河辺課長更迭と不拡大方針の撤回
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/12 18:53 投稿番号: [1515 / 2250]
井本熊雄著
『支那事変作戦日誌』
202
《 河辺作戦課長は、二月下旬から三月始めにかけて出先軍司令部を一巡して帰京した。
ところが河辺大佐を参謀本部で待ち構えていたのは、
新方針に基づく諸施策実行の仕事でなく、
「浜松飛行学校附に補す」
という辞令であった。
トラウトマン和平工作以来、意見の対立で参謀本部と陸軍省は気拙 (まず) い関係に
為ったといわれているが、筆者は当時そんな印象を受けた記憶はない。
杉山陸相は大勢の方向と同じく、強硬な対支もう一押し論である。
梅津次官も山東作戦、徐州作戦の遂行によって津浦線沿線の南北打通を
熱心に主張している。その下僚である軍務局を初め陸軍省の主力は、
挙って積極作戦思想に傾いていた。
その陸軍省から見れば、参謀本部特に次長と第二課長等作戦系統は甚だ弱い。
こんな弱気の対支態度をとっていたのでは、ますます蒋介石を増長させ、
とても事変の早期解決はできないという強い作戦当局批評となったことは容易に肯ける。
しかし統帥権独立の制度下において、純統帥
(作戦用兵)
の根本を握っているのは
参謀本部の作戦系統である。
ここが方針を決めて押し通せば、陸軍省も正面切って反対するわけに行かない。
消極的な方針を変更するには、作戦当局の人を代える以外に方法はないことになる。
このようなことで河辺第二課長転出ということになったのであろうと
筆者は推察するのである。
河辺課長の後任は、前年河辺大佐の下で戦争指導課の部員であり、
その後軍事課課員であった稲田正純中佐であった。
稲田作戦課長の着任後、従来の戦面不拡大方針は逐次に改められて、
精極的事変解決の施策が思い切って進められた。
だからといって、これは稲田課長個人の意思でも施策でもない。
陸軍の大勢がそのように動いたのである。
稲田中佐
(間もなく大佐)
は、頭脳明晰なことは定評があったが、
実に物事にこだわらぬ柔軟な考え方をする課長であった。
この特性が、課長時代の難問題処理はもとより、その後大東亜戦争間の
各種国難な任務に柔軟に対処した所以であると推察せられるのである。
とにかく、作戦課長更迭を機として、この事変当初からの不拡大思想は、
完全に一掃せられた。
間もなく徐州会戦が行われ、引続いて漢口、広東の大作戦が遂行せられた。
かくして昭和十三年は、支那事変中唯一の最も積極的で大規模な作戦に
終始する年となった。
河辺構想の戦面不拡大方針は天皇の御承認を得てから一ケ月も経たない中に崩壊した。》
これは メッセージ 1509 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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