竹島

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>単純な疑問なんですが、

投稿者: te2222000 投稿日時: 2005/06/29 06:34 投稿番号: [10041 / 18519]
husenoyajiさん

私は「二日行程以上も離れていて、無人の、従って日本人が住んでいない島を日本の土地とは言い難い。朝鮮が見える程に近いのであれば、なおさらそうである」という認識を隠州視聴合紀の著者が持っていたと考えれば、隠州を日本の国境とする解釈に別段おかしいところはないと思います。

つまり、「此二島無人之地、見高麗如自雲岐望隱岐」が二島を日本とみなせない理由を説明した部分、「然則日本之乾地以此州爲限矣」がそれを受けて二島が日本ではないと明記した部分ということです。

一応、#9363 と #9648 でも「此州を隠州とする解釈」として似たようなことを書きました。
この点について他の方から直接の批判はなかったので、それほどおかしな理屈ではないだろうと思っていますが、何か難点があることにお気づきでしたらご教示いただけると幸いです。

念のため申し上げますが、私は現在、上に述べた考え方が最も有力だと思っていますが、これに間違いないと最終的な結論を出した訳ではありません。

北はどっちか

投稿者: tuutuu32 投稿日時: 2005/06/29 02:01 投稿番号: [10040 / 18519]
私、先日、北はどちらかという件で、半月城さんの御主張に若干疑問があると述べましたが、後で、下條さんの著書「竹島は日韓どちらのものか」の119Pにある、佐田白芽の残した「朝鮮全図」を見ると、東西南北表示が、今まで私が見たこともないほど、右方向に曲がっていました。とすると、半月城さんの主張される東西南北認識をそのまま写した地図があったことになります。

自身、よくわからなくなっております。航海上必要なので、このような地図もあったということでしょうか。それとも、江戸時代の人の東西南北認識は、この地図のようなものであったということでしょうか。

この地図、1875年に佐田が残した地図とのキャプションがあります。佐田が朝鮮側の資料をもとに作成したものかどうかは分かりませんが、海岸線が非常に細かく記載されており、信頼のおけそうな地図です。でも、この地図でさえ、鬱陵島と思われる島が朝鮮半島の間近に記されております。林子平の地図にも、似たような島がありましたけど。

竹島、松島が朝鮮のものになったと佐田が認識した理由は、2つのことが考えられます。

①朝鮮の者から、松島はウサン島(竹嶼)であると教えられた。→佐田「なるほど、朝鮮の地図を見ても鬱陵島の非常に近くに島がある。」
②朝鮮の者から、松島はウサン島(現在の竹島)であると教えられた。→佐田「地図の都合上はみ出るので、松島を記載しなかっただけだよ。」(朝鮮のものになったと報告した佐田ですから、当然、記載すべきとは思うが。)

毎度、推測でいろいろ申し上げ、申し訳ないことです。

単純なんですか?

投稿者: kikousidayo 投稿日時: 2005/06/28 23:13 投稿番号: [10039 / 18519]
>竹島一件以降19世紀以前の文献で獨島を自国領と明記しているのは朝鮮の官撰資料だけですね。

>于山は倭の所謂松島であり于山は朝鮮の地と書いてあります。


この上なく単純明快なのはAHO君の頭だろう。

>単純な疑問なんですが、

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2005/06/28 22:32 投稿番号: [10038 / 18519]
>日本について地理を語っているときに、外国領を記述するならそう明記しますね。

竹島一件以降19世紀以前の文献で獨島を自国領と明記しているのは朝鮮の官撰資料だけですね。

于山は倭の所謂松島であり于山は朝鮮の地と書いてあります。

この上なく単純明快です。

>単純な疑問なんですが、

投稿者: kana_ikeuchi 投稿日時: 2005/06/28 20:59 投稿番号: [10037 / 18519]
>日本について地理を語っているときに、外国領を記述するならそう明記しますね。

>その先に朝鮮領の松島と竹島がある、だから隠岐は日本の北西の果ての地だ、としなければなりません。

>どこまでが日本かを問題にしている文章なのですから。

>そう言う感覚からは、隠州視聴合紀の松島と竹島の取り上げ方は、
日本領として記述しているとしか読めないんですが、そのへんはどうお考えですか。


云っても無駄でしょうね。言葉の難しさ、特に日本語のニューアンスなんかはコンピュータ解析などできるものではありませんわ。

日韓翻訳ソフトを使用してみればそのことがよく分かりますわよ。

江戸時代に、当時の平均的日本人がどう読んでいたのかが大切で、現代人の感覚で論じても意味はありませんでしょうね。

史料文献学的にどうだこうだなんか知りたくもないし、どうでも良いことです。斉藤豊仙は恐らく貴方と同じ感覚でしょうね。

te2222000さんが、どう答えられるのか、あたしにも興味がありますの。

単純な疑問なんですが、

投稿者: husenoyaji 投稿日時: 2005/06/28 10:01 投稿番号: [10036 / 18519]
日本について地理を語っているときに、外国領を記述するならそう明記しますね。

その先に朝鮮領の松島と竹島がある、だから隠岐は日本の北西の果ての地だ、としなければなりません。
どこまでが日本かを問題にしている文章なのですから。

そう言う感覚からは、隠州視聴合紀の松島と竹島の取り上げ方は、
日本領として記述しているとしか読めないんですが、そのへんはどうお考えですか。

用例上の根拠については、指摘出来る能力はありませんので、文脈上の感覚からは、
どうして松島と竹島を含めないのかずっと不思議でしたので、

>>隠岐は本邦北西の果てか

投稿者: te2222000 投稿日時: 2005/06/28 06:11 投稿番号: [10035 / 18519]
tuutuu32さん

竹島と松島を隠州に含めるかどうかは文献により異なるようですが、隠州視聴合紀の場合は、含めていないと思います。理由は、含めた場合に #9654 で書いた疑問c3-1, c3-2 が解決しないからです。

したがって私は、隠州視聴合紀の著者が竹島と松島を含まない隠州を「北西の果ての地」と表現していると考えます。

>史料文献学的詭弁・嘘吐き?

投稿者: te2222000 投稿日時: 2005/06/28 05:57 投稿番号: [10034 / 18519]
torezojpさん

> 愚老を嘘つき呼ばわりして、kana_ikeuchさんに指摘されていたが、

「嘘を書いた」という表現は不適切でした。お詫びいたします。

ただ、torezojp さんの「『隠州視聴合記』の最新解釈批判」(#9952〜#9955) が、文中で池内氏の主張を否定していること、そしてそれにも関わらず「池内氏の業績に異を唱える意志など毛頭無い」と述べていることは事実であり、その点を指摘したことについて訂正の必要はないと思っています。

ところで、kana_ikiuchiさんの指摘とは、#10024 の以下の文ことですよね。

> 「地誌としての隠州視聴合記は色々の角度から精緻に
> 分析論じられれば宜しかろう。領土問題とは区別して
> あくまでも史料として正確な内容を掴まれるよう議論と
> 討論を史料文献学的に論じられればよい。愚老どもの
> 関与するところではない。」の前提の上で「池内氏の
> 業績に異を唱える意志など毛頭無いことを、お断りして
> おく。」が史料文献学者でないtorezojpさんの本意で
> しょう。「水掛け論を続けるほどの問題でもないように
> 愚老は思えますけどもな」とエンドレス・ストーリーの
> 神学論争になることを避けている。

しかし、torezojp さんは、隠州視聴合紀の史料文献学的な解釈について「愚老どもの関与するところではない」とおっしゃりながら、実際には以下のようにしっかりとコメントしていらっしゃいました。

> 島と読むか州(くに)と読むか、両論とも、蓋然性の問題で、
> 必ずしも池内氏のようには考えないという人がいたとしても
> しようがないですわい。書いたご本人が島のつもりで書いた
> とも言えるし、そうでない州(くに)であったともいえると
> いうことですわな。電子文書化して、検索を掛け計数処理からの
> 結論は一応は科学的に見えるが、最後のAを島と読めないと
> 断定する”絶対的根拠”にはならないでしょうな。
>
> 水掛け論を続けるほどの問題でもないように愚老は思え
> ますけどもな。黒白付けたいとおしゃるのなら御勝手にと
> 申し上げるよりありませぬわ。「これって勝手読みのこと?」
> あるいは「恣意的との謗りを免れえない」の応酬になりま
> しょうぞ。


この部分が仮に以下のように書いてあったら何も問題はないと思いますが…。

------------------------------------------------ -
島と読むか州(くに)と読むか、こだわる方は様々な角度から分析して論じられればよかろう。しかし愚老にとってはどうでも良いことですわい。
------------------------------------------------ -

「関与するところではない」というならば、そのテーマについてはノーコメントの態度を貫くべきではないでしょうか。たとえ気に入らない意見に一言言いたくても、あえて無視することが「関与しない」立場です。

それを「池内氏のようには考えないという人がいたとしてもしようがない」「断定する”絶対的根拠”にはならない」などのように意見を述べれば、それは既に「隠州視聴合紀の史料文献学的な解釈について関与した」ことになると思います。

別に関与することが悪いとは思いませんから、意見を述べたければどんどん述べれば良いでしょう。けれども意見を述べておきながら「関与するところではない」などと言うのは矛盾していませんか。

>史料文献学的詭弁・嘘吐き?

投稿者: te2222000 投稿日時: 2005/06/28 05:34 投稿番号: [10033 / 18519]
ご指摘ありがとうございます。

> --------------------------------
> >仮に「通航一覧」に関するご説明が全て
> 正しかったとしても「隠州視聴合紀は竹島と
> 松島が朝鮮領だと述べていないが、”通航
> 一覧によれば朝鮮領である」という結論が
> 得られるだけです。”
> --------------------------------
>
> まさに論点曖昧の虚偽とでも言えましょうかい。
>
> 通航一覧のどこに松島(現・竹島)が朝鮮領と
> 述べられておりましょうや。お教え頂きたい
> ものですな。

おっしゃる通り、半月城さんの挙げた通航一覧の記述はすべて竹島(鬱陵島)についてのものであり、松島には触れていませんね。失礼いたしました。

上の私の記事からの引用部分については次のように訂正いたします。

============
仮に「通航一覧」に関するご説明が全て正しかったとしても「通航一覧によれば竹島は朝鮮領だが、隠州視聴合紀は竹島と松島が朝鮮領だとは述べていない」という結論が得られるだけです。
============

大韓国民は

投稿者: heiyonjun 投稿日時: 2005/06/27 23:45 投稿番号: [10032 / 18519]
少しですけど、頭が悪いです。許してください。

此州ー隠岐は本邦北西の果てか

投稿者: torezojp 投稿日時: 2005/06/27 23:41 投稿番号: [10031 / 18519]
【引用開始】
  其沖に松島あり、上に松生て樹聞に荒園あり、長事二町ばかり、昔好事者此州に雉の無事を愁て、試に雲州より雌雄を渡して此に放つ、一年を経て終に亡と云(『続々群書類従』第九、四六五頁下段)

「此州」の「此(この)』に対応すべき適当な固有名詞が存在しない。仮に「州」は「島」の意だとして、直近の「松島」が「此州」に該当するとしてみよう。「昔好事者し以下は、「昔ある好事家が、松島に雉がいないことを残念に思って、こころみに出雲国から雌雄の雉をつれてきて松島に放したところ、(繁殖に失敗し)一年後にはいなくなった」となる。しかしながら、島後周吉郡蛸木浦沖合いの松島に雄がいないからといって、隠岐国内の他所から連れてくるのではなく、わざわざ出雲国から雄を連れてくる、とする記述はいささか不自然な話である。「此州一にいないから「雲州(出雲国〉」より連れてきた、とする語の釣り合いからすれば、やはりここは「隠州(隠岐国ごとするのが妥当だろう。「松島』が「此州」に該当するわけではない。この「州」は「島」の意とはならない。

財団法人韓国文化研究振興財団-青丘学術論集2005年3
月「前近代竹島の歴史学的 研究序説」−「隠州視聴合記』
の解釈をめぐって」池内敏(P152)
【引用終わり】

【torezojp】:
この「州」は「島」の意となるとすればなどと、時には発想を変えてみることも必要でなかろうか。

隠州在北海中故云隠岐島、従是、南至雲州美穂関三十五里、辰巳至泊州赤碕浦四十里、未申至石州温泉津五十八里、自子至卯、無可往地、戍亥間行二日一夜有松島、又一日程有竹島、俗言磯竹島多竹魚海鹿、此二島無人之地、見高麗如自雲州望隠州、然則日本之乾地、以此州為限矣

そうすれば、しからば即ち日本の北西の地はこの嶋を持って限りとする。竹島(鬱領)が日本の最北西の地となるがこの地は朝鮮の持。しからば、大谷、村川両家の竹島経営の際漂着して発見した松島(現・竹島)が日本の最北西の地で良いのではないか。

韓国側は日本の文献を買って読みして、存在も二〇世紀にはいるまで知らなかった松島(現・竹島)を史料文献学的に歪曲、捏造、曲解してまで手に入れようと、国家ぐるみで詐欺師の真似までせずに済むのでないだろうか。曲学阿世の謗りを後年受ける危険まで冒して詐欺師の真似までするのは学者のすることではないと思いたいのだが。

史料文献学の対象が日本にしかないと云うことが、何よりそのことを物語っているのでないか。松島(現・竹島)が自国の領土であるのなら、その歴史的事実の証明を自国の史料文献から証明できないなんてあり得ないのでないか。

>「こめ」は九州から朝鮮南部へ伝わる

投稿者: pokosi2000 投稿日時: 2005/06/27 22:39 投稿番号: [10030 / 18519]
>最近の稲のDNA解析による研究では、中国江南地方の稲が、直接九州へ伝わったと言われてます。


これは漢籍によっても裏付けられます。倭人は太伯の子孫と自ら名乗ってます。朝鮮から来たとは言ってません。




『晉書』四夷傳(東夷条)



倭人在帶方東南大海中、依山島爲國、地多山林、無良田、食海物。舊有百餘小國相接、至魏時、有三十國通好。戸有七萬。男子無大小、悉黥面文身。自謂太伯之後。又言上古使詣中國、皆自稱大夫。昔夏少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害、

「こめ」は九州から朝鮮南部へ伝わる

投稿者: okinotorisima2004 投稿日時: 2005/06/27 22:24 投稿番号: [10029 / 18519]
最近の研究で、稲作の伝来が3000年前だったことがわかり、すったもんだの末、
縄文晩期には、稲作が始まったということになったようです

日本に伝来した熱帯ジャポニカ種は、昔は朝鮮半島経由と言うのが定説でしたが、
朝鮮半島には、3000年前の水田跡は見つかっていないことと、
最近の稲のDNA解析による研究では、中国江南地方の稲が、直接九州へ伝わったと言われてます。

Okino:
稲作は日本経由で朝鮮南部に伝わったんだな結局

>>隠岐は本邦北西の果てか

投稿者: tuutuu32 投稿日時: 2005/06/27 21:14 投稿番号: [10028 / 18519]
ご返事ありがとうございます。隠岐よりも鬱陵島の方が本邦北西の果てにはふさわしいのではないかとの感覚で申し上げました。極地の記述の解釈は、そのとおりだと思います。隠州に鬱陵、竹島2島を含めると、隠州は北西の果てというのに、違和感が生じないと考えています。
まあ、著者の感覚の問題でもありましょうから、断定は難しいとは思います。
別記事をお待ちしております。

ところで、江戸時代の「北」の件は、下條教授がその著書で鬱陵島からみた竹島の方向を記述するときに、南東としたことを批判された半月城氏に若干疑問があるからです。学術的には半月城氏が正当だと思いますが、隠州視聴合紀の方角の記述のように、江戸時代の人がいう南東は、現代の南東と合致するのではと思うからです。

okinotorisima2004さんへ

投稿者: pokosi2000 投稿日時: 2005/06/27 20:56 投稿番号: [10027 / 18519]
>「任那の日本府」を「南朝鮮を大和朝廷が支配していた政治組織」とする説は、一部のいかれ右翼以外では完全に決着がついたのでしょうか、それとも、学会の中でも論争中なのでしょうか。歴史学者の方、よろしければ教えてください。

「任那の日本府」を「南朝鮮を大和朝廷が支配していた政治組織」とする説は、一部のいかれ右翼以外では完全に決着がついたのではないことはご理解いただいたと思います。

これだけの資料及び物証を認めないのは朝鮮人だけです。

南朝鮮の発表は疑問だらけ。

投稿者: sukidattakuni 投稿日時: 2005/06/27 16:53 投稿番号: [10026 / 18519]
科学的根拠なし!
先進5カ国の先端科学調査(もちろん南朝鮮は入らない)で南朝鮮の地質調査を行えば、化けの皮わ禿げるでしょうが、
南朝鮮政府は「ok」と言わないでしょう。

前方後円墳は日本から南朝鮮に渡った人が築いたが本筋。

稲作も日本から南朝鮮に伝わったが正。

現在でも、南北朝鮮人は、東南アジア同様、出稼ぎ民族です。
従軍慰安婦も出稼ぎ売春婦です。


科学的に、先進5カ国で調査団を南朝鮮に送りましょう。

韓国の前方後円墳ー3−

投稿者: okinotorisima2004 投稿日時: 2005/06/27 14:01 投稿番号: [10025 / 18519]
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/04.04.26kannkoku/4.27.4.HTM

  百済も高句麗とは拮抗した政治的軍事的な体制があったのでしょうが、広開土王時代以降の高句麗は、強大だったわけです。
  しかし、軍事力だけでは国は維持できないことも事実なんですよね。
  あれだけ強大な軍事力で隋・唐と戦い抜いた高句麗も、七世紀後半には滅びてしまいます。

  さて百済なのですが、475年高句麗軍の前に敗北し、蓋鹵王は殺害されます。
  これによって実質的には滅亡したといえるのですが、文周王が即位し、倭が百済を支援する形となります。
  このときの倭王は雄略(=倭王武)です。百済は王都を熊津に移さざるを得なくなったのです。
  そこが私たちが訪問した公州の地というわけです。実は百済国内はさらに混迷していて、477年文周王は兵官佐平の解仇に実権を奪われ殺害されてしまいます。

  478年(雄略22年にあたる年)、倭王武は宋に使者を派遣します。
  有名な「昔より祖禰(そでい)躬ら甲冑をつらぬき、山川を跋渉し、寧處に遑あらず。云々」の上表分を副えたものですが、高句麗を共通の敵と考えられますので、倭としては百済救援の要請を含んだ使者であったと思われます。

>史料文献学的詭弁・○吐き・・・

投稿者: kana_ikeuchi 投稿日時: 2005/06/27 13:42 投稿番号: [10024 / 18519]
(部分・転写開始)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
御貴殿方こそ、我が国の史料文献を部分的に利用し混乱させ、さりげなく松島(現・竹島)が朝鮮領かのような大きな誤謬に誘導する嘘吐きですな。


--------------------------------
>仮に「通航一覧」に関するご説明が全て正しかったとしても「隠州視聴合紀は竹島と松島が朝鮮領だと述べていないが、”通航一覧によれば朝鮮領である」という結論が得られるだけです。”
--------------------------------

まさに論点曖昧の虚偽とでも言えましょうかい。

通航一覧のどこに松島(現・竹島)が朝鮮領と述べられておりましょうや。お教え頂きたいものですな。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
(部分転写完了)

あたしkana_ikeuchでなく、kana_ikeuchi です。間違えないで下さい。
ところで、嘘を言うと云われると腹が立つことは経験済みでしたわね。

te2222000さんも同じだと思いますわよ。
>仮に「通航一覧」に関するご説明が全て正しかったとしても「隠州視聴合紀は竹島と松島が朝鮮領だと述べていないが、”通航一覧によれば朝鮮領である」という結論が得られるだけです。”

頭に仮にがはいっているでしょう?te2222000さんは、半月城さんのご意見を反芻しただけよ。
伺いたかったら、半月城さんにお尋ねすべきでしょう。

韓国の前方後円墳ーー2ーー

投稿者: okinotorisima2004 投稿日時: 2005/06/27 12:04 投稿番号: [10023 / 18519]
韓国南部の古代遺跡(2)
慶尚南道・慶尚北道南部(高霊、金海、釜山)

  

  光州に4泊して全羅北道と全羅南道の古代遺跡を探訪した後、大邱と釜山に合計3泊して、慶尚北道と慶尚南道の古代遺跡を訪ねた。これから後半を紹介しよう。

  伝説によると、慶尚南道の金海の亀旨峰に降臨した首露王始め6人の男の子達が加耶6国(駕洛国(金官国)、大加耶、星山加耶、阿羅加耶、小加耶、古寧加耶)を作ったという。その後加耶諸国は百済と新羅の進出に翻弄される。日本書紀によると541年と544年に「任那(加耶)復興会議」が百済、日本、加耶諸国が参加して行なわれた。結局、加耶諸国は西暦562年に新羅に滅ぼされるが、その間、日本に鉄文化を伝え、日本との往来も多く、また戦乱を逃れて日本に渡ったものも多かったと伝えられている。

  加耶は「鉄の王国」といわれ、日本がここに鉄の買い付けに来たことは注目される。当時鉄は戦略物資で、現代の石油とみてよいだろう。また、日本では2例しか見られない馬冑(ばちゅう、戦闘用の馬の頭部を守る冑)がここでは多く見られる。これは北方騎馬民族の南下を示すものとして興味深い。

以下は、韓国の旅を、2つに分けた中の第2部である。
  韓国南部の古代遺跡(1)
     全羅南道・全羅北道南部 (羅州、霊岩、扶安、全州、高敞、光州)
  韓国南部の古代遺跡(2)
     慶尚南道・慶尚北道南部 (高霊、金海、釜山)
                                   (2003年10月)  
     馬冑(ばちゅう)

韓国の前方後円墳−2−

投稿者: okinotorisima2004 投稿日時: 2005/06/27 11:59 投稿番号: [10022 / 18519]
http://www.nishida-s.com/main/categ2/korea-2/korea-2.htm
上記URL、google にて検索可能


「在地首長の墓」説
全羅南道は栄山江流域に当り、百済に領有されるまでは政治的に自立していた。高句麗に攻められた百済は475年に今のソウルから公州へ都を移すと、南方へ進出を図った。この結果、独自性を保っていた栄山江流域も百済の圧迫を受けるようになった。そこで、かねてより倭(日本)と交流が深かった在地の有力首長が、百済の領有化に抵抗するため、倭の勢力と通じていることをアピールしようとして採用したのが前方後円墳だったという説である。

「有力倭人の墓」説
当時百済に移住して百済王の臣下になった倭人が多数いた。百済は直接支配はしていなかったが、拠点的に領有地には有力倭人が派遣されていた。彼等が故国の墓制にしたがって、前方後円墳を作ったという説である。

どちらの説を取るにしても、当時の日本と韓国の間の密接な交流の証拠として、前方後円墳の存在は興味深い。

韓国の前方後円墳−1−

投稿者: okinotorisima2004 投稿日時: 2005/06/27 11:19 投稿番号: [10021 / 18519]
引用:
http://www.nishida-s.com/main/categ2/korea-1/korea-1.htm


閑話休題
韓国の前方後円墳
 
日本固有の墓制と考えられている前方後円墳が韓国にも存在し、これが日本の前方後円墳の源流であると韓国の研究者が主張し、話題になったことがある。その後の調査でこの古墳は3基の古墳が連接したもので、前方後円墳でないことが分った。しかしその後、確実に前方後円墳であると考えられるものが11基も確認され、新たな議論を呼んでいるという。

これらの前方後円墳は、1つを除いて全羅南道にあり、5世紀後半から6世紀中葉までの限られた期間に造営されたという。また、日本固有ともいえる円筒埴輪(韓国では円筒型土器という)も出土している。現在では前方後円墳日本起源説が定説となっているようである。では、なぜある時期ある地域で前方後円墳が造営されたのだろうか。

「在地首長の墓」説
全羅南道は栄山江流域に当り、百済に領有されるまでは政治的に自立していた。高句麗に攻められた百済は475年に今のソウルから公州へ都を移すと、南方へ進出を図った。この結果、独自性を保っていた栄山江流域も百済の圧迫を受けるようになった。そこで、かねてより倭(日本)と交流が深かった在地の有力首長が、百済の領有化に抵抗するため、倭の勢力と通じていることをアピールしようとして採用したのが前方後円墳だったという説である。

「有力倭人の墓」説
当時百済に移住して百済王の臣下になった倭人が多数いた。百済は直接支配はしていなかったが、拠点的に領有地には有力倭人が派遣されていた。彼等が故国の墓制にしたがって、前方後円墳を作ったという説である。

どちらの説を取るにしても、当時の日本と韓国の間の密接な交流の証拠として、前方後円墳の存在は興味深い。

(土生田純之氏 2002.11.3 シンポジウム 、朝日新聞 2000.10.21 奈良版   などを参考にした)  

   1   竹幕洞遺跡
   3   新徳古墳     
   5   明花洞古墳
   7   チャラボン古墳
   9   海南長鼓山古墳
  11   松鶴洞古墳   2   ウォルゲ古墳
  4   月桂洞古墳
  6   咸平長鼓山古墳
  8   龍頭里古墳
10   造山古墳

前方後円墳の所在地


史料文献学的詭弁・嘘吐き?

投稿者: torezojp 投稿日時: 2005/06/27 07:46 投稿番号: [10020 / 18519]
>池内氏の論文を肯定的に紹介し、隠州視聴合記が「竹島/独島の帰属を示す歴史的根拠として使用することは   ★日韓いずれの側にとっても★   適当ではな」いと引用した後で、何の説明もなく「竹島と松島は朝鮮領ということになる」と結論付けられても、読者はその論理を理解できる筈がないと思います。その点はご同意いただけませんか・・・中略

>念のため申し上げておきますが、私の興味は「隠州視聴合紀」の解釈にあります。17世紀後半における日朝国境認識が一般的にどうだったか、ではありません。

>その観点からは、「通航一覧」の記述はほとんど関係しません。
仮に「通航一覧」に関するご説明が全て正しかったとしても「隠州視聴合紀は竹島と松島が朝鮮領だと述べていないが、通航一覧によれば朝鮮領である」という結論が得られるだけです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

半月さんだけでなく、te2222000さんも史料を勝手読みして、理解不足からか、意識的にか、忙しい一般ROMの方に誤解を与えているようですな。 愚老を嘘つき呼ばわりして、kana_ikeuchさんに指摘されていたが、御貴殿方こそ、我が国の史料文献を部分的に利用し混乱させ、さりげなく松島(現・竹島)が朝鮮領かのような大きな誤謬に誘導する嘘吐きですな。

それでは、お伺いしましょう。ちなみに、「通航一覧」は、江戸幕府が、欧米諸国接近の圧力を感じるなかで、幕初以来の外国応接の歴史を明らかにするために編纂した大部の外交史料集である。永禄九年(1566)安南船の漂着記事から文政8年(1825)の異国船打ち払い令までを扱った正編は嘉永3年(1850)から同6年にかけて編纂され、巻数は345巻(附録23巻とも)。続いて続輯が編纂され、安政3年(1856)ころ178巻(附録26巻とも)が完成した・・・。

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>仮に「通航一覧」に関するご説明が全て正しかったとしても「隠州視聴合紀は竹島と松島が朝鮮領だと述べていないが、”通航一覧によれば朝鮮領である」という結論が得られるだけです。”
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まさに論点曖昧の虚偽とでも言えましょうかい。

通航一覧のどこに松島(現・竹島)が朝鮮領と述べられておりましょうや。お教え頂きたいものですな。

>竹島(鬱陵島)と潜商事件

投稿者: te2222000 投稿日時: 2005/06/27 06:37 投稿番号: [10019 / 18519]
半月城さん

どうやら、#9949 におけるは「異国の地」という言葉は「朝鮮の領土」という意味でお使いになっているようですね。

しかし、池内氏の論文を肯定的に紹介し、隠州視聴合記が「竹島/独島の帰属を示す歴史的根拠として使用することは   ★日韓いずれの側にとっても★   適当ではな」いと引用した後で、何の説明もなく「竹島と松島は朝鮮領ということになる」と結論付けられても、読者はその論理を理解できる筈がないと思います。その点はご同意いただけませんか。

> te2222000さんは『隠州視聴合記』における
> 竹島(鬱陵島)や松島(竹島=独島)が日本領で
> ないという解釈は認めても、それらは異国という
> より「どこの国にも属さない土地」という
> わずかな可能性にこだわりたいのでしょうか。

こだわるつもりは全くありません。しかし、「どこの国にも属さない土地」という可能性が本当にわずかしかないのかどうか、まだ判断できていないのです。

念のため申し上げておきますが、私の興味は「隠州視聴合紀」の解釈にあります。17世紀後半における日朝国境認識が一般的にどうだったか、ではありません。

その観点からは、「通航一覧」の記述はほとんど関係しません。
仮に「通航一覧」に関するご説明が全て正しかったとしても「隠州視聴合紀は竹島と松島が朝鮮領だと述べていないが、通航一覧によれば朝鮮領である」という結論が得られるだけです。

したがって、半月城さんのご説明の中で、私にとって意味があるのは「官より朱印を賜り」の件だけです。

それについてですが、#9302 の VIVA_VIVA_21さんの記事によると、朱印状というのは、いわゆる朱印船の朱印状以外にも「国内規制地への渡航許可、通行許可」「通商、開発権の付与」などいくつもの理由で出されたようです。

それを踏まえて以下のご説明を見ますと、

> 斉藤が「朱印を賜り」と記録したのは、
> 異国へ渡る朱印船を連想して書いたと
> みるのが妥当ではないでしょうか。

斉藤が、「国内規制地への渡航許可、通行許可」「通商、開発権の付与」などの朱印ではなく、朱印船の朱印を連想して書いたとみるのが妥当である理由が書いてないので、私としては本当に妥当なのかどうか判断できません。

この点についてもう少し詳しいご説明をいただけると幸いです。

隱州戌亥之極地

投稿者: te2222000 投稿日時: 2005/06/27 05:48 投稿番号: [10018 / 18519]
#9991で私は以下のように書きました。

> ただし、「隱州戌亥之極地」を「隠州は北西の果ての地」と
> した私の解釈が正しいものとしてですが。
> 実はこれについては90%程度の自信しか持てない理由があり、
> それは別記事として書くことにします。

この理由というのは単純で、当該個所の前後に意味の分からない文があるため、文脈を誤解している可能性が否定できないのです。

そこでテクストをもう少し広い範囲で紹介し、私の分からない部分について識者の方の意見を聞きたく思います。

テクストの出典、表記方法は #9649 に書いたものに準じます。

以下は、巻二・周吉郡・元谷村の節からの引用です。村の地理を記述した後に続く文で、3年に一度行なわれる日月の祭を説明しています。

−−−−−−−−−−−−
一小堂なり(ママ)
其堂を會處と云
彼八王寺の社の神と其向の常樂寺の神と三年に一度爰に會して祭事あり
此を日月の祭と云
其儀式は季節の仲の九月吉辰を卜して社より日神を奉じ寺より月神を奉ず
皆長竿の上に其形を掛て左右に玉輿をかざり出す
銀を以て月を色どり金を以って日を色どれり
諸人前後に〓束して立て此堂に合祭して僧徒咒を持し讀經し畢て近隣の里人老若緇素も集り舞蹈し唱歌す
(〓は「将」の下に「衣」)

[訳]
一つの小堂がある。
その堂を会処という。
例の八王子の社の神と、その向かいの常楽寺の神とが、三年に一度ここに会して祭事を行なう。
これを日月の祭という。
その儀式は9月の吉日を占って、社より日神を奉じ、寺より月神を奉じる。
どちらも長い竿の上にその形を掛けて、左右に玉輿ををかざって出す。
銀で月を彩り、金で日を彩っている。
多くの人が前後に装束をつけて立ち、この堂に集まって祭事を行なう。
僧が咒を持して読経し、終わると近隣の人々の老若男女が集まって踊り歌う。
−−−−−−−−−−−−

これに続いて、「隱州戌亥之極地」を含む以下の文章が現れます。

−−−−−−−−−−−−
按此日月の祭古之遺法歟
書曰味谷寅餞納日
本朝亦曾行此禮歟
隱州戌亥之極地昧暗也
與元立日相近也
上古於是餞納日
亦未可知焉
爲好古人姑記備之

[訓読]
按ずるにこの日月の祭は古の遺法か。
書に曰く、【味谷寅?】納日に餞す。
本朝もまたかつて此の禮を行なうか。
隱州は戌亥の極地にして昧暗なり。
【元と立日?】相ひ近し。
上古、是において納日に餞す、
またいまだ知るべからず。
古を好む人のために、しばらく記してこれに備ふ。

[訳]
思うに、この日月の祭はいにしえの遺法だろうか。
文献によると【味谷寅(?)】夕日にはなむけをした。
わが国でも、かつてこの礼を行なったのだろうか。
隠州は北西の果ての地で暗い。
【與元立日?】互いに近い。
昔、ここにおいて夕日にはなむけをしたか、
まだわからない。
古いことを好む人のため、とりあえず書いておく。
−−−−−−−−−−−−

特に全く分からない個所を【○○○?】のように書きましたが、ここに限らず全体的に自信がありません。ご批判、ご助言をお待ちします。

伏龍特別攻撃隊ー2−

投稿者: okinotorisima2004 投稿日時: 2005/06/27 00:27 投稿番号: [10017 / 18519]
人間機雷「伏竜」

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性能
全長…不明

排水量…なし

速度…0ノット

搭乗員…1人

武装…機雷[15㎏]1個

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解説
この兵器は、人が潜水服を着て酸素瓶を2個背負い、鉛などで浮上しないようにバランスをとり、片手に棒機雷をもって水深5メートルぐらいで待ち伏せし、敵上陸艇が上を通過したときに棒機雷を爆発させる兵器である。
昭和19年に完成し、たくさんの軍人が訓練を受けた。

伏龍特別攻撃隊

投稿者: okinotorisima2004 投稿日時: 2005/06/26 22:28 投稿番号: [10016 / 18519]
http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/fukuryu.htm

伏龍

潜水服・圧搾空気ボンベを装着した隊員が十人で一隊を編成し、長さ2メートルの棒の先についた

機雷で敵艦船の船底を突き撃沈させるという、特攻隊のなかでも最も悲壮な部隊だった。

>Re:古代の任那支配と文化伝播

投稿者: henchin_pokoider01 投稿日時: 2005/06/26 22:18 投稿番号: [10015 / 18519]
トピ違いですが、日韓歴史共同研究の報告書がありますので、どうぞ。座談会記録なんか面白いですよ。広開土王碑の404年の主体を「百済」におきかえちゃったりしてますから。

http://www.jkcf.or.jp/history/01.html

竹島(鬱陵島)と潜商事件2

投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2005/06/26 22:00 投稿番号: [10014 / 18519]
   朝鮮通信使との会談において、朝鮮通信使から弥左衛門の処罰を要求されたわけでもなかったようですが、幕府がすすんで弥左衛門を捕えたのは、やはり竹島(鬱陵島)は朝鮮領であるという認識が前提になっていたとみられます。

   一方、対馬藩の認識は史料のうえでもっとはっきりしています。同藩は、朝鮮政府が鬱陵島に空島政策をしいて4年後の1407年には、早くも朝鮮王朝に対し鬱陵島に家臣を率いて移住したいと申し入れたことが『太宗実録』に記録されました。
   これに対して朝鮮王朝は、当時の対馬藩が九州探題と敵対関係にあることを理由にしてことわりました。

   しかし、対馬藩は財政の柱になる米がほとんどとれないだけに、通商で生きるしかなく、その後も竹島(鬱陵島)に触手をのばし、朝鮮王朝を相手に領有を画策したようでした。幕府の『通航一覧』巻137にこう記されました。
  「慶長十七 壬子年、宗対馬守 義智より朝鮮国 東莱府使に書を贈りて、竹島は日本属島なるよしを諭(さと)せしに、彼許さず、よて猶 使書往復に及ぶ」

   慶長17年というのは慶長19年(1614)、光海君六年の誤りとされていますが、対馬藩の画策に対し、朝鮮王朝は断固とした態度で拒絶しました。その回答書を内藤氏はこう要約しました。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  (磯竹島は)慶尚道と江原道の海上にある朝鮮の鬱陵島のことであり、『東国輿地勝覧』にも掲載されており、いまは荒廃しているが他国人に占拠される理由はない。
   日本と朝鮮との境界は明確になっており、日本人が朝鮮に往来できるのは対馬を経由する一路だけであり、それ以外の来航は海賊と見なすということは、すでに約定した通りである(注3,P32)。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

   結局、対馬藩の画策はとおらなかったのですが、この画策は対馬藩が弥左衛門を捕えたわずか6年前なので、潜商事件当時、対馬藩は竹島(鬱陵島)が朝鮮領であることを確実に認識していたとみられます。
   その認識がそのまま幕府の認識になっていたのか、幕府は弥左衛門を潜商の罪で捕えたものとみられます。

(注1)『隠州視聴合記』
http://www.han.org/a/half-moon/shiryou/shisho_jpn/inshuu_naikaku.pdf
(注2)『通航一覧』巻129
http://www.han.org/a/half-moon/shiryou/shisho_jpn/tsuukou_129.pdf
(注3)竹島(鬱陵島)をめぐる日朝関係史』多賀出版,2000
(注4)『通航一覧』巻137
http://www.han.org/a/half-moon/shiryou/shisho_jpn/tsuukou_137.pdf

(半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/

竹島(鬱陵島)と潜商事件1

投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2005/06/26 21:59 投稿番号: [10013 / 18519]
   半月城です。

   te2222000さんは『隠州視聴合記』における竹島(鬱陵島)や松島(竹島=独島)が日本領でないという解釈は認めても、それらは異国というより「どこの国にも属さない土地」というわずかな可能性にこだわりたいのでしょうか。

   しかし前にも書きましたが、著者の斉藤豊仙はそれらの島が異国であると考えていたからこそ、『隠州視聴合記』に「村川氏、官より朱印を賜り、大舶を磯竹島へ致す」と記したのではないでしょうか(注1)。
   実際は、大舶が「朱印」をもっていないのにもかかわらず、斉藤が「朱印を賜り」と記録したのは、異国へ渡る朱印船を連想して書いたとみるのが妥当ではないでしょうか。

   またこれも #9769に書きましたが、朱印状ならぬ奉書を発行していた当の幕府も竹島(鬱陵島)を朝鮮領と考えていたことが『通航一覧』から明らかになっています。

   Re:9771, tinopureさん
>通航一覧が成立した1853年の認識では   「竹島(鬱陵島)を「朝鮮国属島」と明確に認識していた」でしょうねぇ。

   tinopureさんは、『通航一覧』の下記記事が対象としている1620年に、幕府は竹島(鬱陵島)を「朝鮮国属島」とは考えていなかったと思いこみたいのでしょうか?
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  ○貿易(潜商罪科、耶蘇禁制告諭、商賣金高并銅渡方)
元和六庚申年、宗對馬守義成、命によりて、竹島(朝鮮國屬島)に於て潜商のもの二人を捕へて京師に送る(その罪科いま所見なし)(注2)
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

   tinopureさんは本気で私に反論したいのなら、すこしは一次資料に目をとおしてからにしてください。
  『通航一覧』は、捕えられたのが対馬の商人・弥左衛門、仁右衛門であることを『対州編稔略』を引用して明らかにしました。朝鮮との交易を幕府から認められている対馬藩が、幕命で対馬の商人を「潜商」の罪で捕えたのでした。
   これは、弥左衛門親子のことが、かつて日朝関係修復のため来日した朝鮮通信使のほうから話題に出されただけに、弥左衛門のように正規のルートでない朝鮮貿易は幕府としても放っておけなかったとみられます。これはとりもなおさず、幕府および対馬藩が竹島(鬱陵島)を朝鮮領とみていたことを示すものです。

   この事件について内藤正中氏はこう解説しました。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   このことについて中村栄考は、李景稷の『李石門扶桑録』のなかに、関係記事があることを明らかにしている。李景稷は1617年(元和3)に、朝鮮王朝から徳川将軍家に対して、大阪平定を祝賀する使節として派遣された回答兼刷還使の従事官であり、『李石門扶桑録』とはその時の旅行記である。同書には伏見城で老中 土井利勝に語ったとされる次の記事がある。
  ・・・
   ここで「蟻竹島」とあるのは磯竹島の誤記である。秀吉の時代に願い出て磯竹島に渡って材木などを伐採して持ち帰り、秀吉に大変喜ばれ、磯竹弥左衛門と呼ばれていた。
   彼は島に渡ることで生計を立て 毎年貢租を納めていたが、秀吉の死後に弥左衛門もつづいて死去し、いまでは島に往来する者もいなくなったという。このことを聞いた家康が事実確認を求めたとする内容である。
   通信使の従事官として日本に来た李景稷は、伝聞情報として磯竹弥左衛門なる者が秀吉の時代に鬱陵島に渡って材木などを持ち帰っていたことを知っていたわけで、そのことは日本側の資料である『対州編稔略』や『通航一覧』に記されている内容にも対応している。
   通信使従事官から話題にされたからには幕府としても捨てておけず、対馬藩に命じて調査させ、鬱陵島にいた磯竹弥左衛門ら「潜商二人」を捕えて伏見に送り、幕府の処分を待ったのである(注3,P34)。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
(つづく)

震洋特攻艇(ボート)

投稿者: okinotorisima2004 投稿日時: 2005/06/26 21:50 投稿番号: [10012 / 18519]
http://www.edu.nagasaki-u.ac.jp/private/fukuda/report/sinyo/new.htm
上記URL googleでも検索可能

seonsaengさん

投稿者: nigari1985 投稿日時: 2005/06/26 17:33 投稿番号: [10011 / 18519]
単なる釣りですよ。
確信犯。愉快犯。

日本の模造、捏造を知った時から、
♪♪思考回路がショート寸前♪♪
そういえばセーラームーンも
やられましたね。

>無恥な韓国人ですね

投稿者: chonkochonkorin 投稿日時: 2005/06/26 17:26 投稿番号: [10010 / 18519]

  証拠はここにあるニダ!
 
  謝罪しるニダ!
 
  http://www.geocities.co.jp/Playtown-Darts/3036/uri.html
 
 
  ウリの優秀さの証明はここにもあるニダ!
 
http://hamaniyo.jp/%7Etaz/flash/fabrication.swf

http://www.geocities.jp/pleasurepleasure108/NAVR1000.swf
 
  

無恥な韓国人ですね

投稿者: seonsaeng 投稿日時: 2005/06/26 17:12 投稿番号: [10009 / 18519]
>柔道、剣道、茶道、すべて韓国が起源です。日本の漫画も韓国の原版の模造が氾濫していますね。

テコンドーは、空手からだと知ってるかな?   しかし、韓国人は習った事を鵜呑みにせずに、真実を探求する精神を持って欲しいですね。

>日本では知的所有権が疎かにされがちですね。

これは、韓国に言える事。 「鉄腕アトム」は、どこからかな?   ロッテの「ペペロ」は言うに及ばず、韓国は日本製品の模倣品がいっぱい。

>hangetsujoh

投稿者: chosunsoutoku 投稿日時: 2005/06/26 17:02 投稿番号: [10008 / 18519]
hangetsujohさん。

先日貴HPにリンクを張らせていただいたものです。

ご意見、反論、その他いただければ幸いです。

http://blog.livedoor.jp/tkknrak/

>韓国の領土です。

投稿者: world6sea 投稿日時: 2005/06/26 16:53 投稿番号: [10007 / 18519]
証拠があるならもっと詳しく(あればの話ですが…)!!
ウリナラ起源はうんざりですよ。確かに昔から馬や稲作などは韓国から日本に伝わったりしてますが、そのほとんどは韓国を経由してきただけで韓国起源ではないですよ。

それから俺は竹島(独島)ですが俺的にはどっちの領土だろうが関係ないけれど、韓国のように敗戦直後の弱った日本につけ込んで日本の統治下からはずされた竹島に軍を派遣したり、国旗たてたりして慨世事実として自分の領土と言い張る韓国人の根性が許せないのです。

どうしても韓国の領土と言いたいなら国際法廷で好きなだけほざいたほうが決着がはやくつくのでは…

re韓国の領土です。

投稿者: tmakuma 投稿日時: 2005/06/26 15:34 投稿番号: [10006 / 18519]
柔道が韓国起源である事の証拠を教えていただけませんか

私もかれこれ長い事柔道しておりました。
韓国起源だと走りませんでした

どうぞ無知な私にご教授願いたい

韓国の領土です。

投稿者: pe_yonzyunn 投稿日時: 2005/06/26 15:28 投稿番号: [10005 / 18519]
柔道、剣道、茶道、すべて韓国が起源です。
日本の漫画も韓国の原版の模造が氾濫していますね。

日本では知的所有権が疎かにされがちですね。

その上独島も日本の物とするつもりですか?
少しは恥を知ってください。

「外一島」について整理します。④

投稿者: VIVA_VIVA_21 投稿日時: 2005/06/26 11:59 投稿番号: [10004 / 18519]
また、このことは別の資料からも裏付けられます。1880年の「蔚陵島ニ邦人渡航禁止審査決議ノ件並ニ決裁」を見ると以下のような文面があります。
「北緯37度30分東経130度49分ノ洋中ニ位スル一ノ島嶼即日本称竹島或ハ松島朝鮮称蔚陵島ノ儀ハ往古孰レノ所領タル確定セスト雖モ我慶長年間宋対馬守ヨリ朝鮮政府ニ照会シ所属論ヲ提出シタレトモ論旨徹セス其後元禄6年ヨリ同12年ニ至ル迄7年間数回ノ往復ヲ経テ遂ニ両政府ニオイテ其所属論ヲ確定シタルコトハ別冊竹島版図所蔵考記載ノ通リナリ」
ここで着目したいのは「北緯37度30分東経130度49分ノ洋中ニ位スル一ノ島嶼即日本称竹島或ハ松島朝鮮称蔚陵島」という部分です。
1880年当時、鬱稜島に対して日本側の呼称に「竹島」「松島」という名称が混在していることをこの部分は証明しています。
また、同時期、日本海軍の砲艦・天城による測量が行われた結果、「鬱陵島一名松島」と記録されたことからも鬱稜島がこの時期、松島と呼ばれていたことがさらに追加して証明できました。
このことは日本の中央政府の地図認識がCまたはDの地図であることを証明しています。
他方、竹島に近い位置にある鳥取では地理に誤認が生じていないわけです。
政府と地方の両者が同名の島を別の島と考えてしまう混乱が生じるわけです。
よって、1877年の「竹島外一島」は、この時期の島名の混乱を見ると確かに「竹島」と「松島」を放棄したことになりそうですが、時代考証を加えると「竹島=アルゴノート島」、「松島=鬱稜島」ということになりそうです。(個人的には別の考察もありますが)
今までの説明でお分かりいただけると思いますがシーボルトの地図が当時の政府の認識になった点から考えると、よほどの曲解をしない限りはこれ以外の結論は出ないと思います。
他方、朝鮮側はほぼ同時期の1882年、鬱陵島検察使・李奎遠は鬱稜島へ渡り、その周辺も探索した結果、鬱稜島の最高峰へ登り周辺海域を見渡したが、島らしきものは何も見えなかったと記録しています。また、韓国側が干山国を征服した伝記を元に干山島こそ竹島という強弁をしていますが、そもそも竹島は人が住めない島であり、征服されるべき人がいないので干山国が竹島というのは妄言と言えそうです。さらに三国史記によれば于山は鬱陵島と記述されていますので、干山島は鬱稜島の別称であることが読み取れます。八道総図などを見ると同じ島か観音島または竹嶼である干山島と鬱稜島を半分程度の大きさで記載し、しかも干山島が朝鮮半島に近い位置に書かれています。これは空島という主権を放棄するくらいの領有意識の欠如とこれによる地理的理解の欠如に起因するものと思われます。
ここからは日本側が地図で島名に混乱を来していたのに対して、朝鮮側は現竹島の存在すら認識していなかったということが分かります。韓国側の領有意識の欠如を裏付けるように1898年に製作された「大韓與地図」にも大韓帝国にとって領有意識のない竹島は描かれていません、また1899年に大韓帝国学部編集局が製作した「大韓全図」にも、その認識は受け継がれて鬱稜島までは描かれても、領有意識のない竹島はまったく描かれませんでした。領有意識がないのも当たり前といえば当たり前です。前述のとおり、韓国側が竹島の存在をまったく知らなかったわけですから。
経営実績があり、一時期混乱するものの正確な地図も持ち、記録にもはっきりと竹島を記述してきた日本に対し、韓国側は、地図すらなく政府レベルで竹島の存在そのものを認識していなかったと言うことは確実に言えるわけです。しかも竹島の位置を知らないばかりか、竹島よりさらに韓国側にある鬱稜島ですら長期間に渡って空島になることを容認するなど明らかな主権放棄まで見られるため、領有の根拠が薄弱どころか皆無という有様です。
このことから歴史的・地理的には日本の領土という説はゆるがないと言えそうです。韓国としては残る国際法上の領有根拠を提示するほかないわけですが、こちらはサンフランシスコ講和条約でも明らかなように日本側の主張しか成り立たないので、歴史的にも地理的にも国際法上も日本が領有する根拠しかないのが竹島問題の現状です。必死になって韓国領であるという妄言を吐き続けざるを得ない立場の人には同情の念を禁じ得ません。私は日本人には珍しいくらいの親韓国派であり日韓友好を誰より強く志向する者ですが、領土問題は国家のアイデンティティに関わる問題ですので、韓国による海洋侵略である竹島の不法占拠をやめさせることは日韓友好より優先されると考えます。

「外一島」について整理します。③

投稿者: VIVA_VIVA_21 投稿日時: 2005/06/26 11:58 投稿番号: [10003 / 18519]
ここで鬱稜島という1つの島に2つの名前が付けられ、しかも片方の位置が間違っていたために2つの島という誤認を産むことになります。
両者の申告通りの位置に2つの島が別個に描かれた地図が登場します。それが・・・
  ③1811年   アロー・スミス(Arrow-Smith)の日本地域図:ダージュレー島の北西に実在しないアルゴノート島を大きく記載。
  A【鬱稜島=ダージュレー島、竹島=なし、混乱の元!(架空の島)=アルゴノート島】
そして、この架空の島を含んだ2島が描かれた地図に対して、竹島(鬱稜島)と松島(竹島)の位置関係、さらに鬱稜島が竹島より大きいことを知っていたシーボルトはダージュレー島を松島、アルゴノート島を竹島とした地図を出します。鬱稜島が松島になってしまっている点に注意です。
④1840年   シーボルト(Siebold)、地図を発刊
  B【鬱稜島=松島、竹島=なし、混乱の元!(架空の島)=竹島】
そして、この8年後にフランス船リアンクール号が現在の竹島を発見し、リアンクール岩と命名します。位置関係が③の錯誤が反映したアロー・スミスの地図(B)と違う位置にあるため、ダージュレー島、アルゴノート島とは別の島として「リアンクール」が登場します。
ここにアロー・スミスの地図にリアンクール岩が加わった地図が登場することになります。架空の島を含む3島が描かれた地図と言うことになります。
  ⑤1848年   フランス船リアンクール号、竹島を発見し「リアンクール岩」と命名。
  C【鬱稜島=ダージュレー島、竹島=リアンクール、混乱の元!(架空の島)=アルゴノート島】
この地図はアメリカ独立戦争の最大の支援者であり、アメリカにとっての旦那的役割を果たしていたフランスがアメリカにも供与します。当時の米国外交機関や洋上艦隊が使ったのがこの地図です。日本のアメリカ領事館、黒船で知られるペリー提督の使用したのもこの地図です。
さらに、その7年後にイギリスの船であるホーネット号がリアンクール岩を発見し。英名「ホーネット岩」と命名します。一部にリアンクール岩をホーネット岩と表記した地図も出てきますが、こちらはリアンクールがホーネットになっただけですので、これが直接の原因となる大きな問題は生じません。リアンクールはなまって「リャンコ」との呼ばれたりします。これを図にすると、
D【鬱稜島=松島、竹島=リアンクール、混乱の元!(架空の島)=竹島】
というわけです。
その後、まもなくしてロシア船パラーダ号がアルゴノート島が実在しない島であることを確認しますが、国際影響力の点で大英帝国の栄光を味わいはじめた頃の英国に比べロシアの影響力は小さく、地図も鬱稜島の位置関係を間違えた英国人が起こした錯誤から生まれた実在しないアルゴノート島が亡霊のようにしばらく地図に残ります。
その証拠に明治になっても、この錯誤を含む地図が用いられていました。1871年に兵部省陸軍参謀局に間諜隊が設置され、地図の収集をはじめますが、この際に収集した地図もアルゴノート島が記されたBの地図が収集されています。鬱稜島を松島として、その北西に架空の島アルゴノート島である竹島を描いたものです。
このことから、
  ⑥1858年   ロシア船パラーダ号(Pallada)、アルゴノート島が実在しないことを確認。
  ⑦1871年   架空の島であるアルゴノート島が残った地図を収集するなど混乱が続く。
という形になり、架空の島アルゴノート島が竹島と表示され、鬱稜島が松島と表示された状態が続いていることを示しています。(Bの地図)

「外一島」について整理します。②

投稿者: VIVA_VIVA_21 投稿日時: 2005/06/26 11:57 投稿番号: [10002 / 18519]
まあ、それはともかく、正確だった日本の地図になぜ混乱が生じたのか考えてみたいと思います。
「外一島」の部分もこれを読み解くことですっきりすると思います。
ここで注意すべきは島に近い位置にある鳥取では、中央政府の混乱とは別に正しい位置関係を認識していた点です。例えば前述の享保9年(1723年)に発行された鳥取藩差出図には、松島(現竹島)竹島(現鬱稜島)が正確な位置関係で描かれています。また、現在の竹島はほぼ同じ大きさの2つの島が描かれてます。つまり位置、形状ともに正確に理解していたと言うことです。
さて、混乱の元についてですが、これは日本海に進出するようになったヨーロッパの船が日本海に浮かぶ比較的大きな島である「鬱稜島」に「ダージュレー島」(フランスが命名)、「アルゴノート島」(イギリスが命名)という別々の呼び名を付けたことが混乱のきっかけであるのは間違いありません。しかもイギリスは位置を間違えて記録したのです。つまり、図示すると・・・
①1789年   フランス海軍ラペルーズ大佐、鬱稜島をダージュレー島と命名
  ②1797年   イギリスのブロートン、鬱稜島をアルゴノート島と命名(鬱稜島の北西に記録)
ラペルーズは鬱稜島と重なる位置にダージュレー島を記載しましたので良かったのですが、前述のようにブロートンはアルゴノート島の位置をダージュレー島の北西の緯度経度を記録してしまいます。
つまり、鬱稜島が現在の位置の他に北西方向にもう1つできてしまったわけです。
ちなみに、宗谷海峡はフランス(欧州)ではラペルーズ海峡と呼ばれますが、このラペルーズが由来です。フランス革命で散る運命にあるルイ16世の太平洋方面の探査指令で極東に来ていたのです。宗谷海峡を抜けて日本海に進出し、対馬海峡へ向かう途中に鬱稜島を発見したというわけです。
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