>Re:古代の任那支配と文化伝播
投稿者: pokosi2000 投稿日時: 2005/06/26 09:11 投稿番号: [9999 / 18519]
歴史学者ではありませんが。
まず高句麗の記録
高句麗広開土王碑
百殘・新羅舊是屬民、由来朝貢。
而倭、以辛卯年[391]來、渡毎破百殘、更□新羅、以爲臣民。
中国の記録
隋書
新羅、百濟、皆以倭爲大國、多珍物、並敬仰之、恒通使往來。
宋書
興死、弟武立。自稱使持節、都督、倭、百濟、新羅、任那、加羅、秦韓、慕韓七國諸軍事、安東大將軍、倭國王。
百済の記録
百済本紀より
397 倭国と国交を結び王子の腆支を人質とする (応神)
399 高句麗攻撃のための徴発により人々が新羅に逃げる
400 日食
402 倭国に使者を送り大珠を求む(大珠の意不明)
403 倭国の使者を特に手厚くねぎらう
405 腆支王即位テンシ(直支、映、枕流王の子)
人質となっていたとき枕流王が死去、弟を殺した末弟が王となったために乞うて
倭国の護衛により海中の島にて待機してのち王となる
新羅の記録
新羅本紀
402 実聖王即位(閼智の後裔とのみあり、身長7尺五寸とある)
倭国と国交を結び奈忽王の子の未斯欣ミシキンを人質に送る
百済が侵入
405 倭兵が侵入
407 倭人が東部と南部へ侵入 仁徳406-437
408 倭人が対馬に軍備を増強するを知って対抗策を案ずる
日本書紀の記述
『日本書紀』雄略紀より
廿三年夏四月、百済文斤王薨。天王、以昆支王五子中、第二末多王、幼年聡明、勅喚内裏。親撫頭面、誡勅慇懃、使王其国。仍賜兵器、并遣筑紫国軍士五百人、衛送於国。是為東城王。是歳、百済調賦、益於常例。筑紫安致臣・馬飼臣等、率船師以撃高麗。
(百済の文斤王がなくなり、天皇は昆支王の五人の子の中で、二番目の末多王が、幼くとも聡明なので、内裏へ呼んだ。親しく頭を撫でねんごろに戒めて、その国の王とし、武器を与え、筑紫国の兵五百人を遣わして国に送り届けた。これが東城王である。・・・・)
韓国の前方後円墳について
本固有の墓制と考えられている前方後円墳が韓国にも存在し、これが日本の前方後円墳の源流であると韓国の研究者が主張し、話題になったことがある。その後の調査でこの古墳は3基の古墳が連接したもので、前方後円墳でないことが分った。しかしその後、確実に前方後円墳であると考えられるものが11基も確認され、新たな議論を呼んでいるという。
これらの前方後円墳は、1つを除いて全羅南道にあり、5世紀後半から6世紀中葉までの限られた期間に造営されたという。また、日本固有ともいえる円筒埴輪(韓国では円筒型土器という)も出土している。現在では前方後円墳日本起源説が定説となっているようである。では、なぜある時期ある地域で前方後円墳が造営されたのだろうか。
http://www.nishida-s.com/main/categ2/korea-1/korea-1.htm
武寧王陵について
この主嶋(ニリムセマ)のニリムは古代朝鮮語で国主のことだそうです。
斯麻王のネーミングについて海中の主嶋で生まれたので、「斯麻」と名づけられたと言うわけです。
つまり武寧王は、倭で生まれたことになります。
この「主嶋」ですが、佐賀県玄海海中公園の加唐島を当てるのが、わが国では有力な説らしいですが、となると、なんとなく親近感が増してきます。
また、武寧王陵の木棺の材質が、日本にしかないコウヤマキ製だとする分析があるのですが、これにはどのようなわけがあるのでしょう。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/04.04.26kannkoku/4.27.4.HTM
まず高句麗の記録
高句麗広開土王碑
百殘・新羅舊是屬民、由来朝貢。
而倭、以辛卯年[391]來、渡毎破百殘、更□新羅、以爲臣民。
中国の記録
隋書
新羅、百濟、皆以倭爲大國、多珍物、並敬仰之、恒通使往來。
宋書
興死、弟武立。自稱使持節、都督、倭、百濟、新羅、任那、加羅、秦韓、慕韓七國諸軍事、安東大將軍、倭國王。
百済の記録
百済本紀より
397 倭国と国交を結び王子の腆支を人質とする (応神)
399 高句麗攻撃のための徴発により人々が新羅に逃げる
400 日食
402 倭国に使者を送り大珠を求む(大珠の意不明)
403 倭国の使者を特に手厚くねぎらう
405 腆支王即位テンシ(直支、映、枕流王の子)
人質となっていたとき枕流王が死去、弟を殺した末弟が王となったために乞うて
倭国の護衛により海中の島にて待機してのち王となる
新羅の記録
新羅本紀
402 実聖王即位(閼智の後裔とのみあり、身長7尺五寸とある)
倭国と国交を結び奈忽王の子の未斯欣ミシキンを人質に送る
百済が侵入
405 倭兵が侵入
407 倭人が東部と南部へ侵入 仁徳406-437
408 倭人が対馬に軍備を増強するを知って対抗策を案ずる
日本書紀の記述
『日本書紀』雄略紀より
廿三年夏四月、百済文斤王薨。天王、以昆支王五子中、第二末多王、幼年聡明、勅喚内裏。親撫頭面、誡勅慇懃、使王其国。仍賜兵器、并遣筑紫国軍士五百人、衛送於国。是為東城王。是歳、百済調賦、益於常例。筑紫安致臣・馬飼臣等、率船師以撃高麗。
(百済の文斤王がなくなり、天皇は昆支王の五人の子の中で、二番目の末多王が、幼くとも聡明なので、内裏へ呼んだ。親しく頭を撫でねんごろに戒めて、その国の王とし、武器を与え、筑紫国の兵五百人を遣わして国に送り届けた。これが東城王である。・・・・)
韓国の前方後円墳について
本固有の墓制と考えられている前方後円墳が韓国にも存在し、これが日本の前方後円墳の源流であると韓国の研究者が主張し、話題になったことがある。その後の調査でこの古墳は3基の古墳が連接したもので、前方後円墳でないことが分った。しかしその後、確実に前方後円墳であると考えられるものが11基も確認され、新たな議論を呼んでいるという。
これらの前方後円墳は、1つを除いて全羅南道にあり、5世紀後半から6世紀中葉までの限られた期間に造営されたという。また、日本固有ともいえる円筒埴輪(韓国では円筒型土器という)も出土している。現在では前方後円墳日本起源説が定説となっているようである。では、なぜある時期ある地域で前方後円墳が造営されたのだろうか。
http://www.nishida-s.com/main/categ2/korea-1/korea-1.htm
武寧王陵について
この主嶋(ニリムセマ)のニリムは古代朝鮮語で国主のことだそうです。
斯麻王のネーミングについて海中の主嶋で生まれたので、「斯麻」と名づけられたと言うわけです。
つまり武寧王は、倭で生まれたことになります。
この「主嶋」ですが、佐賀県玄海海中公園の加唐島を当てるのが、わが国では有力な説らしいですが、となると、なんとなく親近感が増してきます。
また、武寧王陵の木棺の材質が、日本にしかないコウヤマキ製だとする分析があるのですが、これにはどのようなわけがあるのでしょう。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/04.04.26kannkoku/4.27.4.HTM
これは メッセージ 9997 (lib1964_1982 さん)への返信です.
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