開戦直前
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/05/18 19:18 投稿番号: [15 / 2250]
大山中尉が虐殺されたために、日本側は抗議しましたが、
中国側は日本に責任をなすりつけて、取り合いません。
「大山中尉が中国兵の止めるのも聞かず、衛兵を拳銃で撃ち殺して飛行場に押し入ったので射殺した」と言うのです。
大山中尉は拳銃を携帯しておらず、運転手の斉藤水兵は持っていましたがホルスターに入ったままで殺されているのに。
中国側の態度に危険を感じた長谷川長官は、警備の為、陸軍の応援を要請するのですが、却下されました。
仕方がないので、陸戦隊を1200名程増派します。
ところが追加の陸戦隊が上海に着いた8月11日には、既に租界の日本人居留区は保安隊に包囲されていました。
『上海時代・下』 193pには
船津さんの日誌から、左に抜粋する ( 『船津辰一郎』 194〜196ページ)。
八月十一日 …閘北方面における中国側保安隊ないし正規兵ますます増加し、
あたかもわが陸戦隊およびわが居留民の多数居住する虹口一帯を包囲する形勢を取り、
とあり、北博昭著 『日中開戦』 15pには
8月11日 銭大鈞の指揮する第13軍下の第88師が保安隊と合流し、
共同租界の境界線に接した非武装緩衝地帯にまで進出する事態になった
とあります。
8月11日、蒋介石は第9集団 ( 張治中 ) に呉淞口の閉鎖と上海包囲体勢をとる様下令した。
その夜、上海に出入りする鉄道はいずれも旅客の輸送を中止し、軍隊輸送に切り換えられた。
(『日中戦争4』68p)
8月12日 88師とおぼしき中国正規兵及び武装保安隊は12日朝来続々と上海付近に集中し
呉淞から江湾鎮に至り配備につき、租界と閘北との境界付近各所に戦備を整えて、
まさに一触即発の情勢に立ち至った。
( 海軍戦史叢書 『中国方面海軍作戦〈1〉−昭和13年3月まで』 312p )
8月12日 朝来、保安隊は北停車場付近から河南路及びハスケル路いったいの中国街に侵入し
中山路一帯及び江湾路付近は警戒厳重を極め、非常警戒網が張られ・・・
( 海軍戦史叢書 『中国方面海軍作戦〈1〉 −昭和13年3月まで』 313p )
この日、北站駅に中国兵が続々降りているという情報で憲兵隊の大前軍曹と
熊野通訳が偵察に行ったら捕まり、後でわかったのですが、殺されていました。
( 『ある情報将校の記録』 197p〜より要約)
中国側の資料 ( 8.13淞滬抗戦 劉勁持) によりますと
「虹橋での大山事件が起ると、88師 ( 孫元良 )、36師 ( 宋希濂 )、87師 ( 王敬久 )、に進軍命令が出た。鉄道はすべて軍事に使われ、
8月12日朝、88・87の二師は上海に到着、88師は北駅近くに駐留し、87師は北四川路東から
楊樹浦一帯に陣を構えた。・・・王敬久や孫元良の営長や連長なども便衣を着て、
住民たちと一緒に租界に入っていく。
( 鈴木明著 『 新「南京大虐殺」のまぼろし』194〜195pより )
とあります。
中国は、この日、上海の大河“黄浦江”に船を沈めて川を封鎖し、
次いで揚子江の江陰という所にも船を沈めて川を封鎖しました。
8月12日 中国側は夕闇迫るころ黄浦江に三千t級の汽船 「三興」 号、「福興」 号
さらに大石塊を満載した大型ジャンク二十隻を自沈させ、水路閉鎖をこころみた。
(『日中戦争4』 69p)
また既に 「揚子江流域居留民引き上げ」 でも書きましたように、
この日、中国は、揚子江の江陰という所に、軍艦5隻と2000tないし5000tの
商戦18隻を沈めて、水路を閉塞させました。
長谷川長官は再度、陸軍の派遣を要請します。
この状態に至って、やっと四相会議が開かれました。
しかし、難航します。
中国側は日本に責任をなすりつけて、取り合いません。
「大山中尉が中国兵の止めるのも聞かず、衛兵を拳銃で撃ち殺して飛行場に押し入ったので射殺した」と言うのです。
大山中尉は拳銃を携帯しておらず、運転手の斉藤水兵は持っていましたがホルスターに入ったままで殺されているのに。
中国側の態度に危険を感じた長谷川長官は、警備の為、陸軍の応援を要請するのですが、却下されました。
仕方がないので、陸戦隊を1200名程増派します。
ところが追加の陸戦隊が上海に着いた8月11日には、既に租界の日本人居留区は保安隊に包囲されていました。
『上海時代・下』 193pには
船津さんの日誌から、左に抜粋する ( 『船津辰一郎』 194〜196ページ)。
八月十一日 …閘北方面における中国側保安隊ないし正規兵ますます増加し、
あたかもわが陸戦隊およびわが居留民の多数居住する虹口一帯を包囲する形勢を取り、
とあり、北博昭著 『日中開戦』 15pには
8月11日 銭大鈞の指揮する第13軍下の第88師が保安隊と合流し、
共同租界の境界線に接した非武装緩衝地帯にまで進出する事態になった
とあります。
8月11日、蒋介石は第9集団 ( 張治中 ) に呉淞口の閉鎖と上海包囲体勢をとる様下令した。
その夜、上海に出入りする鉄道はいずれも旅客の輸送を中止し、軍隊輸送に切り換えられた。
(『日中戦争4』68p)
8月12日 88師とおぼしき中国正規兵及び武装保安隊は12日朝来続々と上海付近に集中し
呉淞から江湾鎮に至り配備につき、租界と閘北との境界付近各所に戦備を整えて、
まさに一触即発の情勢に立ち至った。
( 海軍戦史叢書 『中国方面海軍作戦〈1〉−昭和13年3月まで』 312p )
8月12日 朝来、保安隊は北停車場付近から河南路及びハスケル路いったいの中国街に侵入し
中山路一帯及び江湾路付近は警戒厳重を極め、非常警戒網が張られ・・・
( 海軍戦史叢書 『中国方面海軍作戦〈1〉 −昭和13年3月まで』 313p )
この日、北站駅に中国兵が続々降りているという情報で憲兵隊の大前軍曹と
熊野通訳が偵察に行ったら捕まり、後でわかったのですが、殺されていました。
( 『ある情報将校の記録』 197p〜より要約)
中国側の資料 ( 8.13淞滬抗戦 劉勁持) によりますと
「虹橋での大山事件が起ると、88師 ( 孫元良 )、36師 ( 宋希濂 )、87師 ( 王敬久 )、に進軍命令が出た。鉄道はすべて軍事に使われ、
8月12日朝、88・87の二師は上海に到着、88師は北駅近くに駐留し、87師は北四川路東から
楊樹浦一帯に陣を構えた。・・・王敬久や孫元良の営長や連長なども便衣を着て、
住民たちと一緒に租界に入っていく。
( 鈴木明著 『 新「南京大虐殺」のまぼろし』194〜195pより )
とあります。
中国は、この日、上海の大河“黄浦江”に船を沈めて川を封鎖し、
次いで揚子江の江陰という所にも船を沈めて川を封鎖しました。
8月12日 中国側は夕闇迫るころ黄浦江に三千t級の汽船 「三興」 号、「福興」 号
さらに大石塊を満載した大型ジャンク二十隻を自沈させ、水路閉鎖をこころみた。
(『日中戦争4』 69p)
また既に 「揚子江流域居留民引き上げ」 でも書きましたように、
この日、中国は、揚子江の江陰という所に、軍艦5隻と2000tないし5000tの
商戦18隻を沈めて、水路を閉塞させました。
長谷川長官は再度、陸軍の派遣を要請します。
この状態に至って、やっと四相会議が開かれました。
しかし、難航します。
これは メッセージ 14 (kireigotowadame さん)への返信です.