森田 芳夫 緑旗連盟
投稿者: blueskyjapan2006 投稿日時: 2006/06/20 20:59 投稿番号: [3011 / 3669]
1933年2月、法華経研究所と修養を目的とする緑旗同人会は
緑旗連盟と改称した。
緑旗同人会は、安岡正篤と田中智学の弟子であった京城帝国大学予科教授
の津田栄が25年に結成した天業青年団と、その妻・節子を中心に結成された
「妙観同人の集い」が合体したものであった。
この組織は緑旗連盟と改称したころから、在朝日本人二世の皇民化教育に
力を注ぐようになった。
こうした連盟に総督府は資金を援助した。
1937年7月に日中戦争が始まると、連盟は時局講演会を主催するようになった。
そして、1938年に栄の弟・剛が連盟の主幹に就任するとともに、活動も積極的
になり政治色を強めていった。
1939年には、これまで月刊で発行してきた雑誌「緑旗」に加えて、
「今日の朝鮮問題講座」全六巻を発行した。
そして、「内鮮一体」「大陸兵站基地」「国語(日本語)の使用」「創始改名」
「神社参拝」「志願兵」などについて宣伝した。
剛の妻・美代子も、雑誌「新女性」を発刊して、朝鮮女性を「靖国の母」に
しようとした。
女性も男性に劣らず、植民地支配を戦争に大きな力を発揮していた。
なお、緑旗連盟の関係組織としては、清和女塾や緑旗農場悟柳洞農生塾、
朝鮮女性を皇民化するための徳和女塾などもあった。
清和女塾は、1933年の暮れ、津田栄が「朝鮮に育つ内地人の娘達に、
朝鮮に生きる態度を教えなくてはならない」ということで
設立された。
栄の母・よしえが塾長になってお茶を教え、妻の節子が総監として直接の指導に
当った。
弟の剛が社会問題を教え、森田 芳夫が朝鮮問題を教えた。
須江愛子が家事を受け持った。
1934年4月、朝鮮神宮で、第一回生徒約10人の入塾式を行なった。
後年森田は、「津田先生ご夫妻のお心は、朝鮮にあって日本人のことばかり考えた
植民地根性のひとたちとは明らかに違っており、せまい日本の国家主義の人たち
とは全く違っていたことを銘記したい」と書いた。
確かに、節子は「改良された朝鮮服」を作って愛用した。
そして「朝鮮人側の教育界や文人仲間の夫人たちとも、親しい交わりを続けていた。」
その点で、露骨に朝鮮人を差別した多くの在朝日本人と異なることは事実である。
しかし、「緑旗」1940年11月号で「不要の和服地で朝鮮服を」と勧めたように、
「国を奪われた朝鮮の女たちが、チマ・チョゴリを我が物顔に着ている自分たち
日本人を、どういう思いで眺めているかを振り返る気配はいささかも」
なかったのである。
植民地朝鮮の日本人 高崎 宗司 岩波新書
緑旗連盟と改称した。
緑旗同人会は、安岡正篤と田中智学の弟子であった京城帝国大学予科教授
の津田栄が25年に結成した天業青年団と、その妻・節子を中心に結成された
「妙観同人の集い」が合体したものであった。
この組織は緑旗連盟と改称したころから、在朝日本人二世の皇民化教育に
力を注ぐようになった。
こうした連盟に総督府は資金を援助した。
1937年7月に日中戦争が始まると、連盟は時局講演会を主催するようになった。
そして、1938年に栄の弟・剛が連盟の主幹に就任するとともに、活動も積極的
になり政治色を強めていった。
1939年には、これまで月刊で発行してきた雑誌「緑旗」に加えて、
「今日の朝鮮問題講座」全六巻を発行した。
そして、「内鮮一体」「大陸兵站基地」「国語(日本語)の使用」「創始改名」
「神社参拝」「志願兵」などについて宣伝した。
剛の妻・美代子も、雑誌「新女性」を発刊して、朝鮮女性を「靖国の母」に
しようとした。
女性も男性に劣らず、植民地支配を戦争に大きな力を発揮していた。
なお、緑旗連盟の関係組織としては、清和女塾や緑旗農場悟柳洞農生塾、
朝鮮女性を皇民化するための徳和女塾などもあった。
清和女塾は、1933年の暮れ、津田栄が「朝鮮に育つ内地人の娘達に、
朝鮮に生きる態度を教えなくてはならない」ということで
設立された。
栄の母・よしえが塾長になってお茶を教え、妻の節子が総監として直接の指導に
当った。
弟の剛が社会問題を教え、森田 芳夫が朝鮮問題を教えた。
須江愛子が家事を受け持った。
1934年4月、朝鮮神宮で、第一回生徒約10人の入塾式を行なった。
後年森田は、「津田先生ご夫妻のお心は、朝鮮にあって日本人のことばかり考えた
植民地根性のひとたちとは明らかに違っており、せまい日本の国家主義の人たち
とは全く違っていたことを銘記したい」と書いた。
確かに、節子は「改良された朝鮮服」を作って愛用した。
そして「朝鮮人側の教育界や文人仲間の夫人たちとも、親しい交わりを続けていた。」
その点で、露骨に朝鮮人を差別した多くの在朝日本人と異なることは事実である。
しかし、「緑旗」1940年11月号で「不要の和服地で朝鮮服を」と勧めたように、
「国を奪われた朝鮮の女たちが、チマ・チョゴリを我が物顔に着ている自分たち
日本人を、どういう思いで眺めているかを振り返る気配はいささかも」
なかったのである。
植民地朝鮮の日本人 高崎 宗司 岩波新書
これは メッセージ 2887 (whiterose20051 さん)への返信です.
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