郎坊事件と広安門事件
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/04 15:22 投稿番号: [1499 / 2250]
蒋介石は、7月16日宋哲元に
「日本側の策謀に乗じられるな、戦備を整えよ」 と打電しました。
宋哲元は、日本と和平を進めたいのですが、
蒋介石の逆の命令でジレンマに立たされます。
また蒋介石は、7月17日に宋哲元への牽制をも込めてラジオから
『生死関頭演説』 を流しました。 すべてを犠牲にして戦うというものです。
蒋介石は、19日までに30個師団を北支に集結させ、
22日までには梅津・何応欽協定を破って、蒋介石直属の師団を河北省に入れました。
宋哲元だけでなく、これまで親日と言われていた石友三の部隊や
冀東防共自治政府の兵の中にも動揺するものが出てきます。
蒋介石が、そこまで決意している時に、いつまでも親日をやっていたら、
将来、漢奸として罰を受けかねない。もう見切り時と見たのでしょう。
彼らが口火を切って、日本軍に攻撃を掛けてきます。
7月24日、郎坊付近で日本軍の電話線が切られたので、修理班が現地に行くと、
これまでと雰囲気が違っていました。
この辺は親日と言われる石友三の部隊の管轄ですが、
駅の周囲には陣地が構築され、修理中に中国兵が銃を向けていたのです。
その日は何とか無事に終えましたが、翌日、また郎坊付近で電話線が切られ
ましたので,今度は護衛兵をつけることにしました。
修理班と五ノ井中隊は午後四時過ぎ郎坊に到着しましたが、修理は手間取り、
五ノ井中隊は宿舎の提供を中国側に要請しました。
しかし拒否されたので、仕方なく、駅で夜を明かしていると、
午後11時30分、中国側が、突然小銃、機銃を乱射してきたのです。
五ノ井中隊が応戦せずにいると、午前0 時過ぎ、中国側は迫撃砲を撃ち始め、
たちまち、重傷二人、軽傷四人の損害を出しました。
そこで反撃開始、天津に急報します。
報告を受けた香月中将は、舌打ちする想いに襲われました。
即座に兵を派遣して助けたいのですが、14日づけの
「事変処理ニ関スル方針」 で 「兵力使用ハ中央部ノ承認ヲ得ル事」 と
指示されたからです。
「こんな事で、急の場合、間に合うのか」 と言っていた事が、現実になりました。
(何か、今の自衛隊を見ているようです)
香月中将は、独断で派兵を決心し、東京に兵力使用の要請電を発しました。
今度は、参謀本部も許可しました。
応援部隊がやって来て、中国軍を蹴散らし郎坊事件は終わります。
ところが、今度は広安門で事件が起きました。
香月中将は、郎坊に部隊を送る時、北京にも部隊を送ったのです。
居留民の保護のためです。
ところが、これが中国側の警戒心を高め事件となりました。
早めに通告すると、妨害が予想されるので、直前になって通告したのです。
広部部隊が入城していると、途中から門を閉められ、兵を分断され銃撃されました。
ここに至って、穏忍自重していた日本軍も遂に切れ、実力行使に転じます。
つづく
「日本側の策謀に乗じられるな、戦備を整えよ」 と打電しました。
宋哲元は、日本と和平を進めたいのですが、
蒋介石の逆の命令でジレンマに立たされます。
また蒋介石は、7月17日に宋哲元への牽制をも込めてラジオから
『生死関頭演説』 を流しました。 すべてを犠牲にして戦うというものです。
蒋介石は、19日までに30個師団を北支に集結させ、
22日までには梅津・何応欽協定を破って、蒋介石直属の師団を河北省に入れました。
宋哲元だけでなく、これまで親日と言われていた石友三の部隊や
冀東防共自治政府の兵の中にも動揺するものが出てきます。
蒋介石が、そこまで決意している時に、いつまでも親日をやっていたら、
将来、漢奸として罰を受けかねない。もう見切り時と見たのでしょう。
彼らが口火を切って、日本軍に攻撃を掛けてきます。
7月24日、郎坊付近で日本軍の電話線が切られたので、修理班が現地に行くと、
これまでと雰囲気が違っていました。
この辺は親日と言われる石友三の部隊の管轄ですが、
駅の周囲には陣地が構築され、修理中に中国兵が銃を向けていたのです。
その日は何とか無事に終えましたが、翌日、また郎坊付近で電話線が切られ
ましたので,今度は護衛兵をつけることにしました。
修理班と五ノ井中隊は午後四時過ぎ郎坊に到着しましたが、修理は手間取り、
五ノ井中隊は宿舎の提供を中国側に要請しました。
しかし拒否されたので、仕方なく、駅で夜を明かしていると、
午後11時30分、中国側が、突然小銃、機銃を乱射してきたのです。
五ノ井中隊が応戦せずにいると、午前0 時過ぎ、中国側は迫撃砲を撃ち始め、
たちまち、重傷二人、軽傷四人の損害を出しました。
そこで反撃開始、天津に急報します。
報告を受けた香月中将は、舌打ちする想いに襲われました。
即座に兵を派遣して助けたいのですが、14日づけの
「事変処理ニ関スル方針」 で 「兵力使用ハ中央部ノ承認ヲ得ル事」 と
指示されたからです。
「こんな事で、急の場合、間に合うのか」 と言っていた事が、現実になりました。
(何か、今の自衛隊を見ているようです)
香月中将は、独断で派兵を決心し、東京に兵力使用の要請電を発しました。
今度は、参謀本部も許可しました。
応援部隊がやって来て、中国軍を蹴散らし郎坊事件は終わります。
ところが、今度は広安門で事件が起きました。
香月中将は、郎坊に部隊を送る時、北京にも部隊を送ったのです。
居留民の保護のためです。
ところが、これが中国側の警戒心を高め事件となりました。
早めに通告すると、妨害が予想されるので、直前になって通告したのです。
広部部隊が入城していると、途中から門を閉められ、兵を分断され銃撃されました。
ここに至って、穏忍自重していた日本軍も遂に切れ、実力行使に転じます。
つづく
これは メッセージ 1497 (kir**gotowa**me さん)への返信です.