竹島

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竹島(鬱陵島)と潜商事件1

投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2005/06/26 21:59 投稿番号: [10013 / 18519]
   半月城です。

   te2222000さんは『隠州視聴合記』における竹島(鬱陵島)や松島(竹島=独島)が日本領でないという解釈は認めても、それらは異国というより「どこの国にも属さない土地」というわずかな可能性にこだわりたいのでしょうか。

   しかし前にも書きましたが、著者の斉藤豊仙はそれらの島が異国であると考えていたからこそ、『隠州視聴合記』に「村川氏、官より朱印を賜り、大舶を磯竹島へ致す」と記したのではないでしょうか(注1)。
   実際は、大舶が「朱印」をもっていないのにもかかわらず、斉藤が「朱印を賜り」と記録したのは、異国へ渡る朱印船を連想して書いたとみるのが妥当ではないでしょうか。

   またこれも #9769に書きましたが、朱印状ならぬ奉書を発行していた当の幕府も竹島(鬱陵島)を朝鮮領と考えていたことが『通航一覧』から明らかになっています。

   Re:9771, tinopureさん
>通航一覧が成立した1853年の認識では   「竹島(鬱陵島)を「朝鮮国属島」と明確に認識していた」でしょうねぇ。

   tinopureさんは、『通航一覧』の下記記事が対象としている1620年に、幕府は竹島(鬱陵島)を「朝鮮国属島」とは考えていなかったと思いこみたいのでしょうか?
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  ○貿易(潜商罪科、耶蘇禁制告諭、商賣金高并銅渡方)
元和六庚申年、宗對馬守義成、命によりて、竹島(朝鮮國屬島)に於て潜商のもの二人を捕へて京師に送る(その罪科いま所見なし)(注2)
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

   tinopureさんは本気で私に反論したいのなら、すこしは一次資料に目をとおしてからにしてください。
  『通航一覧』は、捕えられたのが対馬の商人・弥左衛門、仁右衛門であることを『対州編稔略』を引用して明らかにしました。朝鮮との交易を幕府から認められている対馬藩が、幕命で対馬の商人を「潜商」の罪で捕えたのでした。
   これは、弥左衛門親子のことが、かつて日朝関係修復のため来日した朝鮮通信使のほうから話題に出されただけに、弥左衛門のように正規のルートでない朝鮮貿易は幕府としても放っておけなかったとみられます。これはとりもなおさず、幕府および対馬藩が竹島(鬱陵島)を朝鮮領とみていたことを示すものです。

   この事件について内藤正中氏はこう解説しました。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   このことについて中村栄考は、李景稷の『李石門扶桑録』のなかに、関係記事があることを明らかにしている。李景稷は1617年(元和3)に、朝鮮王朝から徳川将軍家に対して、大阪平定を祝賀する使節として派遣された回答兼刷還使の従事官であり、『李石門扶桑録』とはその時の旅行記である。同書には伏見城で老中 土井利勝に語ったとされる次の記事がある。
  ・・・
   ここで「蟻竹島」とあるのは磯竹島の誤記である。秀吉の時代に願い出て磯竹島に渡って材木などを伐採して持ち帰り、秀吉に大変喜ばれ、磯竹弥左衛門と呼ばれていた。
   彼は島に渡ることで生計を立て 毎年貢租を納めていたが、秀吉の死後に弥左衛門もつづいて死去し、いまでは島に往来する者もいなくなったという。このことを聞いた家康が事実確認を求めたとする内容である。
   通信使の従事官として日本に来た李景稷は、伝聞情報として磯竹弥左衛門なる者が秀吉の時代に鬱陵島に渡って材木などを持ち帰っていたことを知っていたわけで、そのことは日本側の資料である『対州編稔略』や『通航一覧』に記されている内容にも対応している。
   通信使従事官から話題にされたからには幕府としても捨てておけず、対馬藩に命じて調査させ、鬱陵島にいた磯竹弥左衛門ら「潜商二人」を捕えて伏見に送り、幕府の処分を待ったのである(注3,P34)。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
(つづく)
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