イ・ヨンフン教授特別講義 6(4)
投稿者: chaamiey 投稿日時: 2006/07/02 07:56 投稿番号: [231 / 1474]
南北分断の原因と責任
<解放前後史の再認識特別講義>(6)国内市民社会の未成熟と米ソの冷戦体制
[イ・ヨンフン(ソウル大教授、『解放前後史の再認識』共同編集者)]
2006-06-24
http://www.new-right.com/read.php?cataId=nr03007&num=1722
(翻訳その4)
労働運動に関しても似たような話があります。これに関しては 『解放前後史の再認識』2巻に載せられた朴枝香の「韓国の労動運動とアメリカ」という論文が良い参照になります。この論文によれば、米軍政に参加したアメリカ国務省の自由主義者たちは、中道左派は勿論、穏健な合法的な労組運動を展開する共産党系列の全評(全国労働者評議会)さえ受け入れる用意ができていたと言います。
よく米軍政が韓国の労働運動を無条件に弾圧したと言いますが、実際はそうではなかったのです。米軍政の自由主義者たちと労働問題専門家たちは、民主的または自主的労働組合という概念を信頼しました。彼らは韓国の労組運動から政治勢力を分離して労働組合を労働者の真正な代表機関にしようとしたのですが、全評が冒険的な極左路線で不法な闘いを敢行したことによって、結局失敗するしかなかったのです。
朴枝香教授は、次のように結論を下します。もし全評が、政治優先主義から離れて穏健な左派労働組職として経済闘争を追い求めたのであれば、米軍政としてはそれを弾圧する適切な口実を捜しにくかったはずだと。
米軍政が追い求めた呂運亨とキム・キュシクをリーダーとする左右合作に対しても、同じ説明をすることができます。やがて1947年、アメリカでトルーマン宣言が出るなど、冷戦が事実上の熱戦として激しくなり、すべてのロマンチックな試みの可能性は封鎖されてしまいます。アメリカは、憎い鴨(訳?)とも言える李承晩を協力者として選択するしかなかったのです。アメリカは、最後まで躊躇しました。その点で、はじめからきっぱりと金日成を自分の代理人に選定したソ連のスターリンとは、全然異なっていたと言えます。
北では、社会主義革命の旗が騒々しくはためく中、他の理念や政治勢力が存続できる可能性は、はじめから閉ざされてしまいました。金日成総合大学の建立は何時でしたか? 1946年7月ですね。しかし、南韓はどうでしたか? そんな絶対カリスマは存在できなかったです。ここでは、大きく見ればアメリカの利害関係を脱することはできなかったが、調整と妥協の余地は、アメリカ式自由民主主義その自らの速成によって、最後まで閉ざされることはありませんでした。
要するに、解放当時の韓半島の住民集団には、民族や階級という外来起源の政治原理を乗り越えて自らをよく団結された秩序体に統合するに値する文明能力は、まだ成り立っていなかったのです。そのように主体的条件が未整備であるところに、韓半島の南と北では、直ちに冷戦に突入することとなる二つの強大国が占領軍として進駐しました。そして、彼らが選択した協力者たちによって、相異なる原理の両国が建立されました。
元はと言えば常識的な話ですが、民族の分断、いつまで続くか分からない悲劇の歴史は、そうやって始まりました。ラジオを聞いている皆さんは、先立って紹介した教科書の話がどうしてでたらめなのかを納得されたかも知れません。こんなでたらめ話は、一日も早く教科書から追放されなければなりません。
イ・ヨンフン (ソウル大教授、『解放前後史の再認識』共同編集者)
*イ・ヨンフン教授の<解放前後史の再認識特講>は、EBSラジオホームページ(再び聞く)で聞くことができます。
http://www.ebs.co.kr/Homepage/?progcd=0002420
(翻訳終わり)
<解放前後史の再認識特別講義>(6)国内市民社会の未成熟と米ソの冷戦体制
[イ・ヨンフン(ソウル大教授、『解放前後史の再認識』共同編集者)]
2006-06-24
http://www.new-right.com/read.php?cataId=nr03007&num=1722
(翻訳その4)
労働運動に関しても似たような話があります。これに関しては 『解放前後史の再認識』2巻に載せられた朴枝香の「韓国の労動運動とアメリカ」という論文が良い参照になります。この論文によれば、米軍政に参加したアメリカ国務省の自由主義者たちは、中道左派は勿論、穏健な合法的な労組運動を展開する共産党系列の全評(全国労働者評議会)さえ受け入れる用意ができていたと言います。
よく米軍政が韓国の労働運動を無条件に弾圧したと言いますが、実際はそうではなかったのです。米軍政の自由主義者たちと労働問題専門家たちは、民主的または自主的労働組合という概念を信頼しました。彼らは韓国の労組運動から政治勢力を分離して労働組合を労働者の真正な代表機関にしようとしたのですが、全評が冒険的な極左路線で不法な闘いを敢行したことによって、結局失敗するしかなかったのです。
朴枝香教授は、次のように結論を下します。もし全評が、政治優先主義から離れて穏健な左派労働組職として経済闘争を追い求めたのであれば、米軍政としてはそれを弾圧する適切な口実を捜しにくかったはずだと。
米軍政が追い求めた呂運亨とキム・キュシクをリーダーとする左右合作に対しても、同じ説明をすることができます。やがて1947年、アメリカでトルーマン宣言が出るなど、冷戦が事実上の熱戦として激しくなり、すべてのロマンチックな試みの可能性は封鎖されてしまいます。アメリカは、憎い鴨(訳?)とも言える李承晩を協力者として選択するしかなかったのです。アメリカは、最後まで躊躇しました。その点で、はじめからきっぱりと金日成を自分の代理人に選定したソ連のスターリンとは、全然異なっていたと言えます。
北では、社会主義革命の旗が騒々しくはためく中、他の理念や政治勢力が存続できる可能性は、はじめから閉ざされてしまいました。金日成総合大学の建立は何時でしたか? 1946年7月ですね。しかし、南韓はどうでしたか? そんな絶対カリスマは存在できなかったです。ここでは、大きく見ればアメリカの利害関係を脱することはできなかったが、調整と妥協の余地は、アメリカ式自由民主主義その自らの速成によって、最後まで閉ざされることはありませんでした。
要するに、解放当時の韓半島の住民集団には、民族や階級という外来起源の政治原理を乗り越えて自らをよく団結された秩序体に統合するに値する文明能力は、まだ成り立っていなかったのです。そのように主体的条件が未整備であるところに、韓半島の南と北では、直ちに冷戦に突入することとなる二つの強大国が占領軍として進駐しました。そして、彼らが選択した協力者たちによって、相異なる原理の両国が建立されました。
元はと言えば常識的な話ですが、民族の分断、いつまで続くか分からない悲劇の歴史は、そうやって始まりました。ラジオを聞いている皆さんは、先立って紹介した教科書の話がどうしてでたらめなのかを納得されたかも知れません。こんなでたらめ話は、一日も早く教科書から追放されなければなりません。
イ・ヨンフン (ソウル大教授、『解放前後史の再認識』共同編集者)
*イ・ヨンフン教授の<解放前後史の再認識特講>は、EBSラジオホームページ(再び聞く)で聞くことができます。
http://www.ebs.co.kr/Homepage/?progcd=0002420
(翻訳終わり)
これは メッセージ 230 (chaamiey さん)への返信です.
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