中国の焦土作戦12月8〜9日
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2009/08/17 18:33 投稿番号: [145 / 2250]
【ニーヨーク特電八日・朝日十日夕刊・要約】
南京近郊を視察した外国軍事専門家は、その惨状に度肝を抜かれている。
即ち支那軍は何等の軍事的目的もなくただ矢鱈 (やたら) にありと凡 (あら) ゆる事物を
ぶち壊し焼払ってゐるのであって、なぜこう言う無謀が敢えて行われつつあるか、
唯一の説明は支那軍がこの破壊行為によってわずかにその憤懣 (ふんまん) を
漏らしているという恐るべき事実である。
中国軍の堅壁清野戦術により南京郊外の農村や町は組織的に破壊され、ほとんど焼払われた。
中立国軍事専門家の目には、この焼払いは、日本軍に対する劣性意識に駆られた
狂気の如き残忍行為であり、日本軍の空襲、砲撃はほとんど軍事施設に限られており、
全部合わせてもなほ支那軍自身の手によってなされた破壊の十分の一にも足らぬであろう。
(板倉由明著『本当はこうだった南京事件』152p)
西岡香織著『報道戦線から見た「日中戦争」』118〜119pより
陥落前後の南京市の内外が大混乱に陥ったのである。その模様を 『南京戦史』 収録の
内外の新聞記事等で見ておきたい。
「中国軍の堅壁清野戦術により、南京郊外の農村はほとんど焼払われた。
中立国軍事専門家の目には、この焼払いは軍事的には日本軍の阻止に殆ど役だたず、
ただ農民たちに計り知れない惨禍をもたらすジンギスカン以来の組織的破壊と映った」
〔ニューヨーク特電・八日、朝日十日夕刊〕
東中野修道著『南京大虐殺の徹底検証』46〜47p
焼かれたのは南京の東だけではなかった。
南京は、西と北に揚子江が流れる。日本軍は上海から南京に向かっていた。
従って、南京の東と南で戦闘が起こるとは、衆目の一致するところであった。
そこで、住民の強制退去後に、南の人口密集区域の中華門 (南門) 周辺が焼かれた。
北の下関 (シャーカン) 埠頭もまた放火された。
さらに、翌九日の夜には、「南京は北と東方面が火に包まれた」 のである。
そして、南京から東の前線に至る幹線道路上の村も今や 「燻 (くすぶ) る廃墟」 と化した。
十二月九日南京発のダーディンの記事が指摘するように、このような 「焼き尽くし」 の
清野作戦こそ、支那軍の防衛作業であったが、軍事的には何の意味もない作戦であった。
日本軍に少し 「不利」 をもたらしたとすれば、 『東京朝日新聞』 (十二月十日付) にも
あるように、「建物が一軒もない」 ため、日本軍が露営を余儀なくされたことくらいであった。
これは メッセージ 144 (kireigotowadame さん)への返信です.
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