膠着状態の上海戦線
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/06/02 18:33 投稿番号: [39 / 2250]
陸軍は呉淞と川沙口に上陸しましたが、敵に対して人数が少なすぎて犠牲がでます。
以下は井本熊男著 『 支那事変作戦日誌 』 芙蓉書房出版 150〜152p よりの引用です。
《 第三師団の先遣隊は、上陸後全面に数線の敵陣地があって、戦況は激しさを加えるのみで、
なかなか進まない。
第十一師団先遣隊は、上陸後約五日間で約六キロ南方の羅店鎮を占領したので、
戦況は有利に進捗するかに見えたが、
それから後約一ケ月の間、主力が到着加入しても戦線は膠着してほとんど動かず、
かえって敵の攻勢に対応するのに苦労する戦況であった。
その後第三師団方面は、ウースン・クリーク以北においては九月九日までに上陸江岸から
僅かに約三キロ前進して、宝山城からその西方を南北に走る泗塘クリークの西岸に進出した。
ウースン・クリーク以南においては、兵站部隊が黄浦江岸から二キロの泗塘クリークの線に進出した。
上海共同租界に近い黄浦江岸には、始め第三師団の飯田支隊 ( 歩兵一大隊 ) が
上陸したが、支隊長は間もなく戦死した。
次いで同師団の片山支隊 ( 歩兵第五旅団長、片山少将の率いる歩兵四大隊基幹 ) は
飯田支隊 ( 支隊長戦死 ) を併せ指揮して
九月十三日、江湾正面に進出して近く敵陣地と相対した。
この線は、黄浦江岸から僅かに四キロばかり前進した位置である。
九月二十八日、片山支隊は第百一師団の谷川支隊と交代して第三師団主力に復帰したが、
以後十月二十五日まで谷川支隊はその位置から動くことはできなかった。
すなわち我方は、江湾の敵陣地の前に、二ケ月間膠着していたのである。
海軍陸戦隊は共同租界の周囲にへばりついたまま、上海戦の最後まで動くことができなかった。
第三師団主力は九月十七日までに、前記九月九日の位置から右翼方面は約六キロ、
左翼方面は約四キロ前進した。一日四百メートル乃至は百メートルの前進である。
連続不断の激闘で、一面の敵陣地を、一枚一枚鱗を剥ぐように奪取しての前進であった。
第十一師団の天谷支隊は、大連に上陸することなく、八月下旬青島東方の洋上で
待機させられていたが、青島上陸は行わないことに決定せられたため、九月一日の大命で上海に向った。
同支隊は九月四、五日頃呉淞に上陸し、師団主力に復帰するため、宝山城附近を経て前進中、
九月七、八日頃月浦鎮周辺において、頑強に抵抗する数線の敵陣を攻撃して多大の損害を出しつつ、
九月十七日、羅店鎮東南地区において第十一師団主力の左翼に近く進出した
( 後に軍作戦主任参謀西原大佐の言によれば、
天谷支隊は上海上陸後十日間に三千四百名の兵力が九百名となった )。
その他第三、第十一師団主力においても、右九月十七日までの戦闘において莫大な損害を出した。
上海の陣地攻撃間に、この両師団の歩兵は当初出征したものは殆ど全部死傷し、補充員によって置き換えられた程であった。
これは日露戦争後、経験のない大損耗であった。
筆者の同期生で、中隊長として参戦した八名は、全員この戦闘で戦死した。》
結局、人数が少なすぎたために、とんでもない犠牲を出したわけです。
以下は井本熊男著 『 支那事変作戦日誌 』 芙蓉書房出版 150〜152p よりの引用です。
《 第三師団の先遣隊は、上陸後全面に数線の敵陣地があって、戦況は激しさを加えるのみで、
なかなか進まない。
第十一師団先遣隊は、上陸後約五日間で約六キロ南方の羅店鎮を占領したので、
戦況は有利に進捗するかに見えたが、
それから後約一ケ月の間、主力が到着加入しても戦線は膠着してほとんど動かず、
かえって敵の攻勢に対応するのに苦労する戦況であった。
その後第三師団方面は、ウースン・クリーク以北においては九月九日までに上陸江岸から
僅かに約三キロ前進して、宝山城からその西方を南北に走る泗塘クリークの西岸に進出した。
ウースン・クリーク以南においては、兵站部隊が黄浦江岸から二キロの泗塘クリークの線に進出した。
上海共同租界に近い黄浦江岸には、始め第三師団の飯田支隊 ( 歩兵一大隊 ) が
上陸したが、支隊長は間もなく戦死した。
次いで同師団の片山支隊 ( 歩兵第五旅団長、片山少将の率いる歩兵四大隊基幹 ) は
飯田支隊 ( 支隊長戦死 ) を併せ指揮して
九月十三日、江湾正面に進出して近く敵陣地と相対した。
この線は、黄浦江岸から僅かに四キロばかり前進した位置である。
九月二十八日、片山支隊は第百一師団の谷川支隊と交代して第三師団主力に復帰したが、
以後十月二十五日まで谷川支隊はその位置から動くことはできなかった。
すなわち我方は、江湾の敵陣地の前に、二ケ月間膠着していたのである。
海軍陸戦隊は共同租界の周囲にへばりついたまま、上海戦の最後まで動くことができなかった。
第三師団主力は九月十七日までに、前記九月九日の位置から右翼方面は約六キロ、
左翼方面は約四キロ前進した。一日四百メートル乃至は百メートルの前進である。
連続不断の激闘で、一面の敵陣地を、一枚一枚鱗を剥ぐように奪取しての前進であった。
第十一師団の天谷支隊は、大連に上陸することなく、八月下旬青島東方の洋上で
待機させられていたが、青島上陸は行わないことに決定せられたため、九月一日の大命で上海に向った。
同支隊は九月四、五日頃呉淞に上陸し、師団主力に復帰するため、宝山城附近を経て前進中、
九月七、八日頃月浦鎮周辺において、頑強に抵抗する数線の敵陣を攻撃して多大の損害を出しつつ、
九月十七日、羅店鎮東南地区において第十一師団主力の左翼に近く進出した
( 後に軍作戦主任参謀西原大佐の言によれば、
天谷支隊は上海上陸後十日間に三千四百名の兵力が九百名となった )。
その他第三、第十一師団主力においても、右九月十七日までの戦闘において莫大な損害を出した。
上海の陣地攻撃間に、この両師団の歩兵は当初出征したものは殆ど全部死傷し、補充員によって置き換えられた程であった。
これは日露戦争後、経験のない大損耗であった。
筆者の同期生で、中隊長として参戦した八名は、全員この戦闘で戦死した。》
結局、人数が少なすぎたために、とんでもない犠牲を出したわけです。
これは メッセージ 38 (kireigotowadame さん)への返信です.