中国の焦土作戦12月7日
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/08/07 18:39 投稿番号: [135 / 2250]
東中野修道著 『南京大虐殺の徹底検証』 45〜46p
≪蒋介石は焼き払い (清野) 作戦を徹底的に遂行した。
南京の東の鎮江はかつて人口二十万人を数えた江蘇省の旧省都であった。
しかし日本軍の迫るや、鎮江は支那軍の放火により、炎と包まれた。
十二月八日付の 『ニューヨーク・タイムズ』 は鎮江が 「廃墟」 となったと記す。
この自暴自棄的な清野作戦を、十二月八日南京発のダーディンの特電は次のように伝えた。
《防衛地帯内の障碍物が支那軍に焼かれ続けた。
昨夕焼かれたものの一つに中山陵園地区内の支那高官の高級住宅があった。
南京の周りは立ちのぼる黒煙に包まれた。
半径一六キロ以内の建物や障碍物もまた昨日支那軍に焼かれ続けたからだ。
車で前線に行くと、中山門外、中山陵東南の谷全体が燃えているのを、
本紙特派員は見た。中山陵沿いの幹線道路を走って孝陵衛に行くと、
そこの村は焼け落ちて、燻 (くすぶ) る廃墟であった。
この数日間に避難しなかったそこの住民たちが、哀れにも僅かばかりの物を持って、
ぞろぞろ南京へと歩いていた。そして時々立ち止まっては、
かつての我が家を今一度見るため悲しそうに振り返っていた。》
焼かれたのは南京の東だけではなかった。
南京は、西と北に揚子江が流れる。日本軍は上海から南京に向かっていた。
従って、南京の東と南で戦闘が起こるとは、衆目の一致するところであった。
そこで、住民の強制退去後に、南の人口密集区域の中華門 (南門) 周辺が焼かれた。≫
西岡香織著 『報道戦線から見た 「日中戦争」』 118〜119p
《陥落前後の南京市の内外が大混乱に陥ったのである。
その模様を 『南京戦史』 収録の内外の新聞記事等で見ておきたい。
「首都陥落を前にして、支那軍は七日も南京市外十マイルの地域内にある全村落に
火を放ち、日本軍の進撃に便宜を与えるような物は全て焼払わんとしているため、
南京市は濛々たる黒煙に包まれてしまった。
記者 (ダーディン) は自動車を駆って南京市東部の戦線へ視察に赴いたが、
中山門を出ると総理陵苑の彼方の低地は一面猛火の海と化しており、
焼け落ちた家々からは、今まで踏み止まっていた村民の群が、
僅かばかり家財道具を背負ったり小脇に抱えたりして、
よろめきながら城内指して逃げ込んで来る」
〔ニューヨーク特電・七日〕》
これは メッセージ 134 (kireigotowadame さん)への返信です.
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