『地理志』二島を本土から見ていない
投稿者: ararenotomo 投稿日時: 2008/01/23 22:35 投稿番号: [16154 / 18519]
ahirutousagi2さん
>「日初出時風恬浪靜則衆峰サン(手偏に賛)青岩壑呈露」は、私は「衆峰群がり青岩壑に呈露す」ではなく「衆峰青く群がり岩壑呈露す」と読みました。
ahirutousagi2さん有難うございます。私の読み方は撤回します。
「日初めて出る時風穏かに浪静かならば則衆峰青く群がり岩壑呈露す」「朝日に照らされ峰々は青く輝き谷底には露岩が現れる」は、日の出時、波静かな海上から見た欝陵島東岸の景観をよく表していると思います。峰々が青いということは鬱蒼とした樹林に覆われていることを示すのでしょう。yabutarou01さんも指摘されていますが、「風恬浪靜則」や「風浪息則」などの表現は「海」に関わることがよく分かりました。ahirutousagi2さん・yabutarou01さん有難うございました。
私は、川上健三氏(『竹島の歴史地理学的研究』古今書院, 1966)が「『高麗史地理志』の中にある「一云于山武陵本二島」との一節は、全体の文脈からみて、一説として二島説のあることを挿入したものであって、「相距不遠」以下の文章は欝陵島を受けており、欝陵島が本土と相距ること遠からず、風日清明の際には望見できるとの意味と解されるのである。」と述べていることに疑問を感じます。
『高麗史地理志』蔚珍縣の條には次のように書かれています。「有鬱陵島(以下分註)在縣正東海中新羅時稱于山國一云武陵一云羽陵地方百里(百二十余字略)然多岩石民不可居遂寢其議一云于山武陵本二島相距不遠風日芿明則可望見」
川上氏の解釈、即ち「「相距不遠」以下の文章は欝陵島を受けており、欝陵島が本土と相距ること遠からず、」とするには無理があるように思います。欝陵島は、「在縣正東海中」として、既に一島説に基づいて詳しく説明されています。川上氏が述べたように、「一云于山武陵本二島」との一節は、一説として二島説のあることを最後に挿入したものです。それ故、「一云于山武陵本二島相距不遠風日芿明則可望見」から、武陵(欝陵島)だけが、どうして「欝陵島が本土と相距ること遠からず、風日清明の際には望見できる」との意味になるのか、私には全く理解できません。
私は、「于山武陵本二島相距不遠風日芿明則可望見」は、于山と武陵はもともと別々の二つの島であり、于山と武陵の二島は相距ること遠からず、風日清明ならば互いに望見できる、と解します。同様な記述である『世宗実録地理志』蔚珍縣條の「于山武陵二島在縣正東海中(以下分註)二島相去不遠風日芿明則可望見」からも、「欝陵島が本土と相去ること遠からず」との解釈は出てこないと思います。
従って私は、川上氏のように「(『輿地勝覧』)では、『実録地理志』の「二島相去不遠」との一節のかわりに、これに該当する箇所を「三峰 - - 山根沙渚歴歴可見風便則二日可到」という表現に改めている。」とは考えません。
「空島政策」とはいえ、朝鮮の人々は欝陵島にしばしば渡航していました。『輿地勝覧』の「三峰岌ゲフ(山の下に業)タウ(手偏に掌)空南峯稍卑風日清明則峯頭樹木及山根沙渚歴歴可見」からは、欝陵島について、かなり明確な具体像が把握されていることが分かります。この箇所は、欝陵島に上陸して或は近くの海上から見た欝陵島の自然景観を描写した、正しい記述だと思います。
一方、于山島については、どれほど具体像が把握されているかは不明ですが、『世宗実録地理志』と『高麗史地理志』の「二島相去不遠風日芿明則可望見」からは、于山島を欝陵島から風日芿明ならば望み見ることのできる島、と明らかに于山島(獨島=現竹島)を認知していることが分かります。
古い時代の地誌は、情報の量は少なく信頼性も乏しいですが、「文章をそのままに理解すれば」かなりの情報は得られます。それに基づいて、私は主観に過ぎない解釈を試みてゆきたいと思っております。
>「日初出時風恬浪靜則衆峰サン(手偏に賛)青岩壑呈露」は、私は「衆峰群がり青岩壑に呈露す」ではなく「衆峰青く群がり岩壑呈露す」と読みました。
ahirutousagi2さん有難うございます。私の読み方は撤回します。
「日初めて出る時風穏かに浪静かならば則衆峰青く群がり岩壑呈露す」「朝日に照らされ峰々は青く輝き谷底には露岩が現れる」は、日の出時、波静かな海上から見た欝陵島東岸の景観をよく表していると思います。峰々が青いということは鬱蒼とした樹林に覆われていることを示すのでしょう。yabutarou01さんも指摘されていますが、「風恬浪靜則」や「風浪息則」などの表現は「海」に関わることがよく分かりました。ahirutousagi2さん・yabutarou01さん有難うございました。
私は、川上健三氏(『竹島の歴史地理学的研究』古今書院, 1966)が「『高麗史地理志』の中にある「一云于山武陵本二島」との一節は、全体の文脈からみて、一説として二島説のあることを挿入したものであって、「相距不遠」以下の文章は欝陵島を受けており、欝陵島が本土と相距ること遠からず、風日清明の際には望見できるとの意味と解されるのである。」と述べていることに疑問を感じます。
『高麗史地理志』蔚珍縣の條には次のように書かれています。「有鬱陵島(以下分註)在縣正東海中新羅時稱于山國一云武陵一云羽陵地方百里(百二十余字略)然多岩石民不可居遂寢其議一云于山武陵本二島相距不遠風日芿明則可望見」
川上氏の解釈、即ち「「相距不遠」以下の文章は欝陵島を受けており、欝陵島が本土と相距ること遠からず、」とするには無理があるように思います。欝陵島は、「在縣正東海中」として、既に一島説に基づいて詳しく説明されています。川上氏が述べたように、「一云于山武陵本二島」との一節は、一説として二島説のあることを最後に挿入したものです。それ故、「一云于山武陵本二島相距不遠風日芿明則可望見」から、武陵(欝陵島)だけが、どうして「欝陵島が本土と相距ること遠からず、風日清明の際には望見できる」との意味になるのか、私には全く理解できません。
私は、「于山武陵本二島相距不遠風日芿明則可望見」は、于山と武陵はもともと別々の二つの島であり、于山と武陵の二島は相距ること遠からず、風日清明ならば互いに望見できる、と解します。同様な記述である『世宗実録地理志』蔚珍縣條の「于山武陵二島在縣正東海中(以下分註)二島相去不遠風日芿明則可望見」からも、「欝陵島が本土と相去ること遠からず」との解釈は出てこないと思います。
従って私は、川上氏のように「(『輿地勝覧』)では、『実録地理志』の「二島相去不遠」との一節のかわりに、これに該当する箇所を「三峰 - - 山根沙渚歴歴可見風便則二日可到」という表現に改めている。」とは考えません。
「空島政策」とはいえ、朝鮮の人々は欝陵島にしばしば渡航していました。『輿地勝覧』の「三峰岌ゲフ(山の下に業)タウ(手偏に掌)空南峯稍卑風日清明則峯頭樹木及山根沙渚歴歴可見」からは、欝陵島について、かなり明確な具体像が把握されていることが分かります。この箇所は、欝陵島に上陸して或は近くの海上から見た欝陵島の自然景観を描写した、正しい記述だと思います。
一方、于山島については、どれほど具体像が把握されているかは不明ですが、『世宗実録地理志』と『高麗史地理志』の「二島相去不遠風日芿明則可望見」からは、于山島を欝陵島から風日芿明ならば望み見ることのできる島、と明らかに于山島(獨島=現竹島)を認知していることが分かります。
古い時代の地誌は、情報の量は少なく信頼性も乏しいですが、「文章をそのままに理解すれば」かなりの情報は得られます。それに基づいて、私は主観に過ぎない解釈を試みてゆきたいと思っております。
これは メッセージ 16126 (ahirutousagi2 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/16154.html