竹島
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竹島の車窓から 『渡海達書』
投稿者: senkaku_islands 投稿日時: 2008/01/24 21:57 投稿番号: [16159 / 18519]
これは メッセージ 16143 (senkaku_islands さん)への返信です.
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Re: 『地理志』二島を本土から見ていない
投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2008/01/24 12:20 投稿番号: [16158 / 18519]
>相は、お互いにだけど、本土からの距離をしめすときに使ってます。
>二島の間だだとすると、本土からの距離をしめしていないのが不自然です。
>したがって二島の間だとする根拠はなにもないです。
それは無理ですね。
まず第一に本土からの距離を示す必要がない。
規式に従えば、郡県から道に報告するわけですから、どの郡県にも所属しない于山島欝陵島の二島は郡県が報告する対象ではなく、上級レベルで編集の過程で特記した事項と解釈するのが合理的です。
このことを考慮せず、于山島欝陵島の二島にも郡県が管理する島嶼と同じ基準を無批判に適用するのは如何なものか。
これが郡県の管下にある陸地に近い島であれば、相は本土からの距離になりますが、于山島欝陵島の二島の場合は、二島間距離になるでしょう。それが規式です。
これは メッセージ 16157 (husenoyaji さん)への返信です.
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Re: 『地理志』二島を本土から見ていない
投稿者: husenoyaji 投稿日時: 2008/01/24 10:44 投稿番号: [16157 / 18519]
横から失礼。
>二島相去不遠風日芿明則可望見」からは、于山島を欝陵島から風日
二島が主語ですよ。東國輿地勝覧もそうです。
相は、お互いにだけど、本土からの距離をしめすときに使ってます。
二島の間だだとすると、本土からの距離をしめしていないのが不自然です。
したがって二島の間だとする根拠はなにもないです。
東國輿地勝覧ですが、梢や渚が見えるというのを海上から見た話しだとすると、そんなの当たり前ですから、書く価値がないです。
東國輿地勝覧も、二島まとめて説明して、風がよければ2日で到達するとひとくくりにしています。
つまり、二島がべつに書くほどの旅程の差がないということです。
ところが、この差は、韓国の島の感覚では最大級ですので、于山島が獨島だとするとまったく不自然です。
すくなくともこれらの地誌を解釈した当時の人たちは鬱陵島の直近に于山島を書き込んだのです。それは間違いないことです。
これは メッセージ 16154 (ararenotomo さん)への返信です.
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規式について
投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2008/01/24 09:13 投稿番号: [16156 / 18519]
下条さんらは拘って居られるようですが、郡県の管下にあるのならば、確かに陸地からの距離を明示しなければならないでしょうけれども、そもそも当時の欝陵島は郡県の管下にはないのだから、規式に従わなければならない理由はなく、下条説は全く成り立たないでしょう。
下条さんは最低限、郡県の管下にない島嶼が規式に従わなければならない理由を明らかにすべきですね。
これは メッセージ 16127 (yabutarou01 さん)への返信です.
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Re: 『西溪雑録』と『臥遊録』の記事
投稿者: ararenotomo 投稿日時: 2008/01/23 22:47 投稿番号: [16155 / 18519]
yabutarou01さん
ご意見有難うございます。私も一般論としてはyabutarou01さんのお考えと殆んど同じです。ただし、yabutarou01さんの個別意見に対し、納得できかねる事例について私の考えを述べます。
>ararenotomoさんの主張どおりならば鬱陵島から于山島を見た・海上から鬱陵島を見たと、どの位置から見たかを明記しているはずで、明記していないならば寧海から見たと解釈するのは間違っているのでしょうか。
「鬱陵島から于山島を見た・海上から鬱陵島を見たと、どの位置から見たかを明記している」とよいのですが、なかなか明記してくれないので、いろいろな解釈が生れます。
私は、「欝陵島地誌」冒頭の欝陵島の記述「欝陵或曰武陵亦曰羽陵登高望之三峰岌ゲフ(山の下に業)タウ(手偏に掌)空而南峰稍低日初出時風恬浪靜則衆峰サン(手偏に賛)青岩壑呈露沙汀樹木歴々可指」で、最初は「登高望之」が、最後の「沙汀樹木歴々可指」まで係ると解釈していました(Nos.16124, 16125)。しかし、ahirutousagi2さんとyabutarou01さんの指摘を受け、「登高望之」は「- - 南峰稍低」までしか係らず、「日初出時風恬浪靜則 - - 沙汀樹木歴々可指」は海上から見た欝陵島の景観が相応しいと思い、前説を撤回しました(No.16154)。このように「登高望之」と、どの位置から見たかを明記していても、それがどこまで係るかにより幾つかの解釈が可能になります。
「盖二島去此不甚遠一ハン(馬の右に風)風可至于山島勢卑不因海氣極芿朗不登最高頂則不可見欝陵稍峻風浪息則尋常可見」について、私は、yabutarou01さん同様、「盖二島 - - 風可至」を「二島(于山と欝陵)は此(寧海)から甚だ遠くはないので、ひとたび風に乗れば至ることができる」と解釈しました。しかし、次の「于山島 - - 不可見」の于山島は、獨島=現竹島あるいは竹嶼であれ、「此(寧海)」からは見えないので、海気が極めて晴朗ならば欝陵島の最高頂に登って見ることのできる獨島=現竹島、と解釈しました。また、「欝陵稍峻風浪息則尋常可見」は「風浪息則」とあるので、朝鮮半島の高所よりはむしろ海上から見たとしました。もちろん、寧海から見たとの解釈を否定する訳ではありません。
『新筯東國輿地勝覧』についてyabutarou01さんは、「どこから見たのか文中を探ってみると「二島在縣正東海中」の縣(蔚珍縣)からとしか解釈できません。また地誌の書式を規定する「規式」のルールにば島嶼の場合には、陸地からの距離を明記するという原則があったことを考慮しても朝鮮本土である蔚珍縣から見たと解釈するのが適当です。」と書かれました。
しかし私は、『新筯東國輿地勝覧』の「三峰岌ゲフ(山の下に業)タウ(手偏に掌)空南峯稍卑風日清明則峯頭樹木及山根沙渚歴歴可見風便則二日可到」では、「陸地からの距離を明記」した部分は「風便則二日可到」で、「三峰 - - 山根沙渚歴歴可見」は、欝陵島に上陸して或は近くの海上から見た欝陵島の景観を描写したものと解釈します(No.16154)。
許穆(1595〜1682)の『陟州誌』(1662)欝陵島記事には「欝陵或曰羽陵海中三峰岌ゲフ(山の下に業)南峯差卑海晴則山木森然可望山下皆白沙風便一日可渡云」と書かれています。ここでは「海晴則」とあり、近くの海上から見た欝陵島の景観の描写と思います。
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2007/11/1662-cheokjuji-ulleungdo.html『西溪雑録』に対しyabutarou01さんは、「朴世堂ほどの人物が「鬱陵島から」見たという部分を省略してしまえば「寧海から」見たと読み手が解釈してしまうことに気付かないはずがありません。」と述べておられますが、『西溪雑録』は欝陵島の地誌ですから「寧海から」見たという部分を省略してしまえば、「欝陵島から」見たと読み手は解釈するでしょう。
『西溪雑録』『臥遊録』の欝陵島記事は非常に優れた欝陵島の地誌です。しかしその中には、当然のことですが、曖昧な表現の文章があります。そのような文章は、各人が自己の所説に、それぞれ適合するように解釈すれば良いのではないかと思います。
これは メッセージ 16127 (yabutarou01 さん)への返信です.
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『地理志』二島を本土から見ていない
投稿者: ararenotomo 投稿日時: 2008/01/23 22:35 投稿番号: [16154 / 18519]
ahirutousagi2さん
>「日初出時風恬浪靜則衆峰サン(手偏に賛)青岩壑呈露」は、私は「衆峰群がり青岩壑に呈露す」ではなく「衆峰青く群がり岩壑呈露す」と読みました。
ahirutousagi2さん有難うございます。私の読み方は撤回します。
「日初めて出る時風穏かに浪静かならば則衆峰青く群がり岩壑呈露す」「朝日に照らされ峰々は青く輝き谷底には露岩が現れる」は、日の出時、波静かな海上から見た欝陵島東岸の景観をよく表していると思います。峰々が青いということは鬱蒼とした樹林に覆われていることを示すのでしょう。yabutarou01さんも指摘されていますが、「風恬浪靜則」や「風浪息則」などの表現は「海」に関わることがよく分かりました。ahirutousagi2さん・yabutarou01さん有難うございました。
私は、川上健三氏(『竹島の歴史地理学的研究』古今書院, 1966)が「『高麗史地理志』の中にある「一云于山武陵本二島」との一節は、全体の文脈からみて、一説として二島説のあることを挿入したものであって、「相距不遠」以下の文章は欝陵島を受けており、欝陵島が本土と相距ること遠からず、風日清明の際には望見できるとの意味と解されるのである。」と述べていることに疑問を感じます。
『高麗史地理志』蔚珍縣の條には次のように書かれています。「有鬱陵島(以下分註)在縣正東海中新羅時稱于山國一云武陵一云羽陵地方百里(百二十余字略)然多岩石民不可居遂寢其議一云于山武陵本二島相距不遠風日芿明則可望見」
川上氏の解釈、即ち「「相距不遠」以下の文章は欝陵島を受けており、欝陵島が本土と相距ること遠からず、」とするには無理があるように思います。欝陵島は、「在縣正東海中」として、既に一島説に基づいて詳しく説明されています。川上氏が述べたように、「一云于山武陵本二島」との一節は、一説として二島説のあることを最後に挿入したものです。それ故、「一云于山武陵本二島相距不遠風日芿明則可望見」から、武陵(欝陵島)だけが、どうして「欝陵島が本土と相距ること遠からず、風日清明の際には望見できる」との意味になるのか、私には全く理解できません。
私は、「于山武陵本二島相距不遠風日芿明則可望見」は、于山と武陵はもともと別々の二つの島であり、于山と武陵の二島は相距ること遠からず、風日清明ならば互いに望見できる、と解します。同様な記述である『世宗実録地理志』蔚珍縣條の「于山武陵二島在縣正東海中(以下分註)二島相去不遠風日芿明則可望見」からも、「欝陵島が本土と相去ること遠からず」との解釈は出てこないと思います。
従って私は、川上氏のように「(『輿地勝覧』)では、『実録地理志』の「二島相去不遠」との一節のかわりに、これに該当する箇所を「三峰 - - 山根沙渚歴歴可見風便則二日可到」という表現に改めている。」とは考えません。
「空島政策」とはいえ、朝鮮の人々は欝陵島にしばしば渡航していました。『輿地勝覧』の「三峰岌ゲフ(山の下に業)タウ(手偏に掌)空南峯稍卑風日清明則峯頭樹木及山根沙渚歴歴可見」からは、欝陵島について、かなり明確な具体像が把握されていることが分かります。この箇所は、欝陵島に上陸して或は近くの海上から見た欝陵島の自然景観を描写した、正しい記述だと思います。
一方、于山島については、どれほど具体像が把握されているかは不明ですが、『世宗実録地理志』と『高麗史地理志』の「二島相去不遠風日芿明則可望見」からは、于山島を欝陵島から風日芿明ならば望み見ることのできる島、と明らかに于山島(獨島=現竹島)を認知していることが分かります。
古い時代の地誌は、情報の量は少なく信頼性も乏しいですが、「文章をそのままに理解すれば」かなりの情報は得られます。それに基づいて、私は主観に過ぎない解釈を試みてゆきたいと思っております。
これは メッセージ 16126 (ahirutousagi2 さん)への返信です.
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朝鮮の官撰史料は信用できるか
投稿者: take_8591 投稿日時: 2008/01/23 21:14 投稿番号: [16153 / 18519]
半月城さんは、[ No.16102 ]において、次のように述べられています。
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朝鮮では古くから朝鮮の東海に二島あることが知られていました。二島とは欝陵島と于山島ですが、欝陵島は時には武陵島、蔚陵島など様々な名前で呼ばれました。両島は15世紀の官撰地理誌である『世宗実録』地理志にこう記されました。
于山と武陵の二島が県の真東の海中にある。
お互いに遠くなく、風日が清明であれば望見することができる。
新羅の時に于山国と称した。一説に欝陵島と云う。
その地の大きさは百里という。
欝陵島近辺には無数の岩や島がありますが、天候が清明の時にだけ望見できる島は竹島=独島しかありません。したがって、この文章における于山島は竹島=独島とみることができますが、その位置や大きさなどは記載されませんでした。
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この地理誌には、鬱陵島から見る独島は「風日清明則可望見」であるが、半島から見る鬱陵島の状況は記されていない。というのが半月城さんの解釈です。しかし、現代感覚では「鬱陵島から見る独島」よりも「半島から見る鬱陵島」が重要ですし、当時の地理誌フォーマットでも「半島から見る鬱陵島」の記載もれは許されません。すると、半月城さんは、この地理誌を書いた官僚がアホだったと言っているのでしょう。アホが書いた地理誌は、その内容を検討することなく却下するべきです。
1808年に発行された「萬機要覧」には、「輿地志云
欝陵
于山
皆于山國地
于山則倭所謂松島也」と記されています。これは、1770年の「東国文献備考」からの引用です。そして、この部分に関しては、下条氏から改ざん説が唱えられ、半月城さんが反論しています。
http://www.han.org/a/half-moon/hm107.html#No.785
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(下条氏は、)于山島が松島であると考察した者は申景濬であり、それを『東国文献備考』ではさも『輿地志』からの引用であるかのように書いたのであり、これは『輿地志』の改ざんであると断言しました。
はたしてこの説は成立するでしょうか?
申景濬に引用された『輿地志』は、当時はもちろん実在し、知られていたことでしょう。そうした中で下條氏のいうような、容易に指弾されるような「改ざん」を学者がはたしておこなうでしょうか?
改ざんなどという発想は、下條氏ならではことではないでしょうか?
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この存在していないとされていた「輿地志」が近年発見されました。そこには、上記「于山則倭所謂松島也」の文言がありませんでした。
http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima04/takeshima04-1/index.data/shokun2007.9.pdf
すると、「萬機要覧」はソウル市内に在った「輿地志」を検討せずにその内容を引用したと認められます。この官僚もアホですね。このアホに鬱陵島の東を検証できる能力があるとは思えません。このアホが書いた萬機要覧は、その内容を検討することなく却下するべきです。
>
take_8591さんは、領有権論争においては官撰史料が最重要であると理解されて、明治時代の官撰史料に対するコメントを書いたのでしょうか。
上記の様に考える私は、朝鮮の官撰史料を信用することが出来ません。
私には、同じ官撰史料であっても、日本地誌提要と世宗実録(の韓国流解釈)・萬機要覧を同列に論ずることはできません。
これは メッセージ 16140 (ban_wol_seong さん)への返信です.
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Re: 仕事で、、、
投稿者: toyopon40 投稿日時: 2008/01/23 12:23 投稿番号: [16152 / 18519]
よく釜山に、行きますが、どう見ても韓国に近い所です。思うに日本側の、
韓国に対する、日本政府の考え違いではないでしょうか?
これは メッセージ 1 (ritiarno さん)への返信です.
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Re: 思うに
投稿者: husenoyaji 投稿日時: 2008/01/23 09:29 投稿番号: [16151 / 18519]
覇権国家がきめたのに、「そんなの関係ねえ!!」とか言って占拠して盛り上がってる国があるだけです。
韓国に返還すべき領土から明確に獨島は省かれてます。
これは メッセージ 16147 (decem1203 さん)への返信です.
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Re: 于山島:日本人ハ松島ト名ク
投稿者: puracyaka2007 投稿日時: 2008/01/23 01:19 投稿番号: [16150 / 18519]
これは メッセージ 15526 (take_8591 さん)への返信です.
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Re: 「于山島=竹嶼」を文献で初めて実証
投稿者: yabutarou01 投稿日時: 2008/01/21 22:51 投稿番号: [16149 / 18519]
take_8591 さん
>>1794年の報告と1807年の報告では、「孔巖」「錐山」という共通の地名を使用している一方で、周囲の島の記述には違いがあります。
1794年
前有三島
在北曰防牌島
在中曰竹島
在東曰瓮島三島相距
不過百餘歩1807年
北有于山島
周回爲二三里許
この両者の関係をどの様に考えれば良いのでしょうか。
一つは、1794年に「竹島」と呼んでいた島を、1807年には「于山島」と呼んでいると捉えられます。
私はそのように解釈します。防牌島を観音島に竹島を竹嶼にあてるのが日韓双方の研究者の多数意見です。
>>一方で、1794年に3島の報告が為されたことを前提に、加えて北方に1島あり「于山島」という。とも捉えることができます。
1794年の記録と1807年の記録は全くの別物ですからそうではないと思います。
>>尚、1794年の報告は、「防牌島・竹島・瓮島の3島があり、これらは鬱陵島から100歩も離れていない。」とでも訳すのでしょうか。
これは地誌の記述ではありませんから規式は関係ありません。「防牌島・竹島・瓮島の3島のお互いの距離は100歩余りにすぎない。」だと思います。
これは メッセージ 16139 (take_8591 さん)への返信です.
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Re: 「答えに窮した内藤教授」の反論 2
投稿者: puracyaka2007 投稿日時: 2008/01/21 21:24 投稿番号: [16148 / 18519]
宮本三平氏の日本帝国全図(明治8年)ですが、探したのですが見つかりませんでした。どなたかご存じの方がいたら教えて下さい。
これは メッセージ 16134 (take_8591 さん)への返信です.
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思うに
投稿者: decem1203 投稿日時: 2008/01/21 21:23 投稿番号: [16147 / 18519]
領有権は覇権国とその仲間が決めるものだと思うので
日本と韓国だけで
何を言ってるんだかな?と思います。
意味ないでしょ。
つまり常任理事国の許可が必要なのですね。
ルールですぅ
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Re: take_8591さんへ
投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2008/01/21 09:29 投稿番号: [16146 / 18519]
付記
16145の記事で地学雑誌201号とあるのは全く210号のことにして201号のことに非ず。
しかれども本付記は、16145の記事を全て否定するものに非ず。
これは メッセージ 16145 (Am_I_AHO_1st さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/16146.html
Re: take_8591さんへ
投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2008/01/21 09:19 投稿番号: [16145 / 18519]
>
take_8591さんは、『日本地誌提要』に「松島。一名島山。海士郡豐田村ニ屬ス」と書かれている松島と「又西北に方リテ松島竹島ノ二島アリ」と書かれた松島を同一であると考えているのでしょうか?
>
言い方を変えれば、島前のすぐ東にある松島と、島前のはるか西北にある松島を同一であると主張したいのでしょうか?
もし、そうだとしたら、地図すら確認せず安易に長々と書きこんで、恥ずかしくないのでしょうか?
>
この調子では、田中阿歌麻呂が論文の中でどこまでをリアンクールとして、どこから欝陵島と勘違いしたのかを読み取ることは困難でしょうね。
いえいえ、take_8591さんは地学雑誌201号の記事で、田中阿歌麻呂が隠岐国竹島の産物について記した記事の付記で、200号に記したそれは欝陵島の産物についてであって独島の産物ではなかったと書いたことを解読できず、200号の記事そのものを全てなかったことにしたいのかもしれません。
無理ですね。
これは メッセージ 16140 (ban_wol_seong さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/16145.html
竹島プロジェクト2008
投稿者: puracyaka2007 投稿日時: 2008/01/20 21:02 投稿番号: [16144 / 18519]
こういうのやってます。
☆★☆★☆★☆
竹島プロジェクト2008始動!
☆★☆★☆★☆
竹島プロジェクト2008(桜日和)
http://sakurasakurasakura3.blog53.fc2.com/blog-entry-342.html 今年もネット有志による竹島奪還プロジェクトが始動しました。
思想の左右や老若男女、そして普段のブログの内容を問わず、ブログを持って
いる人は是非参加しましょう。個人のブログがない人も、参加者のブログにコ
メントしたり各種掲示板やmixiで竹島問題を取り上げたりして盛り上げていき
ましょう。
極左たる共産独裁国家ですら、絶対に自国の領土を他国に譲ったりしません。
つまり 竹島を韓国に譲るべきなどと吹聴するのは、左派ですらない単なる売
国スパイだけです。
このプロジェクトをより多くの人に知らせ、竹島問題について考えていきまし
ょう。
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竹島問題について関心が高まるのはとても良いことです。
この運動が竹島問題の解決につながるといいですね。
これは メッセージ 16143 (senkaku_islands さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/16144.html
竹島の車窓から 『大谷家由緒実記』
投稿者: senkaku_islands 投稿日時: 2008/01/20 14:56 投稿番号: [16143 / 18519]
これは メッセージ 16142 (senkaku_islands さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/16143.html
竹島の車窓から 「鳥取市〜米子編」
投稿者: senkaku_islands 投稿日時: 2008/01/20 14:15 投稿番号: [16142 / 18519]
これは メッセージ 16097 (senkaku_islands さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/16142.html
Re: take_8591さんへ
投稿者: take_8591 投稿日時: 2008/01/20 10:27 投稿番号: [16141 / 18519]
半月城さんへ
レス、ありがとうございます。
レス、あるとは考えていなかったので感激です。
>
島前のすぐ東にある松島と、島前のはるか西北にある松島を同一であると主張したいのでしょうか?
との事ですが、仮に私がその様に誤解して投稿していたとしても、半月城さんがその様に解することが驚きです。
日本地誌提要は、77個の袋に分類されています。50番目の袋は隠岐と命名されています。この隠岐の袋を開けると、領域・形勢・・・海峡・島嶼・暗礁・・・と多くの袋が表れます。この島嶼の袋を開けると、「島津島・・・」「本州の属島」「又西北に方リテ松島」の袋が表れます。この「本州の属島」と「又西北に方リテ松島」は袋が違いますから、松島を「本州の属島」の外と解することに問題はありません。しかし、この「本州の属島」と「又西北に方リテ松島」は、「島嶼」の袋の中に入っていますから、松島を本州の「島嶼」内と解するのが相当です。
>
この調子では、田中阿歌麻呂が論文の中でどこまでをリアンクールとして、どこから欝陵島と勘違いしたのかを読み取ることは困難でしょうね。
との事ですが、田中阿歌麻呂は、地学雑誌210号で「本誌200号に掲げた記事は、全くの間違い」としているものと解していますので、「どこから欝陵島と勘違いしたのかを読み取る」必要性を感じていません。その必要性を感じていた半月城さんが、どうして[ No.16105 ]の記事を投稿されたのでしょうか。
>
そうだとしたら、地図すら確認せず安易に長々と書きこんで、恥ずかしくないのでしょうか?
この言葉は、そのまま半月城さんにお返しします。
これは メッセージ 16140 (ban_wol_seong さん)への返信です.
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take_8591さんへ
投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2008/01/20 09:36 投稿番号: [16140 / 18519]
半月城です。
take_8591さんは、領有権論争においては官撰史料が最重要であると理解されて、明治時代の官撰史料に対するコメントを書いたのでしょうか。
take_8591さん、No.16134
>
田中さんの紹介記事を見れば明らかなように、竹島・松島は「本州の属島外」であるけれども、「本州の島嶼内」であると記されています。すると、「明治政府が両島を日本の領土内と断定した」とまでは言えないとしても、「両島を日本の領土外と断定していない」ことを意味すると思われます。
take_8591さんは、『日本地誌提要』に「松島。一名島山。海士郡豐田村ニ屬ス」と書かれている松島と「又西北に方リテ松島竹島ノ二島アリ」と書かれた松島を同一であると考えているのでしょうか?
言い方を変えれば、島前のすぐ東にある松島と、島前のはるか西北にある松島を同一であると主張したいのでしょうか?
もし、そうだとしたら、地図すら確認せず安易に長々と書きこんで、恥ずかしくないのでしょうか?
この調子では、田中阿歌麻呂が論文の中でどこまでをリアンクールとして、どこから欝陵島と勘違いしたのかを読み取ることは困難でしょうね。
これは メッセージ 16134 (take_8591 さん)への返信です.
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Re: 「于山島=竹嶼」を文献で初めて実証
投稿者: take_8591 投稿日時: 2008/01/20 09:36 投稿番号: [16139 / 18519]
ゲーリー氏は、1794年の検察報告をUPしています。
http://www.occidentalism.org/?p=361
1794年の報告と1807年の報告では、「孔巖」「錐山」という共通の地名を使用している一方で、周囲の島の記述には違いがあります。
1794年
前有三島
在北曰防牌島
在中曰竹島
在東曰瓮島
三島相距
不過百餘歩
1807年
北有于山島
周回爲二三里許
この両者の関係をどの様に考えれば良いのでしょうか。
一つは、1794年に「竹島」と呼んでいた島を、1807年には「于山島」と呼んでいると捉えられます。
一方で、1794年に3島の報告が為されたことを前提に、加えて北方に1島あり「于山島」という。とも捉えることができます。
尚、1794年の報告は、「防牌島・竹島・瓮島の3島があり、これらは鬱陵島から100歩も離れていない。」とでも訳すのでしょうか。
これは メッセージ 16138 (yabutarou01 さん)への返信です.
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「于山島=竹嶼」を文献で初めて実証
投稿者: yabutarou01 投稿日時: 2008/01/19 22:47 投稿番号: [16138 / 18519]
山陰中央新報の記事です。
「于山島=竹嶼」を文献で初めて実証
日韓両国が領有権を主張する竹島(韓国名・独島)をめぐり、韓国側が竹島の古い名称と主張する于山島が、現在の韓国・鬱陵島の北東に隣接する竹嶼(ちくしょ)であることを示す記述が、朝鮮時代の文献にあることが分かった。島根県の竹島問題研究会が古地図を基に指摘する「于山島は竹島ではなく竹嶼」との主張が、文献で実証されたのは初めて。
文献は、一七六〇−一九一〇年の朝鮮王朝の国政全般を記した官撰(かんせん)の「日省録」。韓国で竹島問題を研究する米国人ゲーリー・ビーバーズ氏(52)が、インターネット上で発表した。
日省録の鬱陵島周辺を調査した役人による一八〇七年の報告書の中に、鬱陵島の北に于山島があり、周囲は二、三里(韓国里で八百−千二百メートル)、との内容を示す「北有于山島周回為二三里許」の記述があった。
鬱陵島周辺でそれだけの周囲があるのは、同島の北東に隣接し、南北七百メートルに及ぶ細長い竹嶼のみ。竹島は鬱陵島から九十二キロ離れた南東に位置し、ビーバーズ氏は「于山島は鬱陵島の隣接島(竹嶼)としか考えられない」と結論付けた。
竹島問題研究会の座長を務めた下條正男拓殖大教授は「地図から見て、于山島は竹島ではなく竹嶼であるのは明白だったが、文献で示されたことは意義深い」と評価している。
竹島問題で韓国側研究者はこれまで「地図より文献の記録を重視すべき」と同研究会の主張に反論していたことにも触れ、下條教授は「研究会の見解が正しいことが裏付けられた」と述べた。
http://www.sanin-chuo.co.jp/news/modules/news/article.php?storyid=493162004この「日省録」についての記事のゲーリー・ビーバーズ氏の解説と私の日本語訳がこちらにあります。訳に問題があったら教えて下さい。
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2008/01/1807512.htmlこの文献は私が最初に発見して2006年6月3日にこの掲示板に書き込んだものです。
新資料発見?『于山島が鬱陵島の北に ある』
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?action=m&board=1835396&tid=cddeg&sid=1835396&mid=14549実は今月に入ってある人を介してWEB竹島研究会から協力を要請するメールが来ました。
これに対して私はあくまで自由な立場で竹島問題を研究していきたいという理由でこれを断り、ただし私がネット上に書き込んだ文章については自由に使って構わないと回答しました。
私は最初から自分の書いた文章はパブリックドメインであると考えて書き込んでいます。したがってどのような立場の人でも自由に使って構いません。できれば日韓友好のために有意義に活用していただきたいものです。
これは メッセージ 1 (ritiarno さん)への返信です.
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「答えに窮した内藤教授」の反論 3
投稿者: take_8591 投稿日時: 2008/01/18 09:55 投稿番号: [16137 / 18519]
これは メッセージ 16130 (take_8591 さん)への返信です.
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Re: 久しぶりにコメントNo.1から読み直して
投稿者: husenoyaji 投稿日時: 2008/01/16 23:31 投稿番号: [16136 / 18519]
こんばんは
>もしかしてずっと同じような事が続くのでしょうか??
もちろん続きます。
在日や日本人の多くにとっては議論かもしれませんが、韓国人にとってはこれは言論による国土防衛戦争です。
だから、有利なところだけで戦うのは当たり前です。
詭弁だ非論理だとか言ってネタにして終わりにしちゃいたくなりますが、彼らがそれだけ本気なんだということをキモに命じるべきでしょうね。
だから、私もつたない知識でつっこめるところはいつでも何回でもつっこみます。返事があろうがなかろうが。
これは メッセージ 16133 (boshind さん)への返信です.
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続きです。
投稿者: take_8591 投稿日時: 2008/01/16 18:10 投稿番号: [16135 / 18519]
半月城さんの[ No.16105 ]は更に次のように続きます。
----------------------------------------
-
明治政府は、竹島・松島を日本の領土外とする方針をその後も一貫して堅持しました。
その一例として明治政府の地籍編纂事業をあげることができます。明治10(1877)年、竹島(欝陵島)の地籍が問題になった時に内務省は元禄期の「竹島一件」を考慮し、竹島外一島を日本の領土外と判断しました。
----------------------------------------
-
半月城さんは、「地誌提要」と「地学雑誌」を主たる証拠をしてリャンコ島が日本の領土外であると主張し、太政官決定は「その一例」として紹介しています。
しかし、上に述べた様に、「地誌提要」と「地学雑誌」は、その全体をみれば日本の領土外であることを示していないにも関わらず、その部分のみを抽出すれば都合の良い部分があったので引用したと認められます。すると、「その一例」たる太政官決定でも同様の誤謬を犯していると考えられます。
これは メッセージ 16134 (take_8591 さん)への返信です.
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「答えに窮した内藤教授」の反論 2
投稿者: take_8591 投稿日時: 2008/01/16 18:03 投稿番号: [16134 / 18519]
私は、「この主張に対する有効な反論は為されていません」と述べました。
以下、私が有効ではないと考える反論を紹介します。
半月城さんは、[ No.16105 ]において、次のように述べられています。
----------------------------------------
-
『日本地誌提要』は、竹島・松島を「隠岐」条にてこう記しました。
○本州の属島。知夫郡45。海士郡16。周吉郡75。穩地郡43。合計179。これを総称して隠岐の小島という。
○また、西北にあたり松島・竹島の2島がある。土俗が伝えている。穩地郡の福浦港から松島に至る。海路はおよそ69里35町(275km)。竹島に至る。海路およそ100里4町(393km)。朝鮮に至る海路およそ136里30町(537.3km)。
このように官撰地誌において竹島・松島が本州の属島外とされましたが、これは重要です。明治政府が両島を日本の領土外と断定したことを意味します。
----------------------------------------
-
一方、田中さんは同じ部分を次のように紹介しています。
http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/chishiteiyo-1874/
----------------------------------------
-
島嶼
島津島。・・・
松島。一名島山。海士郡豐田村ニ屬ス。・・・・・・
大森島。・・・
○本州ノ屬島。知夫郡四拾五。海士郡壹拾六。周吉郡七拾五。穩地郡四拾三。合計壹百七拾九。之ヲ総称シテ隠岐ノ小島ト云。
○又西北に方リテ松島竹島ノ二島アリ。土俗相傳テ云フ。穩地郡福浦港ヨリ松島ニ至ル。海路凡六拾九里三拾五町。竹島ニ至ル。海路凡百里四町餘。朝鮮ニ至ル海路凡百三拾六里三拾町
----------------------------------------
-
このように官撰地誌において竹島・松島が「本州の属島外」とされましたが、これをもって「明治政府が両島を日本の領土外と断定したことを意味する」と半月城さんは主張しています。これは重要です。
田中さんの紹介記事を見れば明らかなように、竹島・松島は「本州の属島外」であるけれども、「本州の島嶼内」であると記されています。すると、「明治政府が両島を日本の領土内と断定した」とまでは言えないとしても、「両島を日本の領土外と断定していない」ことを意味すると思われます。
半月城さんの[ No.16105 ]は更に次のように続きます。
----------------------------------------
-
明治時代の地理学者である田中阿歌麻呂もそのように理解して『地学雑誌』200号にこう記しました。
「明治初年に到り、正院地誌課にてその島(竹島=独島)が本邦の領有を完全に非認したので、その後の出版された多くの地図はその所在を示さないようである。明治八年 文部省出版 宮本三平氏の日本帝国全図にはこれを載せても、帝国の領土外に置き塗色せず」
----------------------------------------
-
一方、田中さんは「地学雑誌」を次に紹介しています。
地学雑誌 第200号
http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/chigaku-1905/
http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka44/chigaku-1905/05.pdf
地学雑誌 第210号
http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/chigaku-1906/
http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka45/chigaku-1906/06.pdf
田中さんのHPによると、田中阿歌麻呂は地学雑誌210号で、「本誌200号に掲げた記事は、全く竹島の記事に非ずして、鬱陵島の記事なるが如し。」と半月城さんが紹介した記事を訂正しています。もっとも、私程度の知識でも、200号の記事を読んで「リャンコ島とダジュレー島を混同しているな」と感じることが出来ました。
半月城さんの[ No.16105 ]は更に次のように続きます。
----------------------------------------
-
明治政府は、竹島・松島を日本の領土外とする方針をその後も一貫して堅持しました。
その一例として明治政府の地籍編纂事業をあげることができます。明治10(1877)年、竹島(欝陵島)の地籍が問題になった時に内務省は元禄期の「竹島一件」を考慮し、竹島外一島を日本の領土外と判断しました。
----------------------------------------
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半月城さんは、「地誌提要」と「地学雑誌」を主たる証拠をしてリャンコ島\xA4
これは メッセージ 16130 (take_8591 さん)への返信です.
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久しぶりにコメントNo.1から読み直してみた
投稿者: boshind 投稿日時: 2008/01/16 12:55 投稿番号: [16133 / 18519]
もう随分と長い間、竹島問題について議論されてきているはずなのに、
一向に収束しようとしないのは何故なのかと思って1週間かけて一番最初から
読み直してきました。はぁ疲れたw
で、あたらめて思い知らされたのが、韓国側主張の論客であるはずの半月城氏は、日本側主張の重要な問題となる質問や反論については、予想通りほとんど答えていないという事実でした。
半月城氏がこのスレに登場するのはNo.538からですが、当初のKunitaka氏の警告も無視して質問にも答えず参加している訳なのですよね。
以下ずっと日本側主張の有利な点については殆ど無視ですから、あきれたものです。もしかしてずっと同じような事が続くのでしょうか??
これは メッセージ 1 (ritiarno さん)への返信です.
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Re: 「答えに窮した内藤教授」の反論
投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2008/01/14 22:30 投稿番号: [16132 / 18519]
ご主張に賛同いたします。
さきに、16110で、ずっと前に14831で記した年表を提示しました。
この流れは個人的にはかなり大切であると思っています。
******
1867年
勝海舟「大日本国沿海略図」(アルゴノート・ダジュレーが竹島・松島)
1875年
陸軍参謀局「朝鮮全図」(鬱陵島が二つに分かれて竹島・松島[アルゴノート・ダジュレーか])
1877年
文部省「日本全図」(鬱陵島が二つに分かれて竹島・松島[アルゴノート・ダジュレーか])
1877年
太政官判断。
1878年
外務省、鬱陵島=松島。(竹島言及なし)
1880年
天城による調査。鬱陵島=松島。(竹島は傍[北方]の小島)
1881年
内務省地理局「大日本府県分轄図」(アルゴノート・ダジュレーが竹島・松島…半月城さん「偶然の一致」)
1881年
内務省が外務省に鬱陵島照会。外一島資料添付。反応なし。
1882年
鬱陵島への日本人渡航について朝鮮政府から抗議。
1883年
鬱陵島渡航禁止
1883年
太政大臣三条実美、同上令において「北緯37度30分、東経130度49分に位置する日本称する松島、一名竹島、朝鮮称する鬱陵島」と記録。
*1880年の部分が「同上」という表記になっていましたので、これではまずいと思い、より具体的にあらためました。
******
つまり、1877年に太政官判断。その翌年には外務省が鬱陵島=松島と規定しており、さらに1880年には軍艦天城で鬱陵島=松島として調査までなされています。
一方、1881年、内務省から「外一島」についての照会が外務省になされましたが、当然に反応する必要もありませんでした。「外一島」は鬱陵島までの朝鮮側の島を「版図外」としたに過ぎないからです。
そして、その後の鬱陵島への渡航禁止、さらに1883年の太政大臣三条実美による「北緯37度30分、東経130度49分に位置する日本称する松島、一名竹島、朝鮮称する鬱陵島」と記録につながります。
こうした流れがあるわけで、1877年の竹島・松島が何を意識したものであったかについては、ここから明らかに読み取れるわけです(鬱陵島=松島)。
地図でも同様です。
当時の政府関係の地図においては、私の知る限りにおいて、竹島・松島は日本地図に描かれていないか、またはアルゴノート・ダジュレーの位置でそれぞれ記されたものしか、存在しません。
そうした中で、島根県・内務省が太政官に地図を添付して文書を上げた。
そこには、竹島・松島=アルゴノート・ダジュレーの積極的な根拠は見出せない。だから、竹島・松島=ダジュレー・リアンクール岩なんだ。現在の目から見てそう判断できる、というのはすでに言ったように後づけ解釈に過ぎない無意味なものです。
じゃ、政府が「磯竹島略図」など提出文書以外の地図を見た証拠を出せ。これは小学生の論理でしょう。
私は、当時の政府の見方を整合的に考える、ということ。とりわけ上に記したような流れからして、あるいは地図に記された両島の認識から考えるときに、当たり前に竹島・松島=アルゴノート・ダジュレーの位置で考えられたとしか取りようがないと考えています。
内藤氏については、個人的にはちゃんとした学者でいらっしゃると思っていたのですが、かなり失望しました。今回の反論には学者としての謙虚さも、議論の本質をとらえる真摯さも感じられなかったからです。残念でした。
私は内藤氏をかなり高く評価していたのですが…。無念です。
これは メッセージ 16130 (take_8591 さん)への返信です.
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訂正
投稿者: take_8591 投稿日時: 2008/01/14 13:53 投稿番号: [16131 / 18519]
>
磯竹島略図において、「隠岐後福浦より松島を距る乾位80里許」と記されています。隠岐とリャンコ島の距離は約160km・隠岐とダジュレー島は約250kmですから、1里=4kmとすれば、80里=240kmとなり、磯竹島略図の松島がダジュレー島を示していると解することに支障はありません。
磯竹島略図において、「隠岐後福浦より松島を距る乾位80里許」と記されています。隠岐とリャンコ島の距離は約160km・隠岐とダジュレー島は約250kmですから、1里=4kmとすれば、80里=320kmとなり、磯竹島略図の松島がダジュレー島を示していると解する方が、磯竹島略図の松島をリャンコ島と解するよりも有力です。
これは メッセージ 16130 (take_8591 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/16131.html
「答えに窮した内藤教授」の反論
投稿者: take_8591 投稿日時: 2008/01/14 12:27 投稿番号: [16130 / 18519]
1877年に明治政府太政官は「竹島外一島の義
本邦関係無之義と
可相心得事」と決定しました。
内藤氏は、この決定により「竹島外一島」が日本の領土外になったと主張しますが、私は決定後一定の手続きを経てから日本の領土外になるのではないかと思います。例えば、当時のダジュレー島にはそこが日本領であると信じて居住している日本人がいましたから、この人達の処遇を決めることなく領土外とすることは出来ないはずです。そして、明治政府は1883年、ダジュレー島への渡航を禁止し、同島に在留していた日本人を強制的に連れ戻しました。この様に、1877年の太政官指令は徐々に具現化されていったのです。内藤氏は、意思決定が直ちに法律上の効果を生むと考えられているようですが、この点が私には理解できません。私は、この決定が直接には固有領土説に影響を及ぼすものでは無いと考えます。
内藤氏は、「竹島松島は本邦に関係無し」と決定すれば、それは「ダジュレー島・リャンコ島は本邦に関係無し」と同義であると主張されます。が、当時の明治政府は竹島=アルゴノート島・松島=ダジュレー島と捉えていたと思われます。これは、主としてahirutousagi2さんが主張されていますが、henchin_pokoider01さんも次のHPをUPされています(No.14857)。
http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=phistory&nid=68074
内藤氏は、「アルゴノート島は1854年のロシア艦隊バルラダ号の測量で存在が否定されることはよく知られているところであるから、1877年の明治政府は知っていた筈である」旨の主張をしますが、これは根拠のない希望的推測に過ぎません。
内藤氏は、「下條氏がいっているような当時使用されていた地図が参考資料として取りあげられたとは思われない」と主張しますが、この主張を言い換えると、「明示政府は、1877年に自らが持っていた竹島の位置認識ではなく、1696年に江戸幕府が持っていた竹島の位置認識で太政官指令を発した」と理解できますが、この理解で宜しいのでしょうか。
通常は、1877年に自らが持っていた竹島の位置認識が、1696年の江戸幕府位置認識と同じものであるとの前提で、太政官指令が発せられたと解されます。
磯竹島略図において、「隠岐後福浦より松島を距る乾位80里許」と記されています。隠岐とリャンコ島の距離は約160km・隠岐とダジュレー島は約250kmですから、1里=4kmとすれば、80里=240kmとなり、磯竹島略図の松島がダジュレー島を示していると解することに支障はありません。これは、主としてahirutousagi2さんが主張されていますが、henchin_pokoider01さんも次のHPをUPされています(No.15657)
http://homepage2.nifty.com/oppekepe/Work/isotake.html
この様に、ヤフー掲示板においては、「竹島外一島は本邦に関係無し」を「竹島松島は本邦に関係無し」と解したとしても、1877年の明治政府がリャンコ島を放棄したとの解釈は得られない。が結論となり、この主張に対する有効な反論は、今回の内藤氏の反論を含めて為されていません。
すると、ヤフー掲示板の読者である私は、下条氏が「竹島他一島本邦関係これなしの竹島と外一島は、今日のどこの島をさしているのか、説明を求めたが、内藤氏は口ごもり答えることができなかった」と記しているのであれば、それは内藤氏の「竹島固有領土論への疑問」が根拠なく為されたものである事を、内藤氏が認識していたからと理解します。
これは メッセージ 16114 (ban_wol_seong さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/16130.html
半月城氏は韓国の公務員
投稿者: jalopy2005 投稿日時: 2008/01/13 16:34 投稿番号: [16129 / 18519]
か、少なくとも韓国政府傘下の関係官庁の協力者だったのか。
そういう立場だったら、真摯な議論は期待できない、というより、
最初から不可能。
工作員に対し、拉致日本人返せって言ってるようなもの。
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/16129.html
Re: 『西溪雑録』と『臥遊録』の記事2
投稿者: yabutarou01 投稿日時: 2008/01/13 00:52 投稿番号: [16128 / 18519]
この二つの法則を踏まえて『新筯東國輿地勝覧』と『西溪雑録』の文章を検討してみましょう。
ararenotomoさんは朝鮮本土から欝陵島の峯頭の樹木や山根の沙渚が歴歴と見えるというのは事実に反するが欝陵島の高所から見れば峯頭の樹木や山根の沙渚が歴歴と見えるのは事実なので『新筯東國輿地勝覧』の「一云武陵一云羽陵二島在縣正東海中三峰岌〓〓空南峯稍卑風日清明則峯頭樹木及山根沙渚歴々可見」の「峯頭樹木及山根沙渚歴々可見」は朝鮮本土から見たのではなく、欝陵島の高所から見たと解釈されています。しかし欝陵島の高所から見たと明記しないと読み手に欝陵島の高所から見たということを伝えることができないにもかかわらずこれが明記されていないということを考えれば、たとえ欝陵島の高所から「峯頭樹木及山根沙渚」が見えるのが事実だとしても『新筯東國輿地勝覧』の著者は欝陵島の高所から見たと考えているわけではない、と判断できます。それではどこから見たのか文中を探ってみると「二島在縣正東海中」の縣(蔚珍縣)からとしか解釈できません。また地誌の書式を規定する「規式」のルールにば島嶼の場合には、陸地からの距離を明記するという原則があったことを考慮しても朝鮮本土である蔚珍縣から見たと解釈するのが適当です。ただここで問題になるのは朝鮮本土から欝陵島の峯頭の樹木や山根の沙渚が歴歴と見えるはずがないという点ですが、書き手が事実と考えて書いた文章であっても事実でない情報しか入手できないと判断を誤って事実でないことを事実として文章にしてしまうことがあるわけですから、『新筯東國輿地勝覧』の著者は正確な情報を入手できなかったために、蔚珍縣から「峯頭樹木及山根沙渚」が見えると誤解していた、と判断しても差し支えないということになります。
同じくararenotomoさんは朝鮮本土の高所から于山島(于山島に竹島=独島・竹嶼・架空の島のどれをあてはめても同じ)は見えないが欝陵島の高所から竹島=独島は見えるので『西溪雑録』の「于山島勢卑不因海氣極芿朗不登最高頂則不可見」は欝陵島の高所から見える竹島=独島を于山島であると見なしている、とお考えのようです。しかしこの時代を代表する有名な学者である朴世堂ほどの人物が「鬱陵島から」見たという部分を省略してしまえば「寧海から」見たと読み手が解釈してしまうことに気付かないはずがありません。にもかかわらず「鬱陵島から」見たと明記されていないわけですから、たとえ欝陵島の高所から竹島=独島が見えるのが事実であったとしても、朴世堂は欝陵島の高所から于山島=竹島=独島が見えると考えていたわけではなく、寧海の高所から于山島が見えると考えていた、と判断できます。「規式」のルールに従ってもこちらのほうが適切です。実際には「寧海の高所から」于山島は見えませんが見えると誤解していたと判断してもよい理由はもう説明しましたね。
さらにararenotomoさんは「欝陵稍峻風浪息則尋常可見」を「海上から」見たと解釈されていますが,「海上から」という部分を明記しないと「寧海から」見たと読み手が解釈してしまうのは明らかであるにもかかわらず「海上から」と明記しなかったということは「欝陵稍峻風浪息則尋常可見」は「海上から」見たのではなく「寧海から」見たと判断できます。「規式」のルールに従ってもこちらのほうか適切ですし、実際に「寧海から」鬱陵島は見えるわけですから何の問題もありません。
たとえどんなに優秀な人間であっても間違った情報しか入手できなければ正しい判断は出来ない一方で、「欝陵島の高所」からあるいは「海上から」の部分を省略すると読み手が「寧海から」見たと解釈してしまうであろうということは子供でも判断できます。この二つの間のハードルの高さの違いに留意していただきたいと思います。
難しいことをわかりやすく説明するのは大変難しいものがありますが、理解していただけましたでしょうか。
これは メッセージ 16127 (yabutarou01 さん)への返信です.
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Re: 『西溪雑録』と『臥遊録』の記事1
投稿者: yabutarou01 投稿日時: 2008/01/13 00:38 投稿番号: [16127 / 18519]
ararenotomoさんへ
ご意見賜りました。しかしやはり納得できかねます。
>>私はこの文が朝鮮半島から二島(于山と欝陵)が見えると判断した根拠として文章の構造上の問題を根拠に挙げましたが、ararenotomoさんは「去此」の「此」が何を指しているとお考えですか。
>私は、最初の答えとNo.16054で述べたように、「此」は寧海を指すと考えます。「此」が欝陵島を指すとは考えておりません。
yabutarou01さんが朝鮮半島から二島(于山と欝陵)が見えると判断した根拠は、「盖二島去此不甚遠一ハン(馬の右に風)風可至」の「此」は寧海もしくは朝鮮半島を指すので、次の「于山島勢卑不因海氣極芿朗不登最高頂則不可見」と「欝陵稍峻風浪息則尋常可見」も朝鮮半島から見たと解釈されたのではないかと思います。
ararenotomoさんの主張どおりならば鬱陵島から于山島を見た・海上から鬱陵島を見たと、どの位置から見たかを明記しているはずで、明記していないならば寧海から見たと解釈するのは間違っているのでしょうか。以下にさらに詳しく説明します。
私は人が文章を書くときには普遍的な法則が二つ存在していると考えます。一つ目は人が文章を書くときはその文章の書き手は読み手に自分の意図が伝わるように書くということです。明記しないと読み手に意図が伝わらない箇所は省略しないはずです。『西溪雑録』の文章は地誌に関する文章です。地誌というのはある地域について、その地域についてよく知らない人に対してその地域がどのようなものであるかを説明することを意図して書かれているはずです。したがって、読み手がその地域に対する正確かつ詳細な知識を持ち合わせていないと解読できないような表現を使うはずがありません。
加えて当時の朝鮮には地誌の記述を読み手に正確に理解させるための「規式」と呼ばれるルールが存在していました。
「規式」について
http://toron.pepper.jp/jp/take/tizu/chirisi.htmlhttp://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima04/takeshima04-1/takeshima04-d.html
法則の二つ目は人が文章を書くときはその文章の書き手は自らが事実であると考えていることを書くか自らが事実でないと考えていることを書くかのどちらかであるが、たとえ事実であると考えていることを書いたとしてもそれが本当に事実であるとは限らない、ということです。
人は、正確で判りやすい情報を与えられていれば正しい判断ができますが、事実でない情報、判りにくい情報、曖昧な情報しか入手できないと判断を誤って事実でないことを事実として文章にしてしまうことがあります。
したがって書き手が事実として書いた文章であっても、客観的に考えてそれが本当に事実であるかは個別に検討する必要があります。
これは メッセージ 16125 (ararenotomo さん)への返信です.
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Re: 『輿地勝覧』本土から欝陵島を見ていな
投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2008/01/10 22:51 投稿番号: [16126 / 18519]
>「日初出時風恬浪靜則衆峰サン(手偏に賛)青岩壑呈露」「日初めて出る時風穏かに浪静かならば則衆峰むらがり青岩壑に呈露す」は、海上から見た景観とも取れますが、壑(ガク)は「たに。山と山のあいだの、くぼんでいるところ。土地がくぼんでいるところ。『日本語大辞典』」とあります。そこで、谷底或は窪地に露呈する青岩を、海上から見るのは困難と思われるので、欝陵島の高所から見た景観としました。
この部分は、私は「衆峰群がり青岩壑に呈露す」ではなく「衆峰青く群がり岩壑呈露す」と読みました。つまり、峰々が青く群がり岩谷が露呈しているという理解です。遠くから見て、青い峰々が見え、そして岩谷までも見えているさま[岩谷は文字通り岩や谷]。
別段、上から見る必要もありません。また「日初出時風恬浪靜則」から考えても、違和感はありません。むしろ、上から見ると理解するのは相当に不自然です。
>同書では、『実録地理志』の「二島相去不遠」との一節のかわりに、これに該当する箇所を「三峰岌ゲフ(山の下に業)タウ(手偏に掌)空
南峯稍卑
風日清明則峯頭樹木及山根沙渚歴歴可見
風便則二日可到」という表現に改めている。これは明らかに、本土から風日清明の際に欝陵島を望見した状況について描写したものであって、于山・欝陵二島間に関する記事ではない。
正しい記述だと思います。
>『新筯東國輿地勝覧』の「風日清明則峯頭樹木及山根沙渚歴歴可見」の文章は、峯頭の樹木や山根の沙渚が分明に見えるとしているので、本土から140kmも離れた欝陵島を望見した状況についての描写とは、私には読めません。欝陵島に上陸して或は近くの海上から見た欝陵島を描写したものと読みます。
繰り返し申し上げますが、今現在の理解で本土から見てどうであるとか、この描写は現実に即している、というのは、無意味だと言うことです。遠く離れた鬱陵島を望見した状況の描写とは見えない、というのは、単に、貴殿の主観に過ぎません。
見える見えないはどうでもよいのです。文章をそのままに理解すればそれでよろしいかと。実際に、当時の人々にとって鬱陵島は現在ほどに明確に具体像を把握されていた島ではありませんでしたし、ましてや、于山島はまったくの不明の島であったとすべきでしょう。
これは メッセージ 16124 (ararenotomo さん)への返信です.
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『西溪雑録』と『臥遊録』の記事
投稿者: ararenotomo 投稿日時: 2008/01/10 22:13 投稿番号: [16125 / 18519]
yabutarou01さん
ご意見と疑問点の指摘を有難うございます。
>いずれにせよ寧海と鬱陵島との間が近いということであって、半日か一日半かは本質的な議論ではありませんね。
そうですね、同感です。私も「僧侶が、「半日の航程」と思っていたかはさて措き、欝陵島と寧海との距離が近い、と認識しているのは明らかです。」と書きました(No.16070)。彼は欝陵島と寧海との距離が近いと認識していたからこそ、「盖二島(于山と欝陵)去此(寧海)不甚遠一ハン(馬の右に風)風可至」と云ったのでしょう。また、「麋鹿熊シャウ(獣偏に章)徃徃越海出來」とも語りました(これは勇み足ですが)。なお、yabutarou01さんはこれを「欝陵島に生息しているはずのない熊が140 kmも離れていて渡れるはずのない朝鮮本土まで泳いで渡っている」と語ったと解釈されていますが、これは朝鮮本土ではなく欝陵島へ出で来たという意味です。次の「- - 島中黄雀群飛來投竹邉串」は、鳥は一般に海を越えるとき群れを作りますから、僧侶は欝陵島で、島中の黄雀が群れをなして竹邉串の方へ飛んで行くのを見たのでしょう。何れも欝陵島は朝鮮本土に近いことを、示したかったからかもしれません(No.16054)。
>ararenotomoさんは欝陵島の高所から鬱陵島の低所にある「- - 青岩壑呈露沙汀樹木」を見たと解釈されていますが、私はそうは思いません。「風恬浪靜則
可指」(風がおだやかで波が静かならば
見える)という文言があります。これは水平線の間際に鬱陵島があるので波が高いと波が邪魔で見えないということであり、海を隔てたどこかから鬱陵島を見たとしか解釈できません。
No.16124で書きましたが、私は「壑」という言葉が気になります。「壑」は『大字典』では「谷間のミゾのこと」とあり、「へこみ系」の言葉のようですので、海上よりはむしろ高所から見たとしました。べつに「海を隔てたどこかから鬱陵島を見た」という解釈は否定しません。ただし、「海を隔てたどこか」は陸上ではなく海上でしょう。
>欝陵島の高所から眼下の「- - 沙汀樹木歴々可指」を見たのであれば波の状態如何で見えやすさが変化するはずがありません。
風浪が激しければ、飛沫のため沙汀の樹木が歴々とは見えなくなることはあります。
>私はこの文が朝鮮半島から二島(于山と欝陵)が見えると判断した根拠として文章の構造上の問題を根拠に挙げましたが、ararenotomoさんは「去此」の「此」が何を指しているとお考えですか。
私は、最初の答えとNo.16054で述べたように、「此」は寧海を指すと考えます。「此」が欝陵島を指すとは考えておりません。
yabutarou01さんが朝鮮半島から二島(于山と欝陵)が見えると判断した根拠は、「盖二島去此不甚遠一ハン(馬の右に風)風可至」の「此」は寧海もしくは朝鮮半島を指すので、次の「于山島勢卑不因海氣極芿朗不登最高頂則不可見」と「欝陵稍峻風浪息則尋常可見」も朝鮮半島から見たと解釈されたのではないかと思います。
しかし于山島を竹嶼とすると、寧海からは標高100mの竹嶼は、高さ500m以上はある欝陵島の山々の陰に隠れて高所に登っても見えません。竹嶼から西〜南西5kmのところに500mの山があるとすると、朝鮮半島から竹嶼を見るには10000m以上の高さが必要です。従って私は、ahirutousagi2さんがNo.16075で言われたように「文章がどう読めるか。その一点が問題」と思いますから、「于山島勢卑不因海氣極芿朗不登最高頂則不可見」の于山島は、海気が極めて晴朗な日に欝陵島の最高頂に登って見ることのできる獨島=現竹島、と解釈しました。「欝陵稍峻風浪息則尋常可見」は、朝鮮半島の100m以上の場所から見たのであれば、yabutarou01さんがNo.16079でお書きになったように、「波の状態如何で見えやすさが変化するはずがありません。」から、私は海上から欝陵島を見たと読みます。
これは メッセージ 16079 (yabutarou01 さん)への返信です.
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『輿地勝覧』本土から欝陵島を見ていない
投稿者: ararenotomo 投稿日時: 2008/01/10 22:00 投稿番号: [16124 / 18519]
ahirutousagi2さん
早速のコメントを有難うございます。
>鬱陵島の高所から眼下を見たとする解釈は自然なのでしょうか。「日初出時風恬浪靜則」とある前提は、それではあまり意味をなさないように見えますし、「衆峰サン青岩壑呈露沙汀樹木歴々可指」とも不釣合いに見えます(とくに衆峰サン青)。
『西溪雑録』と『臥遊録』の「欝陵島」冒頭の欝陵島に関する記述は、「欝陵或曰武陵亦曰羽陵登高望之三峰岌ゲフ(山の下に業)タウ(手偏に掌)空而南峰稍低 - - 沙汀樹木歴々可指」として、「登高望之」以下の文で欝陵島の自然景観を説明しています。問題は「登高望之」がどこまで係るかですが、私は最後の「沙汀樹木歴々可指」まで係ると解釈しました。
「日初出時風恬浪靜則衆峰サン(手偏に賛)青岩壑呈露」「日初めて出る時風穏かに浪静かならば則衆峰むらがり青岩壑に呈露す」は、海上から見た景観とも取れますが、壑(ガク)は「たに。山と山のあいだの、くぼんでいるところ。土地がくぼんでいるところ。『日本語大辞典』」とあります。そこで、谷底或は窪地に露呈する青岩を、海上から見るのは困難と思われるので、欝陵島の高所から見た景観としました。もちろん、「登高望之」は「- - 南峯稍低」までに係り、「日初出時 - - 沙汀樹木歴々可指」は海上から見た欝陵島の景観とみることは可能です。
>朝鮮半島からそんなのは見えるはずはない、と言うのは、理由にはならないと考えます。
朝鮮半島から欝陵島を見たとする所説は、『世宗実録地理志』の「于山武陵二島在縣正東海中二島相去不遠風日清明則可望見」「于山・武陵の二島は相去ること遠くなく風日清明ならば望み見ることができる」との解釈を否定するために、川上健三氏によって提唱されました(『竹島の歴史地理学的研究』古今書院, 1966)。
川上氏は次のように書いています:『高麗史地理志』の中にある「一云于山武陵本二島」との一節は、全体の文脈からみて、一説として二島説のあることを挿入したものであって、「相距不遠」以下の文章は欝陵島を受けており、欝陵島が本土と相距ること遠からず、風日清明の際には望見できるとの意味と解されるのである。(中略)これをさらに裏付けるのが『輿地勝覧』の記事である。同書では、『実録地理志』の「二島相去不遠」との一節のかわりに、これに該当する箇所を「三峰岌ゲフ(山の下に業)タウ(手偏に掌)空
南峯稍卑
風日清明則峯頭樹木及山根沙渚歴歴可見
風便則二日可到」という表現に改めている。これは明らかに、本土から風日清明の際に欝陵島を望見した状況について描写したものであって、于山・欝陵二島間に関する記事ではない。
>「文章がどう読めるか。その一点が問題かと。」
全く同感です。そこで、『新筯東國輿地勝覧』の「風日清明則峯頭樹木及山根沙渚歴歴可見」の文章は、峯頭の樹木や山根の沙渚が分明に見えるとしているので、本土から140kmも離れた欝陵島を望見した状況についての描写とは、私には読めません。欝陵島に上陸して或は近くの海上から見た欝陵島を描写したものと読みます。
18世紀中頃の地理書である李重煥著平木實訳『択里志』(平凡社東洋文庫751, 2006)の「鬱陵島は江原道の三陟府の海中にある。晴れた日に高い所に登って眺めると、雲のようにみえる。」が実際に近いかと。
金正浩は『大東地志』(1863)に「鬱陵島在本縣正東海中(中略)自本縣天晴而登高望見則如雲氣」と書いていることが、yabutarou01さんによって紹介されています(No.16089)。金正浩は「自本縣天晴而登高望見則如雲氣」を『択里志』から択んだのでしょう。
これは メッセージ 16075 (ahirutousagi2 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/16124.html
Re: 「無主地」として編入した?
投稿者: henchin_pokoider01 投稿日時: 2008/01/10 08:37 投稿番号: [16123 / 18519]
>現実には領土的価値がないからどの国も捨て置いたものを、
例えば、東グリーンランドの判例では数百年間、自国領としての認識や実効支配を示す証拠がないけど、委棄とはみなされていません。ですから「事実上」とか「実質的」という判断を軽々にすることはできないと思います。
これは メッセージ 16118 (husenoyaji さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/16123.html
付記
投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2008/01/10 01:01 投稿番号: [16122 / 18519]
一応、付け足しておきますが、
>質疑応答の状況の詳細は知りませんが、仮に内藤様が「口ごもった」のが事実であったとすれば、いかに不条理を感じようとも、それをまずは質問者にお詫び申し上げた上で、議論を再開するのが筋ではないでしょうか。
と書きましたが、内藤様が仰るように、下條氏の話が続くと考えて黙っていたのであり、そこで司会者による中断がなされた、ということであっても同じことです。
いかなる事情があろうとも、発表者として返答をしなかった以上は、その非をまずは詫びて、それから、議論を展開すべきではないでしょうか。それは研究会やシンポジウムで発表するものの原則ではないのでしょうか。
以上、付け足しておきます。
これは メッセージ 16119 (ahirutousagi2 さん)への返信です.
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内藤様へ:内藤教授の発言に思う(その3)
投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2008/01/10 00:42 投稿番号: [16121 / 18519]
続きです。
3.
>ダジュレー島(松島)とかアルゴノート島(竹島)をもちだすためには、シーボルトの「日本図」(1840年)が必要になる。しかし、アルゴノート島は1854年のロシア艦隊バルラダ号の測量で存在が否定されることはよく知られているところで、その後の一時期には、アルゴノート、ダジュレー、リアンクールの三つの島が記載された欧米製地図もあったようであるが、20年を経過した頃には、ダジュレーまたは松島、そしてリアンクールという二つの島だけが記載されるようになる。
二つの島だけが記されるのはその通りですが、その島が、どの位置で考えられたか。それぞれどの島に比定されたか、その認識が大切ではないでしょうか。それは、結局、1878年の外務省による鬱陵島=松島の規定や、軍艦天城の調査にまでつながって来るのです。
あるいは、まさか、私のような素人がこの掲示板に書き込んでいるような、
1867年
勝海舟「大日本国沿海略図」(アルゴノート・ダジュレーが竹島・松島。リアンクールも記載あり)
1875年
陸軍参謀局「朝鮮全図」(鬱陵島が二つに分かれて竹島・松島[アルゴノート・ダジュレーか])
1877年
文部省「日本全図」(鬱陵島が二つに分かれて竹島・松島[アルゴノート・ダジュレーか])
1881年
内務省地理局「大日本府県分轄図」(アルゴノート・ダジュレーの位置に竹島・松島)
この程度のものさえ、ご覧になっていらっしゃらないということはないと思いますが。
4.
>まずはじめに、島根県が付属文書として提出した「由来ノ概略」である。そこでは「磯竹島 一ニ竹島ト稱ス」として、隠岐から120里にある竹島の詳細が記されている。そして「次ニ一島アリ、松島ト呼ブ」として、竹島と同一線路にあり、隠岐から80里の位置にある松島について記述する。
これは、何らダジュレー島(松島)・アルゴノート島(竹島)としての理解の反論にはなってません。
ちなみに、竹島問題に触れながらよく思うのですが、現代の目から見て、と言うのは、無意味です。これは、半月城氏も内藤氏も同様に行っている誤謬であるように思われます。現代の目から見て、というのは、何の根拠にもならないのです。
最後に、内藤様の姿勢について、もう一つだけ申し上げます。
内藤様は、必ずしも韓国側の立場に立つ研究者ではなく、それについてちゃんと明言もされています。しかし、韓国メディアは、内藤様をあたかも韓国側の立場の研究者として扱いますし、内藤様はそのせいかは知りませんが韓国側の意見の問題点について、必ずしも上段から批判するような立場はとっていらっしゃいません。
もしも、韓国側の理解に問題点があるとお考えの部分があるのなら、せっかくの韓国メディアを利用して、どうしてそれを韓国の方々に伝えようとはなさらないのでしょうか。私は、内藤様がなすべき仕事は、むしろそちらのほうが重要であるように思います。
少なくとも、下條氏の見解に何ら本質的な返答もせず、ただ、その発言の変化をからかうよりは、はるかに望ましいものです。
私の理解が間違っていて、内藤様が韓国側の意見に問題点がないと思っていらっしゃるのなら、何も申し上げることはありません。半月城さんとともに下條批判に熱中なさるのもよろしいかと存じます。
内藤様は下條氏の記述について「下條流のプロパガンダ」と書いていらっしゃいました。内藤様。プロパガンダは、下條氏でしょうか。それとも、最近内藤様が随分と入れ込んでいらっしゃる、半月城氏でしょうか。
ご自身が、そのプロパガンダの渦中に巻き込まれていっていることを、一度、自覚なさるのが望ましいのではないかと、僭越ながら感じていることを正直に申し上げて、失礼させていただきます。
これは メッセージ 16120 (ahirutousagi2 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/16121.html
内藤様へ:内藤教授の発言に思う(その2)
投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2008/01/10 00:30 投稿番号: [16120 / 18519]
続きまして、内藤様のお考えについて、いくつかのことを申し上げます。
1.
>したがって、当日の私の講演の趣旨を「1877年、日本の太政官が『竹島外一島本邦関係これなし』と決定した太政官指令を根拠に、日本政府は1877年に竹島を自国領でないとしたので、外務省の言う固有領土説は成立しないというものであった」と断定するのは、いかにも下條流の一面的な言いがかりといわなければならない。
そのあとの内藤様の文章に照らして、これのどこが一面的な言いがかりなのか、正直、意味が分かりませんでした。
2.
>島根県が伺書の付属文書として内務省に提出したさいには「大谷家図面」、内務省が太政官に提出した付属文書では「磯竹島略図」であり、下條氏がいっているような「当時使用されていた地図」が参考資料として取りあげられたとは思われない。
太政官の判断において、二つの意見があると思われます。
一つは、太政官に上げられた「大谷家図面」「磯竹島略図」の松島は「現在の目から見て」竹島=独島にほかならない。太政官がほかの資料をあたった証拠もない。だから、外一島は独島という立場。
もう一つは、当時の政府で竹島・松島をどのように認識したのかを文献を整合的に考える立場。太政官にどの資料が提出されたかにとどまらず、当時の政府でどのような考え方がなされていたかを整合的に見る、ということ。この場合、松島=独島はありえない。
普通で考えれば、後者が妥当ではないでしょうか。
島根県が地図を提出した。それの返事が太政官の判断だ。だから、太政官が放棄したのは島根県の地図に出ている独島だ、今の目から見ればまさに竹島だ、というのは、どうにも短絡的な論理ではないでしょうか。
太政官が「大谷家図面」「磯竹島略図」以外の地図を見た証拠を出せ。これでは小学生の喧嘩ではないかと思われます。
何らかの文書が政府に上げられた場合、それに対する返答は、申し出の文書だけが返答の根拠になるのではなく、返答をする側である政府の立場が整合的に考えられるべきであるのは、ある意味で、当たり前のことではないでしょうか。
太政官においても、それは変わりません。
ちなみに、当時の地図では、竹島・松島が正確に認識されてはいませんでした。日本地図においては、竹島・松島が描かれていないか、竹島・松島がアルゴノート・ダジュレーの位置で描かれた地図ばかりのようです。
私の知る限り、竹島(=鬱陵島)・松島(=リアンクール岩)の二島で正確な位置で描かれた政府関係の地図は、存在しないものと思います。
これは メッセージ 16119 (ahirutousagi2 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/16120.html
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