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近代日本の教育と朝鮮 ⑩

投稿者: whiterose20051 投稿日時: 2006/06/27 04:00 投稿番号: [3019 / 3669]
D   1931〜1938(第三次朝鮮教育令)

この時期は大陸進攻の一大処点という、当時の日本にとって朝鮮がもっていた意味
が、いわゆる「満州事変」を契機に強められ、産業、経済の植民地的編成が強められた
時期である。
「教育」の分野では、簡易学校に象徴されるように、浸透させることが中心課題で
あった。

そのため、師範学校が増設され、さまざまな形で日本人教員も求められている。

しかし日中戦争に伴い、日本人教員の確保は困難となり、朝鮮人教員の比率が
増加してゆく。

1934年開設の簡易学校は、わずか二年間で日本語と農業を教え込もうというもので、
まさにそれまで日本が朝鮮の「教育」に対し求めていたものを、直裁に表現したもの
といえよう。

農業の強調は、普通学校においても一大眼目であった。

1932年からの「農村振興運動」の中では、普通学校における「卒業生指導」に、
運動の担い手を作る役割が期待されていた。

このような中で、教員養成制度自体は、1933年に、日本国内の師範学校第二部が
二年となった(1931年)ことに対応して、演習科が二年になったこと以外、
大きな変動はない。

しかし、その政策としては、その「教育」浸透政策に対応して師範学校の増設が
企図され、また同時に、日本国内の「甲種農業学校卒業生」を農村初等学校教員
として用いようとする意図の現れた時期であった。

特に、簡易学校は一校一教員であったので、日本人教員を多く配置したいとの
総督府の意思があった。

そのことは簡易学校の形態、位置にも現れている。

朝鮮における日本人小学校の場合には、いかに小規模であっても分校制はとられていない。

それはその小規模校には一人前の教員がいるはずであり、本校長の指導により利益を受ける
者では困る。

また本校長にとっても出張し監督っすることは不利益であるとの理由であった。

これに対し、「本教育施設は普通学校その他の教育機関とは全然その体系を異にする」(1934年   政務総監通牒)
という簡易学校は、既設公立普通学校に附設され、附設学校長の指導の下に置かれていた。

すなわち日本人校長によって、朝鮮人教員を統制しようとするものであった。

この時期、日中戦争に伴い日本人教員の確保は困難であり、また、そもそも簡易学校は普通学校の建設困難な
地に建てられているというその性格からして、日本人教員を充当していくことは困難であった。

大野謙一「簡易学校の増設方針」には、「教員の供給が尽き」440校の増設計画が220校しかならず、
「教員は将来内鮮人半々の割りで分布せしめたいが現在の所三分の二が朝鮮人である」と書かれている。

実際には、この記事がかかれた1935年の5月末時点の職員数は、日本人109人に対して朝鮮人514人である。

日本人職員数は1938年以降160人台に留まり、以後の学校数の増加は、朝鮮人職員数の伸びによることになる。

1941年時点では、日本人169人に対して朝鮮人1613人という比率である。

異民族支配という植民地制度は、その内部に大きな矛盾をはらんだともいえる。

総督府は、彼ら朝鮮人教員を力によって押さえ込めるとかんがえたのであろうか。

1934年6月の今井田政務総監の道学務課長及び視学官会同における訓示に、次の一節がある。

「昨秋来数道に亘り初等学校教員又は書堂教師にして共産主義に感溺し、学校の内外に於いて
不穏なる運動を試み、教権の神聖を汚すが如き者を相当多数でましたことは、誠に遺憾とする所で
あります」
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