入って中国人に南京事件真相議論しましょう
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夏淑琴事件1 マギーの説明文
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/13 18:44 投稿番号: [1455 / 2250]
東中野修道著
『南京大虐殺の徹底検証』
240〜242p
〈 この事件にかんするマギーのもう一つの記録が、ドイツ大使館のローゼンの手にも渡った。
各種の
「事件」
にかんするマギーの説明文
(英文七枚)
と、
マギー自身の撮影になるフィルム四本とを、本国外務省へ送付するよう、
ローゼンは南京から上海のドイツ大使館に依頼している。
それは
(マギーが八歳の少女を発見した一月二十九日から約十日後の)
昭和十三年二月十日のことであった。
そこで右の
「事件」
にかんするマギーの説明文を、
南京ドイツ大使館公文書綴
「日支紛争」
から全訳する
《 十二月十三日、約三十人の兵士が南京の東南部の新路口五のシナ人の家にきて、
中に入れるよう要求した。
玄関を、マアという名のイスラム教徒の家主が開けた。
すると、ただちに彼らはマアを拳銃で殺した上、もう誰も殺さないでと、
マアの死体に脆
(ひざまづ)
いて頼むシアさん Mr. Hsia をも殺した。
なぜ夫を殺したのかとマアの妻が尋ねると、彼らはマアの妻をも殺した。
シアの妻は一歳の赤ん坊と客間のテーブルの下に隠れていたが、
そこから引きずり出された。
そして、一人かもっと多くの男たちから裸にされ、強姦された後、
銃剣で胸を刺されて殺された。
その上、陰部に瓶を突っ込まれ、赤子も銃剣で殺された。
それから、何人かの兵士が隣の部屋へと行った。そこには、シアの妻の七十六歳と
七十四歳になる両親、それに十六歳と十四歳になるシアの娘がいた。
この娘たちを彼らが強姦しようとしたその時、祖母が娘を守ろうとして
拳銃で殺された。祖父が妻の体をつかむと、祖父も殺された。
それから、二人の少女が裸にされた。上の少女は二、三人に強姦され、
下の少女は三人に強姦された。その後、上の少女は刺されて陰部に茎を詰め込まれた。
下の少女も銃剣で突き殺されたが、母や姉の受けたぞっとするような扱いは免れた。
それから、兵士たちはもう一人の七、八歳になる妹も銃剣で突き殺した。
同じくその部屋にいたからである。
この家の最後の殺人は四歳と二歳になるマアの二人の子供 children (筆者註・性別不明)の
殺人であった。上の子は銃剣で突き殺され、下の子は刀で真二つに斬られた。
その八歳の少女 the 8-year old girl は傷を負った後、母の死体のある
隣の部屋に這 (は) って行った。
無傷で逃げおおせた四歳の妹 her 4-year old sister と一緒に、
この子はここに十四日間居残った。この二人の子供はふかした米を食べて生きた。
写真撮影者の私が、この話の一部を得ることができたのは、上の八歳の少女からで、
詳細は一人の隣人 a neighbor と一人の親戚 a relative から語ってもらって、
確認と訂正ができた。
兵士たち the soldiers は毎日この家に物を取るためやって来たが、
二人は古い敷布の下に隠れていたので発見されなかったと、この人歳の少女は語った。
このような恐ろしいことが起こり始めた時、近所の住民はみな避難民地帯に逃げた。
それから十四日して、このフィルムに出て来る老女性 the old woman が近所に戻って、
二人の子供を発見した。その後、死体が全て取り除かれたあとの部屋
an open space where the bodies had been taken afterwards に、
写真撮影者の私を案内したのは、この老女性であった。
彼女や、シアさんの弟 (または兄) Mrs. Hsia’s brother と、
この小さな女の子にたいする質問を通じて、
恐るべき悲劇についての疑問の余地なき理解が得られたのである。》
つづく
これは メッセージ 1453 (kireigotowadame さん)への返信です.
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西安事件3
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/12 15:45 投稿番号: [1454 / 2250]
焦った張学良は蒋介石を監禁して、
共産党討伐をやめ、共産党と手を組んで、日本と戦争するよう要求しました。
その具体的内容は以下の通り。
松本重治著
『上海時代・下』
中公新書
59
《
八項目の主張とは次のとおりです。
(1)南京政府を改造し、各党各派の参加を許し、ともに救国の責任を負わしめよ。
(2)すべての内戦を停止せよ。
(3)上海で逮捕された愛国運動の指導者をただちに釈放せよ。
(4)全国のすべての政治犯を釈放せよ。
(5)人民の集会・結社等すべての政治的自由を保障せよ。
(6)民衆の愛国運動を公認せよ。
(7)孫総理の遺嘱を確実に遵守せよ。
(8)ただちに救国会議を召集せよ」》
しかし、蒋介石は応じず、
56〜57p
《
蒋
「まだ、私を委員長と呼ぶか?
上官と認めるなら、命令に従って
洛陽に送り還せ。さもなければ、君は反逆者、私は反逆者の捕虜だ。
即座に銃殺しろ。他にいうべきことなどありはしない」
張
「委員長がわれわれの意見を受諾されるなら、もちろん命令に従います」
蒋
「君は、いったい、私の部下なのか敵なのか?……敵ならばただちに私を殺せ。
二つに一つ、ほかに何もいう必要はない。私は何をいわれても聞く耳を持たぬぞ」》
と突っぱねた。
ここに周恩来がやって来、宋美齢もやってきた。
そして宋美齢は周恩来と会い、蒋介石も周恩来と会っている。
66p
《 宋美齢の
「回想録」
によると、彼女は二十三日には二時間、
また二十四日にも、周恩来と会談をしている。
張学良が頼んでも蒋介石が会いたくないといっている人だといって、
張は彼女に周思来を紹介している。
宋美齢は、周恩来に意外にも好感をもったようで、宋美齢の斡旋で、
周恩来は蒋介石に短時間会ったようである。
周は、蒋に対し、蒋介石領導での一致抗日、そのための内戦停止を簡潔に述べたが、
蒋としては、説得される必要は全然なかった。
それで、口頭で、
「統一戦線を約束したようであり、周恩来と
『再び共に仕事を』
したい」
(ハン・スーイン著
『毛沢東』
松岡洋子訳二五三ページ)
と、
いとも簡単な挨拶をしたというのが、ことばどおりではないにしても、
おそらく真相に近かろうと思われる。》
どういう取引が有ったか分かりませんが、ともかく、蒋介石は釈放されました。
そして、以後共産党の討伐は行われていません。
これは メッセージ 1452 (kireigotowadame さん)への返信です.
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1月29日 ラーベの日記
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/12 15:32 投稿番号: [1453 / 2250]
《 プリドー=ブリュン・イギリス領事とフィッチが今朝九時にピー号で出発した。
私の日記帳もお供した。フィッチが近いうちに戻れるなどと、だれも信じてはいない。
日本人との緊張感は日増しに高まっている。
委員会を解散して、新たに救援委員会を組織し、
新しい自治委員会と協力するようにしたほうがいいかもしれない。
目下真剣に検討しているところだ。
日本軍と協力しようと私は口を酸っぱくして言っているが、アメリカ人は反対だ。
委員会が賛成してもいないのに日本側と交渉するわけにはいかない。
それにむこうが同意するかどうかもまったくわからないのだから。
ひょっとするともう遅すぎるのかもしれない。
時機を逸してしまったのではないだろうか。
そうかといって、脅した通り、
日本軍が二月四日に難民を強制的に立ちのかせて収容所に入れ、
この前の赤十字病院の伝で立ち入り禁止にしてしまったら、我々は手も足も出ない。
ドイツ大使館は日本軍から覚え書を受け取った。
そこには、難民に対するさまざまな援助には感謝しているが、
二月四日に収容所を閉鎖するように、とあった。
私は会議を開いて、それぞれの大使館につぎのことを確認、
ないしは調べてもらうことにした。
一、日本は、外国人の土地、もしくは外国人の家にある収容所からも
難民を立ちのかせることができるのか?
(収容所のかなりの数がアメリカ人の土地にある。
ジーメンス・キャンプといわれるラーベの収容所もその対象になる。
ドイツ人の庭にあるからだ)
二、もっと多くの難民を受け入れても良いのだろうか?
三、我々の立場を明らかにするまで、
各大使館に本件に関する日本側の返事を待ってもらいたい。
マギーが八歳と四歳の少女を見つけた。
親族は十一人だったというが、残らず残忍な殺されかたをしていた。
近所の人々に救け出されるまでの十四日間、母親の亡骸のそばにいたという話だ。
姉娘が家に残っていたわずかな米を炊いて、どうにか食いつないでいたという。
*
「マギーが八歳と四歳の少女を見つけた」
これは、有名な夏淑琴の話に関係しますので、次は夏淑琴の話をとりあげます。
これは メッセージ 1448 (kireigotowadame さん)への返信です.
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西安事件2 張学良のあせり
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/11 14:06 投稿番号: [1452 / 2250]
蒋介石は張学良が共産党と接触している事を知っていた。
児島襄著
『日中戦争3』
文春文庫
251p
《 蒋介石は、既述したように、
張学良の不穏な動きについての情報を耳にしていたわけであるが、
十二月七日、華清池を訪れた
『大公報』
紙主筆張季鸞との間に、
次のような問答をかわしている。
「請問ニイ們在延安的記者、最近有什麼重要消息マー?」
(貴社の延安駐在の記者から、最近なにか重要なニュースは入らないか?)
「謡言很多、但是他不相信這些無稽之談」
(デマは多い、信用できぬ話ばかりです)
「ニイ所謂謡言、是否己聴到了張漢卿
(学良)
輿共産党在廷安面商擁護中央、
一致抗日的消息マー?」
(そのいわゆるデマの中に、張学良が延安で共産党と中央の擁護、
一致抗日を交渉した話はふくまれていないか?)
「是的」
(あります)
この問答は、張学良・周恩来秘密会談が、すでに蒋介石の情報網に
キャッチされていたのみならず、一般にも知られていたことを告げている。》
松本重治著
『上海時代・下』
中公新書
53p
《 中共により、紅軍により、また救国会の運動により、学生運動により、
旧東北軍や西北軍が、約一年前からの
「内戦停止」 「一致抗日」
「中国人は中国人と戦わない」
などのスロ−ガンと、
その魅力あるアッピールのために、それほどまでにも
(張学良が)
「洗脳」
されていたとは、蒋はそのときまで全然知らなかった。
それで張季鸞の報告と忠言に耳を傾けた蒋介石は、ただちに、
第六次
「剿匪」
事業の作戦を根本的に練り直す必要を感じた。
「剿匪」
事業のためには、東北軍も西北軍もすでにつかいものにならぬと
感じたからであった。》
53〜54p
《 十二月九日になると、西安の学生たちは、一二・九記念デモをやり、
「内戦停止」 「一致抗日」
の要求書を、蒋介石に親しく会って手渡しするため、
華清池に向って出発した。間もなく、警察の発砲によって、
デモ隊、とくに年少学生に負傷者が出たので、学生たちは非常に激昂した。
張学良は、それを聞いて駈けつけ、
やっとのことでデモ隊を思いとどまらせ、市内に引き返させた。
その夜、張は華清他に行き、蒋に面会を求めて、学生に代り、その衷情を訴えたが、
逆に蒋からは、頭から叱られてしまった。
張は、 「極度の衝撃を受けた」
と
「懺悔録」
に書いている。
翌十日には、張は、前夜、学生に語ったように、蒋に面を冒して自己の所信を
述べるため、ふたたび蒋に会見を求め、 「内戦停止」 「一致抗日」
の立場から、
蒋の掃討計画に疑問を強硬に表明したが、にべなく拒否され、ふたたび蒋から叱正を受けた。
そればかりではない。西安綏靖主任たる楊虎城はまだしも、
いやしくも西北
「剿匪」
副司令たる張学良にとって、
「数回の軍事会議に ― これは張の思い過しでもあったが ― 召集されなかった」
ことは、異常のショックであった。
張の
「懺悔録」によれば、「それは、私
(張)
と楊虎城に疑惑と不安を抱かせた。》
*
ここで明らかなように、対日戦争を望んでいたのは、
中国の学生たちであり、張学良だった。
これは メッセージ 1449 (kireigotowadame さん)への返信です.
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1月29日 アリソン殴打事件つづき
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/11 13:38 投稿番号: [1451 / 2250]
松村俊夫著
『「南京虐殺」
への大疑問』
168p
《 一月二十九日、駐日アメリカ大使グルーは、
外務次官堀之内との会談において、被害女性はリッグズとベイツに対し、
連れてゆかれたところは以前カトリック司祭が住んでいた家で、
現在は日本兵が占領しているところである、と証言した。
174p
飯沼守日記
〈一月二十九日
小山憲兵隊長来リ
天野中尉以下ノ件ニ就キ報告、
事件送致ニ就キ
軍ノ意向ヲ聞ク、
依
(よっ)
テ中尉以下同宿ノ者
全部ヲ送致スベキヲ希望シ、
殿下ニモ報告セリ。〉
〈天野中尉出発ヲ差止メラレ
何トカ穏便ノ取計ヒヲ
トテ来リシモ、
男ラシク処理セヨト
諭シテ帰ヘス〉
(偕行社編纂
『南京戦史資料集』
243頁)》
*
第16師団は南京から出て行かなければならないが、
天野中尉以下の者は出発を差し止められたため、哀願したもよう。
しかし、状況証拠から見て、彼らは、女性を連行強姦したというよりも、
売春婦を買っただけに見える。
「買春」
を
「女性の強制連行強姦」
として外国人に訴え、
事件にする、中国人の狡猾なやり方には舌を巻く。
そして、これに騙される善人の如何に多いことか。
これは メッセージ 1444 (kireigotowadame さん)への返信です.
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中国人は野蛮人
投稿者: anti_notarin 投稿日時: 2012/02/11 09:05 投稿番号: [1450 / 2250]
中国人は長い歴史を誇るが、確かに何千年の時間的歴史は存在した。
しかし、彼らは過去から何千年も同じことの繰り返しで進歩は全くなかった。
漢の時代から何代もの王朝の交代を繰り返し漢人王朝あり、胡人王朝あり、時に応じて征服されたり征服仕返したりで、王朝は変わってもその仕組みや政治手法は何ら変わりなく、国民は一部の貴族と奴隷的被搾取階級だけだ。
それが延々と20世紀半ばまで続き、文化・文明的には世界一遅れた国である。
彼らは口を開けば大中華は世界の中心で云々と自慢するが、毛沢東の文化大革命も人殺しに終わっただけで、結局、自分たちでは何ら成長できずにその後の改革開放政策に依って、外国資本、外国技術によってようやく成長経済を手に入れたのだ。
しかし、経済的に一部の国民が裕福になっても、短い期間に長く続いた中華思想から脱却できるわけはない。
変化した華夷秩序は裕福な人間は貧しい人間を見下し、他に対して必要以上の優越意識を持って他をバカにする。
一の事実は数人の口を経るたびに数百倍、数千倍に脹れあがり嘘を言うのが偉いと思っている民族である。
思いやり民族の日本人と、人を人とも思わない漢民族が表向きは兎も角、心から仲良くなどなれる訳がない。
これは メッセージ 1 (rdupwatch さん)への返信です.
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西安事件1 張学良共産党と接触
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/10 18:50 投稿番号: [1449 / 2250]
蒋介石は日本が戦争する意思はない事を知って安心して、共産党退治に乗り出しました。
内側に叛乱分子を抱えていては対日戦争などできませんから。
そこで、張学良を西北剿匪副総司令に任命し、
西安へ共産党討伐に行かせますが、張学良はこれに不満でした。
彼の望みは、対日戦争でしたから。
児島襄著
『日中戦争3』
文春文庫
244p
《 西安には、もともと西安綏靖公署主任・第十七路軍総指揮楊虎城が位置していた。
楊虎城は、馮玉祥系の軍閥将領で、その第十七路軍約五万人も、
いわば楊虎城があつめた部隊であり、「陝
(せん)
軍」の通称で呼ばれていた。
ただし、軍隊としては装備、素質ともに劣悪で、土匪なみの集団であった。
それだけに、楊虎城としては、勢力範囲とその中での
「静かな搾取生活」
を
楽しむのが望みであり、共産軍との戦いも中央軍の進出も好まなかった。
現に、楊虎城は共産軍
「紅第四方面軍」
と 〝相互不可侵協定〟 を
むすんでおり、蒋介石の剿匪作戦についても批判的であった。》
246〜247p
《 張学良は、 「剿匪がいやになった」
と楊虎城にもらし、
一九三六年をむかえると、共産党側との接触を開始した。
・・・・
四月四日、第六十七軍長王以哲を通じて、共産党連絡局長李克農と
洛川の第六十七軍司令部で会見した。
張学良は、より以上の幹部、たとえば周恩来との会談を希望し、
李克農はただちに連絡して、周恩来が会談に応ずる旨を返事した。
張学良は、延安での会談を指定し、同市に駐屯する第六十七軍第一二九師
(周福成)
に
安全を保障するよう、指示した。
四月九日深夜、延安市東方的五キロの天主堂で張・周会談がおこなわれた。
・・・・
共産党側にも、張学良の接近を喜ぶ
「内部事情」
があった。
共産党軍は、当時、ほぼ第一、第二、第四方面軍にわかれて、
甘粛省北部での合流をめざしていたが、総兵力は
「長征」
を開始した当時の三分の一以下、約七万人にすぎない。
しかも、中央軍の追尾をうけているだけでなく、
山西の閻錫山軍も動いて、側背をおびやかされている。
もし、中央軍側の総攻撃が開始されれば、全滅しないまでも
組織的戦力を破砕されるのは必至であろう。
その非命を回避し、叫んでいる
「抗日」
戦の第一線にたつには、
「停止剿共」
を国民政府側にもとめる以外に方法はない……。》
つづく
これは メッセージ 1447 (kireigotowadame さん)への返信です.
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1月28日 ラーベの日記
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/10 18:41 投稿番号: [1448 / 2250]
一月二十八日
《 フィッチが今日、なんの前ぶれもなく田中領事から上海へ行く許可をもらった。
イギリスの砲艦ピーでいき、一週間後にアメリカの砲艦オアフで戻るといっている。
なんだか妙な話だ。 証明書とか旅券、あるいはそういう類
(たぐ)
いのものを
一切よこさないだけに、なおさら変な気がする。
昨日の晩、福井氏に、フィッチのために上海へ行く許可を出してもらえないか
といったときにはにべもなく断られたのに。
ひょっとすると、昨日の件で、アメリカ人に対して弱腰になったのかもしれない。
なにしろアメリカと日本の間には、ここのところ、
それからそれへと不愉快な事件が続いたから。
昨日、アメリカ大使館の南京責任者、アリソン書記官が、
なんと日本兵に横面を張られるという事件が起きた。
ただちにこれはワシントンに報告され、
今日、ロンドン発の最新ニュースとしてラジオが伝えたばかりだ。
日本はアリソン氏に謝罪することはしたが、氏が日本語でけしからんことをいって
兵士たちを怒らせたからだ、という立場をあくまでも崩そうとしない。
それにしてもローゼンにも困ったものだ。 昨日、いっしょに街をまわったとき、
日本軍から配属された衛兵を連れていこうとしなかったのだ。
言葉をつくして説得したがだめだった。 この件はすぐに日本大使館に報告され、
今日、私のところに次のような声明文が届けられた。
南京にはなお平服の中国兵 (便衣兵) がいる。
日本兵は、疑わしい人物はすべて撃つよう、命令されている。
それゆえ大使館員には日本人の衛兵がつきそい、保護することになっている……
おっと、ここで一言言わせてもらおう。
もし本当にまだ便衣兵がいたとしても、絶対に我々外国人に手出しはしない。
いまや我々が中国人を保護するために残ったのを知らないものはないからだ。
難民収容所を二月四日に強制的に解体する、との通達。
難民たちはいやおうなしに瓦礫
(がれき)
の町へ戻らなければならない。
帰るところがあろうがあるまいが知ったことか、というわけだ!
惨憺たることになるのは目に見えている。
だが、だからといって手の施しようがないのだ。
なんといおうと、権力を握っているのは日本軍なのだから。》
これは メッセージ 1446 (kireigotowadame さん)への返信です.
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戦争を好まない日本陸軍
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/09 18:54 投稿番号: [1447 / 2250]
児島襄著
『日中戦争3』
文春文庫
229p
《 蒋介石は、九月二十四日、あらためて軍政部長何応欽に電令した。
「拠昨今形勢、日方己具一戦決心、務令京滬漢各地、立即準備一切、
厳密警戒、俾随時抗戦為要」
北京、上海、漢口で火ぶたがきられる可能性がある、臨戦態勢をとれ、との趣旨である。
そして、蒋介石は、とくに 「上海事変」 の再発をおそれ、
上海市長呉鉄城にたいしても、「積極戒備」 を下令した。
230〜231p
−
だが、
実際には、日本側の 「一戦決心」 には現実性がとぼしかった。
戦争となれば、当然に陸海軍の一致した
「決心」
が必要だが、
海軍とは逆に、陸軍の姿勢は消極的であったからである。
陸軍側は、上海の水兵射殺事件が発生する前日、九月二十二日、
参謀本部第一課長石原莞爾大佐が海軍軍令部第一課長福留繁大佐をたずね、
陸軍には
「全支作戦」
をおこなう意志はない旨を、きっぱりと通告していた。
二十六日の三省局長会議でも、豊田、磯谷両局長の間で次のような問答がかわされている。
豊田
「北支事態ガ重大ナルガ、 陸軍ノ腹
(ハ)
如何」
磯谷
「北支五省ヲ
満州国ノ延長トスルガ如キ
極端ナル事ヲ
考ヘヲルモノ、ナシ……」
豊田
「蒋介石
(ガ)
帰京セザル場合、如何スルカ」
磯谷
「一月デモ二月デモ待ツ。 其ノ際ハ国論モ ヤカマシクナルガ、
北支ニ対シ 既定方針ニテ進ム」
磯谷少将は、参謀本部と陸軍省の間に思想統一ができていない、
と陸軍の内情ももらした。
たとえば、派兵の目標にしても、参謀本部はやむを得なければ
「北支」
に
するというが、陸軍省は
「上海、南京」
をえらぶ。
陸軍省側の観察では、 「北支」
は中国の
「急所」
ではない、
しかし、南京を奪えば 「国民党部ハ解散シ
浙江財閥ハ
(蒋介石ニ)
離反ス」
るとみこまれるからである。
だが、いずれにせよ、意見不一致のままでは戦争はできない。
「用意ハ有ス。 (しかし)
兎モ角、出来ル丈
(だけ)
一兵モ使用シタクナシ」
磯谷少将は、あるいは自身の本意にはそぐわぬためか、やや憮然としながらも、
明確に陸軍の
「本音」
をつたえた。
蒋介石も、その
「本音」
は戦争回避である。
十月一日、軍事委員会弁公庁副主任劉光は、またしてもドイツ人軍事顧問団長
ファルケンハウゼン中将の献策を、伝達してきた。
漢口、上海の租界地の日本軍を奇襲して開戦の主導権をにぎれ − と、いう。
蒋介石は、広州から南昌にうつっていたが、軍政部長何応欽の来訪をもとめて協議した。
軍政部長何応欽は、 「日中戦争」
はなお時期尚早である旨を詳述した。
*
ドイツ軍事顧問団長ファルケンハウゼン中将は日中戦争をけしかけていた。
つづく
これは メッセージ 1445 (kireigotowadame さん)への返信です.
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1月27日 ラーベの日記
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/09 18:45 投稿番号: [1446 / 2250]
一月二十七日
《・・・
ラジオ上海によると、フランス政府は、
ジャキノ神父にレジオンドメール勲章を授けることにしたそうだ。
われわれの経てきた道のり、十五人ものメンバーが力を合わせ、
艱難
(かんなん)
辛苦に耐えてようやく克服できた数々の困難を思うにつけ、
この人が、ひとりきりでそれを成し遂げたと思うと信じられない気がする。
叙勲も当然だ。
今日、午前中にローゼンと車で東部地区をまわった。家という家は軒並み
略奪されてがらんとしており、しかもそのほぼ三分の一が焼けていた。
たった今、背筋が寒くなるような知らせが舞いこんだ。鼓楼病院の責任者マッカラムが、
押し入ってきた二人の日本兵に銃剣で襲われ、喉をけがしたのだ。
幸い命には別状ないらしいが、これは実にゆゆしき事件だ。
ただちにアメリカと日本の政府に電報が打たれた。
またまた H がこまったことをしでかした!
パンチェン・ラマといえばダライ・ラマにつぐチベットの権威者だが、
そのラマの使用人から、H は素晴らしい車を二百ドルで買い取ったのだ。
いま自治委員会がこの車を買い取ろうとしているが、
H の言い値の千九百ドルではなく、たった六百ドルでといっている。
H が二百ドルで買ったのはわかっているからだ。 おまけに自治委員会は、
使用人には国民政府の財産である車を売る権利はないといってきた。
今後も闇取引をやめないようなら、
日本当局は H に赤恥をかかせてそのうちに南京から追放するだろう。》
(この後はラーベが妻にあてた手紙なので省略)
*
「ジャキノ神父にレジオンドメール勲章・・・ひとりで成し遂げた」
とんでもない勘違いだ。
ティンパーレ、松本重治氏、日高参事官、松井大将の協力があり、
仏軍・日本軍の協力があってできたもの。
南京を攻略した日本軍は、上海を解放した日本軍。
殆ど同じ人間。
同じ日本軍の占領下で、上海は上手く行き、南京は酷くなった。
その場合、科学的考察では、原因は日本軍ではなく、別の何かにあると見る。
これは メッセージ 1432 (kireigotowadame さん)への返信です.
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頻発するテロに戦争の危機迫る
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/08 18:55 投稿番号: [1445 / 2250]
豊台事件の翌日、中支でも事件がおきました。
児島襄著
『日中戦争3』
文春文庫
227〜229p
《 十九日、漢口で日本総領事館勤務の巡査吉岡庭二郎が暗殺された。
吉岡巡査は、日本租界内の派出所付近で立番中、午前十一時五十分ごろ、
背後から近づいてきた犯人に後頭部を狙撃され、前のめりに二、三歩歩いて即死した。
状況を目撃していた露店タバコ商人によれば、暗殺者は
「年齢三十歳くらい、身長五尺五、六寸、頭髪は丸刈、顔は細面、眼は小さい」
男であったという。
白昼の殺人事件、しかも、制服着用の日本人警官が暗殺されたのである。
漢口に駐留する海軍第十一戦隊司令官日比野正治少将は、
すかさず指揮下の軍艦
『安宅』『熱海』
から陸戦隊員を上陸させ、
上海の第三艦隊司令長官及川古志郎中将も、声明した。
「反日行為の暴状は……満州事変勃発以前に過ぐるものあり、
全支における帝国臣民の生命財産の不安は甚しきものあり」
海軍は、佐世保特別陸戦隊員四百八十三人を漢口に急派するとともに、
次のような
「海軍省当局談」
を発表した。
「帝国海軍としては……事態斯 (か) くなる以上……或は自衛上必要の処置に
出づるの己 (や) むなきに至る場合を考慮し……手配を進むることとなったのである」
もはや戦争だ、戦争以外にはない
−
というのが、
ドイツ人軍事顧問団長ファルケンハウゼン中将の論評であったが、
四日後、またしても上海でテロ事件が発起した。
九月二十三日午前八時二十分ごろ、第三艦隊旗艦
『出雲』
の乗組水兵四人が、
上海市共同租界の海寗路と呉淞
(ウースン)
路の交差点付近にさしかかると、
停車中のバスの背後から四、五人の中国人が拳銃を乱射してきた。
四人の水兵のうち、一人は無傷であったが、
二等水兵田港朝光は右胸部と左腕貫通銃創をうけて死亡し、
一等水兵八幡良胤、出利葉蔵巳はそれぞれ右上膊複雑骨折盲管銃創、
左右上膊貫通銃創をうけた。
三人は、付近の書店
『至誠堂』
にはこびこまれ、
田港二等水兵は、書棚にすがりつこうとしたが、さしのばした手に力は無く、
床にくずれおちて息絶えた。
上海海軍特別陸戦隊は非常配備につき、在郷軍人分会もその指揮下に編入された。
「適当なる自衛手段をとるほかなき次第と認める」
と、日本大使館が声明を発表すると、陸軍武官喜多誠一大佐も、記者団に語った。
「最後の一線に近づいたというほかは、ない」
蒋介石も
−
「日中戦争」を覚悟した。》
つづく
これは メッセージ 1443 (kireigotowadame さん)への返信です.
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1月26〜27日 強姦事件調査
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/08 18:45 投稿番号: [1444 / 2250]
松村俊夫著
『「南京虐殺」
への大疑問』
165〜166p
《 この件は日本軍も重視した。
アリソンが小粉橋三二号にあった
「日本軍本部」
に無理に入ろうとして
歩哨が殴ったために、日米間の外交問題に発展したからである。
ベイツの一月二十七日付アリソン宛書信は、
「午後四時一五分現在、彼女が
『審問』
のため大使館に連れて行かれてから
約二五時間が経過しているのに、彼女についていまだなにも見かけていません」
(①166頁)
と書いている。
前日の二十六日午後八時、リッグズが日本大使館を訪れた時には審問はまだ続いていた。
午後十一時に逆に大使館から人がきて、彼女は一晩大使館に留まることを伝えた。
この時、リッグズやスマイスは、脅迫などによって
被害者が証言をひるがえさせられることを恐れていたらしい。
一月二十八日付の同様書信によれば、彼女は二十七日夜八時四十五分頃帰されてきた。
そこで、同行してきた大使館側の三人と女性、リッグズらの話し合いが行われ、
その内容が書かれている。
大使館では、強姦された部屋への階段、ランプ、入口の位置などの詳細を訊ね、
実際とは喰い違いが多いから、犯人が憲兵であるというのは嘘であると
断定したことがわかる。
しかし、リッグズらがこれに猛反論したことはいうまでもない。
特に憲兵といっても、白っぽい腕章に黒字でそう書かれた補助憲兵が多く、
彼らこそが問題の集団で、彼らがかなりの期間、この建物を使ってきた証拠を
ふんだんに持っており、この三日間は腕章を外しているようだが、
今後一切かかることをしないように、と主張したのである。
もっとも彼が
「憲兵」
という字を識別できたかどうかは疑問である。
何か漢字らしきものが書かれている腕章さえつけていれば、どんな男でも、
少なくとも
「補助憲兵」
であると認識したらしいことは間違いない。
日本大使館では、四、五人の兵を呼んで面通しをさせたが、
そのなかにはいなかったと女性は答えたという
(①170頁)。
『資料集』
では、ベイツのこの件についての手紙はなぜかここで切れている。》
注:
①は青木書店刊
『南京事件資料集』
のアメリカ関係資料編
174p
《 飯沼守日記
〈 一月二十七日
小山憲兵隊長、堀川新分隊長来リ、天野中尉調査ノ概要ヲ聞ク。〉
(偕行社編纂
『南京戦史資料集』
242頁)》
これは メッセージ 1442 (kireigotowadame さん)への返信です.
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豊台事件
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/07 18:55 投稿番号: [1443 / 2250]
寺平忠輔著
『日本の悲劇
盧溝橋事件』
読売新聞社刊
40〜41p
《 馮治安は河北省の出身で、当年四十四歳、馮玉祥の旧部下ではあったけれど、
抗日の鼻息荒く、する事なす事、宋の意に反するところが多かった。
そこで遠く手離しておくと、何を仕出かすかわからないというので、
一番手近な北京周辺の要地に配してあった。
ある日私が万寿山の方に車をとばせて行くと、
ちょうど西宛の兵営から出て来た馮治安の部隊、歩兵の一ヶ連が私の車とすれ違った。
この時、彼等が歌っていた軍歌は
打倒日本
打倒日本
除軍閥
除軍閥
努力革命成功
努力革命成功
去奮闘
去奮闘
というのだった。この歌詞はもともとは、打倒列強
打倒列強
というのだが、
三十七師はそれをわざわざ打倒日本と置き換えて歌わせていた。
黒塗り厳めしい西苑の兵営は、昔、独逸人技師の設計監督の下に建てられた
という事だが、今では完全に侮日抗日の巣窟と化し、
さきに梅津・何応欽協定で華北から逐
(お)
われた、二十五師長関麟徴なども、
しばしばここに姿を現わして兵を煽動し、
また中共北方局の主任劉少奇あたりも、学生の軍事訓練に便乗して
この方面に顔を出し、盛んに抗日をアジっていたという情報が入っている。
師長馮治安が徹底的に日本嫌いな男であってみれば、
上の行なうところ下これに倣
(なら)うのも、またやむを得ないところではある。
話は少々遡
(さかのぼ)
るが、昭和十一年九月十八日、豊台事件というのが勃発した。
満州事変柳条溝の一発から、満五年の記念日である。
こういう日には日華双方、お互いが余程気をつけ慎み合わないと、
とかく不慮のゴタゴタを引き起しがちである。
この日の夕刻、豊台駐屯一木大隊の一ケ中隊が、駅前近くを通りかかったところ、
折りから演習帰りの中国軍一ケ連とすれ違った。
ところが中国兵の一人が、穂積中隊最後尾の兵を、
故意に路外に押し出すような行動をとった。
部隊の後から乗馬でやって来た年少血気の小岩井光夫中尉、
やにわに中国兵の群に躍り込んで連長に対し、鋭く彼の不法を難詰した。
中国兵の一人が小岩井中尉の馬の尻をたたき、馬が驚いて跳ね上った。
中国兵は即座に銃に弾を込め、自分達の兵営の前に散開して、
対応の姿勢をとったので、日本軍も直ちにこれと相対峙
(たいじ)
し、
睨
(にら)
み合いの態勢に移った。
北京から特務機関の浜田補佐官や桜井徳太郎軍事顧問がとんで来た。
もちろん牟田口廉也連隊長もやってくるし、
中国側の副師長許長林少将や外交専員林耕宇などもかけつけて来た。
河辺旅団長が即刻、隷下日本軍に発砲禁止を命じたので、彼我の交渉は、
その翌日の明け方まで続けられたが
両軍干戈を交えるまでには立ち至らず、
結局中国側の陳謝と、関係者の処罰、ならびに中国軍部隊の豊台撤去を条件として、
一応この問題に終止符が打たれた。》
これは メッセージ 1441 (kireigotowadame さん)への返信です.
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アリソン事件証言の食い違い
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/07 18:45 投稿番号: [1442 / 2250]
アリソン殴打事件に関する、三つの記述を紹介しましたが、
その被害者に関する記述がそれぞれ異なっているように見えます。
タイムズ
被害者は近くのアメリカ人財産である金陵大学に連なる
建物にいた難民。
笠原解説
金陵大学農学部の作業場に侵入し、女性一人を連れ去った。
飯沼日記
米人経営ノ農具店ニ
二十四日夜十一時頃日本兵来リ、
留守店ヲ銃剣ニテ脅シ
女二人ヲ連行
さて、この事件には前段階があります。
松村俊夫著
『「南京虐殺」
への大疑問』
165p
《 ベイツよりアリソンへの一月十八日付報告には、
朝十時半、小粉橋三号の小桃園大学敷地に一月十四日と同じ憲兵がいて、
好きなように各部屋を捜索していたが、見つけられてほぼ向かいの
小粉橋三二号の本部へ入ってゆくのを観察した (①157頁) 旨が書かれている。
この後に、大問題になった
「アリソン殴打事件」
が起きるのである。
一月二十五日、ベイツは二通の手紙をアリソンに送って、
この事件のきっかけとなった日本兵による婦人強姦事件を説明している。
それを要約すれば、一月二十四日午後十一時、白っぽい腕章をした日本兵が
胡家菜園の金陵大学農機具店に押入り、店員を銃で脅し、
彼らは婦人一人を連行して強姦し、二時間後に釈放した。
犯人は白い腕章から判断される特務兵ではなく、恐らく憲兵の仕業と思われる(①161頁)
と記す。そして、追伸として、被害者の婦人を伴ってリッグズと共に調査したところ、
慎重に五回もチェックした結果、
「問題の建物は小粉橋三二号のおなじみの憲兵隊の地区本部でした」(①162頁)と
特定したことをアリソンに報告したのである。》
ところが、あとで、とんでもない事実を明かしています。
松村俊夫著
『「南京虐殺」
への大疑問』
167p
《 『南京事件資料集①』
に、ティンパレーとベイツの間に交わされた
『戦争とは何か』
の出版をめぐる往復書簡
(352〜376頁)
が掲載されている。
・・・
その中の三月二十一日、ベイツからティンパレーに出した手紙の中に
次のような一節がある。
資料名
「E八八 − 一〇〇」
についての注意である。
〈 もし、その資料を使う場合は、小粉橋三八号の贋憲兵の話に注意してください。
彼らは、たびたび私たちを困らせました。
アリソンやリッグズに平手打ちを食わせたのも贋憲兵の仕業です。
殴打事件は彼らの巣窟で起きたのですが、
そこは、かつてバックが展示会をした語学学校
(小桃園)
の反対側のところです。
その語学学校では、一、二度君とも会ったことがあります。〉
*
天野中尉がいたのは
「小粉橋三二号」、ベイツの言う贋憲兵は
「小粉橋三八号」
要するに、略奪や強姦をやっていたのは
「小粉橋三八号の贋憲兵」
だと
言っているのです。
しかして、調査に突入したのは
「日本軍兵舎」
だから、殴られたわけです。
やっと彼らも、撹乱する贋日本兵がいることに気づき始めたようです。
これは メッセージ 1440 (kireigotowadame さん)への返信です.
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梅津・何応欽協定
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/06 18:56 投稿番号: [1441 / 2250]
満洲事変のあと、中国はテロ行為だけでなく満洲への再侵略も執拗に試みていました。
そのため、日本側は対応を迫られます。
寺平忠輔著
『日本の悲劇
盧溝橋事件』
読売新聞社刊
昭和45年発行
19p
《 前年
(昭和9年)
十一月、彼
(宋哲元)
の部下、馮治安
(ひょうちあん)
の
部隊が突如、熱河省を侵犯し、大灘
(だいなん)
西方二十キロ、
断木梁という部落に進出して来た。 》
21〜22p
《 この年
(昭和10年)
の四月、・・・、五月三日、天津の日本租界で、
国権報の社長胡恩傅
(こおんふ)
と、振報社長白逾桓
(はくゆかん)
の
二人の親日分子が白昼何者かに襲撃され命をおとした。
こえて五月二十四日には、孫永勤という抗日匪軍が熱河を犯し、
続いて非武装地帯に侵入するという新たな事態が引き起された。
このところ華北の空気はめまぐるしいまでに物情騒然、混沌模糊として、
不安な日が続くようになった。
由来、天津軍本来の任務は、北京、山海関間の鉄道の保全、
ならびにこの間に在住する居留民の保護にあったが、
現状ではこの任務さえも、とかくおびやかされがちだった。
− こんな事では全く困る。華北の明朗化を妨げるやからは、
この際抜本的に荒療治してしまうんだな。−
気の早い酒井参謀長は、起案紙に一気呵成、華北粛清対策案をなぐり書きした。
これが梅津・何応欽協定の骨子となったのであるが、その内容は概ね次の通りである。
通
告
一、
最近華北に頻発しつつある排日侮日の諸現象は、方
(ひと)
しく
塘沽
(タンクー)
協定の破壊行為たると共に、
また北清事変議定書の精神をも蹂躙するものなり。
我が方はこれを明確なる対日挑戦行動と認め、条約上の権限に基き、
今後自衛上必要と信ずる行動に出づる事あるを通告す。
二、
これを未然に解決せんがため、左記各項の即時実行を要求す。
イ
軍事委員会北京分会、憲兵第三団、国民党部、政治訓練所、
藍衣社
(らんいしゃ)
等の一律華北退去。
ロ
黄杰
(おうけつ)
の第二師、関麟徴
(かんりんちょう)
の
第二十五師等、中央直系諸軍の華北撤退。
ハ
河北省政府主席于学忠、憲兵第三団長蒋孝先、藍衣社主任劉一飛等の
罷免ないし処罰。
ニ
排日侮日行為徹底取締りの確約。
以
上 》
そして、6月28日、断木梁侵犯なんか絶対に出来ない様にと、
土肥原少将が新たに
《 京綏鉄道以北の察哈爾省内に非武装地帯を設定する 》
という協定を秦徳純に結ばせました。
これが土肥原・秦徳純協定です。
*
善人心の人達は、『梅津・何応欽協定』 や 『土肥原・秦徳純協定』 を
押しつけた事を非難しますが、なぜ、そうなったのを見ようとはしません。
これは メッセージ 1439 (kireigotowadame さん)への返信です.
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1月26日 アリソン殴打事件2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/06 18:46 投稿番号: [1440 / 2250]
松村俊夫著
『「南京虐殺」
への大疑問』
173〜174p
《 偕行社編纂の
『南京戦史資料集』
に収められている
当時の上海派遣軍参謀長、陸軍少将飯沼守の日記に、
アリソン殴打事件に関連すると思われる記述が見える。
〈 一月二十六日、本夕本郷少佐ノ報告。
米人経営ノ農具店ニ
二十四日夜十一時頃 日本兵来リ、
留守店ヲ鉄剣ニテ脅シ
女二人ヲ連行強姦ノ上
二時間程シテ帰レリ、
依 (よっ) テ訴ヘニ依リ
其
(その)
強姦サレタリト
云フ家ヲ
確メタルトコロ
天野中隊長
及
兵十数名ノ宿泊セル所
ナルヲ以テ、
其屋内ヲ調査セントシタルニ
米人二人亦
(また)
入ラントシ、
天野ハ兵ヲ武装集合セシメ
逆ニ 米人ヲ殴打シ追ヒ出セリ、
其知ラセニ依リ
本郷参謀現場ニ到リ、
中隊長ノ部屋ニ
入ラントシタルモ
容易ニ入レズ、
隣室ニハ
支那女三、四名在リテ
天野ノ部屋ニ入レバ
女ト同衾シアリシモノノ如ク、
女モ寝台上ヨリ 出テ来レリト、
依テ中隊長ヲ 訊問シタルニ
中隊長ハ其権限ヲ以テ
交ル女ヲ連レ来リ
金ヲ与へテ 兵ニモ姦淫セシメ居レリ
トノコト、依テ憲兵隊長小山中佐 及 33〔i〕(引用者註・iは歩兵)
第二大隊長ヲ呼ヒ
明朝ノ出発ヲ延期セシメ
大隊長ノ取調ニ引続キ
憲兵ニテ調ブルコトトセリ。〉(同書242頁)》
注 : 同書とは
青木書店刊
『南京事件資料集』
のアメリカ関係資料編
*
飯沼日記から見るに、ここにいる女性は売春婦のように見え、
とても連行されて強姦されている様には見えない。
それでも、日本側は天野らを処罰した。
これは メッセージ 1438 (kireigotowadame さん)への返信です.
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満州再侵略への反撃から塘沽停戦協定へ
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/05 15:29 投稿番号: [1439 / 2250]
昭和7年7月17日午後1時ごろ、
満州熱河省の北票から遼寧省の錦州に向かう列車が
両省の境に近い南領〜朝陽寺間にさしかかった所、
一隊の武装兵が停車を命じ、乗っていた関東軍嘱託の石本権四郎を拉致しました。
犯人は匪賊的に行動している抗日義勇軍の一部です。
熱河省は満州の一部ですが、まだ関東軍の手はついていません。
満州を追われた張学良は、
4万の義勇軍を熱河に送り込み反満抗日の拠点にしていたのです。
そのため関東軍はこれをも一掃せざるを得なくなりました。
関東軍は昭和 8 年熱河作戦を行い、
結果、本来の満州の領域である熱河省の回収に成功しました。
この作戦では、最初、関東軍の武藤司令官は長城越えを禁じていました。
ところが、中国軍が南から熱河奪還作戦を行うものですから、
結局、長城の南にも行かざるを得なくなります。
その時、関東軍は、天津・北平
(北京)
に迫る勢いを見せます。
これは不都合だからやめさせなければなりません。
長城の北だけなら満州国の防衛と主張できますが、
南に行くと侵略とすり替えられ、防衛の主張が通らなくなります。
だから止めなければならないのです。
ところが現場が止まりません。というのは中国兵を南に追いやっても、
関東軍が引っ込むと、また戻って来るからです。
だから “もっと遠くへ” とやっている内に、こうなったわけです。
しかしこれでは際限がありません。
そこで “ 中国軍が二度と満州を侵略できないようにと
《 北京北方から密雲以東、長城線から約五〜六十キロの深さの河北省 》
を非武装地帯にする ” という
塘沽停戦協定を中国に結ばせて、関東軍は長城の北に引き揚げました。
(児島襄著
『日中戦争』
文春文庫
2巻287p〜3巻106p 要約)
これにて、満州事変は終了します。しかし中国側は納まりません。
つねに満州再侵略を試み、また中国国内で排日運動を激化させます。
つづく
これは メッセージ 1437 (kireigotowadame さん)への返信です.
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1月26日 アリソン殴打事件1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/05 15:11 投稿番号: [1438 / 2250]
松村俊夫著
『「南京虐殺」
への大疑問』
123p
《 事件は一月二十六日に突発した。
リッグズと共に金陵大学に隣接する建物に入ろうとしたアリソンが、
警備していた日本軍の歩哨と押し問答の末、
無理に進入しようとして二人が殴られた・・・(①448〜452頁)。
事件の大要を、一月二十八日付の上海発アベンドの電報と、
同二十九日付
「ニューヨーク・タイムズ」
の記事をもって描いてみる。
ある女性が日本兵に暴行されたとの訴えを受けたアリソンは、
その兵士を特定し得る証拠を掴もうとして、リッグズと共に
その兵士が入っていったと彼女が指し示した建物に入ろうとした。
被害者は近くのアメリカ人財産である金陵大学に連なる建物にいた難民だった。
兵士が入ったのは、日本兵の宿舎だったので、歩哨はアリソンの進入を許さず、
交渉半時間に及んだが、業を煮やしたリッグズが半開きの門から押し入ろうと
したために、歩哨が二人の頬を一回ずつ平手打ちした。(①449〜451頁)
171p
アリソン殴打事件の笠原解説
〈 一月二四日の夜一一時ごろ、
武装した日本兵が金陵大学農学部の作業場に侵入し、女性一人を連れ去った。
その女性はアメリカ人のカソリック司祭が住んでいた邸宅に連れていかれ、
同邸を占領していた日本兵に三回強姦されて、二時間後にもどってきた。
二日後、日本兵が侵犯したのが二つともアメリカ人の施設であったので、
アリソン書記官は金陵大学のリッグズと一緒に被害女性に案内させて現場へ調査にいった。
日本の領事館警察と憲兵が複数名同行した。
強姦がおこなわれた家の邸内に入ろうとしたところ、
中から日本人将校があらわれ、アリソンとリッグズに平手打ちをくれたのである。
止めに入った憲兵が 「こいつはアメリカ人だ」 というと、将校はさらに激昂して
リッグズに襲いかかり、衿を引き裂き、シャツのボタンを引きちぎったのである。
これが、日本軍将校がアメリカ政府の外交代表である外交官に
平手打ちを加えて侮辱した、アリソン事件である。〉
(『南京難民区の百日』
294〜295頁)》
注 : ① は
青木書店刊
『南京事件資料集』
のアメリカ関係資料編
つづく
これは メッセージ 1427 (kireigotowadame さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/1438.html
馬賊の聖域となった錦州を爆撃
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/04 15:45 投稿番号: [1437 / 2250]
この部分は外そうと思っていたのですが、
嘘しか教えられていない哀れな中国人が、つっかかって来ましたので、
かわいそうな彼のために一応触れておく事にします。
私としては、同じ事を書くのは疲れるのですが、やむを得ません。
満洲事変の結果、満洲国を建国しても、
出来たばかりの満洲国に自衛能力は有りません。
いきおい関東軍が肩代わりする事になります。
中国が、つねに再侵略を試みますので。
満州事変では、いくつかの地域が独立をしましたが、他は手つかずでした。
最初、関東軍は中国東北辺防軍のいる錦州は攻撃しませんでした。
それは、日本政府が中国と全面戦争になることを避けていたからです。
関東軍は馬賊の討伐もやっていますので、これを追撃すると錦州に逃げ込みます。
関東軍が手を出せないので、錦州が馬賊の聖域となっていました。
そしてこの馬賊は中国東北辺防軍の別働隊でもあったのです。
また錦州政権の存在は関東軍占領下の小軍閥の動きにも影響を与えていました。
そこで、関東軍は錦州を何とかしなければと考え、錦州を爆撃する事にしました。
といっても爆撃機ではなく偵察機で、しかも人が手でもって落とすという
原始的なやりかたでです。だから、効果は知れています。
しかも、日本政府の意思を無視してです。
何でそんな事をしたのかというと、目的は軍事効果ではなく、
それによって、お目出度い政治家の頭を吹き飛ばす事にあったそうです。
後になって日本は交渉で張学良軍を山海関の外に移動させます。
(児島襄著
『日中戦争2』
文春文庫148〜153p 要約)
しかし、これで、満州国が安定したわけではありません。
つづく
これは メッセージ 1433 (kireigotowadame さん)への返信です.
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1月25日 チャイナ・プレスの記事
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/04 15:36 投稿番号: [1436 / 2250]
東中野修道著
『南京大虐殺の徹底検証』
276〜277p
〈 『馬中将は安全地帯で反日撹乱行為を煽動』
また、上海でアメリカ人の発行する 『チャイナ・プレス』
(一九三八年一月二十五日号)も、同じことを報じている。
それによれば、十二月二十八日現在で、外国大使館や建物から、
支那軍の将校二十三名と、下士官五十四名、兵卒一四九八名が摘発された。
これは、十二月二十四日からの住民登録の結果でもあった。
つづけて
『チャイナ・プレス』
一月二十五日号は、
その前日公表された南京日本軍憲兵隊の報告書を引用する。
《 その報告書の主張するところによれば、
彼らのなかには南京平和防衛軍司令官王信労(ワンシンロウ:音訳)がいた。
彼は陳弥
(チェンミイ:音訳)
と名乗って、
国際避難民地帯の第四部門のグループを指揮していた。
また、前第八十八師の副師長
マーポーシャン
中将や、
南京警察の高官密信喜
(ミシンシ:音訳)
もいると言われている。
馬中将は安全地帯内で反日撹乱行為の煽動を続けていた、と言われる。
また、安全地帯には黄安
(ファンアン:音訳)
大尉のほか十七人が、
機関銃一丁、ライフル十七丁を持ってかくまわれ、
王信労と三人の元部下は掠奪、煽動、強姦に携わったという。》
安全地帯に潜伏中の支那軍将兵が悪事を働いたのである。
上海派遣軍参謀長・飯沼守少将が昭和十三年元旦の日記に、
「他ノ列国公館ハ
日本兵ノ入り込ミタル疑アルモ
番人ヨリ
中国軍隊ノ仕業ナリトノ
一札ヲ取リ置ケリ」
と書き、
一月四日の日記に
「保安隊長、八十八師副師長」
を逮捕と
記していることが、右の記事の正しさを裏付けている。
注意すべきは、安全地帯の支那軍将兵たちは強姦の話を
撒
(ま)
き散らしただけではなかった。それを証明すべく、
自ら
「強姦に携わった」
か、強姦未遂に携わったことである。
そのような舞台裏を知っていたのであろう、
支那人の中から、強姦は支那軍がやったのだと証言する者が現れる。
東京裁判に提出されたマッカラムの一九三八年一月の日記は、
「支那人ノ或ル者ハ
容易ニ掠奪・強姦及ビ焼打等ハ
支那軍ガヤツタノデ、日本軍ガヤツタノデハ無イト
立証スラ致シマス」
というふうに記す。〉
*
結局、南京での掠奪・強姦・放火などは、潜伏中国兵のしわざだったんですね。
それを、さも日本軍がやっているかのように見せかけていたわけです。
すべては、中国の自作自演。
中国人が証言しているのに、外国人は聞く耳をもたなかった。
今の中国人は、嘘しか教えられていない憐れな人たち。
もっとも、彼らに真実を知るすべはないから、我々が発信して行くしかない。
これは メッセージ 1432 (kireigotowadame さん)への返信です.
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Re: 入って中国人に南京事件真相議論しまし
投稿者: takagi101nejp 投稿日時: 2012/02/04 09:52 投稿番号: [1435 / 2250]
チャンコロ何て行き物は、自分勝手で見栄張りで、面子をけなされると
火が付いたタコの様に、顔を赤くしてチャンコロナマリの聞きにくい
日本語で、
皆さん
日本に外人で長く住んでいる方は、皆さんそれなりに日本語
が上手に成り、発音も良く成る方が多いが、
チャンコロだけは、馬鹿何だか向上心が無いのか、チャンコロの話す
日本語は、長く在住して居てもチャンコロ独特のナマリの日本語で
中華思想で面子を前面に出して話すると、思わず隣にそのチャンコロが
居たら、カ〜ァときて、殴り殺すだろー
先日の中国海軍が沖縄近海を、堂々と通る
軍も違反は承知しての
行動、その図太い考えこそ
チャンコロ行動
常識や世界ルールを無視
こんな国は、北と、ロスケだけ
{ロスケは、ロシア人の事}
これは メッセージ 1 (rdupwatch さん)への返信です.
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チャンコロは反省しないのか。
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/03 19:00 投稿番号: [1434 / 2250]
お前らが、攻撃したから、日本軍は反撃したのだ。
お前らに
「復讐」
など口にする資格はない。
日本は何度も停戦や和平を持ちかけたのに、蒋介石が蹴って無理やり戦争をした。
その上で侵略されたと嘘を言っていたのだ。
恨むなら、盧溝橋事件を仕掛けた中国共産党を恨め。
そして、上海を攻撃して、戦線を拡大させた蒋介石を恨め。
蒋介石は全てを犠牲にして戦争すると関頭宣言したのだ。
だから、日本の出す、温和な和平案をけった。
中国人民を虐殺し、犠牲にしたのは、毛沢東であり、蒋介石だ。
日本は被害者に過ぎない。
復讐したいなら、天安門に行って、毛沢東の画像を焼いて来い。
これは メッセージ 1431 (jinyang729 さん)への返信です.
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中国人による無数の暴虐事件3
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/03 18:44 投稿番号: [1433 / 2250]
K・カール・カワカミ著
『シナ大陸の真相
1931〜1938』 (原題 Japan in China )
訳者
福井雄三
展転社
127〜129p
※
南
支
一、一九三六年一月六日、汕頭で二千人の中国人の中学生が日本に対する
戦争を要求しつつデモを行った。
二、一九三六年一月二一日、汕頭の日本領事館に所属する日本人の警官が
自宅から出勤途中、中国人に射殺された。
三、一九三六年一月、中国警察と税関警備兵が広東の三六ヶ所の
中国人事務所を襲い、日本商品を没収した。
四、一九三六年七月三日、広東の中国人商店は反日組織により、
日本商品ボイコット相互組合に加入することを余儀なくされた。
五、一九三六年九月六日、汕頭でもう一つの反日デモが行われ、
日本人経営の商店で働く中国人に退職を余儀なくさせた。
六、一九三六年九月三日、広東省バクホイで中野という名前の日本人薬局経営者
(薬剤師)
が、一九路軍の中国人兵士によって惨殺された。
暴徒が薬局を急襲した時、中野の家族は夕食を食べていた。
中野は街路に引きずり出され、そこで蹴られ、殴られ、そして殺された。
その間、彼の中国人の妻は筆舌に尽くしがたい程の虐待を受けた。
店は完全に略奪された。
広東の日本領事館員が調査のため汽船でバクホイに赴いたが、
一九路軍は力ずくで彼らの上陸を妨げた。
彼らはいったん広東へ戻らねばならず、そこで二〇日間待たされたあげく、
ようやくバクホイに入ることを許された。
七、一九三七年三月、広西省当局は反日感情を煽り立てるためのただ
それだけの理由で、全ての日本人を広西省から追放した。
八、一九三七年五月二二日、汕頭の日本領事館に勤務する警官が
中国警察に滅多打ちにされた。
このリストは、南京政府が十年間に渡って資金を援助し、
煽動してきた反日宣伝活動が、蒋介石自身が予期したよりも
はるかに決定的な効果を及ぼしたことを示している。》
これは メッセージ 1418 (kireigotowadame さん)への返信です.
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1月25日 ラーベの日記
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/03 18:36 投稿番号: [1432 / 2250]
一月二十五日
《 外交部に設けられた病院で働く中国人の男女二人の看護人が、
マギーに連れられて本部へやって来た。
病院で働いていた苦力が一人、日本兵に刺し殺されたのだ。
我々はくわしい事情を聞き、極秘文書に記録した。
それと同時に、どうやらひどい状態らしい軍政部の病院について、
人かに報告してもらうことにした。
我々が届けを出さなかった事件の一つにこういうのがある。
ある中国人が日本人のために一日中働き、お金の代わりに米をもらった。
疲れきって家族とともに食卓に着くと、テーブルには妻が今さっき
置いたばかりの鉢がのっており、おかゆがすこし入っていた。
これが一家六人の夕食だった。
そこへ通りかかった日本兵が面白がってその鉢に放尿し、笑いながら立ち去った。
彼は何の罰も受けずに済んでしまった。
この話を聞いたとき、 『奴隷となるよりは死を』
という
リリーエンクローンの詩が思いうかんだ。
だが中国人たちにあの自由人、リリーエンクローンのまねをしろと
いったところでどだい無理な話だ。
これでもかとばかりに踏みつけにされ、
中国人はもう長いことひたすら苛酷な運命に甘んじてきたのだ。
前にも言ったように、
これなどほとんど気にもとめられないほどの小さな出来事なのだ。
もし強姦した人間が残らず仕返しに殴り殺されたら、
日本軍はすでに全滅していることだろう。
ドイツ大使館を通じて、たった今妻のドーラから手紙を受け取った。
「いまならすぐに休暇でドイツへ帰れます。いま逃げださないと、
あと五年、待つことになりますよ」。
まあ、そこまでひどくなることはもうないと思うが。
三月一日までここに残ってもいいと会社がいってくれるかどうか、
とりあえず待つことにしよう。
もっともそのときになってもまだ片づいていないかもしれないが。
私としては、休暇は歓迎だ。
実際のところ、いま中国にはいいかげん嫌気がさしている。
けれど、だからといって逃げだすわけにはいかないのだ!
二十二時十分
ラジオ上海によると、クレーガーが日曜日の晩、一月二十三日に、
屋根のない列車に十二時間揺られた末、無事に上海に到着したそうだ。》
*
「食卓に着くと、・・・鉢がのっており、おかゆがすこし・・・
これが一家六人の夕食だった。そこへ通りかかった日本兵が面白がって
その鉢に放尿し、笑いながら立ち去った。」
食事は家の中、日本兵が外を通っていても、食事中かどうかわからない。
一軒一軒入って、調べるわけがない。
ましてや、放尿など、その時、出るとは限らないだろう。
かつて清国の官憲は、宣教師たちに、中国人の訴えを信用するなと言ったが、
まさに、これこそが、それだろう。
《 教士
(宣教師)
は性直にして、詭譎
(あやしげ)
な情形を知らず、
教民が実在
(じっさい)
にいじめられたと思って、遂に地方官と難を為す。
そのじつ、ひとたび対質
(といただし)
を経れば、事みな虚無なり》
届け出を出さなかったのは、ラーベ達も確証がなかったのでは。
これは メッセージ 1421 (kireigotowadame さん)への返信です.
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そんな態度か?
投稿者: jinyang729 投稿日時: 2012/02/02 21:42 投稿番号: [1431 / 2250]
歴史に真面目に対する勇気はないのか?
ドイツのように
それは本当に感心ですね
日本はそうではない
どうして??
これは メッセージ 1425 (kireigotowadame さん)への返信です.
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Re: 生きたまま焼き殺された日本兵
投稿者: jinyang729 投稿日時: 2012/02/02 21:34 投稿番号: [1429 / 2250]
日本人の侵略のせい
中国人は何千万が死んでた!!お前してるか?
なぜお前言ったようににほんじんが殺されたか?侵略よ!倭人
これは メッセージ 1390 (kireigotowadame さん)への返信です.
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『丸一洋行』 店主惨殺事件
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/02 18:48 投稿番号: [1428 / 2250]
児島襄著
『日中戦争3』
文春文庫
225〜226p
《九月三日、またしても日本人殺害事件が発生した。
現場は、広東省雷州半島の西方の北海市。
被害者は、同市第七区泰華鎮珠海中路第九十号の
『丸一洋行』
店主・
中野順三であった。
北海市には、八月二十四日、反蒋介石を主張する第十九路軍の一部、
フン照垣指揮の
「抗日救国軍第一師」
約千五百人が進駐し、
随行してきた学生約三百人とともに、 「打倒日本賊」 「打倒蒋介石漢奸」
などのビラをまき、市内要所にたむろしていた。
中野順三の店は、なかなかの盛業ぶりを示し、家族は第一、第二夫人、
男児四人、女児一人であった。
なぜ
『丸一洋行』
が対象になったかは不明だが、師長フン照垣は、
進駐してくると、商務局をつうじて立ち退き要求をくり返し、
中野順三も、やむなく承知して店じまいの準備をすすめていた。
すると、九月三日午後七時ごろ
―
『丸一洋行』
に三十歳前後の男二人がはいってきて、
はじめは買物客の風情で店内を歩きまわっていたが、
店番をしていた中野順三の長男清に、いきなり拳銃をつきつけた。
「(ここは)
日本人ノ店ナルベシ」
拳銃をむけられた長男清は、二人の質問に答える余裕もなく、
「オ父サン」 「オ父サン」
と連呼しつつ、二階にかけのぼった。
二人は拳銃を発射した。その発砲音が合図であったらしく、
いずれも十七、八歳の青年四、五人が
「ジャック・ナイフ」
を
ふりまわしながら乱入してきた。
中野一家のうち、第二夫人は年少の男児三人をつれて外出中で、
店には中野当人のほかは第一夫人、長男清、長女千鶴子がいた。
第一夫人と長女千鶴子は、長男清のあとを追おうとしたが、
乱入してきた一味につきとばされた。
二階に殺到した一味は、食事中の中野順三におそいかかり、
猿グツワをして壁におしつけ、
ナイフで右胸部、腹部、頸部を刺して、殺害した。
長男清は、その間に二階の裏窓からとびおりて逃げ、
階段をはいのぼってきた長女千鶴子が、なかば気失しながら、
父親が刺殺される状況を目撃していた。》
これは メッセージ 1426 (kireigotowadame さん)への返信です.
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1月24日 日本兵 女性連行強姦の訴え
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/02 18:41 投稿番号: [1427 / 2250]
国際委員会に日本兵が女性を連れ去り強姦したとの訴えがありました。
松村俊夫著
『「南京虐殺」
への大疑問』
165p
《 一月二四日の夜一一時ごろ、武装した日本兵が
金陵大学農学部の作業場に侵入し、女性一人を連れ去った。
その女性はアメリカ人のカソリック司祭が住んでいた邸宅に連れていかれ、
同邸を占領していた日本兵に三回強姦されて、二時間後にもどってきた。》
(『南京難民区の百日』
294〜295頁)
松村俊夫著
『「南京虐殺」
への大疑問 』
173〜174p
《 米人経営ノ農具店ニ
二十四日夜十一時頃日本兵来リ、
留守店ヲ銃剣ニテ脅シ
女二人ヲ連行強姦ノ上
二時間程シテ帰レリ、》
(飯沼守の日記より)
*
これは、 「1月26日
アリソン殴打事件」
の前段階の話です。
これよりアリソン殴打事件に発展します。
これは メッセージ 1425 (kireigotowadame さん)への返信です.
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日本人記者惨殺事件4
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/01 18:49 投稿番号: [1426 / 2250]
児島襄著 『日中戦争3』 文春文庫
221〜222p
《 田中武夫の記憶によると、部屋には安楽椅子二脚が壁際におかれ、
壁を背にして左の椅子の前に田中、右の椅子の前に渡辺、渡辺の前に瀬戸、
二脚の椅子の間に深川が立っていた。
群衆は、前回とちがって、 「殴れ」 「殴れ」
と叫びながら四人に殺到し、
たちまち、深川経二が異様なうめき声をあげて倒れた。
そのもがく姿を見たあとの田中武夫には、自身のことしか記憶に残っていない。
夢中で、眼前によろめいてきた中国人警官の腰にしがみつき、
警官を楯にして棍棒、鉄拳の攻撃をさけようとした。
警官はあわててふりはなそうとする。田中武夫はなおもしがみついていたが、
隣室に逃げこむ警官は大きく腰をふって、ふりきった。
田中武夫は、群衆の中に孤立したことを自覚すると、抵抗を断念し、
暴徒が電灯線をひきちぎって両手をしばろうとするときも、すすんで手をさしだした。
両手をしばられたあと、財布、時計その他身につけた物を掠奪され、
外にひきずりだされた。
旅館の庭、周辺は男女の群衆でうずめつくされ、のちにその数は約一万人と
推算されたが、多数の中学生、さらには小学生もあつまって、口々に田中をののしった。
現場には、警備司令部から派遣された武装兵士約二百人が到着していたが、
発砲して群衆を解散させることもなく、傍観するだけであった。
いや、田中が学生に連行されてくると、兵士が学生から引きつぎ、
田中をひきまわしさえした。
田中は、次々に群衆の殴打をうけながら夜の街を歩かせられていたが、
右耳を棍棒で強打されて倒れた。
警官が、この男は死んだ、と叫んで、なおも殴ろうとする群衆を制止し、
人力車でカナダ人経営の
『四聖病院』
にはこばせた。
気がついた田中が看護婦に時刻をたずねると、午後九時とのことであった。
群衆はなおも病院内におしかけ、さすがに乱暴はしなかったが、
いれかわり立ちかわりに、懐中電灯で田中の顔を照射した。
午後十一時ごろ、田中は担架で督弁公署にうつされ、軍医の手当をうけて、
ようやく安堵した。
瀬戸尚も督弁公署にはこばれていて、二人は無事を喜びあい、
同時に、残る二人の安否を気づかった。
田中武夫が、特派員渡辺洸三郎と記者深川経二の死を知ったのは二日後だが、
実際には、翌日、八月二十五日午前五時ごろ、二人の死体が
王府街の火神廟前で発見されている。
二人ともに全裸にされ、さんざんに殴られて殺されたとみえ、
顔もぐしゃぐしゃにつぶれ、酸鼻をきわめた死にざまであった。》
*
この被害者達には酷な言い方だが、日本人には平和憲法的感覚が多すぎる。
こういう結果になりそうな事は、行く前から想像がつきそうなものに。
昔の日本人も今の日本人と同じで、
「話せばわかる」、 「同じ人間じゃないか」 「武器を持たない者を攻撃しないだろう」
と言う、甘い幻想と美しい心で出かけて行き虐殺される。
なぜ、日本人は歴史に学ばないのか。
つづく
これは メッセージ 1424 (kireigotowadame さん)への返信です.
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洗濯婦調達と買春の混同2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/01 18:41 投稿番号: [1425 / 2250]
松村俊夫著
『「南京虐殺」
への大疑問』
181〜182p
《 四、高玉は、大学や安全区の保護徹底のために日夜努力しているのに、
その行動について悪意ある攻撃が出たので、ひどく傷ついている。
五、安全区の悪意ある中国人による反日的な捏造の話を信じないように
注意すべきこと。
六、あらかじめ、様々な礼儀正しさや保証が必要だということ。
この内容をよく読めば、一月八日、十日の事件と、一月二十四日の出来事とを
同列に考えて、小粉橋三八号と小粉橋三二号とを混同していた
ベイツの誤解がよく理解できると思う。
この後にアリソン事件が起きた。
ベイツの訴状は一旦中断して二月二十二日に再開するが、
前記一連の手紙から浮かんでくることがある。
そのキーワードが 「洗濯女」 である。
一月三日、日本兵の医療部隊に連行された五人の女性が洗濯女にさせられ、
夜は売春婦になることを強要されたと、怪我をした女性が訴えた。
一月八日には、日本大使館から荷物を持って出てきた洗濯女が
難民のいる大学に戻ってきた話があった。
そしてここに、高玉が洗濯女を連れていったとの言葉が出てきた。
現代と違って、重労働を伴う大量の洗濯は、金のために雇われて働く女性の
仕事の一つだった。ヨーロッパにも洗濯女の話は多い。
フランス革命の折、幽閉されていたマリーアントワネットの部屋に
出入りできたのも洗濯女だった。
日本軍が、将校などの洗濯物の始末などのために、難民所の女性のなかから
希望者を募ったことは、もちろん非難されるべきことではない。
それは、終戦後の日本の言葉でいえば 「メイドさん」 である。
彼女たちは米軍宿舎や将校の家で働き、
そのなかには売春まがいのことをする者もあったろう。
それは、支那の女性とて同じだったと思う。
日本兵に首を傷つけられたという先の女性も、誰が傷つけたのか、
その原因が何であったのかを知る者は当人しかいないが、
「四十歳」くらいの洗濯女の一人だった。
ただ、日本軍の洗濯女の集め方が、アメリカ人から見ると強制的で、
いかがわしいように映ったこともまた否定できない。
もし難民のなかから希望者を募るときに、管理者を自負している国際委員会を
通すなりして、常に彼らと協議すればよかったのかもしれない。
しかし、もはやそれをするには遅過ぎた。日本軍は国際委員会を、
日本軍を中傷誹謗する集団としてしか見ていなかったし、
国際委員会もまったく日本軍を信用していなかったからである。
難民劉文彬は、恐らく日本軍の説明を聞き、洗濯女の実態を知って
協力するようになったのではないかと考えられる。
しかしベイツは当初、彼を「立派な仕事をしている青年」と賞讃していたにも
かかわらず、掌を返すように、日本軍に協力する 「ゴロツキ」 と表現するようになった。
このような日本軍と国際委員会との亀裂を巧みに衝いて、
支那側ゲリラの活動する余地ができたのである。
いわば 「正式」 な洗濯女探しは正門から入り、ゲリラ達は塀を乗り越えて入った。
この事情がわかってくると、ベイツらの多くの手紙の内容の真の意味が、
まことに明確になってくる。それがこの問題の結論である。》
*
こういう背景があって、ラーベ達は、高玉の洗濯女集めを売春婦集めと思ったようです。
これは メッセージ 1423 (kireigotowadame さん)への返信です.
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日本人記者惨殺事件3
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/01/31 19:00 投稿番号: [1424 / 2250]
児島襄著
『日中戦争3』
文春文庫
220〜221p
《食堂にいた田中、深川の二人は、
学生たちが護衛の警官と大声で押問答をかさね、
次第に市民たちも内庭にあつまってくる様子をみると、
不安を感じて、三階の二人に合流した。
警官は、しっかりカギをかけてくれ、絶対に外に出るな、と指示し、
用便のときはどうするのだ、と質問すると、
それでも部屋を出てはいけない、と答えた。
田中武夫によると
−
「宿屋の庭や
(隣接した)
空地で荒々しい演説の声がすると思うと、
拍手、そして叫喚。熱した群衆の凄い空気が、部屋の中まで伝わって来る」
扇風機はあるが、扉も窓もしめきっているので、室内は文字どおりに
「蒸し風呂」
にはいっている暑さであった。
四人は、とにかく警官が警戒しているので、いずれデモ群衆も退散するものと思い、
汗まみれになりながら談笑していた。
ところが、午後五時ごろ
−
階下からガラスが割れる音、家具をうちこわす音がひびき、
その音が一階から二階に上昇してきた。
これは……と、四人は危険を感じ、室内の机、椅子をドアにあてがって防禦物にした。
とたんに、そのドアをたたく音、叫声がひびき、
ドアの下半部は机、椅子でおさえられているので、
上半部に打撃が集中し、メリメリと板が破られた。
破孔から一人の中学生がのぞきこみ、叫んだ。
たぶん、日本人がいたぞ、とでもわめいたものと、田中武夫たちは想像したが、
その中学生の叫びを合図に体当り攻撃が加えられ、
ドアの破片とバリケードがわりの机、椅子をけちらして、十数人が乱入してきた。
四人は、「護照」 を提示し、日本総領事館開館には無関係である旨を説き、
ようやく、相手は納得して部屋を出た。
旅館の各階に充満していた群衆は、なおも
「打倒」 「打倒」
と連呼していたが、
午後六時三十分ごろ、旅館の前から姿を消した。
−
だが、
ものの三十分間もすると、再び群衆は旅館におしよせ、
前回にも増して激しく
「打ちこわし作業」
を開始した。
中国人警官は、この間に約四十人が増員されていたが、
やはり丸腰なので制止できず、群衆はまたもや四人の部屋に乱入した。》
つづく
これは メッセージ 1422 (kireigotowadame さん)への返信です.
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洗濯婦集めと買春の混同1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/01/31 18:52 投稿番号: [1423 / 2250]
松村俊夫著
『「南京虐殺」
への大疑問』
179〜180p
《 支那人女性をめぐる問題は、
日本兵が彼女達を求めるのは肉欲のためであるという先入観と、
言葉による意志の疎通を欠いていたこと、
そして、日本側の説明も不足していたらしいという複合した原因で起きている。
以下、ベイツからアリソンへ出された手紙に従ってこの件をたどってみる
(要約)。
一月八日、金陵大学付属中学校校門の衛兵が、難民所で中国語・日本語通訳の
劉文彬という立派な仕事をしている青年を捕え、
小桃園の向かいの小粉橋三二号に連行した。(①150頁)
一月十日、二人の兵が小桃園の反対側にある家に女二人を連行した。
そこには兵士二十人がいたが、女は隙を見て逃げ出した。
二人の女性は、小粉橋三二号の憲兵隊本部のビル、門、建物と、
憲兵の着る腕章付きの通常の軍服を認識できた。(①151頁)
一月十一日、劉文彬が、昨日の夕方、憲兵にひどい目に遭ったと恐怖の表情で
逃げてきて、かくまって欲しいと頼んだので、そのまま寝かせたが、
本日三時、再び憲兵がきて連行された。(①152頁)
一月十四日、劉文彬の夫人が、夫は山西路二一号で撃たれたといってきたが、
報告を受けとったばかりなので今はそれ以上のことはいえない。(①156頁)
一月十八日、劉文彬の件は、まだ日本当局から何の連絡もないので
日本大使館を訪ねたところ、領事警察の高玉は狼狽し、
明日、ベイツを訪ねるといったが音沙汰がない。(①158頁)
一月二十四日、昨日、兵士一名が中国人助手とともに大学正門を通って入り、
一緒に行きたいという女三人を見つけた。
これは各寮を回る長い巡見だった。(①158頁)
一 月二十四日、昨日の夕方、高玉ともう一人の日本人が、大学付属中学の教師で
難民区区長の姜正雲を探しに来た。彼らは、姜がベイツに、高玉が中学から
少女五人を得たと報告した件で来たといったが、そのとき姜はいなかった。
彼らがやってきたのは劉文彬の報告に基づいているといい、
翌朝また来るとして立ち去った。(①159頁)
三つの注(引用者註・一月二十四日の第二の手紙の中でつけられている注釈)
〈第一に、姜は上述の報告を私に送ってはいません。
第二、難民劉はゴロツキで、すでに難民所における彼の持場は解任され、
ときどき日本人のために女捜しに来ているだけです。
第三、夕方も朝も私はずっと中学にいましたが日本人には会いませんでした。〉(①159頁)
この日、ベイツが日本大使館に行き、高玉と話し合った内容(①160〜161頁)を
要約すると次のようになる。
一、高玉は、彼と友人四人のために洗濯婦を得ようという善良な意図が
理不尽な中傷にあって悩んでいる。
二、彼らは手続きや不法侵入に問題は認めていない。
三、アメリカ大使館からの手紙が高玉を悪人と非難しているというが、出所はベイツだ。
しかしベイツは、高玉の洗濯婦獲得のやり方は、最近の南京婦人の
経験からすると疑いを招きやすいので反対だといっただけである。》
注 : 松村俊夫氏の言う資料集とは、 青木書店刊
『南京事件資料集』
の事
① はアメリカ関係資料編
つづく
これは メッセージ 1421 (kireigotowadame さん)への返信です.
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日本人記者惨殺事件2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/01/30 18:53 投稿番号: [1422 / 2250]
児島襄著
『日中戦争3』
文春文庫
218〜220p
《 岩井領事代理には、上海から四人の同行者がいた。
『大阪毎日新聞』
上海特派員渡辺洸三郎、 『上海毎日新聞』
記者深川経二、
南満州鉄道上海事務所員田中武夫、 漢口の
『瀬戸洋行』
店主瀬戸尚の四人である。
四人は、 「兎ニ角」
成都に行くことにした。
瀬戸尚は商用もあったが、他の三人は取材および視察が目的である。
総領事館開館には関係がないので、 「護照」
もあっさりと発給され、
一行は、八月二十一日、バスで成都にむかった。
八月二十三日
−
重慶では、商工会、学生その他各種団体が成都総領事館開館に反対する集会をひらき、
組織された宣伝隊は、市内に 「反対日本在蓉設領」 「阻止岩井西上」 などの
ビラをはり、糾察隊は、商船
『 萬懸号』
ではこばれてきた岩井領事代理の
乗用車を荷揚げしようとする労働者を
「漢奸」 (売国奴)
とののしり、
作業を中止させた。
特派員渡辺洸三郎ら四人は、午後二時三十分ごろ、成都に到着した。
街は平静な雰囲気につつまれ、一行は、公安局に
「護照」
を提示し、
『大川旅館』
に投宿した。
中国側は、非武装の警官約二十五人を旅館周辺の警戒にあたらせた。
翌日、八月二十四日
−
成都市内では、午前中に小城公園で
「日本総領事館開館反対民衆大会」
が
ひらかれたが、演説とシュプレヒコールがくり返されただけで、
デモ行進もなく、散会した。
四人は、午前十一時ごろ、 『大川旅館』
を出た。
『瀬戸洋行』
店主瀬戸尚は商用をはたすため、他の三人は市内見物のためである。
街は、前日と同様に平穏であったが、電柱、壁には、 「岩井領事は即刻四川を去れ」
「岩井と合作する漢奸を除け」
などのビラがべたべた貼られている。
三人は、なにがなし異常を感得しながら、午後一時半ごろ、旅館に帰り、
つづいて、瀬戸尚も帰館した。
午後三時ごろ、満鉄社員田中武夫は
『上海毎日』
記者深川経二をさそい、
食堂で四川名物の
「タンタン麺」
を食べた。
「タンタン麺」
は、唐辛子を大量に使い、その辛さで名高い。
盛夏の熱風が吹きこむ食堂で、すさまじい辛さの麺を食べるのだから、
たちまち二人は汗みずくになった。
それでも、いや夏はこのほうが良い、などとヤセ我慢してお代りを注文していると、
窓越しに制服姿の中学生約十五人がビラ貼りをしているのが、みえた。
「あんな子供まで動員されているとなると、あんまり良い空気じゃないなァ」
田中武夫がつぶやき、深川経二がうなずいていると、その中学生たちは旅館に
はいってきて、二階から三階にのぼり、やがて、降りて来ると、外に出ていった。
四人は、三階の大部屋に同宿している。
中学生たちはその部屋におしかけ、
在室していた特派員渡辺洸三郎と瀬戸尚の二人の前でビラの文句を読みあげ、
二人を
「凄い目でにらみ」
つけて立ち去った、という。》
つづく
これは メッセージ 1420 (kireigotowadame さん)への返信です.
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1月24日 ラーベの日記2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/01/30 18:44 投稿番号: [1421 / 2250]
《 今日また高玉が本部へやってきた。
中国語のできる警察の高級将校がいっしょだ。
高玉は、大学の難民収容所で若い娘を手に入れようとしているところを
ベイツに見つかってしまった。だから、収容所で
「洗濯や料理をする人」
を捜していたのだ、といいにきたというわけだ。
「洗濯や料理をする人」
だと?
いったい誰がそんなたわごとを信じると思ってるんだ。
中国では洗濯と料理は男の使用人の仕事だ。
そんなことぐらい、アジアじゃ子どもでも知っている。
つまり、この男は名誉回復をしようというのだ。
スマイスは一部始終しっかり書きとめた。
「さっそく、各国の大使館に報告しましょう」。
高玉がますますご機嫌ななめになったのはいうまでもない。
奴さん、あてが外れてすごすごと帰っていった。
ただ
「そんなつまらんことで大使館を煩わせるものではありませんぞ!」
と、
いやに力をこめてつけ加えるのだけは忘れなかった。
本部にいた連中はみな、いい気味だといって喜んだ。
マギーは書状一通と日本の銃剣一丁を私の机の上に置いた。
それには、中国人女性を銃剣で脅していたところへ、
委員会のメンバーが三人、ふいに姿を現したため、
その日本兵はあわてて武器をとり落とし、そのまま逃げたとあった。
目撃者がアメリカ人だったので、スマイスが勇んでアメリカ大使館に報告した。
アリソン書記官が日本大使館への報告役を肩代わりしてくれたので、感謝している。
アリソン氏はあっけにとられ、不思議だ、びっくりした、を連発した。
そこで、ローゼンはさっそく 「不思議の国のアリソン」 と命名した。》
*
「高玉は、…若い娘を手に入れようと…収容所で
「洗濯や料理をする人」
を捜していたのだ、といいにきた…
誰が…信じる…。中国では洗濯と料理は男の使用人の仕事だ。
そんなことぐらい、アジアじゃ子どもでも知っている。」
日本じゃ
「洗濯と料理」
は女の仕事。
中国の習慣なんぞ、子供どころか大人も知らない。
日本はアジアじゃないのだろう。ラーベ達の偏見は甚だしい。
これは メッセージ 1419 (kireigotowadame さん)への返信です.
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日本人記者惨殺事件1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/01/29 15:53 投稿番号: [1420 / 2250]
児島襄著
『日中戦争3』
文春文庫
215p
《 (1936年)
八月二十四日、
四川省の首都成都で、日本人二人が市民に惨殺されるという予想外の事件が、突発した。
事件は、日本側が一九三一年いらい閉鎖していた成都の日本総領事館を
再開しようとしたことにからんで、発起したものであった。
・・・
日本政府は、五月二十二日に外務書記生岩井英一を領事代理に任命して
成都総領事館再開のために派遣した。
216p
ところが、領事代理岩井英一が上海に到着した七月二十七日、
国民政府外交部国際司長呉頌皋は、「各国領事の成都駐在は認め難い」 と言明した。
三日後、七月三十日、外交部は上海にいる亜州司長高宗武あてに成都総領事館の
再開は不承認である旨を通報し、駐支大使川越茂につたえさせた。
川越大使は、しかし、
かねて四川省政府主席劉湘が反蒋介石派といわれていることもあって、
あるいは現地は別の反応を示すかもしれぬと思い、領事代理岩井英一に指示した。
「兎ニ角、行ケ」
上海から成都に行くには、重慶まで揚子江を船でのぼり、
重慶から飛行機を利用するのが、一般的な方法である。
岩井領事代理も、このコースをえらび、八月一日、上海を出発した。
この岩井領事代理の出発にあわせて、重慶、成都の各新聞、
とくに
『新蜀報』 『人民日報』 『商務日報』 『済川公報』
などは、
いっせいに日本総領事館の再開と岩井領事代理の赴任に反対するキャンペーンを展開した。
217p
岩井領事代理は、八月十七日に重慶に到着した。
十七日間の船旅であったが、途中では何事もなく、
岩井領事代理も有名な三峡の風光を楽しむなど、のんびりした気分ですごした。
岩井領事代理は、重慶領事糟谷廉二と協議して、
八月二十一日に飛行機で成都にむかうことにした。
ところが、外交部川康特派員呉沢湘は、岩井領事代理の赴任を阻止する態度を示した。
もし総領事館開館のために成都に行くのであれば、「護照」(通行証) は発給しない。
私人の資格でなら差しつかえないが、
その場含も、岩井領事代理が開館事務をとったら責任をもって召還することを、
糟谷領事が文書で保証してもらいたい
―
と、いう。
こころみに、中国航空公司で成都行の航空券を買おうとすると、
すでに
「官憲ノ指示」
をうけているとみえ、空席があるにもかかわらず、発売しない。
218p
岩井領事代理は、とりあえず成都行をあきらめ、東京に事情を打電して、
訓令を待つことにした。》
つづく
これは メッセージ 1418 (kireigotowadame さん)への返信です.
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1月24日 ラーベの日記1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/01/29 15:41 投稿番号: [1419 / 2250]
一月二十四日
《 高上校のボーイが突然やってきた。
何も食べるものがないというので五ドルやった。
主人の高上校は漢口へ逃げてしまったという。
委員会は基督教総会を通してジーメンス洋行中国本社に打電し、
三月一日まで私をここにおいてくれるよう、頼んでみるという。
だから、上海行きの旅券を申請するのは当分の間差し控えることにした。
数時間後
我々も堕ちたものだ。心の支えも節操も失ってしまった!
パットナム・ウィールの
『北京からの書簡集』
は
一九〇〇年の北京包囲について記したものだが、ウィールはそのなかで、
自分をはじめとする他のヨーロッパ人の略奪を赤裸々に綴っている。
我々だって堕ちてしまった。いまや五十歩百歩だ。
今日、張が電気扇風機を買ってきた。
「たったの一ドル二十セントでしたが、本当なら三十八ドルはしますよ」
と手柄顔だ。
マントルピースの上には一個一ドルの明時代の花瓶がすでに並んでおり、
そろって咎めるような視線を向けている。
その気になれば、盗品の故宮宝物で家中を飾り立てられるだろう。
なんせ闇で二束三文で売られているのだから。
いま高いのは食料品だけだ。例えばニワトリ一羽が二ドルもする。
ということは明時代の花瓶きっかり二個分だ。》
*
高上校はラーベ達が匿った中国軍の将校。
*
「盗品の故宮宝物で家中を飾り立てられる」
売っているのは中国人、だったら略奪犯人が誰か判りそうなものに。
つづく
これは メッセージ 1417 (kireigotowadame さん)への返信です.
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中国人による無数の暴虐事件2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/01/28 14:27 投稿番号: [1418 / 2250]
K・カール・カワカミ著
『シナ大陸の真相
1931〜1938』 (原題 Japan in China )
訳者
福井雄三
展転社
125〜127p
《 ※中
支
一、一九三五年一一月九日、日本海軍准尉の中山秀夫が上海国際租界で射殺された。
二、一九三五年一二月二〇日、漢口での大規模な反日デモ。
三、一九三五年一二月二一日、約一千名の中国人学生が
「日本帝国主義を倒せ」
「全ての日本人を上海から追い出せ」 と叫びながら、
上海国際租界の中心部を行進した。彼らは反日ビラを配布した。
四、一九三五年三月二六日、上海国際租界にある日本海軍の本部公館に
爆弾が投げ込まれた。
五、一九三六年一月七日、三千人の学生が南京の孫文墓地に集まり、反日デモを行った。
さらにまた、南京の日本総領事館の前でもデモが行われた。
六、一九三六年七月二〇日、世界的に有名な東京三井物産の上海支店の
日本人社員が国際租界で射殺された。
七、一九三六年七月一八日、中国人の暴漢が日本人の通行人を殴打し、重傷を負わせた。
日本人の女や子供に投石する事件や上海の中国人が日本人に対して行う暴力行為は、
日を追うにつれて頻繁になった。
短期間にそのような事件が二〇件以上も報告されている。
八、一九三六年八月七日、南京の日本総領事館の松村秘書官が上海に到着した際、
彼の外交上の地位を知っていたにもかかわらず、
中国人の税関職員は彼の携行していた革カバンの中を調べた。
九、一九三六年八月二四日、四川省の成都で大阪毎日及び東京日々の特派員と
もう一人の日本人の新聞社特派員が一万人の中国人の暴徒
(その大部分は幼い少年少女だったのであるが) に襲われ、
最も残忍なやり方で殺された。
他の二人の日本人が重傷を負った。
中国の地方当局は暴動を抑えるための何の手段も講じなかった。
南京の中央政府も同様に無関心だった。
四川省当局は必死で証拠を隠滅しようとし、
日本の外務省が成都に派遣した調査団を妨害した。
日本の度重なる抗議の後八月二六日、国民政府は行政部門の特別会議を招集し、
日本国籍を持つ者に適切な保護を与えるよう各地方長官に命令を出した。
一〇、一九三六年九月元日、漢江の日本領事館の警官が中国人に射殺された。
一一、一九三六年九月二三日、日本海軍の水兵が上海の街路で射殺された。
他の二人の水兵は重傷を負った。
一二、一九二六年九月二六日、湖南省湘潭にある日本の汽船会社の事務所に
中国人の暴徒が放火した。
一九三六年九月二九日、長沙の日本総領事館の建物に爆弾が投げ込まれた。
一三、一九三六年一〇月、上海の中国警察による日本人の女や子供の気紛れで
不法な逮捕と拘留の事件が増加。
一四、一九三六年一一月一一日、日本の汽船会社に雇われた日本人の船乗りが
上海で射殺された。
一五、一九三七年二月三日、漢口で日本人の事業家の妻が中国人に襲われた。》
つづく
これは メッセージ 1416 (kireigotowadame さん)への返信です.
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1月23日 ラーベの日記
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/01/28 14:13 投稿番号: [1417 / 2250]
一月二十三日
《 予定通り今朝六時にクレーガーは上海へ向かった。
シンバーグがまた南京にやってきて、卵六個と生きたあひる二十羽をもってきてくれた。
勤務中なのでやむをえず袋に入れっぱなしにしておいたところ、三羽も死んでしまった。
コックは
「大丈夫、食べられますよ!」
と言っているが。
八人も警官を引き連れて、高玉が事務所に訪ねてきた。いやに興奮している。
二、三日前にアメリカンスクールからピアノが一台盗まれ、
アメリカ大使館はワシントンに打電した。さっそく東京から
「ただちにピアノを元へ戻すように」
との指令がきたのだという。
ピアノがどこにあるのかわからないのだが、心当たりはないか、というのだ。
どうせとっくに薪にされてしまったのだろう。私はそのままお引き取り願った。
そんなことまでいちいちいってくるな!
十六時三十分
平倉巷での礼拝。ミルズの説教は素晴らしかった。
幾度となく彼はドイツと総統、及び総統の平和への努力について語った。
十八時
ローゼンを訪ねた。きょうは城門の外まで足を伸ばしたそうだ。
ゴルフ場がすっかり焼き払われていたという。
十九時
フィッチの五十五歳の誕生日。みなで食事をした。
私のプレゼントはあひる二羽。生きちゃいるが骨と皮ばかりだ。
かわいそうに、もう長いこと干乾しになっているのだ。》
*
〉高玉が・・・「ピアノがどこにあるのかわからないのだが、
心当たりはないか」・・・そんなことまでいちいちいってくるな!〈
ピアノを盗んだのが日本兵ではないから、在り場所が判らないのだろう。
*
「幾度となく彼はドイツと総統、及び総統の平和への努力について語った。」
ドイツ人は無邪気にヒットラーを平和の使者とあがめている。
ヒットラーがどれだけ残虐な人間かも知らず。
返す刀で、日本軍を残虐無比と罵っている。
彼らは人を見る目がなく、嘘に簡単に騙されてしまうようだ。
これは メッセージ 1413 (kireigotowadame さん)への返信です.
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中国人による無数の暴虐事件1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/01/27 18:45 投稿番号: [1416 / 2250]
K・カール・カワカミ著
『シナ大陸の真相
1931〜1938』 (原題 Japan in China )
訳者
福井雄三
展転社
123〜125p
《 宣伝活動の結果、事態は絶望的となった。
殆どの中国の都市が日本人の住民にとってもはや安全ではなくなった。
日本人はもはや安心して家の外を歩けなくなった。
中国人の商人は反日組織の側からの報復を恐れて日本の商品を扱おうとはしなかった。
日本に対して友好的な中国人、または日本人と商売したりつきあったり
している中国人は脅迫され、恐喝され、襲撃され、時には殺されさえもした。
中国の全国土は日本への憎しみで燃えさかっていたが、
しかしそれは自然発生的に燃え上がったものではなくて、
国民政府自身が火つけ役となった大火だったのである。
当然のことながらここ数年間に反日的な事件が次から次へと目まぐるしく発生した。
次に掲げるのはその中の一部のリストである。
※北
支
一、一九三五年五月、日本贔屓の傾向のある二人の中国人の新聞編集者が
天津で殺害された。
二、一九三五年一二月一七日、天津の日本軍守備隊総司令官である多田陸軍中将の
邸宅に爆弾が投げ込まれ、中国人の召使いが負傷した。
三、一九三五年八月、満洲国の国境から天津に向けて走行中の満洲国・中国
国際列車が匪賊に襲撃された。
調査により判明したところでは、彼らは天津の反日組織に煽動されていた。
約二〇名の乗客が殺害された。
四、一九三六年一月二日、天津付近のタークーで二軒の日本人商店が
中国軍正規兵によって略奪された。
五、一九三六年六月二六日、北京近くで中国軍の正規兵が、
豊台日本軍守備隊に所属する日本人兵士に襲いかかり重傷を負わせた。
それに対する謝罪を要求して中国軍の兵営に赴いた日本人の陸軍大尉が
中国軍兵士に刀と銃剣で斬りつけられた。
六、一九三六年六月一九日、山東省防東で日本人が中国人に射殺された。
七、一九三六年七月二二日、天津の市役所所属の中国人警備兵が、
天津の日本総領事館に勤務する二名の警官を領事館の前で銃撃した。
一人は殺され、もう一人は重傷を負った。
八、一九三六年八月二三日、河北公共治安部隊の数名の兵士が
天津の日本語学校を襲撃して略奪し、
日本人の教師に暴行を加えて拉致した。
九、一九三六年一〇月、反日組織に煽動されたストライキのおかげで、
山東省青島の日本人経営の紡績工場が二週間閉鎖された。
一〇、一九三七年五月二三日、各々四九トンの二隻の日本の漁船が
満洲国の大連沖で操業中に、中国の税関パトロール船に発砲された。
中国人の税関警備兵がこの日本の漁船に乗船して捜索したが、
犯罪に関する物は何も発見出来なかった。
一一、一九三七年六月一日、中国人の暴徒の一団が天津付近の
日本人経営の農場施設を襲い、一つの倉庫と三つの住居に放火し、
多くの日本人従業員が負傷した。》
つづく
これは メッセージ 1414 (kireigotowadame さん)への返信です.
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