Re: 「答えに窮した内藤教授」の反論
投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2008/01/14 22:30 投稿番号: [16132 / 18519]
ご主張に賛同いたします。
さきに、16110で、ずっと前に14831で記した年表を提示しました。
この流れは個人的にはかなり大切であると思っています。
******
1867年 勝海舟「大日本国沿海略図」(アルゴノート・ダジュレーが竹島・松島)
1875年 陸軍参謀局「朝鮮全図」(鬱陵島が二つに分かれて竹島・松島[アルゴノート・ダジュレーか])
1877年 文部省「日本全図」(鬱陵島が二つに分かれて竹島・松島[アルゴノート・ダジュレーか])
1877年 太政官判断。
1878年 外務省、鬱陵島=松島。(竹島言及なし)
1880年 天城による調査。鬱陵島=松島。(竹島は傍[北方]の小島)
1881年 内務省地理局「大日本府県分轄図」(アルゴノート・ダジュレーが竹島・松島…半月城さん「偶然の一致」)
1881年 内務省が外務省に鬱陵島照会。外一島資料添付。反応なし。
1882年 鬱陵島への日本人渡航について朝鮮政府から抗議。
1883年 鬱陵島渡航禁止
1883年 太政大臣三条実美、同上令において「北緯37度30分、東経130度49分に位置する日本称する松島、一名竹島、朝鮮称する鬱陵島」と記録。
*1880年の部分が「同上」という表記になっていましたので、これではまずいと思い、より具体的にあらためました。
******
つまり、1877年に太政官判断。その翌年には外務省が鬱陵島=松島と規定しており、さらに1880年には軍艦天城で鬱陵島=松島として調査までなされています。
一方、1881年、内務省から「外一島」についての照会が外務省になされましたが、当然に反応する必要もありませんでした。「外一島」は鬱陵島までの朝鮮側の島を「版図外」としたに過ぎないからです。
そして、その後の鬱陵島への渡航禁止、さらに1883年の太政大臣三条実美による「北緯37度30分、東経130度49分に位置する日本称する松島、一名竹島、朝鮮称する鬱陵島」と記録につながります。
こうした流れがあるわけで、1877年の竹島・松島が何を意識したものであったかについては、ここから明らかに読み取れるわけです(鬱陵島=松島)。
地図でも同様です。
当時の政府関係の地図においては、私の知る限りにおいて、竹島・松島は日本地図に描かれていないか、またはアルゴノート・ダジュレーの位置でそれぞれ記されたものしか、存在しません。
そうした中で、島根県・内務省が太政官に地図を添付して文書を上げた。
そこには、竹島・松島=アルゴノート・ダジュレーの積極的な根拠は見出せない。だから、竹島・松島=ダジュレー・リアンクール岩なんだ。現在の目から見てそう判断できる、というのはすでに言ったように後づけ解釈に過ぎない無意味なものです。
じゃ、政府が「磯竹島略図」など提出文書以外の地図を見た証拠を出せ。これは小学生の論理でしょう。
私は、当時の政府の見方を整合的に考える、ということ。とりわけ上に記したような流れからして、あるいは地図に記された両島の認識から考えるときに、当たり前に竹島・松島=アルゴノート・ダジュレーの位置で考えられたとしか取りようがないと考えています。
内藤氏については、個人的にはちゃんとした学者でいらっしゃると思っていたのですが、かなり失望しました。今回の反論には学者としての謙虚さも、議論の本質をとらえる真摯さも感じられなかったからです。残念でした。
私は内藤氏をかなり高く評価していたのですが…。無念です。
さきに、16110で、ずっと前に14831で記した年表を提示しました。
この流れは個人的にはかなり大切であると思っています。
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1867年 勝海舟「大日本国沿海略図」(アルゴノート・ダジュレーが竹島・松島)
1875年 陸軍参謀局「朝鮮全図」(鬱陵島が二つに分かれて竹島・松島[アルゴノート・ダジュレーか])
1877年 文部省「日本全図」(鬱陵島が二つに分かれて竹島・松島[アルゴノート・ダジュレーか])
1877年 太政官判断。
1878年 外務省、鬱陵島=松島。(竹島言及なし)
1880年 天城による調査。鬱陵島=松島。(竹島は傍[北方]の小島)
1881年 内務省地理局「大日本府県分轄図」(アルゴノート・ダジュレーが竹島・松島…半月城さん「偶然の一致」)
1881年 内務省が外務省に鬱陵島照会。外一島資料添付。反応なし。
1882年 鬱陵島への日本人渡航について朝鮮政府から抗議。
1883年 鬱陵島渡航禁止
1883年 太政大臣三条実美、同上令において「北緯37度30分、東経130度49分に位置する日本称する松島、一名竹島、朝鮮称する鬱陵島」と記録。
*1880年の部分が「同上」という表記になっていましたので、これではまずいと思い、より具体的にあらためました。
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つまり、1877年に太政官判断。その翌年には外務省が鬱陵島=松島と規定しており、さらに1880年には軍艦天城で鬱陵島=松島として調査までなされています。
一方、1881年、内務省から「外一島」についての照会が外務省になされましたが、当然に反応する必要もありませんでした。「外一島」は鬱陵島までの朝鮮側の島を「版図外」としたに過ぎないからです。
そして、その後の鬱陵島への渡航禁止、さらに1883年の太政大臣三条実美による「北緯37度30分、東経130度49分に位置する日本称する松島、一名竹島、朝鮮称する鬱陵島」と記録につながります。
こうした流れがあるわけで、1877年の竹島・松島が何を意識したものであったかについては、ここから明らかに読み取れるわけです(鬱陵島=松島)。
地図でも同様です。
当時の政府関係の地図においては、私の知る限りにおいて、竹島・松島は日本地図に描かれていないか、またはアルゴノート・ダジュレーの位置でそれぞれ記されたものしか、存在しません。
そうした中で、島根県・内務省が太政官に地図を添付して文書を上げた。
そこには、竹島・松島=アルゴノート・ダジュレーの積極的な根拠は見出せない。だから、竹島・松島=ダジュレー・リアンクール岩なんだ。現在の目から見てそう判断できる、というのはすでに言ったように後づけ解釈に過ぎない無意味なものです。
じゃ、政府が「磯竹島略図」など提出文書以外の地図を見た証拠を出せ。これは小学生の論理でしょう。
私は、当時の政府の見方を整合的に考える、ということ。とりわけ上に記したような流れからして、あるいは地図に記された両島の認識から考えるときに、当たり前に竹島・松島=アルゴノート・ダジュレーの位置で考えられたとしか取りようがないと考えています。
内藤氏については、個人的にはちゃんとした学者でいらっしゃると思っていたのですが、かなり失望しました。今回の反論には学者としての謙虚さも、議論の本質をとらえる真摯さも感じられなかったからです。残念でした。
私は内藤氏をかなり高く評価していたのですが…。無念です。
これは メッセージ 16130 (take_8591 さん)への返信です.
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