中国軍営長金振中と話している時に戦闘が始まりました。

第四回目の銃撃を受けたので、これをきっかけに反撃を開始したのです。

時に昭和12年7月8日午前5時30分

このため、交渉は打ち切りとなり、軍使は人質状態となりました。



寺平補佐官は、人質状態の間、

一旦始まった戦闘をいかにして停止させるかを考えていました。

そこで考えついたのは、永定河を挟んで兵を別けるという方法です。

日本軍を東側に、中国軍を西側にです。近くにいたら撃ち合いを始めますので、

鉄砲の弾の届かない、この位の距離が必要なのです。



これを金振中に話すと

「同感です、これが一番理想的な解決方法でしょう」   と賛成しました。

ところが   「ただ私はこの地区の警備を任されています。私が西側に行くと、

職場放棄で命令違反となります。従って私の一存では動けません」   と言ったのです。

そこで北京に行って、話しをつけることになりました。



一方、日本軍の方は、中島から反対岸まで進んでいました。

この間、日本軍が相手していたのはれっきとした中国軍です。

西瓜泥棒などではありません。

戦闘が始まったとき、宛平県城の中国兵は日本軍に向かって発砲しました。

桜井顧問が   「撃つな」   と言っても聞きません。

「仲間が殺されてるのを黙って見ておれるか」   と憤っていたのです。



それなら最初から   「外の兵は中国兵」   と認めていれば、話は簡単だったのに、

最初から認めていれば、謝罪だけで済んだものを。なぜか中国は嘘をつくのです。

そして事態をややこしくさせます。


つづく
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