韓国の前方後円墳ー3−
投稿者: okinotorisima2004 投稿日時: 2005/06/27 14:01 投稿番号: [10025 / 18519]
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百済も高句麗とは拮抗した政治的軍事的な体制があったのでしょうが、広開土王時代以降の高句麗は、強大だったわけです。
しかし、軍事力だけでは国は維持できないことも事実なんですよね。
あれだけ強大な軍事力で隋・唐と戦い抜いた高句麗も、七世紀後半には滅びてしまいます。
さて百済なのですが、475年高句麗軍の前に敗北し、蓋鹵王は殺害されます。
これによって実質的には滅亡したといえるのですが、文周王が即位し、倭が百済を支援する形となります。
このときの倭王は雄略(=倭王武)です。百済は王都を熊津に移さざるを得なくなったのです。
そこが私たちが訪問した公州の地というわけです。実は百済国内はさらに混迷していて、477年文周王は兵官佐平の解仇に実権を奪われ殺害されてしまいます。
478年(雄略22年にあたる年)、倭王武は宋に使者を派遣します。
有名な「昔より祖禰(そでい)躬ら甲冑をつらぬき、山川を跋渉し、寧處に遑あらず。云々」の上表分を副えたものですが、高句麗を共通の敵と考えられますので、倭としては百済救援の要請を含んだ使者であったと思われます。
これは メッセージ 9999 (pokosi2000 さん)への返信です.
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