入って中国人に南京事件真相議論しましょう

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12月12日のラーベの日記 1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/09/05 16:09 投稿番号: [167 / 2250]
十二月十二日

日本軍はすんなり占領したのではないかという私の予想はみごとにはずれた。
黄色い腕章をつけた中国人軍隊がまだがんばっている。

ライフル銃。ピストル。手榴弾。完全装備だ。警官も、規則を破ってライフル銃をもっている。
軍も警察も、もはや唐将軍の命令に従わなくなってしまったらしい。

これでは安全区から軍隊を追い出すなど、とうていむりだ。
朝の八時に、再び砲撃が始まった。


十一時に唐将軍の代理だといって龍上校と周上校がやってきた。
三日間の休戦協定を結びたい、ついてはその最後の試みをしてもらえないかという。

休戦協定の内容は ― この三日間で、中国軍は撤退し、日本軍に町を明け渡す。

われわれは、まずアメリカ大使あての電報、つぎに調停を依頼する唐将軍の手紙
(大使に電報を打つ前に、唐がこれをわれわれに出さなければならない)、

最後に軍使に関するとりきめを、まとめあげた。   軍使は、白旗に守られて、
前線にいる日本軍の最高司令官にこの手紙を渡さなくてはならない。

シュペアリングが、軍使をつとめようと申し出た。
龍と周が唐将軍の手紙をもって戻ってくるのを、昼の間じゅういまかいまかと待っていた。


夕方六時近くになってようやく龍が姿を見せた。
龍は言った。

「残念ながら、せっかくの努力が水の泡でした。
すでに日本軍は城門の前まで攻めてきているため、時すでに遅し、とのことです」

だが私はショックを受けなかった。
こうなったのを悲しいという気持ちさえわかない。

はじめから気にくわなかったからだ。唐の魂胆はわかっている。
蒋介石の許可を得ずに休戦協定を結ぼうというのだ。

だから、日本軍あての公式書状で、「降伏」 という言葉を使われては具合が悪いのだろう。

なにがなんでも、
休戦願いはわれわれ国際委員会の一存だと見せかけなければならないというわけだ。

要するに、われわれの陰に隠れたかったんだ。
蒋介石や外交部がこわいからな。

だから国際委員会、ないしはその代表であるこの私、
ラーベに全責任をおしつけようとしたんだ。汚いぞ!



続きは順番の都合   あとで。

12月12日 陸海軍の動き

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/09/04 18:32 投稿番号: [166 / 2250]
上海派遣軍においては、

第十六師団が、・・・十二日紫金山頂を南北に連ぬる線を占領した。
山田支隊は、十二日鎮江出発、烏龍山方向に向かう。

第九師団右翼隊は、・・・十二日城壁に近迫したが、幅の広い水濠
(この付近の水幅は約二〇〇米) に出会ったので、この渡河準備を実施した。

左翼隊の、雨花台東端を攻撃した部隊は頑強に抵抗する敵を逐次撃破したが、
十二日朝、態勢整理のため、旅団命令により攻撃を一時中止した。


第十軍においては、

第百十四、第六師団を並列して雨花台方向に攻撃・・十二日、
両師団は城壁の一部を占領した。

(戦史叢書『支那事変   陸軍作戦1』428〜429p)



海軍の揚子江啓開
  十二日の経過   烏龍山下流まで進撃

烏龍山付近下流まで右岸は陸軍天谷支隊の一部が進出して残敵掃蕩中であるが、
左岸一帯は敵陣地であり、遡江部隊の進撃を極力阻止せんとする模様であった。

近藤指揮官は前衛部隊 (二見、熱海、掃六、掃一、掃三.掃四号)、
主力部隊 (山風、海風、江風、安宅、掃二、掃五号) の順に

08:30 進撃を開始、鎮江から下江して来た 「保津、比良、勢多」 と共に、
都天廟砲台及び付近の残敵の猛射を反撃、

かつ途中左岸一帯の敵陣地密集部隊と交戦、
これを撃破制圧しつつ全軍一丸となって砲台下を強行通過した。

この間、神川丸機及び陸軍天谷支隊の有効な協力があり、
猛烈な機銃の反撃はあったが、砲台は沈黙を守っていた。


10:10 ころ、令により 「掃六、掃三号」 は掃海具を揚収して分離し、
先頭部隊の 「保津、勢多」 に合同、烏龍山水道に急速進出し、

閉塞線の偵察及び同付近下流の泊地掃海を実施することとなった。
陸岸の敵陣地を砲撃しつつ前進し

12:30 ころ烏龍山閉塞線付近に到着し予定作業に移ったが、
北岸の劉子口付近から野砲、機銃、小銃の猛射を受け、これと交戦した。

この際 「保津」 は命中弾を受け左舷機故障、「掃六、掃三号」
も敵弾の集中砲火を受け、掃海不能となり 12:30 ころ掃海索を一時投棄した。

更に掃六号は後部艦橋に、掃三号は艇長室水線付近に、それぞれ被弾し負傷者発生、
一時避退し応急修理を行った。15:30ころ、主隊は閉塞線付近に到着した。

第二十四駆逐隊並びに神川丸機及び二聯空機は、烏龍山砲台及び北岸陣地の砲爆撃を実施した。


同夜、23:00 ころから諸岡少佐指揮の工作隊は安宅の高速艇に乗り、
「勢多」 掩護の下に閉塞線に接近し、閉塞船をつなぎとめていたワイヤーを切断し、

箱舟やジャンクを取り除き、約三時間後幅三〇〇米の可航水路を啓開した。

(戦史叢書『中国方面海軍作戦1』466〜467p)

百人斬り記事 第4号

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/09/03 18:48 投稿番号: [165 / 2250]
〔昭和12年12月13日   東京日々新聞朝刊〕
百人斬り〝超記録〟向井 106−105 野田/両少尉さらに延長戦

《 [紫金山麓にて十二日浅海、鈴木両特派員発]

南京入りまで〝百人斬り競争〟といふ珍競争を始めた例の
片桐部隊の勇士向井敏明、野田巌 (ママ) 両少尉は

十日の紫金山攻略戦のどさくさに百六対百五といふレコードを作つて、
十日正午両少尉はさすがに刃こぼれした日本刀を片手に対面した

野田   「おいおれは百五だが貴様は?」
向井   「おれは百六だ!」……

両少尉は

〝アハハハ〟結局いつまでにいづれが先に百人斬ったかこれは不問、結局
「ぢやドロンゲームと致さう、だが改めて百五十人はどうぢや」

と忽ち意見一致して十一日からいよいよ百五十人斬りがはじまつた、
十一日昼中山陵を眼下に見下ろす紫金山で敗残兵狩真最中の向井少尉が

「百人斬ドロンゲーム」 の顛末を語つてのち

知らぬうちに両方で百人を超えていたのは愉快ぢや、
俺の関孫六が刃こぼれしたのは一人を鉄兜もろともに唐竹割にしたからぢや、

戦ひ済んだらこの日本刀は貴社に寄贈すると約束したよ

十一日の午前三時友軍の珍戦術紫金山残敵あぶり出しには俺もあぶりだされて
弾雨の中を   「えいまゝよ」 と刀をかついで棒立ちになってゐたが一つもあたらずさ

これもこの孫六のおかげだ
と飛来する敵弾の中で百六の生血を吸った孫六を記者に示した。》



向井少尉は、まるで、スーパーマンのように描かれているが、
当の向井少尉は丹陽で負傷し入院している。

弾に当たらないどころか、とっくに当たっている。
しかも、まだ入院中だから、この場にいない。



『「百人斬り競争」の虚報を証明した野田少尉の手記』
《・・・・
野田ハ   麒麟門東方ニ於テ   記者ノ   戦車ニ添乗シテ来ルニ   再会セリ

記者「ヤアヨク会ヒマシタネ」

野田「記者サンモ御健在デオ目出度ウ」

記者「今マデ   幾回モ打電シマシタガ   百人斬競争ハ   日本デ大評判ラシイデスヨ。

    二人トモ百人以上   突破シタコトニ   (一行不明)

野田「ソウデスカ」

記者「マア其ノ中   新聞記事ヲ楽ミニ   シテ下サイ、サヨナラ」

瞬時ニシテ記者ハ   戦車ニ搭乗セルママ   去レリ。


当時   該記者ハ   向井ガ   丹陽ニ於テ   入院中ニシテ   不在ナルヲ   知ラザリシ為、

無錫ノ対話ヲ   基礎トシテ   紫金山ニ於イテ   向井野田両人ガ談笑セル記事   及

向井一人ガ   壮語シタル記事ヲ   創作シテ   発表セルモノナリ。》

(『正論』2001年8月号   336p)

12月12日 第16師団佐々木支隊の戦い

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/09/02 18:39 投稿番号: [164 / 2250]
佐々木倒一少将の日記
  十二月十二日

終夜咳が甚しくて睡つては醒めして安眠が取れず、
一個月来の作戦に疲労したからだにはかなりこたへた。

早朝起きて見たが頭が割れるばかりに痛みどうにもならず、
重大時期にと考へて見ても重い頭はやはり重い。

「副官、困つたな。これでは何も考へられん」
「お休みください、ご計画通り吾々でやりますから」
「うむ」

藁 (わら) の中に寝転んで見たが激しい銃砲声を聞いては寝ては居れない
午前十時頃に至り遂に意を決して飛出し銀孔山に指揮所を進めた。


塹壕やその後方の斜面は実に夥 (おびただし) しい敵の死体である。

部隊は昨夜命じた部署に就いて曹長から敵の主陣地帯を攻撃してゐる、
今日中に之を攻略しなければ敵の退路を遮断することができない。

そう考へるから病気なんかの為寝てはゐられなかつたのである。


見ると前面近くの高地に三八長が突ッ立つて督戦してゐる、(やつて居るな) 併 (しか) し
予は直ぐさま電話を以て 「軽挙はするな」 と云つてやつたのである。

指揮官の勇敢なる態度は必要であるが、高い姿勢は敵弾を吸収する、
そして損害を受けるものは周囲にゐる者である。

だがこゝにも高い姿勢が敵陣地を注視してゐ敵の小銃弾が盛んにやつてくる。
鳥竜山砲台から又撃つてくる、高地の稜線後にゐても砲台からは丸見えである。

又この砲台の高射砲は最後迄我軍の飛行機を射撃してゐた、
三門斉発の射弾が丁度吾々の頭上に炸裂するのを凄〃見た。

我十加 (10センチ・キャノン砲か?) が一万米の射距離で制圧射撃を始めた。
観測所が現在同じ所に在るので砲撃の結果を刻〃知ることができる。

命中弾を得たと云つてゐた。
紫金山北麓の敵野砲も亦盛に撃つてきた。


第一線歩兵の攻撃は幸に着々進捗、

遺棄死体等に依つて判断するに我支隊当面の敵は第七十八帥と四十八帥の一部であるらしい、
数倍の敵を刻〃圧迫しつゝあるのであるから痛快である。

正午頃我右翼前方に在つた敵を撃退し得たのでこゝに再び左旋回を行ひ
南京城北側地区に進出することに決した。

一時頃堯化門 (地名) 附近の雑樹林に於て転身に関する命令を下した後行動に就く、
然るに該地を去つて五分間も経たぬうちに敵の迫撃砲弾が予の立つてゐた土饅頭に命中、

それをふッ飛ばした。


紫金山北麓を前進して是より先敵既設陣地の攻撃を開始した歩三三の第一大隊は
多数の死傷者を生じつゝも敵を圧迫してゐるので、

これを拠点として我支隊主力は左旋回を為さねばならぬ、
然るにその進路は砲兵の前進に適せずとの砲兵斥候の報告であり

砲兵大隊長も不可能であるとの意見なる故砲兵を堯化門に残し
歩兵のみを以て前進することに決した。

本道から畑の中の間道に入つて間もなく忽ち石橋の落とされてゐるのに会ひ、
工兵小隊に依つて修理を加へる間、兎も角歩兵の各部隊殊に山砲は苦辛しつゝ畑の中に進入する。
・・・

午後三時頃紫金山北麓岔路口附近の敵撤退す、戦は勝ったとの感がする、
しかし正面の敵はまだ頑張つてなかなか撃退することはできない。

夕刻興街村着、紫金山の裾の寒村。一小隊を直ぐ左の高地に上げて左翼を警戒、
前面からは小銃弾がプスプスやつてくる。

12月12日 南京攻防戦

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/09/01 18:48 投稿番号: [163 / 2250]
児島襄著『日中戦争4』

《210〜211p

第二十三連隊の右の第四十七連隊第一大隊の先頭第三中隊 (三明保真大尉) が、
中華門西側城壁の前の水濠で待機していた。
・・・

水濠の幅は、この付近では約四十メートル、深さは約二メートル。
・・・
中隊長三明大尉が苦慮していると、偶然に小舟が流れてきた。
見酉公夫上等兵がハダカになって寒流にとびこみ、舟をひっぱってきた。

・・・
舟には櫓(ろ) も櫂(かい) も付属していなかった。

旗竿で舟をおしだし、そのあとを水野上等兵が泳いで竹ハシゴを対岸に渡した。
ハシゴは二本。四メートルと六メートルの長さである。

この二本をつないで城壁にたてかけ、
不安定にゆれるハシゴをまず粟津一等兵がのぼりはじめた。

中国側は手榴弾を投げ、銃撃して登壁阻止にはげみ、
粟津一等兵は右腕に貫通銃創をうけて転落した。

安東軍曹が代り、中津留伍長がつづき、二人はハシゴの長さがたりない城壁を、
壁面にはえているツタ、木の根をつかみ、

あるいはゆるんでいる煉瓦をぬいて足がかりにして、城壁上に立った。

212p
二人は、銃に日章旗を結びつけている。
・・・

中国軍は逆襲し、決死隊のうち安東軍曹、真鍋、寺山一等兵は戦死した。
江口一等兵も負傷し、中津留伍長一人が敵の機銃をうばって奮戦した。

第二小隊第一分隊長白石躬喜雄軍曹が、水濠をわたって城壁下の民家に放火し、
煙幕展張にかえた。軍曹は戦死したが、

この即席煙幕のおかげで第三中隊は続々と城壁にのぼり、拠点を確保した。
・・・

213p
第二十三連隊第三大隊も、十五センチ榴弾砲の支援をうけて城壁にせまり、
午後四時四十四分、第九中隊が、工兵が人柱でささえる仮橋をわたって西南角城壁を占領した。

・・・
第九、第十六師団方面はいぜんとして苦戦がつづき、第九師団第三十六連隊は
催涙ガス弾攻撃をうけた。
・・・

214p
第六十六連隊主力は、中華門突入をこころみたものの、
門扉を破壊できずに攻撃を中止した。

第六師団地区では、第十三連隊が奮起していた。師団の攻撃主力三個連隊のうち、
第十三連隊だけが城壁に日章旗をたてずに夜をむかえたからである。

第一大隊長十時和彦中佐は、第二中隊長松本正雄中尉に 「正子」(午前零時) を
期して中華門城壁を突破せよ、と命じた。

この夜は陰暦十一月九日。
前半夜は月があるので、月が沈んでからの攻撃を企図したのである。

目標の城壁は、第四十七連隊の右側にあたり、第二中隊は、吉住義継少尉指揮の突撃隊を
先頭にして、工兵が立ち泳ぎしながらささえる渡橋をわたり、未明に城壁を占領した。

しかし、こうして南京城の南壁は日本軍の軍靴に制圧されたが、他の囲壁は健在にみえた。
「我ガ砲兵   射撃ヲ開始セバ、敵砲兵   沈黙シ、我射撃ヲ   中止セバ、彼レ又射撃ヲ   開始セリ」

という状況がつづき、南京城攻略には、なお一日の力攻が必要だと判断された。》



ここで注目すべきは、中国軍が 「催涙ガス」 を使っていたということです。
もし日本軍が、同じ物を使ったら、「毒ガス」 使用と、毒々しく宣伝されたでしょう。

12月12日の外国船爆撃・パネー号沈没

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/08/31 18:50 投稿番号: [162 / 2250]
石田勇治   編集・翻訳 『資料ドイツ外交官の見た南京事件』 大月書店

《5p
一二日の日曜日・・・午後には浦口が、中国軍部隊の退却を阻止しようとした
日本軍爆撃機による空襲を延々と受けた。

そのさい、ハルクを含むほぼすべての英国船舶が甚大な損害を被った。
また日本軍の武装モーターボートも現われたが、もっぱら河の中央を航行していた。


11日からの続き
16〜17p

接触はまず一二日の朝、日本軍の奇襲砲撃のさなかにおこなわれた。
この砲撃で英国人水兵一名が命を落とし、オドネル大佐も右手の指一本を失った。

しかし英国人たちは、こうした日本軍の前代未聞の挑発行為にもめげず交渉を続け、
その席で蕪湖の橋本大佐から、

長江上の全船舶にたいして砲撃命令が下っていることを聞き出した。
この告白は、日本側にとってはこのうえなく都合の悪いものとなった。

降臨節の第三日曜日〔一二月一二日〕は、光り輝く朝日をあびて穏やかに明けた。

午前中、引き船と平底船に乗った日本軍歩兵たちがわれわれの近くで上陸し、
[いつものように] 岸辺とジャンクで無実の民間人を数名殺害した。

その後、かれらは停泊中のわれわれの船団の周囲を航行したが、
それはわれわれが中立的で平和的な船団であることを確信する絶好の機会となった。


この少し前、パナイ号はスタンダード・オイル社の三隻の米国タンカーとともに
そばを通過し、われわれの視界の及ばない上流の和県付近に停泊した。

日本軍上陸部隊がわれわれの船団を視察した後、
もはやこれ以上の襲来の危険はないと思っていた。

しかし、予想外にも一三時三〇分、突然何の通告もなく、
日本軍爆撃機三機がハルクにつながれていた大きくて豪華な標的、

黄浦号に三回攻撃を加え、地上約三〇〇メートルまで降下して爆撃した。

九発の爆弾   −   そのうち一発は不発弾   −
が直撃弾とならなかったことは奇跡というほかない。

しかし風圧と破片で黄浦号と、とくにハルクに甚大な被害がでた。


この攻撃の後、クリケット号のアシュビー海軍大尉   −
いまや軍務歴最長の英国将校   −   は外国人をただちにハルクと黄浦号から

砲艦クリケット号とスカラブ号に移し、集結していた船団を散開するよう命じた。
われわれが小さな引き船に乗って黄浦号からクリケット号に乗り移ったとき、

日本軍の無法きわまりない爆撃機がふたたび飛来し、
〔英国〕アジア石油会社のタンカーの船尾すれすれに六発の爆弾を投下した。

ついにアシュビー海軍大尉は、自らの責任において、二隻の砲艦から砲撃を開始した。
機関銃各二丁、小速射砲各二砲、三インチ砲各二砲による攻撃である。

ただし、六インチ砲は対空防衛には不適なため使用しなかった。その断固とした
責任感あふれる行為によってアシュビー海軍大尉は、英国船団を恐るべき運命から守った。


だがこのとき、数マイル上流の米国人はまさにその恐るべき運命に見舞われていたのである。

一六時一〇分の三回目の攻撃で、日本軍は四個の爆弾   −   今回は迎撃されたため
目標からだいぶそれた   ―   を投下した。

これでわれわれは総計一九発の爆弾を頂戴した。
日本軍砲兵隊はこの前日には黄浦号に二四発の砲撃を加えていた。》



この爆撃機は海軍機です。

この日   他に、英国砲艦レディバード号が陸軍から砲撃を受け、
米国砲艦パナイ (パネー) 号は16時過ぎの海軍機空襲の後   沈没しました。

この事により、外国人の対日感情が悪くなります。

12月11日 陸海軍の動き

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/08/30 16:42 投稿番号: [161 / 2250]
上海派遣軍

第十三師団は、十一日、一部をもって図山要塞を奪取し、主力は同日鎮江に集結し
渡河を準備した。     (戦史叢書『支那事変   陸軍作戦1』424p)

軍司令官は、第十六師団の右翼方面の攻撃を容易にしかつ敵の東方に向かう退路を
遮断するため、十一日、渡河のため鎮江に待期中であった第十三師団の山田支隊を

南京北側に派遣して烏龍山及び幕府山砲台を攻略するよう部署した。

第三師団は、十一日、軍命令に基づき先遣隊を第九師団の左翼に進出させた。
(戦史叢書『支那事変   陸軍作戦1』428p)


第十軍
十一日、軍司令官は第十八師団を杭州攻略に参加させるため、南京に向かう追撃を中止し、
主力を太平、蕪湖の間に集結させた。

国崎支隊は、十一日、同地北方慈湖鎮付近で揚子江を渡河し左岸に移動した。
(戦史叢書『支那事変   陸軍作戦1』425p)



海軍の揚子江啓開

十一日の経過
鎮江下流右岸は我が陸軍部隊の進出により、残敵はおおむね掃蕩された模様であった。

「掃一、掃三号」 (一掃第三小隊) は 07:00 泊地発、「山風、海風」 の前路を掃海し、
大港鎮まで嚮導した後、亀山から裕龍洲立標までの深海を実施した。

また田村一掃司令は第一、第二小隊の掃海艇四隻を率い 09:00 泊地発、
主隊の前路を掃海し、裕龍洲下端付近まで進出した。

14:00 ころ、第二十四駆逐隊及び 「安宅」 からの派遣陸戦隊は尹公洲及び
その対岸に上陸、管制機雷衛所及び電纜を捜索したが、成果なく、18:00 ごろ打ち切った。

また右岸に上陸した陸戦隊は、陸軍部隊と協力、焦山を占領した。


「保津、勢多、二見、熱海、比良」 並びに一掃各艇は、16:25 泊地発、
丹徒水道を探海しつつ遡 (そ) 江し、都天廟狭水道付近に達するや、

都天廟砲台 (十二糎 (センチ) 砲四門) 及びその東方陣地から猛烈な射撃を受けた。

これに対し、16:30 第二十四駆逐隊各艦は掩護射撃を開始し、神川丸機も協力爆撃を行った。
各艦艇は弾雨の中、掃海を続行し、17:00ころ都天廟敷設線を掃海突破した。

拘束機雷はなかった。
本戦闘において各艦艇の船体各部に機銃弾が命中したが、人員その他被害はなかった。

なおこの日 「比良」 は捕虜から焦山方面に機雷は敷設してない旨の情報を得た。

同艦に続き 「勢多、保津」 が焦山南水道を突破して鎮江に突入、18:00 桟橋に横付けした。
この日、第一水雷隊 (隼、鵯欠) は第一警戒部隊に編入され、「栗」 が除かれた。

(戦史叢書『中国方面海軍作戦1』465〜466p)

ラーベの日記 12月11日

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/08/29 16:50 投稿番号: [160 / 2250]
  十二月十一日   八時

水道と電気が止まった。だが銃声は止まらない。ときおり、いくらか静まる。
次の攻撃にそなえているのだ。どうやらこれがうちの 「ペーター」 のお気に召したらしい。

さっきから声を限りに合奏している。
からす (ラーベ) よりカナリアのほうが神経が太いようだ!

爆音をものともせず、道には人があふれている。この私より 「安全区 (セーフティ・ゾーン)」 を
信頼しているのだ。ここはとっくにセーフでもなんでもないのだが。

いまだに武装した兵士たちが居すわっているのだから。いくら追い出そうとしてもむだだった。
これでは、安全区は非武装だと日本軍に知らせたくともできないじゃないか。

  九時
ついに安全区に榴弾が落ちた。

福昌飯店 (ヘンペル・ホテル) の前と後ろだ。十二人の死者とおよそ十二人の負傷者。
このホテルを管理しているシュペアリングが、ガラスの破片で軽いけが。

ホテルの前にとまっていた車が二台炎上。さらにもう一発、榴弾 (こんどは中学校)。
死者十三人。


軍隊が出て行かないという苦情があとをたたない。
鼓楼病院の前に − ということは安全区側だ − 砦が築かれることになった。

だがこれを命じられた中国軍の将校は、通りの向こう側で作業するのを断ってきた。
事態を丸く収めようと、私はマギー牧師と一緒にその将校に会いに行くことにした。

山西路広場(バイエルン広場)を通りかかったとき、
広場の真ん中で兵士たちが穴を掘って隠れているのをみつけた。

角の家は軒並み兵士たちにこじ開けられている。目の前で次々とガラスや扉が壊されている。
なぜそんなことをするのだろう?   だれに聞いても、わからない、という!


けが人がひっきりなしに中山路に運ばれて行く。

砂袋、引き倒した木、有刺鉄線の柵でバリケードを作っているが、
こんなもの、戦車がくればひとたまりもないだろう。

鼓楼病院の前で例の将校に砦を築くように頼んだが、相手はおだやかな物腰ながら断固拒否した。
病院から龍に電話で報告すると、さっそく唐将軍に問い合わせるとの返事。

  十八時
記者会見。出席者は、報道陣のほかは委員会のメンバーのみ。
ほかの人はジャーディン社の船かアメリカの砲艦パナイで発ったのだ。


スマイスがいうには、目下名ばかりわれわれの配下にある警察が、
「こそ泥」 を捕まえ、その処分について聞いてきたという。

この件でちょっとばかり座がにぎわう。おそれ多くも裁判官までつとめることに
なるとは……。私もそこまでは考えていなかった。

われわれはまず、死刑を宣告し、恩赦により、と二十四時間の拘置にし、
留置場の不足によりやむをえず、とふたたび自由の身にしてやった。


午後八時、韓を呼び、家族をつれて寧海路五号の委員会本部に引っ越すようにいった。
あそこの防空壕のほうが安全だ。

しかもわが家は、いま日本軍から猛攻撃されている五台山のすぐそばなのだ。
私もいずれ引っ越そうかと考えている。夜は猛攻撃をうけるだろう。

それなのに韓はまだ家を出ていこうとはしない。

12月11日 攻撃される外国船

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/08/28 18:42 投稿番号: [159 / 2250]
石田勇治   編集・翻訳『資料ドイツ外交官の見た南京事件』15〜16pより


《ハルクは、日本軍にとっくに知られた場所に停泊し、同じ場所には英米の商船の他、
英国砲艦のクリケット号とスカラブ号も集結していた。

他方、米国砲艦のパナイ号はまだ南京付近にとどまっていた。
一二月一一日土曜日の朝、英国の長江航行汽船黄浦号がわれわれの停泊地にやってきた。

われわれは、その船の方が居住環境がよいとのことで、そちらに移動した。

ハルクでは、この間に焼け落ちたブリッジハウス・ホテルの英国人オーナーたちの手で
立派な食事が提供されてはいたが、そこの生活ときたらまるで大きな木賃宿であった。

下層甲板は四、五〇〇人の中国人難民 − 英国系企業の従業員とその家族 − で満杯のため、
ヨーロッパ人に使えるのは小部屋を三つ備えた大きな事務室一つだけであった。


黄浦号で初めての食事をとった直後、南京の南側一帯で作戦展開中の日本軍砲兵隊に
われわれが狙われていることに気づいた。

かれらは型どおりの態勢で二手に分かれ、黄浦号と、英国郵政委員が南京の郵政当局のために
緊急避難場所としてチャーターした望東号をめがけて砲撃してきた。

全船舶が上流に向けて出航し、われわれはさらに一時間以上も砲弾の追撃にさらされながら
航行を続けた。何発かの砲弾が船をかすめて作裂し、破片は甲板に飛び散って救命ボートを貫通した。

ハルクの船上に固定されていた   はしけにも砲弾が命中し、三人の中国人が命を落とした。
だが上流に向かっていたのが幸いして、ハルクはそれ以上の砲火を免れた。

黄浦号のマッケンジー船長はきわめて冷静に行動し、南京上流約一五マイルの地点で
停泊することを決めた。


「そこなら、たとえ撃沈されても上部甲板は水面に出たままであろう」 との
かれの言葉は大きな慰めとなった。

オドネル海軍大佐も、砲艦とその他の英国商船を同じ場所に停泊させた。
黄浦号に曳航されたハルクも夜の闇にまぎれてそちらに向かった。


私はこの砲撃事件の後、漢口駐在の 〔ドイツ〕 大使と上海総領事館に電報を送り、
日本に抗議をおこなうことと、今後この種の攻撃や空襲にたいするわれわれの身の安全確保を要請した。

この間、英国海軍少将で長江〔艦隊〕提督ホールトは、参謀将校オドネル大佐に、
翌朝蕪湖で自分と落ち合うよう命じた。

かれらの目的は、すでに現地入りしていた日本軍と接触することであった。
私の同僚の英国人書記官と英国大使館付武官が大佐に同行した。

接触はまず一二日の朝、日本軍の奇襲砲撃のさなかにおこなわれた。》

12日に続く



  日本軍が確認もせずに攻撃してきたのはケシカランと思う人も多いでしょう。
  しかし、なぜ、日本軍がこういう態度をとったかも考えるべきです。

「63ルール無用の中国式戦法」
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=552022058&tid=ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfb faj5doc0a47a4dea47a4ga4a6&sid=552022058&mid=63

でも書いたように、中国は外国の旗を悪用していました。
そうすると、船が外国の旗を掲げているからといって信用できません。

また「68英国人の中国軍援助」
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=552022058&tid=ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfb faj5doc0a47a4dea47a4ga4a6&sid=552022058&mid=68

でも書いたように、英国人は中国軍に援助していました。
そうなると、外国船を信用しなくなっても仕方がないでしょう。

この船の人たちに罪はありませんが、上海における中国のデタラメなやり方が、
日本軍にこういう行動をとらせたと言えます。

12月11日 外国船舶に攻撃命令を出す

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/08/27 18:41 投稿番号: [158 / 2250]
児島襄著『日中戦争4』206〜208p

《第六師団長谷寿夫中将は、安徳門西北方高地に戦闘司令所を進出させ、
戦況をみまもっていた。

中将も幕僚たちも、胸中には焦慮に似た戦況進展への希望が充満するためか、
誰も一言もいわずに佇立していた。

第十軍司令官柳川平助中将が、前ぶれもなく来訪したのは、午後二時すぎである。

勝気で闘志に富む柳川中将も、また、口にはださないが、日本国内の*騒ぎに
刺戟 (しげき) され、じりじりした心境にさそわれていた。


谷中将から情況説明をうけるうち、後方の砲兵隊観測所から「敵船逃走中」の
叫びがきこえ、左手の揚子江を遡航する汽船五隻がみえた。

すかさず砲撃が命令されたが、野砲の射程がみじかく、砲弾は江上にとどかない。

第六師団参謀長下野一霍大佐が、蕪湖に位置する野戦重砲兵第十三連隊
(橋本欣五郎大佐) による重砲射撃を進言した。

だが、間にあわず、第十軍司令官柳川中将は、午後六時、国崎支隊に次のように下令した。

「南京ノ攻略   目睫ノ間ニ迫リ、敵ノ退路ハ 揚子江   及   浦口方面ノ 二箇所ニ   限定セラル。

国崎支隊ハ   昼夜兼行、最モ速ニ 浦口ニ突進シ、敵ノ退路ヲ遮断シ   且ツ

揚子江ヲ退却スル   敵汽船ヲ撃滅スベシ」

  ついで、蕪湖地区の第十八師団にも!

「敵ハ……汽船ニ依リ……上流ニ退却中ナリ。尚 今後引キ続キ   退却スルモノト   判断セラル。

  第十八師団ハ、蕪湖付近ヲ 通過スル船ハ   国籍ノ 如何ヲ 問ハズ   撃滅スベシ」

この 「国籍ノ如何ヲ間ハズ」 命令は、乱暴である。

第三国船が中国兵を輸送していることを確認したうえでの攻撃ならともかく、
そうでなければ国際法違反であり、その国にたいする攻撃に通ずる。

現に、これまでも日本側は、「日中戦争」 における列国の権益と人命尊重について
格別の注意を各部隊に厳達している‥‥‥。

第十軍司令官柳川中将としては、しかし、汽船の遡航イコール中国軍の退却とみなし、
その命令の語調が告げるように、

ひたすら南京城攻略と中国軍主力殲滅を督励する一念に燃えていたのである。

   −   だが、

この日も南京城は陥落せず、すでに中山門外にせまった第九師団をのぞけば、
他の第十六、第百十四、第六師団は、まだ城壁にたどりつけなかった。


この夜、南京の首都衛戍司令官唐生智は、第八十三軍第一五四師(巫剣雄)を
第八十八師に増加して「陣地死守」を下令した。

第六師団長谷中将も、あらためて各連隊の攻撃部署を指示した。

  ▽第十三連隊=中華門、

  ▽第四十七連隊=中華門と西南角の間、

  ▽第二十三連隊=西南角、

総攻撃の下令にほかならず、他の師団でも、同様の命令が示達され、部隊はいずれも
幅三、四十メートルの水濠の渡河準備、高さ二十メートル余の城壁をのぼるハシゴの用意をいそいだ。》



この汽船は外国人の上流避難船だったのだが、この勘違いによる攻撃命令が
翌日国際問題を引き起こすことになる。

注*   「日本国内の騒ぎ」 とは、朝日新聞が早まって 「南京陥落」 の記事を出した事。
   実際はまだ陥落していないので、現場の兵士を焦らさせる。

12月10日 陸海軍及び和平案検討の動き

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/08/26 18:43 投稿番号: [157 / 2250]
海軍
  十日の経過   主隊三江営に進出

三江営陣地の敵はほとんど壊滅したが、亀山砲台はなお厳存し、焦山水道には
数線の管制機雷があって丹徒鎮以北の進出は慎重を要する情勢であった。

田村一掃司令は「掃六、掃五号」(第一小隊)を率い、09:00 から三江営上流の偵察、
残敵掃蕩及び亀山砲台の強行偵察を実施し、亀山砲台の三粁付近まで進出、

同砲台を確認し砲撃した。敵は反撃しなかった。

15:00 ごろ、「比良、勢多」 は三江営付近を制圧、「江風」 は、
神川丸飛行機と協力して亀山砲台を制圧した。

この日、13:10 旗艦安宅、山風、海風、掃一、掃三号は三江営付近に
入港して田村隊と合同した。

また陸軍天谷支隊は鎮江を占領した。
南京方面の我が陸軍各部隊は 13:10 総攻撃を開始した。

(戦史叢書 『中国方面海軍作戦1』 465p)


上海派遣軍

第十六師団が、・・・十日から紫金山及びその両側地区を攻撃、・・・
第九師団は、・・・十日、右翼隊をもって南京東郊の敵を攻撃・・・

左翼隊は、十日、光華門及び雨花台東端の敵を攻撃し、光華門の城門を占領したが、
じ後は戦闘が進捗しなかった。


第十軍

第百十四、第六師団を並列して・・・、十日から雨花台の第三線陣地及び複郭陣地を攻撃、
・・・
第六師団は、十日、一部を揚子江河岸から前進させた

(戦史叢書『支那事変   陸軍作戦1』428〜429p)


和平案検討作業
  大本営陸軍幕僚部では、十日、参謀次長の下に関係者が集まり、

前記の解決処理方針を基礎として、独大使に交付すべき前文及び条文を研究作成し、
条文は十一日、大本営陸軍部の決定とした。

これより先、政府は、大本営側に連絡することなく、十日の閣議で、
独大使に交付する「前文」を決定し、同日十三時半、外相がこれを内奏したので、

陸軍幕僚部作成の前文は、単に意見開陳にとどまった。

(戦史叢書 『支那事変   陸軍作戦1』 463p)

12月10日 雨花台の攻防

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/08/25 18:32 投稿番号: [156 / 2250]
児島襄著 『日中戦争4』 198〜201p

この日、前述した第 16 師団の紫金山、第 9 師団の光華門進出につづいて、
第 6 師団が雨花台にせまった。

雨花台は、南京城・中華門外の高地であるが、紫金山とともに南京城外の本防護地である。

深い地隙がいりくんだ波状の台地には、対戦車壕、鉄条網、掩蓋 (えんがい) 銃座、
ベトン製トーチカがちりばめられ、その北側には高さ二十メートルの城壁がそびえている。

一歩ふみこめば、たちまち八方からの十字砲火をあび、そのうえに城壁上からの
瞰射 (かんしゃ) も加わる。

第 6 師団は、第 13 連隊を右、第 47 連隊を左にして雨花台を攻撃したが、
前進は 「至難」 であった。


地形、防禦陣地の稠密 (ちょうみつ)、
とくに第 47 連隊正面の安徳門東南約五百メートルの高地からの側射などのほかに、

ようやく南京にたどりついた安堵感がかきたてる疲労、
さらには中国側の旺盛な戦意が、苦戦の主因である。

とくに、中国兵の戦意は、これまでにも随所で視認した 「臨陣退却者 斬首」 の布告にも
表明されていたが、雨花台のトーチカ陣地には鉄鎖をまき、施錠してあるものが少くなかった。

第 6 師団第 11 旅団長坂井徳太郎少将は、これも死闘を強制する中国軍の
督戦方式であるとみなし、「人道上許シ得ナイ暴状」 だ、と批判している。
・・・

師団長谷中将は、夕刻、戦況を判断して攻撃部署を整理することにして、次のように指示した。

①第11旅団 (第 13、第 47 連隊) は右翼隊となり、中華門から城壁西南突角を攻撃する。

②第 36 旅団 (第 23、第 45 連隊)は左翼を担任し、西北にすすんで水西門、
   漢西門さらにその西方を攻撃する。

③野砲兵第6連隊の主力は右翼隊、一部は左翼隊に協力する。

④第 45 連隊第 1 大隊は、予備とする。

つまりは、南京城の主攻は第 11 旅団にまかす、というのである。
南京一番乗り   −   が、いまや中支那方面軍全部隊の〝合言葉〟になっている。

その願いが成就できなくて・・・は、はるばる上海、杭州湾から空腹と疲労に耐え、
途中で倒れた上官、戦友、部下の〝仇討ち〟をちかって進撃してきたかいがない。

・・・・
第 36 旅団は、南京城壁を目前にしながら、
その城壁の外側を運動せよ、といわれるにひとしい……。

旅団長牛島満少将が、そんな将兵の気持ちを代弁する形で、谷中将に意見具申した。

「ぜひ当旅団を、せめて旅団の一部でもよいから、
西南城壁の攻撃を担当させていただきたい」

中将は、第 36 旅団の第 45 連隊を城壁西方に進出させ、
第 23 連隊に西南角の攻撃をおこなわせることにした。

第 13 連隊は中華門、第 47 連隊は中華門と西南角の中間を目標にし、
野砲兵第 6 連隊は第 23 連隊支援を重点にする指示も、下達された。

第 114 師団長末松中将も、午後六時、第 128 旅団を右翼として雨花台、中華門と
その東側城壁、第 127 旅団は左翼に位置して東南角城壁と共和門を攻略するよう、命令した。

「師団ハ……速ニ   待望ノ   南京攻略ヲ   決行セントス」

他の師団でも、同様の命令が下され、いよいよ南京総攻撃が開始されることになった。

唐生智 「開城勧告」 を無視

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/08/24 21:30 投稿番号: [155 / 2250]
《早瀬利之著 『将軍の真実   南京事件   松井石根人物伝』 127p

*武藤章参謀副長と中山寧人情報参謀、公平匡武高級参謀、岡田尚の四人は、
午前三時、一台の車で蘇州の司令部を発った。

南京の中山門外に着いたのは、八時間四十分後の午前十一時四十分。

四人は、十二時五分、十分をすぎても、その場で待ちつづけた。
しかし、待てど暮らせど、軍使は姿を見せなかった。

武藤章参謀副長が、

「やっぱり駄目だったか。さあ帰ろう」 と、ため息をついた。

がっかりしたことと、眠っていなかったためか、武藤ら三人の参謀は、
帰りの車の中でぐっすり眠った。

ただ一人岡田は、翻訳のできが悪かったからではないか、と責任を感じ、
眠れぬまま八時間先の蘇州の司令部へ引きかえした。


児島襄著 『日中戦争4』 198p

司令官唐生智は、「大日本陸軍総司令官」 松井大将の投降勧告は無視し、
回答期限の正午がきても、軍使を派遣することはなかった。

   −   その正午、
中支那方面軍参謀長塚田攻少将は、南京・中山路東方の前線で中国側軍使の
到来を待っていたが、城門がひらかれる気配はなかった。

方面軍司令官松井大将は、午後一時、下令した。

「支那軍ハ、我勧告ヲ   容レズシテ   依然   抵抗ヲ   続ケツツアリ。

  上海派遣軍   並ニ   第十軍ハ、南京城ノ攻略ヲ   続行シ   城内ヲ掃蕩スベシ」


戦史叢書 『支那事変   陸軍作戦1』 428p

九日、方面軍司令官は、敵軍にたいし開城を勧告し、
十日正午までに軍使をもって回答するよう要求したが、これに応じなかったので、

方面軍司令官は十日十三時、両軍に、攻撃を続行し城内を掃蕩すべしと命じた。


西岡香織著 『報道戦線から見た 「日中戦争」』 96p

唐生智は、この勧告文を無視して頑強な抵抗を続けたので、
十日午後一時から日本軍は総攻撃を開始した。》



ラーベは日本が 「開城勧告」 をしている事を知らずに、
「三日間の停戦と中国軍の撤退」 日中両方に出した。

しかし蒋介石は拒否した。
そうなると、唐生智も 「開城勧告」 を受諾できない。

彼らは、ラーベの希望とは、逆の事ばかりやっている。
むしろ、日本の行動の方が、ラーベの希望に近い。

蒋介石や唐生智が、日本の勧告を受け入れて、無血開城し、指揮官のもと、
整然と降伏すれば、後に、「南京大虐殺」 と言われるような混乱は生じなかったのに。

中国側のルール無視のデタラメなやり方が、南京に地獄を作り出す。


*『松井石根人物伝』に、中山門外で中国軍軍使を待っていた人に
武藤章参謀副長とあったが、これは著者早瀬氏の間違いで、塚田攻参謀長だった。

中山寧人氏の東京裁判証言では塚田攻参謀長となっている。
(富士信夫著『「南京大虐殺」はこうして作られた』154p)

12月10日のラーベの日記

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/08/23 16:13 投稿番号: [152 / 2250]
十二月十日

  不穏な夜だった。きのうの夜八時から明け方の四時ごろまで、
大砲、機関銃、小銃の音がやまなかった。

きのう (?今日の間違いだろう) の朝早く、
すんでのところで日本軍に占領されるところだったという話だ。

日本軍は光華門まで迫っていたのだ。中国側はほとんど無防備だったという。
交代するはずの部隊が現れなかったのに、中隊をいくつか残しただけで、

予定通り持ち場を離れてしまったのだ。この瞬間に日本軍が現れた。

あわやというところで交代部隊がたどりつき、
かろうじて敵軍を撃退することができたという。

今朝早くわかったのだが、日本軍は昨夜、
給水施設のあたりから揚子江まで迫ってきていたらしい。

遅くとも今夜、南京は日本軍の手に落ちるだろう、だれもがそう思っている。
・・・

それはそうと、日本政府と蒋介石はなんといってくるだろう。
一同、固唾をのんで待っている。

なにしろ、この町の運命と二十万の人の命がかかっているのだ。

安全区の道路は、避難する人たちでごったがえしている。
道路で寝ている人がまだ大ぜいいる。

それから   −   軍人もだ。龍上校、周上校の両人と最終的に次のような取り決めをした。

一、唐司令長官は、安全区の南西の境界線を全面的に承認する。

二、龍上校は、五台山の公営給食所がこれ以上兵隊たちに荒らされないよう、
   責任を持つ。

三、軍司令部の代表三名は、委員会の三人と共に安全区を視察し、
   見つけ次第兵士を追い出す。

   また、唐司令長官の代理として、この指示をその場で命令、
   実行させる権限をもつ。


下関で兵士たちが我々の米を燃やそうとしている、と韓が知らせにきた。
日本軍が身を隠せないようにしようというのだろう。

それを聞いた龍はやめさせると約束した。
私は軍事パスを受け取り、下関に通じる門を通れるようにしてもらった。


東部では、決戦の準備が始まったらしい。大型の大砲の音がする。同時に空襲も。

このままでは、安全区も爆撃されてしまう。ということは、血の海になるということだ。
道路は人であふれかえっているのだから。ああ、日本からの返事さえ、日本軍の承諾さえあれば!

欧州の記者たちが報道規制されているのが、残念無念だ!
中国軍のやつら、あいつらの首をしめあげてやりたい。

軍隊を立ち退かせるという約束はいったいどうなったんだ?
いまだに果たされてないじゃないか!


ああ、なんということだろう!
たった今、漢口のジョンソン・アメリカ大使から連絡があった。

大使は、蒋介石にあてた我々委員会の電報を転送しただけでなく、
個人的にも同意し、支持した旨伝えてきた。

だが、それとは別に極秘電報がきた。
そこに、外交部で口頭で伝えられたという正式決定が記されていたのだ。

それによると、三日間の停戦と中国軍の撤退に唐将軍が同意したというのは誤りだとのこと。
しかも蒋介石は 「そのような申し出には応じられない」 といったという。

しかし、われわれはぜったいに思い違いなどしていない。
いまここでそれをもう一度確認した。

龍と林は電報を打つときに居合わせたが、二人とも、
たしかに唐将軍は同意したと口をそろえている。

そう簡単にひきさがらないぞ!   われわれは蒋介石にもう一度電報を打った。
同時に私はドイツ大使トラウトマンにも電報を打って、支援を頼んだ。

【①】第2次大戦と心理戦社会/銀河団協会

投稿者: masataka3619jp 投稿日時: 2009/08/23 13:30 投稿番号: [151 / 2250]
旧日本軍の侵攻時、当時の国共軍は旧ドイツ軍によって訓練された精鋭部隊と、当時の先端兵器であるチェコ製の機関銃などを以って迎え撃ったと評されています。このため旧日本軍の死傷率は大幅に上がった上、国共軍の精鋭部隊将兵は南京において軍服を脱ぎ捨てて市民の只中に紛れ込んだと考えられていた為、軍全体が過剰反応を示したのかもしれません。旧日本がユダヤ教徒を保護したように、旧ドイツも青島などの領地を奪取されたと言う関係から軍事(金銭)取引に応じていたものと考えられます。
私自身は、この種の惨劇を生まないようにする為の非戦主義者なのですが、最新兵器の開発や自衛隊の存在は否定しません。戦わないことに意義を見出し、その非戦歳月をどれだけ積み上げられるかが重要なことだと考えているのです。中途半端な考え方なのですが、私自身の最大目標が現実問題から懸け離れているUFO搭乗なのですから仕方ありません。実現する可能性は極めて小さいと言わざるを得ませんが、私自身と妻(現時未婚)のほかに複数人搭乗が可能ならば、中国台湾・朝鮮半島2カ国を含む諜報7大国や準諜報大国の方々もお誘いするでしょう。

グーグルを用いて、『集合意識の感応社会』を検索してください。

12月10日 光華門城壁上に日章旗

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/08/22 16:26 投稿番号: [150 / 2250]
児島襄著『日中戦争4』196〜198p

《夜おそく、難攻していた第六、第百十四師団の突撃が成功し、
牛首山に布陣していた中国軍第五十八師主力は、退却した。

第六師団長谷中将は、十二月十日午前三時すぎ、牛首山東麓に進出したが、
おりから山を下ってきた第十三、第四十五連隊が路上にあふれて混雑し、

司令部は約三十分間もたち往生した。
・・・

第六師団は、第十三連隊を先頭にして鉄心橋から雨花台方向にすすみ、
第百十四師団も第百二十七旅団( 第六十六、第百二連隊) を雨花台に、

第百二十八旅団 (第百十五、第百五十連隊)をその右側に進撃させた。

第九師団は、右翼の第六旅団のうち、第七連隊が中山門東方的五百メートルの水濠に
到達したが、濠の幅は七十メートルを超え、突破に難渋せざるを得なかった。

同旅団の第三十五連隊は、右側の紫金山で苦戦する第十六師団第三十三連隊の
応援にむかい、左翼の第十九連隊は雨花台東端を攻撃した。


光華門に肉迫していた第三十六連隊は、工兵隊が城壁を爆破して破孔をひらくと、
すかさず伊藤善光少佐指揮の第一大隊を突入させた。

伊藤少佐は、軍刀ふりかざして先頭に立ち、城壁に日章旗をかかげた。
南京城一番乗り   ―   である。

だが、敵城にかかげた国旗にたいする敬礼も、バンザイの歓呼をあげる余裕も、
第一大隊にはなかった。

城門守備は第七十一軍第八十七師 (沈発藻) であったが、沈師長は反撃を下令し、
第三十六連隊第一大隊は集中する銃砲弾の渦の中にまきこまれた。

「敵軍小部隊突入城内、但被我殲滅」
中国側の 「抗日戦史」 は、そう記述している。


実際には、第一大隊長伊藤少佐は頭部に銃弾をうけて戦死したが、
大隊は 「城門を死守せよ」 という少佐の遺命にしたがい、そのご三日間、

第三十六連隊主力が光華門を占領するまで、城壁上に滞陣しつづけた。


南京の首都衛戍司令官唐生智は、光華門に第一五五師、その後方に第一五六師、
そして中山門に第一〇三師を増派し、紫金山の教導総隊、雨花台の第八十八師に

現位置の死守を命じ、さらに全軍に布告した。

「核心陣地為固守南京之最後戦線、各部隊応以與陣地共存亡之決心、
尽力固守、決不許軽棄寸土」》



宋希濂の回想録『鷹犬将軍』より

《十日、敵軍の一部は光華門外郭に突入したが、教導総隊と八十七師
(沈発藻黄埔二期生の必死の反撃で、やっと失地を回復した。》

(鈴木明著『「南京大虐殺」のまぼろし』258p)

12月9日の海軍掃海 (雄基丸触雷沈没)

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/08/21 18:45 投稿番号: [149 / 2250]
戦史叢書 『中国方面海軍作戦1   』 463〜465p

九日の経過 (雄基丸触雷沈没)    陸軍部隊は鎮江、南京に肉迫していたが、
亀山砲台及び三江営陣地はもちろん、周辺一帯はなお敵手に存した。

近藤指揮官は九日の作業について、次のように命令した。

一   第一警戒部隊ハ   速ニ   南京ニ向ヒ   水路ヲ   警戒前進   セントス

二   九日   当隊各艇ハ   次ニヨリ   行動スベシ   本職   安宅ヲ率ヰ   三江営ニ進出ス

   前路警戒隊   指揮官ハ   第二十四駆逐隊ノ   二隻 (山風、海風)、保津、

   及   一掃ノ第三小隊 (掃一、掃三) ヲ   指揮シテ   嚮導警戒ニ   任ズヘシ

   掃海部隊指揮官 (二掃司令) ハ   堅田ト協力   速カニ   北水道ノ   清掃ヲ行ヒ

   同水路ヨリ   閉塞線閘門   間ニ至ル   水路ノ啓開ニ   任ズヘシ   熱海、二見ハ

   速カニ   安宅附近ニ   進出命ヲ待テ   下流警戒隊指揮官ハ   蓮ヲシテ   江陰附近ニ

   アリテ   鳥羽艦長ノ   指揮ヲ承ケ   陸軍トノ   協同作戦ニ   協力セシムベシ

   爾余ノ各隊艦ハ   前日ノ作業ヲ   続行スベシ   神川丸機ハ   遡江部隊ニ協力

   主トシテ   三江営攻撃ニ任ズ


二掃の間宮九、天塩丸、雄基丸の三隻は、八日掃海した北方水面の掃海を 08:30 再開した。
ところが 05:15、雄基丸は巫山の三三〇度四、二〇〇米付近で触雷、前後部マストを露出して沈没した。

他の二隻は直ちに北岸の敵トーチカを攻撃、かつ 「堅田」 と共に乗員の救助に任じた。
江陰方面で陸軍作戦に協力中であった 「鳥羽、蓮」 及びビッグツリー方面の 「栗」 も救援のため現場に急行した。

14:10 特別掃海隊が来着し、クロッシング南水路 − 北口水路間の水路を掃海した。
「堅田、鳥羽、蓮」 は夕刻、北岸の敵陣地を攻撃し、二掃、特別掃海隊と共にビッグツリー付近に警泊した。


これより先、二掃司令は 「雄基丸沈没位置以東の北水道に浮流機雷らしきもの多数あり、
銃撃処分三個」 と報じ、12:10 近藤指揮官は二掃司令に掃海の一時中止を命じた。

田村一掃司令の率いる一掃 (掃一、掃三欠) 及び 「勢多、江風、比良」 は
八日同様の隊形で 07:30 天申橋の仮泊地発、両岸の敵を制圧しつつ上江し

11:00 ごろ、三江営下流六粁に到着し一時仮泊した。


田村司令は更に三江営、亀山砲台偵察のため司令艇 (掃六号) を率い三江営陣前に進出、
交戦しつつ突進して亀山砲台四粁付近まで進出した。

しかし亀山砲台の位置を確認できず、かつ同砲台が沈黙していたので、
まず三江営陣地を攻撃するに決し、仮泊地の指揮下兵力を部署し、

「掃五、掃六号、勢多」 を上流に、「掃二、掃四号、江風、比良」 を下流に配して
三江営砲撃を開始した。

神川丸機もこれに協力爆撃した。三江営陣地の敵は野砲一〜二門及び小銃、
機銃をもって我を反撃した。

激戦約一時間、12:30 ほぼ同陣地を制圧したので、「掃二、掃四号」 をもって
13:00 から同陣地の上下流約六軒にわたる間の清掃を実施した。


この間 「勢多」 は再び亀山砲台の偵察を実施、同砲台の二粁付近に達したとき、
同砲台 (十五糎砲四門) から突如砲撃を受け、直ちにこれに応戦した。

約九○発の敵弾を浴び、前檣 (しょう)、煙突などに各一発命中弾を受けたが、
死傷者はなかった。「勢多」 は一時避退したが飛弾は 「掃五、掃六号」 付近にも盛んに落下した。

同夜、各艇は三江営の下流六粁付近に警泊、北岸の敵から二回猛射を受けた。
我が方はその都度照射砲撃を加えた。


第三掃海隊 (五日、第二掃海隊と共に第一警戒部隊に編入) は午後、江陰に到着した。

二掃及び特別掃海隊は十日 10:00 までに江陰に集合せよと下令されたので、
福姜沙北水道の掃海は一時中止の格好となった。

「安宅」 は 「掃一、掃三号」 の合同待ち及び雄基丸触雷により上江を中止し、九日は江陰に警泊した。

中国側から見た12月9日の戦い

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/08/20 18:34 投稿番号: [148 / 2250]
宋希濂の回想録 『鷹犬将軍』 より

  十二月九日、南京防衛総司令官 (唐生智) は、次のような命令を行った。

①   敵軍は既に南京城周辺に迫ってきた。
   現在わが軍が守っている城廓陣地は、最後の砦である。

   各部隊の将兵は、陣地とともに死を覚悟してこれを死守してほしい。
   寸土たりとも、放棄は許されない。

   もしこの命令に従わず、勝手に後退する者は、司令官の厳命によって、
   連座制をとり、これを厳罰に処する。

②   各部隊が保有しているすべての船は、これを本部運輸司令部に移管し、
   司令部が責任を持って保有する。

   第七十八軍長宋希濂は、長江沿岸警備を担当し、
   他の部隊、将兵などの勝手な乗船、渡河を厳禁する。

   もしこの命令に背くものがあれば、即時逮捕し、厳罰に処する。
   なお、敢えてその命令に背き、抵抗する者があれば、

   (宋希濂部隊に) 武力を以てその行動を制止させるようにする。


同じ十二月九日、敵の包囲陣はさらに城廓に接近した。

わが七十四軍 (兪済時) は大勝関と牛首山を結ぶ前線を突破されて次第に後退、
遂に水西門に移って守備につくことを余儀なくされたが、敵はそれに迫ってきた。

そして、水西門外の上河鎮一帯が激戦区となった
(水西門から上河鎮は、現在の 「南京大虐殺記念館」 のある場所の付近に当る)。

棲霞山が敵に占領されると、わが四十八師 (徐源泉・徐継武の第二軍) は

和尚橋まで退いて、四十一師と合流した (長江を数百メートル上流に逃げた)。

浄化鎮にいた敵軍は、高橋門 (門の名があるが、城門ではない)、
七瓮 (シチオン) 橋(現在は七橋瓮と呼ばれている) を落して、

公路に沿って光華門 (南京城の南東部にあり、日本軍は最初にこの門上を占領した)
に向って進んだ。

別の一隊は通済門 (南京城の南門、中華門と光華門の中間にある) 外の
兵営を占領し、通済門を攻めた。

国道に沿って、湯山 (南京城の真東、紫金山の南の山麓方面) から南京に向った敵軍は、
九日、わが教導総隊 (桂永清) が守っていた老虎洞、体育場、馬群、孝陵など

西南一帯の高地に向って進撃を開始、わが守備軍は、峰麟閣寺西山の主陣地に移った
(ここにトーチカがあり、九日夕方から十日正午まで、日本軍は 「投降ビラ」 を撒いて

唐生智に無血開城を勧告し、戦闘を中止した   (?鈴木氏の勘違い、中止はしていない)   が、
唐生智はそれに応じなかった)。

(鈴木明著 『新 「南京大虐殺」 のまぼろし』 257〜258p)

ラーベの日記12月9日

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/08/19 18:37 投稿番号: [147 / 2250]
《十二月九日

いまだに米を運ぶ作業が終わらない。そのうえ、作業中のトラックが一台やられてしまった。
苦力がひとり、片目をなくして病院へ運ばれた。
・・・

ドイツ大使館のシャルフェンベルク、ヒュルター、ローゼンら三人も船に乗っているが、
もし状況が落ち着けば、今晩会議のために上陸するつもりでいる。
・・・

午後二時、ベイツ、シュペアリング、ミルズ、龍、参謀本部の大佐、私、のメンバーで、
安全区の境界を見回る。唐将軍が文句をいってきたからだ。

南西の境の丘から、炎と煙に包まれている町のまわり一帯が見える。
作戦上火をつけたのだ。町じゅうが煙の帯に取り巻かれている。

安全区の南西側に高射砲台がずらっと並んでいるのに気がついた。

そのとき、日本の爆撃機が三機、姿をあらわし、約十メートル前の砲兵隊に
猛烈に砲撃された。われわれはいっせいに地面に身を伏せた。

そのままの姿勢で顔をあげると、高射砲の弾がはっきりみえた。
残念ながらいつも外れていた。いや、幸運にもいつもそれた、というべきか。

とにかく日本は同盟国なのだから。
今にも爆弾が落ちてくるだろうと覚悟していたが、運よく無事だった。

大佐は安全区を縮小しろといってきかないので、私は辞任するといって脅かし、
唐将軍が約束を破ったために難民区が作れなかったとヒトラー総統に電報を打つといってやった。

大佐と龍は考えこみ、家へ帰った。

そうこうしている間に、思い切った手を打ってみようということになった。
といっても私自身はあまり当てにしているわけではないのだが。

つまり、もう一度唐将軍に接触して、防衛を諦めるよう説得しようというのだ。
ところが、なんと唐は承知したのだ。

そちらが蒋介石委員長の許可をとりつけるなら、といって。


(そのためラーベはアメリカ人と中国人をそれぞれ二人つれてアメリカの
砲艦パナイに赴いた。彼らは二通の電報を打った。

一通は漢口の蒋介石に、もう一通は上海の日本の軍当局にあてたものである。

アメリカ大使に仲介を頼んだ蒋介石あての電報で、ラーベはつぎのように記している。
国際委員会は、安全区が設置された城壁内には攻撃をしかけないとの日本軍当局による確約を望んでいる。

もしこれが得られれば、委員会は、人道的な理由により、
城壁内では軍事行動を起こさないよう中国当局に願いでるつもりである。

委員会は南京近郊のすべての軍隊に対して三日間の休戦を提案する。

その間、日本軍は現地にとどまり、中国軍は城壁内から撤退する――
これらの電報には署名がある「代表   ジョン・ラーベ」)


燃えさかる下関を通り抜けての帰り道はなんともすさまじく、この世のものとも思われない。
安全区に関する記者会見が終わる直前、夜の七時にたどりつき、どうにか顔だけは出せた。

・・・
暗闇のなかを負傷者が足を引きずるようにして歩いているのが見える。
看護する人はいない。医者も看護士も衛生隊も、もうここにはいないのだ。

鼓楼病院だけが、使命感に燃えるアメリカ人医師たちによってどうにか持ちこたえている。
安全区の通りは大きな包みを背負った難民であふれかえっている。

旧交通部(兵器局)は難民のために開放され、たちまちはちきれそうになった。
われわれは部屋を二つ立ち入り禁止にした。

兵器と弾薬を見つけたからだ。難民の中には脱走兵がいて、軍服と兵器を差し出した。》



ラーベが見た爆撃機は勧告ビラを撒きに来た飛行機かも知れない。
時間的に近い。

唐生智が日本の勧告を受け入れて無血開城すれば、ラーベの心配など必要なくなるのだが、
唐はそうしない。自分で責任をとりたくないからラーベに電報させたのかも知れない?

12月9日降伏勧告文投下と陸軍作戦

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/08/18 18:51 投稿番号: [146 / 2250]
児島襄著『日中戦争4』193〜196p

  中支那方面軍司令官松井石根大将は、十二月九日午前零時三十分、
次のような 「中方作命第三十一号」 を下令した。

「 一、中支那方面軍ハ、中華民国首都   南京城ヲ   攻略セントス。

  二、上海派遣軍   及   第十軍ハ、南京城攻略要領ニ   準拠シ、南京城ヲ

     攻略セシムル予定。   但シ   攻略実施ノ   時機ハ   別命ス」

・・・・

命令下達の約四時間後、第36連隊を先頭にして西進した第9師団、第6旅団は
第35、第七連隊が南京東部の中山門東南、

第18旅団の第36連隊は光華門、第19連隊は武定門にせまった。

南の第6師団は第45連隊を右、第13連隊を左に配置して将軍山西側の
牛首山を力攻し、第114師団も第6師団の右側で前面の敵を攻撃した。

・・・・

   ―   午後四時、

南京上空に松本雄幸曹長と粉川宗三伍長が操縦する97式重爆撃機が飛来し、
大量のビラを投下した。

ビラは、風にのって第6、第114師団の前線にも舞い下りた。

「日軍百萬   既ニ   江南ヲ   席巻セリ。南京城ハ   既ニ   包囲ノ中   ニアリ……」

  との冒頭の文言ではじまる投降勧告文であり、翌日十日正午を回答期限にしていた。
  あて名は 「南京防衛司令官唐生智」、発信者は 「大日本陸軍総司令官松井石根」。

勧告文は、南京城を   「和平裡ニ開放」   することをもとめ、
期限までに回答がないときは 「南京城攻略ヲ開始」 する、と述べていた。

しかし、回答がくるまでは攻撃を停止するとは、いっていない。

第9師団も、第6、第114師団も、さらには第9師団の北側を
紫金山にとりついている第16師団も、第6師団の西方を北進している第18師団も、

だから、攻撃の手をゆるめることはなかった。

いや、むしろ、投降勧告の効果を増大させるべく、日本側は、この夜はとくに
全線にわたって攻勢を強化し、それにたいする中国側の応戦も激化した。

「砲撃戦はますます激しくなり、砲火が交錯する戦場は恰 (あたか) も不夜城を見る思いであった」

とは、第九師団の戦況描写であるが、事情はどの師団の戦いにも共通していた。
夜襲がくり返され、中国側の逆襲もくり返され、そのたびに彼我の死傷者は増え、

夜の戦場に血が流れた。

夜おそく、難攻していた第6、第114師団の突撃が成功し、
牛首山に布陣していた中国軍第58師主力は、退却した。

中国の焦土作戦12月8〜9日

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/08/17 18:33 投稿番号: [145 / 2250]
【ニーヨーク特電八日・朝日十日夕刊・要約】

南京近郊を視察した外国軍事専門家は、その惨状に度肝を抜かれている。

即ち支那軍は何等の軍事的目的もなくただ矢鱈 (やたら) にありと凡 (あら) ゆる事物を
ぶち壊し焼払ってゐるのであって、なぜこう言う無謀が敢えて行われつつあるか、

唯一の説明は支那軍がこの破壊行為によってわずかにその憤懣 (ふんまん) を
漏らしているという恐るべき事実である。

中国軍の堅壁清野戦術により南京郊外の農村や町は組織的に破壊され、ほとんど焼払われた。

中立国軍事専門家の目には、この焼払いは、日本軍に対する劣性意識に駆られた
狂気の如き残忍行為であり、日本軍の空襲、砲撃はほとんど軍事施設に限られており、

全部合わせてもなほ支那軍自身の手によってなされた破壊の十分の一にも足らぬであろう。

(板倉由明著『本当はこうだった南京事件』152p)



西岡香織著『報道戦線から見た「日中戦争」』118〜119pより

陥落前後の南京市の内外が大混乱に陥ったのである。その模様を 『南京戦史』 収録の
内外の新聞記事等で見ておきたい。

「中国軍の堅壁清野戦術により、南京郊外の農村はほとんど焼払われた。

中立国軍事専門家の目には、この焼払いは軍事的には日本軍の阻止に殆ど役だたず、
ただ農民たちに計り知れない惨禍をもたらすジンギスカン以来の組織的破壊と映った」

〔ニューヨーク特電・八日、朝日十日夕刊〕



東中野修道著『南京大虐殺の徹底検証』46〜47p

焼かれたのは南京の東だけではなかった。
南京は、西と北に揚子江が流れる。日本軍は上海から南京に向かっていた。

従って、南京の東と南で戦闘が起こるとは、衆目の一致するところであった。
そこで、住民の強制退去後に、南の人口密集区域の中華門 (南門) 周辺が焼かれた。

北の下関 (シャーカン) 埠頭もまた放火された。
さらに、翌九日の夜には、「南京は北と東方面が火に包まれた」 のである。

そして、南京から東の前線に至る幹線道路上の村も今や 「燻 (くすぶ) る廃墟」 と化した。

十二月九日南京発のダーディンの記事が指摘するように、このような 「焼き尽くし」 の
清野作戦こそ、支那軍の防衛作業であったが、軍事的には何の意味もない作戦であった。

日本軍に少し 「不利」 をもたらしたとすれば、 『東京朝日新聞』 (十二月十日付) にも
あるように、「建物が一軒もない」 ため、日本軍が露営を余儀なくされたことくらいであった。

12月8日ラーベの日記と外国人の移動

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/08/16 16:35 投稿番号: [144 / 2250]
十二月八日

《二年ほど前、トラウトマン大使が北戴河で開かれたティーパーティーの席で
私にこういって挨拶したことがあった。「やあ、南京の市長が来たー」

そのころ私は党の地方支部長代理をしていたのだが、
いくらか気を悪くした。ところが、いま瓢箪から駒が出た。

といったからといって、
ヨーロッパ人が中国の町の市長になどなれないのはわかりきっている。

しかし、このところずっと行動をともにしてきた馬市長が昨日いなくなり、
われわれ
委員会が難民区の行政上の問題や業務をなにからなにまでやらざるをえなくなったいま、

私は事実上の 「市長代理」 のようなものになったわけだ。まったくなんてことだ!


何千人もの難民が四方八方から安全区へ詰めかけ、通りはかつての平和な時よりも
活気を帯びている。貧しい人たちが街をさまよう様子を見ていると泣けてくる。

まだ泊まるところが見つからない家族が、日が暮れていくなか、この寒空に、
家の陰や路上で横になっている。

われわれは全力を挙げて安全区を拡張しているが、
何度も何度も中国軍がくちばしをいれてくる。

いまだに引き揚げないだけではない。それを急いでいるようにもみえないのだ。
城壁の外はぐるりと焼きはらわれ、焼け出された人たちがつぎつぎと送られてくる。

われわれはさぞまぬけに思われていることだろう。
なぜなら、大々的に救援活動をしていながら、少しも実が挙がらないからだ。


外国人のなかにはこういうことをいう人もいる。中国人の抵抗はどうせただのポーズだ、
面子を失わないよう、形ばかり戦うだけだろう、と。だが私はそうは思わない。

南京防衛軍をひきいる唐が、無分別にも、
兵士はおろか一般市民も犠牲にするのではないかと不安でしかたがない。

両替屋を開くことにした。小銭が足りなくなる。
政府の役人に友人が二人いるので、助けてくれるだろう。

われわれはみなおたがい絶望しかけている。中国軍の司令部にはほとほと手を焼く。
せっかく掲げた安全区の旗をまたもやぜんぶ持っていかれてしまった。

安全区は縮小されることになったというのだ。
大砲や堡塁のために予備の場所がいるからだという。どうするんだ?

そうなったら、なにもかも水の泡になってしまうかもしれないじゃないか。
日本にかぎつけられたらおしまいだ。おかまいなしに爆撃するだろう。

そうなったら、安全区どころか場合によっては大変な危険区になってしまう。
明日の朝早く、境界をもう一度調べてみなければ。

こんな汚い手をつかわれるとは……。予想もしていなかった。
すでに十一月二十二日に、ここは国民政府から正式に認められているというのに。


一九三七年十二月八日夕方、中国の新聞のある報告より

一週間前、すなわち一九三七年十二月一日、市長の馬氏は、
南京安全区国際委員会に対して、安全区の管理全責任を負うようにと要求した。

   苦力(低賃金労働者)とトラック運転手若干名を除き、委員およびその関係者は、
   任務を自発的にかつ無償で果たしている。》



石田勇治   編集・翻訳『資料ドイツ外交官の見た南京事件』5p

《一九三七年一二月八日、ヨーロッパ人は南京を離れてジャーディン社の
ハルク   〔Hulk老朽船のこと〕   へ向かった。

南京城内に残ったヨーロッパ人は総勢わずか二二人》

12月8日 第十軍と中国軍の動き

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/08/15 16:55 投稿番号: [143 / 2250]
宋希濂の回想録『鷹犬将軍』より

《「十二月八日、第六十六軍 ( 葉肇 (ようちょう)・広東軍 ) と第八十三軍
( 鄭 (とう) 竜光・広東軍 ) の部隊は、湯水鎮の東西を結ぶ線で大きな圧迫を受けたので、

陣地を放棄し、紫金山東北 (中山陵、明の孝陵がある) まで退却した。

同じ日、七十四軍 (蒋介石の母の甥に当る兪済時が軍長) は淳化鎮一帯から後退、
大勝関(南京市南東部) 東北で引続き交戦、四十八師 (後退してきた第二師徐源泉軍の

師長徐継武) は棲霞山 (江岸下流地帯) で敵と対峙していた。」》

(鈴木明著『新「南京大虐殺」のまぼろし』257p)



《この日、日本軍は、北東から第十六師団、東から第九師団、
南から第百十四、第六師団が南京にせまり、さらに北に第十三師団、

南西に国崎支隊と第十八師団がすすんで、包囲をいそいでいた。


南京の首都衛戍司令官唐生智は、第六十六軍 (第一五九師、第一六〇師)、第百三師、
第百十二師を南京城内に呼びもどし、第九師団正面に第七十一軍 (第八十七師) を

増強するなどの措置をとったが、同時に、正午すぎからは舟行を禁止した。

将兵の逃散をふせぐためと、日本軍が蕪湖方面から揚子江沿いに北進しているので、
上流への航行が危険とみなされたからである。

・・・・

日本軍のうち、第十軍の第百十四師団( 末松茂治中将) と第六師団 (谷寿夫中将) は、
南京の南方約十キロにせまり、東の第九師団(古住良輔中将)は攻めあぐんでいた

淳化鎮に総攻撃を準備した。

第百十四師団と第六師団が対峠した中国軍は、第七十四軍第五十八師 (馮聖法) であったが、
両師団の進路にあたる将軍山、牛首山を守って抵抗した。


第六師団は、第百十四師団と協力して突破をはかり、独立軽装甲車第四中隊 を先行させ、
そのあとを第十三連隊、第四十五連隊をすすませることにした。

だが、軽装甲車は、通称は 『豆戦車』 ではあるが、二人乗り、三・五トン、
装甲十二ミリ、武装は7・7ミリ機銃一挺にとどまる。

右側に布陣した第百十四師団第六十六連隊の将兵が手をふり、「ガンバレ」 と声援して
その進撃をみていると、敵陣の約五百メートルほどに近づいたとたんに

迫撃砲の集中射をうけ、たちまち二輌が炎上し、二輌が転覆した。

しかも、中国兵の一群が捕獲しようとして周囲にむらがり、中には、砲塔のハッチを
ハンマーでたたいて、「来々」(出て来い)、とわめく者もいた。

日本側が援護射撃して装甲車乗員を救出したものの、
中国側は威勢を強めて反撃し、日本側は苦戦した。


第百十四師団と第六師団は、夜襲をくり返し、ようやく、夜半になって将軍山を奪取した。
中国軍第五十八師の一部は、「官兵傷亡八百余人」 の損害をだして、西方の板橋鎮に逃走した。

この夜は、淳化鎮を攻める第九師団も、守備する中国軍第五十八師第三〇一団に
「傷亡一千四百余」という全滅的打撃をあたえて、戦線を突破した。

進撃隊である第三十六連隊は、まっしぐらに西進し、しばしば退却する中国兵と
ならんで〝徒競走〟する場面を体験した。

西の上方鎮には、第五十八師第三〇五団が布陣していたが、
第三十六連隊は味方と思って近づく相手をひきつけて突撃し、一気に撃退した。》

(児島襄著『日中戦争4』192〜193p)

12月8日の上海派遣軍と海軍の動き

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/08/14 19:15 投稿番号: [142 / 2250]
上海派遣軍

第十三師団の沼田支隊は、八日、揚子江を渡河して靖江を占領し、
じ後一部を残置して、主力は師団主力に追及した。

天谷支隊は、丹陽を経て鎮江に向かい前進し、鎮江南方の陣地を奪取して、
八日、鎮江に進入し、付近砲台を占領した。

(戦史叢書『支那事変   陸軍作戦1』424p)


海軍の作戦    陸軍の渡河作戦協力

江陰を占領した陸軍部隊 (第十三師団歩兵第二十六旅団) は八日未明、
江陰西方地区から八? (土+于) 港鎮東方地区に渡河上陸し、

主力は13:00 ごろ靖江鎮に突入、一部は天生港鎮付近の砲台を攻撃するに決した。
そこで近藤指揮官は陸軍部隊に対する協力計画を次のように定めた。

一   本職安宅、保津、比良、鳥羽、勢多ヲ率ヰ   陸軍ノ   渡河作戦ニ   協力ス

   安宅ハ   機宜行動ス   保津艦長ハ保津、比良、鳥羽、勢多ヲ指揮シ   陸軍部隊揚陸後

   速ニ   揚陸点上流ニ   進出シ   陸軍部隊翼側ノ   掩護ニ任ズべシ

   右終了後何分ノ令アル迄   八? (土+于) 港及   江陰桟橋附近ニ

   一艦宛ヲ   配シ   通信連絡ニ   任ゼシムベシ

二   航空部隊ハ   神川丸艦長ノ   定ムル所ニ依リ   左ノ如ク   行動スベシ

   「陸軍揚陸部隊ト   略時ヲ同ジウシテ   天生港鎮   南方江岸ノ   敵陣地ヲ爆撃、

   主力部隊   靖江突入前   同地南側敵陣地ヲ   徹底的爆撃ヲ   ソレゾレ加フベシ」

三   二十四駆逐隊司令ハ   一掃   ヲシテ 06:45 発進   泊地附近ヨリ上流ノ清掃ニ任ゼシムベシ

四   特別掃海隊ハ   掃海部隊指揮官ノ   定ムル所ニ依リ   行動


長谷川長官   水路啓開を督励

八日 05:30、「保津、勢多、比良、鳥羽」 は配備に就き、陸軍部隊は予定どおり
07:00 渡河作戦を終了した。

09:22、長谷川長官は近藤指揮官に

「第一警戒部隊ハ   速カニ   南京ニ至ル   水路ヲ   啓開スベシ」 と命令した。


各隊の掃海状況(八日)
第二掃海隊はクーパーバンク西方から更に西方の水路を掃海した。

10:50 スリーツリー北方設標中の天塩丸は前方江上に管制機雷の爆発二条を認めたので、
敵トーチカ (龍潭港南西岸と推定) を砲撃した。

同隊は 19:00 まで北水道南方水路を掃海し、
巫山弧山の連結線以東の福姜沙北岸水路の掃海を完了した。

江陰下流の閉塞線は一部啓開されていたとはいえ清掃未済であったので、
第一掃海隊はまず閘門を掃海突破後、その上流付近の主隊泊地を掃海すべき旨命ぜられた。

同隊は天明時行動を開始した。閘門江底に障幸物多数あり、
掃海索を切断すること四回に及び、ようやく閘門上流入口までの掃海を完了した。

10:00 から同隊は旗艦安宅の前路を掃海して嚮導し、10:50 終了、
引続き前命令による泊地掃海を実施し、14:15ころこれを終了した。

田村一掃司令は 「泊地附近一帯ノ   掃海終了後、一掃、江風、比良、勢多ヲ指揮シ
江陰ヨリ   三江営迄ノ水路   啓開ニ任ズベシ」 との命令を受け勢多を前衛兼嚮導艦、

江風、比良を後衛兼機雷処分艦として、それぞれ前方八〇〇米及び後方一、二〇〇米に
占位させ、16:08   八掃海具を投入、進撃を開始し、同時に神川丸艦長に、飛行機による警戒を依頼した。

頭? (土+于) 港、九? (土+于) 港、青龍港、連成洲北岸敵陣地及び密集部隊から
射撃を受けたが、その都度これを反撃撃破し進撃を続行、

18:28   天申橋下流に警泊した。

(戦史叢書『中国方面海軍作戦1』462〜463p)

12月8日 「開城勧告文」 の作成

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/08/13 18:41 投稿番号: [141 / 2250]
早瀬利之著『将軍の真実   南京事件   松井石根人物伝』125〜126pより

《松井は十二月七日から十五日まで、蘇州の方面軍司令部にいた。

八日、方面軍の幕僚会議の席上、南京政府に対して 「降伏勧告文」 を撒布 (さんぷ)
することを、中山寧人参謀に指示する。

これを受けて中山は、原文を書き、松井に見せたあと、中国語に翻訳させることにした。

しかし、翻訳担当の藤木通訳官は上海留守司令部にいるため、翻訳の仕事は
岡田尚に回された。岡田はすぐに翻訳にとりかかった。

翻訳すると、松井石根方面軍司令官に見せ、検閲を受けた。
了解が出ると、すぐに印刷にかかった。

岡田の記憶では、「何千枚か、兵により印刷された」 とある。
それを、句容の飛行場から運び、軍用機から南京市内の上空をひと回りして撒布した。

岡田が中国語に翻訳した主文は十六行の短いもので、
最後に 「昭和十二年十二月、大日本陸軍総司令官、松井石根」 としめた。


彼が翻訳した日本文は、こうである。

「日軍百万すでに江南を席捲せり。南京城はまさに包囲の中にあり。
戦局の大勢よりみれば、今後の交戦はただ百害あって一利なし。

惟 (おも) うに江寧の地は中国の旧都にして民国の首府なり。
明の孝陵、中山陵など古蹟、名勝蝟集 (いしゅう) し、さながら東亜文化の精髄の感あり。

日軍は抵抗者に対してはきわめて峻烈にして寛恕せざるも、無辜の民衆および
敵意なき中国軍隊に対しては寛大をもってし、これを犯さず、東亜文化に至りては

〔力をつくして〕 これを保護保存するの意あり。しかして貴軍にして交戦を継続せんと
するならば、南京は勢いかならずや戦禍をまぬかれがたし。

しかして千載の文化を灰燼に帰し、十年の経営はまったく泡末とならん。
よって本司令官は、日本軍を代表して貴軍に勧告す。

すなわち南京城を平和裡に開放し、しかして左記の処置に出でよ。
   昭和十二年十二月
                      大日本陸軍総司令官   松井石根」》



なお、この勧告文の文章は 『報道戦線』 では次のようになっています。

「   勧   告   文

日軍百万江南を席巻 (せっけん) し南京城は方 (まさ) に包囲の中に在り。
戦局の大勢既に定まり向後の交戦は百害ありとするも一利の伴うなし。

惟うに江寧の地は之れ中国の旧都、民国の首都にして、明の孝陵、中山陵始め
幾多 (いくた) の名勝旧跡蝟集し、宛然 (えんぜん) 東亜文化の粋をここに観るの概あり。

日軍は抗敵に対しては峻烈苛 (いやしくも) も仮借せずと雖 (いえど) も、
無辜 (むこ) の民は固 (もと) より敵意なき民国軍隊に対しては秋毫 (しゅうごう) も犯さず、

況んや東亜の文化は努めてこれを保護保存するの熱意を有す。

然れども貴軍にして抗戦を継続するに於ては南京は忽ち戦禍の坩堝と化して、
千年の文華十年の経営も一朝にして廃墟に帰すべし。

依 (よっ) て予は爰 (ここ) に日軍を代表し、
貴軍が速 (すみやか) に南京城を平和裡に開城せらるべきを勧告す。

    昭和十二年十二月九日           大日本陸軍総司令官   松井石根」

(西岡香織著 『報道戦線から見た 「日中戦争」』 96p)

12月8〜9日 和平案検討会議

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/08/12 18:47 投稿番号: [140 / 2250]
前日のディルクセン独逸大使よりの和平仲介の話を受けて、
和平条件についての検討会議が行われました。


戦史叢書『支那事変   陸軍作戦1』460p

《陸軍では、八日、大臣官邸で参謀次長を加えて会議を開いたが

「蒋ハ   反省ノ色   見エサルモノト   認ム、   将来反省シ   来レハ   兎ニ角、

現在ノ様ナ   態度ニテハ   応セラレス、

併 (しか) シ   独逸大使迄ニハ   新情勢ニ応スル   態度条件ヲ   一応渡シテ置ク必要アリ、

大臣ハ海相、 首相ト会見シ 、一応拒絶シ   蒋ノ反省ヲ促シ

時ヲオキテ   独大使ニ   当方ノ考ヘアル   条件ヲ提示スル」

ことに決めた。

  注   七〜九日の連日開かれた四相会議の結果、ドイツの仲介を受諾して話を進める
    ことを申し合わせ、次いで新たにディルクセン大使に内示する和平条件を、

    陸海外三省事務当局で協議することになったようである。》



戦史叢書『支那事変   陸軍作戦1』462p

《十二月一日に、参謀本部案から、陸軍省の同意を得て大本営陸軍部案となった、
「和平交渉条件の改訂案」 は十二月八日、陸軍省が部外との折衝のために、

「多少ノ衣ヲ着セ」   「支那事変処理要綱案」   と称した。
・・・・

八日、省部関係者は、先に大本営陸軍部案とした   「支那事変解決処理方針」   案を再検討し、
九日、これを軍司令部に内示して意見を求めた。

軍令部は

「修正ヲ要スル点   無キニ非サルモ   大綱ニ於テ   之ヲ基礎トシ   差支へナキ   モノト認ム」

という見解であった。》

第二次トラウトマン工作2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/08/11 18:40 投稿番号: [139 / 2250]
12月2日のトラウトマン・蒋介石の話

http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=552022058&tid=ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfb faj5doc0a47a4dea47a4ga4a6&sid=552022058&mid=121

を受けて、12月7日、ドイツが日本に和平仲介の話を持って来ました。


《児島襄著『日中戦争4』189〜190p

12月7日、駐日ドイツ大使ディルクセンが広田外相に面会して、
外相ノイラートの指示による和平仲介の覚書を提出した。

大使ディルクセンは、すでに参謀本部の意向も承知している。

蒋介石側も交渉希望も明らかであり、戦況も講和に適していると判断されるので、
日本側の「色良い」返事を期待した。

  だが、
  広田外相の口から出たのは、予想に反する言葉であった。

「最近の偉大な軍事的成功により、一か月前に起草された基礎の上で交渉が行えるか
どうか疑問である。陸海軍の意見も得て検討したのち返答する」


大使ディルクセンは、日本側の見解がいつかわったのか、と、質問した。

「ここ数週間の戦果が情勢を変化させた」

大使ディルクセンは、日本側は拡大した新要求を用意していると感得し、広田外相に強調した。

「蒋介石と和平するのが、日本にとって最善の解決になる。蒋介石の失脚、
あるいは過大な要求をして和平を拒否させるのは、かえって日本の不為になりましょう」

貴国ならびに貴大使の好意に深謝する、というのが広田外相の反応だった。》



参謀本部はすでに、12月1日に、和平交渉条件の改訂案を作成

http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=552022058&tid=ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfb faj5doc0a47a4dea47a4ga4a6&sid=552022058&mid=119

していましたから、前の条件のままでというわけにはいかないでしょう。
即座に返答はできませんから、会議にかける事になります。



戦史叢書『支那事変   陸軍作戦1』460p

《早速、首陸海外四相会議を開き、日本側のとるべき態度について検討した。》

12月7日 松井大将上海より蘇州へ移動

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/08/10 18:34 投稿番号: [138 / 2250]
早瀬利之著 『将軍の真実   南京事件   松井石根人物伝』 122〜123pより

松井は蘇州に着いたが、敵将の蒋介石が同じ十二月七日、
南京を発ち南昌に向かったことは知らない。

松井は、蘇州に向かう汽車の中から沿道のようすを細かく観察していた。

中国人たちの姿、駅前のようすから、日本と蒋介石軍の戦さのとばっちりを受けた
中国人たちを見ていると、気の毒でならなかった。


上海はようやく活気を取りもどしていたが、
蘇州に近づくにつれて町は破壊され、人の姿はまばらである。

しかし蘇州に着き、沿道に住民の姿を見ると、ほっとするものがあった。

とくに避難していた貧しい農民が農村にもどっている姿に触れたとき、
松井は思わず涙で眠がうるんだ。そして、

   「あゝ、欣(よろこ) ぶべし。欣ぶべし」

と大きくうなずき、励していた。


蘇州には、原田らの働きかけですでに自治委員会が設立されていた。
副領事も六日、蘇州に移り、治安工作と宣撫(政治工作)にあたっている。

この日も、松井は高熱と寒けに苦しんだ。
すでに蘇州では朝晩、氷が張る冷たさである。

以前にかかったマラリアが原因だと思って治療を受けたが、病状は悪く、
軍医は肺炎併発の恐れがあるといって、休養を求めた。


しかし、責任感がひと一倍強い松井は、それでも幕僚たちを引きつれて、
戦況を見に高台へ上がり、武藤章参謀副長に手渡された双眼鏡で前線を見まもった。

この日も、オーバーコートに身をつつみ、病いをおかして視察して、報告を受けている。


松井がどれほど重態であったかを物語るものに、松井日記がある。   几帳面に
記録をとどめる松井だが、七日と九日の日記は、四行から五行の短いもので終わっている。

八日の日付けの日記は、病いに伏して一行も書けなかった。

南京入城ニ関スル注意の示達

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/08/09 16:26 投稿番号: [137 / 2250]
12月7日、中支那方面軍は、南京攻略及び入城に関して

「皇軍が外国の首都に入城するのは有史以来の事で   永く歴史に刻まれる事であり、
世界が注目する事であるから   将来の模範として、不法行為など絶対にしないように」

との注意を出しました。



戦史叢書 『支那事変   陸軍作戦1』 427〜428p

《方面軍は、七日 「南京城攻略要領」 を示達したが、その抜粋は次のとおりである。

  一   南京守城司令官   若(もし) クハ   市政府当局   尚   残置シアル場合ニハ   開城ヲ

    勧告シテ   平和裡ニ入城 スルコトヲ図ル   此際各師団ハ 各々選抜セル歩兵一大隊

   〔九日、三大隊に訂正〕   ヲ基幹トスル 部隊ヲ 先ツ 入城セシメ 城内ヲ

    地域ヲ分チテ 掃蕩ス

  二   敵ノ残兵 尚 城壁ニ拠リ 抵抗ヲ行フ場合ニハ 戦場ニ到着シアル全砲兵ヲ

    展開シテ砲撃シ 城壁ヲ奪取シ 各師団ハ歩兵一聯隊ヲ 基幹トスル部隊ヲ 以テ

    城内ヲ掃蕩ス   右以外ノ主力ハ 城外適宜ノ地点ニ 集結ス

  三   城内掃蕩戦 ニ於テハ 作戦地域ヲ 指定シ 之ヲ厳ニ 確守セシメ 以テ 友軍

    相撃ヲ防キ 且 不法行為ニ 対スル責任ヲ 明カナラシム

  四   城内ニ於ケル 両軍ノ作戦地境

    共和門−公園路−中正街−中正路−漢中路

  五   各軍ニ対スル配当城門

    派遣軍   中山門、大平門、和平門

    第十軍   共和門、中華門、水西門

  六   南京入城後ノ処置

   (一)   各兵団ニ 地域ヲ指定シテ 警備ニ任セシメ 主力ハ 城外適宜ノ地点ニ 集結ス

   (二)   入城式、合同慰霊祭、防空部隊ノ推進、南京警備部隊ノ配備等ノ件〔略〕

  七   南京城ノ攻略 及 入城ニ関スル 注意事項

    (一)   皇軍カ 外国ノ首都ニ 入城スルハ   有史以来ノ 盛事ニシテ   永ク竹帛 (ちくはく)

      ニ垂ルヘキ 事績タルト   世界ノ斉 (ひと) シク 注目シアル 大事件ナルニ

      鑑ミ   正々堂々 将来ノ模範タルヘキ   心組ヲ以テ   各部隊ノ乱入、

      友軍ノ相撃、不法行為等 絶対ニ 無カラシムルヲ 要ス

   (二)   部隊ノ 軍紀風紀ヲ 特ニ厳粛ニシ   支那軍民ヲシテ 皇軍ノ威武ニ

      敬仰帰服セシメ   苟 (いやしく) モ名誉ヲ 毀損スルカ如キ 行為ノ

      絶無ヲ期スルヲ 要ス

   (三)   別ニ示ス 要図ニ基キ   外国権益特ニ 外交機関ニハ   絶対ニ 接近セサルハ

      固(もと) ヨリ   外交団カ   設定ヲ提議シ   我軍ニ 拒否セラレタル中立地帯ニハ

      必要ノ外立入ヲ禁シ   所要ノ地点ニ 歩哨ヲ配置ス   又   城外ニ於ケル

      中山陵其他革命ノ志士ノ墓   及   明孝陵ニハ 立入ルコトヲ禁ス

   (四)   入城部隊ハ   師団長カ 特ニ選抜セルモノニシテ   予メ注意事項特ニ

      城内外国権益ノ位置等ヲ 徹底セシメ   絶対ニ過誤ナキヲ期シ   要スレハ歩哨ヲ配置ス

   (五)   掠奪行為ヲナシ又 不注意ト雖(いえども)   火ヲ失スルモノハ 厳罰ニ処ス

      軍隊ト同時ニ 多数ノ憲兵、補助憲兵ヲ 入城セシメ 不法行為ヲ 摘発セシム》



ここでは、入城は選抜された一部の部隊のみで、他は城外に集結とあります。
そして、「略奪や不注意による失火といえども厳罰に処す」と言っております。

12月7日の陸海軍の動き

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/08/08 16:45 投稿番号: [136 / 2250]
第十軍

第百十四師団の先遣隊は、七日、秣陵関を占領。
第十八師団主力は、七日   ネイ国を占領。

十二月七日、次のような大陸命第二十四号が下命された。

  一   中支那方面軍司令官ハ   南京攻略後   海軍ト協同シテ   概ネ   杭州、ネイ国 (宜城)、

    蕪湖ヲ含ム以北   揚子江右岸地域内   諸要地ノ確保   安定ニ任スルト   共ニ

    航空部隊ヲ以テ   右地域外   敵国要地ノ   攻撃ヲ続行スヘシ

  二   状況ノ推移ニ伴ヒ   逐次兵力ヲ集結控置シ   大本営ノ使用ニ   便ナラシムヘシ

その他海軍との現地協定等の件が指示された

(戦史叢書『支那事変   陸軍作戦1』424〜427p)



海軍の揚子江啓開

七日、陸軍部隊の先頭は既に南京前方二〇粁に進出しあり、揚子江水路の啓開は急を要した。
  そして、七日の作業を次のように下命した。

  前路警戒隊は第二掃海隊と協力し北水道拘束機雷の処分及び前路の清掃
「保津、勢条」、特別掃海隊は保津艦長指揮の下に閉塞線−江陰間水路の南側一帯の清掃、

「比良、鳥羽」 は江陰付近に進出江陰下流の清掃をそれぞれ実施せよ。
「安宅」 は本職これを率い 10:00 泊地発、江陰に進出の予定。

  各隊の作業状況は次のとおりであった。

林少佐指揮の特別掃海隊は 「勢多」 の掩護下江陰桟(さん)橋まで掃海し、18:00 清掃を終了した。

この間、閉塞線啓開水路の南側において障害物を拘束処分した。
作業終了後 「勢多」 は粛山沖に引返し警泊した。

前路警戒隊は内火艇四隻をもって 08:30 機雷礁の小掃海を開始、前日拘束した
未処分機雷四個の外更に四個拘束、計八個爆破処分し、本機雷礁の清掃完了と認めた。

第二掃海隊はクロッシング燈船   −   クーパーバンク北方間水路の清掃を18:30 完了した。

特別作業隊及び第二十四駆連隊派遣陸戦隊は南岸の管制機雷を探査した。
粛山に管制機雷を認めず、粛山の管制機雷の爆破処分を試みたが誘爆せず、

南岸からの管制機雷に対する危険はないものと判断された。


旗艦安宅はこの日 11:00、閉塞線下流に、「保津、比良、鳥羽」 は江陰に
それぞれ進出したが、夕刻粛山沖に下航、警泊した。

第一掃海隊は 09:30 呉淞沖発、急航し 16:30 ごろ江陰閉塞線下流で主隊に合同した。

(戦史叢書『中国方面海軍作戦1』461〜462p)

中国の焦土作戦12月7日

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/08/07 18:39 投稿番号: [135 / 2250]
東中野修道著 『南京大虐殺の徹底検証』 45〜46p

≪蒋介石は焼き払い (清野) 作戦を徹底的に遂行した。
南京の東の鎮江はかつて人口二十万人を数えた江蘇省の旧省都であった。

しかし日本軍の迫るや、鎮江は支那軍の放火により、炎と包まれた。
十二月八日付の 『ニューヨーク・タイムズ』 は鎮江が 「廃墟」 となったと記す。

この自暴自棄的な清野作戦を、十二月八日南京発のダーディンの特電は次のように伝えた。


  《防衛地帯内の障碍物が支那軍に焼かれ続けた。
  昨夕焼かれたものの一つに中山陵園地区内の支那高官の高級住宅があった。

  南京の周りは立ちのぼる黒煙に包まれた。
  半径一六キロ以内の建物や障碍物もまた昨日支那軍に焼かれ続けたからだ。

  車で前線に行くと、中山門外、中山陵東南の谷全体が燃えているのを、
  本紙特派員は見た。中山陵沿いの幹線道路を走って孝陵衛に行くと、

  そこの村は焼け落ちて、燻 (くすぶ) る廃墟であった。
  この数日間に避難しなかったそこの住民たちが、哀れにも僅かばかりの物を持って、

  ぞろぞろ南京へと歩いていた。そして時々立ち止まっては、
  かつての我が家を今一度見るため悲しそうに振り返っていた。》


焼かれたのは南京の東だけではなかった。
南京は、西と北に揚子江が流れる。日本軍は上海から南京に向かっていた。

従って、南京の東と南で戦闘が起こるとは、衆目の一致するところであった。
そこで、住民の強制退去後に、南の人口密集区域の中華門 (南門) 周辺が焼かれた。≫



西岡香織著 『報道戦線から見た 「日中戦争」』 118〜119p

《陥落前後の南京市の内外が大混乱に陥ったのである。
その模様を 『南京戦史』 収録の内外の新聞記事等で見ておきたい。

  「首都陥落を前にして、支那軍は七日も南京市外十マイルの地域内にある全村落に
  火を放ち、日本軍の進撃に便宜を与えるような物は全て焼払わんとしているため、

  南京市は濛々たる黒煙に包まれてしまった。

  記者 (ダーディン) は自動車を駆って南京市東部の戦線へ視察に赴いたが、
  中山門を出ると総理陵苑の彼方の低地は一面猛火の海と化しており、

  焼け落ちた家々からは、今まで踏み止まっていた村民の群が、
  僅かばかり家財道具を背負ったり小脇に抱えたりして、

  よろめきながら城内指して逃げ込んで来る」   〔ニューヨーク特電・七日〕》

12月7日のラーベの日記

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/08/06 18:42 投稿番号: [134 / 2250]
十二月七日

  昨夜はさかんに車の音がしていた。そして今朝早く、だいたい五時ころ、
飛行機が何機もわが家の屋根すれすれに飛んでいった。

それが蒋介石委員長の別れの挨拶だった。
昨日の午後会った黄もいなくなった。しかも、委員長の命令で!


あとに残されたのは貧しい人たちだけ。それから、
その人たちとともに残ろうと心に決めた我々わずかなヨーロッパ人とアメリカ人だ。

そこらじゅうから、人々が家財道具や夜具をかかえて逃げこんでくる。
といってもこの人たちですら、最下層の貧民ではない。

いわば先発隊で、いくらか金があり、
それと引き換えにここの友人知人にかくまってもらえるような人たちなのだ。

これから文字通りの無一文の連中がやってくる。
そういう人たちのために、学校や大学を開放しなければならない。

みな共同宿舎で寝泊まりし、大きな公営給食所で食べ物をもらうことになるだろう。


約束の食糧のうち、ここに運び入れることができたのはたった四分の一だ。
なにしろ車がなかったので、いいように軍隊に徴発されてしまった。

今日の午前中に、軍にトラックを二台取り上げられた。
これまでに一台しか取り返していない。

もう一台、塩が二トン積んであったほうはいまだに返ってこない。
いまゆくえを探しているところだ。


最高司令部から、たったいま、さらに二万ドル、私のところに払いこまれた。
約束の十万ドルの代わりに、全部で四万ドル受け取ったことになる。

これで満足しなければならないのだろう。
献金の分割払いのことなど、おそらく蒋介石は知らないだろうから文句もいえまい。


明日、城門が閉められ、いままで残っていたアメリカ人も船に乗る。
今日ジーメンスに電報を打った。

満期になった生命保険料を保険会社からもらってくれるように頼んだのだ。


上海放送は、トラウトマン大使が、今日漢口に到着したと伝えていた。
彼の和平案が、蒋介石に拒否されたといっている。

ローゼンからの極秘情報によれば (すでに書いたが)、
もうそれは蒋介石に受け入れられたということだが。

そのいっぽうで、目下最後の戦闘準備がすすめられている。
最後の一兵が倒れるまで戦う。兵士たちは口々にこういい張っている。


城門のちかくでは家が焼かれており、そこの住民は安全区に逃げるように指示されている。
安全区は、ひそかに人の認めるところになっていたのだ。

たったいま、クレーガーが中華門のちかくのシュメーリング家から帰ってきた。
こじ開けられ、ところどころ荒らされていたという。

現実家の彼は、とりあえず残っていた飲み物を失敬してきた。


十八時、記者会見。馬市長は欠席、外国人も半数くらいしか出席していなかった。
残りはもう発ったのだろう。


門の近くにある家は城壁の内側であっても焼き払われるという噂がひろまり、
中華門の近くに住む人たちはパニックに陥っている。

何百という家族が安全区に押しよせているが、
こんなに暗くてはもう泊まるところが見つからない。

凍え、泣きながら、女の人や子どもたちがシーツの包みに腰かけて、
寝場所を探しに行った夫や父親の帰りを待っている。


今日、二千百十七袋、米を取ってきた。
明日もまた門を通れるかどうかはわからない。

蒋介石の焦りと南京脱出

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/08/05 18:47 投稿番号: [133 / 2250]
児島襄著『日中戦争4』184〜185p

《蒋介石は、ドイツ大使トラウトマンの工作の成果があらわれないのを、憂慮した。

「倭寇 対徳大使 所提 調停弁法、以 我不能屈服、彼己決絶乎?」

日本は、大使トラウトマンを通じての提案をみて、中国を屈服させ得ないと悟って
交渉を拒絶したのではないか……。

だが、当面の事態に対処するためには和平、せめて和平交渉による時間稼ぎが必要である。

和平仲介は、ドイツでなくてもよいわけである。では、米国はどうか……。
蒋介石は、この夜、顧問W・ドナルドを米大使館に派遣した。


大使N・ジョンソンは、各国大使とともにすでに漢口に移駐し、二等書記官
G・アチソン、海軍武官補佐官J・マクヒュー大佐が顧問ドナルドをむかえた。

「中国は、いまや陸空軍を補強する軍需物資の輸入手段をうしなった」
  顧問ドナルドは、まっさきにそう述べ、

中国が米英両国で買付けた飛行機、資材、さらにドイツが英国商社を通じて送る武器も、
日本海軍の沿岸封鎖のおかげで輸入できなくなった、と述べた。


ドイツの武器をフランス領インドシナ経由で はこぼうとしたが、
フランス政府は頑としてドイツ製兵器の通過を拒否している。

「必要な軍備が入手できなくなっては、和平交渉もやむをえなくなる」


顧問ドナルドは、和平交渉についての蒋介石の考え方はきまっている、と、二人に告げた。
「大元帥は、自分では交渉にタッチせず、政府内の親日派グループにまかせるつもりだ」

日本側も、無期限に大規模戦争をつづける自信がないので和平をもとめている、
ソ連は日本が攻撃しない限り参戦しないだろう、と顧問ドナルドはつけ加え、結語した。

「中国は絶望だ。独立国としての中国は、お仕舞いだ」


顧問ドナルドは、米国の和平仲介をもとめるとは、いわなかった。
だが、仲介をふくめての援助を米国に要請していることは、明白に感得できる。

二等書記官アチソンは、顧問ドナルドの発言の末尾に、
次のような自身の判断を書きそえて、ワシントンに中国の危急を報告した。

顧問ドナルドは、かねて蒋介石が四川、雲南、広西、貴州、江西、福建、甘粛省に
またがる地域に 『新中国』 を建設する意図であることを述べていたが、

いまや南方からの軍需品輸入の道がとざされ、『新中国』 の軍事的基礎を失った……。
「彼 (蒋介石) は、彼自身と彼の意図が絶望的状態にあることを認識している」


   −   その翌日、十二月七日、
蒋介石は夫人宋美齢とともに、午前六時、専用機で南京をはなれ、廬山にむかった。》



蒋介石は、ドイツ大使トラウトマンの工作の成果が現れないのを、憂慮しているが、
実は、ドイツから日本には、まだ、話が行っていない。

ディルクセン大使が広田外相に話を持って行くのは、翌7日。
結果が現れなくて当然。

まー、自分が、相手の善意を踏みにじって、和平を蹴っていたのだから、
結果がどうなろうと、自分の責任、相手を恨む資格はない。


顧問ドナルドは 「中国は絶望だ。独立国としての中国は、お仕舞いだ」 と言ってるが、
何を妄想しているのか。日本は中国を征服するつもりも、属国にするつもりもないのに。

中国が戦争を仕掛けてやめないから、応じているだけではないか。
中国が非を悔いて戦争をやめれば、済む話。

ラーベの日記12月6日

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/08/04 18:49 投稿番号: [132 / 2250]
《十二月六日

ここに残っていたアメリカ人の半分以上は、今日アメリカの軍艦に乗りこんだ。
残りの人々もいつでも乗りこめるよう準備している。われわれの仲間だけが拒否した。


これは絶対に内緒だが、といってローゼンが教えてくれたところによると、
トラウトマン大使の和平案が蒋介石に受け入れられたそうだ。

南京が占領される前に平和がくるといい、ローゼンはそういっていた。


黄上校との話し合いは忘れることができない。黄は安全区に大反対だ。
そんなものをつくったら、軍紀が乱れるというのだ。

「日本に征服された土地は、その土のひとかけらまでわれら中国人の血を吸う定めなのだ。
最後の一人が倒れるまで、防衛せねばならん。

いいですか、あなたがたが安全区を設けさえしなかったら、いまそこに
逃げこもうとしている連中をわが兵士たちの役に立てることができたのですぞ!」

これほどまでに言語道断な台詞 (せりふ) があるだろうか。二の句がつげない!
しかもこいつは蒋介石委員長側近の高官ときている!

ここに残った人は、家族をつれて逃げたくても金がなかったのだ。
おまえら軍人が犯した過ちを、こういう一番気の毒な人民の命で償わせようというのか!

なぜ、金持ちを、約八十万人という恵まれた市民を逃がしたんだ?
首になわをつけても残せばよかったじゃないか?

どうしていつもいつも、一番貧しい人間だけが命を捧げなければならないんだ?


それから軍人や軍の施設を引き揚げる時期について聞いた。
最後のぎりぎりの瞬間、それよりも一分たりとも前ではない、というのがやつの返事だ。

要するに、土壇場まで、市街戦が繰り広げられるその瞬間までいすわろうという肚なんだ!


きちんと準備するには、米や小麦粉、塩、燃料、医薬品、炊事道具、
あと、なんだかしらないがとにかくいるもの全部、

日本軍が攻めてくる前に用意しておかねばならない。
医者、救護員、汚物処理、埋葬、警察、そうだ、

場合によっては警察の代わりまでやる覚悟がいる。
軍隊と一緒に、十中八九警察もいなくなるだろう。

そうなったら、治安が乱れるおそれがある。
こういうこともみなそのときになってからやれと言うのか?


なんとか考えを変えるよう、黄を説得しようとしたが無駄だった。
要するにこいつは中国人なのだ。

こいつにとっちゃ、数十万という国民の命なんかどうでもいいんだ。
そうか。貧乏人は死ぬよりほか何の役にも立たないというわけか!

防衛についても話し合った。私は必死で弁じた。ファルケンハウゼン将軍はじめ、
ドイツ人顧問は口をそろえて防衛は絶望的だといっている。

もちろん、形だけでも防衛はしなければならないだろう。司令官にむかって、
むざむざ明け渡せなどといえないことくらい百も承知だ。面目を保ちたいのもわかる。

だが、南京を守ろうとする戦い、この町での戦闘はまったくばかげたことであって、
無慈悲な大量虐殺以外の何物でもない!   ……

だが、何の役にも立たなかった。私には説得力がないのだ!


黄はいった。名誉とは、最後の血の一滴まで戦うことにある!
ほう!   お手並み拝見といこうじゃないか!

発電所の管理人の白さんと主任技術者陸さんは、発電所を動かすために、
命がけでがんばるとか言っていた。たしかに発電所は動いている。

はて。だれが動かしてるのかね。
白さんと陸さん、このお二人はとっくにいなくなったが。》



ラーベは 「南京を守ろうとする戦い、この町での戦闘はまったくばかげたことであって、
無慈悲な大量虐殺以外の何物でもない!」 と言っている。

つまり、大虐殺があったとしても、それは、中国側の責任ということだ。

12月6日のそれぞれの動き

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/08/03 18:35 投稿番号: [131 / 2250]
中国南京

南京市内は日本機の空襲による火煙でおおわれ、外周防備にあたっていた第八十三軍、
第七十一軍、第二軍団の敗兵が続々と市内に逃げこんできた。

首都衛戍司令官唐生智は、市内の外国人に退去を勧告するとともに、
夕刻、城門の閉鎖を命じた。

(児島襄著『日中戦争4』183〜184p)



第十軍

国崎支隊は、郎渓で水上機動の準備を行い、六日、同地を出発、

第十軍司令官は、杭州方面の敵にたいし、軍の左側背を掩護するため、

石湾鎮に歩兵半大隊、湖州に歩兵一大隊、下泗安に歩兵一中隊、広徳に歩兵一中隊、
ネイ国に歩兵半大隊を配備していたが、

六日、第一・第二後備歩兵団が湖州付近に到着したので、右の警備をこれら兵団に移譲し、
師団残置部隊を原所属に復帰させた。

(戦史叢書『支那事変   陸軍作戦1』425p)



海軍の揚子江啓開

六日、第一警戒部隊は江陰水道の啓開作業を続行、前路掃海隊は北水道の略掃、
保津隊は南水道の掃海を実施した。

夜半、第一掃海隊の第一、第二小隊は第一警戒部隊に編入された (第三小隊は七日編入)。

これは第二、第三掃海隊が特設掃海隊で流れの強い江上の敵前掃海に不安があるため、
この際有力な掃海兵力を第一警戒部隊に編入し、

遡江作戦を進ちょくさせようとしたものであった 〔第一掃海隊は第一小隊 (掃五、掃六)、
第二小隊 (掃二、掃四)、第三小隊 (掃一、掃三) の六隻から成る〕。


前路警戒隊は内火艇四隻をもって 08:00〜17:30 クーパーバンク南方機雷礁の
小掃海を実施し、機雷一二個を拘束、内八個を爆破処分し、残り四個に浮標を付した。


  南水道の掃海   閉塞線に可航水路を啓開す

「保津」 艦長は福姜沙水道の清掃、同水道西口― 閉塞線間南寄り江面の探掃及び略掃、
陸戦隊による江岸一帯の管制機雷の調査、特別作業隊の作業協力などを命ぜられた。

またこの日から当分の間第二十四駆逐隊から准士官以上の指揮する掃海隊(二対艇小掃海) が
「保津」 に派遣され、同艦長の指揮を受け、

かつ宮里大佐指揮の特別作業隊から機雷処分隊が同艦長に協力することとなった。

まず林少佐指揮の曳船四隻は閉塞線下流付近の再掃海を実施し、
また前路警戒隊から派遣の小掃海隊は閉塞線南端水路の掃海を17:30まで実施したが、

閉塞線上流の掃海には不適と認められ原隊に帰った。

「保津、勢多」 は閉塞線下流で右作業の支援に任じ、かつ内火艇により
閉塞線啓開水路の探査を実施したところ、約四〇〇米の間に可航水路を発見した。

そこで曳船四隻がこの水路の掃海を実施、水道の両側に標識旗を立てた。


保津、第二十四駆逐隊の陸戦隊員は終日粛山−黄山間江岸一帯の管制機雷衛所などを捜索、
粛山管制所で電纜による爆破を企てたが成功しなかった。

第二掃海隊は 16:00 旗艦安宅に合同した。

(戦史叢書『中国方面海軍作戦1』460〜461p)

中国の清野 (焦土) 作戦の始まり

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/08/02 16:13 投稿番号: [130 / 2250]
鈴木明著 『「南京大虐殺」のまぼろし』 173p

日本軍が句容を占領したのが合図となったように、
中国軍部隊による南京郊外の 「焼き払いの乱行」 がはじまった。

「湯山    ―    ここは中国のウェスト・ポイントの所在地で、
各種兵学校及び 蒋将軍の臨時最高司令部があったが

―    から田園地帯を十五マイル横切って、南京に至るあらゆる建物に火が放たれた。
村落はすべて焼かれた。

ついで南門周辺や下関の諸設備にも火は放たれ、
この財産破損額は、内輪に見積っても二千万〜三千万ドルにものぼり、

これは南京攻撃に先立って、数カ月にわたって
日本空軍が南京空爆によって与えた損害を上廻るものだった。

そして、日本の南京占領後、日本軍によって引き起された損害額に、
ほぼ等しいであろう。

中国軍指導部は、この焼却作戦を軍事上の要請と説明した。
日本軍に利用されそうなものは、樹木、竹やぶに至るまで一掃された。

中立国の連中は、これを

  ① 〝中国流〟の大きなジェスチュア、

  ②   怒りとフラストレーションのあらわれ、

  ③   どうせ日本軍にやられるなら……

という気持、などと見ている。だが、中立国軍事監視団は、この焼き払いは、
実際上は軍事目的に殆ど役に立たなかったと見る点で一致している。



東中野修道著『南京大虐殺の徹底検証』45p

一九三七年 (昭和十二年) 十二月七日南京発の 『ニューヨーク・タイムズ』
のティルマン・ダーディン記者の特電。

《湯山と南京の間、公路沿いにだいたい一マイルおきに保塁が設けられている。
首都に近づくと、中国軍に放たれた火が激しく燃え盛っていた。

敵軍が遮蔽物に使いうる農村の建物を清除しているのである。
ある谷では一村が丸々焼けていた。

(略)

湯山地区では少年雑役兵が数多くいた。少年たちは年齢十歳から十二歳、
軍服姿の正規兵で、伝令、運搬、炊事といった仕事をしている。

ときには最前線で戦争をゲームのように楽しんでいるように見える。》


少年兵が軍服を着用している限り、それは戦時国際法違反ではなかった。
ただ、少年兵までが動員されたということは、南京の若者はほとんど動員されたことを意味する。

ダーディン記者の回想によるまでもなく、蒋介石は 「戦えるものは誰でも駆り集め」 て、
南京の防衛にあたったことになる。

12月5日の揚子江啓開作戦

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/08/01 16:30 投稿番号: [129 / 2250]
戦史叢書『中国方面海軍作戦1』459〜461p

  五日の経過、軍隊区分の変更

江陰付近の南岸一帯は完全に我が手に帰し、北岸の残敵も少数となった模様であった。
クーパーバンク付近は四日の探掃で、機雷礁の存在が確実となった。


  江陰北水道啓開

前路警戒隊は、クロッシング付近に集結して啓開作業の掩護態勢をとり、
舟艇をもって逐次北水道を略掃するよう命ぜられ、

第二十四駆遂隊の各艇内火艇一隻計四隻をもって五日 11:30〜18:30 掃海作業し、
その結果クーパーバンク・ビーコンの距岸一五〇米から南方約五〇米間隔に

機雷四個確認拘束、その南方約五〇米の機雷三個   (四日 「八重山、安宅」 小掃海隊発見)
と共に計七個の機雷に浮標を付けた。

そして六日朝から掃海を続行し、右機雷を処分するに決した。
また陸戦隊負を揚陸して機雷衛所を捜索したが、衛所及び敵兵を見なかった。


  南水道の清掃

「保津、勢多」 及び掃海隊の曳船四隻は福姜沙水路の清掃を続行し、
南水道閉塞線での清掃を完了した。

宮里大佐指揮の特別作業隊は閉塞線上に可航水路を発見した。
「保津」 は午後、閉塞線下流近距離に転錨した。


  四日〜五日の南岸偵察成果

四日 「保津」 から上陸した聯合陸戦隊は同日長山を占領し、
機雷管制所を捜索したが発見し得ず、五日朝撤退し帰艦した。

「保津」 艦長は五日午後、陸軍部隊と連絡を遂げ巫山山頂に陸戦隊員を駐泊させ、
陸軍との連絡に当たらせた。

南岸調査の結果、粛山電電学校に数種の機雷 (触発及び視発) 多数あり、
江岸に敷設準備中の視発機雷十数個があることを知った。

また管制用電纜 (でんらん:ケーブル) らしいものが粛山江岸に一本、
長山江岸に二本あり、長山には電纜を引っ込んだ管制所らしいものを認めた。


  第二、第三掃海隊編入、「八重山」 除かる

五日付、第二、第三掃海隊が第一警戒部隊に編入された。

第二掃海隊は天塩丸、間宮丸、雄基丸、高砂丸、安宅丸及び第一、第二、第三玉園丸の計八隻、
第三掃海隊は八幡丸及び第一、第二、第三、第六、第七博多丸の計六隻の特設掃海艇で編成されていた。

「八重山」 は第一警戒部隊から除かれた。

句容攻略と百人斬り記事 第3号

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/07/31 18:46 投稿番号: [128 / 2250]
児島襄著『日中戦争4』182p

《蒋介石は、十二月五日、「守土責任」 を放棄する官吏、軍人は例外なく軍法会議で
処断する旨を布告し、句容西方の湯山陣地を視察した。

ところが、蒋介石が守将の第六十六軍第一五九師長譚邃と対談している午前十一時ごろ、
はやくも前方に日本軍の出現が報告され、銃声もきこえた。

蒋介石は、「鎮静」 に、かつ、す早く丘をおりて南京に帰ったが、
午後一時には句容の陥落、

午後四時には天王寺から北上してきた日本軍 (第九師団第三十六連隊) が、
句容西方の淳化鎮に進出したとの報告をうけた。》



戦史叢書『支那事変   陸軍作戦1』424p

《第十六師団の追撃隊は、五日、句容付近に陣地を占領した敵を突破し、
第九師団の追撃隊は、同日、南京第一線陣地である淳化鎮付近に進出した。》



百人斬り新聞記事

〔昭和12年12月7日   大阪毎日新聞朝刊   〕
《百人斬り競争の二少尉/相変らず接戦の猛勇ぶり

丹陽にて【三日】句容にて【五日】浅海、光本本社特派員発
南京を目ざす「百人斬り競争」の二青年将校、片桐部隊向井敏明、野田毅両少尉は

句容入城にも最前線に立つて奮戦、入城直前までの成績は向井少尉は八十九名、
野田少尉は七十八名といふ接戦となつた

(両少尉の写真)
敗けず劣らずの野田少尉(右)と向井少尉(左)   (常州にて−佐藤本社特派員撮影)》



記者は、向井少尉が丹陽にて負傷し、入院していることを知らずに書いている。
向井少尉は12月15日まで入院しているから、丹陽から句容はおろか南京戦にもいない。

安全区より中国軍追い出し交渉

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/07/30 18:33 投稿番号: [127 / 2250]
ラーベの日記より
  十二月五日

やっとのことで車に乗りこんだとたん、今度は空襲警報だ。爆弾が落ちた。
だが今は許可証を持っているので、二度目のサイレンの後なら外に出られる。

それにあまりにやることが多くて、爆弾などかまっていられない。
こういうとひどく勇ましく聞こえるが、さいわい爆弾はいつもどこかよそに落ちている。


アメリカ大使館の仲介で、ついに、安全区についての東京からの公式回答を受け取った。
やや詳しかっただけで、ジャキノ神父によって先日電報で送られてきたものと大筋は変わらない。

つまり、日本政府はまた拒否してはきたものの、できるだけ配慮しようと約束してくれたのだ。


ベイツ、シュペアリングといっしょに、唐司令長官を訪ねた。 なんとしても、軍人と
軍の施設をすぐに安全区から残らず引き揚げる約束をとりつけなければならない。

それにしてもやつの返事を聞いたときのわれわれの驚きをいったいどう言えばいいのだろう!

「とうてい無理だ。どんなに早くても二週間後になる」 だと?
そんなばかなことがあるか!

それでは、中国人兵士を入れないという条件が満たせないではないか。
そうなったら当面、「安全区」 の名をつけることなど考えられない。

せいぜい 「難民区」 だ。
委員会のメンバーでとことん話し合った結果、新聞にのせる文句を決めた。

なにもかも水の泡にならないようにするためには、本当のことを知らせるわけにはいかない……。


その間にも爆弾はひっきりなしに落ちてくる。
音があまりに大きい時は、椅子を少し窓から遠ざける。

あらゆる防空壕のなかでいちばんりっぱなやつが庭にあるのに。
ただそれを使う時間がないのだ。


城門は壁土で塗りこめられる。三つの門のうち、開いているのはひとつだけだ。
といっても扉の半分だけだが。

われわれは必死で米や小麦粉を運びこんだ。
安全区を示す旗や、外にいる人たちに安全区のことを知らせる貼り紙もできている。

だが、肝心の安全性については最低の保証すら与えられないのだ!


ローゼンはかんかんになっている。中国軍が安全区のなかに隠れているというのだ。
ドイツの旗がある空き家がたくさんあり、その近くにいる方がずっと安全だと思っているからだという。

そのとおりだと言い切る自信はない。
しかし、今日、唐司令長官と会った家も安全区のなかだったというのはたしかである。

12月4日の第十軍と蒋介石の動き

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/07/29 18:42 投稿番号: [126 / 2250]
戦史叢書『支那事変   陸軍作戦1』424 p
第十軍

このころ、蕪湖付近から揚子江を遡江する敵大部隊があり、
あるいはネイ国を経て南下退却する部隊があった。

よって軍司令官は、方面軍司令官の指示に基づき、敵の退路を遮断する目的をもって、
四日、第十八師団にたいし、進路を変更してネイ国−蕪湖−南京道を南京に向かい

追撃するよう命じ、次いで第百十四師団及び第六師団にたいし、南京に向かう追撃を命じた。
第百十四師団の先遣隊は、四日、漂水に進入した


児島襄著 『日中戦争4』 182p

蒋介石は、句容東方、天王寺付近、漂水付近に日本軍が出現したとの報告をうけると、
「首都保衛戦」 発動を下令した。


進出した日本軍は、それぞれ第十六師団、第九師団、第百十四師団の先頭部隊である。

中支那方面軍司令官松井大将は、上海派遣軍と第十軍の進出状況をみて、
午後九時、「中方作命第二十七号」を発令した。

「中支那方面軍ハ、南京郊外 既設陣地ヲ奪取シ、南京城ノ攻略ヲ 準備セントス」

  その準備線は、南京の北端の下関 (シャーカン) 東方的四キロの上元門、
中山門東方の小衛、光華門南東の高橋門、中華門南方の雨花台、

水西門西方の棉花地をむすぶ線とした。
いいかえれば、南京城を包囲して城壁の手前でいったんとまれ、というのである。



戦史叢書『支那事変   陸軍作戦1』426 p

方面軍司令官は、南京郊外既設陣地を奪取し南京城の攻略を準備するに決し、
十二月四日、隷下両軍の南京攻撃準備線を、

おおむね上元門、小衛、高橋門、雨花臺、綿花地の線に統制した。
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