入って中国人に南京事件真相議論しましょう

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1937年12月 投降兵の処断

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/10/07 15:22 投稿番号: [1949 / 2250]
佐々木倒一少将私記12月13日続き


《 午後二時頃概して掃討を終わつて背後を安全にし、

部隊を纏   (まと)   めつゝ前進和平門に至る。

その後俘虜続々投降し来り数千に達す、激昂   (げきこう)   せる兵は

上官の制止を肯   (き)   かばこそ片はしより殺戮する。

多数戦友の流血と十日間の辛惨を顧みれば兵隊ならずとも

「皆やつてしまへ」   云ひ度くなる。

白米は最早一粒もなし、城内には有るだらうが、

俘虜に食はせるものの持合せなんか我軍には無い筈だつた。 》



中島今朝吾中将(第16師団長) 日記 (12月13日)


《 一、斯   (か)   くて敗走する敵は   大部分第十六師団の作戦地境内の

   森林村落地帯に出て   又一方鎮江要塞より逃て来るものありて

   到る所に捕虜を見   到底其始末に堪えざる程なり



一、大体捕虜はせぬ方針なれば、

   片端よりこれを片付くることとなしたる   (れ)   ども、

   千 五千 一万の群集となれば之が武装を解除することすら出来ず

   唯彼等が全く戦意を失ひ、ぞろぞろついてくるから安全なるものの、

   之が一旦掻擾   (騒擾)   せば始末に困るので 部隊をトラックにて増派して

   監視と誘導に任じ 十三日夕はトラックの大活躍を要したり

   乍併   (しかしながら)   戦勝直後のことなれば中々実行は敏速には出来ず

   斯   (かか)   る処置は当初より予想だにせざりし処なれば

   参謀部は大多忙を極めたり



一、後に至りて知る処に依りて佐々木部隊丈   (だけ)   にて処理せしもの約一万五千、

   大平門   (太平門)   に於ける守備の一中隊長が処理せしもの約一三〇〇

   其仙鶴門附近に集結したるもの約七八千人あり尚続々投降し来る 》

『南京戦史資料集』 (笠原『南京事件』p.154-155)



児玉義雄氏(第十六師団歩兵第三十八連隊副官)の証言


《 連隊の第一線が、南京城一、二キロ近くまで近接して、

彼我入り乱れて混戦していた頃、師団副官の声で、師団命令として

『支那兵の降伏を受け入れるな。処置せよ』   と電話で伝えられた。

私は、これはとんでもないことだと、大きなショックを受けた。



師団長・中島今朝吾将軍は豪快な将軍で好ましい御人柄と思っておりますが、

この命令だけは何としても納得できないと思っております。

参謀長以下参謀にも幾度か意見具申しましたが、採用するところとならず、

その責任は私にもあると存じます。

部隊としては実に驚き、困却しましたが命令やむを得ず、各大隊に下達しましたが、

各大隊からは、その後何ひとつ報告はありませんでした。

激戦の最中ですからご想像いただけるでしょう。》

(「南京戦史資料集Ⅰ」P397)



*   中島日記に   「鎮江要塞より逃て来るもの」   とあるが、

   鎮江は12月7日に中国軍が焼き払って撤退。

   その後10日に天谷支隊が占領し、11日には山田支隊もいた。

   それを、中島師団長が知らないわけがない。

   山田支隊は鎮江から応援に来たのだから。


   この時期に、鎮江より中国兵が逃げてこれるわけがない。

   戦果水増しのための作り話か。



*   この中島日記は本物なのか?

   日記なのに、なぜ一、・・・、一、・・・、となっている。

   まるで戦犯収容所で、箇条書きに書かされたみたい。

*   また、太平門の所には、脱出の時の混乱で出来た大量の死体があったはず、

   当然、これらも戦果に入れているだろう。

   太平門といい、佐々木隊といい、その戦果は水増しの可能性がある。

   こうやって水増しされた戦果は、日本軍の虐殺数としてカウントされる。
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