中国の戦争準備
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/05/15 19:32 投稿番号: [12 / 2250]
日本が大幅に譲歩した和平案でもって、これなら中国も応じてくれるだろうと甘い幻想を抱いていたころ、
中国は逆に戦争の準備をすすめていました。
陸軍戦史叢書 『支那事変1』 264〜265pには
中国は8月6日、第一回国防会議を開き、次のような対日方針を決定していた
長期抗戦ヲ原則トシ
北支那方面防備ノ為其の主防禦線ヲ 保定 ― 滄州ノ線ニ、
第二線ヲ 彰徳 ― 済南ノ線ニ、
第三線ヲ 洛陽 ― 鄭州 ― 開封 ― 徐州 ― 淮陰ノ線ニ 選定シ徹底的抗日戦ヲ実施スル為
全般的ニハ集団戦ヲ避ケ消極戦ニ終始スル如ク各部門ニ亙リ戦備ノ充実ヲ期ス
とあり。
児島襄著『日中戦争』文春文庫4巻78〜79pには
「勝倭の道」 「大敵に遇えば即退き、小敵に遇えば即戦う」
「対倭作戦」 「戦術でもって武器の不足を補う」
「戦術原則五項目」
一 要以持久戦 消耗戦之決策 以打破敵人速戦即決之企図
ニ 要立主動 敵攻我守 待其気衰力疲 我即乗出撃
三 要固守陣地 堅忍不退 以深溝高塁厚壁 粉砕敵進攻
四 要利用民力地物 処処設穽防 従抗戦殺敵
五 要講求防制敵機 大砲戦車毒気之戦術 便其攻撃気効
とあります。
一、二は「空間を以って時間に代える」持久戦・消耗戦略で、要するに奥地に引きずり込み
疲弊させる、というもの。
二は、主動的立場に立ち、敵が攻めれば我は守り、敵が疲れて其の気力の衰えるのを待ち、
我乗り出して撃つ
三は、深い溝、高い防塁、厚い壁で以って敵の進攻を粉砕し、陣地を固守し、絶対に退かない。
四は、民衆の力、地の利を利用し、罠を仕掛けてのゲリラ戦
五は、空襲、大砲、戦車、毒ガスへの対策
です。
つまり、三つの防御ラインと、長期戦を目的とした戦争方針を作っていたわけです。
この文書では、8月6日から始まったかのように見えますが、本当は、もっと早くから始まっています。
その証拠に、上海憲兵隊の塚本誠氏は、7月24日ごろ、上海の周辺の非武装地帯に
中国軍がトーチカを造っているうわさを聞き、私服を着て、ゴルファーの格好で出掛けていき、
現物を確認しました。( 塚本誠著『ある情報将校の記録』中公文庫196P )
また、同盟通信上海支局長の松本重治氏は、8月6日に、非武装地帯に進出してきた保安隊に遭遇しています。
保安隊に遭遇し追い返された彼は、記事を東京に打電した所、翌日、海軍武官室に呼び出され、島田軍令部次長から
『上海内外の情況を誇大に描いたアラーミングな電報である。
海軍は不拡大主義に徹しているので、
松本支局長が、ああいう調子で打電しつづけるのは軍の方針に背馳することになる。
もっと冷静に打電するならばともかく、そうでなければ、即刻退去命令を出せ』
と訓電を受けたと伝えられました。
( 上海時代・下 190〜191p )
中国がどう戦争準備しようと 日本はとにかく平和を求めるだったのです。
まるで、今の平和主義者みたいに。
中国は逆に戦争の準備をすすめていました。
陸軍戦史叢書 『支那事変1』 264〜265pには
中国は8月6日、第一回国防会議を開き、次のような対日方針を決定していた
長期抗戦ヲ原則トシ
北支那方面防備ノ為其の主防禦線ヲ 保定 ― 滄州ノ線ニ、
第二線ヲ 彰徳 ― 済南ノ線ニ、
第三線ヲ 洛陽 ― 鄭州 ― 開封 ― 徐州 ― 淮陰ノ線ニ 選定シ徹底的抗日戦ヲ実施スル為
全般的ニハ集団戦ヲ避ケ消極戦ニ終始スル如ク各部門ニ亙リ戦備ノ充実ヲ期ス
とあり。
児島襄著『日中戦争』文春文庫4巻78〜79pには
「勝倭の道」 「大敵に遇えば即退き、小敵に遇えば即戦う」
「対倭作戦」 「戦術でもって武器の不足を補う」
「戦術原則五項目」
一 要以持久戦 消耗戦之決策 以打破敵人速戦即決之企図
ニ 要立主動 敵攻我守 待其気衰力疲 我即乗出撃
三 要固守陣地 堅忍不退 以深溝高塁厚壁 粉砕敵進攻
四 要利用民力地物 処処設穽防 従抗戦殺敵
五 要講求防制敵機 大砲戦車毒気之戦術 便其攻撃気効
とあります。
一、二は「空間を以って時間に代える」持久戦・消耗戦略で、要するに奥地に引きずり込み
疲弊させる、というもの。
二は、主動的立場に立ち、敵が攻めれば我は守り、敵が疲れて其の気力の衰えるのを待ち、
我乗り出して撃つ
三は、深い溝、高い防塁、厚い壁で以って敵の進攻を粉砕し、陣地を固守し、絶対に退かない。
四は、民衆の力、地の利を利用し、罠を仕掛けてのゲリラ戦
五は、空襲、大砲、戦車、毒ガスへの対策
です。
つまり、三つの防御ラインと、長期戦を目的とした戦争方針を作っていたわけです。
この文書では、8月6日から始まったかのように見えますが、本当は、もっと早くから始まっています。
その証拠に、上海憲兵隊の塚本誠氏は、7月24日ごろ、上海の周辺の非武装地帯に
中国軍がトーチカを造っているうわさを聞き、私服を着て、ゴルファーの格好で出掛けていき、
現物を確認しました。( 塚本誠著『ある情報将校の記録』中公文庫196P )
また、同盟通信上海支局長の松本重治氏は、8月6日に、非武装地帯に進出してきた保安隊に遭遇しています。
保安隊に遭遇し追い返された彼は、記事を東京に打電した所、翌日、海軍武官室に呼び出され、島田軍令部次長から
『上海内外の情況を誇大に描いたアラーミングな電報である。
海軍は不拡大主義に徹しているので、
松本支局長が、ああいう調子で打電しつづけるのは軍の方針に背馳することになる。
もっと冷静に打電するならばともかく、そうでなければ、即刻退去命令を出せ』
と訓電を受けたと伝えられました。
( 上海時代・下 190〜191p )
中国がどう戦争準備しようと 日本はとにかく平和を求めるだったのです。
まるで、今の平和主義者みたいに。
これは メッセージ 11 (kireigotowadame さん)への返信です.