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Re: 総督府の農業政策と教育1

投稿者: toapanlang 投稿日時: 2006/07/11 02:35 投稿番号: [3040 / 3669]
>>要するに普通学校は必ずしも上級学校の予備教育を為す所にあらず其の教育は直に以て修身処世に資する所あらしめんとするものなり云々』とある

>朝鮮人には上級学校へ行くことを目的とするような高度の教育は必要なし
といっている。

ようは、普通学校における初等教育の大切さを強調しているんでしょ。
いつものトリミング&局部拡大手法かよ。

Re: 総督府の農業政策と教育1

投稿者: honkytonk_2002_x 投稿日時: 2006/07/11 02:34 投稿番号: [3039 / 3669]
>>併合の結果富は内地へ持ち去られ   朝鮮人は一層まずしくなり、

↑コイツ、日本統治時代の朝鮮の資本主義さえ知らぬとは。(笑)

つうか、ボシンタンさんが、かつての投稿からの資料を何度引用しても、結局読もうともしないし、ウジウジ、ネチネチ、ストッカーしたいだけなんでしょう。

いくじなしだなあ。(苦笑)

そんなのばかりだから、日本に「お願いですから併合して下さい」なんて言うんだな。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

【噴水台】韓日合邦の魚

「網も張る前に魚が飛び込んできた」−−。

1910年8月、韓日合邦の前夜の秘史についてこのように語ったのは、当時の統監府外事局長、小松緑だった。心痛い証言だ。

それは決して文学的修辞ではなく、惨めな無能の末、合邦を決めた91年前の我々の姿だったことの確認であるからだ。明日、韓国は庚戌(キョンスル)国恥日(韓日合邦)を迎える。

この経路を振り返るに当たって、まずは「合邦の魚」の主役から見てみよう。本音を隠したままの日本側に対し、まず合邦を打診したのは朝鮮側だった。総理大臣の李完用(イ・ワンヨン)の側近である、新小説『血の涙』で知られる李人稙(イ・インジック) が密使として動いたのだ。

これを理由に、李完用は、いつまでたっても韓国の逆賊と言われ続けるのか。

1979年にひ孫の手で墓を廃棄されたことも、当然とされるべき人物なのか。しかし、真実は小学校の教科書のように簡単でない。その中にある「複雑な真実」を明らかにしてくれたのが、尹?漢(ユン・ドクハン)著『李完用評伝』(中心、1999)だ。同書は次のように問いかける。

「我々は、余りにもたやすく売国奴像を作り上げ、批判してきた。反面教師としての李完用研究も、全部で論文が4本出たに過ぎなかった。そのような中で我々は、李完用という人物に隠された自分らの姿から、わざと顔を背けてきた。」

まず、李完用は「生まれつきの親日派」と見なすことはできない。彼は、1882年文科に及第し、士大夫官僚として出発した。

開化期の初のランゲージ・スクールである育英(ユクヨン)公院で英語を学び、駐米代理公使(1888年)として2年間勤務した。また、尹致昊(ユン・チホ)・兪吉濬(ユ・キルジュン)と共に、英語に長けた3、4人のうちの一人だった彼は、当初親米派として知られていた。その後、駐日公使の発令(1894年)に対し、彼は母親の喪を理由に強く辞すこともあった。

「盲目的な親日派」だった宋秉?(ソン・ビョンジュン) とは違い、彼は死ぬまで日本語を話せなかった。彼に関する知られざる話はまだある。初代委員長(1896)として独立協会を主導した2つの顔の人物が彼だ。学界は沈黙しているが、独立門に掲げられた扁額も彼の手によるものだという説が有力だ。

実際、徐載弼(ソ・ジェピル)の「独立新聞」には、李完用への批判が1行たりともない。

我々がこれまで顔を背けてきた李完用の姿は、その他にも多い。だとすれば、乙巳(ウルサ)条約以後、広い視野の外交通から売国の親日派へと大転落した李完用をどのように解釈すればいいのだろう。

あたふたとして正当な判断をせぬまま、うやむやにされてしまった近代史の総体的象徴といえるのではないだろうか。このことを忘れてしまうから、最近の政界でも、あまりにもたやすく親日派のレッテルを貼られることになる。

そうした後、何とも簡単に忘れてしまう。それは醜態以外のなにものでもない。親日派とは、人に対する悪口でなく「我々」を映す恐ろしい鏡なのだ。

さらに「歴史の網」は、その姿を変え、我々の前に幾重にも張られているのではないか。複雑な心境だ。



趙佑石(チョ・ウャbク)文化部出版チーム長 <wowow@joongang.co.jp>


2001.08.27 21:58:55

http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=18651

Re: 総督府の農業政策と教育1

投稿者: bottomlineshock 投稿日時: 2006/07/11 02:25 投稿番号: [3038 / 3669]
>併合の結果富は内地へ持ち去られ   朝鮮人は一層まずしくなり、
>いくら学校を作っても貧しさから学校へいけない子供が多数存在した。

へーそうなんだ。
ま、あんたのご先祖様が国を失うから悪いんだよね。

Re: 総督府の農業政策と教育1

投稿者: whiterose20051 投稿日時: 2006/07/11 02:19 投稿番号: [3037 / 3669]
>要するに普通学校は必ずしも上級学校の予備教育を為す所にあらず其の教育は直に以て修身処世に資する所あらしめんとするものなり云々』とある

朝鮮人には上級学校へ行くことを目的とするような高度の教育は必要なし
といっている。

併合の結果富は内地へ持ち去られ   朝鮮人は一層まずしくなり、
いくら学校を作っても貧しさから学校へいけない子供が多数存在した。
ただ学校をつくったから朝鮮総督は教育に力を入れたとはいえない。

総督府の農業政策と教育1

投稿者: monju_jz 投稿日時: 2006/07/10 11:26 投稿番号: [3036 / 3669]
今回は大正5年の論文を紹介します。

京城日報 1916.9.10(大正5)
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農村繁栄の根本策

農業思想を鼓吹すると共に地主の奮起を促し併せて農業及農村に於ける初等教育の普及に努めざる可からず
中村彦
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欧洲戦争勃発以来世界に於ける各種貨物の需給系統撹乱せられ、各国何れも自作自給の必要を感ぜざる無きが中にも、糧食自給の如きは最重要問題となり、甞ては農業を犠牲とするも商工業を鼓舞奨励せざる可からずと絶叫した者をして糧食の独立は軍用品の独立と同様極めて必須なるを覚知せしめ、農業の盛衰は国家の消長に重大なる関係あること今更の如く世人の注意を喚起したのである此の時に当って農村の繁栄策を講じ其の実行に努むるは洵に時機を得たものであると思考する。

以下中間略
全文を読みたい人はこちらでどうぞ
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00489954&TYPE=HTML_FILE&POS=1&TOP_METAID=00489954

農業及初等教育

教育普及の結果は前述の如く農民をして都会に集中せしむる一大原因に数う可であるが、這は教育の方法宜しからざるに起因すること明白であるから教育に従事する者は常に思を此点に致し大に改善に努む可である
農村の純朴敦厚な美風を維持し、農民をして軽佻浮薄に流るることなく彼等が都市に集中するの弊を予防するには農村に於ける初等教育に最善の注意を払うことが肝要である。

朝鮮では此の点に就ては特別の注意を払い、明治四十四年八月発布の朝鮮教育令には第三条に『教育は時勢及び民度に適合することを期す可し』と明記され、
同年十一月同令施行に関する訓令中には普通学校は初等の普通教育を為す所にして其の本旨とする所は児童身体の発達に留意し国語を教え徳育を施し以て国民たるの性格を養成し、其生活に必須なる普通の智識技能を授くるに在り(中略)
□□、手工、裁縫及び手芸、農業初歩等に居たりては男女各其の賦性に応じ必須なる技能を得せしめ併せて労作の趣味と勤勉の習慣とを養わしむるを要し(中略)
其の教授をして生活の実際に裨益せしむることに勉むべし(中略)
要するに普通学校は必ずしも上級学校の予備教育を為す所にあらず其の教育は直に以て修身処世に資する所あらしめんとするものなり云々』とある

総督府の教育政策6(完)

投稿者: monju_jz 投稿日時: 2006/07/06 12:01 投稿番号: [3035 / 3669]
乙種実業学校

現に設置する実業補習学校中には殆ど補習教育の趣旨と異り其の修業年限、学科課程等純然たる実業学校に類するもの少なからず斯の如きは寧ろ乙種程度の実業学校として取扱うを便とするを以て之に適□なる規定を新に設くるか又は現行実業学校規程中適当なる改正を加え以て其の発達を奨励すること


青年訓練所

一、大正十五年四月勅令第七〇号青年訓練所令は朝鮮にも之を実施するの趣旨を以て単□勅令の公布を其の筋に請議すること

一、右勅令公布せらるるも之が実施は当分の内地方の任意たらしむること


青年修養団体

一、本修養団体は普通学校、簡易国民学校、指定書堂等の卒業者等を以て其の団体員と為し国民精神を涵養し勤労を好愛するの習性を長し兼ねて郷党輯睦の微風を馴致するを以て目的とすること

一、前項の外本団体の組織、事業設置廃止等に関する事項は適宜府令を以て之を規定すること

一、本団体の設置普及に就ても前掲普通学校一面一校主義の完成年次と対応し今後六ケ年を以て各面に一団体を組織せしむることとし之に対し年々各団体に百円、年額総計四万二千円(初年度)乃至二十五万円(完成年度)を国費より補助するの途を講じ万一之を容ささるときは別途国庫より之を支出する様中央政府に請議すること


視学増員新設

教育は助長行政中最も顕著なるものなるや言を俟たず従て之が指導者の充実は最も重要の事たり殊に半島の如く教育の創業時代に在りては之に対する施設を更張するは頗る喫緊の要務たるを以て予算上之に要する費用の支出を講じ出来得べくむは左の通り視学制度を更張すること

(一)本府視学官は二道に一人の割合を以て増員すること
(二)各道に専任視学官一人を増員し尚道視学一人を増員すること
(三)各道郡島等に各一人の視学を新設すること

半島の教育振興に関しては学校教育は勿論社会教育に対しても施設すべき事業其の甚だ尠からざるを見るも先以て前各項の事業の実現を期することとし尚之に関し制度改正等に関しては総督府に於て此際朝鮮教育審議機関を設け鮮内の適材に其の委員を委嘱し順次必要なる事項を総督より諮問する見込なり


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データ作成:2003.9 神戸大学附属図書館

総督府の教育政策5

投稿者: monju_jz 投稿日時: 2006/07/06 11:58 投稿番号: [3034 / 3669]
師範学校改善

一、初等教育を振興せんとせば先以て優良なる教師の養成を急務とす此の意味に於て大正十一年朝鮮教育令の改正に際しては此の点に付き特に意を用いたるものありと雖も之が実施の結果と時勢の進運とに鑑みるときは尚改善を要すべきもの少からず依て左の要項に依り現行朝鮮教育令中師範教育に関する規定を改むること

(一)師範学校の修業年限を七年とし普通科五年高等科二年とす女子に在りては修業年限を六年とし普通科に於て一年を短縮すること

(二)演習科を高等科と改むること

(三)師範学校には特別の事情ある場合に於て普通科又は高等科のみを置くことを得しむること

(四)特科の制は之を廃止すること

(五)師範学校に講習科又は研究科を置くことを得しむること但し研究科は普通科又は高等科のみを置く師範学校には之を置くことを得しめざること

(六)師範学校は之を官立とすること

(七)其の他附属学校、講習科等に関しても現行制度を適宜改むること

一、前項の改正に依り現行師範学校規程中にも適当の改正を加うること

一、前各項の改正に依る施設は普通学校一面一校主義の実現に関する年次と対応して六ケ年継続事業とし(臨時費年々三十万円は五ケ年継続事業)予算の範囲に於て事実上国費より之を支弁するの途を施し経常費増額(初年度乃至三年度は増額を要せず)九万円(四年度及五年度)は国費より支弁するの途を講じ万一之を容さざるときは別に国庫より支出する様中央政府に請議すること

総督府の教育政策4

投稿者: monju_jz 投稿日時: 2006/07/05 09:47 投稿番号: [3033 / 3669]
簡易国民学校

一、以上普通学校の一面一校主義を完成するものとするも尚且六割以上の児童は当分不就学の実情を脱却する能わざるを以て之が救済策として此の際暫定的に首題の如き学校設置の途を開きて其の設立を奨励し普通学校に入学すること能わざる者に対し出来得る限り簡易の方法に依り甚しく入学者の生業を妨げずして尚且つ国民たるの資質を向上し公民的訓練並職業意識の啓発及勤労好愛の習性等の教養に努むること

一、簡易国民学校の年限は二年を下らざるものとすること

一、簡易国民学校の教科目は修身国語、朝鮮語、算術、実業(男子)裁縫及手芸、園芸、(以上女子)体操(男子には主として教練を課す)とし毎週十二時、一日二時間を限度として地方の状況に依り適宜授業の終始時刻を定めしむること

一、体操課に於いては適宜唱歌を授くるを得しむることとし尚別に漢文を教うるも差支なからしむること

一、簡易国民学校の授業は土地の情況に依り季節制とするも差支なからしむること

一、簡易国民学校は之を普通学校に併置するを常例とすること

一、農会、産業組合等に対し私立簡易国民学校の設立を奨励すること

一、面の状況に依り簡易国民学校の分教場を設くることを得しむること

一、簡易国民学校の学校長及職員は併置普通学校の校長及職員に之を兼ねしむるを常例とするも職員に就ては其他の適任者に委嘱するも差支なからしむること

一、公立簡易国民学校の学校長及職員には手当を支給すること

一、書堂等の発達改善を期するの趣旨に依り簡易国民学校の教科課程に準する教科課程を授くる書堂及各種学校等は地方長官の認可を受け指定簡易国民学校と称するを得しむること

一、簡易国民学校及指定書堂、各種学校の修了者又は卒業者に対しては試験の上普通学校の相当学年又は実業補習学校の前期に編入するを得しむるの途を開くこと

一、公立簡易国民学校の生徒よりは費用を徴収せざること但し地方長官の認可を受けたるときは此の限にあらざること

一、前各項の外各教科目の課程、教授要旨、設置廃止等の手続其の他営造物としての必要なる規定等は府令中に之を規定すること

一、簡易国民学校の普及は前掲普通学校の一面一校主義の完成年次と対応して今後六ケ年の継続事業とし之に要する臨時費毎年二万一千円は前掲普通学校の例に準し道地方費補助金中より之に振向けしめ尚経常費年々六万八千円(初年度)乃至八十一万円(完成年度)は之を国費より補助することとするも万一本府予算上之を容ささるときは国庫より別に支出する様中央政府に請議すること

備考
1   補助費中臨時部に関しては併置の関係上多くの費用を要せざるべきを以て一学級五十円として計算したるものなり

2   経常費に関しては一学級一週三円六十銭、一年四十五週其の手当総額百六十五円として計算したるものなり

3   本計画に依る簡易国民学校にして完成するに於ては更に約三十五万人に対し教育の普及を見るに至るべし

総督府の教育政策3

投稿者: monju_jz 投稿日時: 2006/07/03 11:03 投稿番号: [3032 / 3669]
普通学校普及

一、普通学校は全鮮各面毎に各一校を設置せしむることとし尚其の修業年限は現制の六ケ年を理想として漸次之が実現を期することとするも目下の実情に徴し従来四ケ年の学校は特別の事情なき限り其の儘とし尚今後本計画に依りて増設するものに就ては取り敢えず其の修業年限を四ケ年とするを常例とすること

一、前項に依り新設する学校数は全鮮の面の総数二千五百三中普通学校の未だ設置なき面千百五十に対し各一校二学級以上の学校を新設するものとして計算し之に要する臨時費中年々約七十五万円は道地方費の補助費中より振向けしむることとし経常費十六万円(初年度)乃至百八十万円(完成年度)は国費より補助の途を講ずるも万一本府財政上の都合にして之を容さざる場合に於ては内地義務教育費国庫負担の例に準じ別に国庫より支出する様中央政府に請義すること

備考
1   本理事費の計算は一学級二十五坪(廊下を加う)一校二学級とし更に教員室用具室使丁室便所等に要する坪数二十五坪計一校七十五坪と見積り一坪の建設費凡八十円中五十円を補助するものとしたるなり

2   経常費に関しては現在普通学校の一学級平均経常費一千三百円なるを以て今一学級七十人の児童を収容するものとし之に対し児童一人授業料月額六十銭(全鮮の平均額)を徴収するものとせば其の年額一人六円六十銭(十一ケ月分)にして学級の年額四百六十二円となる之を前掲一学級経常費千三百円より控除すれば其の残額即学校費の負担と看作すべき一学級の経常費は八百三十八円となるも補助額は之に対し八百円を交付するものとして計算したるものなり

一、小学校規程及普通学校規程中改正を加え実業に関する科目は必設必修科目とし之に依りて今後一層勤労主義を徹底せしめんとするの本旨を明にし尚之と共に教則、課程表等に必要なる改正を施し更に入学者の年齢の制限を青年期以前の年齢即少年期に至る迄の年齢範囲に於いて現在より多少緩和すること

備考
前各項の計算に依れば現在の公立普通学校児童に対し更に十六万余人を増加することとなる見込なり

総督府の教育政策2

投稿者: monju_jz 投稿日時: 2006/07/03 10:36 投稿番号: [3031 / 3669]
一般方針

一、初等教育の根本要義に就ては従来内地等に於けるが如き諸書教育の弊を排除し朝鮮の実情に鑑みて国家社会人として必要なる資質を向上し勤労好愛の精神を振興せしめ興業治産の志向を教養するに努むること

一、教育の実際施設に就ては機会均等の主義に依り此際少数者に対する教育の向上を図るよりも寧ろ多数民衆に対する教育の普及を図ることとし
兎も角一面一校主義の実現を期し之に依りて各面に将来普通学校発展の中核となるべき設備を植付け尚之を基礎として社会教育施設の進展を図ること

一、初等教育及社会教育の施設は大体に於て其の費用を地方団体にも之を負担せしむるの主義に依り教育に対する民衆の義務心を喚起せざるべからざるは言を俟たざる所なるも現下半島の民度に鑑み本計画に依り新に各面に教育機関の中核を植付くる迄の費用は当分の内補助政策を主とすることとし将来民度の増進と共に漸次地方の負担に依りて教育施設の維持発展を図るの方針に進むること

右方針に依り教育の普及発達に関する計画の大要左の如し

総督府の教育政策1

投稿者: monju_jz 投稿日時: 2006/07/03 10:33 投稿番号: [3030 / 3669]
総督府が朝鮮の教育に関してどういう理念を持っていたかを考えるには、総督府自身が発表した論文を見てみる必要があると思われます。
次に紹介する論文は昭和3年京城日報に載ったものです。文章が硬く数字が多く出てきますので難解かもしれませんが、特に興味のある方には最後まで読んでいただければ幸いです。

http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00474201&TYPE=HTML_FILE&POS=1&TOP_METAID=00474201

京城日報 1928.4.8(昭和3)
鮮内教育普及改善の第一次計画成る
初等実業教育の普及を図り一面社会教育の徹底を期す
七日総督府で発表

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総督府にては池上政務総監著任以来特に朝鮮内の教育に関する根本対策樹立につき留意し特に福士学務課長著任以来これが立案を急ぎ先般本府において開催されたる各道学務課長会議等においても其片鱗をうかがわれ大いに期待されつつあった次第であったがいよいよ今回第一次計画としての成案を得七日左の如く発表さるるに至った、これ実に鮮内教育界においては学制施行以来の画期的大改革案であって最近漸く沈滞の気を見受けられつつあった鮮内教育界はこれによりて新鮮なる光明の前に立つこととなったのである

教育普及及振興第一次計画

朝鮮総督府に於ては大正十一年の学制改革に依り下は初等教育より上は大学教育に至る迄各種の学校教育に亘り其の体系を整えたりと雖も之に対し
国民就学の真相は全鮮の面数二千五百三中普通学校を設置するもの千三百五十三面に過ぎずして
其の学校数は千三百九十五校、全鮮の推定学齢児童数凡二百六十万人中就学しつつある者僅に四十五万人其の割合全児童の一割九分に止り
之に私立普通学校の児童数一万九千人書堂に在る児童数二十万人私設各種学校の児童数五万五千人を加うるも尚且全児童数の凡三割に過ぎずして大多数の少年は今尚何等の教育を受けざるの状態に在り
半島永遠の幸福を上進せしむる上に頗る遺憾なりとし之が対応策として左の諸項の如き初等教育並に社会教育者及振興の方法を立案中に属す

白薔薇君

投稿者: monju_jz 投稿日時: 2006/06/29 14:44 投稿番号: [3029 / 3669]
何でこの投稿を鹿十するの?

http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835396&tid=a2a1a53a5ja5a24xoa2bdqc0ra2a1&sid=1835396&mid=3016

この時はっきり言わなかったけど、君って卑劣だよね。
直接相手に対してレスしない。権威ある人の文章を貼り付けて否定のイメージを与える。
しかも途中までしか貼らないので作者の意図と違う解釈をさせる。

>寺子屋の如きは教育といふ程のものでなかった。

>その歴史もせいぜい200年に過ぎなかった。

これだけだと柳田國男が寺子屋を否定しているようにしか読めない。
ところが最後の一文

>教育は本来もっと生活に即したものだった。

この後当然生活に即した教育の話があるよね。それを何故省いたの?
説明してくれないか。

Re:巡査の居る風景

投稿者: monju_jz 投稿日時: 2006/06/29 13:33 投稿番号: [3028 / 3669]
>全文紹介、ありがとうございました。

恐縮です。ですが白薔薇氏とイルクジ氏の投稿の間に埋没してしまったようで。
そこで「巡査の居る風景」も入っているThe Library on the Webのリンクを貼っておきます。現在36個の作品がアップされています。

http://www.wao.or.jp/library/03honkan.htm

>日帝時代の真実は、戦後の糾弾派が決まったシナリオにそってまとめた論文なんかじゃなくて、こういう小説を通してこそ仄見えるというのが私の持論です。

私は併合時の朝鮮を題材にした小説を他に知りませんので、この小説に限りますが同感です。
この小説は題名に「風景」、副題に「スケッチ」という言葉が入っているように、当時の朝鮮の風景をそのままスケッチした一幅の画を見るような短編だと思います。

森田芳夫先生のこと

投稿者: bosintang 投稿日時: 2006/06/29 07:48 投稿番号: [3027 / 3669]
見つけました。

  黒田勝弘『ソウル烈々』(1993,徳間書店)でした。以下に全文を引用します。


森田芳夫先生のこと
  植民地・朝鮮からの日本人引き揚げの実態を記録した名著『朝鮮終戦の記録』(巌南堂刊)の著者である故森田芳夫氏の夫人,マサノさん(75)が最近,夫の遺影と位牌を胸にソウルを訪れた。昨年8月3日,82歳で亡くなった夫に「第二の故郷だった韓国の春を見せてあげよう」との思いからという。
  故森田先生は戦前の朝鮮で育ち,京城帝国大学史学科で朝鮮史を学び,総督府の役人をしているときに終戦を迎えた。翌年,日本に引き揚げたが,「史家としての自分に課せられた使命」と決意し,手弁当で引き揚げ者からの聞き書きと資料集めに没頭した。
  その後,外務省職員として再び韓国の地を訪れ,75年の退職後はソウルの誠信女子大で教鞭をとった。人生の半分以上を韓国の地で過ごした人だった。
  外務省時代には14年にわたる日韓国交正常化交渉の記録に取り組んだ。全30巻の門外不出の記録集が完成したのが1972年。
  これを基にさらに日韓交渉略史の原稿を昨年3月,書き上げたあと,一字一句もゆるがせにできないというその性格そのまま,最後まで補筆や校正に丹精の日々だったという。
  やはり朝鮮育ちのマサノさんは原稿の清書や後述筆記を受け持つなど,韓国・朝鮮に生涯を打ち込んだ夫を終始,陰で支えた。マサノさんはソウル滞在中,夫がこよなく愛したという南漢山城や東九陵などソウル近郊の史跡を,遺影を胸に歩いた。夫の戒名は「無窮花院誠信日芳居士」。

白薔薇さん,何かコメントをどうぞ。

Re: 国家自負心検査で米国1位、韓国33位

投稿者: imp_mania_jk 投稿日時: 2006/06/28 22:31 投稿番号: [3026 / 3669]
奥ゆかしさを理解出来ないとは・・・
日本人はね、どこかの国と違って、めったな事で自慢しないんだよ。

Re: 国家自負心検査で米国1位、韓国33位

投稿者: bottomlineshock 投稿日時: 2006/06/28 22:27 投稿番号: [3025 / 3669]
>自国に自負心の無い者は移民しろ。w

お前は韓国に対して自負心も誇りもなかったから、
豪州に不法入国したわけだね♪(^-^)b

韓国から逃げていながら韓国自慢をするって本当に哀れ(嘲笑)

Re:巡査の居る風景

投稿者: bosintang 投稿日時: 2006/06/28 22:25 投稿番号: [3024 / 3669]
全文紹介、ありがとうございました。

私は黒川創編『〈外地〉の日本語文学選3 朝鮮』(1996,新宿書房)で読みました。

http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&board=1835396&tid=a2a1a53a5ja5a24xoa2bdqc0ra2a1&sid=1835396&action=m&mid=1323

日帝時代の真実は、戦後の糾弾派が決まったシナリオにそってまとめた論文なんかじゃなくて、こういう小説を通してこそ仄見えるというのが私の持論です。

国家自負心検査で米国1位、韓国33位

投稿者: ilkuji_99 投稿日時: 2006/06/28 14:06 投稿番号: [3023 / 3669]
豪州は5位で日本は18位か?
自国に自負心の無い者は移民しろ。w

http://www.hani.co.kr/arti/international/international_general/136518.html#outbanner

祝、再生

投稿者: bosintang 投稿日時: 2006/06/27 19:57 投稿番号: [3022 / 3669]
>これで再生は終わりにだ。

あとはこのトピが落ちないよう気をつけましょう。

復古の風が吹いてるにか

投稿者: ilkuji_99 投稿日時: 2006/06/27 14:57 投稿番号: [3021 / 3669]
このトピにエッセイを掲載しつつ、はや4年。
日帝時代の統計が出てくると話題が重くなり
頭が痛くなるにだね。鍋犬を食べて脳みそを
増やさないとついてゆけなさそう。
だから鍋犬さんは鍋犬を食うにか。

Re: 近代日本の教育と朝鮮 11

投稿者: whiterose20051 投稿日時: 2006/06/27 04:56 投稿番号: [3020 / 3669]
E   1938〜1945(解放)

この時期は、「陸軍特別志願兵制度」と対にして「第三次朝鮮教育令」がだされるなど
、日本国家が朝鮮人をも一臣民として、一兵卒として、使い捨てようとした戦時体制期
である。

日本人教員の確保は困難であり、かつその中で朝鮮に渡ってきた教員は、支配者と同じく
朝鮮を搾取の対象と見ていた。

「第三時朝鮮教育令」は、学校名称を小学校、中学校、高等女学校に統一し
、これによって「教授上の要旨、教科科目、教科課程に関しては朝鮮語以外のものは
内鮮人全く同一と」なったと主張されている。

しかしその制度として、変わったものは名称だけで、何ら新たな施策というものは
なかった。

四年制の「小学校」も、簡易学校も存在している。

日朝生徒の「別学」、日本人・朝鮮人別の学校の設立主体、経費負担においても変わる
ことはなかった。

ここでは制度よりイデオロギーの転換に、より大きな意味があろう。

この「教育」改革は、「陸軍特別志願兵制度」と対にしてだされており
、この志願兵制度は朝鮮総督府「施政三十年史」などでは、
「教育」の項に収められている。

この「教育」の性格をもっともよく示しているのは、「教育令」の公布とともに
だされた、総督南次郎の論告である。

その中では「国体明徴、内鮮一体、忍苦鍛錬」が「三大教育方針」として
強調されている。

この「教育方針」と加えて「銃後の守り」としての女子の姿の強調などが、各教科
教授内容、「生徒教養の要旨」などに現れている。

しかし、この制度を担う教員の充足は、招集による日本人教員の撃滅等により、
困難を極めた。

簡易に教員を養成する「特設講習科」の設置、「教員試験」の施行、日本内よりの教員の補充などがいわれ
「帝国教育」に「朝鮮に於ける小学校教員の募集」という記事が出たりしている(1940年11月)。

この時期、日本国内の教員にとって、朝鮮はせいぜい「内地」に対応する「外地」にしかすぎず、
個人的な意味でかせげるところという認識しかなかったのではないだろうか。

文部省当局者も、朝鮮、台湾その他の教員が、「真に国家の必要とする人物が、国家目的達成上重点的に
配置されていない」と問題視し、選考の方法を改めたりしている。

近代日本の教育と朝鮮 ⑩

投稿者: whiterose20051 投稿日時: 2006/06/27 04:00 投稿番号: [3019 / 3669]
D   1931〜1938(第三次朝鮮教育令)

この時期は大陸進攻の一大処点という、当時の日本にとって朝鮮がもっていた意味
が、いわゆる「満州事変」を契機に強められ、産業、経済の植民地的編成が強められた
時期である。
「教育」の分野では、簡易学校に象徴されるように、浸透させることが中心課題で
あった。

そのため、師範学校が増設され、さまざまな形で日本人教員も求められている。

しかし日中戦争に伴い、日本人教員の確保は困難となり、朝鮮人教員の比率が
増加してゆく。

1934年開設の簡易学校は、わずか二年間で日本語と農業を教え込もうというもので、
まさにそれまで日本が朝鮮の「教育」に対し求めていたものを、直裁に表現したもの
といえよう。

農業の強調は、普通学校においても一大眼目であった。

1932年からの「農村振興運動」の中では、普通学校における「卒業生指導」に、
運動の担い手を作る役割が期待されていた。

このような中で、教員養成制度自体は、1933年に、日本国内の師範学校第二部が
二年となった(1931年)ことに対応して、演習科が二年になったこと以外、
大きな変動はない。

しかし、その政策としては、その「教育」浸透政策に対応して師範学校の増設が
企図され、また同時に、日本国内の「甲種農業学校卒業生」を農村初等学校教員
として用いようとする意図の現れた時期であった。

特に、簡易学校は一校一教員であったので、日本人教員を多く配置したいとの
総督府の意思があった。

そのことは簡易学校の形態、位置にも現れている。

朝鮮における日本人小学校の場合には、いかに小規模であっても分校制はとられていない。

それはその小規模校には一人前の教員がいるはずであり、本校長の指導により利益を受ける
者では困る。

また本校長にとっても出張し監督っすることは不利益であるとの理由であった。

これに対し、「本教育施設は普通学校その他の教育機関とは全然その体系を異にする」(1934年   政務総監通牒)
という簡易学校は、既設公立普通学校に附設され、附設学校長の指導の下に置かれていた。

すなわち日本人校長によって、朝鮮人教員を統制しようとするものであった。

この時期、日中戦争に伴い日本人教員の確保は困難であり、また、そもそも簡易学校は普通学校の建設困難な
地に建てられているというその性格からして、日本人教員を充当していくことは困難であった。

大野謙一「簡易学校の増設方針」には、「教員の供給が尽き」440校の増設計画が220校しかならず、
「教員は将来内鮮人半々の割りで分布せしめたいが現在の所三分の二が朝鮮人である」と書かれている。

実際には、この記事がかかれた1935年の5月末時点の職員数は、日本人109人に対して朝鮮人514人である。

日本人職員数は1938年以降160人台に留まり、以後の学校数の増加は、朝鮮人職員数の伸びによることになる。

1941年時点では、日本人169人に対して朝鮮人1613人という比率である。

異民族支配という植民地制度は、その内部に大きな矛盾をはらんだともいえる。

総督府は、彼ら朝鮮人教員を力によって押さえ込めるとかんがえたのであろうか。

1934年6月の今井田政務総監の道学務課長及び視学官会同における訓示に、次の一節がある。

「昨秋来数道に亘り初等学校教員又は書堂教師にして共産主義に感溺し、学校の内外に於いて
不穏なる運動を試み、教権の神聖を汚すが如き者を相当多数でましたことは、誠に遺憾とする所で
あります」

シドニーブルース-18-この女の生き方-II

投稿者: ilkuji_99 投稿日時: 2006/06/26 17:16 投稿番号: [3018 / 3669]
これで再生は終わりにだ。
オリンさん、鍋犬さん、万歳。w

http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835396&tid=a2a1a53a5ja5a24xoa2bdqc0ra2a1&sid=1835396&mid=1965

『コリア、再び生存の岐路に立つ』

投稿者: hjnioui 投稿日時: 2006/06/23 21:50 投稿番号: [3017 / 3669]
出版社の方へお願い

  盧武鉉大統領に関する書籍として、以下の書籍が日本国内で比較的容易に読めます。

韓国の希望盧武鉉の夢 盧   武鉉/編著 現代書館 2003.1
盧武鉉大統領で韓国は大丈夫か   北朝鮮、アメリカ、日本
    そして中国、ロシアとの関係はどうなる 佐桑   徹/著
    日新報道 2003.2
私は韓国を変える 盧   武鉉/著 朝日新聞社 2003.3

しかし、大統領就任当時の初々しさは影をしそめ、勇ましい発言が目立つこの頃は、就任当時の出版物は役に立ちません。


  こんな折りも折り、ここ数日の盧大統領の発言にいたく心を動かされた私は、大統領の「わたしを知りたければ、この本を読め」という殺し文句に抗えず、出版社の方、特に朝日新聞社、明石書店の方に『コリア、再び生存の岐路に立つ』を是非日本国内で翻訳出版して下さるよう、お願いします。


盧武鉉大統領が分かる本の中身とは
盧大統領発言のネタ本分析(上)
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2006/06/23/20060623000026.html

ネタ本に忠実な盧大統領の「バランサー」論
盧大統領発言のネタ本分析(下)
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2006/06/23/20060623000027.html

Re: 柳田國男

投稿者: monju_jz 投稿日時: 2006/06/21 13:58 投稿番号: [3016 / 3669]
この柳田國男の文章の最後だけど

>教育は本来もっと生活に即したものだった。

この後に本当に言いたかったことがあるんじゃない?
地域共同体に根ざした教育の話(例えば若衆宿)とか徒弟制度の話とか。
日本古来の伝統や技術が残ったのはこういった教育のお陰であり寺子屋の教育より重要だったとか。
そうだとすると文章を途中で切って、全然別の意味に解釈させるという悪質な行為になる。
まあこれは想像なので、この続きをコピペしてくれるとうれしいが。

森田芳夫氏のこと(続き)

投稿者: bosintang 投稿日時: 2006/06/20 22:11 投稿番号: [3015 / 3669]
  崔鉉培(1894〜1970)は,広島高等師範学校,京都帝国大学哲学科卒業,同大学院で教育学専攻後,1926年に延禧専門学校教授になる。
  1938年7月,民族独立運動に携わった理由で,辞職を強要された。1941年に朝鮮語研究書『正音学』を著述。朝鮮語学会幹部,同会の『朝鮮語辞典』編纂が民族独立運動とされて,42年10月に逮捕され,咸興刑務所に収容された。その後,刑期4年を求刑され,上告中に終戦になり釈放された。ただちにソウルに帰還して解放後の新しい国語教育に挺身,その年9月から3年間,米軍政庁文教部編修課長,同局長の任にあった。のちハングル学会理事長。韓国政府文教部編修局長。延禧大学校副総長。
  1945年9月,崔鉉培がその次男崔哲海に語った次の言葉が伝えられている(崔哲海は,正音文化社社長,1981年7月22日ソウルにて筆者聴取)。
「長い日本統治は終わった。現在,民族の政治的活動が活発であるが,一番大事なことは,国民の言葉と魂を教える国語,国史の教科書を作ることである。国語の教科書は朝鮮語学会で,国史の教科書は震檀学会で編纂しよう」


  朴泳孝が1888年に国王への建白書の中に記した上述の言葉は,その6年後,甲午の改革で実施に移された。しかし,その16年後に,韓国は日本に併合され,日本語が「国語」に,日本歴史が「国史」とされた。1945年に解放を迎えて,崔鉉培の言葉どおり新しい国語・国史教育が出発した。
  朝鮮語学会の手で『ハングル初歩』『初等国語教本』をはじめ,ハングル横書の新しい国語教科書が作られた。一方,日本官憲に押収されていた『朝鮮語辞典』の原稿は,解放後,その補正を行い『クン・サジョン』6巻として刊行された。その後,ハングル専用を主軸とする国字政策に対する漢字混用論者の批判はきびしいが,ハングル専用,漢字混用ともに民族みずからの言葉の上での主張である。
  震檀学会は,1934年に発会した朝鮮人学者の集団である。震檀学会編纂の『国史教本』が46年5月,軍政庁文教部で刊行され,解放後の国史教育の基調となった。
  解放後28年,韓国の国語国史教育を受けた子どもらが成長して新世代を形成する段階になって,1973年に高等学校の第二外国語の選択科目(それまでドイツ・フランス・スペイン・中国語に限られていた)に日本語が加えられた。

(引用終わり)

文中、(崔哲海は,正音文化社社長,1981年7月22日ソウルにて筆者聴取)を見ても分かるように、氏の著作は常に情報源が明示されており、筆致も感情に流れされることなく、信頼性はきわめて高いと思います。

森田芳夫氏のこと

投稿者: bosintang 投稿日時: 2006/06/20 21:56 投稿番号: [3014 / 3669]
1987年刊行の大著『韓国における国語・国史教育』
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&board=1835396&tid=a2a1a53a5ja5a24xoa2bdqc0ra2a1&sid=1835396&action=m&mid=138
の著者略歴によれば,

森田芳夫
1910年生まれ。京城帝国大学法文学部史学科卒業。大韓民国日本国大使館参事官,誠信女子大(ソウル)教授を経て,現在,九州大学文学部講師。文学博士。

とあります。

なお、氏の代表作は『朝鮮終戦の記録』1964年巌南堂1038ページ

90年に亡くなったあと,たぶん産経の黒田さんが書いた追悼の文章の中で,戦前,総督府に勤務していたというような内容があったと記憶しますが,その本を見つけられませんでした。

同書から「はじめに」をご紹介します。

著者の朝鮮問題に対する真摯な取り組みと、誠実さがうかがわれます。

はじめに
みずからの言葉,みずからの歴史
−韓国における「開化」と「解放」−

朴泳孝(1861〜1939)は,波瀾にみちた旧韓末の開化期に活躍した人物である。哲宗王の女婿。1882年,壬午の軍乱後に,日本・朝鮮間で結ばれた済物浦条約履行のため,21歳の若さで修信大使として日本に赴いた。その時,はじめて太極旗を朝鮮の国旗として往来する船に掲げたのは有名な話である。かれは,同行した金玉均らとともに,その後の開化政策遂行の中心的役割をなした。
  1884年,甲申政変で,日本の力を頼りにしてクーデターを起こしたが,成功せずして日本で亡命生活10年を送った。かれが日本亡命中に,88年2月24日付で,国王あてにしたためた建白書の写しが『日本外交文書』第21巻に収められている。それは,当時の朝鮮のエリート官僚として,洗練された漢文で書いた長文の論稿であり,視野も広く,祖国を憂うる至情にみち,世界の動きを論じて改革の諸施策を記しているが,その教育に関する事項の中に,次の一節がある。
「一,まず人民に教うるに,国史および国語国文の事をもつてす。本国の歴史,文章を教えずして,ただ清国の歴史,文章を教ゆ。故に人民,清をもつて本となし,これを重んじ,時刻の典故を知らざる者あるに至る。これ本を捨てて末を取るというべきなり」
  清は,当時の中国である。朝鮮王朝期の教育が儒学を基本として,国史・国語教育の根幹が中国史・漢文の教育になっていることを指摘して,自国の歴史および自国の文章を教えるべきであると論じている。
  朴泳孝は1894年,日清戦争勃発後に帰国して内務大臣に就任,95年7月にふたたび失脚して1907年2月まで日本に亡命していた。

つづく

Re: 森田 芳夫 緑旗連盟

投稿者: bosintang 投稿日時: 2006/06/20 21:43 投稿番号: [3013 / 3669]
著書の内容を否定するために、著者を貶めようとする戦法ですか?

でも森田氏に関する部分は

>森田   芳夫が朝鮮問題を教えた。

>後年森田は、「津田先生ご夫妻のお心は、朝鮮にあって日本人のことばかり考えた植民地根性のひとたちとは明らかに違っており、せまい日本の国家主義の人たちとは全く違っていたことを銘記したい」と書いた。

しかありませんが、はたして青空さんは目的を果たされたのでしょうか。

なお、手元の同書と照らし合わせましたが、

「創始改名」→「創氏改名」
植民地支配を戦争に→植民地支配と戦争に
妻の節子が総監として→妻の節子が塾監として

でした。

おっ!

投稿者: bosintang 投稿日時: 2006/06/20 21:16 投稿番号: [3012 / 3669]
搦め手から来ましたね。

懐かしき拙訳を発掘いただき、ありがとうございます。

>どのような事実から言われているのでしょうか

>どれぐあい資本蓄積がされたと   又その根拠をお教え願いたいです。

で、この質問、原著者の車さんがこの「代案的仮説」をどういう事実、根拠から導いたのか、想像せよ、ということでしょうか。
それを訳者に求めるのは、ちと酷ではないでしょうか。

さいわい車さんのメアドがこちらの末尾にありますので、直接お尋ねになるのがよろしいかと。

http://web.archive.org/web/20050307234320/www.ddanzi.com/ddanziilbo/46/46so_3002-2.htm

車さんは日本に留学していたらしいですから、日本語でも大丈夫だと思いますよ。

ところで、白薔薇さんと青空日本さんは同じ方ですか。
また、よもやKmechanさんではないですよね?

森田 芳夫 緑旗連盟

投稿者: blueskyjapan2006 投稿日時: 2006/06/20 20:59 投稿番号: [3011 / 3669]
1933年2月、法華経研究所と修養を目的とする緑旗同人会は
緑旗連盟と改称した。

緑旗同人会は、安岡正篤と田中智学の弟子であった京城帝国大学予科教授
の津田栄が25年に結成した天業青年団と、その妻・節子を中心に結成された
「妙観同人の集い」が合体したものであった。

この組織は緑旗連盟と改称したころから、在朝日本人二世の皇民化教育に
力を注ぐようになった。

こうした連盟に総督府は資金を援助した。

1937年7月に日中戦争が始まると、連盟は時局講演会を主催するようになった。

そして、1938年に栄の弟・剛が連盟の主幹に就任するとともに、活動も積極的
になり政治色を強めていった。

1939年には、これまで月刊で発行してきた雑誌「緑旗」に加えて、
「今日の朝鮮問題講座」全六巻を発行した。

そして、「内鮮一体」「大陸兵站基地」「国語(日本語)の使用」「創始改名」
「神社参拝」「志願兵」などについて宣伝した。

剛の妻・美代子も、雑誌「新女性」を発刊して、朝鮮女性を「靖国の母」に
しようとした。

女性も男性に劣らず、植民地支配を戦争に大きな力を発揮していた。

なお、緑旗連盟の関係組織としては、清和女塾や緑旗農場悟柳洞農生塾、
朝鮮女性を皇民化するための徳和女塾などもあった。

清和女塾は、1933年の暮れ、津田栄が「朝鮮に育つ内地人の娘達に、
朝鮮に生きる態度を教えなくてはならない」ということで
設立された。

栄の母・よしえが塾長になってお茶を教え、妻の節子が総監として直接の指導に
当った。

弟の剛が社会問題を教え、森田   芳夫が朝鮮問題を教えた。

須江愛子が家事を受け持った。

1934年4月、朝鮮神宮で、第一回生徒約10人の入塾式を行なった。

後年森田は、「津田先生ご夫妻のお心は、朝鮮にあって日本人のことばかり考えた
植民地根性のひとたちとは明らかに違っており、せまい日本の国家主義の人たち
とは全く違っていたことを銘記したい」と書いた。

確かに、節子は「改良された朝鮮服」を作って愛用した。

そして「朝鮮人側の教育界や文人仲間の夫人たちとも、親しい交わりを続けていた。」

その点で、露骨に朝鮮人を差別した多くの在朝日本人と異なることは事実である。

しかし、「緑旗」1940年11月号で「不要の和服地で朝鮮服を」と勧めたように、

「国を奪われた朝鮮の女たちが、チマ・チョゴリを我が物顔に着ている自分たち
日本人を、どういう思いで眺めているかを振り返る気配はいささかも」
なかったのである。

植民地朝鮮の日本人 高崎   宗司   岩波新書

Re: 誰による収奪だったのか?9

投稿者: whiterose20051 投稿日時: 2006/06/20 19:34 投稿番号: [3010 / 3669]
>朝鮮人地主と商人たちの米の買い占め売り惜しみを通しての資本蓄積が可能になった。

どのような事実から言われているのでしょうか

>米穀の日本流出を通じた資本蓄積という事実を隠蔽し、地主と商人たちの米買い占め売り惜しみを通じた資本蓄積を隠蔽しようとしたのか?

>どうやって被搾取者の身分であんなに多くの資本を蓄積することができるのか?

どれぐあい資本蓄積がされたと   又その根拠をお教え願いたいです。

柳田國男

投稿者: blueskyjapan2006 投稿日時: 2006/06/20 03:11 投稿番号: [3009 / 3669]
「教育制度の完備は教育とい語を梢々不当に狭めて終わった嫌ひがある。
即ち学校の設立を以て教育の普及を験するバロメ−タ−としたことが
教育をこれ以外に認めない風潮を生じた。

従って国の教育史を説く場合極めて貧弱な過去を告げざるを得ず、
僅かに藩校の歴史を挙げ庶民教育と云えば寺子屋の紹介以外
何もなかった。

寺子屋の如きは教育といふ程のものでなかった。

その歴史もせいぜい200年に過ぎなかった。

習字に読み方を教へたと云ふが往来物から進んでは四書五経を素読
させることもあったが、当時の常民にとってそんな知識を必要とする者は
小人数で村の主だちたる名主階級か商人の丁稚奉公に出る者などの教育に
過ぎなかった。

教育は本来もっと生活に即したものだった。」

(柳田國男・大藤時彦共著   現代日本文明史・第18巻・世相史   東洋経済新聞社   1943年   195ペ−ジ)

文化統治

投稿者: bosintang 投稿日時: 2006/06/19 21:37 投稿番号: [3008 / 3669]
投稿者: bosintang (39歳/男性/在ソウル) 2001年2月08日 午前 2時23分
メッセージ: 458 / 511

>日本人児童に教えたものと朝鮮人児童に教えたものは違ったし、学制も日本人児童が6年制であったことに対して朝鮮人の児童は4年制でありました。
>日本の資料には1920年に4年制から6年制教育へと変更したと記されていますが、実際朝鮮で6年制が実施されたのは小学校と改名した後(1938年以降)です。勿論、授業料は払っていました。

これは「改正教育令」5条の規定ですから、日本の資料でも韓国の資料でも違いはないでしょう。
5条 普通学校の修業年限は6年とす。ただし土地の情況により5年または4年とすることができる。
例外規定にある、5または4年の地域がどの程度だったかは分かりませんが。

>43年小学校生徒数    218.7万人(うち朝鮮人208.9万人)
     中学校生徒数     12.9万人(9万人)
     専門学校・大学校    1.7万人(1.1万人)
  朝鮮人学生総数219万人にたいし、日本人学生総数14万で、約15:1
  人口比は朝鮮人2583万、日本人76万で、約34:1
>相当ですね。朝鮮人の多くは小学校教育までは受けるようになりますが、小学校218万に比べ中学校13万。どれだけ高等教育の機会が与えられなかったのかを物語るのでは?   これは明確な教育機会の剥奪です。朝鮮人は単純かつ実用性のあれば良いという日帝の意図の丸出し以外になにものでもありません。

そのような見方もできるかもしれない。
けれども私は依然として、量的には、日帝時代の教育政策は評価できると思う。問題は、「皇国臣民」を作るという教育目的と、日本語を通じた教育、朝鮮語禁止という教育方法にあったと思ってます。

もしかして持ってる資料は同じでは?(呉天錫『韓国近代教育史』)
まあ違ったとしても、この手の資料は結局総督府資料に行きつくから、似たようなものでしょう。
同じ資料を見ながらも、評価はこれだけ違う。
たぶん、われわれは違う汽車に乗ってるんですよ。

http://messages1.yahoo.co.jp/bbs?.mm=TR&action=m&board=1835396&tid=4z9qbadfbdbba4nffckdcbfmparta32&sid=1835396&mid=87

日本人との格差

投稿者: bosintang 投稿日時: 2006/06/19 21:36 投稿番号: [3007 / 3669]
投稿者: bosintang (39歳/男性/在ソウル) 2001年2月08日 午前 2時21分
メッセージ: 457 / 511

>1919年までは、公立普通学校の3.7%だけが朝鮮人児童で日本人児童は91.5%を占めていました。それには、①公立普通学校が町を中心として設立されたこと、②絶対数が足りなかったこと。③高い授業料を払えない朝鮮人児童が多かったことです。

上の数字は、19年の普通学校(朝鮮人)と小学校(日本人)の就学率ですね。
朝鮮人学生数84,306人
日本人学生数42,732人
たしかに格差は大きい。ただし、倍増した書堂の学生数は上に含まれていない。
もし書堂を廃止したうえで、なお学校も作らなかったのなら、教育機会を奪ったといえるけれど……。

>1911年の書堂の数は全国、16,540ヶ所、児童数は141,604人でした。それが1920年になると25,482ヶ所まで膨らみ、児童数は292、625人まで増加します。

この理由は、上記に加え、当時の人々がなお新教育に不信を抱き、伝統的な書堂における漢文素読教育を選好したこともある。また書堂が終日教育を行ったのに学校教育は5時間だったことも学校が不評を買った原因(前掲書)。
③についていえば、たしかに教育は有償が原則だったが、不人気の実業学校は無償で生徒を募集していたところもあったそうだ。

>その間、多くの私立学校は無理やり廃校を強いられ、教育の空洞化が進んだ田舎では事実上書堂がその役割を担わざるを得なかったのです。

これはちょっとちがう。
私立学校はソウルや平壌など北部に多く、書堂は保守的な南部に多かった。棲みわけていたということです。

愛国啓蒙運動

投稿者: bosintang 投稿日時: 2006/06/19 21:21 投稿番号: [3006 / 3669]
投稿者: bosintang (39歳/男性/在ソウル) 2001年2月08日 午前 2時20分
メッセージ: 456 / 511

>1911年朝鮮各地で公立小学校(普通学校、4年制)が設立されるが、これはこの間言った通り、私立の公立化への変化に過ぎない。

朝鮮末の愛国啓蒙運動の旋風が巻き起こったとき、全国に私立学校が乱立した。それら私立学校の公立学校への改編は、実際、一部で行われた(統監府時代)ようだが、国民の不満が大きく、一般的な流れにはならなかったはず。
「政府は普通教育の拡張を推進するにあたり、比較的設備の整った私立学校を公立普通学校に改編すると同時に、その財産を公有化した」(呉天錫『韓国近代教育史』)

そもそも、11年当時数千(認可されたもので2250)あった私立学校の実態とは、
「設立するのは自由であったから、設備・施設維持・財産・資格教師などの問題はほったらかしにされて学校ばかりがどんどん建っていった」
「時代的風潮を利用して学校を建て、自分の生計をまかなおうとしたものも少なくなかったし、住民から強制的に寄付金を徴収する悪漢もいた」(前掲書)

>その10年間私立はその間2250校(1908年)から742学校(1919年)まで減少しています。

これらには、弾圧により廃校になったところが多かったのだろうけど、不実零細学校の淘汰もあったと思う(主として資金難で)。

年度はややずれるが、1912〜19年の私立学校学生数の変化は、
57,735人(12年)
41,527人(19年)
学校数の激減に比して、学生数はそれほど減ってない。

日帝期の教育政策⑦

投稿者: bosintang 投稿日時: 2006/06/19 21:20 投稿番号: [3005 / 3669]
投稿者: bosintang (39歳/男性/在ソウル) 2001年2月07日 午前 0時23分
メッセージ: 433 / 511
>>42年、内地の大学に通う朝鮮人大学生は2788人。
>俺の卒業した大学だけが1年生から6年生まで(大学院含む)1万6千人ぐらい。また、規模の大小はあるけど、現在韓国国内では100校近くの大学があるという。あんたは2788人って数が多いって言うのかい?5万人ぐらいいるんだったら、驚いて証拠として出しても構わないけど、2−3千人ぐらいもいたからって、それも証拠だって出すなんて、あんまりも図々しいと思いませんか?

中国からの留学生は1905年がピークで8000人。
http://www.nichibun.ac.jp/text/fn91.html
台湾からは、22年、約2400人、42年、7000人以上。
これにくらべたらそんなに多くないかもね。

>俺は日本の一番質の悪い蛮行が俺は朝鮮民族から35年間教育のチャンスを奪ったことだと思っています。どれだけ日本帝国主義者が朝鮮民族から教育のチャンスを奪ったか、

私は、日帝は朝鮮民族から教育機会を奪ってない(むしろ増やした)と思ってますが、問題はその教育機会が日本語によるものであり、その内容が「教育ニ関スル勅語ノ趣旨ニ基ヅ」いたもの(11年朝鮮教育令第2条)であったこと。
特に日帝末期にいたっては朝鮮語教育・使用を禁止した。これは沖縄(東北も)での方言撲滅運動とならぶ暴挙だと思う。

>あんたもちょっと帝国主義者の目じゃなく、人間の目になって見てほしいですね。

実は、私は中国史の碩学宮崎市定にならって、火星人の目で中国史ならぬ日韓史を眺めたいと思ってるんだけど、日本や韓国はちっぽけすぎて火星からじゃ見えそうにない。月あたりが無難かな。

日帝期の教育政策⑥

投稿者: bosintang 投稿日時: 2006/06/19 21:03 投稿番号: [3004 / 3669]
投稿者: bosintang (39歳/男性/在ソウル) 2001年2月07日 午前 0時22分
メッセージ: 432 / 511

>フランスがアルジェリアを植民地したと言う事で日本帝国主義者の韓国侵略が正当化にはならない。それから、アルジェリアにはアルジェ大学の他色んな大学があったはずだったし。また、いくらフランスがアルジェリア国民を弾圧したって日本の朝鮮人弾圧が正当化になるわけないと思いますがね。

アルジェリアに大学はアルジェ大学1校のみ。同様にインドシナ(ベトナム、カンボジア、ラオス)にはハノイ大学1校のみ。フランスの例をあげたのは、フランスが欧米列強のなかでは珍しく、日本同様「同化政策」を標榜していたから。
そのくせ、アルジェ大学の現地人比率は11%(1954年)。

54年といえば、朝鮮戦争(韓国戦争)が休戦し、ベトナム・ディエンビエンフーでフランスが大敗し、もはやアナクロ的なアルジェリア独立戦争が始まる年。

典型的な愚民政策をとっていた英領インドでは、長らく現地人への教育は放擲され、19世紀半ば以降、主に通訳・官吏養成のため少数の中・高等教育重視の教育政策がとられました。その結果、中等教育・大学教育は発達し、初等教育は相対的に著しく立ち遅れるという、典型的な植民地型教育制度ができあがった。
朝鮮・台湾とは対照的ですね。

日帝期の教育政策⑤

投稿者: bosintang 投稿日時: 2006/06/19 21:02 投稿番号: [3003 / 3669]
投稿者: bosintang (39歳/男性/在ソウル) 2001年2月07日 午前 0時21分
メッセージ: 431 / 511

内地との比較で言えば、前の投稿の「学齢児童男75.5%、女33.1%、平均54.4%が就学」(42年12月)という状態は、併合後32年で達成されているが、内地が同じ水準に達したのは明治維新の25年後。
はて、これを遅すぎるというべきか?
台湾は42年、学齢児童の65%以上、45年に義務教育制施行で就学率70%。

>当時朝鮮半島に定住した日本人が50万人位だというが、その中での1,219人と、3000万人もいた朝鮮人の中での627人。朝鮮全土に4%しかを占めてない日本人が66%も占めたって言うことになりますね。これだけでも帝国主義者が韓国人の教育の機会を剥奪したのか見事に証明ですのではありませんか?

「教育機会」を論ずるなら京城帝大の学生数だけでなく、初等教育を含めて計算すべきでしょう。

43年
初等学校学生数218.7万(うち朝鮮人208.9万)
中等学校学生数   12.9万(9万)
専門学校・大学    1.7万(1.1万)
朝鮮人学生総数219万にたいし、日本人学生総数14万で、約15:1
人口比は朝鮮人2583万、日本人76万で、約34:1

韓国人の教育機会は日本人の2分の1以下であり、日本人の集住地域が都市で、農村にくらべ教育を受けるうえで有利だった事情も考慮してもなお、相当に隔たりが大きい。

日帝期の教育政策④

投稿者: bosintang 投稿日時: 2006/06/19 20:46 投稿番号: [3002 / 3669]
投稿者: bosintang (39歳/男性/在ソウル) 2001年2月07日 午前 0時18分
メッセージ: 430 / 511
日帝時代を評価するには、いくつかの方法が考えられる。
① 植民地と内地の比較
② 植民地における朝鮮人と日本人の比較
③ 日本の他の植民地(台湾、南洋など)との比較
④ 他の列強(イギリス、フランス、オランダなど)の植民地との比較

>>京城帝大の現地人比率は34%(日1,219、朝627。1929−42、卒業生計)。フランス植民地下のアルジェ大学の現地人比率は11%(1954年)。

これは②、④の方法に拠ったもの。これに対し、

>もし、日本帝国主義者が韓国を侵略して、韓国人の経済基盤を根から奪わなかったら、100%が朝鮮人だったはずで、数も何十倍に達したはずだと思う。

と言うあなたは、
⑤ 日帝に支配されなかった場合の理想状態との比較
をしてるようですね。

これは検証のしようがないけれども、参考になりそうなものとして、日帝が46年に計画していた国民学校の義務教育化は、光復後、韓国では59年にやっと達成。中学校の義務教育化(無償化)は現在も行われていない(2002学年度予定)。

http://japanese.joins.com/Article.asp?inputdate=20010118&inputtime=203347&contcode=210

日帝期の教育政策③

投稿者: bosintang 投稿日時: 2006/06/19 20:44 投稿番号: [3001 / 3669]
投稿者: bosintang (39歳/男性/在ソウル) 2001年2月06日 午前 1時12分
メッセージ: 393 / 511
>3.1運動以降、韓国民族は1920年代から日帝の朝鮮教育令を否定し、6か学部を持った朝鮮民立大学の設立運動を激しく展開し、成功の段階に至ると、日帝はこれを停止させる為に、1924年京城帝大を設立する。それは植民地朝鮮に移住した日本人の子女と植民地官吏を養成する目的である。朝鮮人の学生の入学は認めるが、それは朝鮮の民衆の激しい運動に日帝が一歩下げたものに過ぎない。その学生の構成比をみると圧倒的に日本人中心だった。

22年に始まった民立大学設立運動が頓挫したのは、総督府の妨害、京城帝大の設立もありますが、直接的には資金難です。同年秋の関東大震災における朝鮮人被害(約6000人の虐殺を含む)、23年湖南平野の旱害、25年平壌の洪水などへの募金活動が優先されたため、基金募集が進まなかった。

京城帝大は、1926年には法文学部・医学部が、41年に理工学部が開設。それより遅れて帝大になった阪大(31年)や名大(39)は開設当初、医学部、理工学部で出発しました(文系学部は戦後増設)。法文学部が優先されたのは、文を重んじる朝鮮側の強い要望によるものです。初代総長の服部宇之吉の意向で国内の優秀な学者を集め、東京帝大に準ずるアカデミックな学風だったそうです。研究水準も内地の帝大に遜色ないもので「植民地官吏養成」が主目的ではないでしょう。

なお、京城帝国大学の現地人比率は34%(日1,219、朝627。1929-42、卒業生計)。フランス植民地下のアルジェ大学の現地人比率は11%(1954年)。

>また、内地への留学した韓国人も多少居た。その原因はまず、韓国内には帝大しかないし、韓国人の定員制限があったがため、内地の私立大学に進学するしかなかった。しかし、そうするには経済的に物凄い余裕がないと出来ない。

42年、内地の大学に通う朝鮮人大学生は2788人。かなりの人数ですね。
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