揚子江流域居留民引き上げ
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/05/14 19:58 投稿番号: [11 / 2250]
今回は、今の平和主義者そっくりの日本人の話です。
盧溝橋事件後、揚子江流域でも不穏な状態になってきました。
日本人や日本人に使われている中国人に対して迫害が増えてきます。
7月27日には、長沙で20数名の中国人が 「スパイ・漢奸」 の名目で
湖南省特務室に引致されました。
奥地では、居留民を守り切れないため、政府は揚子江流域の各領事に
「居留民は早めに引揚げよ」 と訓令を出します。
ところが、漢口の松平総領事代理と長沙の高井領事代理は、引揚げに反対しました。
“中国が 「安全を保証する」 と言っている以上これを信頼すべきだ。
いまこの時期、そのような行動をとれば、中国を刺激し 《戦争準備》 と疑われる。
むしろ海軍がいるから戦争になるのだ”と。
何か、今の平和主義者そっくりの言葉ですね。
8月1日、重慶、宜昌、沙市の居留民は船に乗り出港しました、が、
漢口では、中国は日本人に対し、米、塩の販売を停止します。
2日、長沙の高井領事代理は、引揚げを決めました、が、漢口は頑張ります。
4日、漢口では、「租界内の支那人は5日までに退去すべし。
然らざれば身は危険にさらされ、又逮捕の上極刑に処す」 との流言があり、
租界外に逃げ出す中国人が急増しました。
5日、22:00漢口において中国側は、日本租界への交通及び電話を遮断し、
6日の午前0時から、租界周囲前線の土嚢陣地に兵力を増強しました。
そこで陸戦隊も0時から土嚢を積み、両軍対峙、一触即発の状態となりました。
ところが松平総領事代理は、この事態になってもまだ、引揚げを発令しません。
そこで、居留民代表が総領事代理に引揚げ発令を迫り、もし発令のない時は、
民団は自由行動に出ると申し入れたのです。
このとき、漢口に来ていた田中宜昌領事が同総領事代理を説得して、やっと引揚げを発令しました。
この日、蕪湖では婦女子の引揚げが完了します。
7日、漢口陸戦隊は、中国軍と対峙しながら引揚げを支援しました。
信陽丸は13:10 「比良」 護衛下に、
鳳陽丸は17:15 「勢多」 護衛下に上海に向け漢口を出港しました。
居留民の引揚げが済んだので、陸戦隊も日没後に撤退作業を始め、
8日未明に引揚げる予定でしたが、
これが中国側に漏れたため、予定を早め無灯下で撤退作業を行い
01:00に出港しました。
かくして残留者は総領事館員77名となります。
尚、漢口より上流の各地領事館職員で引揚げに抵抗していた人達も、
居留民引揚げ後、漢口に残留しました。
が、中国側から食料と電気を止められ、結局、引揚げざるを得なくなります。
9日、引揚者は全員無事上海に到着しました。
10日、漢口に居残っていた領事館員たちも、岳陽丸に乗って出港、
12日 南京に立ち寄り、南京で後始末をしていた領事館員を積んで上海に向かいました。
ところが、
13日、江陰にさしかかった所、中国軍艦「海容」に停船を命ぜられ、
「水路危険につき通行禁止」を通告され、南京に戻らされたのです。
後で判った事ですが、
12日に、江陰に、軍艦5隻と2000tないし5000tの商戦18隻を沈めて、水路を閉塞させていたのです。
南京に戻った、領事館員たちは鉄道で青島に、脱出しました。
( 以上は海軍戦史叢書『中国方面海軍作戦〈1〉 −昭和13年3月まで』の
287〜304pを抜萃要約したもの )
なお、13日には、中国軍が上海攻撃を開始しています。
平和主義者というものは、自分が正しい事をしていると思っているから、
間違いが理解できないのですね。
困ったものです。
盧溝橋事件後、揚子江流域でも不穏な状態になってきました。
日本人や日本人に使われている中国人に対して迫害が増えてきます。
7月27日には、長沙で20数名の中国人が 「スパイ・漢奸」 の名目で
湖南省特務室に引致されました。
奥地では、居留民を守り切れないため、政府は揚子江流域の各領事に
「居留民は早めに引揚げよ」 と訓令を出します。
ところが、漢口の松平総領事代理と長沙の高井領事代理は、引揚げに反対しました。
“中国が 「安全を保証する」 と言っている以上これを信頼すべきだ。
いまこの時期、そのような行動をとれば、中国を刺激し 《戦争準備》 と疑われる。
むしろ海軍がいるから戦争になるのだ”と。
何か、今の平和主義者そっくりの言葉ですね。
8月1日、重慶、宜昌、沙市の居留民は船に乗り出港しました、が、
漢口では、中国は日本人に対し、米、塩の販売を停止します。
2日、長沙の高井領事代理は、引揚げを決めました、が、漢口は頑張ります。
4日、漢口では、「租界内の支那人は5日までに退去すべし。
然らざれば身は危険にさらされ、又逮捕の上極刑に処す」 との流言があり、
租界外に逃げ出す中国人が急増しました。
5日、22:00漢口において中国側は、日本租界への交通及び電話を遮断し、
6日の午前0時から、租界周囲前線の土嚢陣地に兵力を増強しました。
そこで陸戦隊も0時から土嚢を積み、両軍対峙、一触即発の状態となりました。
ところが松平総領事代理は、この事態になってもまだ、引揚げを発令しません。
そこで、居留民代表が総領事代理に引揚げ発令を迫り、もし発令のない時は、
民団は自由行動に出ると申し入れたのです。
このとき、漢口に来ていた田中宜昌領事が同総領事代理を説得して、やっと引揚げを発令しました。
この日、蕪湖では婦女子の引揚げが完了します。
7日、漢口陸戦隊は、中国軍と対峙しながら引揚げを支援しました。
信陽丸は13:10 「比良」 護衛下に、
鳳陽丸は17:15 「勢多」 護衛下に上海に向け漢口を出港しました。
居留民の引揚げが済んだので、陸戦隊も日没後に撤退作業を始め、
8日未明に引揚げる予定でしたが、
これが中国側に漏れたため、予定を早め無灯下で撤退作業を行い
01:00に出港しました。
かくして残留者は総領事館員77名となります。
尚、漢口より上流の各地領事館職員で引揚げに抵抗していた人達も、
居留民引揚げ後、漢口に残留しました。
が、中国側から食料と電気を止められ、結局、引揚げざるを得なくなります。
9日、引揚者は全員無事上海に到着しました。
10日、漢口に居残っていた領事館員たちも、岳陽丸に乗って出港、
12日 南京に立ち寄り、南京で後始末をしていた領事館員を積んで上海に向かいました。
ところが、
13日、江陰にさしかかった所、中国軍艦「海容」に停船を命ぜられ、
「水路危険につき通行禁止」を通告され、南京に戻らされたのです。
後で判った事ですが、
12日に、江陰に、軍艦5隻と2000tないし5000tの商戦18隻を沈めて、水路を閉塞させていたのです。
南京に戻った、領事館員たちは鉄道で青島に、脱出しました。
( 以上は海軍戦史叢書『中国方面海軍作戦〈1〉 −昭和13年3月まで』の
287〜304pを抜萃要約したもの )
なお、13日には、中国軍が上海攻撃を開始しています。
平和主義者というものは、自分が正しい事をしていると思っているから、
間違いが理解できないのですね。
困ったものです。
これは メッセージ 9 (kireigotowadame さん)への返信です.