入って中国人に南京事件真相議論しましょう
Yahoo! Japan 掲示板トピックビューアー
お人よしの日本人
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/06 18:46 投稿番号: [1504 / 2250]
通州で、日本人を大虐殺した犯人たちは、意気揚々北京にやって来ました。
ところが、そこにいたのは宋哲元ではなく、日本軍だったのです。
彼らは慌てて逃げますが捕まります。
温厚な中島29軍顧問は
「機関銃をくれ、仇をとってやる」
と息まきましたが、
「それでは暴に酬ゆるに暴を以ってするだけだ」
と止められ、
結局、連中は収容もされず城外に放置されたままでした。
彼らは後、移動して中国軍に加わります。
それだけではありません。
石射東亜局長は、中国が呑みやすいように大幅に譲歩した和平案を考えたのです。
その内容は、
(1)
塘沽協定の解消
(2)
梅津−何應欽協定の解消
(3)
土肥原−秦徳純協定の解消
(4)
冀察政権の解消
(5)
冀東特殊貿易の廃止
(6)
非武装地帯海面の中国側密輸取締りの恢復
(7)
華北における自由飛行の廃止
(8)
中国側が要求すれば上海停戦協定をも解消
というものです。
まるで、日本が敗戦国かのような内容の和平案です。
これをもって、上海に和平会談を設定します。
ところが、この善意の提案は中国側によって踏みにじられます。
これは メッセージ 1501 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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2月18日 オーストリアの抵抗
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/06 18:39 投稿番号: [1503 / 2250]
シューシュニックはヒットラーに独・墺併合を強要され、対策を考えました。
2月18日にオーストリア・ナチスに転向していた
アルトゥル・ザイス=インクヴァルトを内務大臣に任命します。
オーストリア国内ではオーストリア・ナチスが
公然と政府打倒とドイツへの併合を求める動きを開始していました。
シューシュニックには、奥の手として暖めておいた秘策があります。
それは国民投票を実施してオーストリア国民に
「ドイツとの合併」
か
「自主独立」
か選択させ、
正面からヒトラーの要求を拒絶することです。
ドルフス前首相暗殺以来のドイツ側による様々な圧力に国民の反感が高まっており、
実施されれば
「自主独立」
の選択が確実でしょう。
更にかつてドルフスが非合法化したオーストリア社会民主党とも極秘に交渉し、
国民投票への協力と引き換えに非合法化の取消を約束しました。
これは メッセージ 1487 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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Re: 郎坊事件と広安門事件
投稿者: ninstomach 投稿日時: 2012/03/05 18:49 投稿番号: [1502 / 2250]
ご苦労様です。
史実に基づく解説ですから、非常に解り易い。
私は、戦犯裁判全般を調べているのですが、松井大将が平和に対する罪・無罪になっているのは、チナ(ナチが逆立ちしても勝てないw)側の侵略により開始された戦争であった事を国際法廷が否定出来なかったから。
人道に対する罪が不起訴になっているのは、組織的虐殺行為が無かったから。
百人斬り将校・記者らの事情聴取を行なったように、通例戦争犯罪を起訴したかったのだが、起訴相当の事件が存在せず、実行犯の訴追も出来なかった。
そこでチナの面子のため、犯罪事実を特定しないまま、戦死体処理と偽証に基づき、組織的でなければ不可能な犯罪が行われたという虚構を前提に、松井大将のB級不作為責任追及で絞首刑にした事件であったと理解しています。
その認識が正しい事が、ここに述べられているのだと思いますw。
これは メッセージ 1499 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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通州虐殺事件
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/05 18:42 投稿番号: [1501 / 2250]
香月中将は、最後通牒を出し、通告どおり7月28日、
北京の中国軍へ攻撃を開始、実力排除に出ました。
宋哲元はこれまでと北京を去りましたが、只では逃げません。
通州と天津に分駐する冀東保安隊と第38師の一部に “蜂起” を指令しました。
そしてその指令は実行されます。
天津の中国軍は、天津駅、東機器局、飛行場、日本租界、支那駐屯軍司令部などを
襲撃しました。尤も、これは日本軍によって撃退されますが、
一方、通州の方は事情が異なっていました。
通州は親日政権冀東防共自治政府の所在地であり、
保安隊は野砲を持つ強力な存在だったので日本軍は安心していたのです。
ところが、彼らは、ひそかに宋哲元に服従していました。
南京から
「日本軍が負け、中国軍が勝っている」
というラジオの嘘放送があり、
これを信じた彼らは、このまま親日でいたら自分たちが危ない、
ここは一つ手柄をたてて、宋哲元の下に馳せ参じようと考えたのです。
そこで、彼らは29日、通州にある特務機関、警察分署、守備隊、旅館、
出張所、食堂、民家、など日本人のいる所を一斉に襲撃しました。
ここで彼らは軍人、警察官だけでなく、非戦闘員の日本人居留民約260人を
惨殺しています。老若男女の別なく。
その、惨状は、聞きしに勝るものでした。証言には
《城内は実に凄惨なもので到る処、無惨な日本居留民の死体が横たわって
居りまして、殆ど全部の死体には首に縄がつけてありました。
頑是なき子供の死体や婦人の虐殺死体は殆ど見るに耐えませんでした》
《旭軒とか云ふ飲食店を見ました。そこには四十から十七〜八歳迄の女七〜八名は
皆強姦され裸体で陰部を露出したまま射殺されて居りました。
そのうち四〜五名は陰部を銃剣で刺されていました。
家の内は家具・布団・衣類等は何物もなく掠奪されていました》
《錦水楼と云ふ旅館は凄惨でありました。
同所は危険を感じた日本人が集まったものの如く大量虐殺を受けておりました。
錦水楼の女主人や女中等は数珠繋ぎにされ、手足を縛られたまま強姦され、
遂に斬首されたと云ふ事でした》
《男は目玉をくり抜かれ、上半身は蜂の巣の様でありました》
《南城門の近くに一日本人の商店があり、そこの主人らしき者が引っ張りだされ
殺された屍体が路上に放置されてありました。
これは腹部の骨が露出し、内蔵が散乱しておりました》
《旭軒と云ふ飲食店に入りますと、そこに居りました七〜八名の女は全部裸体にされ、
強姦射(刺)殺されて居りまして、陰部に箒を押し込んである物、
口中に土砂を填めてあるもの、腹部を縦に割ってあるもの等、
見るに耐えませんでした》
《東門近くの鮮人商店の付近に池がありましたが、
その池には首を縄で縛り両手を併せて、それに八番鉄線を通し(貫通)、
一家六名数珠繋ぎにして引廻された形跡、歴然たる死体がありました。
池の水は血で赤く染まって居たのを目撃しました》
《守備隊の東門を出ますと、殆ど数間間隔に居留民男女の惨殺死体が
横たわって居るのを目撃し、一同悲憤の極に達しました。
敵兵は見当たりませんでしたので‥‥
「日本人は居ないか」
と連呼し乍ら、
各戸毎に調査して参りますと、鼻部に牛の如く針金を通された子供や、
片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦等が、
そこかしこの塵埃箱の中や壕の内、塀の蔭等から続々這い出して来ました》
これは メッセージ 1499 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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昭和13年2月18日 重慶初爆撃
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/05 18:32 投稿番号: [1500 / 2250]
海軍戦史叢書
『中国方面海軍作戦〈2〉』
108
(一)
奥地攻撃の開始
《 重慶に対する初攻撃は、昭和十三年二月十八日
木更津空飛行隊長佐多直大少佐指揮の中攻三機をもって決行されたが、
爾
(じ)
後四川省方面の天候不良のため保留されていた。》
注:
中攻とは九六式陸上攻撃機の事
*
これは、単に、敵の飛行場を叩く、いつものタイプの攻撃で一回きりです。
次は、昭和14年5月までありません。
これは メッセージ 1498 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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郎坊事件と広安門事件
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/04 15:22 投稿番号: [1499 / 2250]
蒋介石は、7月16日宋哲元に
「日本側の策謀に乗じられるな、戦備を整えよ」
と打電しました。
宋哲元は、日本と和平を進めたいのですが、
蒋介石の逆の命令でジレンマに立たされます。
また蒋介石は、7月17日に宋哲元への牽制をも込めてラジオから
『生死関頭演説』
を流しました。 すべてを犠牲にして戦うというものです。
蒋介石は、19日までに30個師団を北支に集結させ、
22日までには梅津・何応欽協定を破って、蒋介石直属の師団を河北省に入れました。
宋哲元だけでなく、これまで親日と言われていた石友三の部隊や
冀東防共自治政府の兵の中にも動揺するものが出てきます。
蒋介石が、そこまで決意している時に、いつまでも親日をやっていたら、
将来、漢奸として罰を受けかねない。もう見切り時と見たのでしょう。
彼らが口火を切って、日本軍に攻撃を掛けてきます。
7月24日、郎坊付近で日本軍の電話線が切られたので、修理班が現地に行くと、
これまでと雰囲気が違っていました。
この辺は親日と言われる石友三の部隊の管轄ですが、
駅の周囲には陣地が構築され、修理中に中国兵が銃を向けていたのです。
その日は何とか無事に終えましたが、翌日、また郎坊付近で電話線が切られ
ましたので,今度は護衛兵をつけることにしました。
修理班と五ノ井中隊は午後四時過ぎ郎坊に到着しましたが、修理は手間取り、
五ノ井中隊は宿舎の提供を中国側に要請しました。
しかし拒否されたので、仕方なく、駅で夜を明かしていると、
午後11時30分、中国側が、突然小銃、機銃を乱射してきたのです。
五ノ井中隊が応戦せずにいると、午前0 時過ぎ、中国側は迫撃砲を撃ち始め、
たちまち、重傷二人、軽傷四人の損害を出しました。
そこで反撃開始、天津に急報します。
報告を受けた香月中将は、舌打ちする想いに襲われました。
即座に兵を派遣して助けたいのですが、14日づけの
「事変処理ニ関スル方針」
で
「兵力使用ハ中央部ノ承認ヲ得ル事」
と
指示されたからです。
「こんな事で、急の場合、間に合うのか」
と言っていた事が、現実になりました。
(何か、今の自衛隊を見ているようです)
香月中将は、独断で派兵を決心し、東京に兵力使用の要請電を発しました。
今度は、参謀本部も許可しました。
応援部隊がやって来て、中国軍を蹴散らし郎坊事件は終わります。
ところが、今度は広安門で事件が起きました。
香月中将は、郎坊に部隊を送る時、北京にも部隊を送ったのです。
居留民の保護のためです。
ところが、これが中国側の警戒心を高め事件となりました。
早めに通告すると、妨害が予想されるので、直前になって通告したのです。
広部部隊が入城していると、途中から門を閉められ、兵を分断され銃撃されました。
ここに至って、穏忍自重していた日本軍も遂に切れ、実力行使に転じます。
つづく
これは メッセージ 1497 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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2月16日、戦面不拡大の作戦指導要領
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/04 15:14 投稿番号: [1498 / 2250]
井本熊雄著
『支那事変作戦日誌』
200〜201p
《 二月十六日の御前会議で決定せられた作戦指導要領は次のとおりであった。
自昭和十三年二月
至同年
夏季
支那事変帝国陸軍作戦指導要領
第一
方針
支那ニ於ケル現占拠地域
(北支那方面、 津浦線以西ニ在リテハ
黄河ノ線迄ヲ
含ム)
ヲ
確保シテ
其ノ安定ヲ期スルト共ニ
対ソ支二国作戦ノ為
軍ノ実質的整備ノ 完遂ヲ図リ
第三国 特ニソ連ニ対シ
警戒ヲ厳ニス
状況之ヲ許スニ至ル迄
右戦面ヲ拡大シ
又ハ新方面に対し作戦ヲ行フコトナシ
第二
作戦指導要領
一、北支那方面
膠済沿線ノ確保及ヒ
済南ヨリ上流
黄河ノ線ニ
向フ作戦ヲ継続シ
爾後概ネ
右両限界以北ノ地域ヲ
確保安定スル外、敵後方ニ対スル
航空作戦ヲ続行ス
二、蒙疆方面
現占拠地域ヲ確保シ
占拠地域附近ニ対シ
現有兵力ヲ以テスル
剿匪的作戦ヲ行フ外
遠ク積極作戦ヲ実施セス
三、済南、浦口鉄道(津浦線南部)
現在以上ニ作戦ヲ拡大セス
四、中支方面
海軍ト協同シテ
現占拠地域ヲ確保安定スル外
敵後方ニ対スル航空作戦ヲ続行ス
情況之ヲ許スニ至ラバ
所要ノ航空基地ノ獲得ヲ図ル
五、其他ノ方面
情況特ニ全般ノ戦備
之ヲ許スノ時期ニ於テハ
所要ノ方面ニ作戦ヲ
進ムルコトアリ
第三
兵力ノ整備
別ニ定ム
本要領が御前会議で決裁せられた後、これを出先の主要軍司令官に伝えることになり、
主任者の河辺大佐が出かけて手渡し、直接説明する役を仰せつかった。》
つづく
これは メッセージ 1496 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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停戦協定を破る中国軍
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/03 14:07 投稿番号: [1497 / 2250]
《 7月10日に停戦協定が調印されて、日本人は安心しましたが、
それは甘い考えでした。
翌々日の13日には中国兵が大紅門で、
移動中の日本軍トラックに手榴弾を投げ込み全員を爆死させました。
ドーンという音を聞いた笠井顧問と周参謀は現場を見に行きましたが、
そこは惨憺たる状態でした。
そこへ中国軍の営長が四、五人の部下をつれて通り掛ったので、周参謀は呼び止めて
「これは、お前の部下がやったのか」
と聞くと
「ハイ、そうです。ちょうどこの付近を警備していた私の部下がやっつけたんです」
と
得意満面に答えたのです。周参謀は声を荒げて
「とんでもない事をしてくれた。…」
と
張師長の命令書を見せました。とたんに営長の顔色が変わりました。
ここで笠井顧問は
「日本軍が今日ここを通ったのは、豊台に移動するのが目的で、
あなたの部下と戦争する為ではありません。今後もこの付近を通るでしょうが、
師長の命令にある通り、今後こういう事をしてはいけません」
と注意しました。
この事件でトラックに乗っていた日本兵は肉片と化しましたが、
日本側は厳しい注文をつけませんでした。
注文は
一、破壊自動車後片付けに対する援助
ニ、日本軍通過部隊に対する安全保障
だけです。日本側は、これほどまでに中国側に気を使っていたのです。
そうした所、今度は、団河付近で騎馬兵が殺されました。
14日、天津騎兵隊は通州を通過して豊台に向かっていたのですが、
大紅門事件の事を聞いていましたので不測の事態を避ける為、迂回していたのです。
主力は無事豊台に着きましたが、二人ほど、落鉄のため部隊から遅れ馬をひいて
歩いていると中国兵に出くわし、機銃攻撃をうけました。
近藤二等兵はその場に撃ち倒され、大垣軍曹は高粱畑に逃げ込み、
日が暮れてから、通州に歩いて戻りました。
翌日、桜井顧問が現地に派遣され、営長の董少校と会見します。
始めのうちは言を左右にしていましたが、営長室の片隅に立てかけてあった
日本の四四式騎兵銃を見つけられ、白状しました。
現場に行き死体の検証を行うと、二等兵は銃弾六発を身に受け即死、
その後、青竜刀で頭を二つに割られ、脳漿がなくなっていました。
その上、右脚も切り落とすという残酷な殺され方だったのです。
日本側は、戦闘を小競り合いで終わらせ、拡大しないように努力しているのに、
中国側は、日本がルールを守って攻撃しないのを良い事に、
一方的に攻撃をかけているのです。
それだけでは、ありません。蒋介石は宋哲元に
「日本軍は15日に総攻撃をかけてくるから戦闘態勢に入れ」
と要求しました。
誰の吹き込んだガセネタかは判りませんが、中国側の一方的な思い込みで、
事態はますます悪い方へ進んでいきます。
つづく
これは メッセージ 1495 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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参謀本部、戦面不拡大で検討
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/03 13:58 投稿番号: [1496 / 2250]
井本熊雄著
『支那事変作戦日誌』
199〜200p
《 南京攻略後の対支作戦を如何に指導するかに関しては、
省部の間においても、出先の各軍からも色々の意見があった。
意見の分野は概ね前節に述べた陸軍の大勢たる積極的対支作戦指導に対し、
一部少数の現占領地域における持久戦指導を基調とするものであった。
陸軍省の首脳部および主要幕僚の大部が前者を代表し、
出先各軍の意見は概ねこれに同調するものであった。
後者は参謀本部の作戦謀が主張し、次長もその考えが強かった。
具体的な作戦遂行要鎖として、津浦線沿線を南北から進攻して
占領地域を連接する意見が最も多かった。
その他漢口、広東を攻略せよという声も若干聞かれた。
海軍は対支航空作戦強化の目的で安慶を占領することを強く主張していた。
このような空気の中で兵力運用の責任を持っている実行機関は、
何といっても参謀本部の第一部であり、第二課(作戦諜)がその中枢である。
第二課としては、陸軍総兵力の懐(ふところ) 工合を一番よく承知している。
一般が積極論だからといって、軽々しく無い袖を振るわけには行かない。
特に河辺第二課長は物堅い思想の持主で、根からの支那事変不拡大主義者であった。
陸軍の保有する全戦力と、最も考慮を要する対ソ兵力と、
現在支那に突っこんでいる兵力との相互関係を深刻に考えなければ、
次の手を打つわけには行かなかったのであった。
一月十六日の近衛声明以後、河辺作戦課長を中心として、今後の用兵方針が検討せられた。
河辺大佐の回想によると、作戦課では、
差当り七月頃までは積極作戦は行わない方針を決めて、
省部および海軍の関係方面の同意を取付け、上司の決裁を受けた。
当時六ケ師団の兵力を、八月頃までに新設する計画が進捗中であった。》
これは メッセージ 1494 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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だまし討ちをする中国
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/02 19:04 投稿番号: [1495 / 2250]
7月9日、やっと停戦の話がまとまったので、
日本軍が約束通り兵を退こうとすると、宛平県城の方から撃ってきました。
だから、また戦闘になります。
そのあと、スッタモンダしてやっと宛平城の兵の移動が始まると、
今度は、宛平城に正規の保安隊以外に、別の保安隊もやってきます。
中国側が妙な小細工をするものだから、
話がややこしくなり、変な事になっているのです。
--------
本交渉で協定案文の詰めが行われている最中、
不測の事態を起こさせない為、軍を動かさないよう、
中国側から申し入れが、10日午後4時にありました。
ところが中国側は、その日の夕方、襲撃を掛けてきたのです。
実は、申し入れより前すでに中国側は、夜襲を計画していました。
埼玉県の海軍受信所は7月10日(土)午後2時、
北京の米海軍武官から米本土にあてた
「信頼スベキ情報ニヨレバ、 第29軍、 宋哲元麾下ノ一部将兵ハ
現地協定ニアキタラズ、今夜7時ヲ期シ、
日本軍ニ対シ
攻撃ヲ開始スルコトアルベシ」
という電報を傍受しました。
この情報はすぐさま、陸軍省に伝えられましたが、陸軍側は
「何かのデマだろう、現地協定ができている以上、そんな事はある筈がない」
と取り合いませんでした。
ところが、実際、襲撃してきたのです。
日本人というのは、つくづくお人好しです。
つづく
これは メッセージ 1493 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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2月15日 ラーベの日記
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/02 18:55 投稿番号: [1494 / 2250]
二月十五日
《 昨晩、龍と周の二人がわが家を去った。今日発つという。
どうやって家に帰るのかは知らない。
計画を打ち明けられなかったし、こちらも聞かなかった。
残念ながら我々の友情にはひびが入った。
・・・
委員会の報告には公開できないものがいくつかあるのだが、
いちばんショックを受けたのは、
紅卍字会が埋葬していない死体があと三万もあるということだ。
いままで毎日二百人も埋葬してきたのに。そのほとんどは下関にある。
この数は下関に殺到したものの、船がなかったために
揚子江を渡れなかった最後の中国軍部隊が全滅したということを物語っている。》
*
「昨晩、龍と周の二人がわが家を去った。」
龍と周は12月12日の夜、密命を帯びて南京に留まった中国軍将校
ラーベが南京を去らねばならなくなり、
彼の影に隠れての犯行が不可能になったので、南京を去ったのであろう。
*
「死体があと三万・・・この数は下関に殺到したものの、
船がなかったために揚子江を渡れなかった最後の中国軍部隊が
全滅したということを物語っている。」
全滅と書くと、まるで日本軍が殺したかの様に取れるが、これは同士討ちによるもの。
日本軍が来る前に死体の山は出来ていた。
それに全滅ではない。
船に乗れなかった者は脱出をあきらめて、城内に戻り、安全区に潜伏した。
日本軍は、そのずっと後に来た。
これは メッセージ 1490 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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盧溝橋事件4 新聞に嘘を書く林耕宇
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/01 18:41 投稿番号: [1493 / 2250]
《 軍使一行は北京に行く事になりましたが、城門には土嚢が積まれていて
出られません。そこでロープを伝って城壁から降りる事にしました。
ところが、そこに米人記者エドガー・スノーが来ていて、この光景を写真に
撮っていました。 そこで一行は、スノーの車を借りて北京に行く事にしました。
米国国旗がついているので、両方の攻撃を受けないで済むからです。
北京に着いた、寺平補佐官は秦徳純市長を捜しましたが、なかなか捉まりません。
やっと捉まえて、交渉しても埒があきませんでした。
中国側は
「中国軍が永定河の西に移動する」
事を、
「日本が東側を盗る」
と考えているのです。
寺平補佐官は
「私が言ってるのは、永久駐屯とか何かじゃなくて、
今の事件を丸く納める為の一時的措置なんです」
と言ってるのに、
グズッてなかなか進みません。
スッタモンダの挙句、秦市長は
「一応、皆と相談してみます」
と
言って、会議室に消えました。
その時突然、林耕宇が彼の主宰する新聞、亜州日報を差し出したのです。
「寺平さん、もう今日の記事と写真ができましたよ。早いでしょう」
「ほほう、これが私の宛平城乗り越えの写真か、…」
「何だって?
至今晨四時許
到達宛平県署
寺平仍堅持日軍須入城捜査
…、
林さん!これだとまるで日本軍が勝手に戦争を始めたようじゃないか。
これが君の筆だとすると、私の方にも文句があるぞ。
私がいつ城内の捜査を要求したんだ?…」
「イヤ、これはその、実情を知らない記者が書いたんで、…」
と
にわかに狼狽し始めた。
「宛平城内の状況を知っているのは、林さんしかいないじゃないか…」
林耕宇は、いろいろ弁解しましたが、結局、この記事は訂正されることなく、
現在も、中国側に、盧溝橋事件の原因として利用されています。
二、三十分して、秦市長は戻って来、
「まだ時間がかかる。午前三時頃までには、ご返事できます」
と言って、
寺平補佐官達を帰らせました。
ところが、午前一時ごろ張允栄がもうやってきて、次のことを言ったのです。
「死傷者の手当て、整理の為に、七、八十名の兵を残して欲しい。
次に部隊が撤退してしまうと、治安の維持をする者がいなくなってしまうので、
代わりに北京から五百名の保安隊を入れたい」
と。
寺平補佐官は、停戦をする為に、一時的に兵を別けるだけ、と言っているのに、
こういう事を言って、話をややこしくするわけです。
つづく
これは メッセージ 1491 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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2月14日 董道寧の赴日
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/01 18:32 投稿番号: [1492 / 2250]
松本重治著
『上海時代・下』
中公新書
261〜262p
《 二月初め、伊藤君は上海に現れ、西君の要望に従い、
董君の訪日問題については、私とともに綿密な計画を練った。
主として、パレス・ホテルで董君を交え、
三人で数回にわたる打合せをやった。
まず、東京での西君の工作が成功して、
影佐大佐が多田
(駿)
参謀次長を説き、
董君の来日のための準備が一応完了するまで、
董君は暫く上海に逗留することに決めたが、
それは、蒋介石の特務隊の監視をはぐらかす時間が必要でもあったからである。
やがて、二月十日ごろ、西君から伊藤君に青信号が届いたので、
董君は、伊藤君に伴われて、十四日、船便で上海を発って行った。
私は董君の壮途の成功を祈念しながらも、
あまり目に立つようなことは絶対避けるべしとの配慮から、
本意なくも見送りを差し控えた。》
これは メッセージ 1393 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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盧溝橋事件3 白々しい嘘の秦徳純
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/29 18:39 投稿番号: [1491 / 2250]
《 桜井顧問は
「イヤ今度は止めやせん。
ただちょっと貴方にお話しておかにゃならん事があるんです」
と切り出しました。
「ここに来る前、私は秦徳純に会いました。ところが先方は
『城外には一兵も配置しておらん』
と言うんです」
「そんな事は絶対ありません。現に…」
「まー、私の話を聞いて下さい。それでもし城外で銃声がしたと言うなら、
それは29軍の兵士でなく匪賊かもしれん。便衣隊の仕業かも知れん。
あるいは西瓜畑の番人が泥棒と間違えて撃ったかも知れない、と言ってるんです」。
「そんな馬鹿な…」
「まー待って下さい。それからこうも言っとるんです。
もしかしたら29軍の兵士かも知れない。
だとしたら上司の命令を聞かないワカラズヤどもだから、
攻撃しようと討伐しようと、日本側のご自由に、とこう言うんです」
「へー」
「そこで私の意見を申し上げますと、宛平県城には一般民衆も住んでいますから、
どうかこの城だけは攻撃しないで下さい」
「承知しました。宛平県城に対しては銃先を向けません。
その代わり城外にいる匪賊か便衣隊か西瓜泥棒か判らんやつは攻撃します」
「そうして下さい。じゃあ私は宛平県城に入りますから」
と言って二人は別れました。
宛平県城に軍使一行が入り、中国軍営長金振中と話している時に戦闘が始まりました。
第四回目の銃撃を受けたので、これをきっかけに反撃を開始したのです。
時に昭和12年7月8日午前5時30分
このため、交渉は打ち切りとなり、軍使は人質状態となりました。
寺平補佐官は、人質状態の間、
一旦始まった戦闘をいかにして停止させるかを考えていました。
そこで考えついたのは、永定河を挟んで兵を別けるという方法です。
日本軍を東側に、中国軍を西側にです。近くにいたら撃ち合いを始めますので、
鉄砲の弾の届かない、この位の距離が必要なのです。
これを金振中に話すと
「同感です、これが一番理想的な解決方法でしょう」
と賛成しました。
ところが
「ただ私はこの地区の警備を任されています。私が西側に行くと、
職場放棄で命令違反となります。従って私の一存では動けません」
と言ったのです。
そこで北京に行って、話しをつけることになりました。
一方、日本軍の方は、中島から反対岸まで進んでいました。
この間、日本軍が相手していたのはれっきとした中国軍です。
西瓜泥棒などではありません。
戦闘が始まったとき、宛平県城の中国兵は日本軍に向かって発砲しました。
桜井顧問が
「撃つな」
と言っても聞きません。
「仲間が殺されてるのを黙って見ておれるか」
と憤っていたのです。
それなら最初から
「外の兵は中国兵」
と認めていれば、話は簡単だったのに、
最初から認めていれば、謝罪だけで済んだものを。なぜか中国は嘘をつくのです。
そして事態をややこしくさせます。
つづく
これは メッセージ 1488 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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2月13日 ラーベの日記
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/29 18:30 投稿番号: [1490 / 2250]
これより先はあまりめぼしい内容はないので部分的に抜粋する。
《 二月十三日
・・・
『ノース・チャイナ・デイリー・ニューズ』
から
(ラーベの切り抜き)
一九三八年一月三十日
日本大使は懐疑的
ロンドン、一九三八年一月二十九日。吉田茂駐英日本大使は、本日
『デイリー・スケッチ』
のインタビューで、
中国で日本兵による言語を絶する残虐行為が行われたとの報道に
遺憾の意を表明するとともに、つぎのように付け加えた。
わが国の軍隊がかくも自制心を失い、伝統に反するとはきわめて考えにくいことである。
そのような行為は我々日本人の伝統とまったく相いれないものであり、
わが国の歴史始まって以来そのようなためしはなかった。
日本軍は非常に規律正しいのだ。》
これは メッセージ 1484 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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Re: 盧溝橋事件2 軍師の派遣
投稿者: nicchukaidan 投稿日時: 2012/02/28 21:55 投稿番号: [1489 / 2250]
>>そこで、一木大隊長は桜井顧問に
「今度という今度は断固やりますよ」
というと、
>>桜井顧問は
「イヤ今度は止めやせん。ただちょっと貴方にお話しておかにゃ
>>ならん事があるんです」
と切り出しました。
>>つづく
もう続かなくていいだよ!
お前が主張していることは全てお前らが暴力を持って人の家の中に上がり込んでからの話しやろう!そこでどんなことが起きようと、どんなにお前らが切り刻まれようと、お前らにとっての正義はあり得ないね!反論できるか???
いや、お前には反論の資格なんてないね!
これは メッセージ 1488 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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盧溝橋事件2 軍師の派遣
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/28 18:51 投稿番号: [1488 / 2250]
一方、特務機関のほうにも、旅団副官小野口大尉から連絡が入りました。
特務は、林耕宇やその他必要な関係者に電話します。
特務機関が慌ただしく動いているとき、小野口大尉からまた電話があり、
行方不明の兵が戻ってきたと伝えられました。
よって、 「兵の捜索」
などという話は、交渉の議題になりません。
最初は、謝罪の要求とか、中国軍の撤退要求とかの話もありましたが、
“そんなことより、まずは軍使を派遣して、中国側の代表と交渉し、
現状を打開することが先だ” という事で、寺平補佐官が行く事になりました。
他に、憲兵分隊長赤藤庄次少佐、桜井29軍顧問、中国側から林耕宇と
宛平県長王冷斉が行く事になります。
一行が出かけようとすると、連隊本部の方から
「相談したい事があるので」
立ち寄って欲しいと電話があり、行く事になりました。
森田中佐も部隊を率いて一緒にいくそうです。
この時、桜井顧問は
「城門開門の交渉をしてくるから」
と先に現地に行きました。
連隊本部では牟田口連隊長が、王冷斉に
「軍に命令できるだけの権限を与えられているのか」
と訊ねました。
それが無いことには、交渉ができないからです。
そこの所があやふやだったので市長に電話しましたが、
相手につながらず、結局あいまいなままで行くことになりました。
また一方、寺平補佐官に対しては、牟田口連隊長は森田中佐のことで
「彼は、爆弾三勇士で有名な廟行鎮突入部隊の指揮官ですが、
あの調子でジャンジャン攻撃命令を出されると、とんでもない事になる。
君がシッカリ手綱を引いてくれ」
とブレーキ役を頼みました。
午前四時前、一行は出発しました。
一方、現地では、午前3時25分、またも三発の銃声がしました。
現地ではやっと仮設電話が開通したので、
一木大隊長は、北京の牟田口連隊長に電話し、三度目の銃撃を報告し、
「もう反撃してもよいのではと思いますが、お許しになられますか」
と問いますと、
連隊長はしばらく考え込んでから
「よろしい。やり給え」
と答えました。
驚いたのは一木大隊長、言ってはみたものの、
まさか、断を下すとは思ってなかったからです。本当にやると責任重大だから
「本当にやってよろしいんでありますか」
と念を押すと
「やってよろしい。いま、午前4時20分。確実に僕は攻撃命令を下した」
と答えました。
これで、いつでも反撃の態勢がとれます。
一木大隊長は攻撃の許可をとった後、スッキリした気持ちで戦闘準備をしようとすると、
嫌な人間がやって来ました。桜井29軍顧問です。
彼は事態を不拡大に揉み消してしまうからです。
一木大隊長も不拡大なのですが、不拡大の意味が違っていました。
桜井顧問の方は戦闘をせずに丸め込むことが最良と考えているのですが、
作戦部隊の方は
「それでは駄目だ、中国人はガツンとやらなければ、
増長して却って悪くなる」
という考えだったのです。
そこで、一木大隊長は桜井顧問に
「今度という今度は断固やりますよ」
というと、
桜井顧問は
「イヤ今度は止めやせん。ただちょっと貴方にお話しておかにゃ
ならん事があるんです」
と切り出しました。
つづく
これは メッセージ 1485 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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2月12日 ヒットラー独墺併合を強要
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/28 18:39 投稿番号: [1487 / 2250]
1938年2月12日、オーストリア首相シュシニクは、
ヒトラーのベルヒテスガルテン山荘に呼びつけられました。
ヒトラーはオーストリアを保護下に置くための要求を行います。
しかし、それはオーストリアにとって受け入れられるものではありませんでした。
戻って対策を練ります。
これは メッセージ 1484 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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kir**gotowa**meよ!センズリやめろ?
投稿者: nicchukaidan 投稿日時: 2012/02/27 20:00 投稿番号: [1486 / 2250]
kir**gotowa**meよ!そろそろセンズリをやめないか?
みっともないぞ!
これは メッセージ 1485 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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2月11日 ラーベの日記2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/27 18:37 投稿番号: [1484 / 2250]
《 在漢口大使館あてのシャルフェンベルク事務長の記録
一九三八年二月十日
(長いので、前略)
ラーベ氏にはこのうえない輝けるラストシーンが用意されていたのだから。
さあ、ラーベよ、君の栄光に満ちた物語もいよいよ幕を閉じるのだ!
ラーベ氏も同じことを感じ、南京から出るための許可を取ろうとしてはいるが、
最近またぶり返した日本兵による血なまぐさい事件を阻止すべく、
あいかわらず奔走している。
だが、そんなことは我々ドイツ人には一切もう関係ないことなのだ。
ほかに頼る相手がいなくなった暁には、中国人は手のひらを返すように
日本人と兄弟のような交わりをするのは目に見えているのだから。
第一、暴行事件といっても、すべて中国人から一方的に話を聞いているだけではないか。
ラーベ氏も含め、ここにいるドイツ人は全員、アジアの戦争というものが、
われわれの考えている戦争とは本質的に異質だということが身にしみてわかった。
捕虜にしないということは、とりもなおさず冷酷な行為につながる。
略奪などはあたりまえで、まるで三十年戦争の時代に戻ったようだ。
たしかに当地の状態は悲惨だが、
難民が安全区から出てしまえばよくなっていく見込みはある。
ごく最近、混乱を治めるため、松井大将が来ていた。
「車の遺骸」
を片づけさせている点では、天谷少将の力量も感じる。
ひっくり返ったトラックやバスなど、なかにはスクラップ化したようなものもあるが、
道ばたに転がっているあらゆる種類の車に片っ端からガソリンをかけて燃やし、
残骸を片づけている。街ではたくさんの部隊が作業し、
あたりに引っかかっている電線を取り除いてはせっせと新たな線を引いている。
というわけで、この点では状況はよくなり始めている。
紅卍字会はまだあちこちに野ざらしになっている遺体を埋葬する許可を得て、
数日前には、シュレーダー家の近くの沼からなんと百二十もの死体を引き上げた。
たった一つの沼からだ。死体の腕は針金でくくられたままだった。
ラーベはこれを目撃したという。
私はといえば、日本兵たちがその沼で飯盒
(はんごう)
に水を汲んでいくのを
一度ならず見た覚えがある。どうぞおあがり下さい!
暖かくなってきたら、最悪の事態を心配しなければならない。》
これは メッセージ 1482 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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一日早い盧溝橋事件の報告
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/26 15:10 投稿番号: [1483 / 2250]
寺平忠輔著
『日本の悲劇
盧溝橋事件』
読売新聞社刊
52〜53p
《 六日の夕六時、またしても今井武官をめぐって第二の不可解な謎が発生した。
今度は北京北城の鼓楼西
(クーローシー)、 陳子庚博士の邸においてである。
その日、博士の招待をうけた今井武官は、開宴前のひととき、
博士としばしの歓談に打ちくつろいでいた。
・・・
表の方から突然、一台の自動車があわただしく滑り込んで来た。
だれだろう、といぶかっている間もなく、ボーイが名刺を捧げて入って来た。
「ただいま石友三将軍がお見えになりました。
今井武官に緊急の用事があってお目にかかりたいと申しております」
武官は大倉洋行の林亀喜氏を通訳に石友三と話し始めた。
「突然こういう席にとび込みまして、不躾
(ぶしつけ)
の段はお許し下さい。
実はただいま、盧溝橋で中日両軍が衝突し、今、盛んに射ち合いを始めております。
私は早速部下に命じ、日本軍に対し絶対抵抗してはいかんと言い含めて参りました。
どうか日本軍も今後、私の部隊に対しては絶対攻撃行動をとられないよう、
直ちに手配をお願い致します」
武官は彼のこの言葉を怪しんだ。もしそれが事実ならば、
武官室からとっくに電話で報告が来るはずである。
「石さん、それはどこから入った情報なんです」
「これは最も確実な情報です。 絶対間違いありません。
だから取りあえず武官を探してとんで来たんです」
周囲をはばかってか、出所をハッキリいおうとしないが、
先方がそれほど真剣になっているのを、けなしつけるのも礼ではない。
確実な情報、といったところで、どうせデマだとは思ったが、そこはさあらぬ体で
「それはご連絡有難う。日本軍は一番親日な石さんの部隊に対し、
どうこうするような考えは毛頭持っていません。その点どうぞご安心下さい」
としかるべくあしらった。
石友三は武官と一緒に、前菜、燕窩
(えんか)、 鱶
(ふか)
のひれだけを
形通り食べ終ると、あたただしく退出して行った。
その晩は何の事なく平穏に過ぎ、
石友三のもたらした情報は結局デマである事がはっきりした。
しかしそれから二十四時間の後、場所も情況も彼のいった言葉そのまま、
それが現実となって現われたのである。
今井武官は考えた
―
石友三はあの事件に関し、
なにか事前企図を知っていたのではなかろうか?
あまりに思いつめてしまった結果、日取りを一日間違えて、
あわてて私のところにとんで来たのかもわからない。
それにしても石友三の一語は、不思議といえば不思議に予言じみた言葉であった。》
つづく
これは メッセージ 1481 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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2月11日 ラーベの日記1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/26 14:59 投稿番号: [1482 / 2250]
9日、10日は音楽会やラーベの上海行きの交渉なので省略
二月十一日
《きょう、委員会の苦力、銭は歩いて故郷の村に帰っていった。
ここから三時間の道のりだ。銭の家族はまだ生きているだろうか。
無事に会えただろうか。心配でたまらない。
郊外ではまだかなり人が殺されているという話だ。
たった今、またもやこんな知らせが舞いこんできた。一人の兵士がある家に押し入った。
天谷少将によれば、その素晴らしい軍紀によってつとに名高い日本軍の兵士が、だ。
その家には母親と二人の娘が住んでいた。
娘を強姦しようとしたが抵抗され、そいつは三人を家に閉じ込めて火をつけた。
娘の一人は焼き殺され、母親は顔にひどいやけどを負った。
この件を調査しなければ。
シンバーグから聞いた話はもっとすさまじい。だが今度は中国人の話だ。
同郷の一人が隠し金を持っていると睨んだ四人の中国人が、
その男を縛り上げて火あぶりにして、金のありかをはかせたという。
とにかくここはアジアなのだ!
そう言い聞かせてはみても、こういう胸の
悪くなるような残虐な話をつぎからつぎへと聞かされると、祖国が恋しくなる。
上海から良い知らせだ。緑豆を百袋送ったとのこと。
鼓楼病院が脚気の治療にと頼んでいたものだ。
張は板を探しにいった。まだこまごました品物がたくさん残っている。
できるだけ多く送りたいので、木箱を作らせるつもりだ。
南京をふたたびこの目で見ることができるかどうかなど、誰にもわかりはしない!
カルロヴィッツ社にもう一箱空き箱があるというので、
シュペアリングがこっそり取ってきてくれるという。
十三時
ローゼン宅で、イギリス砲艦クリケットの将校たちと昼食。感じのいい人たちだ。
まだ荷造りが終わっていないのが残念だ。
そうでなかったら明日クリケット号で発てたのに。
マギー牧師がすさまじい残虐行為の実写フィルムを持ってきた。
ローゼンは、上海で複製を作らせている。ベルリンに送るつもりだ。
私にも一本くれることになっている。
(フィルムに写っている)負傷者は何人か見覚えがある。
そのうちの幾人かとは、いまわのきわに話ができた。
鼓楼病院の遺体安置所で見た人たちも写っていた。
在漢口大使館あてのシャルフェンベルク事務長の記録
一九三八年二月十日
・・・・
第一、暴行事件といっても、
すべて中国人から一方的に話を聞いているだけではないか。》
*
シャルフェンベルクが言うように、
残虐な話もすべては中国人から一方的に聞きかされているだけ。
シャルフェンベルクもやっと不自然さに気付き始めたようだ。
これは メッセージ 1478 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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空砲演習の事前通告
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/25 14:48 投稿番号: [1481 / 2250]
寺平忠輔著
『日本の悲劇
盧溝橋事件』
読売新聞社刊
49〜50p
《 私はつい二、三日前、やはりこの問題について当の林耕宇が、
私のところに交渉にやって来た事を思い出した。
で早速松山副官に
「その事件ですか。これはちょっと問題ですなあ。
北清事変の議定書には、実弾射撃を実施する場合には、通報する事になっていますが、
空包の場合のことは、何も規定してありません。
以来三十何年間、立派にそれでやって来たんですからねえ。
それにあの議定書というものが厳存する以上、
これを歪めるような内規をつくることは、列国軍と共同合議の上でなければ、
日本軍独自でこれを推し進める事は出来ないんじゃありませんか」
「いや、その点は私もよく考えてみたんです。
早速議定書の条項も引っ張り出して、いろいろ研究してみたんですが、
ただいまあなたのおっしゃる通りなんです。
ただ、閣下が最近の険悪な情勢を大変ご心配になりましてね、
南方の便衣隊が北京方面に入り込んで来たとか、 共産分子が裏面策動を開始したとか、
そういった情報がひんぴんとしてあがってくるものですから、
万一にも日本軍の演習が、中国側の誤解を招くような事になって、
そのため事件でも引き起したら、それこそ申し訳ない事になってしまう、
といっておられるのです。
そこでこういった通報を、永久に継続する意志はありません。
ここしばらく、こうした空気が鎮静するまでの間、臨時の弁法として
いわばまあ好意的に、彼等の要求を通してやったらどんなものか、
とこういうご意見なんです」
「閣下がご心配になるのもごもっともですなあ。
この問題については、一応松井機関長とも相談してみないとわかりませんが、
私はこれが前例になる事を深く怖れるのです」
「ところが実際問題として、豊台部隊は早速もう、
この九日と十日に盧溝橋付近で中期の検閲が行なわれるのです。
これにはもちろん空包を使わなければなりませんし、
同時に夜間演習も行なわれるのです。
またこの検閲を準備するために、六日と七日は二晩続けて、
やはり同じ場所で演習をやります。
しかも閣下は明日、山海関部隊の検閲を視察するため南大寺 (ナンタースー) に
出張されますので、もし中国側に通報するとすれば、
どうでも今晩中に書類をこしらえてしまわなければならないのです」
「じゃあこうなさったらいかがです。今回に限り、特に好意的にこれを通報する。
決して恒例的性質のものじゃない。だから将来これを前例と心得ないようにと、
その点、但し書きか何かで強調しておかれたらいかがでしょう」
「どうも林耕宇が余りしつっこくいって来るもんですからねえ。
まあそういったような事にでもして、今度だけは一つ通報しておいてやりましょう」
こういった経緯を経て、七月六日、七日、九日、十日の四日間、
日本軍が盧溝橋の原で、昼夜空包を使って演習するという通告が、
その晩の中に中国側に通達された。》
*
このように日本軍の空砲使用の演習は事前に通告されました。
これは メッセージ 1479 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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2月10日 松井大将に解任通告届く
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/25 14:34 投稿番号: [1480 / 2250]
早瀬利之著
『将軍の真実
南京事件
松井石根人物伝』
181〜182
二月十日・・・この日は東京から最後通達とも言うべき使者が司令部にやってくる。
使者は、中支那派遣軍司令部編成要領と人事の書類を持参していた。
松井はこの書類を見て驚いた。
新司令官に畑俊六、参謀長に川辺正三少将とある。
離任は二月二十一日。
これは メッセージ 1475 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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謎の宛平城 実弾射撃
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/24 18:59 投稿番号: [1479 / 2250]
寺平忠輔著
『日本の悲劇
盧溝橋事件』
読売新聞社刊
51〜52p
《 馮治安が、今度河北省政府のある保定に、新たに外賓招待所というのをこしらえて、
どういう風の吹き回しか、陸軍武官今井武夫少佐に、迎賓ナンバーワンの招請状を
発してきた。
七月三日、武官は馮治安と列車を共にして保定に向った。
車中、馮治安は
「このごろ宛平城の北面の壁めがけて、夜間しきりに機関銃の射撃をする者があって
困るんです。それが空包じゃなくって実弾なんです。
一応日本側でも、豊台の部隊あたりを調べてみて下さいませんか?」
と申し出た。
「そりゃ初耳です。どういう理由か知らないが、一応調べるだけは調べてみましょう」
翌四日、武官はそれを旅団次級副官の小野口大尉に照会した。
副官は早速豊台部隊に連絡し、各中隊隈
(くま)
なく調べたがそんな事実は全くない。
そこで五日朝、その事が武官に報告され、武官から馮治安あてに回答が発せられた。
日本軍が好き好んで夜中に宛平城を射撃するなど常識としても考えられないし、
ことに実弾使用という事になると、日本軍では射耗報告がやかましいので、
そんなでたらめな射撃は出来るはずがない。》
*
3日に馮治安が、こういう事を言い、
翌4日、林耕宇が旅団の方に、
空砲の演習でも事前通告してくれと申しこみます。
48p〜49p
《「特務機関ですか、私、旅団副官の松山少佐です。
寺平補佐官を電話口までお願いします」
七月四日のもう日暮れ時である。
明日、軍に提出しなければならない冀察情報月報に筆を入れていた私は、
早速ペンを投じて電話にかかった。
・・・
「・・・
時に今日はですねえ。ちょっと面倒な事をご相談するんですが……
実は昨日、河辺閣下のお伴をして中国側の宴会に行ったんです。
そしたら例の外交専員の林耕宇がですねえ。
今後日本軍が空包を使って演習する場合、とりわけ夜間演習の時には、
必ず中国側にあらかじめ通告して欲しいというんです。・・・」》
つづく
これは メッセージ 1476 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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2月7〜8日 ラーベの日記
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/24 18:52 投稿番号: [1478 / 2250]
二月七日
《 軍服など、道路にばらまかれていた兵士の持ち物をうずたかく積み上げて
燃やしたあと、日本軍はやはり道路に置き放しになっている壊れた車に火を放った。
むろん、使える部品をあらかじめそっくり取り出しておいてからの話だ。
許さんが知らせてきたのだが、
なんでも蓮沼の近くで、明け方に中国人が四人、日本兵に射殺されたとか。
一人の老人が、家の近くに自分の力車を隠しておき、
取りにいったときの出来事だという。
老人は射殺された。女の人が一人、それから親戚の男の人が二人、
助けようと駆けよったところ、同様に撃たれてしまった。
(中略)
行ってみると野原に男女三名の死体がころがっていた。三つともぴったりくっついている。
およそ十メートルほど離れたところに老人の死体があった。
竹竿に板をつけた間に合わせの担架がその間に放り出されていた。
女の人によばれ、結局は殺されてしまったふたりは、
これで老人を運ぶつもりだったのだ。またしても貧民が犠牲になった。
この老人は百姓で小さな畑をもっており、すでに畑を耕していた。
すぐそばに粘土でつくったみすぼらしい小屋があり、なかはからっぽだった。
殺された女の人は十ドルほど身につけていたはずだという。娘は言った。
「それが母の全財産でした」。
けれども見あたらなかった。ミルズも私も深くショックを受けた。
殺したうえ、持ち物まであらためるのか…。
あまりのことに涙も見せず、ただ繰り返しおじぎばかりしている娘に、
私は十ドル握らせた。これで、少なくとも金だけは戻る。
帰るまえに、妹のほうはそれぞれの遺骸に一握りの土をかけていた。
二月八日
(前略)
それからローゼン、スマイス、シュペアリング、私、自治委員会のジミーの
五人で百子亭へいった。四つの死体は近くの小さな丘に葬られることになっており、
すでに筵 (むしろ) にくるまれていた。
ジミーは、近所の中国人を探し出して事情を聞いた。
それによると老人は自分の力車を取りに来たといっていたが、
実際は、椅子を二つ、藁 (わら) 小屋から自分の家へ運ぼうとしたのだという。
椅子はどこからか盗んできたのか、安く買ったかしたのだろう。
そしてそれを日本兵に見とがめられ、発砲されたのだという。
老人は重傷を負って倒れ、妻 (あるいは姉妹か?) が親戚の男を二人呼んで
駆けつけ、運ぼうとしたところ、そろって殺されてしまったのだ。
*
7日と8日とでは、証言が異なっている。
こういう、いい加減な証言での訴えは、まともな国では、認められないだろう。
力車でも椅子でもいいが、そんなものを運んでいる老人を
何で日本兵が射殺しなければならないのか?
そんな理由で殺していたら、
市街地で露店を開いている者は全員射殺しなければならなくなる。
言っている事の内容が不自然だという事になぜ気付かないのだろう?
これは メッセージ 1473 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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Re: 入って中国人に南京事件真相議論しまし
投稿者: ikemori2you 投稿日時: 2012/02/24 16:16 投稿番号: [1477 / 2250]
名古屋市長は、真実を調べようと言っただけなのに、中国の狂人のような対応では、あなたの言うように「一緒に真相を探して、議論」はできない。なぜなら30万人はうそだから。用南京造成大虐殺,以他方决定天安門都没有事的中国
これは メッセージ 1 (rdup さん)への返信です.
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戦争前の不穏な状態
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/23 18:55 投稿番号: [1476 / 2250]
児島襄著
『日中戦争3』
文春文庫
381〜383p
《 だが、この年の会議は異質であった。
これまでと同様に軍の夏期訓練もおこなわれるが、
今回は
「政治学校訓導班」 「中央軍事機関各庁長」 「各軍校教育長」
「機械化部隊各隊長」
が招集された。
また、国民政府の各院長、行政院各部長をはじめ政府主要機関の幹部もあつめられ、
各大学、専門学校の教授、中学校長、ジャーナリスト、民間団体の有力者など
約四千五百人も参集して、 「救国談話会」
をひらく。
蒋介石は、会議の要目を国防、政治、経済、教育の四つにしぼり、
訓練の目標を
「組織管理能力」
の向上と
「精神力」
の強化においた。
だが、この時期に
「全支の人材総動員!」
と
『東京朝日新聞』
も嘆声をあげた
ほどの大会議を招集するのは、たんなる軍官民の研修のためだけではないはずである。
一般にも、この会議は、 「招集各党各派及各軍商議救国方案」
という
「西安事変」
いらいの共産党側の要求にこたえたもの、と理解されていた。
つまりは、抗日戦にそなえての 〝国家統一会議〟 の性格をもつものであろう。
この
「廬山会議」
の予定会期が、七月十五日から八月十五日である。
その会期末までに綏遠省の防禦工事を完成せよ
−
と、蒋介石は指示する。
米参事官ペック風に推理すれば、あるいは
「廬山会議」
で
対日宣戦が決議されるのでもあろうか……。
―
北京では、
いぜんとして、夜間特別警戒が施行されていた。
警戒措置は、前述したように、 「青年学生的便衣隊」
の 〝暴発計画〟 にあわせて
実施されたが、その最終予定日の六月二十八日がすぎても解除されなかったのである。
「青年学生的便衣隊」
事件については、なにも公表されていない。
そこで、連夜の警戒態勢に応じて、ますます不穏な噂が乱れとぶことになったが、
その多くは、日本人の
「使嗾」
または
「参加」
による暴動、兵変を予告するものであった。
北京駐在武官補佐官今井武夫少佐は、不審と不安を感じた。
とくに少佐の神経が刺戟
(しげき)
されたのは、警戒措置の責任者が
〝反日派〟 で知られる第三十七師長馮治安であることであった。
少佐には、警戒措置の理由は不明である。
日本人が関係するという暴動の噂のためか、とも思うが、その噂が無根であることは
少佐自身が承知しているし、その種の噂はこれまでにも少くなかった。
そんな噂を根拠にして警戒態勢がとられるとは、思えない。
豊台の日本軍の演習は、近づく第二期検閲
(七月九日〜十六日)
にそなえて、
六月二十五日から強化された。北京の夜間警戒措置は、その翌日から施行された。
では、警戒は日本軍の演習にたいするものなのか
−
といえば、これもおかしい。
日本軍の駐留は、明治三十四年
(一九〇一年)
の
「北清事変ニ関スル議定書」
によって、英、米、フランス、イタリヤ各国とともに認められたもので、
駐留地での演習も公認されたものだからである。
すると、北京をふくむ河北省の軍事、政治両面の最高責任者である宋哲元が
不在中に、あえて第三十七師長馮治安が警戒態勢を実施するのは、なぜか……。》
つづく
これは メッセージ 1474 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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2月7日 2回目の慰霊祭
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/23 18:47 投稿番号: [1475 / 2250]
板倉由明著
『本当はこうだった南京事件』
299〜302p
《 十三年二月七日の上海派遣軍慰霊祭 (十二月の慰霊祭の五十日祭にあたる)。
松井日記は次のように記す。
「嚢
(さき)
ノモノハ
戦勝ノ誇ト気分ニテ
寧
(むし)
ロ忠霊ニ対シ
悲哀ノ情少カリシモ、
今日ハ只々悲哀其
(その)
物ニ
捉
(とら)
ハレ
責任感ノ太ク胸中ニ
迫ルヲ覚エタリ。
蓋
(けだ)
シ
南京占領後ノ軍ノ諸不始末ト
ソノ後地方自治、
政権工作等ノ
進捗
(しんちょく)
セサルニ起因スルモノナリ。
仍
(よっ)
テ 式後参集諸隊長ヲ集メ
予ノコノ所感ヲ披露シテ
一般ノ戒飭
(かいちょく)
ヲ促セリ。」
この訓示は相当のショックを朝香宮司令官を始めとする参列者に与えた。
国際委員会公文書、上村
(利通、上海派遣軍参謀副長・大佐)
日記にも
記されているが、飯沼日記によればその内容は
「南京入城ノ時ハ 誇ラシキ気持ニテ 其翌日ノ慰霊祭又其気分ナリシモ
本日ハ悲シミノ気持ノミナリ。 其レハ此
(この)
五十日間ニ幾多ノ
忌
(いま)
ハシキ事件ヲ起シ、戦没将兵ノ樹テタル功ヲ半減スルニ至リタレハナリ。
何ヲ以テ此英霊ニ見
(まみ)
へンヤ」という趣旨であった。》
松本重治著
『上海時代・下』
248〜249p
・・・
《 私は、心に
「松井さん、よくやったなあ」
と叫び、深堀中佐を顧みて、
「日本軍の暴行、残虐は、今、世界に知らされているんだ。
何とかして松井大将の訓戒のニューズを世界に撒きたいのだ。
ぜひとも報導部長の同意を得たい」
と頼むと、深堀中佐は、
「松本君、僕は大賛成だ。だが、今すぐ方面軍の参謀からOKをとってくるから、
ちょっと待っていてくれ」
という。
二十分ほどすると、深堀中佐が戻ってきて、
「参謀は、あまり賛成しないといっている」 というので、私は、
「深堀中佐、このニューズの打電を許可してくれれば、報導部長として、
日本のための最大の貢献になるのですよ。これを許可しないというほうが
報導部長の責任になるのだと考えられないですか」
と詰め寄る。
深掘中佐は、しばし考えていたが、
「松本君、君の考え方が正しい。参謀が何といおうとかまわない。
自分は報導部長の責任において、ニューズの発表、打電を許可する」
「すごい。ありがとう。虐殺、暴行の噂は、少なからず聞いてはいたが、
松井大将の話を聞いてみると、現実に、ずいぶんわるいことをやったらしい
ではありませんか。日本軍の名誉回復の一助としたいのです。
ぜひこの電報をやりましょうや」 「松本君、やってくれ」。
私は、深掘中佐の手をとって、握手をした。》
*
結局、松井大将も松本重治氏も善人であるため、
中国人や外国人の宣伝に影響されてしまっているようですね。
これは メッセージ 1473 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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中国の対日戦準備
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/22 18:52 投稿番号: [1474 / 2250]
児島襄著 『日中戦争3』 文春文庫
379〜381p
《 日本は戦争を望んでいないと判断され、
その判断は、川越声明で裏書きされたといえる。
蒋介石は、六月三十日、これまでの措置が 「皆有相当之成就也」 と
満足の意を日誌に記述し、翌日、七月一日には、
「中国応具必戦之決心而後可以免戦、必如是乃得達成不戦而収復失地之目的」
と、こんごの方針を定めた。
戦争の決意と準備をしてこそ、戦争も回避できるし、
戦わずに失地回復の目的も達成できる、といった趣意である。
日本に 「戦意」 がないと見定め、逆に中国側の 「戦意」 と武備の誇示によって
日本の譲歩をさそおうとする方策でもあろうか……。
では、蒋介石は、いつまでに対日戦備をととのえようとするのか。
既述したように、蒋介石は二月には
「三年ないし五年」
を予定し、
ソ連の五カ年計画、ドイツの四カ年計画の研究も指示している。
日本の参謀本部が
「一九四〇年」
をメドに対ソ戦備の充実を企図している如く、
蒋介石もほぼ同時期を対日戦備の完成期に想定していたのであろうか。
いやもっと早く、日本側の 「戦意」 と戦備不足に乗じて対日宣戦をする
―
と推理したのが、米大使館参事官W・ペックであった。
参事官ペックは、蒋介石が
「必戦之決心」
方針をさだめた七月一日、
外交部長王寵恵と会談した。
王部長は、ソ連との経済交渉が頓挫している旨を語り、
対日関係についても率直に次のように述べた。
「日本政府は、当分、新たな侵略行動には出ないと思う。
その間に、中国政府は、国益を守るには武力に依存せねばならぬことを考え、
自衛力の増強のために全力をあげる。
とくに十一月十二日の国民大会までは、(日本との)武力衝突がないことを願っている。
陝西省北部の共産軍の一部は、すでに提案を受諾しているが、
政府は、有事のさいの 『有力な武器』 としての共産軍の維持につとめている」
参事官ペックは、この王部長の発言から、
中国は、日本側の準備未熟の機会をとらえて、
「おそらく十一月の国民大会で対日宣戦をする」
ものと、予測したのである。
蒋介石は、訪米中の財政部長孔祥煕にたいして
「十年以上」
の延払いで建設機材、
発電機械および
「煉鋼廠」「人工煉油廠」「機関車頭製造廠」「造船廠」
「飛機製造廠」
などのプラント輸出、また軌道千キロ分、機関車百輌の売却を
米政府にもとめるよう指示したが、七月二日、綏遠省主席傳作義に次のように急電している。
「指示関於綏東綏北各区工事、務於八月十五日以前全部完成、
切望厳督各部、星夜カン築、勿誤」
なぜ、なにがなんでも 「八月十五日」 までに完工させねばならないのか。
この日付けで連想できるのは、いわゆる 「廬山会議」 である。》
つづく
これは メッセージ 1472 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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2月6日 ラーベの日記2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/22 18:40 投稿番号: [1473 / 2250]
《 ドイツ大使館南京分館からのローゼンの報告
のつづき
《 また少将が
「ある国家」
にアメリカをも含めたとしても事情は変わりません。
アメリカ人はドイツ人とともに密接に提携して共に行動してきました。
ドイツ人がしたことはすべてアメリカ人も加わり、無条件に承認したのです。
ドイツ人とアメリカ人が敢然と間に立つことがなかったら、
日本軍の殺戮は著しく増加していたと思われます。
ですから、日本は外国人に心から感謝して当然なのです。
日本側が腹を立てるのはわからぬわけではありません。
国内でふだんこっそりやれていたことが、
当地では細かな点まであらいざらい明るみに出てしまったのですから。
ところがこれはつぎのような論理で片づけられてしまいました。
すなわち、日本が無秩序な中国に光明と秩序をもたらしたため、
国民は喜びのあまりじっとしていられないのだ、と。
しかし事実はこうです。我々外国人の予想に反して、
日々繰り返される空襲や市街戦に苦しめられながらも、
中国人民は非の打ち所のない規律を示し、
比較的重要でないことがらをのぞけば外国の国旗を尊重したのです。
一方日本軍のほうは、南京がとっくに平穏な兵站基地になったあとも、
人を殺し、強姦し、街を焼きはらい、あらゆるものを、
ドイツ人はじめほかの外国人の所有物をも襲ったのです。
ラジオのニュースによりますと、ドイツの外交政策の転換により、
日本は自国の中国政策が追認されるのではないかと大きな望みをかけている模様です。
けれどもその際、日本はあることを見逃しております。
つまり、ほかならぬ防共協定の創案者
(ヒトラーのこと)
が、
日本によるこの高尚な理念の濫用に対して若干もの申すかもしれないということを。
漢口との郵便連絡がうまくいきません。よって、この報告書を外務省に直接提出します。
ローゼン
*
《 日本側が腹を立てるのはわからぬわけではありません。
国内でふだんこっそりやれていたことが、当地では細かな点まで
あらいざらい明るみに出てしまったのですから。》
妄想も、ここまで来るとどうしようもありません。
日本国内では、略奪も虐殺もないのですけど。
小規模な、犯罪ならありますが。
*
《 日々繰り返される空襲や市街戦に苦しめられながらも、
中国人民は非の打ち所のない規律を示し、》
地震の時の市民の動きを見比べれば一目瞭然。
日本人の方がはるかに非の打ち所のない規律を示しています。
無理して、中国人を美化しようと努めていますね。
*
《 比較的重要でないことがらをのぞけば外国の国旗を尊重したのです。》
大正2年の第一次南京事件の時は、
日本国旗を掲げているにもかかわらず、日本人が殺されました。
上海戦では、中国軍が外国旗を掲げて、日本軍を攻撃しました。
どこが尊重なのでしょう?
*
《 ほかならぬ防共協定の創案者
(ヒトラーのこと)
が、日本による
この高尚な理念の濫用に対して若干もの申すかもしれないということを。》
ローゼンはヒトラーを美化して見ていますね。
六日後の12日には、オーストリア併合へ向けて動き出すのに。
かつヒトラーは、ユダヤ人虐殺をし始めるから、ユダヤ人のローゼンは
ドイツに帰るとガス室送りになるかもしれないのに。
これは メッセージ 1471 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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事件を企む怪しい学生達
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/21 18:47 投稿番号: [1472 / 2250]
児島襄著
『日中戦争3』
文春文庫
376〜378p
《
−
六月二十三日、
通州方面から中国服姿の若者が三々五々といった形で、次々に北京市内にはいってきた。
似たような雰囲気の青年たちで、どうやら二、三百人のグループであるらしい。
巡警が数人に不審訊問をこころみると、いずれも大学生だとこたえた。
ただし、大学はそれぞれにちがい、
燕京大学、清華大学、東北大学、輔仁大学などの名をあげた。
そして、その主張どおりに、青年たちは以上の大学付近にむかい、
民家にはいったり、街をぶらついたりしていた。
どうも、おかしい
−
というので、報告をうけた北京市長秦徳純は、
公安局長陳継淹に調査を命じた。
公安局長が二、三人を連行して取調べすると、その一人が不穏な計画を自供した。
「われわれは大学生だが、共産主義者ということになっている」
六月二十六、二十七、二十八日のうち、風向きの良い夜をえらび、
西直門付近で放火、暴動を起し、 「打倒宋哲元」 「歓迎紅軍北上」
を
市民に呼びかける計画だ、という。
当人が自白したアジトを捜索すると、拳銃、機関銃、赤旗、宣伝ビラ
その他の証拠品が発見された。
公安局は、ただちに
「不穏青年」
たちの検挙を開始し、
北京市内に潜入した大部を捕え、一部は逃亡した。
以上
−
は、中国紙
『港報』
がつたえる事件の概要である。
・・・
暴動計画の実行日とみられる六月二十六日から、
北京市内には夜間特別警戒が施行された。
事件は極秘にされ、特別警戒の理由も公表されなかったので、
かえって流言と蜚語の勢いを増した。
だが、 「青年学生的便衣隊」
のほとんどが事前に逮捕されたためか、
暴発の予定日と告白された二十六、二十七、二十八日は、いずれも無事にすぎた。
その翌日、六月二十九日、駐支大使川越茂が帰任し、上海で記者会見をおこない、
日中両国の親善を強調したが、とくに次のように言明した。
「日本の発展と中国の発展とにより、あるいは摩擦を生ずることも考えられるが、
日本は戦争を欲しておらず、中国もまた同じであろうと信ずる」
日本は戦争を欲せず
―
という、この川越声明は、中国側に歓迎され、
蒋介石にも安堵感をあたえた。
蒋介石は、それまでに、あるいはドイツにたいして
「軽戦車百二十輌、十五センチ加農
(カノン)
砲八門」
の追加注文をおこない、
米国に経済援助をもとめ、さらには山東省主席韓復腧と青島市長沈鴻烈に
防備を促進するよう指示していた。》
つづく
これは メッセージ 1470 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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2月6日 ラーベの日記1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/21 18:39 投稿番号: [1471 / 2250]
《 ドイツ大使館南京分館からのローゼンの報告
今月の五日に、日本大使館におきましてティーパーティーが催されました。
新しく任命された日本の駐屯部隊司令官天谷直次郎少将が、
当地の在外公館のメンバーを招待したのです。
かなり長いこと待たされた後、我々は席に着くようすすめられました。
少将は長ったらしいスピーチを読み上げ、
それを福田書記官がつっかえながら英語に訳しました。
(内容省略)
天谷少将の挨拶に話を戻しますと、
さしあたってつぎのような結論が引き出されましょう。
つまり、中国軍の抵抗により日本軍はかなり動揺したということです。
ある民族が、積年の苦しみと絶え間ない屈辱の果てに、
ついに侵入者に反旗を翻すということぐらい、
愛国心の強い日本人には自明の理だと思うのですが。
ところが、際限なくのぼせ上がった日本人は
けっしてこの事実に目を向けようとはしませんでした。
およそ二年前、満州国の外交部次長であり、
日中戦争の最高責任者の一人である大橋忠一氏は豪語したものです。
中国の主力軍など、日本の二師団もあればわけなくおさえられるだろう、と。
将校、いやそれどころか参謀本部についても
天谷少将が不安を感じたという事実は、中国進軍について、
日本がまったく別のイメージを抱いていたことを如実に物語っています。
南京住民が日本人を受け入れなかった理由を
外国人のせいにしようとする天谷少将の試みは的はずれとしか申せません。
なにより、南京に残っている外国人が、リーダーとして同盟国であるドイツの人間、
しかもナチ党員であるジョン・ラーベ氏をすえたことを考えれば、それは明らかです。》
報告はまだつづく
*
「ある民族が、積年の苦しみと絶え間ない屈辱の果てに、
ついに侵入者に反旗を翻すということぐらい、・・・自明の理だと思うのですが」
この言葉、今の中国人に言って欲しいけど、言っても蛙の面に小便。
中国人以外の誰にも理解できない理屈でもって
チベットやウイグルへの侵略を正当化しています。
*
日中戦争の最高責任者の一人である大橋忠一氏は豪語したものです。
彼が、日中戦争の最高責任者の一人とは、聞いたことがない。
今のところ、大事な場面には出てきていない。
*
中国の主力軍など、日本の二師団もあればわけなくおさえられるだろう、と
大橋氏がどう思ったか知らないが、参謀本部の石原第一部長も、
上海派遣軍の松井軍司令官も、そうはそう思っていなかった。
単なる、部外者の妄言をとりあげているに過ぎない。
これは メッセージ 1469 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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戦争を望む中国と望まない日本2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/20 18:56 投稿番号: [1470 / 2250]
戦争を望まない日本
中国では、下の者が対日戦争を要求していましたが、日本側は
寺平忠輔著
『日本の悲劇
盧溝橋事件』
読売新聞社刊
47p
「七夕様の晩に華北で第二の柳条満車件が起る」
という謡言は、
私はじめ現地で耳にした者はない。
それがどういうものか、遥か海を越えた東京三宅坂あたりに、
ある程度の迫真力をもって伝えられていったという事実がある。
これが参謀本部の作戦部長石原莞爾少将に考えさせるものがあった。
早速陸軍省軍務局長後宮
(うしろく)
淳
(じゅん)
少将とも相談し、
軍事課の高級課員岡本清福中佐を現地に派し、
華北の情勢を仔細に検討させることになった。
出発に当って石原少将は
「現地の若い連中が、何かエラく勢込んでいる風評がある。
とんでもない事だ。バカげた事件でも起すといかん。
至急現地に行って、それらの芽生えを摘み取って来てくれ」
といった。
岡本中佐は華北にとんだ。そして山海関
(さんかいかん)、 ラン州、
唐山、天津等現地部隊の情況を逐次打診した。
橋本参謀長と言い池田純久経済参謀と言い、
時局に対してはいたって冷静であり慎重である。
和知機関にせよ茂川機関にせよ極めて神妙であって、
軽挙妄動するような気配は微塵だにも感ぜられない。
引き続き北京を訪れた岡本中佐は、同期の木原義雄大隊長を交えて、
河辺旅団長のもとで懇談した。旅団長は語った。
「現地軍の思潮、これには何ら憂慮すべき点はない。ことに私の隷下部隊に関する限り、
厳に軽挙妄動を戒め、慎重の上にも慎重を期するよう徹底させてある。
この事は安心して内地に復命してくれ給え」》
つづく
これは メッセージ 1468 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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2月5日 ラーベの日記2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/20 18:49 投稿番号: [1469 / 2250]
《 クリスティアン・クレーガーよりラーベへの手紙一九三八年一月二十八日
於上海
《 親愛なるラーベ先生!
ようやく人心地がつきました。 けっこうきつい旅でしたが、まず、
グログ酒
(ラム酒に砂糖を入れ、お湯で割ったもの)
を立て続けにひっかけ、
それから温かい湯につかって内と外の両側から暖まりました。
それから、今週はひさしぶりに人間とつきあいました。
きちんと服を着た、平和的な人々とです。
南京のように獣とではなく、ね。
・・・
常州
(武進)
までは、あたりの風景も荒涼たるものでしたが、
ここを過ぎると一変しました。畑にはお百姓の姿も見えました。
耕しているのです。さすがの
「掃討」
もここまでは及ばなかったようです。
けれども略奪のほうはどこでも同じように行われています。
途中の駅でも、兵士が大きな荷物をかかえて乗りこんできました。
将校さえ、ぶんどってきたものを部下にひっぱらせていました。
ほかにはあまり見るべきものはありませんでした。
道路はあまり安全ではなく、とくに夜は危険だという話です。
それでも、自分の車でくるほうがずっと良かったのですが。
今日、ラーベさんの奥さんにお目にかかりました。
とても心配なさってました。ラーベさんも、遅くとも一カ月後には
こちらにきてドイツへ向かわれた方がいいと思いますよ。
プロープスト氏ともゆっくり話しました。ぼくの話を熱心に聞いてくれました。
仕事の上でいまラーベさんが必要だというわけではないと思います。
そうではなく、交代させて休暇で里帰りさせようというのです。
その資格は十分すぎるほどなんですから。
交代に一人送るといってますが、むだだと思いますがね。
あそこじゃだれがいってもつとまらないでしょうし、
これから先、かなり長い間商売にならないですから。
というわけで、まず、おたくの難民を家に帰すことに精を出して下さい。
ひれ伏して助けを求めるでしょうが、それよりなにより、もう一度外気を吸わなければ。
奥さんのこと、それからラーベさん自身の健康を気づかう方が先決です。
もう一つ別の提案があります。ぼくの事務所にはクルップのディーゼル車が
あるんですが、これはカルロヴィッツ社のものです。
いずれ、ディーゼル車を運転できる人間はいなくなります。
どっちにしてもハッツはこの車で上海に来たがっていました。
ですからぼちぼち荷造りを始めて、ハッツに運んでもらってください。
三月半ばまでは大丈夫だと思います。
ラーベさんの気持ちもわかりますが、ここはひとつ、思いきって肚を決めてください。
奥さんのことも考えてあげないと。
さもないと、日本軍にくっついて、そちらまで押しかけかねませんよ。
ラーベさんのためなら、なんでもなさるんじゃないんでしょうか。
クレーガー》
*
「おたくの難民を家に帰すことに精を出して下さい。
ひれ伏して助けを求めるでしょうが、」
南京に居た時と違って、クレーガーの態度が変化していますね。
全体の文面を見ても、日本軍に強制されて言わされているようには見えません。
上海に行ってから、南京の不自然さに、気付いたのかも知れません。
これは メッセージ 1467 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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戦争を望む中国と望まない日本1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/19 15:35 投稿番号: [1468 / 2250]
戦争を望む中国
寺平忠輔著
『日本の悲劇
盧溝橋事件』
読売新聞社刊
38p
《 四月三日の朝、北寧鉄道の沿線、落垈
(ラオファー)
の西方で、
日本の軍用電線が八間隔にわたって切断された。
この場所は私の着任前、一月十八日にも五間隔ばかり切断された前例もあり、
かたがた、軍参謀長は四月八日、河北省政府主席馮治安に対し、
犯人の逮捕、・・・、以上四項目を要求した。
彼は、これに対してなんらの回答もしてこない。
そのうち五月三日、落垈
(ラオファー)
の同一地点で、
またもや八間隔の切断事件が報告されてきた。
・・・
39p
六月五日黎明
(れいめい)、 またもや同一場所で五間隔が切断されたのである。
さすがに温厚な松井機関長も業を煮やした。
44p
南苑の第三十八師・・・。
一日司令部で将校の兵棋戦術が統裁され、団を単位とする防禦戦闘が研究題目になった。
その時若い将校が一人、席を蹴って起ち上がった。
「統裁官、我々は防禦の研究はもう沢山です。
それよりもっと大切な、奇襲攻撃を指導して下さい。
・・・我々はすべからく、
こちらから逆九・一八を仕掛けるくらいの決意があってしかるべきです」
その意気当るべからざるものがあった。
統裁官はこれをなだめ
「意見はなるほどもっともである。
しかし今日の研究課題は防禦戦闘という事になっているのだから…‥」
「いや豊台を奇襲することは焦眉の急です。
今晩もし、日本側から奇襲を仕掛けて来たら我我はいったいどうなってしまいます」
「統裁官、私も豊台即時襲撃論に賛成です。逆九・一八をやらなくちゃだめです」
つづく
これは メッセージ 1466 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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2月5日 ラーベの日記1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/19 15:27 投稿番号: [1467 / 2250]
二月五日
《 金陵大学付属中学からの手紙
(省略)
十四時十五分
またもや中国機が上空を飛んでいる。
とにかく飛行機に中国の印がついていることだけはたしかだ。
パイロットがどこの国の人間かはわからない。
ロシア人でないといいが。ロシア人だとすると、
ハーケンクロイツの旗を掲げてもあまり効きめはないだろうから。
収容所を二月八日に閉鎖するという新たな指令が出た。
大混乱になり、いっこうにおさまらない。これまでに、約三分の一が出ていった。
残ったのは大半が女の人だ。ここから出ていきたくないのだ。
今日、鼓楼病院から連絡があった。脚気の患者が二人運ばれてきたという。
米飯だけのかたよった食事ではふしぎはない。
上海に
「薬を送れ」
と電報を打つことにした。
*
「パイロットが・・・ロシア人でないといいが」
ソ連は中国軍の上海攻撃の後、 「 中ソ不侵略条約 」
を結び、
大量の飛行機やパイロットを中国に送りました。
田中正明著
『 東京裁判とは何か 』
267p
《 この時期ソ連は、
「 日華戦争開始後は、この戦争をできるだけ長引かせることに全力をつくした 」
とダリン
( David J. Dallin )
はその著
『 ソ連と極東 』
の中で
次のように述べている。
「 ソ連の対華援助は、西安事件後の秘密条項を含む不可侵条約によって、
直ちに飛行機四、五百機と同数の操縦士および教官を送り、
ソ連士官が中国軍に配備された。
チェレバノフ将軍を長とする軍事使節団は、中国に滞在していた。
三八年から四〇年までの間に、ソ連は中国に三億ドルの借款を与えて、
戦車、飛行機その他の軍需品を中国に送った 」》
とあります。
そして戦史叢書
『支那事変
陸軍作戦1』
310〜311p にも
《 八月二十一日、南京で、ソ連のボゴモロフ駐支大使との間で、
「 中ソ不侵略条約 」
を締結調印・・・
注二
《・・・ソ連は三七年、三八年、三九年の三回にわたって総額二億五千万ドル
( 約九億円 )
のクレジットを中国に提供し、これにより購入された兵器は、
飛行機八〇〇機以上、弾薬、飛行機用兵器、無線通信機、給油装置などであった。
航空義勇兵約二〇〇人、軍事顧問は、最多時期において八一名が中国内で活躍した。
このほか中共軍に対する直接軍事援助も行われた。》
とあります。
ソ連も早くから、非公式に日本と戦争をしていたのです。
これは メッセージ 1463 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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共産党の策動5 コミンテルンの指令2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/18 16:50 投稿番号: [1466 / 2250]
《 ソ連のコミンテルンは、日中全面戦争を仕掛けるためのプランを作成し、
その実行を、中国共産党に命じました。
その内容は
一、あくまで局地解決を避け、日支の全面的衝突に導かねばならぬ。
二、右の目的を貫徹するため、あらゆる手段を利用すべく局地解決
(例えば北支を分離せしめることに依って戦争を回避するの類)
日本への譲歩に依って支那の解放運動を裏切ろうとする要人を抹殺してもよい。
三、下層民衆階級に工作し、これをして行動を起こさしめ、国民政府をして
戦争開始のやむなきに立ち至らしめなければならぬ。
四、党は対日ボイコットを全支那的に拡大しなければならぬ。
日本を援助せんとする第三国に対してはボイコットを以て威嚇する必要がある。
五、紅軍は国民政府軍と協力する一方、パルチザン的行動に出なければならぬ。
六、党は国民政府軍下級幹部、下士官、兵士並びに大衆を獲得し、
国民党を凌駕する党勢に達しなければならぬ。
というものです。》
(「盧溝橋事件に関するコミンテルンの指令」
昭和14年10月興亜院政務部資料)
寺平忠輔著
『日本の悲劇
盧溝橋事件』
読売新聞社刊
40〜41p
《 西苑の兵営は、・・・、今では完全に侮日抗日の巣窟と化し、・・・
中共北方局の主任劉少奇あたりも、学生の軍事訓練に便乗してこの方面に
顔を出し、盛んに抗日をアジっていたという情報が入っている。》
46
《 このころ、京津の地には、随分様々な謡言が乱れとんでいた。
「日本軍は近く華北で事を起し、
これを機会に第二の満州国をデッチ上げる計画を持っている」
とか、
「日本軍は戦略要衝盧溝橋に基盤を築き、北寧
(ほくねい)、 京漢両鉄道を
支配下に置くべく、目下隠密裡に工作を進めている」
とか、こうした巧妙な謡言は、相当の知識人でさえ
「あるいは?」
と
考えさせられる深刻味と迫力を持っていた。
そこで我々としては、このような流言蜚語が、いったいどこから出て来たかを
探索したかった。北京憲兵分隊長赤藤
(しゃくどう)
庄次少佐は
「私共は今、極力それを探らせています。
しかし流言というやつは読んで字の通りで、
なかなかその実態が掴
(つか)
めるものじゃありません。
ここ一、二ケ月の間というもの、我々は毎日毎日、まるで流言に翻弄されてるみたいで、
全く搾
(しめ)
木にでもかけられているような、実にイヤな感じです。
ただ、いえる事は、流言を漂わす者は学生層に多いという事です。
また学生といえば、どうも西苑の軍事訓練あたりから出ているんじゃないかと
思われる節があることです。
そうなると延 (ひ) いて、共産の策動じゃないかとも考えられます。》
*
様々な謡言
こんなものは、いま、この日本でも、渡来してきた工作員によって、
あちこちの掲示板に書き込まれている。
昔の日本人はまじめだから、騙され混乱させられただろうが、
今の日本人には、簡単には撹乱されない者もいるだろう。
これは メッセージ 1464 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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2月5日 日本 ドイツに抗議
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/18 16:31 投稿番号: [1465 / 2250]
中国軍の背後にドイツがいて、軍事指導をし、武器を与えていたので、
いつまでたっても戦争が終わりません、
そこで日本は、ドイツに抗議し、武器輸出の停止を求めました。
阿羅健一著
『日中戦争はドイツが仕組んだ』
小学館
234
《 二月五日、広田外務大臣は改めてディルクセン駐日大使に武器輸出の停止を迫った。》
これは メッセージ 1463 (kir**gotowa**me さん)への返信です.
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