1939年12月13日 佐々木隊 下関占領
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/09/27 18:57 投稿番号: [1926 / 2250]
佐々木倒一少将私記
十二月十三日
《 払暁前 我が第一線は敵陣地に突入し 続て敵を急迫し、
軽装甲車中隊 午前十時頃 先ず下関 (シャーカン) に突進し、
江岸に蝟集 (いしゅう) し或いは江上を逃れる敗敵を掃討して
無慮一万五千発の弾丸を撃ち尽くした。
この間 歩三八 (歩兵第38連隊) は城北に面する五個の城門を占領して敵の退路を絶ち、
連隊長は三三の大隊と共に装甲車に追及して西面ユウ江門付近に進出し、
逃げ遅れた敵兵と戦闘を交えた。
司令部は予備隊たる歩兵一中隊を以って 左後方より突撃し来る前後数回の敵と
激戦を交へ、通信手、輜重兵、伝騎に至るまで戦線に加入敵を撃退し、
その後方を追及しつつ道路の不良に悩みつづけた野砲兵大隊は
是 (これ) 又 夜間敵の襲撃を受け援護の歩兵一中隊、工兵一小隊と共に
零分割射撃以って敵に応戦、四時間の久しきに亘 (わた) って戦闘。
更にその後方には後衛として残置した歩兵二中隊が 夜半以降
又二方面より反復殺到する敵の大部隊と戦闘してこれを撃滅した。
更にその後方衛生隊附近に集成騎兵団が位置していたが、
暗黒の裡に敵の襲撃を受けて部落内に突入せられ、
人二百馬六十の損害を被るが如き失態を演じている。
此騎兵も又その後方に在った重砲も盛んに増援を請うてきたが
自衛力を有するものを顧みる遑 (いとま) はなかった、
蓋 (けだ) し予の部隊は数里の長きに亘って延伸し
側面に対して至る処 (ところ) 激戦を交えている状態だったからである。
(中略)
前述する如く午前十時我支隊の軽装甲車が最初に下関に進出して完全に敵の背後を絶ち
又我歩兵は北面の城門全部を占領封鎖して敵を袋の鼠とし、
少し遅れて第六師団の一部が南方より江岸に進出し、
海軍第十一戦隊が遡江して流下する敵の舟筏を掃射しつつ
午後二時下関に到着し、国崎支隊は午後四時対岸浦口に来着した。
其他の城壁に向かった部隊は城内を掃蕩しつつある。
実に理想的の包囲殲滅戦を演じているのであつた。
此日我支隊の作戦地域内に遺棄された敵屍は一万数千に上り
その外、装甲車が江上に撃滅したもの並各部隊の俘虜を合算すれば
我支隊のみにて二万以上の敵は解決されている筈である。》
* ここには 「江岸に蝟集し或いは江上を逃れる敗敵を掃討」 と
書いてあるが、これは、本当の話だろうか?
中国兵が船を求めて右往左往していたのは、もっと早い時間。
船の奪い合いで、同士撃ちをやって、下関附近には、死体の山ができていた。
そして、船や筏に乗った者も積載オーバーで沈没、流されていた。
殆どの兵は、乗るものがないため、諦めて城内に戻り安全区に隠れた。
何で、こんな時間帯に、そんなにたくさんの兵が居る?
装甲車に追われて来た兵と南から第6師団に追われて来た兵は別として。
「江岸に蝟集し或いは江上を逃れる敗敵を掃討」 というのは、
既に、下関附近にあった大量の死体や、江上を漂流する死体を、
戦果とするための、作り話では?
佐々木日記には、到着したとき、既にそこに 「大量の死体があった」
とは書いていない。
まるで、自分たちが、初めて、死体を作ったかのように書いている。
これが、後に、大虐殺の根拠とされてしまうとも知らずに。
十二月十三日
《 払暁前 我が第一線は敵陣地に突入し 続て敵を急迫し、
軽装甲車中隊 午前十時頃 先ず下関 (シャーカン) に突進し、
江岸に蝟集 (いしゅう) し或いは江上を逃れる敗敵を掃討して
無慮一万五千発の弾丸を撃ち尽くした。
この間 歩三八 (歩兵第38連隊) は城北に面する五個の城門を占領して敵の退路を絶ち、
連隊長は三三の大隊と共に装甲車に追及して西面ユウ江門付近に進出し、
逃げ遅れた敵兵と戦闘を交えた。
司令部は予備隊たる歩兵一中隊を以って 左後方より突撃し来る前後数回の敵と
激戦を交へ、通信手、輜重兵、伝騎に至るまで戦線に加入敵を撃退し、
その後方を追及しつつ道路の不良に悩みつづけた野砲兵大隊は
是 (これ) 又 夜間敵の襲撃を受け援護の歩兵一中隊、工兵一小隊と共に
零分割射撃以って敵に応戦、四時間の久しきに亘 (わた) って戦闘。
更にその後方には後衛として残置した歩兵二中隊が 夜半以降
又二方面より反復殺到する敵の大部隊と戦闘してこれを撃滅した。
更にその後方衛生隊附近に集成騎兵団が位置していたが、
暗黒の裡に敵の襲撃を受けて部落内に突入せられ、
人二百馬六十の損害を被るが如き失態を演じている。
此騎兵も又その後方に在った重砲も盛んに増援を請うてきたが
自衛力を有するものを顧みる遑 (いとま) はなかった、
蓋 (けだ) し予の部隊は数里の長きに亘って延伸し
側面に対して至る処 (ところ) 激戦を交えている状態だったからである。
(中略)
前述する如く午前十時我支隊の軽装甲車が最初に下関に進出して完全に敵の背後を絶ち
又我歩兵は北面の城門全部を占領封鎖して敵を袋の鼠とし、
少し遅れて第六師団の一部が南方より江岸に進出し、
海軍第十一戦隊が遡江して流下する敵の舟筏を掃射しつつ
午後二時下関に到着し、国崎支隊は午後四時対岸浦口に来着した。
其他の城壁に向かった部隊は城内を掃蕩しつつある。
実に理想的の包囲殲滅戦を演じているのであつた。
此日我支隊の作戦地域内に遺棄された敵屍は一万数千に上り
その外、装甲車が江上に撃滅したもの並各部隊の俘虜を合算すれば
我支隊のみにて二万以上の敵は解決されている筈である。》
* ここには 「江岸に蝟集し或いは江上を逃れる敗敵を掃討」 と
書いてあるが、これは、本当の話だろうか?
中国兵が船を求めて右往左往していたのは、もっと早い時間。
船の奪い合いで、同士撃ちをやって、下関附近には、死体の山ができていた。
そして、船や筏に乗った者も積載オーバーで沈没、流されていた。
殆どの兵は、乗るものがないため、諦めて城内に戻り安全区に隠れた。
何で、こんな時間帯に、そんなにたくさんの兵が居る?
装甲車に追われて来た兵と南から第6師団に追われて来た兵は別として。
「江岸に蝟集し或いは江上を逃れる敗敵を掃討」 というのは、
既に、下関附近にあった大量の死体や、江上を漂流する死体を、
戦果とするための、作り話では?
佐々木日記には、到着したとき、既にそこに 「大量の死体があった」
とは書いていない。
まるで、自分たちが、初めて、死体を作ったかのように書いている。
これが、後に、大虐殺の根拠とされてしまうとも知らずに。
これは メッセージ 1920 (kir**gotowa**me さん)への返信です.