入って中国人に南京事件真相議論しましょう

Yahoo! Japan 掲示板トピックビューアー

[ << 最初のページ | < 前のページ | メッセージリスト | [ メッセージ # オフセット ] | 次のページ > | 最後のページ >> ]

ネトウヨに質問します

投稿者: kouei34 投稿日時: 2012/10/10 08:32 投稿番号: [1960 / 2250]
右翼・保守・極右・正論読者・産経新聞読者・サピオ読者・愛国者・
国粋主義者・独裁主義者・復古主義者・歴史修正主義者・軍国主義者・
民族主義者・武士気取り・国士気取り・通り魔予備軍・文学的変態・
言論チンピラ・ネットチンピラ・台湾系右翼たちに質問します。

論破開始
【言論チンピラ妄言解毒対策レス#41】
南京大虐殺はなかったと主張する学者は実在しますか? もし実在するなら名前を挙げてください。

1939年4月28日 ヒトラー独・波条約破棄

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/10/09 18:48 投稿番号: [1959 / 2250]
〔昭和14年4月29日   東京朝日〕   ヒトラーが独・ポーランド条約破棄声明


〔ベルリン特電二十八日発〕   ヒトラー独総統は二十八日午後零時五分

(日本時間二十八日午後八時五分)   から同二時二十五分まで

二時間二十分に亘り   大ドイツ国会において、世界注視の下に

ドイツの対外政策を闡明   (せんめい)   する歴史的大演説を行ったが、

そのうちダンチヒ、ポーランド廻廊要求に言及して、



これをポーランド政府が拒絶せる事実を報告し、

その結果としてドイツは独波 (ポーランド) 不侵略条約破棄を言明し、

独波関係事態の容易ならざるを思わしめた他、

英独海軍協定の廃棄を声明、植民地返還の対英要求を更   (あらた)   めて強調したが、

殊にルーズヴェルト米大統領のメッセージに対しては、

安全保障問題に於いて暗に米国の欧洲問題介入を排除すべき

極めて巧妙なる応酬をなすところがあった。



〔ベルリン特電二十八日発〕

二十八日のドイツ国会でヒトラー総統は、ダンチヒをドイツに返還、

ポーランド廻廊にドイツの鉄道敷設を二十五年の国境保障などの条件で

ドイツがポーランドに提議したが、ポーランドはこれを拒絶し英国へ走った

と発表し、

故ピルスドスキー元帥との間で結んだ独波不侵略条約を破棄すると宣言した。


(中略)


声明の内容


「(前略)

英波相互援助協定の締結となったといわれるが、この相互援助協定によって

ポーランドは、英国が援助協定を結んだ国々とドイツとの間に

紛争が起こった場合には反独戦線に参加すべく義務づけられている。

英波協定は、余が自らピルスドスキー元帥との間に締結した協定と

背馳するものである。



すなわち同協定は当時現存する唯一の協定として仏波協定を認めたに過ぎぬ。

ポーランドの他国に対する義務の拡大は独波不侵略協定とも相背馳する。

かくて余は、独波両国を拘束する協定は今や存在せずと見做すものであるが、

余のこの見解は既にポーランド政府に通告済みである。(後略)」

1937年12月13日のラーベの日記3

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/10/09 18:39 投稿番号: [1958 / 2250]
《 日本軍は十人から二十人のグループで行進し、略奪を続けた。

それは実際にこの目で見なかったら、とうてい信じられないような光景だった。

彼らは窓と店のドアをぶち割り、手当たり次第盗んだ。

食料が不足していたからだろう。

ドイツのパン屋、カフェ・キースリングもおそわれた。

また、福昌飯店もこじ開けられた。

中山路と太平路の店もほとんど全部。なかには、獲物を安全に持ち出すため、

箱に入れて引きずったり、力車を押収したりする者もいた。



我々はフォースターといっしょに太平路にある英国教会にいってみた。

ここはフォースターの伝道団の教会だ。手榴弾が二発、隣の家に命中していた。

近所の家もみなこじ開けられ、略奪されていた。

フォースターは、自転車を盗まれそうになってびっくりしたが、

我々を見ると日本兵はすぐに逃げ去った。



日本のパトロール隊を呼び止め、この土地はアメリカのものだといって、

略奪兵を追い払うようにと頼んだが、相手は笑うだけでとりあおうとしなかった。

二百人ほどの中国人労働者の一団に出会った。安全区で集められ、

しばられ、連行されたのだ。

我々がなにをいってもしょせんむだなのだ。



元兵士を千人ほど収容しておいた最高法院の建物から、四百ないし五百人が連行された。

機関銃の射撃音が幾度も聞こえたところをみると、銃殺されたにちがいない。

あんまりだ。恐ろしさに身がすくむ。

外交部のなかの病院に入れてもらえない。

中国人の医師や看護人はかんづめにされている。



日本軍につかまらないうちにと、難民を百二十五人、大急ぎで空き家にかくまった。

韓は、近所の家から、十四歳から十五歳の娘が三人さらわれたといってきた。

ベイツは、安全区の難民たちがわずかばかりの持ち物を奪われたと報告してきた。

日本兵は私の家にも何度もやってきたが、

ハーケンクロイツの腕章を突きつけると出ていった。

アメリカの国旗は尊重されていないようだ。

仲間のソーンの車からアメリカ国旗が盗まれた。

被害を調べるため、今朝六時からずっと出歩いていた。韓は家から出ようとしない。



日本人将校はみな多かれ少なかれ、ていねいで礼儀正しいが、

兵隊のなかには乱暴なものも大ぜいいる。

そのくせ飛行機から宣伝ビラをまいているのだ。

日本軍は中国人をひどい目にあわせはしないなどと書いて。》

(字数の都合で以下数行略)



*   ここの話は、 「スミス氏   (ロイター通信社)   講演」   と合わない。

   スミス氏は14日の昼までは、略奪も危害もなかったと言っている。

   ラーベの日記には   「14日」   の項目がないから、おそらく13日に混ぜたのだろう。


*   「フォースターは、自転車を盗まれそうになってびっくりしたが、

   我々を見ると日本兵はすぐに逃げ去った。」

   日本軍が必要に応じて徴発する時は、彼らを見ても逃げない。

   その “日本兵” は本当に日本人なのか?

(=´∀`)人(´∀`=)

投稿者: whitekurumecity911 投稿日時: 2012/10/09 13:37 投稿番号: [1957 / 2250]
福岡県警はなぁ半日公安体制やで〜公安署長の岡元の息子で元福岡県警の岡元大輔から貰ったコンセントに反応した久留米市北野町高良1721-1-302鹿毛信義、八女市総合庁舎監視室古賀繁文、中央区小笹5-16-58-501古賀万理惠、糸数昌一、
ブランド本舗三擦り半晴誠吾、日本は半日左翼にええようにされとるで

(=´∀`)人(´∀`=)

投稿者: whitekurumecity911 投稿日時: 2012/10/09 08:09 投稿番号: [1956 / 2250]
福岡県警はなぁ半日公安体制やで〜公安署長の岡元の息子で元福岡県警の岡元大輔から貰ったコンセントに反応した久留米市北野町高良1721-1-302鹿毛信義、八女市総合庁舎監視室古賀繁文、中央区小笹5-16-58-501古賀万理惠、糸数昌一、
ブランド本舗三擦り半晴誠吾、日本は半日左翼にええようにされとるで

(=´∀`)人(´∀`=)

投稿者: whitekurumecity911 投稿日時: 2012/10/08 21:56 投稿番号: [1955 / 2250]
福岡県警はなぁ半日公安体制やで〜公安署長の岡元の息子で元福岡県警の岡元大輔から貰ったコンセントに反応した久留米市北野町高良1721-1-302鹿毛信義、八女市総合庁舎監視室古賀繁文、中央区小笹5-16-58-501古賀万理惠、糸数昌一、
ブランド本舗三擦り半晴誠吾、日本は半日左翼にええようにされとるで

(=´∀`)人(´∀`=)

投稿者: whitekurumecity911 投稿日時: 2012/10/08 20:46 投稿番号: [1954 / 2250]
福岡県警はなぁ半日公安体制やで〜公安署長の岡元の息子で元福岡県警の岡元大輔から貰ったコンセントに反応した久留米市北野町高良1721-1-302鹿毛信義、八女市総合庁舎監視室古賀繁文、中央区小笹5-16-58-501古賀万理惠、糸数昌一、
ブランド本舗三擦り半晴誠吾、日本は半日左翼にええようにされとるで

1939年4月 船中で語った汪精衛 (兆銘)

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/10/08 15:39 投稿番号: [1953 / 2250]
塚本誠著   『ある情報将校の記録』
274〜275p


《 その後の影佐大佐の話によれば、汪精衛氏は上海に来る船中で、

影佐大佐に次のような話をしていたという。


中国の和平論、抗日論はともに愛国精神の発露である。

日中両国のあり方と日本の対中政策に対する認識の相違が、

国民を和平論に、あるいは抗日論に走らせている。

和平運動の実体は、認識を是正し、あるいは転換せしめるものでなくてはならない。



戦争状態下にある中国国民、日本軍の進入をこうむっている国民の生活環境には、

抗日意識、抗戦感情をかきたてる諸事象があまりにも多い。

事実、事象は理論を立証するものである。

今までのような言論展開だけの和平運動では、重慶政府の転向はとうてい望めない。

善隣友好、共同防衛、経済提携の三原則を掲げた近衛声明は、

日本の真意だと思うが、もし、それが実行を伴わぬ単なる宣言なら、

中国国民はだれも信用せぬ。



このさい、日本政府に異存がなければ、自分は今までの計画を放棄して、

和平政府を樹立し、日本と提携して少なくも近衛声明を如実に実行し、

重慶政府や一般民衆に対し、和平論は決して根拠のないものではないことを

事実によって証明してやりたい。



和平政府といえども、樹立されれば必然的に軍隊を持たねばならぬが、

それは重慶と交戦するための軍隊ではない。あくまで内戦は避けたい。

和平政府は重慶を倒すことを目的としているのではなく、

重慶と合作して日本との全面的和平の実現を願っているのだから、

重慶が和平運動に合流して来るなら自分はいつでも下野する。

和平政府、重慶政府と当初は分かれていても、両者が合体せねば、

全面和平はありえない。



和平政府樹立について日本側に異存がなければ、

日本政府要人と率直に意見を交換したい。

しかし、同志の中には時期尚早論者も少なくない。

上海到着後、同方面の同志の意見もきき、東京に行くかどうかを決心したい。》



晴気慶胤著   『上海テロ工作76号』   毎日新聞社
116〜117p

《 汪兆銘は、船中で新しい和平運動の構想を影佐大佐たちに説明した。

「日華の全面和平を求めようとして中国政府に言論で働きかけてきた、

いままでの和平運動は失敗しました。

日華両国が互いに信用しなくなった今日では、

言論だけでは和平を回復することは難しいからです。



けれども近衛声明が中国のどこかで約束通りに実行されたら、

民衆はみんな和平に賛成し、

その世論に押されて中国政府は抗戦をやめるほかなくなるでしょう。

こうした方法は、和平をまず局地で回復したのちに全国に及ぼすもので、

一見、迂路のようですが、実は日華の国交を回復する近路だと思います。



私は占領地に新しい中央政府をつくりたい。

そして日本と協力して近衛声明を実行に移し、

民衆が喜ぶ平和境をまず占領地に建設して、

和平世論を起こす基盤としたいと思っています。

だが、日本政府が同意しなければそれは実行できません」



汪はこういって、しかる故に、

この和平運動に対する日本政府の意向を確かめてもらいたいと影佐大佐に依頼した。》

1937年 海軍パネー号遭難者の救助と謝罪

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/10/08 15:29 投稿番号: [1952 / 2250]
戦史叢書   『中国方面海軍作戦1』   468p


《 先頭の保津、勢多は   15:40、 主隊は   17:00   南京に突入した。

第一掃海隊は南京到着後直ちに泊地を掃海し、また浦口桟橋を確保した。

陸軍部隊は夕刻南京城を完全に占領した。



米国砲艦パネー遭難者の救援


十三日   09:00、 長谷川長官は米国東洋艦隊司令長官から、

「十二日   14:30   以降砲艦パネーとの無線連絡が絶えた」   旨、通告を受けた。


調査の結果、前日第二聯合航空隊の飛行機が南京上流二六浬付近において

中国船と思い撃沈した船が、前後の模様から察し、

米国砲艦パネー及び米国商船であったことが判明した。



長谷川長官は航空部隊に対し、

何分の令あるまで揚子江における艦船の爆撃を禁止するとともに、

遭難者救助に全力を挙げるため、南京突入直後の   「保津」   に

「即時開源碼頭付近にて日本海軍機の爆撃により損害を受けた

米砲艦パネーの救助に向かえ」   と指令した。



「保津」   は直ちに下関を出港し、 20:30   ころ現地に到着、

開源碼頭下手に投錨し、同地に在泊中の英艦ピーに先任将校橋本以行大尉を派遣した。

同大尉は英艦救助隊と共に英艦内火艇に乗艇、北岸の和縣に至り、

夜を徹して同地避難中の   「パネー」   遭難者の救助に当たり、

負傷者を収容し、十四日朝帰艦した。》



政府の謝罪と処分


北博昭著   『日中開戦』   110〜111p


《 十三日、支那方面艦隊司令長官長谷川中将は艦隊参謀長杉山少将を

アメリカアジア艦隊司令長官ヤール大将のもとへ送り、陳謝した。

東京では広田外務大臣が駐日アメリカ大使グルーを訪ね、謝罪した。

また、アメリカでは斎藤博大使が広田外務大臣の指示でハル国務長官を訪問し、

日本政府からの遺憾の意を伝えた。

翌十四日には、陳謝の意を表した日本政府の公文がグルー大使に渡された。



第二連合航空隊司令官三並少将   (進級)   は、

事件三日後の十二月十五日をもって更迭された。

日本はアメリカが翌年の三月二十一日に要求してきた額面どおりの

巨額の賠償金を支払った。》

アメリカが世界に誇る《三大日本人虐殺》

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2012/10/08 08:23 投稿番号: [1951 / 2250]
★ユダヤ米国が人類史上に誇る「三大日本人虐殺」

第1位   広島原爆投下(当時の死者数   14万人)

第2位   東京大空襲(当時の死者数   10万人)

第3位   長崎原爆投下(当時の死者数   7万人)

★日本人大虐殺を計画して実行した三大「ユダヤ人」

第1位   フランクリン・デラノ・ルーズベルト
    「マンハッタン計画」を推進した。
    「日本人は劣等人種だからやっちまえ!」と言った。
    先祖はアヘン貿易で財を成した。

第2位   カーチス・ルメイ
    「日本本土空襲」を計画して実行した張本人。
   小泉元首相の父親から貰った勲章を自慢げに見せた。

第3位   ハリー・ソロモン・トルーマン
    広島・長崎への原爆投下を命令した。
    指をぱちんと鳴らして「やっちまえ!」と命令した。

http://www.youtube.com/watch?v=pNOoIe57mVw&feature=BFa&list=PLDB1B5614857BF088

★9.11テロは、裏でCFR(ユダヤ)が支配している米国政府の自作自演。
(飛行機のジェット燃料くらいで、鉄筋コンクリートのビルがこのように崩壊することは絶対に有り得ない。ジェット燃料は化石燃料である。試しに解体予定のビルにたっぷりジェット燃料をぶっ掛けて火をつけて見ればよい。)

http://www5.pf-x.net/~gotama/index.html

http://www.youtube.com/watch?v=Usbb5t5YqB4

1939年4月25日 汪兆銘ハノイ脱出

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/10/07 15:28 投稿番号: [1950 / 2250]
児島襄著   『日中戦争5』
204〜205p


《 一週間後の四月二十五日夜、汪兆銘夫妻らはハノイをはなれ、

ダロン港で小型傭船にのりこみ、

三日後、日本船   「北光丸」   に移乗して、上海にむかった。


   −   ところが、

その上海をめざす   「北光丸」   船上で、汪兆銘は意外事を告げた。


「貴国政府に於て異存がなければ、従来の計画を変更し、

和平政府樹立の計画に変更したい希望をもっている」

のちに、香港総領事田尻愛義が影佐大佐から聞いた話では、

汪兆銘は、こんごの方針として、



「一、一切をあきらめて外遊する。

二、日本の占領地にとどまり、言論を主にして重慶に呼びかける。

三、日本の占領地を統括する新政府の長となって、

   重慶政府に桔抗する政治力になり、日本に協力する」


という三案を述べ、このうち第三案を決意したと語った、という。

「寔   (まこと)   に事重大である」

影佐大佐は、汪兆銘の発言を耳にしたときの印象を、そう手記しているが、

むしろ、愕然または唖然とした心境をさそわれたはずである。



なぜなら、これまで汪兆銘は重慶脱出の前も後も、

一貫して日本の傀儡になることを拒否する姿勢を顕示してきた。

日本側につたえた   「拳事予定計画」   でも   「日本軍未占領地」   に

新政府の樹立を強調し、二月下旬に元亜州司長高宗武が伝達した汪兆銘の意向も、

傀儡視されている臨時、維新両政府の解消をふくんでいた。



いや、前述したように、ハノイをはなれる際に、

広東は日本軍占領地だから嫌だ、上海に行く、と、

汪兆銘は明言したばかりである。

日本に協力する和平政府、それも   「日本の占領地を統括する新政府」

となれば、北京と南京にそれぞれ位置する臨時、維新政府以上に、

日本の傀儡視されるはずではないか。

変心、それも   「百八十度の変心」   としか思えないが。》

1937年12月 投降兵の処断

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/10/07 15:22 投稿番号: [1949 / 2250]
佐々木倒一少将私記12月13日続き


《 午後二時頃概して掃討を終わつて背後を安全にし、

部隊を纏   (まと)   めつゝ前進和平門に至る。

その後俘虜続々投降し来り数千に達す、激昂   (げきこう)   せる兵は

上官の制止を肯   (き)   かばこそ片はしより殺戮する。

多数戦友の流血と十日間の辛惨を顧みれば兵隊ならずとも

「皆やつてしまへ」   云ひ度くなる。

白米は最早一粒もなし、城内には有るだらうが、

俘虜に食はせるものの持合せなんか我軍には無い筈だつた。 》



中島今朝吾中将(第16師団長) 日記 (12月13日)


《 一、斯   (か)   くて敗走する敵は   大部分第十六師団の作戦地境内の

   森林村落地帯に出て   又一方鎮江要塞より逃て来るものありて

   到る所に捕虜を見   到底其始末に堪えざる程なり



一、大体捕虜はせぬ方針なれば、

   片端よりこれを片付くることとなしたる   (れ)   ども、

   千 五千 一万の群集となれば之が武装を解除することすら出来ず

   唯彼等が全く戦意を失ひ、ぞろぞろついてくるから安全なるものの、

   之が一旦掻擾   (騒擾)   せば始末に困るので 部隊をトラックにて増派して

   監視と誘導に任じ 十三日夕はトラックの大活躍を要したり

   乍併   (しかしながら)   戦勝直後のことなれば中々実行は敏速には出来ず

   斯   (かか)   る処置は当初より予想だにせざりし処なれば

   参謀部は大多忙を極めたり



一、後に至りて知る処に依りて佐々木部隊丈   (だけ)   にて処理せしもの約一万五千、

   大平門   (太平門)   に於ける守備の一中隊長が処理せしもの約一三〇〇

   其仙鶴門附近に集結したるもの約七八千人あり尚続々投降し来る 》

『南京戦史資料集』 (笠原『南京事件』p.154-155)



児玉義雄氏(第十六師団歩兵第三十八連隊副官)の証言


《 連隊の第一線が、南京城一、二キロ近くまで近接して、

彼我入り乱れて混戦していた頃、師団副官の声で、師団命令として

『支那兵の降伏を受け入れるな。処置せよ』   と電話で伝えられた。

私は、これはとんでもないことだと、大きなショックを受けた。



師団長・中島今朝吾将軍は豪快な将軍で好ましい御人柄と思っておりますが、

この命令だけは何としても納得できないと思っております。

参謀長以下参謀にも幾度か意見具申しましたが、採用するところとならず、

その責任は私にもあると存じます。

部隊としては実に驚き、困却しましたが命令やむを得ず、各大隊に下達しましたが、

各大隊からは、その後何ひとつ報告はありませんでした。

激戦の最中ですからご想像いただけるでしょう。》

(「南京戦史資料集Ⅰ」P397)



*   中島日記に   「鎮江要塞より逃て来るもの」   とあるが、

   鎮江は12月7日に中国軍が焼き払って撤退。

   その後10日に天谷支隊が占領し、11日には山田支隊もいた。

   それを、中島師団長が知らないわけがない。

   山田支隊は鎮江から応援に来たのだから。


   この時期に、鎮江より中国兵が逃げてこれるわけがない。

   戦果水増しのための作り話か。



*   この中島日記は本物なのか?

   日記なのに、なぜ一、・・・、一、・・・、となっている。

   まるで戦犯収容所で、箇条書きに書かされたみたい。

*   また、太平門の所には、脱出の時の混乱で出来た大量の死体があったはず、

   当然、これらも戦果に入れているだろう。

   太平門といい、佐々木隊といい、その戦果は水増しの可能性がある。

   こうやって水増しされた戦果は、日本軍の虐殺数としてカウントされる。

1939年4月18日 影佐大佐汪兆銘と会う

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/10/06 15:08 投稿番号: [1948 / 2250]
児島襄著   『日中戦争5』   文春文庫
203


《 日本側に救援が要請され、影佐大佐の出動になったのである。

大佐は、陸相板垣征四郎中将の指示をうけたが、

〝救出〟後の汪兆銘の厚遇を確保するため、

海軍、外務省、興亜院、民間の代表の派遣と五相会議の諒解を得た。


同行した逓信省参与犬養健は、代議士でもあるので民間代表となり、

海軍は須賀彦次郎大佐を指名し、外務省は清水董三書記官、

興亜院は外務省から出向の書記官矢野征記を派遣した。



大佐と犬養健は、四月十六日にハイフォン港に到着し、

飛行機で先行した矢野書記官とおちあい、十八日、汪兆銘に会った。

「今後、如何なるところに赴いて、

如何なる方針の下に信念の遂行を期せられんとするのか」

影佐大佐が質問すると、汪兆銘は、上海にむかいたい、と応えた。


香港も考えたが、英国の監視が厳重で活動に不便であり、

広東は、「安全なるも、日本軍の占領下にあり、

恰(あたか) も日本の強制……又は日本の傀儡となって運動をおこなうが如き

印象を一般に与うべく、かくては運動は成功をみる由もない」



塚本誠著   『ある情報将校の記録』
268〜269p


《 影佐さんは出発に当たって本工作は陸、海、外、興亜院、

なし得るなら民間の者をも加えて各方面一体となっての工作でなければならぬと考え、

米内海相には海軍からも代表を出すことを要請したが、

海相は今回のハノイ行には影佐が海軍代表であると答え、

汪氏宛その旨を書いた親書を影佐さんに携行させた。

海相は後日、須賀彦次郎大佐を海軍代表に指名した。



影佐さんのハノイ行には、外務省興亜院兼任の矢野征記書記官と

外務省の清水董三書記官、それに民間代表という意味での

衆議院議員犬養健の三人および軍医その他が同行した。

糖業聯合会書記の身分証明書を持って仏印に上陸した影佐さんは、

矢野、清水、犬養三氏を同伴して四月十五日   (? 『日中戦争』   では18日)、

ハノイに汪精衛氏を訪問した。


会見の結果、汪氏が上海を拠点として工作を展開する意図であることがわかったので、

汪一行の上海上陸に対する日本側の協力について東京に打電して来た。》

1937年12月 大量の投降兵受け入れは危険

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/10/06 14:59 投稿番号: [1947 / 2250]
オープンシティで整然と降伏したのなら、ともかく、一方で戦闘しながら、

一方で大量の捕虜を受け入れるのは非常に危険なことだった。



東中野修道著   『南京大虐殺の徹底検証』   157p


《 師団副官は   「支那兵の降伏を受け入れるな」   と電話で伝令した。

当然であったろう。すぐ隣の傘下の部隊からは、増援要請が相次いでいた。

それを佐々木少将は拒否していた。

そして、自衛力を有する者は自ら自衛して戦えと、全軍を叱咤していた。



このような激戦の最中、支那兵の投降を受け入れて武装解除にあたることは、

自軍の戦力を殺   (そ)   ぐことになる。

それは自軍の部隊の敗北を招くかも知れなかった。

日本軍にも自己防衛の権利があったのである。



従って、彼我入り乱れた激戦の最中に、投降兵を受け入れる義務は、必ずしもない。

投降兵を処刑したとしても、必ずしも戦時国際法違反にはあたらない。

むしろ戦闘行為に属する。》



159p

《 佐々木部隊   (第十六師団右側支隊)   が和平門で数千の投降兵に遭遇してから

三時間後の十三日十七時には、湯水鎮の上海派遣軍司令部が再び襲撃された。

そして   「彼我混入シテ乱闘」   となっていた。》



160p

《 この両軍の乱戦と日本軍の苦戦を抜きにしては、佐々木少将の

「六、各隊ハ師団   (註・第十六師団)   ノ指示アル迄俘虜ヲ受付クルヲ許サズ」

という歩兵第三十旅団命令   (十二月十四日午前四時五十分発令)   も、

考えられない。》



163

《 あまつさえ、降伏すると見せかけて手榴弾を投げつけてくる支那兵の暴挙に、

日本軍はさんざん悩まされていた。

つまり   「降ヲ乞ヘル敵」   にたいして日本軍が戦時国際法通りに

攻撃を控えると、それが敵の攻撃を招いた。

歩兵第九連隊   (第十六師団)   第一大隊副官六車   (むぐるま)   政次郎少尉の証言を、

「証言による   『南京戦史』   ⑧」   から以下に引用する。



〈一ケ小隊で中山門東方紫金山中の警備を担当したが、

激戦により小隊は約三十名に減少していた。

夜半、東方の山中から敗残兵数百名が、日本軍が居るのに気付かず、

南京に向って来たのを捕えた。



しかし、我々の人数が少なく、もし小人数と判れば危ないので、

銃を取りあげ凹地に終結させ、外側の兵のみを電線で縛って逃げないようにした。

ところが、日本軍が小人数とあなどったのか、手榴弾を投げつけてきて暴れだし、

収拾がつかなくなったので、軽機・小銃で弾丸のある限り射った。〉



このほか六車少尉は   『惜春賦』   の中で、ダムダム弾

(ニッケルなどの被覆のない裸の鉛弾)   に被弾したことを回想している。

「ダムダム弾の禁止に関するハーグ宣言」(一八九九年)   が禁止する

ダムダム弾まで使った支那兵は、小銃を捨てても、

手榴弾や拳銃を懐中に隠し持つ例が多かった。

そこで、敗残兵を捕えても   「ヤッテシマエ」   と襲いかかる例があった。》

アメリカが世界に誇る「三大日本人虐殺」

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2012/10/06 11:29 投稿番号: [1946 / 2250]
★ユダヤ米国が世界史上に誇る「三大日本人虐殺」

第1位   広島原爆投下(当時の死者数   14万人)

第2位   東京大空襲(当時の死者数   10万人)

第3位   長崎原爆投下(当時の死者数   7万人)

★日本人大虐殺を計画して実行した三大「ユダヤ人」

第1位   フランクリン・デラノ・ルーズベルト
    「マンハッタン計画」を推進した。

第2位   カーチス・ルメイ
    「日本本土空襲」を計画して実行した張本人。

第3位   ハリー・ソロモン・トルーマン
    広島・長崎への原爆投下を命令した。

http://www.youtube.com/watch?v=pNOoIe57mVw&feature=BFa&list=PLDB1B5614857BF088

http://www5.pf-x.net/~gotama/index.html

1939年4月 『七十六号』への批判起こる

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/10/05 18:39 投稿番号: [1945 / 2250]
晴気慶胤著   『上海テロ工作76号』   毎日新聞社
78〜80p


《 四月半ば過ぎ、 『七十六号』   は予定通り活動を開始した。

テロにはテロ、拳銃には拳銃という恐ろしい戦いが、

重慶側特務工作隊に対して挑まれたのであった。



『七十六号』   からは、情報を添えた報告書が、約束通り毎週私の手もとに届けられた。

情報は租界の敵の動静を正確綿密に記したものだったので、

憲兵隊に益するところが多かった。

だが工作そのものは予定通りには進んでいないらしく、

報告の内容はだんだん千変一律となり、精彩を失ってきた。



一方、重慶側特工隊のテロはますます激しくなるばかりで、

昨日も今日もと、犠牲者の報告がつづいてくる。

こうなると、私たちの立場が非常に苦しくなってきた。

日本軍の内部では、ようやく非難の声が高まりはじめた。



〝何のための特工ぞ。何のための   『七十六号』   ぞ。

重慶テロ一掃のために生まれ出た   『七十六号』   は、

いたずらに金を食うばかりでいったい何をしているのだ〟

こうした声は必然的に、丁黙邨や李士群たちに疑いの眼を向けていった。

あるいは彼らまで重慶テロに内通しているのではなかろうか   −   と。



なお、そのうえ悪いことには   『七十六号』   の行動隊員の乱行が起きた。

つまり急いで狩り集めたものだから、中には素質の悪いゴロツキ同然のやつがいて、

それらがわがもの顔にのしまわって、ゆすり、たかりを働き、民衆を痛めつけるのである。

そうした悪業が募り募って、いまや特工そのものが厳しい批判を浴びるに至ったのである。



こうした非難を一身に受けた私は、全く参ってしまった形だった。

憂鬱で夜も眠れなくなった私は、とうとう神経衰弱の気味すらあって

毎日イライラしていた。丁黙邨もしきりに焦っていたがどうともならず、

このごろは私のもとに顔を見せようともしない。

繊細で鋭敏すぎる彼の知性は、悪い環境に処して勇猛心を振るって

これを打破する力を与える代わりに、その性格をますます弱くして、

情勢をいよいよ悲観的に観察させたのだ。



しかし、こうした中にあって、李士群だけは大まかで楽天的だった。

彼は毎日のように私のところに来て、私をそれとなく元気づけ、

ときとしては夜遅くまで失敗談を話しして皆を笑わせたりした。そして、

「こちらも苦しいが、敵も苦しいに違いありません。計画は予定のごとく進んでいます。

もう少しの辛抱です。なあに、藍衣社なんかに負けるものですか」   と笑っていた。



彼は、ある日、 『七十六号』   の行動隊長という男を連れてきた。

呉志宝と呼ぶ四十あまりの大男である。

黒い大きな顔が不気味に脂ぎり、濁った眼には落ち着きがなく、

指や胸には金色に輝く大きな指環や鎖がそのあくなき物欲を現していた。

オドオドした卑屈な物腰の中には、かさにかかって人を見おろす凶悪な

相さえにじんで、一見して無知な暴力団の親分とうなずかされる風体だった。



李士群は一部行動隊員の不埒   (ふらち)   な悪業を詰問して、

私の面前で厳重に取り締まれと命じた。行動隊員には呉の旧部下が多く、

李の威令は必ずしも徹底せぬところがあるらしい。呉がペコペコといやらしく

愛橋を振りまいて立ち去ったあとで、李士群は嘆息して語った。



「あの男は、私の船会社の用心棒をしたこともあるゴロツキの大親分です。

勇敢で統御の才があるので、行動隊を任せています。

藍衣社との本格的戦いがいよいよはじまると、役に立つ男ですが、

教養がないので行為に知性がなく、困っています。

行動隊を粛清して   『七十六号』   の規律を高めるには、

いずれ彼を整理しなければならなくなるでしょうが、

藍衣社をつぶすまで、もうしばらくの間、大目にみているつもりです」



今日は珍しくも李士群から   『七十六号』   を粛清する話を持ち出した。

彼も私の気持ちはよくわかっているらしい。

しかし果たして粛清できるかどうか、私は多くを期待することができなかった。》

1937年12月 城内でソバ屋を開く中国人

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/10/05 18:27 投稿番号: [1944 / 2250]
児島襄著   『日中戦争4』   226〜227p


《 南京城内の掃蕩はつづき、南部からすすむ第百十四、第六師団は、

次第に市の中央部に近づいた。

左翼を北進する第二十三連隊がたどる路上は、ほとんど人影もなく、

散発的な狙撃をうける程度であった。



そのうち、意外にも店をひらいている麺料理屋をみつけ、

連隊本部の数人がはいって注文すると、主人は手早く   『広東ソバ』   を給仕した。

「こりゃぁ、甘露だのゥ」

「テンハオですな、まったく」



銃弾がとび、手榴弾、砲弾の炸裂音、そして爆煙と屍臭がただよう、

〝死の街〟で、営業するソバ屋は、いかにも奇妙な存在である。

しかも、主人は日ごろの顧客なみに日本軍を笑顔でむかえ、

日本側も警戒を忘れてソバに舌つづみをうった。



一同は、久しぶりに料理らしい味に満足し、銀貨で代金を支払った。

主人は、紙幣ではなく銀貨をもらったが、よほど嬉しかったらしい。

「謝謝、多謝」   とくり返して、第二十三連隊将兵をおくりだした。》

1939年4月 塚本氏参謀本部付を命ぜられる

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/10/04 18:58 投稿番号: [1943 / 2250]
塚本誠著   『ある情報将校の記録』
258p


《 昭和十四年四月、突然私は大本営陸軍部兼参謀本部付を命ぜられ、

台湾を離れることとなった。転任の理由は皆目わからない。》


262〜263p

《 参謀本部に着いた私は第二部第八課勤務を命ぜられた。

いうまでもなく、このポストは情報幕僚関係のもの、

私は情報勤務関係者として取り扱われているらしい。

第八課というのは第二部各課の特殊工作を専掌する課である。



課長臼井茂樹大佐   (30期)   とは初対面であるが、班長武田功中佐、

白木真澄中佐、太田梅一郎少佐は市ヶ谷台時代からよく知っている先輩、

中堅課員四人はいずれも同期生、岡田芳政、多田督知、大牟田盛幸、樋口浚である。



岡田は対中工作関係事務を処理する主任者で、私が着任すると、

「まず頭の髪を伸ばして何処へでも行けるよう準備しておれ」   といい、

対中工作の現況を説明してくれた、当時、対中工作というのは四つあった。



「竹工作」(呉佩風工作)   =   北京にいる大迫通貞少将が担当、

「蘭工作」 =   上海にいる和知鷹二大佐の担当する対李宗仁、白崇禧工作、

「菊工作」 =   台湾にいる山本募大佐の対福建黄大偉工作、それに

「梅工作」 =   影佐禎昭大佐の対汪精衛工作、というのがそれである。



そのうちで最も筋の通り、具体性のあるのが影佐大佐担当の汪精衛工作であった。

現に私の着任した当時、影佐大佐は五相会議の指令に基づいて、山下汽船の

北光丸に乗り仏印河内   (ハノイ)   に汪精衛の救出に向かっていたのである。

当時の五相会議のメンバーは総理平沼騏一郎、外相有田八郎、

蔵相石渡荘太郎、陸相板垣征四郎、海相米内光政であった。》

1937年12月13日 虐殺されていた日本兵

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/10/04 18:52 投稿番号: [1942 / 2250]
12月13日から、日本軍は南京城内に入るが、

この時、虐殺された日本兵の死体が見つかった。



★   生きたまま焼かれた日本兵

上海派遣軍第九師団山砲連隊第七中隊   中隊長代理大内義秀氏の宣誓供述書より


《十二月十三日午後、私達は光華門の城壁を占領したが、入城は許されず、

憲兵と一部の小部隊が入城した。

その日、城壁付近で彼我不明の焼死体を発見、まだかすかに息をしていた。

これを見た大隊長芳賀少佐は激怒し犯人の捜索を厳命した。

私の部下に犯人はいなかった。



死体を検死した軍医は、これは少なくとも十時間以前の犯行であるから、

日本軍の入城前であり、日本兵が捕虜となり、

支那軍によって焼かれたものであろうと判定した。》

(冨士信夫著   『「南京大虐殺」   はこうしてつくられた』   210p)



*   10日に第九師団・第六旅団・第36連隊の第一大隊が光華門城壁に

   日章旗を立ててから、3日間頑張っていたから、

   犠牲者は彼らの内の誰かかも知れない。

   また、別の残酷死体も見つかっている。



★   手足を立木に縛られ銃殺された日本兵

第三師団野砲兵第三連隊第一大隊観測班長・大杉浩の宣誓供述書より


《十二月十三日夕刻頃、南京の南方の城門から城内に入ったが、

そこには彼我の戦死体が点々と散在して居ましたが、

その中に一人の日本兵が手足を立木に縛られた儘(まま)、

身に数弾を受けて死んでゐました。



私は一見して、俘虜となった日本兵が支那軍によって虐殺されたものと感じ、

縄を切って地上に下ろしておきました。

城壁の近くには支那軍の戦死体が相当数ありましたが、

常民の死体は見なかった。》

(冨士信夫著   『「南京大虐殺」   はこうしてつくられた』   175p)



新愛知新聞 ・ 南正義記者の証言

★   十二月十三日ですか、先頭の部隊と共に中山門から城内に入り、

  中山東路を進むと、街路樹のプラタナスに日本兵が吊るされていて

  大騒ぎになりました」


日本兵がですか。


  「そうです。後でわかったのですが、通済門か光華門で戦いがあり、

  そこで捕まった日本兵らしいのです。それを中山東路につれてきて、

  殺して、プラタナスの木に吊るしたものです。

  下から火であぶってありました」


何体くらいですか。


  「私が見たのは二、三体です。すぐプラタナスから下ろしました。

  それを見た兵隊たちはカーッとなりましてね。

  それでなくとも敵愾心がありますから」

(阿羅健一著   「南京事件」   日本人48人の証言127p)



*   こんな事をされたら、日本兵の中国投降兵に対する態度が、

   悪くなるだろう事は、容易に想像がつく。

福岡県警はなぁ半日公安体制やで〜

投稿者: whitekurumecity911 投稿日時: 2012/10/03 20:24 投稿番号: [1941 / 2250]
反日公安の手先〜○岡県公安署長岡元〜元○岡県警岡元大輔〜○留米市北○町高良1721ー1ー302鹿毛信義一家〜古賀好男〜○留米市荒木町藤田1066古賀麻里恵〜○女市本村25総合庁舎監視室古賀繁文〜ビビり110番野郎プラント本舗三擦り半晴誠吾〜糸数昌一一家〜小笹交番藤吉道史おおくままさあき

1939年4月13日 イタリア・アルバニア併合

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/10/03 18:42 投稿番号: [1940 / 2250]
〔昭和14年4月14日   東京日日(夕刊)〕   アルバニアを正式併合


〔ローマ本社特電十二日発〕   十二日午後四時からチラナにおいて開かれた

アルバニア憲法起草会議の決議により、

アルバニア国民の総意に基づきアルバニア王位を、

イタリー国王・エチオピア皇帝ヴィットリオ・エマヌエーレ三世及び

その子孫に献上することに全会一致で決定、

同時に自治政府の顔触れを発表した。



これによりアルバニアは王位継承によるイタリーへの併合が実現したことになるが、

十三日、ローマのヴェネチア宮においてはファッショ党緊急大評議会が招集され、

アルバニア併合に伴う憲法上の手続きを協議する外、

初代総督の任命が行われることになった。

なおイタリー各紙はこの併合に対して   「併合」   という言葉を用いず、

「連合」   という言葉を用いている。

1937年12月13日海軍の下関突入

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/10/03 18:38 投稿番号: [1939 / 2250]
戦史叢書   中国方面海軍作戦1』   467〜468p


《 南京突入(一三日)   烏龍山砲台の守備兵は十三日未明の

陸軍第十三師団山田支隊の進出及び海軍部隊の砲爆撃により、敗走した模様であった。

南京においては陸軍部隊は城内に突入し始めた。

近藤指揮官は急速閉塞線を突破して南京に進出するに決し、

12:00 ころ各隊に進撃を下命した。

・・・

13:30   前衛隊   (保津、勢多、掃一、掃三号、山風、海風)、

15:15   主隊   (二見、掃一、掃四号、江風、涼風、安宅は錨鎖に掃海索が絡まり

出港が遅れ、近藤指揮官はとっさに江風に旗艦を変更、南京入港後安宅に復帰した)   の

順に泊地発、縦陣列で閉塞線を突破し南京に向け進撃した。

更に主隊の後に第一水雷隊の   「鵲、鴻」、「安宅、熱海、掃二、掃五号」

がこれを追った。



江上、江岸は敗走する敵大部隊、舟艇、筏   (いかだ)   で充満していた。

各艇はこれらに猛攻撃を加え、

更に天河口、硫安工場付近の野砲陣地その他の抵抗を排除しつつ前進し、

先頭の保津、勢多は 15:40、主隊は 17:00 南京に突入した。

第一掃海隊は南京到着後直ちに泊地を掃海し、また浦口桟橋を確保した。



児島襄著   『日中戦争4』   222〜223p

《   −   正午、

烏龍山沖の閉塞戦を除去した海軍第十一戦隊司令近藤英次郎少将は、

南京への前進を下令した。

戦隊が縦陣列ですすむにつれ、江岸と江上は脱出をいそぐ中国側の筏、

小舟、さらに泳ぐ人馬で満ちあふれていた。

各艦は砲、機銃で   「猛攻撃」   を加え、

さらに左右岸の中国軍陣地を銃砲撃しながら、下関埠頭をめざした。

・・・

艦の横を掃蕩された中国兵の死体が流れすぎ、

中には太い一本の竹にすがる中国兵が波におされて近づいてきた。

「ニイ、来々……」

水兵が片言の中国語で呼びかけ、手をさしのべる仕ぐさをみせたが、

中国兵は頭を左右にふり、光る眼で艦を注視しながら流れて行き、

後続艦の機銃掃射をうけて水没した。》



*   ここでは、 「江上、江岸は敗走する敵大部隊、舟艇、筏 (いかだ) で充満

   していた。各艇はこれらに猛攻撃を加え」   とあるが、どこまで本当だろうか?


   前夜、南京城内から脱出しようとした連中は、船がなく、城内に戻った。

   幕府山から烏龍山の間は第2軍が全員渡河したので、もう船はないだろう。

   午前10時ころには下関は佐々木支隊によって占領されている。

   海軍が閉塞線から、進発するのが 13:30 、海軍が通るころに、

   敵大部隊がどうやって渡河できる?

   江上にあるのは、下関から流れてくる漂流者や死体では。

   海軍は、これを銃撃して、手柄にしていないか?



   陸軍佐々木支隊も同じ漂流死体に銃弾を浴びせて手柄にしているだろう。

   海軍も同じ漂流死体に銃弾を浴びせて手柄にしている筈。

   その前に南京の南西部で第6師団が攻撃しているが。

   これらの戦果は三重に重複していないか。


   しかして、これらの漂流死体を作ったのは、主に、中国軍の同仕打ち。

   南京南西部の戦いのみ日本軍が関与。


   何も知らない、善人心の日本人は、これらの記録を見て日本軍の大虐殺と思いこむ。

中国に帰れ

投稿者: shooter0229 投稿日時: 2012/10/02 20:15 投稿番号: [1938 / 2250]
日中関係が崩れているなかで中国人が偉そうに語るのはやめろ!
お前ら中国人の汚ない姑息な手段に日本国民は憤りを感じている!
お前ら中国人は祖国に帰れ!
嘘を嘘で固める民族とは関わりを持ちたくない

1939年4月9日 英租界で天津海関長射殺さる

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/10/02 18:41 投稿番号: [1937 / 2250]
〔昭和14年4月11日   東京日日(夕刊)〕

〔天津十日発同盟〕   九日午後八時半、天津英租界カウンシル・ロードの

グランド映画劇場で、天津海関長兼連銀天津分行経理程錫庚氏   (四七)   が

高夫人とともに帰途につかんとして立ち上がった際、

突如後方にいた洋服着用の怪支那人がピストルを乱射、

程氏は後頭部に二発貫通銃創を受け即死した。



犯人はまだ逮捕されない。

平素抗日分子の取り締まりに対してはわが方に協力を誓っている英租界内において、

かかる事件の発生したことは各方面に多大の衝動を与え、

近く支那側より厳重抗議を発するはず。

程氏はロンドン大学出身、温厚の士で、連銀天津分行の経理とし多大の功績を挙げ、

温世珍氏のあとを承けて最近天津海関長に任命されたものである。

1937年12月13日 山田支隊 烏龍山占領

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/10/02 18:35 投稿番号: [1936 / 2250]
戦史叢書   『支那事変   陸軍作戦1』   428p

《 山田支隊は十三日烏龍山を占領 》



東中野修道著   『南京大虐殺の徹底検証』   128p


《 (山田支隊第六十五連隊)   は、十二月十三日、霞棲街   (かせいがい)   を通った。

霞棲街は宿泊の家もないほど、支那軍に放火されていた。

午後一時、第六十五連隊の第一大隊は揚子江岸の烏龍山砲台の占領に成功する。

次の目標は幕府山砲台の占領であった。

1939年4月8日 防共協定にスペインも参加

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/10/01 18:45 投稿番号: [1935 / 2250]
〔昭和14年4月9日   東京日日(夕刊)〕


欧洲政局へ新布石   日独伊防共盟邦はかねて新生スペインを

防共協定に参加せしむる意向の下に折衝中であったが、

三月二十七日、スペイン国首都プルゴスにおいて矢野駐西公使、

ホルダーナ西国外相、カンパルト伊国大使、フォン・シュトーラー独逸大使の間に

協定参加に関する議定書に正式調印を終了したので、

前記四国は八日、それぞれの首都において協定成立の趣きを公表した。



わが外務省は同日午後一時、スペイン国の共産インターナショナルに対する

協定参加に関する議定書並びに情報部長談を発表して、

新生スペインの防共陣営加入の経緯と政治的意義を中外に宣明した。

かくて防共陣営は日、独、伊三原署名国を枢軸に、さきには満洲国

及びハンガリー国を加え、今回更に新生スペインの参加を見ていよいよ拡大、

強化の一途を進んでいるが、欧洲政情が複雑多岐なる展開を示している今日、

新生スペインの参加は極めて意義深きものがあり、防共盟邦の礎石の鞏固なるを想わせる。


注:   鞏固   キョウコ    現在は   「強固」   の文字が使われている。

1937年12月 大量の投降兵に困惑する日本軍

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/10/01 18:39 投稿番号: [1934 / 2250]
児島襄著   『日中戦争4』   223〜224p


《   −   午後一時すぎ、

南京城内をすすむ各部隊は、次第に収容する中国兵捕虜の数をふやしていた。

第百十四師団第六十六連隊だけでも、すでに千数百人をかぞえていた。

捕虜は適時に後方の連隊本部、旅団司令部におくるが、

各部隊ともにその処置に困惑した。

捕虜は、いわば 〝扶養人口〟 である。

敵ではあっても、武器を捨て降伏した以上は給養しなければならない。



「捕虜ハ   第四中隊警備地区内   洋館ニ収容シ、周囲ニ警備兵ヲ配備シ、

其ノ食事ハ   捕虜二〇名ヲ使役シ、徴発米ヲ   炊爨 (すいさん) セシメテ

支給セリ……食ニ飢ヱタル彼等ハ、争ツテ貪食セリ」



第六十六連隊第一隊戦闘詳報にも、そう記述されている。

だが、数十人、数百人の捕虜なら、たとえ毎食に   「貪食」   されても

なんとかなろうが、数千人、ひいては南京守衛軍主力の大部の数万人が

投降してくるとなると、重大問題である。



日本側は、既述したように、第十軍は   「糧株ハ追送補給セズ」   と規定し、

現地徴発をたよりに南京への急進撃をかさねてきた。

その現地徴発は、中国側の   「焦土戦術」   のおかげで不如意にとどまり、

将兵はひたすら空腹に耐えている。



むろん、国際法は、交戦国に捕虜にたいする給養、必要な生活手段、

医療の供与を義務づけてはいるが、

現実には、日本軍自身が   「飢ヱタル」   事情にある。


「白米はもはや一粒もなく……捕虜に食わせるものの持ち合せなんか

我軍には無いはずだった」


第十六師団第三十旅団長佐々木到一少将が、中国兵捕虜の群れを前にして、

そう、憮然と歎息するゆえんである。》

1939年4月8日 蒋は英仏中三国同盟を提案

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/09/30 15:23 投稿番号: [1933 / 2250]
児島襄著   『日中戦争5』
201〜202p


《 国際連盟理事会は、対中国援助決議案を採択し、

英国は機械購入用に三百万ポンド、通貨安定用に一千万ポンド、

米国も飛行機購入用の千五百万ドルを、中国に借款供与した。

しかし、たりない。極言すれば、 「焼け石に水」   である。

蒋介石は、中国に権益を持つ英仏両国が、結局は   「劣勢」   の中国に見切りをつけ、

援助するよりも日本と妥協して権益を保全しようとするのではないか、と懸念した。



英大使A・カーが、重慶で米海軍武官補佐官J・マクヒュー海兵少佐に

語ったところによれば、

蒋介石は、四月八日、香港に出張中の大使に使者を派遣して、

「英仏中国三国同盟」   を提案した。


ヨーロッパの戦争が近づいている。戦争が起れば、

日本は香港、インドシナ攻撃をにおわせて英仏に

「事変解決」   の協力を要求するかもしれない。

そのさい、中国は、武器と弾薬をもらえば   「兵力と労力」   を提供し、

両国の権益を守り、日本の香港、インドシナ進出を抑止しよう   −   というのである。



英大使カーは、そのような同盟を結べばかえって日本を刺戟   (しげき)   して、

「日独伊同盟」   に日本を走らせるだけだと返事した、と、

補佐官マクヒュー少佐に述べた。

少佐は、蒋介石は相当に困っているようですね、といい、

英大使がうなずくのを待って、三日前の香港総領事A・サザードの通報を話題にした。



福建省政府顧問S・リーなる人物が、香港に滞在する中国銀行董事長宋子文に

日本の前外相宇垣一成大将からの和平提案をつたえ、

董事長宋子文は強い関心を示した、というのである。

少佐が、あるいは、蒋介石側も和平を意図して日本に接触しているのではないか、

というと、英大使は、うなずいた。

「わが英国情報部の判断では、汪兆銘も国民政府が派遣した和平密使だ、とみている」



   −   そのころ、

陸軍省軍務課長から参謀本部付に転出した影佐禎昭大佐は、逓信省参与

犬養健とともに、山下汽船   「北光丸」   で東シナ海を南下していた。》

1937年12月13日 ラーベの日記2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/09/30 15:15 投稿番号: [1932 / 2250]
《 ふと前方を見ると、ちょうど日本軍がむこうからやってくるところだった。

なかにドイツ語を話す軍医がいて、我々に、日本人司令官は二日後にくるといった。

日本軍は北へむかうので、われわれはあわててまわれ右をして追い越して、

中国軍の三部隊をみつけて武装解除し、助けることができた。全部で六百人。

武器を投げ捨てよとの命令にすぐには従おうとしない兵士もいたが、

日本軍が進入してくるのをみて決心した。

我々は、これらの人々を外交部と最高法院へ収容した。



私ともう一人の仲間はそのまま車に乗っていき、

鉄道部のあたりでもう一部隊、四百人の中国軍部隊に出くわした。

同じく武器を捨てるように指示した。

どこからかいきなり弾が飛んできた。



音が聞こえたが、どこから撃っているのかわからない。

やがて一人の中国人将校が馬に乗ってカービン銃をふりまわしているのを見つけた。

おそらく我々がしたことが納得できなかったのだろう。

たしかに彼の立場からすれば、無理ないのだろうが、

こっちとしてもほかにどうすることもできなかったのだ!



ここで、安全区の境で、市街戦が始まりでもしたら、

逃げている中国軍が、安全区に戻ってくるのは火を見るより明らかだ。

そうなったら安全区は非武装地帯ではなくなり、

壊滅とまではいかなくても徹底的に攻撃されてしまうことになる。

我々はまだ希望を持っていた。完全に武装解除していれば、

捕虜にはなるかもしれないが、それ以上の危険はないだろう、と。

我々に銃口を向けた将校がそれからどうなったか知らない。

ただ、仲間のハッツが彼からカービン銃を奪うのを見届けただけだ。



本部に戻ると、入り口にすごい人だかりがしていた。

留守の間に中国兵が大ぜいおしかけていたのだ。

揚子江をわたって逃げようとして、逃げ遅れたのにちがいない。

我々に武器を渡したあと、かれらは安全区のどこかに姿を消した。



シュペアリングは非常に厳しい固い表情で正面玄関にたち、

モーゼル拳銃を手に、といっても弾は入っていなかったが、

武器をきれいに積み上げさせ、ひとつひとつ数えさせていた。

あとで日本軍にひき渡さなければならない。》

1939年4月6日 イタリア・アルバニア占領

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/09/29 15:12 投稿番号: [1931 / 2250]
〔昭和14年4月7日   東京朝日〕


〔ローマ特電六日発〕   イタリー軍は五日夜、完全にアルバニア国を占拠した。

右に関しイタリー政府は六日午前十時、コンミュニケを発表するはず。

ただし占領後における同国の国際法上の地位は未定。



なおチアノ伊外相は六日朝、伊外務省に急遽   (きゅうきょ)   帰任、

ローマ駐剳   (ちゅうさつ)   アルバニア公使を呼び、

チラナ駐剳イタリー公使を召還し重要会談を遂げた。

右占領は同国の実質上のイタリー併合を意味し、

目下急迫せるバルカン並びに欧洲の政情に適応する応急処置と解さる。



〔チラナ六日発同盟〕   イタリー巡洋艦一隻及び駆逐艦二隻は六日払暁、

突如アルバニアの首都チラナに通ずる外港デュラッソーに入港した。


ム首相、飛行機で示威   〔ローマ特電六日発〕   ムソリニ首相は六日午前八時半、

自ら爆撃機を操縦してアドリア海沿岸アンコナに近きエジに向かった。

確聞するに、ム首相は現下の急迫せる情勢に鑑み、バルカン方面に対する

イタリー政府の重大関心をこの飛行により明示したものと解せらる。



〔ローマ特電六日発〕

ムソリニ首相のエジ飛行はアルバニア出兵部隊の閲兵を目的としたもので、

全部隊は既に同国を占領、これによりイタリーはいよいよバルカン列強の間に

積極的に乗り出したわけである。

確報によれば、イタリー、アルバニア間のいっさいの電信、

電話は六日朝十時より不通となり、アルバニア国民の一部は抵抗をなしたといわれる。



イタリーのアルバニア占領はギリシャ、ユーゴースラヴィア及び

ルーマニアにとっては大脅威であり、

ブルガリアにとっては百万の味方を得たことになるわけで、

英仏筋がこれに対しいかなる態度に出るかが注目される。



なおルーマニアは目下南部ドブルジア方面に約五師団を集結中であり、

ブルガリアもこれが対抗手段を講じつつあるに加え、

シリア、イラク方面に澎湃として反英仏運動が起こりつつある折柄、

その成り行きが注目される。(後略)

1937年12月13日 陸軍の南京城突入

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/09/29 15:03 投稿番号: [1930 / 2250]
児島襄著   『日中戦争4』   221〜222p


《 第十六師団は右翼の第三十八連隊が装甲車を先頭にして東から下関にせまり、

第三十三連隊は太平門、第九連隊は中山門の突破をこころみた。

第九師団は、第三十五連隊がまず中山門東側の城壁をおどりこえ、

第三十六連隊と第十九連隊主力は光華門内になだれこんだ。

第百十四師団は中華門からの突入をはかり、

第百二連隊、第六十六連隊が重砲の援護下にすすんだ。

その左の第六師団は、第十三、第四十七、第二十三連隊が、それぞれの正面に

確保した城壁突破口にすすみ、第二十三連隊がまっさきに城内に進出した。



   −   午前十時、

第十三師団は烏龍山攻撃をはじめ、第十六師団も次々に城壁をこえ、

第九師団は城内での掃蕩前進にうつった。

第百十四師団は中華門に日章旗をかかげ、

第百二連隊を先頭にして南京市内の中山北路を北進した。



街には、十数人ずつの中国人市民が所々にかたまっていたが、

第百二連隊が出現すると、歓呼と拍手でむかえた。

第六師団も、第二十三連隊につづいて第十三、

第四十七連隊が城内にはいり、掃蕩戦を実施した。



ただし、どの部隊もその前進は慎重をきわめた。

市街戦がいかに苛酷かは、上海でもその他の都市でも、

たっぷりと体験させられていたからである。

たとえば、第百十四師団では、参謀長磯田三郎大佐が、

とくに次のような注意を各部隊に示達していた。



「市街戦ハ   極メテ困難   ナルヲ以テ、前進路ノ左右ニ   通ズル道路ヲ

巧ミニ利用シ、連絡ヲ緊密   ナラシムルコト……、

市街戦ニ於テ   道路上ヲ   行進スル場合ハ、

土嚢ヲ積ミタル   樽等ヲ利用シ、之ヲ   転ガシナガラ   前進スルヲ要ス……。

敵ガ家ノ二階   又ハ   屋上ヲ利用スル場合ハ、先ヅ下階ヲ占領シ、

之ヲ焼却スルカ   又ハ上ニ向ツテ   掃蕩スル……」



すべての建物は敵陣であり、動くものはすべて敵とみなす配慮が必要なのが、

市街掃蕩戦であり、それだけに日本軍将兵は、

恐怖をこめた不安と緊張に眼を血走らせていた。》

1939年4月1日 南沙諸島の領有公示

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/09/28 18:49 投稿番号: [1929 / 2250]
新南群島(南沙群島)

〔昭和14年4月1日   東京日日〕   日本が領有を公示、南シナ海の珊瑚礁


台湾総督府の管轄下へ

帝国政府は南支那海における無主の珊瑚礁島嶼、新南群島を

台湾総督府の管轄に属せしむることとし、三月三十日付でこれを公示したが、

外務省では右に関し三十一日、左のごとく発表した。

なお沢田外務次官はアンリ駐日仏大使を三十一日午前十一時、外務省に招き、

右の件を通告するとともにその諒解を求めた。



(外務省発表三十一日午後五時)

新南群島は仏領印度支那の東方、南支那海中に存在する小珊瑚礁島群であって、

永年無主の珊瑚礁島嶼として知られていたものであるが、

大正六年以来わが国人は何国人にも先だって巨額の資本を投下し、

恒久的の諸施設を設けて同島嶼の経済的開発に従事し来たった。



帝国政府はこれら邦人の活動を承認し、数次同島嶼へ軍艦を派遣し、

かつ必要に応じ各般の援助を与え来たったのであるが、

従来その行政管轄が確定せず、

ために邦人の生命財産及びその事業の保護並びに取り締まりに不便があり、



また仏国との間に無用の紛争を生ずる虜れがあったので、

かかる不便及び不利を除くため今般同群島を台湾総督府の管轄に属せしむることとし、

三月三十日付を以って公示するとともに、

右の次第を三十一日、沢田外務次官より在京仏国大使に通告した。



*   この話からすると、別にフランスから奪ったわけでもなさそうだ。

   大正6年から、経済開発していたのなら、戦争中奪ったものでもない。

   南沙諸島は、日本の物と主張してもよいのでは。

1937年12月13日のラーベの日記1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/09/28 18:42 投稿番号: [1928 / 2250]
  十二月十三日


《 日本軍は昨夜、いくつかの城門を占領したが、まだ内部には踏み込んでいない。

本部に着くとすぐ、我々はたちどころに国際赤十字協会をつくりあげ、

私が役員として加わった。ここしばらくこの件を担当していた盟友マギーが会長だ。

委員会のメンバー三人で野戦病院に行く。



それぞれ外交部・軍政部・鉄道部のなかにつくられていた。

行ってみてその悲惨な状態がよくわかった。

砲撃が激しくなったときに医者も看護人も患者をほうりだして逃げてしまったのだ。

我々はその人たちを大ぜい呼び戻した。

急ごしらえの大きな赤十字の旗が外交部内の病院の上にはためくのを見て、

みな再び勇気をとりもどした。



外交部にいく道ばたには、死体やけが人がいっしょくたになって横たわっている。

庭園はまるで中山路なみだ。一面、投げ捨てられた軍服や武器で覆われている。

入り口には手押し車があり、原形をとどめていない塊が乗っていた。

見たところ遺体にみえたが、ふいに足が動いた。まだ生きているのだ。

我々はメインストリートを非常に用心しながら進んでいった。

手榴弾を轢いてしまったが最後、ふっとんでしまう。

上海路へと曲がると、そこにもたくさんの市民の死体が転がっていた。》



(この後、日本軍との遭遇が出てくるが、それは、日本軍突入の後に続ける)



町を見まわってはじめて被害の大きさがよくわかった。

百から二百メートルおきに死体が転がっている。

調べてみると、市民の死体は背中を射たれていた。

多分逃げようとして後ろから射たれたのだろう。》



*   ここまでは極端な問題はない。

   ただ、道路の死体や惨状は中国兵による夜中の混乱で生じたもので、

   日本軍はまだ関与していない。

   「市民の死体は背中を射たれて」   とあるが、

   これらの死体は、基本的に、前日夜にできたもので、

   この   「市民」   なるものが本当の市民なのか、

   軍服を脱いで   「市民」   に化けた中国兵なのか判らない。



   しかし、前後の事実関係を知らずして、ラーベの日記をこの後続けて読むと、

   日本軍がやったかのように勘違いさせられる。



つづく

1939年 汪兆銘の救出に動く

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/09/27 19:03 投稿番号: [1927 / 2250]
児島襄著   『日中戦争5』   文春文庫
203p


《「刺客」   の襲撃が   「ふんぎり」   をつける契機になったのかもしれない。

日本側に救援が要請され、影佐大佐の出動になったのである。

大佐は、陸相板垣征四郎中将の指示をうけたが、〝救出〟 後の汪兆銘の厚遇を

確保するため、海軍、外務省、興亜院、民間の代表の派遣と五相会議の諒解を得た。

同行した逓信省参与犬養健は、代議士でもあるので民間代表となり、

海軍は須賀彦次郎大佐を指名し、外務省は清水董三書記官、

興亜院は外務省から出向の書記官矢野征記を派遣した。》



塚本誠著   『ある情報将校の記録』   中公文庫
268p


《 三月には側近的同志曾仲鳴は汪氏の隣室で

重慶特務工作員の兇手に仆   (たお)   れるのである。

そこで、板垣陸相は影佐大佐に汪精衛   (兆銘)   氏を安全な地帯へ

救出させる任務を与え、ハノイに派遣したが、

救出場所などについては汪氏の安全と運動の利便とを考え、

汪氏の意思を尊重して行動するよう伝えたことは、いうまでもない。



影佐さんは出発に当たって本工作は陸、海、外、興亜院、なし得るなら

民間の者をも加えて各方面一体となっての工作でなければならぬと考え、

米内海相には海軍からも代表を出すことを要請したが、

海相は今回のハノイ行には影佐が海軍代表であると答え、

汪氏宛その旨を書いた親書を影佐さんに携行させた。

海相は後日、須賀彦次郎大佐を海軍代表に指名した。



影佐さんのハノイ行には、外務省興亜院兼任の矢野征記書記官と

外務省の清水董三書記官、それに民間代表という意味での衆議院議員

犬養健の三人および軍医その他が同行した。》

1939年12月13日 佐々木隊 下関占領

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/09/27 18:57 投稿番号: [1926 / 2250]
佐々木倒一少将私記
十二月十三日


《 払暁前   我が第一線は敵陣地に突入し   続て敵を急迫し、

軽装甲車中隊   午前十時頃   先ず下関   (シャーカン)   に突進し、

江岸に蝟集   (いしゅう)   し或いは江上を逃れる敗敵を掃討して

無慮一万五千発の弾丸を撃ち尽くした。


この間 歩三八   (歩兵第38連隊)   は城北に面する五個の城門を占領して敵の退路を絶ち、

連隊長は三三の大隊と共に装甲車に追及して西面ユウ江門付近に進出し、

逃げ遅れた敵兵と戦闘を交えた。



司令部は予備隊たる歩兵一中隊を以って   左後方より突撃し来る前後数回の敵と

激戦を交へ、通信手、輜重兵、伝騎に至るまで戦線に加入敵を撃退し、

その後方を追及しつつ道路の不良に悩みつづけた野砲兵大隊は

是   (これ)   又   夜間敵の襲撃を受け援護の歩兵一中隊、工兵一小隊と共に

零分割射撃以って敵に応戦、四時間の久しきに亘 (わた) って戦闘。



更にその後方には後衛として残置した歩兵二中隊が   夜半以降

又二方面より反復殺到する敵の大部隊と戦闘してこれを撃滅した。

更にその後方衛生隊附近に集成騎兵団が位置していたが、

暗黒の裡に敵の襲撃を受けて部落内に突入せられ、

人二百馬六十の損害を被るが如き失態を演じている。



此騎兵も又その後方に在った重砲も盛んに増援を請うてきたが

自衛力を有するものを顧みる遑   (いとま)   はなかった、

蓋   (けだ)   し予の部隊は数里の長きに亘って延伸し

側面に対して至る処   (ところ)   激戦を交えている状態だったからである。


(中略)


前述する如く午前十時我支隊の軽装甲車が最初に下関に進出して完全に敵の背後を絶ち

又我歩兵は北面の城門全部を占領封鎖して敵を袋の鼠とし、

少し遅れて第六師団の一部が南方より江岸に進出し、

海軍第十一戦隊が遡江して流下する敵の舟筏を掃射しつつ

午後二時下関に到着し、国崎支隊は午後四時対岸浦口に来着した。



其他の城壁に向かった部隊は城内を掃蕩しつつある。

実に理想的の包囲殲滅戦を演じているのであつた。

此日我支隊の作戦地域内に遺棄された敵屍は一万数千に上り

その外、装甲車が江上に撃滅したもの並各部隊の俘虜を合算すれば

我支隊のみにて二万以上の敵は解決されている筈である。》



*   ここには   「江岸に蝟集し或いは江上を逃れる敗敵を掃討」   と

   書いてあるが、これは、本当の話だろうか?

   中国兵が船を求めて右往左往していたのは、もっと早い時間。

   船の奪い合いで、同士撃ちをやって、下関附近には、死体の山ができていた。

   そして、船や筏に乗った者も積載オーバーで沈没、流されていた。


   殆どの兵は、乗るものがないため、諦めて城内に戻り安全区に隠れた。

   何で、こんな時間帯に、そんなにたくさんの兵が居る?

   装甲車に追われて来た兵と南から第6師団に追われて来た兵は別として。



   「江岸に蝟集し或いは江上を逃れる敗敵を掃討」   というのは、

   既に、下関附近にあった大量の死体や、江上を漂流する死体を、

   戦果とするための、作り話では?


   佐々木日記には、到着したとき、既にそこに   「大量の死体があった」

   とは書いていない。

   まるで、自分たちが、初めて、死体を作ったかのように書いている。


   これが、後に、大虐殺の根拠とされてしまうとも知らずに。

アメリカが世界に誇る《三大日本人虐殺》

投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2012/09/26 22:23 投稿番号: [1925 / 2250]
★ユダヤ米国が世界に誇る「三大日本人虐殺」

第1位   広島原爆投下(当時の死者数14万人)

第2位   東京大空襲(当時の死者数10万人)

第3位   長崎原爆投下(当時の死者数7万人)

★日本人大虐殺を計画して実行した三大「ユダヤ人」

第1位   フランクリン・デラノ・ルーズベルト
    「マンハッタン計画」を推進した。

第2位   カーチス・ルメイ
    「日本本土空襲」を計画して実行した張本人。

第3位   ハリー・ソロモン・トルーマン
    広島・長崎への原爆投下を命令した。

ユダヤ権力の世界戦争計画

①日露戦争
②ロシアの共産化
③ナチス・ドイツ捏造
④日本の大陸進出
⑤真珠湾攻撃
⑥太平洋戦争
⑦米国の欧州参戦
⑧世界大戦
⑨原爆投下
⑩戦後の冷戦


http://www.youtube.com/watch?v=pNOoIe57mVw&feature=BFa&list=PLDB1B5614857BF088

1939年3月27日 日本国産テレビ有線で実験

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/09/26 18:40 投稿番号: [1924 / 2250]
〔昭和14年3月28日   東京朝日〕


試写上々   世田谷の日本放送協会技術研究所では二十七日午後、

既報のごとく有線による晴れの国産テレヴィ初実験を行ったが、

新テレヴィは従前のものより映像もズッと明瞭になって、

画面を描く走査線も完全に一つの面と溶けこんでちらつきも少なく、

長足の進歩がうかがわれた。



色に対する感度は写真フィルムで云えば、

ちょうど普通のクローム級明暗、濃淡のはっきりしたものの方が映りが良い。

現在の装置では実物を映すよりは映画等の方が成績が良いが、

同研究所内スタジオの照明装置は現在八十キロワット、一万ルクス、

白昼野外の明るさは普通これの約十倍、十万ルクス以上とされており、



野外ではその上紫外線が強いので、現在のものでも野外の風物を写せば、

いっそう明瞭な映像が得られるわけで、

陽春五月、百米   (メートル)   大鉄塔の完成とともに街頭スナップ、

野外スポーツ等、協会自慢のテレヴィ自動車を自由に駆使しての

市中向けの実験放送がいっそう期待されている。

1937年12月13日 南京城外南西部での激突

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/09/26 18:34 投稿番号: [1923 / 2250]
南京の北東部で佐々木隊が激闘を繰り広げていたころ

南西部でも脱出軍との激突があっていた。



児島襄著   『日中戦争4』   219〜221p


《 水西門の北西に集結した第七十四軍の第五十一、第五十八師は、

しかし、城外に出て、揚子江沿いに南進する準備をととのえた。

  そこで、十二月十三日   −

日本側にとって   「南京城突入」   の日の戦いは、まず、

西側を脱出南下する中国軍第七十四軍と、

退路遮断のために北上する第六師団第四十五連隊主力との交戦で、開幕したのである。



この日も朝霧が濃く、日出前の午前六時すぎでは、

第四十五連隊がすすむ江岸一帯は闇につつまれ、

右手の南京城壁も城内の火焔を背にして黒い森のようにみえる。

第十一中隊の尖兵小隊長赤星中尉が、出発を歩哨に指示すべく本道に出て、

人の気配をたよりに近づくと、相手もこちらをたしかめるためか、顔をよせてきた。



(ご苦労……)   と唇を動かしかけたとたん、中尉は相手に気づいて、立ちすくんだ。

敵   ―   である。しかも、相手は将校斥候らしく、

中尉は数人の兵の銃剣にかこまれ、敵将校と対面していたのである。

「私は軍刀に手をかけようと思うが、動けば直ぐやられるような気がして、

どうしてどうして生きた心地は致しません」



闇の中の緊張対峙がつづいたが、敵将校がふと一歩をふみだしたとき、

中尉は、夢中で軍刀をぬいてふりまわし、横の溝に身を投げだして、

敵襲ッ、敵襲ッ、と連呼した。



脱出してきた中国軍第七十四軍主力は、約六千人。優勢であるうえに、

生きのびようとする決意に燃えているので、その攻撃もはげしかった。

チャルメラ風の中国軍ラッパを、日本側では   「テラテラ喇叭 (ラッパ)」   と

呼んでいたが、第七十四軍はそのラッパを吹き鳴らして、第四十五連隊に殺到した。

第十一中隊は、中隊長大薗庄蔵大尉が戦死してあやうく包囲されかけたが、

大隊砲と連隊主力の応援で危機をきりぬけ、逆に殲滅戦に移った。



中国軍第七十四軍は潰乱し、北に逆行する者、江岸に逃げる者、

あるいは日本軍の間をすりぬける者にわかれたが、南進した将兵は、

待ちかまえた日本側の騎兵第六連隊の銃火になぎ倒された。

第四十五連隊は追撃し、北河鎮を経て   「大同製麺公司」   工場にたてこもる残兵を一掃した。

次いで、江岸に機銃をすえ、筏や戸板にすがって渡河しようとする敗兵を掃射し、

工兵が敵屍体を積んで急造した   「気味悪い橋」   をわたり、下関への道をいそいだ。》



*   この戦いで、新たに、揚子江に浮かぶ漂流者や漂流死体が作られた。

   しかし、これは戦闘によるものであって、無辜の市民の虐殺ではない。

相互寛容が必要

投稿者: murayama101026 投稿日時: 2012/09/25 22:43 投稿番号: [1922 / 2250]
第二次世界大戦、元寇、朝鮮侵略以外にも   人類有史上   戦争と侵略   人権侵害は多数あります。なぜ中国人と韓国人は忘れないのですか?同じ理屈でいえば世界中怨恨だらけとなり、永遠に平和は期待できないと思います。しかしほかのアジア諸国やアフリカ・ヨーロッパは忘れることで平和を築いてきました。中国の方だけはそれができないのでしょうか?

1939年3月21日 秘書 曾仲鳴暗殺される

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/09/25 18:44 投稿番号: [1921 / 2250]
児島襄著   『日中戦争4』   文春文庫
202〜203p


《 (汪兆銘) の縁者谷正鼎がハノイを訪ねて重慶への復帰をすすめると、

汪兆銘は夫妻でフランス外遊を希望するといい、

谷は三月中旬に再訪して必要な旅券や旅費を提供しているのである。

そして、谷正鼎は三月二十日に重慶に帰着したが、

その翌日、三月二十一日夜、ハノイ市の汪兆銘の寓居に   「暴漢四人」   が

忍びこみ、拳銃を乱射して秘書曾仲鳴を殺した。



重慶では、犯行は   「愛国僑民」   の仕業だと報道されたが、

以上のように複雑な動きをしていた汪兆銘にとっては、

あるいはこの   「刺客」   の襲撃が

「ふんぎり」   をつける契機になったのかもしれない。



晴気慶胤著   『上海テロ工作76号』   毎日新聞社
84p


《 重慶政府は汪兆銘の説に耳を藉   (か)   さないばかりか、

汪兆銘に共鳴した官氏を叛徒として弾圧し、

さらに汪の売国行為を封ずべくその暗殺を図った。

藍衣社員十数人は、仏印警察の厳戒の隙をねらって三月十一 (?21) 日、

ハノイの汪の寓居に乱入した。



汪は危うく助かったが、曾仲鳴は虐殺された。

汪を暗殺することに失敗した藍衣社は切歯して、

あくまで彼を仕とめようと大がかりな暗殺計画をすすめた。

かくして汪兆銘のハノイ滞在は危殆に瀕するに至った。》



塚本誠著   『ある情報将校の記録』   中公文庫
267〜268p


《 汪精衛声明は重慶政府の反省を切に望んだが、

重慶政府は特務工作員をハノイに派遣して汪精衛氏の身辺を脅威し、

仏印当局も江の工作を妨害するなど、危険が迫り、その活動はまったく不能に陥った。

現に三月には側近的同志曾仲鳴は

汪氏の隣室で重慶特務工作員の兇手に仆れるのである。》
[ << 最初のページ | < 前のページ | メッセージリスト | [ メッセージ # オフセット ] | 次のページ > | 最後のページ >> ]

Yahoo! Japan 掲示板 アーカイヴ

[検索ページ] (中東) (東亜) (捕鯨 / 捕鯨詳細)